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鎌倉幕府(カマクラバクフ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

鎌倉かまくら幕府ばくふみ)カマクラバクフ

デジタル大辞泉だいじせん鎌倉かまくら幕府ばくふ」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

かまくら‐ばくふ【鎌倉かまくら幕府ばくふ

みなもと頼朝よりとも鎌倉かまくらひらいた日本にっぽん最初さいしょ武家ぶけ政権せいけん鎌倉かまくらにはさむらいしょさむらいどころ政所まんどころまんどころといちゅうしょ地方ちほうには全国ぜんこくてき守護しゅご地頭じとういたほか、ろく探題たんだい鎮西ちんぜいちんぜい探題たんだい奥州おうしゅうそう奉行ぶぎょうなどをいた。源氏げんじ将軍しょうぐんは3だいほろび、以後いご摂関せっかん親王しんのうから将軍しょうぐんてたが、実権じっけん執権しっけんとなった北条ほうじょうにぎった。元弘もとひろ3ねん(1333)滅亡めつぼう
[せつ]将軍しょうぐんつぎの9にん
だい1だい みなもと頼朝よりとも
だい2だい みなもとよりゆき
だい3だい 源実朝みなもとのさねとも
だい4だい 九条くじょうよりゆきけい
だい5だい 九条くじょうよりゆき
だい6だい 宗尊親王むねかたしんのう
だい7だい おもんみかん親王しんのう
だい8だい 久明ひさあき親王しんのう
だい9だい まもりくに親王しんのう

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精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん鎌倉かまくら幕府ばくふ」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

かまくら‐ばくふ【鎌倉かまくら幕府ばくふ

  1. みなもと頼朝よりとも鎌倉かまくらひらいたはつ武家ぶけ政権せいけんけんひささんねんいちいちきゅう頼朝よりとも征夷大将軍せいいたいしょうぐんにんぜられたときをそのはじめとするせつ流布るふしているが、現在げんざいこれを研究けんきゅうしゃはほとんどいない。文治ぶんじ元年がんねんいちいちはちせつ守護しゅご地頭じとう設置せっち)が有力ゆうりょく。そのうけたまわよんねんいちいちはちせつ頼朝よりとも鎌倉かまくらり)、寿ことぶきひさしねんいちいちはちさんせつ頼朝よりとも東国とうごく行政ぎょうせいけん公認こうにん)などがある。鎌倉かまくらさむらいしょ(さむらいどころ)公文こうぶんしょ(くもんじょ)(=のち政所まんどころ改称かいしょう)・もんちゅうしょ地方ちほうには全国ぜんこくてき守護しゅご地頭じとういたほか、ろく探題たんだい鎮西ちんぜい探題たんだい奥州おうしゅうそう奉行ぶぎょうなどがあった。源氏げんじ将軍しょうぐんさんだいえ、のちには執権しっけん北条ほうじょう実権じっけんにぎった。元弘もとひろさんねんいちさんさんさん滅亡めつぼうぜん近代きんだい政治せいじ制度せいど土地とち制度せいど法理ほうりなどにおおきな足跡あしあとをのこした。

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日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)鎌倉かまくら幕府ばくふ」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

鎌倉かまくら幕府ばくふ
かまくらばくふ

みなもと頼朝よりとも(みなもとのよりとも)が鎌倉かまくらひらいた武家ぶけ政権せいけん

上横うえよこしゅまさたかし

政治せいじ過程かてい機関きかん

平治へいじ(へいじ)のらん(1159)伊豆いず(いず)にながされていた頼朝よりともは、1180ねんうけたまわ4)8がつ以仁王もちひとおう(もちひとおう)のいのちおうじてたいら打倒だとうへいをあげた。やがて頼朝よりとも相模さがみ(さがみ)の鎌倉かまくら本拠ほんきょとし、御家人ごけにん(ごけにん)統率とうそつのためにさむらいしょ(さむらいどころ)をき、遠江とおとうみ(とおとうみ)以東いとうの「東国とうごく」にたいする経営けいえいすすめた。頼朝よりとも住居じゅうきょ建築けんちくてきにはこれが幕府ばくふである)も造営ぞうえいされ、同年どうねん12がつには御家人ごけにん参集さんしゅうするなかで、新邸しんてい移住いじゅう儀式ぎしきおこなわれたが、これはしん政権せいけん成立せいりつ宣言せんげん意味いみするものであった。しん政権せいけんはこののち3年間ねんかん京都きょうと朝廷ちょうていから独立どくりつした国家こっかとして東国とうごく支配しはいした。しかし頼朝よりともは、一方いっぽうでは挙兵きょへい当初とうしょからひそかにこう白河しらかわ(ごしらかわ)法皇ほうおう提携ていけいしていた。それゆえ、1183ねん寿ことぶきひさし2)たいら都落みやこおちし、法皇ほうおう院政いんせい機能きのう回復かいふくすると、法皇ほうおう頼朝よりともとの交渉こうしょう急速きゅうそくすすみ、朝廷ちょうてい寿ことぶきひさし(じゅえい)ねんじゅうがつ宣旨せんじ(せんじ)(1183)によって頼朝よりとも東国とうごく支配しはい正式せいしき承認しょうにんした。ここに東国とうごく独立どくりつ国家こっか解消かいしょうし、東国とうごく朝廷ちょうてい支配しはいふくした。1185ねん文治ぶんじ1)たいら滅亡めつぼうしたが、頼朝よりとも義経よしつね(よしつね)兄弟きょうだい対立たいりつまれ、義経よしつね法皇ほうおうから頼朝よりとも追討ついとう宣旨せんじたのを契機けいきに、頼朝よりとも朝廷ちょうていせまって守護しゅご(しゅご)・地頭じとう(じとう)の設置せっち承認しょうにんさせた。義経よしつね奥州おうしゅう藤原ふじわらたよって逃亡とうぼうしたが、1189ねん藤原ふじわらやすし(やすひら)は頼朝よりとも圧力あつりょくくっして義経よしつねち、そのたい衡も頼朝よりともほろぼされた。よく1190ねんたてひさ1)頼朝よりとも上洛じょうらく(じょうらく)して法皇ほうおう対面たいめんし、日本国にっぽんこくそうおい使つかい(そうついぶし)・そう地頭じとう地位ちい確認かくにんされ、御家人ごけにんひきいて「諸国しょこく守護しゅご」(日本にっぽん全体ぜんたい軍事ぐんじ警察けいさつ)を担当たんとうすることになった。さらに1192ねんには頼朝よりとも征夷大将軍せいいたいしょうぐん(せいいたいしょうぐん)に任命にんめいされた。

 初期しょき幕府ばくふ政治せいじ機関きかんとしては、さむらいしょのほか、1184ねんもとこよみ1)に公文こうぶんしょ(くもんじょ)(のち政所まんどころ(まんどころ)と改称かいしょう)、といちゅうしょ(もんちゅうじょ)がかれた。大江広元おおえのひろもと(おおえのひろもと)をはじめ、頼朝よりとも京都きょうとからまねいた官僚かんりょうグループが、これらの機関きかんわくえて流動的りゅうどうてき重要じゅうよう政務せいむにあたる体制たいせいをとっていたが、基本きほんてきには鎌倉かまくら殿どの将軍しょうぐん)の独裁どくさいてき性格せいかくつよかった。地方ちほうでは守護しゅご地頭じとう設置せっち並行へいこうして、京都きょうと京都きょうと守護しゅご九州きゅうしゅう鎮西ちんぜい奉行ぶぎょう(ちんぜいぶぎょう)をき、奥州おうしゅうには奥州おうしゅう藤原ふじわら滅亡めつぼう奥州おうしゅうそう奉行ぶぎょういた。

 幕府ばくふ成立せいりつ時期じきについては、1180ねん東国とうごく独立どくりつ国家こっか成立せいりつ、1183ねん寿ことぶきひさしねんじゅうがつ宣旨せんじによる東国とうごく支配しはいけん公認こうにん、1185ねん守護しゅご地頭じとう設置せっち勅許ちょっきょ、1190ねん日本国にっぽんこくそうおい使つかい地位ちい確認かくにん諸国しょこく守護しゅごけん付与ふよ、1192ねん頼朝よりとも征夷大将軍せいいたいしょうぐん就任しゅうにんなどにもとめる諸説しょせつがある。このようにせつかれるのは、幕府ばくふ本質ほんしつのとらえかた差違さいによるものであるから、ひとつのせつだけをただしいと断定だんていすることはできず、1190ねんごろまでががいして幕府ばくふ成立せいりつとみられる。

 頼朝よりとも死後しごよりゆき(よりいえ)が鎌倉かまくら殿どのとなったが、その独裁どくさいけん行使こうしには制限せいげんくわえられ、1203ねんたてひとし3)北条ほうじょう時政ときまさ(ほうじょうときまさ)は頼朝よりとも外戚がいせき(がいせき)比企ひき(ひき)ほろぼし、よりゆき退しりぞけて、そのおとうとじつあさ(さねとも)を鎌倉かまくら殿どの擁立ようりつし、時政ときまさ自身じしん政所まんどころ別当べっとう(べっとう)として執権しっけんしょうし、ここに執権しっけん政治せいじ発足ほっそくした。時政ときまさ(よしとき)は1213ねんけん1)さむらいしょ別当べっとうであった和田わだ(わだ)ほろぼし、こののちは政所まんどころくわえてさむらいしょ別当べっとうをも北条ほうじょう独占どくせん世襲せしゅうした。1219ねんうけたまわひさし1)じつあさころされると、幕府ばくふ京都きょうと摂関せっかん(せっかんけ)から九条くじょうよりゆきけい(くじょうよりつね)をむかえて鎌倉かまくら殿どのとした(よりゆきけいはのち1226ねん将軍しょうぐんとなり、摂家せっけ将軍しょうぐんとよばれた)が、鎌倉かまくら殿どのといっても名目めいもくだけで、頼朝よりとも未亡人みぼうじんである北条ほうじょう政子まさこ(まさこ)が、実質じっしつてき鎌倉かまくら殿どのとして、おとうと執権しっけんとともに幕府ばくふ実権じっけんにぎった。1221ねんのち鳥羽とば上皇じょうこう(ごとばじょうこう)はうけたまわひさし(じょうきゅう)のらんこして討幕とうばくはかったがやぶれ、この結果けっか幕府ばくふ勢力せいりょく飛躍ひやくてき向上こうじょうした。らん幕府ばくふ京都きょうと守護しゅごにかえてろく探題たんだい(ろくはらたんだい)をき、京都きょうと警備けいび朝廷ちょうてい監視かんし西国さいこく政務せいむなどにあたらせた。

 承久じょうきゅうらん幕府ばくふ安定あんていむかえ、1225ねんよしみろく1)政子まさこ契機けいきに、執権しっけん北条ほうじょうやすし(やすとき)は独裁どくさい政治せいじから合議ごうぎ政治せいじへの転換てんかんこころみた。同年どうねん執権しっけんを2めい(うち1めい連署れんしょ)とし、評定ひょうじょうしゅ(ひょうじょうしゅう)をき、1232ねんさだなが1)には最初さいしょ武家ぶけ法典ほうてんである成敗せいばい式目しきもく(ごせいばいしきもく)を制定せいてい裁判さいばん公正こうせいはかった。こうしてやすしのころ執権しっけん政治せいじ全盛ぜんせいむかえた。

 たいまごよりゆき(ときより)のころから、北条ほうじょう家督かとくであるとくむね(とくそう)と、その家臣かしんである御内おんうちじん(みうちびと)によるとくむね専制せんせい政治せいじはじまった。とくむね執権しっけんであるときよりゆきは、1246ねんひろしもと4)陰謀いんぼう理由りゆうぜん将軍しょうぐん九条くじょうよりゆきけい京都きょうとい、よく1247ねんたからおさむ1)にはよりゆきけいしんせていた有力ゆうりょく御家人ごけにん三浦みうらほろぼした。さらに1252ねんけんちょう4)にはよりゆきけい将軍しょうぐんよりゆき嗣(よりつぐ)をも京都きょうとい、こう嵯峨さが上皇じょうこう(ごさがじょうこう)の皇子おうじ宗尊親王むねかたしんのう(むねたかしんのう)を鎌倉かまくらむかえた。こうして摂家せっけ将軍しょうぐんにかわりみや将軍しょうぐん登場とうじょうしたが、将軍しょうぐんはますます名目めいもくした。よりゆきけい追放ついほう同時どうじに、幕府ばくふは、当時とうじ京都きょうと権勢けんせいるっていたぜん摂政せっしょう(せっしょう)九条くじょう道家みちや(みちいえ)(よりゆきけいちち)を失脚しっきゃくさせ、さらにこれを契機けいき朝廷ちょうてい政治せいじへの干渉かんしょうつよめ、ついにはてん(じてん)のきみ政治せいじ実権じっけんにぎ上皇じょうこう、ときには天皇てんのう)や天皇てんのう選定せんていする権限けんげんまでも掌握しょうあくした。1274ねんぶんなが11)、1281ねん弘安ひろやす4)の再度さいどこうむ(もうこ)襲来しゅうらいもと寇(げんこう))にあたり、幕府ばくふ防衛ぼうえい全面ぜんめんてき指導しどうし、朝廷ちょうてい保持ほじしてきた外交がいこうけんうばって独断どくだんてき強硬きょうこう外交がいこう政策せいさくおこない、また前例ぜんれいやぶって本所ほんじょ(ほんじょ)りょうから兵糧ひょうろうまい徴発ちょうはつしたり、御家人ごけにんまでも動員どういんするにいたった。ときよりゆき時宗じしゅう(ときむね)の時代じだいとくむね専制せんせいは、しゅとして朝廷ちょうてい貴族きぞく社寺しゃじけられたが、他方たほうでは御家人ごけにん支持しじるため、1249ねんけんちょう1)には引付ひきつけ(ひきつけ)をもうけて裁判さいばん公正こうせい迅速じんそくはかるなど、御家人ごけにん保護ほご政策せいさくがとられた。しかしその反面はんめん評定ひょうじょうしゅ引付ひきつけしゅには北条ほうじょう一門いちもんから選任せんにんされるものえ、またとくむね私邸してい一部いちぶ要人ようじん御内おんうちじんあつめておこなう「寄合よりあい(よりあい)」が、しだいに評定ひょうじょうしゅ評議ひょうぎにかわる実質じっしつてき政治せいじ審議しんぎ機関きかんとなり、公的こうてき執権しっけんよりも、私的してきとくむねのほうが重要じゅうようとなっていった。地方ちほうでもこうむ襲来しゅうらい契機けいきに1293ねんえいひとし1)鎮西ちんぜい探題たんだい(ちんぜいたんだい)がかれ、北条ほうじょう一門いちもんがこれににんじられたのをはじめ、畿内きない(きない)近国きんごく九州きゅうしゅう中心ちゅうしんとして、北条ほうじょう一門いちもんによる守護しゅごしょくうらないすすめられた。このようなとくむね専制せんせい強化きょうかともない、御家人ごけにん不満ふまんつよまったが、1285ねん弘安ひろやす8)には御家人ごけにん期待きたいになった安達あだち泰盛やすもり(あだちやすもり)がうち管領かんりょう(うちかんれい)平頼綱たいらのよりつな(たいらのよりつな)と対立たいりつし、ほろぼされる事件じけん霜月しもづき騒動そうどう(しもつきそうどう))がこり、こうして執権しっけん貞時さだとき(さだとき)の時代じだいには、御家人ごけにんたいするとくむね専制せんせい確立かくりつした。

 貨幣かへい経済けいざい発達はったつによって御家人ごけにん困窮こんきゅうし、所領しょりょう喪失そうしつする傾向けいこうは、たいのころから問題もんだいになっていたが、こうむ襲来しゅうらいによる戦費せんぴ負担ふたんは、御家人ごけにん窮乏きゅうぼう拍車はくしゃをかけた。1297ねんえいひとし5)幕府ばくふ徳政令とくせいれい(とくせいれい)をして御家人ごけにん所領しょりょう売買ばいばい質入しちいれをきんじ、すでに売却ばいきゃく質入しちいれしていた所領しょりょう無償むしょうもどさせた。この法令ほうれいは、困窮こんきゅうした御家人ごけにん救済きゅうさいはか反面はんめん御家人ごけにん所領しょりょう処分しょぶんけん制限せいげんしようとするものであり、とくむね専制せんせい強化きょうか一環いっかんであった。しかしこのような政策せいさく御家人ごけにん救済きゅうさいできず、とくむね専制せんせいたいする御家人ごけにん反発はんぱつくわえて、惣領そうりょうせい(そうりょうせい)の解体かいたい守護しゅご強大きょうだい悪党あくとう横行おうこうなどによって、幕府ばくふ支配しはい動揺どうようした。一方いっぽうてんきみ天皇てんのう選定せんていかんする幕府ばくふ干渉かんしょうは、持明院じみょういんみつる(じみょういんとう)・大覚寺だいかくじみつる(だいかくじとう)の対立たいりつ激化げきかさせた。大覚寺だいかくじみつる後醍醐天皇ごだいごてんのう(ごだいごてんのう)は、幕府ばくふ干渉かんしょう不満ふまんいだき、幕府ばくふ打倒だとう計画けいかくすすめた。1324ねん正中せいちゅう1)には計画けいかくれて失敗しっぱいし(正中せいちゅう(しょうちゅう)のへん)、1331ねん元弘もとひろ1)にも計画けいかくれ、天皇てんのう隠岐おき(おき)にながされた(元弘もとひろ(げんこう)のへん)。しかし各地かくち討幕とうばくへいがおこり、1333ねん5がつにはまず足利あしかがたかし(あしかがたかうじ)(のち足利尊氏あしかがたかうじ)らがろく探題たんだい攻略こうりゃくし、さらに新田にった義貞よしさだ(にったよしさだ)らによって鎌倉かまくら幕府ばくふとされ、ここに北条ほうじょう滅亡めつぼうした。

上横うえよこしゅまさたかし

幕府ばくふ性格せいかく

幕府ばくふ王朝おうちょう国家こっか否定ひていしたのではなく、なおきゅう国家こっか体制たいせいやその基盤きばん強固きょうこ存続そんぞくしていた。したがって幕府ばくふはすべての武士ぶし組織そしきすることができず、幕府ばくふ従属じゅうぞくしない御家人ごけにんすくなくなかった。しかも御家人ごけにん所領しょりょう荘園しょうえんせい(しょうえんせい)したしょく(しき)であり、土地とち人民じんみんたいする一元いちげんてき支配しはい完成かんせいしていなかった。それらのしょくのうち地頭じとうしょく任免にんめんけん幕府ばくふにあったが、一般いっぱんそうかんしょしょく知行ちぎょう(ちぎょう)する御家人ごけにんおおく、それらのしょく本所ほんじょ領家りょうけ(りょうけ)(貴族きぞく社寺しゃじ)が任免にんめんした。

 幕府ばくふ成立せいりつ時期じきかんする諸説しょせつは、頼朝よりともあさかんにんじられたり、公権こうけんあたえられた時期じき成立せいりつ指標しひょうとしている。このてんからみても、幕府ばくふ朝廷ちょうていによって存在そんざい保障ほしょうされているということができる。頼朝よりとも挙兵きょへい3年間ねんかん独立どくりつ国家こっか時期じきのぞけば、幕府ばくふ朝廷ちょうていによって存在そんざい保障ほしょうされ、そのしたで「諸国しょこく守護しゅご」、すなわち国家こっかてき軍事ぐんじ警察けいさつ機能きのうたしていたのである。

 幕府ばくふ経済けいざいてき基礎きそは、関東かんとう御領ごりょう(ごりょう)という直轄ちょっかつ荘園しょうえん関東かんとう知行ちぎょうこくとであり、そのてんでは一般いっぱん権門けんもん(けんもん)(有力ゆうりょく貴族きぞく)と区別くべつがない。政所まんどころなどの幕府ばくふ機関きかん権門けんもん家政かせい機関きかん模倣もほうである。このように幕府ばくふ権門けんもん性格せいかくそなえているのである。

 在地ざいち領主りょうしゅである御家人ごけにん領主りょうしゅけん幕府ばくふ干渉かんしょうゆるさず、幕府ばくふ権力けんりょくたいする独立どくりつせいつよかった。したがって幕府ばくふ御家人ごけにんとの主従しゅうじゅう結合けつごうはルーズな性格せいかくのものであった。幕府ばくふ御家人ごけにん本領ほんりょう安堵あんど(あんど)したり、しん恩地おんち給与きゅうよしたりするが、これらのおんたいする御家人ごけにん奉公ほうこう軍事ぐんじてき義務ぎむ中心ちゅうしんで、経済けいざいてき義務ぎむ臨時りんじてき補助ほじょてきでしかなかった。従者じゅうしゃたる御家人ごけにん関東かんとう御領ごりょう武士ぶしだけでなく、全国ぜんこくてき多数たすう武士ぶし荘園しょうえんわくえて組織そしきされていた。またその主従しゅうじゅう結合けつごうは、幕府ばくふ自衛じえいするためだけではなく、「諸国しょこく守護しゅご」の役割やくわりたしていた。御家人ごけにん守護しゅご地頭じとうにんじたのも、鎌倉かまくら殿どのした御家人ごけにん諸国しょこく守護しゅご分担ぶんたんするためであった。いち権門けんもんとしての性格せいかくをもつ幕府ばくふは、諸国しょこく守護しゅごという国家こっかてき機能きのうによって、権門けんもんいきえて公権力こうけんりょくたりえたのである。

 主従しゅうじゅう結合けつごうとともに重要じゅうようなのが領域りょういきてき支配しはいいちめんである。主従しゅうじゅう結合けつごう人的じんてき結合けつごうであっても、御家人ごけにん守護しゅごつうじ、こくごとに組織そしきされている。このことは、幕府ばくふ旧来きゅうらい地方ちほう行政ぎょうせい機構きこうとして強固きょうこ機能きのうをもちつづけた国衙こくが(こくが)を支配しはいしていたことを前提ぜんていとする。幕府ばくふ朝廷ちょうていから国衙こくが支配しはいけん委譲いじょうされ、その機能きのう吸収きゅうしゅうしたのである。国衙こくがたいする幕府ばくふ支配しはいは、東国とうごくにおいてはとくにつよく、東国とうごくでの幕府ばくふ領域りょういき支配しはい実現じつげんしており、本所ほんじょあいだそうろん裁決さいけつできるような高次こうじ権力けんりょくであった。このような支配しはいけんは1183ねん寿ことぶきひさしねんじゅうがつ宣旨せんじによって朝廷ちょうていから公認こうにんされたものであるが、さかのぼれば1180ねん以来いらい3ねんにわたる東国とうごく独立どくりつ国家こっかこそ、その東国とうごく支配しはいけん起源きげんであった。

 幕府ばくふ朝廷ちょうてい存在そんざい保障ほしょうされているという原則げんそくは、鎌倉かまくら時代ときよつうじて変化へんかはなかった。しかし実際じっさいは、承久じょうきゅうらん幕府ばくふ朝廷ちょうてい権限けんげんをしだいにうばい、ときたよ以後いごとくむね専制せんせいになると、てんきみ選定せんていけんまでも掌握しょうあくし、朝廷ちょうてい政務せいむへの干渉かんしょうつよめた。また荘園しょうえん領主りょうしゅ御家人ごけにん在地ざいち領主りょうしゅ領主りょうしゅけんにも干渉かんしょうくわえ、幕府ばくふへの集権しゅうけんすすめた。一方いっぽう、このような干渉かんしょうへの反発はんぱつつよく、それは幕府ばくふ滅亡めつぼう要因よういんともなった。

上横うえよこしゅまさたかし

三浦みうらしゅうこうちょ日本にっぽん研究けんきゅう しん輯1』(1982・岩波書店いわなみしょてん)』石井いしいすすむちょ日本にっぽん歴史れきし7 鎌倉かまくら幕府ばくふ』(1965・中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ)』黒田くろだ俊雄としおちょ日本にっぽん歴史れきし8 こうむ襲来しゅうらい』(1965・中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ)』上横うえよこしゅまさたかしちょ日本にっぽん中世ちゅうせい政治せいじ研究けんきゅう』(1970・はなわ書房しょぼう)』石井いしいすすむちょ日本にっぽん中世ちゅうせい国家こっか研究けんきゅう』(1970・岩波書店いわなみしょてん)』大山おおやまたかしたいらちょ日本にっぽん歴史れきし9 鎌倉かまくら幕府ばくふ』(1974・小学館しょうがくかん)』網野あみの善彦よしひこちょ日本にっぽん歴史れきし10 こうむ襲来しゅうらい』(1974・小学館しょうがくかん)』佐藤さとう進一しんいちちょ日本にっぽん中世ちゅうせい国家こっか』(1983・岩波書店いわなみしょてん)』


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改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん鎌倉かまくら幕府ばくふ」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

鎌倉かまくら幕府ばくふ (かまくらばくふ)

12世紀せいきまつみなもと頼朝よりとも鎌倉かまくらひらき,1333ねん元弘もとひろ3)までつづいた武家ぶけ政権せいけん

平治へいじらん結果けっか,1160ねんながれき1)以来いらいたいらによって伊豆いずながされていた頼朝よりともは,80ねんうけたまわ4)8がつ以仁王もちひとおういのちおうじてたいら打倒だとうへいをあげた。やがて頼朝よりとも相模さがみ鎌倉かまくら本拠ほんきょさだめ,御家人ごけにん統率とうそつのためにさむらいしょもうけ,遠江とおとうみ以東いとうの〈東国とうごく〉にたいする経営けいえいすすめた。新邸しんてい造営ぞうえいした頼朝よりともはこのとし12がつ御家人ごけにんたちの参集さんしゅうするなかで新邸しんていうつ儀式ぎしき盛大せいだいったが,これはしん政権せいけん成立せいりつ宣言せんげん意味いみするものであった。しん政権せいけんはその3ねんにわたり,京都きょうと朝廷ちょうていから独立どくりつした国家こっかとして東国とうごく支配しはいした。しかしその反面はんめん頼朝よりとも当初とうしょからひそかにこう白河しらかわ法皇ほうおう提携ていけいしていたのであり,したがって83ねん寿ことぶきひさし2)たいら都落みやこおちし,法皇ほうおう院政いんせい機能きのう回復かいふくすると,法皇ほうおう頼朝よりともとの妥協だきょう急速きゅうそくすすみ,朝廷ちょうていから東国とうごく支配しはいけん正式せいしき承認しょうにんされることを代償だいしょうに,京都きょうとから独立どくりつしていた東国とうごく国家こっか解消かいしょうし,朝廷ちょうてい支配しはいはいった。85ねん文治ぶんじ1)たいら滅亡めつぼうしたが,頼朝よりとも義経よしつね兄弟きょうだい不和ふわとなり,義経よしつね法皇ほうおうから頼朝よりとも追討ついとう宣旨せんじたのを契機けいきに,頼朝よりとも朝廷ちょうていせまって守護しゅご地頭じとう設置せっち承認しょうにんさせた。義経よしつね奥州おうしゅう藤原ふじわらたよったが,89ねん藤原ふじわらやすし衡は,頼朝よりとも圧力あつりょくくっして義経よしつねち,そのたい衡も頼朝よりともほろぼされた。よく90ねんたてひさ1)頼朝よりとも上洛じょうらくして法皇ほうおう対面たいめんし,日本国にっぽんこくそうおい使つかいそう地頭じとう地位ちい確認かくにんされ,御家人ごけにんひきいて諸国しょこく守護しゅご日本にっぽんこく全体ぜんたい軍事ぐんじ警察けいさつ)を担当たんとうすることになった。さらに92ねんには頼朝よりとも征夷大将軍せいいたいしょうぐん任命にんめいされた。初期しょき幕府ばくふ政治せいじ機関きかんには,さむらいしょのほか,公文こうぶんしょ(くもんじよ)(のち政所まんどころ(まんどころ)と改称かいしょう),といちゅうしょがあったが,これらの機関きかんのわくをえて鎌倉かまくら殿どの将軍しょうぐん頼朝よりとも独裁どくさいつよ作用さようしていた。地方ちほうでは京都きょうと京都きょうと守護しゅご九州きゅうしゅう鎮西ちんぜい(ちんぜい)奉行ぶぎょう藤原ふじわら滅亡めつぼう奥州おうしゅう奥州おうしゅうそう奉行ぶぎょういた。

 幕府ばくふ成立せいりつ時期じきについては,(1)92ねん頼朝よりとも征夷大将軍せいいたいしょうぐん就任しゅうにんもとめる伝統でんとうてき見解けんかいは,いまはほとんど支持しじされておらず,(2)80ねん東国とうごくにおける独立どくりつ国家こっか成立せいりつ,(3)83ねんの〈寿ことぶきひさしねんじゅうがつ宣旨せんじ〉による東国とうごく支配しはいけん公認こうにん,(4)85ねん守護しゅご地頭じとう設置せっち勅許ちょっきょ,(5)90ねん日本国にっぽんこくそうおい使つかい地位ちい確認かくにん諸国しょこく守護しゅごけん付与ふよ,などの時期じきもとめる諸説しょせつがある。このようにせつかれるのは,幕府ばくふ本質ほんしつをどうとらえるかという視角しかくちがいによるのであるから,ひとつの学説がくせつだけをただしいと断定だんていすることはできない。

 頼朝よりとも死後しごよりゆきがあとをいだが,1203ねんたてひとし3)北条ほうじょう時政ときまさよりゆき退しりぞけ,そのおとうとじつあさ鎌倉かまくら殿どの擁立ようりつし,時政ときまさみずからは政所まんどころ別当べっとうとして執権しっけんしょうし,ここに執権しっけん政治せいじ発足ほっそくした。時政ときまさ以後いごは,政所まんどころ別当べっとうくわえてさむらいしょ別当べっとうまでも北条ほうじょう独占どくせんてき世襲せしゅうした。19ねんうけたまわひさし1)じつちょう暗殺あんさつされて源氏げんじえると,幕府ばくふ摂関せっかんから頼朝よりとも遠縁とおえんにあたる九条くじょうよりゆきけいむかえて鎌倉かまくら殿どのとしたが(摂家せっけ将軍しょうぐん),じつあさよりゆきけい名目めいもくだけの鎌倉かまくら殿どので,頼朝よりとも未亡人みぼうじんである北条ほうじょう政子まさこ実質じっしつてき鎌倉かまくら殿どのとして,おとうと執権しっけんとともに幕府ばくふ実権じっけんにぎった。21ねん後鳥羽上皇ごとばじょうこう承久じょうきゅうらんをおこして討幕とうばくはかったが,やぶれて隠岐おきながされ,この結果けっか幕府ばくふ勢力せいりょく飛躍ひやくてき向上こうじょうした。らん幕府ばくふ京都きょうと守護しゅごかわりにろく探題たんだいき,京都きょうと警備けいび朝廷ちょうてい監視かんし西国さいこく政務せいむなどにたらせた。25ねんよしみろく1)政子まさこぼっすると,執権しっけん北条ほうじょうやすし政治せいじ改革かいかくおこない,独裁どくさい政治せいじから合議ごうぎ政治せいじへの転換てんかんこころみ,ここに執権しっけん政治せいじ全盛期ぜんせいきむかえた。執権しっけん複数ふくすうとなり(1めいがいわゆる連署れんしょ),評定ひょうじょうしゅかれ,32ねんさだなが1)には最初さいしょ武家ぶけ法典ほうてんである《成敗せいばい式目しきもく》が制定せいていされ,裁判さいばん公正こうせいはかられた。

 たいまごときよりゆきのころから,北条ほうじょう家督かとくであるとくしゅうと,その家臣かしんである御内おんうちじん(みうちびと)によるとくむね専制せんせい政治せいじはじまった。とくむね執権しっけんであるときよりゆきは,46ねんひろしもと4)陰謀いんぼう理由りゆうぜん将軍しょうぐん九条くじょうよりゆきけい京都きょうとい,当時とうじ京都きょうと権勢けんせいるっていたよりゆきけいちちぜん摂政せっしょう道家どうか失脚しっきゃくさせただけでなく,これを契機けいき朝廷ちょうてい政務せいむへの干渉かんしょうつよめ,〈てんきみ〉(政治せいじ実権じっけんにぎ上皇じょうこう,ときには天皇てんのう)や天皇てんのう選定せんていする権限けんげんまでも掌握しょうあくした。74ねんぶんなが11),81ねん弘安ひろやす4)の両度りょうどモンゴル襲来しゅうらいにあたり,幕府ばくふたたかいの全般ぜんぱん指導しどうし,朝廷ちょうてい伝統でんとうてき保持ほじしてきた外交がいこうけんをもうばって,独断どくだん強硬きょうこう外交がいこう政策せいさくし,また前例ぜんれいやぶって,本所ほんじょりょうから兵糧ひょうろうまい徴発ちょうはつしたり,御家人ごけにんまでも動員どういんしたりした。こうしてとくむね専制せんせいは,朝廷ちょうてい貴族きぞく社寺しゃじへの強圧きょうあつとしてあらわれたが,他方たほうでは御家人ごけにん支持しじ必要ひつようから,49ねんけんちょう1)引付ひきつけ(ひきつけ)を新設しんせつして裁判さいばん公正こうせい迅速じんそくはかるなど,御家人ごけにん保護ほご政策せいさくをとった。このあいだ幕府ばくふ政治せいじ性格せいかくわりつつあった。52ねんにはよりゆきけい将軍しょうぐんよりゆき嗣も京都きょうと追放ついほうされ,こう嵯峨さが上皇じょうこう皇子おうじ宗尊親王むねかたしんのう鎌倉かまくら殿どのとしてむかえられた。こうして摂家せっけ将軍しょうぐんにかわり親王しんのう将軍しょうぐん登場とうじょうしたが,その結果けっか鎌倉かまくら殿どのはいっそう名目めいもくてきなものとなった。とくむね一部いちぶ要人ようじん御内おんうちじんあつめておこな私的してき寄合よりあい(よりあい)が,評定ひょうじょうしゅ正式せいしき評議ひょうぎにかわって実質じっしつてき政務せいむ審議しんぎ機関きかんとなり,評定ひょうじょうしゅ形骸けいがいし,公的こうてき執権しっけんよりも私的してきとくむね地位ちいほうが,政治せいじじょう重要じゅうようとなった。とくむね専制せんせい強化きょうかともない,とくむね御内おんうちじんたいする御家人ごけにん不満ふまんつよまったが,85ねん弘安ひろやす合戦かっせんでは,御家人ごけにん期待きたいをになった安達あだち泰盛やすもりをはじめ,多数たすう御家人ごけにんほろぼされ,ここに御家人ごけにんたいするとくむね専制せんせい確立かくりつした。

 貨幣かへい経済けいざい発達はったつするなかで,御家人ごけにん困窮こんきゅうすすんだが,モンゴル襲来しゅうらいによる戦費せんぴ負担ふたんはそれに拍車はくしゃをかけ,所領しょりょう喪失そうしつする御家人ごけにん増加ぞうかした。97ねんえいひとし5)幕府ばくふ徳政令とくせいれいして御家人ごけにん所領しょりょう売買ばいばい質入しちいれをきんじ,すでに売却ばいきゃく質入しちいれした所領しょりょう無償むしょうもどさせた(えいひとし徳政とくせい)。この法令ほうれい御家人ごけにん救済きゅうさいはか一方いっぽう御家人ごけにんたちがその所領しょりょうたいしてもっていた自由じゆう処分しょぶんけん制限せいげんし,幕府ばくふ統制とうせいつよめようとしたものであり,やはりとくむね専制せんせい強化きょうか一環いっかんであった。しかしこのような政策せいさく御家人ごけにん救済きゅうさいすることができず,とくむね専制せんせいたいする御家人ごけにん反発はんぱつくわえて,惣領そうりょうせい解体かいたい守護しゅご強大きょうだい悪党あくとう横行おうこうなど,幕府ばくふ支配しはい体制たいせい動揺どうようさせるうごきはつよまった。一方いっぽう,〈てんきみ〉や天皇てんのう選定せんていかんする幕府ばくふ干渉かんしょうは,持明院じみょういんみつる大覚寺だいかくじみつる対立たいりつ激化げきかさせ,両統りょうとうたがいに幕府ばくふはたらきかけて有利ゆうりはかった。大覚寺だいかくじみつるのち醍醐天皇だいごてんのう幕府ばくふ干渉かんしょう不満ふまんいだき,幕府ばくふ打倒だとう計画けいかくすすめた。1324ねん正中せいちゅう1)には計画けいかくれて失敗しっぱいし(正中せいちゅうへん),31ねん元弘もとひろ1)にも計画けいかくれ,天皇てんのう隠岐おきながされたが(元弘もとひろらん),討幕とうばくへい各地かくち蜂起ほうきし,33ねんにはついに幕府ばくふほろぼした。

鎌倉かまくら幕府ばくふ王朝おうちょう国家こっか否定ひていしたものではなく,なおきゅう国家こっか体制たいせいやその基盤きばん強固きょうこ状態じょうたい成立せいりつしていた。したがって幕府ばくふはすべての武士ぶし組織そしきすることができず,幕府ばくふ組織そしきした御家人ごけにんも,荘園しょうえんせいしょく(しき)を知行ちぎょうするのみで,土地とち人民じんみんたいする一元いちげんてき支配しはい完成かんせいしていなかったし,そのしょく任免にんめんけん本所ほんじょりょう掌握しょうあくしている場合ばあいおおかった。頼朝よりとも挙兵きょへい3年間ねんかん東国とうごく独立どくりつ国家こっか期間きかんのぞけば,幕府ばくふはその存在そんざい朝廷ちょうていによって保障ほしょうされていたのであり,朝廷ちょうていした日本にっぽんこく守護しゅごする諸国しょこく守護しゅご機能きのうたしていたのである。種々しゅじゅてんから幕府ばくふ権門けんもん有力ゆうりょく貴族きぞく)の性格せいかくをそなえている。その経済けいざいてき基礎きそ一般いっぱん権門けんもん同様どうよう知行ちぎょうこく荘園しょうえん関東かんとう御領ごりょう)である。政所まんどころなどの幕府ばくふ機関きかん権門けんもん家政かせい機関きかん模倣もほうである。軍事ぐんじてき基礎きそとしての主従しゅうじゅう結合けつごうにしても,権門けんもん諸家しょかにもられるところである。

 不入ふにゅうけん代表だいひょうされるように,荘園しょうえん領主りょうしゅ家政かせいてき支配しはいけんつよく,幕府ばくふはその内部ないぶ干渉かんしょうできなかったが,在地ざいち領主りょうしゅである御家人ごけにん領主りょうしゅけんも,幕府ばくふ権力けんりょくたいする独立どくりつせいつよかった。したがって幕府ばくふ御家人ごけにんとの主従しゅうじゅう結合けつごうは,ルーズな性格せいかくのものであった。しかしその主従しゅうじゅう結合けつごうにはユニークな特性とくせいみとめられる。従者じゅうしゃたる御家人ごけにん将軍家しょうぐんけりょうである関東かんとう御領ごりょう武士ぶしだけでなく,全国ぜんこくてき多数たすう武士ぶし荘園しょうえんのわくをえて組織そしきされている。またその主従しゅうじゅう結合けつごうは,幕府ばくふ自衛じえいするだけでなく,ひろく諸国しょこく守護しゅご担当たんとうしている。御家人ごけにん守護しゅご地頭じとうなどに任命にんめいするのも,じつ鎌倉かまくら殿どの統率とうそつに,御家人ごけにん諸国しょこく守護しゅご分担ぶんたんするためなのである。いち権門けんもんとしての性格せいかくをもつ幕府ばくふは,他面ためん諸国しょこく守護しゅごという国家こっかてき機能きのうによって,権門けんもんいきえて公権力こうけんりょくたりえたのである。

 幕府ばくふ性格せいかくかんがえる場合ばあい主従しゅうじゅう結合けつごうとともに領域りょういきてき支配しはいめんをもわすれてはならない。鎌倉かまくら殿どの御家人ごけにんとの主従しゅうじゅう結合けつごう人的じんてき結合けつごうであっても,御家人ごけにん守護しゅごつうじてこくごとに編成へんせいされていた。このことは,幕府ばくふ旧来きゅうらい地方ちほう行政ぎょうせい機構きこうである国衙こくが支配しはいしていたことを前提ぜんていとする。幕府ばくふ朝廷ちょうていから国衙こくが支配しはいけん移譲いじょうされ,その機能きのう吸収きゅうしゅうしたのである。国衙こくがたいする幕府ばくふ支配しはいは,東国とうごくにおいてはとくにつよく,東国とうごくでの幕府ばくふ領域りょういきてき支配しはい実現じつげんしており,本所ほんじょあいだそうろん裁決さいけつしうるような高次こうじ権力けんりょくであった。このような東国とうごく支配しはいけんは,1183ねんの〈寿ことぶきひさしねんじゅうがつ宣旨せんじ〉によって朝廷ちょうていから公認こうにんされたものであるが,さかのぼってかんがえると,80ねん以来いらい3ねんにわたる東国とうごく独立どくりつこそが,幕府ばくふ東国とうごく支配しはいけん淵源えんげんだったのである。

 幕府ばくふ朝廷ちょうていによって存在そんざい保障ほしょうされているという原則げんそくは,幕府ばくふ滅亡めつぼうにいたるまでかわりがない。しかし実際じっさいは,承久じょうきゅうらん幕府ばくふ朝廷ちょうてい権限けんげんをしだいにうばい,とくむね専制せんせいにおいては〈てんきみ〉の選定せんていけんまでも掌握しょうあくし,朝廷ちょうてい政務せいむへの干渉かんしょうつよめた。また荘園しょうえん領主りょうしゅ領主りょうしゅけん御家人ごけにん在地ざいち領主りょうしゅ領主りょうしゅけんにも干渉かんしょうくわえ,幕府ばくふへの集権しゅうけんすすめていった。一方いっぽう,このような干渉かんしょうへの反発はんぱつつよく,それは幕府ばくふ滅亡めつぼう要因よういんともなった。
鎌倉かまくら時代ときよ →執権しっけん政治せいじ →東国とうごく →とくむね
執筆しっぴつしゃ

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百科ひゃっか事典じてんマイペディア鎌倉かまくら幕府ばくふ」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

鎌倉かまくら幕府ばくふ【かまくらばくふ】

1180年代ねんだいなかば,みなもと頼朝よりともたいらたお鎌倉かまくら幕府ばくふひらいてから,1333ねんまで存続そんぞくした武家ぶけ政権せいけん。1180ねんの以仁(もちひと)おういのちおうじてたいら打倒だとうへいをあげた頼朝よりともは,短時日たんじじつのうちに関東かんとう平定へいていし,源氏げんじゆかりの鎌倉かまくら本拠地ほんきょちとし,おとうとはんよりゆき義経よしつねらを西上にしがみさせて源義仲みなもとのよしなかたいら全滅ぜんめつさせ,1189ねんには奥州おうしゅう藤原ふじわらほろぼして全国ぜんこく覇権はけん確立かくりつした。幕府ばくふ成立せいりつ時点じてんをいつとするかは幕府ばくふ権力けんりょく性格せいかくをどうかんがえるかに左右さゆうされるが,これについては,幕府ばくふ朝廷ちょうていとは一応いちおう別個べっこ独立どくりつ政権せいけんであるとする公武こうぶじゅう政権せいけんろんから,荘園しょうえん領主りょうしゅなどとおなじく,って日本にっぽん国家こっか形成けいせいするいち単位たんいにすぎぬとする権門けんもん体制たいせいろんいたるまで,さまざまな見解けんかいがあり,定説ていせつをみない。幕府ばくふ支配しはい体制たいせいは,将軍しょうぐん個々ここ御家人ごけにんとのあいだむすばれた主従しゅうじゅうせいをその根幹こんかんとし,幕府ばくふ所領しょりょう給付きゅうふ安堵あんど(あんど)などの〈おん〉をあたえる代償だいしょうとして,大番おおばんやくをはじめとする軍事ぐんじじょう経済けいざいじょうの〈奉公ほうこう〉を御家人ごけにん義務ぎむづけた。守護しゅごは,御家人ごけにん統制とうせい重要じゅうよう結節けっせつてんであり,またかく一族いちぞく家督かとくである惣領そうりょうつうじての支配しはい統制とうせい方法ほうほう部分ぶぶんてき採用さいようされた。幕府ばくふ政務せいむ組織そしきいちととのえられたものではなく,必要ひつようおう情勢じょうせいしたがって逐次ちくじもうけられたもので,その推移すいいはおよそ(1)みなもとの3だい将軍しょうぐん時代じだい,(2)北条ほうじょう執権しっけん政治せいじ時代じだい,(3)北条ほうじょうとくむね(とくそう)専制せんせい時代じだいけられる。 (1)は頼朝よりともよりゆきじつあさだいで,さむらいしょ(さむらいどころ)・といちゅうしょ政所まんどころ(まんどころ)などがあり,かく長官ちょうかんがいても,将軍しょうぐん個人こじん決裁けっさい優先ゆうせんした。頼朝よりとも死後しご北条ほうじょう台頭たいとうし,じつあさ暗殺あんさつ(1219ねん)によってみなもと嫡流ちゃくりゅうえ,摂関せっかん皇族こうぞくから将軍しょうぐんむかえるにいたって,北条ほうじょう幕政ばくせいにおける地位ちい一層いっそうつよまった。 承久じょうきゅうらんこう幕府ばくふ朝廷ちょうていたいする優位ゆういさだまり,執権しっけん北条ほうじょう指導しどうで,有力ゆうりょく御家人ごけにん官僚かんりょうそう合議ごうぎせい評定ひょうじょうしゅ)が政務せいむ最高さいこう議決ぎけつ機関きかんとなり,引付ひきつけ(ひきつけ)かた新設しんせつなど裁判さいばん制度せいど充実じゅうじつ,《成敗せいばい式目しきもく》などが制定せいていされた。以上いじょう比較的ひかくてき安定あんていした時期じき執権しっけんたいから時宗じしゅうまで)が(2)にたる。 しかしぶんひさし弘安ひろやすやく分割ぶんかつ相続そうぞくせいによる所領しょりょう細分さいぶん貨幣かへい経済けいざい進展しんてんにつれて御家人ごけにん困窮こんきゅうし,悪党あくとう象徴しょうちょうされる社会しゃかい不安ふあんひろまりはじめるのが(3)で,幕府ばくふ内部ないぶでは重要じゅうよう部局ぶきょく守護しゅごしょく(しき)への北条ほうじょう一門いちもん進出しんしゅつ急激きゅうげきとなり,なかでも北条ほうじょう宗家そうけとくむね執権しっけんしょく有無うむとはべつに,独裁どくさい体制たいせい強化きょうかする。それにつれてとく宗家そうけ家臣かしんであるとくむね被官ひかん一般いっぱん御家人ごけにんとの軋轢あつれき(あつれき)もはげしくなり,1285ねんには安達あだちほろぼされ(弘安ひろやす合戦かっせん),1293ねんにはとくむね被官ひかんちょうである平頼綱たいらのよりつなたれるなど政局せいきょく安定あんていせず,1333ねん新田にった義貞よしさだ鎌倉かまくらめによってほろんだ。→源平げんぺい争乱そうらん奥州おうしゅう征伐せいばつおん奉公ほうこう地頭じとう北条ほうじょうよしとき元弘もとひろらん
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ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん鎌倉かまくら幕府ばくふ」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

鎌倉かまくら幕府ばくふ
かまくらばくふ

みなもと頼朝よりともによって鎌倉かまくら樹立じゅりつされた武家ぶけ政権せいけん成立せいりつ時期じきは (1) 頼朝よりとも伊豆いず挙兵きょへいしたうけたまわ4 (1180) ねん,(2) 頼朝よりとも朝廷ちょうていから東国とうごく行政ぎょうせい公権こうけん委譲いじょうされた寿ことぶきひさし2 (83) ねん,(3) 幕府ばくふ主要しゅよう政治せいじ機関きかん公文こうぶんしょもんちゅうしょ設置せっちされたどう3ねん,(4) 守護しゅご地頭じとう設置せっちされた文治ぶんじ1 (85) ねん,(5) 頼朝よりともみぎ近衛このえ大将たいしょう任命にんめいされたたてひさ1 (90) ねん,(6) 頼朝よりとも征夷大将軍せいいたいしょうぐん任命にんめいされたたてひさ3 (92) ねんなど諸説しょせつがある。幕府ばくふ成立せいりつ当時とうじ政治せいじ機関きかんとして,中央ちゅうおうさむらいしょ政所まんどころ (はじ公文こうぶんしょといった) ,といちゅうしょが,地方ちほうには京都きょうと守護しゅご鎮西ちんぜい奉行ぶぎょう奥州おうしゅうそう奉行ぶぎょう各国かっこく守護しゅごなどがおかれた。鎌倉かまくら幕府ばくふおん奉公ほうこう主従しゅうじゅう関係かんけいによる御家人ごけにん制度せいどによってささえられていた。その経済けいざいてき基盤きばん将軍家しょうぐんけ直轄ちょっかつである関東かんとう御領ごりょう朝廷ちょうていから将軍家しょうぐんけあたえられた知行ちぎょうこくである関東かんとうぶんこく関東かんとう公事こうじしょうして御家人ごけにんから徴収ちょうしゅうする恒例こうれい臨時りんじやくであった。鎌倉かまくら幕府ばくふ頼朝よりともだいにその基礎きそ確立かくりつしたが,正治しょうじ1 (99) ねん頼朝よりとも死後しごみなもと将軍しょうぐんよりゆきじつあさの3だいほろび,以後いご摂家せっけ (藤原ふじわら) 将軍しょうぐん2だい親王しんのう将軍しょうぐん (みや将軍しょうぐん) 4だい京都きょうとからむかえたが,さむらいしょ政所まんどころ別当べっとうねた北条ほうじょう実権じっけんにぎ執権しっけん政治せいじであった。うけたまわひさし3 (1221) ねん公家くげ政権せいけんによる倒幕とうばく計画けいかく武力ぶりょくしつぶし (→承久じょうきゅうらん ) ,もとじん1 (24) ねん連署れんしょよしみろく1 (25) ねん評定ひょうじょうしゅさだなが1 (32) ねん成敗せいばい式目しきもく制定せいていして武家ぶけ政権せいけん確立かくりつした。執権しっけん北条ほうじょうは,たからおさむ1 (47) ねん三浦みうらほろぼして,けんちょう1 (49) ねん引付ひきつけしゅ設置せっちし,これに北条ほうじょう一門いちもんをあてるなど北条ほうじょう嫡流ちゃくりゅうによるとくむね専制せんせい政治せいじ強化きょうかしていった。それは2こうむ襲来しゅうらい (→もと ) の非常ひじょう事態じたい対処たいしょすることを理由りゆうに,幕府ばくふ中枢ちゅうすう機関きかんはもちろん,地方ちほう支配しはい機構きこうにもおよんだ。やがてとくむね専制せんせいたいする外様とざま御家人ごけにんそう批判ひはん反発はんぱつつよくなってくると,北条ほうじょう一門いちもん強圧きょうあつてき手段しゅだんた。また中期ちゅうき以後いごになると鎌倉かまくら御家人ごけにん制度せいどにも種々しゅじゅ矛盾むじゅん表面ひょうめんし,御家人ごけにん経済けいざいてき窮乏きゅうぼうあいまって,幕府ばくふ次第しだい動揺どうようをみせはじめた。幕府ばくふえいひとし5 (97) ねん徳政令とくせいれい (→えいひとし徳政令とくせいれい ) を発布はっぷして御家人ごけにん窮乏きゅうぼうすくおうとしたが効果こうかはなかった。このような幕府ばくふ動揺どうようじょうじて後醍醐天皇ごだいごてんのう中心ちゅうしんとする倒幕とうばく勢力せいりょく台頭たいとうし,足利あしかが新田にったなどの有力ゆうりょく御家人ごけにん寝返ねがえりもあって,元弘もとひろ3=せいけい2 (1333) ねん鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつやく 150ねんにして滅亡めつぼうした。鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつ歴史れきしてき評価ひょうかとしては,たいら政権せいけんとは本質ほんしつてきことなるてんみとめつつも,なお古代こだいてき性格せいかく重視じゅうしする立場たちばと,武士ぶし政権せいけんとしての封建ほうけんてき性格せいかく重視じゅうしする立場たちばとがある。

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山川やまかわ 日本にっぽんしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん鎌倉かまくら幕府ばくふ」の解説かいせつ

鎌倉かまくら幕府ばくふ
かまくらばくふ

12世紀せいきまつから1333ねん(元弘もとひろ3)までのあいだ鎌倉かまくら本拠ほんきょとし,鎌倉かまくら殿どのとよばれる武家ぶけ棟梁とうりょう首長しゅちょうとした武家ぶけ政権せいけん幕府ばくふ性格せいかく規定きていかんしては,(1)中世ちゅうせい国家こっかを,階級かいきゅうてき性格せいかくおなじくする公家くげ寺社じしゃなど本来ほんらい私的してき複数ふくすう権門けんもん(けんもん)」の相互そうご補完ほかんによってつ「権門けんもん体制たいせい」ととらえ,そのなかで国家こっかてき次元じげんでのけんだん軍事ぐんじ分担ぶんたんするいち権門けんもんであるとするせつ,(2)中世ちゅうせい複数ふくすう国家こっか並存へいそんしたととらえ,京都きょうとからなか独立どくりつした東国とうごく政権せいけんであり,基本きほんてき同質どうしつでありながら,支配しはいしゃ集団しゅうだん異質いしつせいゆえに王朝おうちょう国家こっか異質いしつ部分ぶぶんをもつ「中世ちゅうせい国家こっかだいかた」であるとするせつ,(3)門閥もんばつ貴族きぞくそう基盤きばんとする官僚かんりょうせい王朝おうちょう権力けんりょくとともに「ブロック権力けんりょく」を形成けいせいする,レーンせいてき主従しゅうじゅう関係かんけいにもとづく権力けんりょくであるとするせつ,などがある。これと密接みっせつ関連かんれんする幕府ばくふ成立せいりつ時期じきかんしては,①1192ねん(たてひさ3)のみなもと頼朝よりとも征夷大将軍せいいたいしょうぐん補任ほにん,②1190ねん(たて久元ひさもと)の頼朝よりともみぎ近衛このえ大将たいしょう補任ほにん,③1184ねん(もとこよみもと)の公文こうぶんしょ(くもんじょ)・もんちゅうしょ設置せっち,④1185ねん(文治ぶんじもと)の守護しゅご地頭じとう補任ほにん勅許ちょっきょ,⑤1183ねん(寿ことぶきひさし2)の寿ことぶきひさし2ねん10がつ宣旨せんじによる東国とうごく行政ぎょうせいけん獲得かくとく,⑥1180ねん(うけたまわ4)の東国とうごくにおける軍事ぐんじ政権せいけん樹立じゅりつ,⑦1190ねん頼朝よりとも日本国にっぽんこくそう守護しゅごそう地頭じとう補任ほにん,などの時点じてんとする諸説しょせつがあり,④⑦が(1)と,⑤⑥が(2)と関連かんれんする。今日きょうでは①②③は形式けいしきてき理解りかいにとどまるとの見解けんかいつよい。

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旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばん鎌倉かまくら幕府ばくふ」の解説かいせつ

鎌倉かまくら幕府ばくふ
かまくらばくふ

みなもと頼朝よりとも相模さがみこく鎌倉かまくら創立そうりつした最初さいしょ武家ぶけ政権せいけん
成立せいりつ時期じきは1183ねん頼朝よりとも東国とうごく沙汰さたけんみとめられたとき,'85ねん守護しゅご地頭じとう設置せっち勅許ちょっきょたとき,'92ねん頼朝よりとも征夷大将軍せいいたいしょうぐん任命にんめいされたときなど諸説しょせつがある。初期しょき中央ちゅうおう政治せいじ機関きかんとして政所まんどころ (まんどころ) (はじめ公文こうぶんしょ)・さむらいしょ (さむらいどころ) ・もんちゅうしょ (もんちゆうじよ) がある。源氏げんじ将軍しょうぐんは3だいほろび,以後いご摂家せっけ将軍しょうぐんだいみや将軍しょうぐんだいつづくが,政治せいじてき実権じっけん執権しっけんとなった北条ほうじょうにぎった。承久じょうきゅうらん勝利しょうり公家くげあつだお武家ぶけ政権せいけん確立かくりつ成敗せいばい式目しきもく制定せいていし,連署れんしょ評定ひょうじょうしゅ (ひようじようしゆう) ・引付ひきつけしゅ (ひきつけしゆう) を設置せっちして合議ごうぎ体制たいせい制度せいどした。のちもと寇による御家人ごけにん窮乏きゅうぼうとくむね (とくそう) 専制せんせいへの移行いこうともな政治せいじてき混乱こんらんにより,はん幕府ばくふ勢力せいりょく後醍醐ごだいご (ごだいご) 天皇てんのう討幕とうばく計画けいかく参加さんかしたので,幕府ばくふは1333ねん滅亡めつぼうした。

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防府ほうふ歴史れきし用語ようごしゅう鎌倉かまくら幕府ばくふ」の解説かいせつ

鎌倉かまくら幕府ばくふ

 12世紀せいきまつから1333ねんまで、将軍しょうぐんをはじめ、武士ぶしたちが政治せいじおこなったところです。鎌倉かまくら本拠地ほんきょちとしました。

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうち鎌倉かまくら幕府ばくふ言及げんきゅう

鎌倉かまくら時代じだい】より

室町むろまち時代じだいわせて中世ちゅうせいぶこともおおい。終期しゅうき鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼうした1333ねん(元弘もとひろ3)であることに異論いろんはないが,始期しき幕府ばくふ成立せいりつ時期じき諸説しょせつがあることと関連かんれんして一定いっていしない。ただし1185ねん(文治ぶんじ1)の守護しゅご地頭じとう設置せっちもとめるせつさい有力ゆうりょくであり,92ねん(たてひさ3)のみなもと頼朝よりとも征夷大将軍せいいたいしょうぐん就任しゅうにんもとめる伝統でんとうてき見解けんかい支持しじうしなっている。…

執権しっけん政治せいじ】より

鎌倉かまくら時代じだい北条ほうじょう執権しっけん地位ちいによって,幕府ばくふ実権じっけん掌握しょうあくした政治せいじ体制たいせい鎌倉かまくら幕府ばくふ歴史れきしは,その政治せいじ形態けいたいによって,前期ぜんき鎌倉かまくら殿どの(将軍しょうぐん)独裁どくさい政治せいじ中期ちゅうき執権しっけん政治せいじ後期こうきとくむね専制せんせい政治せいじの3区分くぶんされる。中期ちゅうき執権しっけん政治せいじ特色とくしょくとして,だい1に鎌倉かまくら殿どのわって執権しっけん北条ほうじょう政権せいけんにぎっていること,だい2にその政治せいじ性格せいかくは,その前後ぜんご時期じき独裁どくさい専制せんせいとはことなり合議ごうぎ政治せいじであることがあげられる。…

惣領そうりょうせい】より

…しかしまったく独立どくりつしていたわけではなく,戦時せんじには庶子しょし惣領そうりょうしたあつまって戦闘せんとう集団しゅうだん形成けいせいし,平時へいじには惣領そうりょう主催しゅさいする祖先そせん供養くよういえ祭祀さいしつうじて精神せいしんてきむすびつきをもった。また鎌倉かまくら幕府ばくふ荘園しょうえん領主りょうしゅからされてくる公事こうじ惣領そうりょうから庶子しょし配分はいぶんされ,庶子しょし公事こうじ惣領そうりょうおさめた。幕府ばくふはこうした惣領そうりょうせいてき結合けつごうおうじて,軍役ぐんえき公事こうじ一括いっかつして惣領そうりょうあてにしたのであり,また惣領そうりょうつうじてされてくる庶子しょし所領しょりょう安堵あんど恩賞おんしょう請求せいきゅうについても惣領そうりょうつうじて交付こうふしている。…

東国とうごく】より

…この国家こっかがごく短期間たんきかん崩壊ほうかいしたのち,武将ぶしょうたちは王朝おうちょう国家こっかしたにあって,東国とうごく土着どちゃく勢力せいりょくとのむすびつきをつよめつつその実力じつりょくたくわえ,11世紀せいきはいると,東北とうほくにも独自どくじ政権せいけんないししょう国家こっかまれるきざしがあらわれてくる。 こうした情勢じょうせい背景はいけいに,12世紀せいきまつ動乱どうらんなか鎌倉かまくら幕府ばくふ樹立じゅりつされる。その評価ひょうかについてはおおきく2せつかれ,王朝おうちょう国家こっか軍事ぐんじ警察けいさつ機能きのう権門けんもんとするせつと,将門まさかど伝統でんとう自立じりつした東国とうごく国家こっかあるいは東国とうごく政権せいけんとみるせつとが対立たいりつしている。…

※「鎌倉かまくら幕府ばくふ」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

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