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守護(シュゴ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

守護しゅごみ)シュゴ

デジタル大辞泉だいじせん守護しゅご」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

しゅ‐ご【守護しゅご

(スル)
まもること。「国家こっか守護しゅごする」
鎌倉かまくら幕府ばくふ室町むろまち幕府ばくふ職名しょくめい文治ぶんじ元年がんねん(1185)みなもと頼朝よりとも勅許ちょっきょこくごとに有力ゆうりょく御家人ごけにん任命にんめいして設置せっち軍事ぐんじ警察けいさつけん中心ちゅうしんに、諸国しょこく治安ちあん警備けいびたった。室町むろまち時代ときよいたり、しだいに領国りょうごく支配しはいすすめ、守護しゅご大名だいみょうとよばれるようになった。守護しゅごしょく。すご。
[類語るいご](1保護ほごまもひさしかば擁護ようご庇護ひごひご防護ぼうごガード警護けいご警衛けいえい護衛ごえい弁護べんごかば

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精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん守護しゅご」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

しゅ‐ご【守護しゅご

  1. 名詞めいし
  2. ( ━する ) まもること。まもり。警護けいご守備しゅび。また、まもりがみ。守護神しゅごじん
    1. [初出しょしゅつ実例じつれい]「禅師ぜんじきて、いちたびはあやしび、いちたびはよろこび、てん守護しゅごなることをり、しかしてかれ(そ)さかなしょくふ」(出典しゅってん日本にっぽん霊異れいい(810‐824)した)
    2. いん御所ごしょほうじゅうてら殿どの守護しゅごしまゐらせこうふべし」(出典しゅってん平家ひらか物語ものがたり(13Cまえ)
    3. [その文献ぶんけん]〔すすむしょまご綽伝〕
  3. 鎌倉かまくら室町むろまち時代じだい職名しょくめい文治ぶんじ元年がんねんいちいちはち)、みなもと頼朝よりとも朝廷ちょうてい奏請そうせいして諸国しょこく設置せっちし、大番おおばん(おおばん)督促とくそく謀叛ぼうほんじん殺害さつがいじん盗賊とうぞくけんだんなどにたらせたもの。のち、一般いっぱん治安ちあん維持いじをもおこない、社寺しゃじ駅路えきろまりにもたった。当初とうしょ国司こくし公事こうじおよび荘園しょうえんところつとむとは関係かんけいしなかったが、次第しだいにこれを干犯かんぱんし、室町むろまち時代じだいには強大きょうだい守護しゅご大名だいみょうとなった。守護しゅごしょく守護しゅごしょ。すご。
    1. [初出しょしゅつ実例じつれい]「これれいとまとめまんざつ公事こうじ守護しゅごしょやくいちもの也」(出典しゅってん阿彌陀あみだ文書ぶんしょ‐(年月日ねんがっぴしょう)(鎌倉かまくらはつそうじゅうげん起請文きしょうもん)
    2. 諸国しょこく守護しゅごき、庄園しょうえん地頭じとう(ふ)せらる」(出典しゅってん平家ひらか物語ものがたり(13Cまえいち)
  4. ある地域ちいき支配しはいしているもの大名だいみょう統治とうちしゃ総督そうとく長官ちょうかんたむろまもるまもちょうなど。
    1. [初出しょしゅつ実例じつれい]「ぽんしょぴらとがしゅごなるじだいに」(出典しゅってん:どちりなきりしたん(いちろく〇〇年版ねんばん)(1600)ろく)

す‐ご【守護しゅご

  1. 名詞めいししゅご(守護しゅご
    1. [初出しょしゅつ実例じつれい]「きうだちにすまもせられまゐらせこうて、なんもなくこれまでつきてこうごと」(出典しゅってん日蓮にちれん遺文いぶん波木井はきい殿御とのごほう(1282))

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百科ひゃっか事典じてんマイペディア守護しゅご」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

守護しゅご【しゅご】

鎌倉かまくら室町むろまちりょう幕府ばくふ職名しょくめい。1185ねんみなもと頼朝よりとも直接ちょくせつにはおとうと義経よしつねつい(ついぶ)を目的もくてきとして勅許ちょっきょのち設置せっちしたもので,当時とうじそう(そう)つい使つかいばれたとするせつがあるが,呼称こしょう成立せいりつ時期じきについては諸説しょせつがある。こくごとに1人ひとり原則げんそくとし,大番おおばん催促さいそく大番おおばんやく催促さいそく),謀叛ぼうほん(むほん)にん殺害さつがいじん逮捕たいほ主要しゅよう任務にんむとし,これらはだいはん(だいぼん)さん箇条かじょうしょうされた。鎌倉かまくら末期まっきには全国ぜんこく守護しゅごしょく(しき)のなかばを北条ほうじょう一門いちもんめた。室町むろまち時代じだいには,かずこく守護しゅごしょくをもつ有力ゆうりょく守護しゅご幕府ばくふうごかすようになり,みずか領主りょうしゅして守護しゅご大名だいみょう変質へんしつしていった。→地頭じとう守護しゅごしょ守護しゅご守護しゅご領国りょうごくせい
関連かんれん項目こうもく赤松あかまつ政則まさのり朝倉あさくらたかしけい尼子あまこ晴久はるひさいちたに墳墓ふんぼぐん今川いまがわ上杉うえすぎ憲顕のりあき宇都宮うつのみや小田おだしろ加賀かが一向いっこう一揆いっき柏木かしわぎ御厨みくりや春日かすが山城やましろ鎌倉かまくら幕府ばくふ鎌倉かまくら河口かこうそうすすむのう使菊池きくち岐阜ぎふじょう京都きょうと大番おおばんやく公事こうじ楠木くすのき正儀まさよし忽那くつなくに地頭じとうくにしゅくに奉行ぶぎょうけんだんたてたけし以来いらい追加ついか高師冬こうのもろふゆ高師泰こうのもろやすおん奉公ほうこう国衙こくがりょう国司こくし佐々木ささき定綱さだつなすずめ岐荘ちょくつとむ使節しせつ遵行倭文しずそう渋川しぶかわみつるよりゆき島津しまつ忠久ただひさ守護しゅごだい遵行じょう菅原すがわらそうそうおい使つかい杣山そまやまじょう高屋たかやしろたきぎそう千葉ちば常胤つねたねつい使つかい東郷とうごうそう富樫とかし富樫とかしまさしおや富永とみながそう西津にしづそう日本にっぽん畠山はたけやま政長まさなが畠山はたけやま満家みついえ半済はんせいへい粮米平井ひらいしろ府中ふちゅう北条ほうじょう貞時さだとき放生津ほうじょうづ細川ほそかわだかこく細川ほそかわはるもと細川ほそかわまさしもと南部なんぶそう

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日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)守護しゅご」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

守護しゅご
しゅご

日本にっぽん中世ちゅうせいこくごとにかれて軍事ぐんじ行政ぎょうせい統轄とうかつした武士ぶしまたはその機構きこう国衙こくが(こくが)または国内こくない鎮護ちんごするという意味いみから守護しゅごじんまたは守護しゅご守護しゅごしょく(しき)などとよばれた。

義江よしえ彰夫あきお

守護しゅご源流げんりゅう

江戸えど時代じだい以来いらい守護しゅご創設そうせつ時期じき鎌倉かまくら幕府ばくふ草創そうそうかんがえられてきたが、近年きんねん平安へいあん時代じだい諸国しょこく軍制ぐんせい構造こうぞう歴史れきし解明かいめいされるにともなって、平安へいあん時代じだい末期まっきにすでにその萌芽ほうが(ほうが)がしょうじていたことがしだいにあきらかになってきた。すなわち、諸国しょこく有力ゆうりょく武士ぶし在庁ざいちょうかんじん地位ちいかいして国内こくない中小ちゅうしょう武士ぶし従者じゅうしゃ編成へんせいするようになる平安へいあん時代じだい末期まっき状況じょうきょう背景はいけいにして、12世紀せいきなかばのもと(ほうげん)・平治へいじ(へいじ)のらん以降いこう朝廷ちょうてい諸国しょこく国内こくない兵力へいりょく動員どういん頻繁ひんぱん要請ようせいされるようになった。国守こくしゅ(こくしゅ)のなかに、これらの有力ゆうりょく武士ぶしのなかからしかるべきものくに(くに)守護しゅごじん地位ちいあたえ、国衙こくがないかれ常駐じょうちゅうする場所ばしょ守護しゅごしょ(しょ)とよびながら、従者じゅうしゃ家人かじん(けにん)となった武士ぶしかくとしつつ、国内こくない武士ぶし動員どういんけん国衙こくが国内こくない鎮護ちんごおこなわせるものあらわれてきた。したがって、この時期じき守護しゅごじん国守こくしゅ判断はんだんくに条件じょうけんしたがって任意にんいかれたものであり、国家こっかてき一律いちりつ制度せいどでもなく、設置せっち有無うむ権限けんげん内容ないようもさまざまであったとかんがえられる。

義江よしえ彰夫あきお

鎌倉かまくら幕府ばくふ守護しゅご制度せいど

鎌倉かまくら幕府ばくふ守護しゅごは、以上いじょう歴史れきしてき前提ぜんていとし、この国衙こくが守護しゅごじん必要ひつようおうじて編入へんにゅうし、みなもと頼朝よりとも(よりとも)の主要しゅよう御家人ごけにん(ごけにん)をあらたにおぎなえおけするというかたちで、全国ぜんこくいちりつ国家こっか制度せいどとして成立せいりつした。すなわち、頼朝よりともは1180ねんうけたまわ4)の挙兵きょへい直後ちょくごから、旧来きゅうらい国司こくし(こくし)とは別個べっこ武家ぶけ棟梁とうりょう(とうりょう)としての資格しかく守護しゅごじん安堵あんど(あんど)や補任ほにん(ぶにん)を東国とうごくから開始かいしし、平家ひらか追討ついとう勅許ちょっきょ西国さいこく進出しんしゅつする1184ねんもとこよみ1)ごろには、追討ついとう名目めいもくとするそうおい使つかい(そうついぶし)の朝廷ちょうてい了解りょうかいをとりながら、各国かっこく次々つぎつぎ守護しゅご安堵あんど補任ほにんした。平家ひらか滅亡めつぼうの1185ねん文治ぶんじ1)11月には、源義経みなもとのよしつね(よしつね)ついのために上洛じょうらく(じょうらく)させた北条ほうじょう時政ときまさ(ときまさ)を代理人だいりにんとしてのち白河しらかわ(ごしらかわ)いん交渉こうしょうさせ、いわゆる文治ぶんじ(ぶんじ)勅許ちょっきょ一環いっかんとして、地頭じとう(じとう)・へい粮米(ひょうろうまい)などとあわせて、守護しゅごそうおい使つかい)を朝廷ちょうてい公認こうにん全国ぜんこくいちりつ制度せいどとして幕府ばくふこくごとに設置せっちすることをみとめさせた。

 このいわゆる文治ぶんじ守護しゅご勅許ちょっきょ内容ないようについては、地頭じとう勅許ちょっきょとともにふるくからなが論争ろんそう歴史れきしがある。恒久こうきゅうてき制度せいど樹立じゅりつとみるか義経よしつね追討ついとうまでのゆう期限きげんのものとみるか、当時とうじから守護しゅごとよばれていたか当時とうじそうおい使つかいとよばれ義経よしつね追討ついとう守護しゅごをもつようになったのか、のちにだいはん(だいぼん)さん箇条かじょうとよばれる職務しょくむはこの時点じてん成立せいりつしていたのかややであるのか、おなじく勅許ちょっきょされた地頭じとうへい粮米徴収ちょうしゅうとの権限けんげん関係かんけいはどうなっていたかなどなど、諸説しょせつ対立たいりつ解決かいけつをみていない。しかし、これらの対立たいりつてんにもかかわらず、論争ろんそうのなかから、現在げんざいすくなくとも、文治ぶんじ勅許ちょっきょによって守護しゅご国家こっかてき制度せいどとなり、幕府ばくふこくごとにおぎなえおけして、国内こくない武士ぶし御家人ごけにんとして軍事ぐんじ動員どういんさせる体制たいせいをつくりだしたことは、うたがいない史実しじつとしてみとめられるようになった。なお守護しゅごそうおい使つかいゆびしょう関係かんけいは、最近さいきん前述ぜんじゅつのように前者ぜんしゃ朝廷ちょうていけ、後者こうしゃ実態じったいゆびしょうかんがえて、当初とうしょから併存へいそんしていたとみるとらえかたみとめられるようになり、恒久こうきゅうてきかについても、朝廷ちょうていけには義経よしつねついまでとしながら、幕府ばくふ自身じしん恒久こうきゅうけて整備せいびしていったとかんがえられるようになっている。

 したがって、1189ねん文治ぶんじ5)義経よしつね追討ついとうふく奥州おうしゅう征伐せいばつ完了かんりょうによって、朝廷ちょうてい幕府ばくふあいだには守護しゅご存否そんぴをめぐって確執かくしつしょうじた。しかし、結局けっきょく既成きせい事実じじつのうえに存続そんぞく主張しゅちょうする頼朝よりとも上洛じょうらくによって、恒常こうじょうてき制度せいどとし定着ていちゃくすることとなり、以後いご急速きゅうそく守護しゅご職務しょくむ平時へいじ鎮護ちんごにふさわしいかたちととのえられ、国内こくない御家人ごけにん(おもに地頭じとう)を動員どういんして、だいはんさん箇条かじょう、すなわち京都きょうと内裏だいり(だいり)・だい内裏だいり大番おおばんやく(おおばんやく)、謀叛ぼうほん(むほん)にん殺害さつがいじん逮捕たいほ固有こゆう課題かだいとしてになうこととなった。

義江よしえ彰夫あきお

守護しゅご発展はってん

以上いじょうてんからみて、鎌倉かまくら幕府ばくふ守護しゅごは、軍事ぐんじ検察けんさつ分野ぶんや掌握しょうあくする公権力こうけんりょくとしての鎌倉かまくら幕府ばくふ意志いし諸国しょこくのレベルで具体ぐたいする軍事ぐんじ行政ぎょうせいかんであり、それゆえに、一般いっぱん行政ぎょうせい依然いぜん朝廷ちょうてい任命にんめいする国司こくしになわれ、また当該とうがい検察けんさつ分野ぶんやかぎっても、だいはんさん箇条かじょう以外いがい軽微けいび問題もんだい国衙こくが荘園しょうえん(しょうえん)の検非違使けびいし(けびいし)などのになうところであり、一般いっぱんにはこれらのしょ分野ぶんや守護しゅご介入かいにゅうすることは、朝廷ちょうていのみならず幕府ばくふによってもきんじられ、またその方向ほうこう制約せいやくするために、可能かのうかぎかんこく固定こてい世襲せしゅうはいして頻繁ひんぱん交替こうたいさせるよう配慮はいりょされた。しかし、他面ためん守護しゅごとなった有力ゆうりょく武士ぶしみずからは、だいはんさん箇条かじょうをてことして軽微けいび検察けんさつ分野ぶんや一般いっぱん行政ぎょうせい分野ぶんやをも積極せっきょくてき組織そしきする傾向けいこう一貫いっかんしてしめし、可能かのうかぎ世襲せしゅうみちをたどるようになっていった。鎌倉かまくら時代じだい末期まっき北条ほうじょうによる諸国しょこく守護しゅごしょく独占どくせんはこのうごきにたいする反撃はんげき対応たいおうであったが、かえってこれは以後いご守護しゅご自立じりつ刺激しげきした。

 南北なんぼくあさ時代じだいはいると幕府ばくふみずからまず刈田かりた狼藉ろうぜき(かりたろうぜき)・使節しせつ遵行(しせつじゅんぎょう)のけん守護しゅごあたえ、おさむ裁判さいばんけん一部いちぶをわがものにするとともに、しだいに国内こくないの闕所(けっしょ)となった所領しょりょう自由じゆう処分しょぶんけん(闕所あてぎょう(あてがい)けん)、定量ていりょう収納しゅうのうえに所領しょりょう実質じっしつてき支配しはいけん獲得かくとく意味いみする守護しゅご請(うけ)、所領しょりょう収納しゅうのうぶつ半分はんぶんれる半済はんせい(はんぜい)などの権限けんげんをもあたえて、このあいだ没落ぼつらくした国衙こくが機能きのう吸収きゅうしゅう背景はいけいに、おさむ裁判さいばんけんふく広範こうはん行政ぎょうせいけん樹立じゅりつへのみちひらいた。この結果けっか守護しゅごはしだいに守護しゅご大名だいみょうとよばれて幕府ばくふ職員しょくいんとしてのわくからはみ存在そんざいになった。やがて守護しゅご大名だいみょうは、地域ちいき社会しゃかい構造こうぞうてき変容へんようのなかで一揆いっき(いっき)をむす中小ちゅうしょう武士ぶし強力きょうりょく組織そしきした戦国せんごく大名だいみょう発展はってんてき解消かいしょうされる。これら戦国せんごく大名だいみょうきそって守護しゅごのったことは、鎌倉かまくら幕府ばくふ以来いらい守護しゅごのなかに、軍事ぐんじをてことしていちこく掌握しょうあくするという中世ちゅうせいつらぬ地域ちいき権力けんりょく基本きほんてき性格せいかくそなわっていたからにほかならない。その意味いみ守護しゅご日本にっぽん中世ちゅうせい地域ちいき権力けんりょくのありかた典型てんけいてきしめすものということができる。

義江よしえ彰夫あきお

三浦みうらしゅうこうちょぞく法制ほうせい研究けんきゅう』(1924・岩波書店いわなみしょてん)』まき健二けんじちょ日本にっぽん封建ほうけん制度せいど成立せいりつ』(1935・弘文こうぶんどう)』佐藤さとう進一しんいちちょぞうてい鎌倉かまくら幕府ばくふ守護しゅご制度せいど研究けんきゅう』(1971・東京とうきょう大学だいがく出版しゅっぱんかい)』石井いしい良助りょうすけちょ増補ぞうほ大化たいか改新かいしん鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつ』(1972・そうぶんしゃ)』せき幸彦さちひこちょ国衙こくが機構きこう研究けんきゅう 「ざい国司こくししょく研究けんきゅう序説じょせつ』(1984・吉川弘文館よしかわこうぶんかん)』今谷いまたにあきら藤枝ふじえだ文忠ふみただへん室町むろまち幕府ばくふ守護しゅごしょく事典じてん上下じょうげ(1988・新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ)』


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改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん守護しゅご」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

守護しゅご (しゅご)

鎌倉かまくら時代じだい以後いごいちこくごとに設置せっちされた武家ぶけ軍事ぐんじてき行政ぎょうせいかん守護しゅごじん守護しゅご奉行ぶぎょうしょく守護しゅご奉行ぶぎょうじんともばれる。守護しゅご前史ぜんしはまだ十分じゅうぶん解明かいめいされていない。近年きんねん研究けんきゅうでは平安へいあん中期ちゅうき以降いこう諸国しょこくにおいて,有力ゆうりょく在庁ざいちょうかんじんとなっただい武士ぶしが〈くにへい(つわもの)〉とばれる群小ぐんしょう武士ぶし随時ずいじ統率とうそつするかたち軍制ぐんせい形成けいせいしてくることがあきらかになっており,最近さいきんでは,この軍制ぐんせい平安へいあん末期まっきには全体ぜんたいとして主従しゅうじゅうせいてき性格せいかくいものとなり,その統率とうそつしゃくに(くに)守護しゅごじんばれはじめた可能かのうせいたかいことが指摘してきされている。

鎌倉かまくら幕府ばくふ守護しゅご制度せいどは,この前史ぜんしのうえに12世紀せいきの80-90年代ねんだいすなわち幕府ばくふ草創そうそう時代じだい成立せいりつする。この守護しゅご制度せいど成立せいりつについてはふるくから諸説しょせつかれ,(1)ゆびしょう成立せいりつ時期じきかんしそうおい使守護しゅごどういち実体じったいで,ともに1185ねん文治ぶんじ1)勅許ちょっきょ成立せいりつしたとせつ,85ねん勅許ちょっきょではそうおい使つかいとして登場とうじょうし,たてひさ年間ねんかん(1190-99)に守護しゅごえられたとするせつなどがあり,(2)設置せっち目的もくてき範囲はんいについても,(1)との関連かんれんで,源義経みなもとのよしつね追討ついとう恒久こうきゅうてき諸国しょこく治安ちあん維持いじ一般いっぱんのいずれを重視じゅうしするか,また特定とくてい地域ちいきであるか全国ぜんこくてきであるかなど,学説がくせつ一定いっていせず,さらに(3)職務しょくむ内容ないようについても,だいはん(だいぼん)さん箇条かじょうへい粮米徴集ちょうしゅうしょうこう下職したしょく進退しんたいなどをめぐり,(1)(2)とからみながら種々しゅじゅ解釈かいしゃく提出ていしゅつされている。いまこれらのしょ見解けんかい対立たいりつ全面ぜんめんてき解決かいけつすることは不可能ふかのうであるが,しょ研究けんきゅう確実かくじつになったてん基礎きそ若干じゃっかん私見しけんくわえて見通みとおすと,すでに頼朝よりともは1180ねんうけたまわ4)の挙兵きょへい直後ちょくごから,おそらく前述ぜんじゅつ国守くにもりまもるじん土台どだいとして,守護しゅごじん平家ひらか追討ついとう国々くにぐに反逆はんぎゃく予防よぼう治安ちあんのために承認しょうにんないししんおけしていたが,平家ひらか追討ついとう完了かんりょうの85ねん11月,このいちこく軍事ぐんじてき統率とうそつして鎮護ちんごする守護しゅごじんを,そうおい使つかいという公式こうしきゆびしょうで,朝敵ちょうてきとなった義経よしつねを討滅する手段しゅだんという大義名分たいぎめいぶんをもって,地頭じとうしょくとだきあわせで全国ぜんこくてき設置せっちすることを朝廷ちょうていにせまり,勅許ちょっきょされた。この時期じきそうおい使つかい職権しょっけん戦時せんじ大権たいけんとして,謀反むほんじん義経よしつね追討ついとう固有こゆうかくとしてへい粮米徴集ちょうしゅうしょうこう下職したしょく指揮しきけんをもふくひろいものであったが,89ねん義経よしつね追討ついとう終了しゅうりょう以後いご平時へいじふくするなかで,鎌倉かまくら時代じだいつうじて存続そんぞくする守護しゅご制度せいど体制たいせいへと順次じゅんじてんがたし,平時へいじにふさわしい守護しゅごゆびしょうとしても公私こうしわず使つかわれることとなった。

ここに成立せいりつした鎌倉かまくら幕府ばくふ守護しゅご職務しょくむ内容ないようは,いちこくごとに幕府ばくふ御家人ごけにん動員どういんして,国家こっか反逆はんぎゃくしゃ謀反むほんじん)の追討ついとう重刑じゅうけい事犯じはん殺害さつがいじんとう)の捜索そうさく逮捕たいほ朝廷ちょうていまたは幕府ばくふ警固けいご内裏だいり大番おおばんやく鎌倉かまくらばんやく)など(だいはんさん箇条かじょう)にたることであり,軍事ぐんじ検察けんさつ枢要すうよう部分ぶぶん戦時せんじ平時へいじともに独占どくせんすることを意味いみした。したがって,まず,朝廷ちょうてい荘園しょうえん領主りょうしゅとの関係かんけいからこれを裏返うらがえせば,租税そぜいおさむ交通こうつう支配しはい寺社じしゃ統轄とうかつ訴訟そしょう一般いっぱん軽微けいび検察けんさつなどは,東国とうごく関東かんとうぶんこくにおける国司こくし代官だいかんくに奉行ぶぎょうじん)をねるかたちでの関与かんよや,西国さいこくをもふく軍事ぐんじ検察けんさつ行政ぎょうせい遂行すいこうのための一定いってい干渉かんしょうべつとすれば,基本きほんてきには依然いぜん国司こくし荘園しょうえん領主りょうしゅになうべきものであり,それへの無制限むせいげん介入かいにゅう朝廷ちょうてい幕府ばくふによって禁止きんしされており,全体ぜんたいとして軍事ぐんじ検察けんさつというかぎられた分野ぶんや行政ぎょうせいかんでしかなかった。だい2に幕府ばくふとの関係かんけいからると,上記じょうきのような守護しゅごは,朝廷ちょうていからゆだねられて軍事ぐんじ検察けんさつ分野ぶんや組織そしきするいち中世ちゅうせい公権力こうけんりょくとしての幕府ばくふを,こくごとにささ分掌ぶんしょうするものにほかならなかったが,それだけに幕府ばくふからは,守護しゅごがその職務しょくむをてことしてこくごとに自立じりつすることのないよう,つよさえられていた。鎌倉かまくら時代じだいとおして父子ふしだい同一どういつこく守護しゅご世襲せしゅうしたれい比較的ひかくてきすくなく,種々しゅじゅ口実こうじつ頻繁ひんぱん更迭こうてつされたことや,守護しゅごかんこく行政ぎょうせい通常つうじょうだいはんさん箇条かじょう限定げんていされていたことなどは,幕府ばくふ固有こゆう意図いとかられば守護しゅご自立じりつ抑制よくせいする手段しゅだんにほかならなかった。だい3に国内こくない武士ぶし領主りょうしゅ一般いっぱんとの関係かんけいから守護しゅごると,それはいちこくごとに地方ちほう武士ぶし糾合きゅうごうしようとする平安へいあん時代じだいいらいの地方ちほうだい武士ぶし有力ゆうりょく在庁ざいちょうかんじん)のうごきを前提ぜんていとし,それを幕府ばくふ諸国しょこく軍事ぐんじ検察けんさつ機構きこうというかたち制度せいどしたものにほかならないから,いちめん上述じょうじゅつのようにだい武士ぶし自身じしん自立じりつせい喪失そうしつ意味いみしたが,他面ためんそれとひきかえに国内こくない武士ぶし領主りょうしゅそう武力ぶりょくをてことする所領しょりょう支配しはいをすすめるうえで,国家こっか権力けんりょくとしての幕府ばくふささえられたいちこく規模きぼ強大きょうだい武力ぶりょくうしろだてがしょうじたことを意味いみした。しかし,同時どうじ守護しゅごは,地方ちほう武士ぶし領主りょうしゅ一般いっぱん組織そしきするというてんからすれば,きわめて制約せいやくされた段階だんかいにあったことは否定ひていできない。当時とうじ幕府ばくふ御家人ごけにんとならない御家人ごけにん武士ぶしすくなからず存在そんざいし,かれらはしたがって守護しゅご統轄とうかつはいらないタイプの武士ぶし領主りょうしゅであったし,また御家人ごけにん御家人ごけにんわず一般いっぱん国衙こくが朝廷ちょうてい)・荘園しょうえん行政ぎょうせい関与かんよし,それが現地げんち支配しはいのうえで依然いぜんとして独自どくじ意味いみっていたからである。

しかし,以上いじょうのような性格せいかく守護しゅご鎌倉かまくらまつ南北なんぼくあささかいおおきく変化へんかする。すなわち守護しゅご職務しょくむめんからその変化へんかると,南北なんぼくあさあいだ内裏だいり大番おおばんやく幕府ばくふばんやく消滅しょうめつし,かわってだいはんさん箇条かじょうえる行政ぎょうせいけんが,苅田かりた狼藉ろうぜき(かりたろうぜき)取締とりしまり(田地でんち紛争ふんそう取締とりしまり),使節しせつ遵行(判決はんけつ遂行すいこう),半済はんせい(はんぜい)(荘園しょうえん年貢ねんぐ半分はんぶん武士ぶしへの分配ぶんぱい)などのかたち順次じゅんじ室町むろまち幕府ばくふによってみとめられるようになった。この職権しょっけん拡大かくだい国衙こくがとの関係かんけいでいえば,在来ざいらい国衙こくが保持ほじしてきた行政ぎょうせい一般いっぱん守護しゅごのもとに吸引きゅういんする決定的けっていてきあしがかりとなり,以後いご各国かっこく一様いちよう国府こくふ守護しゅご全面ぜんめん統轄とうかつのもとにおかれ,また国衙こくが構成こうせいする種々しゅじゅの〈ところ〉が守護しゅご機構きこう吸収きゅうしゅうされてゆくようになった。つぎ幕府ばくふとの関係かんけいからると,この職権しょっけん拡大かくだいはいうまでもなく,すでに鎌倉かまくら時代じだい後期こうきからきざしていたかく守護しゅご幕府ばくふからの自立じりつ促進そくしんするてことなった。山陰さんいん山陽さんよう数ヵ国すうかこくりょうする山名やまな分断ぶんだんをねらった明徳めいとくらん(1391)や,周防すおう長門ながと豊後ぶんご和泉いずみなどをさえる大内おおうちったおうながらん(1399)などは,自立じりつ強大きょうだいする守護しゅごへの室町むろまち幕府ばくふ抑圧よくあつさくにほかならないが,長期ちょうきてきれば幕府ばくふ統御とうぎょ成功せいこうせず,室町むろまちから戦国せんごくにかけて守護しゅご世襲せしゅう確立かくりつし,幕府ばくふによる更迭こうてつ事実じじつじょう不可能ふかのうとなり,守護しゅご存立そんりつ守護しゅご自身じしん力量りきりょう周辺しゅうへん勢力せいりょくとのちから関係かんけい決定けっていすることとなった。

 以上いじょう守護しゅご国内こくない武士ぶし領主りょうしゅ一般いっぱんとの関係かんけいから見直みなおすと,すでに鎌倉かまくら後期こうきしょうじていた守護しゅご自立じりつ萌芽ほうがは,地域ちいき社会しゃかい武士ぶし領主りょうしゅそう国衙こくが荘園しょうえん縦割たてわ支配しはいにかわる地域ちいき統合とうごうもとめるうごきの芽生めばえをとらえ,それに対応たいおうしようとした結果けっかにほかならない。ただ,在来ざいらい上述じょうじゅつのような複雑ふくざつ荘園しょうえんおおやけりょう御家人ごけにん御家人ごけにん縦割たてわ支配しはいおこなわれていたなかでは,それは一挙いっきょ解消かいしょうされず,南北なんぼくあさ室町むろまち前期ぜんきには,旧来きゅうらい守護しゅごちから浸透しんとうしにくかった地域ちいきなどをかくとして,とう一揆いっきばれる武士ぶし領主りょうしゅそう自立じりつてき共和きょうわてき地域ちいきてき結合けつごう成立せいりつして守護しゅごかんこく統合とうごう対抗たいこうし,これを制約せいやくした。しかし,南北なんぼくあさ室町むろまち前期ぜんきあいだ守護しゅご一般いっぱんてき上述じょうじゅつ広範こうはんいちこく行政ぎょうせいけんれたことは,とう一揆いっきその圧倒あっとうして領国りょうごく統合とうごうする制度せいどてき前提ぜんていあたえた。ただこれらの職権しょっけん当初とうしょ段階だんかいでは,ふる国衙こくが荘園しょうえんてきしょ権限けんげん機能きのうあつめにすぎなかったから,15世紀せいき以降いこう畿内きないどう周辺しゅうへんそうむらし,諸国しょこく各地かくち地方ちほう都市とし発達はったつさせるような地域ちいき構造こうぞう変化へんかしょうじてくると,それに十分じゅうぶん対応たいおうできず,その結果けっか守護しゅごかんこく支配しはいとう一揆いっきをふまえ,展開てんかいする地域ちいき社会しゃかい内在ないざいてき統合とうごうすることが課題かだいとなった。これをたせない守護しゅご没落ぼつらくし,成功せいこうしたものは朝廷ちょうてい幕府ばくふにつらなるしょ職権しょっけんわくから事実じじつじょう完全かんぜん脱皮だっぴし,戦国せんごく大名だいみょう発展はってんしてゆくのであり,ここにおいて鎌倉かまくら以来いらい守護しゅご制度せいどてき生命せいめいじ,名称めいしょう存続そんぞくしても実体じったいてきには発展はってんてき解消かいしょうげたということができる。
戦国せんごく大名だいみょう →そうおい使つかい
執筆しっぴつしゃ

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ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん守護しゅご」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

守護しゅご
しゅご

鎌倉かまくら室町むろまち幕府ばくふ治安ちあん維持いじおよび武士ぶし統制とうせいのためにくに単位たんい設置せっちした地方ちほうかん文治ぶんじ1 (1185) ねんみなもと頼朝よりともおとうと義経よしつね探索たんさく目的もくてきとして諸国しょこく設置せっちすることを奏請そうせいして勅許ちょっきょたことにはじめる。その職務しょくむ権限けんげんは「だいはん (だいぼん) さん箇条かじょう」としょうされ,大番おおばん催促さいそく謀反むほんじんおよび殺害さつがいじんけんだんけんあたえられた (公家くげ本所ほんじょりょうないのものでもけんだんすることができた) 。鎮西ちんぜい (ちんぜい) の守護しゅご (→鎮西ちんぜい奉行ぶぎょう ) についてはくに守護しゅごにはみとめられない権限けんげん付与ふよされていた。守護しゅご選任せんにんにあたっては関東かんとう有力ゆうりょく御家人ごけにん任命にんめいされ,次第しだい世襲せしゅう傾向けいこうつよまったが,地域ちいきてき封建ほうけん関係かんけい発生はっせいするまでにはいたらず,鎌倉かまくら時代じだい末期まっきには北条ほうじょうとく宗家そうけ守護しゅごしょく兼併けんぺいおこなわれた。室町むろまち幕府ばくふ守護しゅごも,制度せいどとしては鎌倉かまくら幕府ばくふにならったものであったが,その権限けんげんははるかに拡大かくだい強化きょうかされ,やがて守護しゅご大名だいみょうへと変質へんしつしていった。そして半済はんせい (はんぜい) や守護しゅごなどの手段しゅだんによって荘園しょうえん侵略しんりゃくし,いちこく平均へいきんだんぜにむねべつぜにして守護しゅご領国りょうごくせい推進すいしんさせ,数ヵ国すうかこくにまたがる国々くにぐに守護しゅご兼任けんにんすることによって,室町むろまち幕府ばくふをも圧倒あっとうするほどの勢力せいりょくしめした。これら強大きょうだいになった守護しゅごたがいに対立たいりつ抗争こうそうするその頂点ちょうてん応仁おうにん文明ぶんめいらんである。かれらは下剋上げこくじょう風潮ふうちょうのなかで次第しだい分解ぶんかい没落ぼつらくみちをたどるが,辺境へんきょう地帯ちたいでは戦国せんごく大名だいみょうとして発展はってんしていった。

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山川やまかわ 日本にっぽんしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん守護しゅご」の解説かいせつ

守護しゅご
しゅご

鎌倉かまくら室町むろまちりょう幕府ばくふ職制しょくせいで,こくごとにおかれた軍事ぐんじ行政ぎょうせいかん。12世紀せいきまつ源平げんぺい争乱そうらん鎌倉かまくら幕府ばくふ草創そうそうみなもと頼朝よりとも状況じょうきょうおうじて有力ゆうりょく御家人ごけにんこくごとの軍事ぐんじ指揮しきかん指名しめいかれらは守護しゅごじんそうおい使つかい(そうついぶし)ともよばれた。1185ねん(文治ぶんじもと)まつ,この地位ちい朝廷ちょうてい公認こうにんされ,やがて全国ぜんこくてき統一とういつてき守護しゅご制度せいどとなった。「成敗せいばい式目しきもく」は守護しゅご職掌しょくしょうについて,大番おおばんやく御家人ごけにん指揮しき監督かんとく謀反むほんじん殺害さつがいじんなどのつい規定きてい国衙こくが(こくが)行政ぎょうせいへの関与かんよ土地とち住民じゅうみん支配しはいきんじている。しかし現実げんじつには,国衙こくが在庁ざいちょう指揮しきして大田おおたぶん(おおたぶみ)をつくらせたり,いちこく平均へいきんやく賦課ふか徴収ちょうしゅうおこなった。鎌倉かまくら末期まっきには守護しゅごしょくおおくを北条ほうじょう一門いちもんめるようになる。たてたけし政権せいけん室町むろまち幕府ばくふにも,その職制しょくせい継承けいしょうされた。南北なんぼくあさには守護しゅご交代こうたいつづくが,15世紀せいきになると畿内きない細川ほそかわ畠山はたけやま両氏りょうし東国とうごく上杉うえすぎぼうちょう大内おおうち九州きゅうしゅう島津しまつのように,守護しゅごいえかんこくがほぼ固定こてい同時どうじ守護しゅごいちこく行政ぎょうせいけん手中しゅちゅうおさめ,国内こくない武士ぶし被官ひかんし,領国りょうごく支配しはい確立かくりつしていく。かれらを守護しゅご大名だいみょうとよび,おおくは幕府ばくふ衰退すいたい運命うんめいをともにするが,領国りょうごく支配しはいをより強化きょうかして戦国せんごく大名だいみょうとなるものもいた。

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旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばん守護しゅご」の解説かいせつ

守護しゅご
しゅご

鎌倉かまくら室町むろまち幕府ばくふにおける職名しょくめい
1185ねんみなもと頼朝よりとも勅許ちょっきょ源義経みなもとのよしつねらのつい名目めいもくとしてこくごとに設置せっち有力ゆうりょく御家人ごけにん守護しゅごしょく任命にんめいされた。職権しょっけん大番おおばん催促さいそく謀反むほんじん殺害さつがいじんけんだんのいわゆるだいはん (だいぼん) さん箇条かじょうで,のちに種々しゅじゅ権限けんげん付加ふかされた。鎌倉かまくら末期まっきになると,国内こくない御家人ごけにん支配しはい強化きょうか荘園しょうえん侵略しんりゃくなどをすす強大きょうだいし,室町むろまち時代じだい守護しゅご大名だいみょうへと成長せいちょうした。

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普及ふきゅうばん どおり守護しゅご」のみ・字形じけい画数かくすう意味いみ

守護しゅご】しゆご

まもる。

どおりまもり」の項目こうもく

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうち守護しゅご言及げんきゅう

鎌倉かまくら】より

関東かんとうともいう。その政治せいじ組織そしきは,〈天子てんし代官だいかん〉たる鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかがのもとに関東かんとう管領かんりょう守護しゅご奉公ほうこうしゅ奉行ぶぎょうしゅからっていた。鎌倉かまくら公方くぼうは,任国にんごくない武士ぶしたいする軍事ぐんじ統率とうそつけん土地とち安堵あんどけんなど,そしてしょ寺社じしゃ住持じゅうじしょく補任ほにんけんや吹挙けんなどを保持ほじしたが,関東かんとう管領かんりょう任国にんごくない守護しゅご任免にんめんけん室町むろまち将軍しょうぐん保持ほじするところであった。…

すすむのう使】より

一方いっぽうみなもとがわでも84ねん(もとこよみ1)に源義仲みなもとのよしなかほろぼしたみなもと頼朝よりともは,それまで義仲よしなか支配しはいしていた北陸ほくりくどう諸国しょこくたいして,比企ひき朝宗ともむね鎌倉かまくら殿どのすすむのう使として派遣はけんしている。比企ひき朝宗ともむね鎌倉かまくら幕府ばくふ守護しゅご制度せいど整備せいびされるなかで,北陸ほくりくどう諸国しょこく守護しゅごとして活躍かつやくするようになるところからみて,この鎌倉かまくら殿どのすすむのう使がある意味いみでは鎌倉かまくら幕府ばくふ守護しゅご制度せいど源流げんりゅうをなすともかんがえられる。しかしながら,85ねん(文治ぶんじ1)11月におかれた鎌倉かまくら幕府ばくふくに地頭じとう(ないしそうおい使つかい)が,すすむのう使伝統でんとうをうけついで公然こうぜん国務こくむ干渉かんしょうしていたにもかかわらず,翌年よくねん3がつ北条ほうじょう時政ときまさ自分じぶんのもっている7ヵ国かこく地頭じとうしょく辞退じたいしてそうおい使つかいになるとこう白河しらかわ法皇ほうおうもうて,諸国しょこくすすむのうからをひいている。…

くに地頭じとう】より

…しかしへい粮米をめぐる現地げんち混乱こんらんがひどくなり,翌年よくねん3がつには北条ほうじょう時政ときまさ自分じぶんの7ヵ国かこく地頭じとうしょく辞退じたいこう白河しらかわいんもうそうおい使つかいになったのをはじめ,頼朝よりともへい粮米の徴収ちょうしゅう全面ぜんめんてき停止ていしし,さらに6がつには九州きゅうしゅうをのぞいて西国さいこく37ヵ国かこくで,平家ひらかぼつかんりょう謀反ぼうほんじん所帯じょたいあとをのぞいて地頭じとう権限けんげんをとどめ,武士ぶしたちによる田地たじ知行ともゆきなどの濫妨が禁止きんしされたのを機会きかいに,それまでのくに地頭じとう実際じっさいじょう廃止はいしされるにいたった。以後いごくににはそうおい使つかいがおかれ,やがて守護しゅご(ひと)とよばれるようになった。くに地頭じとう北条ほうじょう時政ときまさの7ヵ国かこくのほかに,梶原かじはら景時かげとき播磨はりま美作みさく土肥どい実平さねひら備前びぜん備中びっちゅう備後びんご天野あまの遠景えんけい九州きゅうしゅう諸国しょこくかんしたと推定すいていされる。…

けんだん(撿断)】より

…もと朝廷ちょうてい国衙こくが法体ほうたいけいまれた概念がいねんであろう。 鎌倉かまくら時代じだい以降いこう朝廷ちょうていでは京都きょうと検非違使けびいしちょう諸国しょこく国衙こくがけんだんたるが,国衙こくが権限けんげんはや守護しゅご吸収きゅうしゅうされる。京都きょうとでは武家ぶけ所属しょぞくもの当事とうじしゃでないかぎり,原則げんそくとしてけんだん検非違使けびいしちょう権限けんげんぞくし,14世紀せいきまつには武家ぶけ吸収きゅうしゅうされる。…

使節しせつ遵行】より

南北なんぼくあさ室町むろまち時代じだい幕府ばくふいのちをうけた守護しゅご守護しゅごだい守護しゅご使や遵行使こうし現地げんち派遣はけんし,幕命ばくめい執行しっこうすること。勝訴しょうそじんへの所領しょりょう引渡ひきわたしやたがえらん押妨の排除はいじょなどがおおい。…

地頭じとう】より

…そのさい文治ぶんじ勅許ちょっきょによって成立せいりつした地頭じとうせいくに地頭じとうのみと限定げんていするか,あるいは在来ざいらい指摘してきみとめつつ,そうきょう地頭じとうくに地頭じとう双方そうほうであったとするかの両様りょうよう見解けんかい提起ていきされている。ただここで留意りゅういすべきは前者ぜんしゃすなわちくに地頭じとうせい主張しゅちょうする論者ろんしゃ意味いみする地頭じとうとは,守護しゅご発展はってんする実態じったいゆうするもので,内実ないじつとしてはそうおい使つかい近似きんじする存在そんざいであったてんである。したがって,この理解りかいにあっては,地頭じとうという共有きょうゆうするにしても,そうきょう地頭じとう延長えんちょうじょう位置いちする意味いみくに地頭じとうとは意味いみことなる。…

守護しゅごりょう】より

鎌倉かまくら南北なんぼくあさ室町むろまち時代じだい守護しゅご直轄ちょっかつ所領しょりょうしょしょく鎌倉かまくら時代じだいのものとしては1235ねん(よしみただし1)に幕府ばくふみとめた安芸あき守護しゅご藤原ふじわら親実ちかざねれい著名ちょめいである。…

守護しゅご領国りょうごくせい】より

南北なんぼくあさ室町むろまち時代じだい社会しゃかい構成こうせいじょう概念がいねん鎌倉かまくら幕府ばくふ中央ちゅうおう集権しゅうけんてき体制たいせいくずれ,室町むろまち幕府ばくふ守護しゅごによってその領国りょうごく地域ちいきてき封建ほうけんせい形成けいせいされたとする形態けいたいしょうする。室町むろまち幕府ばくふはいわばこのような権力けんりょくである守護しゅご大名だいみょう連合れんごう政権せいけんであると理解りかいするせつである。…

そうおい使つかい】より

…このそうおい使つかい職務しょくむすくなくとも表向おもてむきは謀反むほんじんたる義経よしつねとその党類とうるい捜索そうさく逮捕たいほすることであり,またそれに必要ひつよう物資ぶっし調達ちょうたつ諸国しょこくしょう公役こうえきじんへの命令めいれいなども随伴ずいはんしていたが,その背後はいご頼朝よりともがわがそれをとおして諸国しょこく武士ぶし一般いっぱん軍事ぐんじてき編成へんせいする体制たいせいをつくろうとしていたことは否定ひていできない。 このとき設置せっちされたそうおい使つかいには,こくごとに一員いちいんずつかれたものと,荘園しょうえん単位たんいかれたものの2種類しゅるいあるが,前者ぜんしゃ平家ひらか追討ついとう段階だんかいから存在そんざいどう時期じきにもどう職務しょくむ内容ないようをもって活躍かつやくしている守護しゅご(または守護しゅごじん)と同一どういつ実態じったいであるところから,おそらく平安へいあん時代じだい末期まっきいらいの諸国しょこく鎮護ちんご前史ぜんしをもって登場とうじょうした守護しゅごじんを,朝敵ちょうてき追討ついとう公職こうしょくとして組織そしき朝廷ちょうてい認可にんかさせるためのゆびしょうであったとかんがえられる(なおそうおい使守護しゅご別種べっしゅしょく見解けんかいもあることについては,〈守護しゅご〉の項目こうもく参照さんしょう)。他方たほう後者こうしゃおな目的もくてき遂行すいこうするために,国衙こくが不入ふにゅうけんなどをった特殊とくしゅ荘園しょうえん別途べっと設置せっちされたものとほぐされる。…

だいはんさん箇条かじょう】より

鎌倉かまくら室町むろまち幕府ばくふにおいて,守護しゅご職権しょっけん事項じこうさだめられた,謀叛ぼうほんじん殺害さつがいじんけん京都きょうと大番おおばんやく催促さいそくの3こうをいう(この場合ばあい守護しゅごけんだんけん本質ほんしつが,守護しゅご公家くげりょう本所ほんじょりょうにもって犯人はんにん逮捕たいほできるてんにあるか,犯人はんにん処断しょだんにあるかはせつかれている)。この職権しょっけん規定きてい将軍しょうぐんみなもと頼朝よりとも時代じだいもうけられたが,その,1232ねん(さだなが1)制定せいていの《成敗せいばい式目しきもく》では夜討ようち強盗ごうとう山賊さんぞく海賊かいぞくくわえられ,放火ほうか盗賊とうぞくじゅんずる犯罪はんざいとしておなあつかいになったようである。…

だんぜに】より

こよみおう年間ねんかん(1338‐42)から1518ねん(えいただし15)にいたあいだひゃくすう幕府ばくふ関係かんけいだんぜに事例じれい検証けんしょうされているが,15世紀せいき後半こうはん以降いこう内容ないようてき特徴とくちょうは,幕府ばくふ御所ごしょ修造しゅうぞう将軍しょうぐん自身じしん公事こうじ(宣下せんげ拝賀はいが仏事ぶつじなど)のためのものの頻度ひんど増加ぞうかしたことである。 幕府ばくふだんぜに徴収ちょうしゅうけんあたえられていた守護しゅごは,15世紀せいき中葉ちゅうよういたるまでに守護しゅご独自どくじだんぜに成立せいりつさせ,原則げんそくとして領域りょういき全体ぜんたい賦課ふかしていく。これはくにかただんぜにようあしだんぜになどとしょうされ,恒常こうじょうしていった。…

都市とし】より

ぜん1500ねんにさかのぼるいんひとつ,河南かなんしょうていしゅうではいちへんやく2km,たかさ10mの方形ほうけいはん築城ちくじょうかべ存在そんざい確認かくにんされるが,これなどはもっと発達はったつ都市としした邑のいちれいであろう。邑は初発しょはつてきには,丘陵きゅうりょうなど立地りっち条件じょうけんめぐまれた場所ばしょえらび,かくばれるなどでつくった墻壁で区画くかくし,そのなか有力ゆうりょくしゃ住居じゅうきょ祖先そせん守護神しゅごじんまつりびょうのあるしろもうけた。しろ神聖しんせい場所ばしょであるとともに有事ゆうじさい最後さいご防御ぼうぎょせんともなったと想定そうていされる。…

ぶん国法こくほう】より

家訓かくんとしてつくられた《朝倉あさくらたかしけい条々じょうじょう》が家法かほうてき条文じょうぶんおおふくむのは,この関係かんけいをよくしめれいである。つぎに国法こくほうてき要素ようそは,守護しゅごほうにその直接的ちょくせつてき系譜けいふもとめることができる。ぶん国法こくほうにしばしばみられる室町むろまち幕府ばくふほう継承けいしょう条文じょうぶんは,室町むろまち幕府ばくふのもとでの守護しゅご領国りょうごくにおける裁判さいばん規範きはんとしてのほう蓄積ちくせき前提ぜんていとするものといえる。…

山城やましろこく】より

応仁おうにん文明ぶんめいらん諸国しょこく荘園しょうえんからの年貢ねんぐおさまらなくなると膝下ひざもと荘園しょうえんへの依存いぞんたかまり,室町むろまち幕府ばくふ全国ぜんこくへのだんぜに(たんせん)などが賦課ふかできなくなると,山城やましろこくへの臨時りんじ課税かぜい増加ぞうかするなど,中世ちゅうせいまつ山城やましろこく都市とし京都きょうとささえる重要じゅうよう基盤きばんとなった。
支配しはい機構きこう
 1185ねん(文治ぶんじ1)11月,みなもと頼朝よりとも北条ほうじょう時政ときまさ京都きょうとおくり,洛中らくちゅう守護しゅご近国きんごく管轄かんかつにあたらせた。これ以降いこう承久じょうきゅうらん(1221)までは北条ほうじょう時政ときまさ平賀ひらがちょうみやび伊賀いがひかり京都きょうと守護しゅごとして山城やましろこく支配しはいにあたったが,鎌倉かまくら幕府ばくふ山城やましろ京都きょうとへの支配しはいりょく十分じゅうぶん浸透しんとうしていなかった。…

※「守護しゅご」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

出典しゅってん株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばん)」

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