百科ひゃっか事典じてんマイペディア 「高屋たかや城じょう」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 高屋たかや城じょう【たかやじょう】 大阪おおさか府ふ羽曳野はびきの(はびきの)市し古市ふるいち(ふるいち)にあった中世ちゅうせいの大だい規模きぼな城しろ。築造ちくぞう年代ねんだいが明あきらかで文献ぶんけんが豊富ほうふに残のこる。城しろ名めいは奈良なら興福寺こうふくじの記録きろく《大乗だいじょう院いん寺社じしゃ雑事ざつじ記き(だいじょういんじしゃぞうじき)》の1493年ねんの記事きじにみえるのが早はやいが,1479年ねんの畠山はたけやま義就よしなり(はたけやまよしなり)による築造ちくぞうに関かんする記事きじがある。着手ちゃくしゅは1477年ねん義就よしなりが河内かわうちで東ひがし軍ぐんの諸しょ城しろを攻略こうりゃくし河かわ内ないを制せいした時ときと考かんがえられる。応仁おうにん・文明ぶんめいの乱らん終結しゅうけつ後ご河内かわちの政治せいじ的てき中心ちゅうしんとなり,河内かわうちが半はん国こく守護しゅご2人ふたりに分割ぶんかつされ,北半きたはん国こくの拠点きょてんが飯盛めしもり(いいもり)城しろ(現げん大東だいとう市し)に移うつった時期じきを除のぞいて河内かわうちの守護しゅご所しょであり,包囲ほうい・炎上えんじょうなどを繰くり返かえした。1560年ねん三好みよし長慶ちょうけい(みよしながよし)が飯盛めしもり城じょうを本拠ほんきょとしてからは守護しゅご所しょの機能きのうを失うしなった。1575年ねん織田おだ信長のぶながにより破やぶ却。東高野ひがしごうや(ひがしこうや)街道かいどうと西高野にしごうや街道かいどうの接点せってんに近ちかい高屋たかや築山つきやま古墳こふん(安閑あんかん天皇陵てんのうりょうに治定じじょう)付近ふきんを本丸ほんまるとし,中央ちゅうおうに二にの丸まる,南みなみに三さんの丸まる,土ど塁るいや堀ほりの一部いちぶが残のこる。 出典しゅってん 株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ百科ひゃっか事典じてんマイペディアについて 情報じょうほう
改訂かいてい新版しんぱん 世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてん 「高屋たかや城じょう」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 高屋たかや城じょう (たかやじょう) 室町むろまち・戦国せんごく期きの城郭じょうかく。現在げんざいの大阪おおさか府ふ羽曳野はびきの市し古市ふるいち5~7丁目ちょうめ付近ふきんに位置いちした。当地とうちは南北なんぼく朝あさ初期しょきから室町むろまち幕府ばくふの河内かわうち守護しゅご所しょが置おかれ,河内かわうち地方ちほうの中心ちゅうしん地ちであったが,末期まっきに守護しゅご畠山はたけやま氏しが入部にゅうぶすると守護しゅご所しょは北方ほっぽうの若江わかえに移うつった。したがって現存げんそん遺構いこうの築城ちくじょう年代ねんだいは,畠山はたけやま義就よしなり(よしなり)が河内かわうちを占拠せんきょする1477年ねん(文明ぶんめい9)以降いこうと推定すいていされる。義就よしなりは当時とうじ西にし軍ぐんの驍将ぎょうしょう(ぎようしよう)として幕府ばくふと対立たいりつしていたため守護しゅごではなかったが,河内かわうち・大和やまとを実力じつりょく占拠せんきょし,奈良ならの番匠ばんじょうを徴発ちょうはつして造営ぞうえいに当あたったことが興福寺こうふくじの記録きろくにみえる。縄張なわばりは安閑あんかん天皇陵てんのうりょう周辺しゅうへんを本丸ほんまるとし,同妃どうひ陵りょうを二にの丸まる,高尾たかお神社じんじゃ付近ふきんを家臣かしん団だん集しゅう住じゅう地ちとする。戦国せんごく期き河内かわちの政治せいじ・軍事ぐんじ上じょうの中心ちゅうしん地ちとしてしばしば主戦しゅせん場じょうとなり,包囲ほうい炎上えんじょうを繰くり返かえしたが,1560年ねん(永えい禄ろく3)三好みよし長慶ちょうけいが飯盛めしもり城しろを造営ぞうえいしてからは河内かわうち守護しゅご所しょの地位ちいを失うしなって衰おとろえた。75年ねん(天正てんしょう3)織田おだ信長のぶながによる河内かわうち城しろ破やぶ(しろわ)りによって廃はい城じょうとなる。本丸ほんまる安閑陵あんかんりょうと二にの丸まる南方なんぽう土ど塁るい,堀ほり址しが残存ざんそんしている。築城ちくじょう年代ねんだいが明確めいかくに判明はんめいし,文献ぶんけんが豊富ほうふに残のこる中世ちゅうせい城郭じょうかく址しとして貴重きちょう。執筆しっぴつ者しゃ:今谷いまたに 明あきら 出典しゅってん 株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ「改訂かいてい新版しんぱん 世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてん」改訂かいてい新版しんぱん 世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてんについて 情報じょうほう
日本にっぽんの城しろがわかる事典じてん 「高屋たかや城じょう」の解説かいせつ たかやじょう【高屋たかや城じょう】 大阪おおさか府ふ羽曳野はびきの市し古市ふるいちにあった平城ひらじろ(ひらじろ)。南北なんぼく朝あさ時代じだいに安閑あんかん天皇陵てんのうりょうを本丸ほんまるにした河内かわうち守護しゅご畠山はたけやま氏しの居城いじろ。応おう永年えいねん間あいだ(1394~1400年ねん)に畠山はたけやま基国もとくに(もとくに)が管領かんりょう兼けん河内かわち守護しゅごとなり、安閑あんかん天皇陵てんのうりょう・安閑あんかん皇后こうごう陵りょうなどがある高屋たかや丘たかし一帯いったいに築城ちくじょうし、古墳こふんの周囲しゅういをめぐる堀ほりは高屋たかや城じょうの本丸ほんまるとして利用りようされた。守護しゅご代だいの遊佐ゆさ氏しが城代じょうだいとしてつとめた。応仁おうにんの乱らん後ごは守護しゅご職しょく畠山はたけやま氏しの居城きょじょうとなるが、畠はたけ山高やまたか政まさし、安見やすみ直政なおまさ、三好みよし長慶ちょうけい(ながよし)による高こう屋城やしろ争奪そうだつ戦せんが繰くり返かえされ、頻繁ひんぱんに城主じょうしゅが入いれ替かわった。1575年ねん(天正てんしょう3)織田おだ信長のぶながに攻せめられ、落城らくじょう。最後さいごの城主じょうしゅは三好みよし康長やすながであった。その後ご、高屋たかや城じょうは廃はい城じょうとなった。現在げんざい、遺構いこうは土ど塁るいと堀ほりだけだが、宅地たくち化かや道路どうろの敷設ふせつに伴ともなう発掘はっくつ調査ちょうさによって、地上ちじょう面めんの遺構いこうは少すくないものの高こう屋城やしろの全貌ぜんぼうが明あきらかになりつつある。近鉄きんてつ南大阪線みなみおおさかせん古市ふるいち駅えきから徒歩とほ10分ふん。 出典しゅってん 講談社こうだんしゃ日本にっぽんの城しろがわかる事典じてんについて 情報じょうほう