12世紀末源頼朝が鎌倉に開き,1333年(元弘3)まで続いた武家政権。
政治過程
平治の乱の結果,1160年(永暦1)以来平氏によって伊豆に流されていた頼朝は,80年(治承4)8月以仁王の命に応じて平氏打倒の兵をあげた。やがて頼朝は相模の鎌倉を本拠と定め,御家人統率のために侍所を設け,遠江以東の〈東国〉に対する経営を進めた。新邸を造営した頼朝はこの年12月,御家人たちの参集するなかで新邸に移り住む儀式を盛大に行ったが,これは新政権成立の宣言を意味するものであった。新政権はその後3年にわたり,京都の朝廷から独立した国家として東国を支配した。しかしその反面,頼朝は当初からひそかに後白河法皇と提携していたのであり,したがって83年(寿永2)平氏が都落ちし,法皇の院政が機能を回復すると,法皇と頼朝との妥協は急速に進み,朝廷から東国支配権を正式に承認されることを代償に,京都から独立していた東国国家は解消し,朝廷の支配下に入った。85年(文治1)平氏は滅亡したが,頼朝・義経兄弟は不和となり,義経が法皇から頼朝追討の宣旨を得たのを契機に,頼朝は朝廷に迫って守護・地頭の設置を承認させた。義経は奥州藤原氏を頼ったが,89年藤原泰衡は,頼朝の圧力に屈して義経を討ち,その泰衡も頼朝に滅ぼされた。翌90年(建久1)頼朝は上洛して法皇と対面し,日本国惣追捕使・総地頭の地位を確認され,御家人を率いて諸国守護(日本国全体の軍事・警察)を担当することになった。さらに92年には頼朝は征夷大将軍に任命された。初期の幕府の政治機関には,侍所のほか,公文所(くもんじよ)(のち政所(まんどころ)と改称),問注所があったが,これらの機関のわくを超えて鎌倉殿(将軍)頼朝の独裁が強く作用していた。地方では京都に京都守護,九州に鎮西(ちんぜい)奉行,藤原氏滅亡後の奥州に奥州総奉行を置いた。
幕府の成立時期については,(1)92年の頼朝の征夷大将軍就任に求める伝統的見解は,今はほとんど支持されておらず,(2)80年の東国における独立国家の成立,(3)83年の〈寿永二年十月宣旨〉による東国支配権の公認,(4)85年の守護・地頭設置の勅許,(5)90年の日本国惣追捕使の地位確認,諸国守護権の付与,などの時期に求める諸説がある。このように説が分かれるのは,幕府の本質をどうとらえるかという視角の違いによるのであるから,一つの学説だけを正しいと断定することはできない。
頼朝の死後は子の頼家があとを継いだが,1203年(建仁3)北条時政は頼家を退け,その弟の実朝を鎌倉殿に擁立し,時政みずからは政所別当として執権を称し,ここに執権政治が発足した。時政の子の義時以後は,政所別当に加えて侍所別当までも北条氏が独占的に世襲した。19年(承久1)実朝が暗殺されて源氏が絶えると,幕府は摂関家から頼朝の遠縁にあたる九条頼経を迎えて鎌倉殿としたが(摂家将軍),実朝も頼経も名目だけの鎌倉殿で,頼朝の未亡人である北条政子が実質的な鎌倉殿として,弟の執権義時とともに幕府の実権を握った。21年後鳥羽上皇は承久の乱をおこして討幕を図ったが,敗れて隠岐に流され,この結果,幕府の勢力は飛躍的に向上した。乱後,幕府は京都守護の代りに六波羅探題を置き,京都の警備,朝廷の監視,西国の政務などに当たらせた。25年(嘉禄1)政子が没すると,執権北条泰時は政治改革を行い,独裁政治から合議政治への転換を試み,ここに執権政治は全盛期を迎えた。執権は複数となり(1名がいわゆる連署),評定衆が置かれ,32年(貞永1)には最初の武家法典である《御成敗式目》が制定され,裁判の公正が図られた。
泰時の孫の時頼のころから,北条氏の家督である得宗と,その家臣である御内人(みうちびと)による得宗専制政治が始まった。得宗で執権である時頼は,46年(寛元4)陰謀を理由に前将軍九条頼経を京都に追い,当時京都で権勢を振るっていた頼経の父の前摂政道家を失脚させただけでなく,これを契機に朝廷の政務への干渉を強め,〈治天の君〉(政治の実権を握る上皇,ときには天皇)や天皇を選定する権限までも掌握した。74年(文永11),81年(弘安4)の両度のモンゴル襲来にあたり,幕府は戦いの全般を指導し,朝廷が伝統的に保持してきた外交権をも奪って,独断で強硬な外交政策を打ち出し,また前例を破って,本所領から兵糧米を徴発したり,非御家人までも動員したりした。こうして得宗専制は,朝廷・貴族・社寺への強圧としてあらわれたが,他方では御家人の支持を得る必要から,49年(建長1)引付(ひきつけ)を新設して裁判の公正・迅速を図るなど,御家人保護の政策をとった。この間,幕府政治の性格は変わりつつあった。52年には頼経の子の将軍頼嗣も京都に追放され,後嵯峨上皇の皇子の宗尊親王が鎌倉殿として迎えられた。こうして摂家将軍にかわり親王将軍が登場したが,その結果,鎌倉殿はいっそう名目的なものとなった。得宗が一部の要人や御内人を集めて行う私的な寄合(よりあい)が,評定衆の正式の評議にかわって実質的な政務審議機関となり,評定衆は形骸化し,公的な執権よりも私的な得宗の地位の方が,政治上は重要となった。得宗専制の強化に伴い,得宗や御内人に対する御家人の不満は強まったが,85年の弘安合戦では,御家人の期待をになった安達泰盛をはじめ,多数の御家人が滅ぼされ,ここに御家人に対する得宗の専制が確立した。
貨幣経済の発達する中で,御家人の困窮は進んだが,モンゴル襲来による戦費の負担はそれに拍車をかけ,所領を喪失する御家人が増加した。97年(永仁5)幕府は徳政令を出して御家人の所領の売買・質入れを禁じ,すでに売却・質入れした所領を無償で取り戻させた(永仁の徳政)。この法令は御家人の救済を図る一方,御家人たちがその所領に対してもっていた自由な処分権を制限し,幕府が統制を強めようとしたものであり,やはり得宗専制強化の一環であった。しかしこのような政策も御家人を救済することができず,得宗専制に対する御家人の反発に加えて,惣領制の解体,守護の強大化,悪党の横行など,幕府の支配体制を動揺させる動きは強まった。一方,〈治天の君〉や天皇の選定に関する幕府の干渉は,持明院統・大覚寺統の対立を激化させ,両統は互いに幕府に働きかけて自派の有利を図った。大覚寺統の後醍醐天皇は幕府の干渉に不満を抱き,幕府打倒の計画を進めた。1324年(正中1)には計画が漏れて失敗し(正中の変),31年(元弘1)にも計画が漏れ,天皇は隠岐に流されたが(元弘の乱),討幕の兵が各地で蜂起し,33年にはついに幕府を滅ぼした。
幕府の性格
鎌倉幕府は王朝国家を否定したものではなく,なお旧国家体制やその基盤が強固な状態で成立していた。したがって幕府はすべての武士を組織することができず,幕府が組織した御家人も,荘園制下の職(しき)を知行するのみで,土地・人民に対する一元的支配を完成していなかったし,その職の任免権も本所・領家が掌握している場合が多かった。頼朝挙兵後3年間の東国独立国家の期間を除けば,幕府はその存在を朝廷によって保障されていたのであり,朝廷の下で日本国を守護する諸国守護の機能を果たしていたのである。種々の点から見て幕府は権門(有力貴族)の性格をそなえている。その経済的基礎は一般権門と同様に知行国と荘園(関東御領)である。政所などの幕府機関は権門の家政機関の模倣である。軍事的基礎としての主従結合にしても,権門諸家にも見られるところである。
不入権に代表されるように,荘園領主の家政的な支配権は強く,幕府はその内部に干渉できなかったが,在地領主である御家人の領主権も,幕府権力に対する独立性が強かった。したがって幕府と御家人との主従結合は,ルーズな性格のものであった。しかしその主従結合にはユニークな特性が認められる。従者たる御家人は将軍家領である関東御領の武士だけでなく,全国的に多数の武士が荘園のわくを超えて組織されている。またその主従結合は,幕府を自衛するだけでなく,ひろく諸国守護を担当している。御家人を守護・地頭などに任命するのも,実は鎌倉殿の統率下に,御家人が諸国守護を分担するためなのである。一権門としての性格をもつ幕府は,他面,諸国守護という国家的機能によって,権門の域を超えて公権力たりえたのである。
幕府の性格を考える場合,主従結合とともに領域的支配の面をも忘れてはならない。鎌倉殿と御家人との主従結合は人的結合であっても,御家人は守護を通じて国ごとに編成されていた。このことは,幕府が旧来の地方行政機構である国衙を支配していたことを前提とする。幕府は朝廷から国衙支配権を移譲され,その機能を吸収したのである。国衙に対する幕府の支配は,東国においてはとくに強く,東国での幕府は領域的支配を実現しており,本所間の相論を裁決しうるような高次の権力であった。このような東国支配権は,1183年の〈寿永二年十月宣旨〉によって朝廷から公認されたものであるが,さかのぼって考えると,80年以来3年にわたる東国の独立こそが,幕府の東国支配権の淵源だったのである。
幕府が朝廷によって存在を保障されているという原則は,幕府の滅亡にいたるまでかわりがない。しかし実際は,承久の乱後,幕府は朝廷の権限をしだいに奪い,得宗専制期においては〈治天の君〉の選定権までも掌握し,朝廷の政務への干渉を強めた。また荘園領主の領主権,御家人ら在地領主の領主権にも干渉を加え,幕府への集権を進めていった。一方,このような干渉への反発も強く,それは幕府滅亡の要因ともなった。
→鎌倉時代 →執権政治 →東国 →得宗
執筆者:上横手 雅敬