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山県有朋(ヤマガタアリトモ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

山県やまがた有朋ありともみ)ヤマガタアリトモ

デジタル大辞泉だいじせん山県やまがた有朋ありとも」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

やまがた‐ありとも【山県やまがた有朋ありとも

[1838~1922]軍人ぐんじん政治せいじ陸軍りくぐん大将たいしょう元帥げんすい山口やまぐちまれ。松下まつした村塾そんじゅくまなぶ。明治維新めいじいしん、ヨーロッパ諸国しょこく軍制ぐんせい視察しさつ陸軍りくぐん創設そうせつ徴兵ちょうへいれい施行しこう軍人ぐんじんみことのりさとし発布はっぷなど軍制ぐんせい整備せいびつとめた。法相ほうしょう内相ないしょう首相しゅしょう枢密院すうみついん議長ぎちょう歴任れきにん山県やまがたばつつくり、元老げんろうとして政界せいかい支配しはい

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やまがた‐ありとも【山県やまがた有朋ありとも

  1. 明治めいじ時代じだい軍人ぐんじん政治せいじ長州ちょうしゅうひと吉田よしだ松陰しょういんまな兵隊へいたい組織そしきし、幕末ばくまつ動乱どうらん活躍かつやく維新いしん陸軍りくぐん大輔だいすけとして徴兵ちょうへいれい施行しこう軍制ぐんせい確立かくりつつと参謀さんぼう本部ほんぶ初代しょだい本部ほんぶちょう就任しゅうにん軍人ぐんじんみことのりさとし発布はっぷ参画さんかく伊藤いとう内閣ないかく内相ないしょうなどを歴任れきにん明治めいじねんいちはちはちきゅうだいいちやま県内けんないかく組織そしき藩閥はんばつ政府せいふ指導しどうてき位置いちめた。にちしん戦争せんそう指導しどうだい内閣ないかく組織そしき伊藤いとう博文ひろぶみ死後しご軍事ぐんじ政治せいじ絶対ぜったいてき権力けんりょくにぎ元老げんろう政治せいじおこなった。天保てんぽうきゅう大正たいしょういちいちねんいちはちさんはちいちきゅう

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日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)山県やまがた有朋ありとも」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

山県やまがた有朋ありとも
やまがたありとも
(1838―1922)

明治めいじ大正たいしょう政治せいじ元老げんろう陸軍りくぐん大将たいしょう元帥げんすい天保てんぽう(てんぽう)9ねん6がつ14にち長州ちょうしゅうはん(ちょうしゅうはん)下級かきゅう士族しぞく山県やまがたゆうみのり(ありとし)の長男ちょうなんとしてはぎ(はぎ)城下じょうかまれる。幼名ようみょう辰之助たつのすけ(たつのすけ)、のちしょう輔(こすけ)、きょうかい(きょうすけ)と改称かいしょう維新いしん有朋ありともしょうした。含雪(がんせつ)とごうす。はやくから尊王そんのう攘夷じょうい(そんのうじょうい)思想しそう影響えいきょうけ、松下まつした村塾そんじゅく(しょうかそんじゅく)にまなぶ。長州ちょうしゅうはん倒幕とうばくくわわり、兵隊へいたいぐんかんとして活躍かつやく戊辰戦争ぼしんせんそう(ぼしんせんそう)では北陸ほくりくどう鎮撫ちんぶ総督そうとく(ほくりくどうちんぶそうとく)けん会津あいづ征討せいとう総督そうとく参謀さんぼうとして越後えちご(えちご)、奥羽おうう転戦てんせん維新いしんの1869ねん明治めいじ2)わたりおう各国かっこく軍制ぐんせい視察しさつよく1870ねん帰国きこく兵部ひょうぶしょう輔(ひょうぶしょうゆう)、ついでどう大輔だいすけ(たいふ)となる。西郷さいごう隆盛たかもり(さいごうたかもり)とはかっておやへい(ごしんぺい)を組織そしきし、廃藩置県はいはんちけん尽力じんりょく。また大村おおむら益次郎えきじろう(おおむらますじろう)のこころざし徴兵ちょうへいせい主張しゅちょうし、1873ねんこれを実現じつげん近代きんだい軍制ぐんせい基礎きそきずいた。同年どうねん陸軍りくぐんしょう設置せっちにより陸軍りくぐんきょう(きょう)となり参議さんぎ兼任けんにん相次あいつ農民のうみん一揆いっき(のうみんいっき)、士族しぞく反乱はんらん鎮圧ちんあつつとめ、西南せいなん戦争せんそうの1878ねんにはドイツにならって参謀さんぼう本部ほんぶ設置せっち軍政ぐんせい軍令ぐんれい機関きかん二元にげんおこない、初代しょだい参謀さんぼう本部ほんぶちょうにんにあたった。1878ねん軍人ぐんじん訓誡くんかい(ぐんじんくんかい)を頒布はんぷ、1882ねんには軍人ぐんじんみことのりさとし起案きあん頒布はんぷし、天皇てんのうせい軍隊ぐんたい精神せいしんてき基礎きそかためた。このあいだ自由じゆう民権みんけん運動うんどう対抗たいこうして漸進ぜんしんてき立憲りっけんせいへの移行いこう主張しゅちょうし、1881ねん明治めいじ14)政変せいへんでは、伊藤いとう博文ひろぶみ(いとうひろぶみ)、岩倉いわくら具視ともみ(いわくらともみ)らとはかって大隈おおくま重信しげのぶ(おおくましげのぶ)一派いっぱ政府せいふがい追放ついほうおこない、プロシアりゅう憲法けんぽう制定せいてい方向ほうこう確定かくていした。1882ねん参事院さんじいん議長ぎちょうよく1883ねんには内務ないむきょう就任しゅうにんして自由じゆう民権みんけん運動うんどう弾圧だんあつするとともに、地主じぬし名望めいぼう地方ちほう支配しはい意図いとした地方ちほう制度せいど創出そうしゅつ努力どりょくし、1888ねん市制しせい町村ちょうそんせい、1890ねんには府県ふけんせいぐんせい制定せいていした。このあいだ、1884ねん華族かぞくれい制定せいていにより伯爵はくしゃくさづけられ、1890ねんには陸軍りくぐん大将たいしょう昇進しょうしんした。

 1889ねんだいいちやま県内けんないかく組織そしき、1890ねんだい一議いちぎかいのぞ軍備ぐんび拡張かくちょう主張しゅちょうし、「民力みんりょく休養きゅうよう」をかかげたみんとう対立たいりつ自由党じゆうとう土佐とさくずして、からくもけた。1891ねん内閣ないかくそう辞職じしょく元勲げんくん優遇ゆうぐう勅語ちょくごけ、伊藤いとう博文ひろぶみ黒田くろだ清隆きよたか(くろだきよたか)らとともに元老げんろうとしておおきな政治せいじりょく発揮はっきした。にちしん戦争せんそうではだい一軍いちぐん司令しれいかんとして出征しゅっせいしたが、病気びょうき帰国きこく戦後せんご列強れっきょう中国ちゅうごく分割ぶんかつ激化げきかのなかで軍備ぐんび拡張かくちょう主張しゅちょうした。1898ねん元帥げんすい。この時期じき戦後せんご経営けいえいをめぐる藩閥はんばつ政府せいふ政党せいとう妥協だきょう提携ていけいつよ不満ふまんをもち、藩閥はんばつ官僚かんりょう貴族きぞくいん勢力せいりょく結集けっしゅうし、巨大きょだい山県やまがたばつ形成けいせいするにいたった。また伊藤いとう政党せいとう結成けっせいろんたいしてはさんとう鼎立ていりつ(ていりつ)ろんだい政党せいとうあいだ少数しょうすう官僚かんりょう議員ぎいん掌握しょうあくしてキャスティング・ボートをにぎ政党せいとう操縦そうじゅうする)をもって対抗たいこうした。1898ねんだいいち大隈おおくま内閣ないかく瓦解がかい(がかい)ののちけてだいやま県内けんないかく組織そしきし、憲政けんせいとう提携ていけいして軍拡ぐんかく財源ざいげん確保かくほのために地租ちそ増徴ぞうちょう断行だんこう、このあと政党せいとう勢力せいりょく官僚かんりょう機構きこうへの進出しんしゅつはばむため文官ぶんかん任用にんようれい改正かいせい枢密院すうみついん権限けんげん拡大かくだい軍部ぐんぶ大臣だいじん現役げんえき武官ぶかんせい制定せいていして官僚かんりょうせい強化きょうかした。また治安ちあん警察けいさつほう制定せいていして労働ろうどう農民のうみん運動うんどう台頭たいとうそなえた。対外たいがいてきには1900ねん明治めいじ33)の義和よしかずだん事件じけんきたきよし事変じへん(ほくしんじへん))にさいし、最大さいだい軍隊ぐんたい中国ちゅうごく派遣はけんし、列強れっきょう協力きょうりょくして、帝国ていこく主義しゅぎこくとしての地歩ちほかためた。1900ねん9がつ伊藤いとう博文ひろぶみ立憲りっけん政友せいゆうかい組織そしきすると、伊藤いとう後継こうけい首班しゅはん推薦すいせんしてそう辞職じしょくした。1901ねんだいいちかつら太郎たろう(かつらたろう)内閣ないかく成立せいりつすると黒幕くろまくとして背後はいごから援助えんじょし、にちえい同盟どうめい締結ていけつさせ、たいせん準備じゅんび強行きょうこうさせた。にち戦争せんそうでは参謀さんぼう総長そうちょう兵站へいたん(へいたん)総督そうとくとして大本営だいほんえいれっし、1907ねんにはそのこうにより公爵こうしゃく陞叙しょうじょ(しょうじょ)された。戦後せんご軍部ぐんぶ巨頭きょとうとして1907ねん帝国ていこく国防こくぼう方針ほうしん」の策定さくていすすめ、軍備ぐんび拡張かくちょう軍部ぐんぶ政治せいじてき地位ちい強化きょうかつとめた。1909ねん伊藤いとう博文ひろぶみ暗殺あんさつされると元老げんろうとしての地位ちいつよめ、山県やまがたばつ軍部ぐんぶ勢力せいりょく背景はいけい内政ないせい外交がいこう絶大ぜつだいちから発揮はっきした。しかし大正たいしょうはい民衆みんしゅう運動うんどう高揚こうようし、政党せいとうちからつよまるにつれてその影響えいきょうりょく徐々じょじょよわまり、1918ねん大正たいしょう7)のべい騒動そうどうではおおきな衝撃しょうげきけ、ついに政友せいゆうかい総裁そうさいはらたかし(はらたかし)を首相しゅしょう候補こうほ推薦すいせんし、政党せいとうないかくみとめるにいたった。1921ねん皇太子こうたいし選定せんてい問題もんだい宮中きゅうちゅうぼう重大じゅうだい事件じけん)に失敗しっぱいし、よく大正たいしょう11ねん2がつ1にち失意しついのうちにぼっし、国葬こくそうおこなわれた。官僚かんりょう政治せいじとして絶大ぜつだい権力けんりょく駆使くししたが、性格せいかく慎重しんちょう陰険いんけんで、生涯しょうがいつよ権力けんりょくよく一貫いっかんした。和歌わかをよくし、築庭ちくてい造園ぞうえん趣味しゅみをもち、その邸宅ていたくとして、京都きょうととなりあん(きょうとむりんあん)、小田原おだわら古稀こきあん(おだわらこきあん)、目白めじろ椿山荘ちんざんそう(めじろちんざんそう)などが有名ゆうめいである。

由井ゆい正臣まさおみ

入江いりえ貫一かんいちちょ山県やまがたこうのおもかげ』(1930・偕行社かいこうしゃ)』徳富とくとみいの一郎いちろうちょ公爵こうしゃく山県やまがた有朋ありともでんぜん3かん(1933・山県やまがた有朋ありともおおやけ記念きねん事業じぎょうかい復刻ふっこくばん・1969・はら書房しょぼう)』徳富とくとみ蘇峰そほうへんじゅつ公爵こうしゃく山県やまがた有朋ありともでん』(1969・はら書房しょぼう明治めいじひゃくねん叢書そうしょ)』戸川とがわいの佐武さたけちょ明治めいじ大正たいしょう宰相さいしょう2 山県やまがた有朋ありとも富国強兵ふこくきょうへいのリーダー』(1983・講談社こうだんしゃ)』御手洗みたらい辰雄たつおちょ細川ほそかわたかしもと監修かんしゅう日本にっぽん宰相さいしょう列伝れつでん2 山県やまがた有朋ありとも』(1985・時事通信社じじつうしんしゃ)』藤村ふじむら道生みちおちょ人物じんぶつ叢書そうしょ 山県やまがた有朋ありとも新装しんそうばん(1986・吉川弘文館よしかわこうぶんかん)』御厨みくりやたか監修かんしゅう歴代れきだい総理そうり大臣だいじん伝記でんき叢書そうしょ3 山県やまがた有朋ありとも』(2005・ゆまに書房しょぼう)』川田かわたみのるちょはらたかし山県やまがた有朋ありとも――国家こっか構想こうそうをめぐる外交がいこう内政ないせい』(中公新書ちゅうこうしんしょ)』おか義武よしたけちょ山県やまがた有朋ありとも――明治めいじ日本にっぽん象徴しょうちょう』(岩波いわなみ新書しんしょ)』伊藤いとうつよしちょ山県やまがた有朋ありとも――愚直ぐちょく権力けんりょくしゃ生涯しょうがい』(文春ぶんしゅん新書しんしょ)』


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百科ひゃっか事典じてんマイペディア山県やまがた有朋ありとも」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

山県やまがた有朋ありとも【やまがたありとも】

明治めいじ大正たいしょう時代じだい代表だいひょうてき藩閥はんばつ政治せいじいえ元老げんろう陸軍りくぐんさい長老ちょうろうとしてぐんかん政界せいかい強大きょうだい勢力せいりょくるった。幼名ようみょう辰之助たつのすけ,のちしょう輔,さらにきょうかいのる。長州ちょうしゅうはぎはん蔵元くらもとづけ仲間なかまという軽輩けいはいいえまれ,吉田よしだ松陰しょういん松下まつした村塾そんじゅくまなぶ。高杉たかすぎ晋作しんさく伊藤いとう博文ひろぶみらと尊王そんのう攘夷じょうい(じょうい)運動うんどう挺身ていしんし,1863ねん兵隊へいたいぐんかんとなり,翌年よくねんには4こく連合れんごう艦隊かんたい交戦こうせんしてやぶれ,かれ自身じしん負傷ふしょうした。だい長州ちょうしゅう征伐せいばつでははん首脳しゅのう恭順きょうじゅん屈服くっぷく態度たいどをとったのに憤激ふんげきして高杉たかすぎらと挙兵きょへいし,藩政はんせい主導しゅどうけんにぎった。1866ねんだい長州ちょうしゅう征伐せいばつつちのえたつ(ぼしん)戦争せんそう従軍じゅうぐん。1869ねんわたりおうして軍制ぐんせい調査ちょうさ研究けんきゅうしたがい,翌年よくねん帰国きこく兵部ひょうぶしょう輔となり,兵制へいせい改革かいかく担当たんとう,1872ねん陸軍りくぐん大輔だいすけ陸軍りくぐん中将ちゅうじょうとなり,徴兵ちょうへいれい制定せいていつとめた。1873ねんには陸軍りくぐんきょう翌年よくねん佐賀さがらん鎮圧ちんあつし,参議さんぎとなって明治めいじ政府せいふ中枢ちゅうすうせきめた。西南せいなん戦争せんそうにも征討せいとうさんぐんとして出征しゅっせい。1880ねん,〈軍人ぐんじん訓戒くんかい〉を起草きそう。1882ねんには内務ないむきょうとして自由じゆう民権みんけん運動うんどう弾圧だんあつし,1887ねん内相ないしょうとして保安ほあん条例じょうれい公布こうふさんだい事件じけん建白けんぱく運動うんどうおさえた。さらに市制しせい町村ちょうそんせい府県ふけんせいぐんせい制定せいていして地域ちいき有力ゆうりょくしゃ支配しはい制度せいどするとともに,かんてき性格せいかくつよ地方ちほう自治じちせい採用さいようした。 1889ねんだい山県やまがた有朋ありとも内閣ないかく組織そしき。のち法相ほうしょう枢密院すうみついん議長ぎちょうなどを歴任れきにんし,にちしん戦争せんそうにはだいぐんひきいて出征しゅっせい。1898ねん創設そうせつされた元帥げんすいれっし,元帥げんすい称号しょうごうあたえられ,以後いご,〈陸軍りくぐん大御所おおごしょ〉としておな長州ちょうしゅうはん出身しゅっしんかつら太郎たろう児玉こだま源太郎げんたろう寺内てらうち正毅まさきらを陸軍りくぐんしょう参謀さんぼう本部ほんぶ要職ようしょく配置はいちし,絶大ぜつだい発言はつげんりょく保持ほじした。1898ねんだい内閣ないかく組織そしき退陣たいじん以後いごは,元老げんろうとして首相しゅしょう選任せんにん重要じゅうよう政策せいさく決定けってい参画さんかくすることになり,官界かんかい貴族きぞくいん枢密院すうみついん宮中きゅうちゅうにも直系ちょっけい人物じんぶつ配置はいちして,もと老中ろうじゅうもっとおおきな発言はつげんりょくゆうした。そのにちえい同盟どうめい締結ていけつ推進すいしんし,にち戦争せんそうさいしては参謀さんぼう総長そうちょうとして作戦さくせん指導しどうたり,にちかん併合へいごうからし革命かくめいたい中国ちゅうごく政策せいさくなどでは強硬きょうこうろんとなえ,また,だい西園寺さいおんじ公望きんもち内閣ないかく末期まっきに,師団しだん増設ぞうせつ問題もんだい陸相りくしょう辞任じにんすると,後任こうにん陸相りくしょう推薦すいせん拒否きょひして内閣ないかく倒壊とうかいさせ,あるいはだい大隈おおくま重信しげのぶ内閣ないかくたいしても不信任ふしんにん表明ひょうめいして退陣たいじんうながすなど,内閣ないかく死命しめいせいした。
関連かんれん項目こうもく大村おおむら益次郎えきじろう大山おおやまいわおかつら太郎たろう内閣ないかく清浦きようら奎吾軍人ぐんじん訓誡くんかい軍人ぐんじんみことのりさとし元帥げんすい憲政けんせいとう西郷さいごう従道つぐみち杉山すぎやましげるまる徴兵ちょうへいれい帝国ていこく国防こくぼう方針ほうしん東邦生命保険とうほうせいめいほけん相互そうご会社かいしゃ北越ほくえつ戦争せんそう山城やましろ事件じけんなおそんしゃ

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改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん山県やまがた有朋ありとも」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

山県やまがた有朋ありとも (やまがたありとも)
なま没年ぼつねん:1838-1922(天保てんぽう9-大正たいしょう11)

明治めいじ大正たいしょう時代じだい代表だいひょうてき藩閥はんばつ政治せいじ元老げんろう陸軍りくぐんさい長老ちょうろうとしてぐんかん政界せいかい強大きょうだい勢力せいりょくるった。幼名ようみょう辰之助たつのすけ,のちしょう輔,さらにきょうかいのる。長州ちょうしゅうはん蔵元くらもとづけ仲間なかまという軽輩けいはいいえまれ,少年しょうねんのころから槍術そうじゅつ修行しゅぎょうつとめ,ながじて吉田よしだ松陰しょういん松下まつした村塾そんじゅくまなんだ。やがて高杉たかすぎ晋作しんさく伊藤いとう博文ひろぶみらと尊王そんのう攘夷じょうい運動うんどう挺身ていしんし,1863ねん文久ぶんきゅう3)兵隊へいたいぐんかんとなり,翌年よくねんにはえいべいふつらん4こく連合れんごう艦隊かんたい交戦こうせんしてやぶれ,かれ自身じしん負傷ふしょうした。さらにだい1長州ちょうしゅう征伐せいばつむかえてはん首脳しゅのう恭順きょうじゅん屈服くっぷく態度たいどをとったのに憤激ふんげきして高杉たかすぎらと挙兵きょへいし,俗論ぞくろんとう圧倒あっとうして藩政はんせい主導しゅどうけんにぎった。66ねん慶応けいおう2)のだい2長州ちょうしゅう征伐せいばつさいしては小倉おぐら方面ほうめん戦闘せんとう奮戦ふんせんした。68ねん明治めいじ1)戊辰戦争ぼしんせんそうには北陸ほくりくどう鎮撫ちんぶ総督そうとくけん会津あいづ征討せいとう総督そうとく参謀さんぼうとなり,長岡ながおかじょう攻略こうりゃくせん苦戦くせんすえにこれを占領せんりょう会津若松あいづわかまつじょう攻囲こういせんにも参加さんかした。

 1869ねんわたりおうして軍制ぐんせい調査ちょうさ研究けんきゅうしたがい,翌年よくねん帰国きこく兵部ひょうぶしょう輔となり,大村おおむら益次郎えきじろう横死おうし兵部ひょうぶしょうにあって兵制へいせい改革かいかく担当たんとう,72ねん陸軍りくぐん大輔だいすけ陸軍りくぐん中将ちゅうじょうとなり,徴兵ちょうへいれい制定せいていつとめた。73ねんには陸軍りくぐんきょう翌年よくねん勃発ぼっぱつした佐賀さがらんには征討せいとうさんぐんとして鎮圧ちんあつたり,このとし参議さんぎとなって明治めいじ政府せいふ中枢ちゅうすうせきめた。西南せいなん戦争せんそうにも征討せいとうさんぐんとして出征しゅっせい徴兵ちょうへいによるあたらしい軍隊ぐんたいひきいて士族しぞく中心ちゅうしん西郷さいごうぐん対決たいけつ,これを鎮圧ちんあつした。よく78ねんには新設しんせつ参謀さんぼう本部ほんぶちょう,80ねん隣邦りんぽう兵備へいびりゃく〉を上奏じょうそうしてたいしん戦争せんそう想定そうていした軍備ぐんび充実じゅうじつき,他方たほう,〈軍人ぐんじん訓戒くんかい〉を起草きそうして軍人ぐんじん忠勇ちゅうゆう従順じゅうじゅん精神せいしん喚起かんきすることにつとめた。82ねん伊藤いとう憲法けんぽう調査ちょうさのためわたりおうしたあとをうけて参事院さんじいん議長ぎちょう翌年よくねんには内務ないむきょうてんじて自由じゆう民権みんけん運動うんどう弾圧だんあつし,内相ないしょうとしては87ねん保安ほあん条例じょうれい公布こうふしてさんだい事件じけん建白けんぱく運動うんどうおさえた。さらに議会ぎかい開設かいせつそなえて地方ちほう制度せいど再編さいへん着手ちゃくしゅし,市制しせい町村ちょうそんせい府県ふけんせいぐんせい制定せいていして地域ちいき有力ゆうりょくしゃ支配しはい制度せいどするとともにかんてき性格せいかくつよ地方ちほう自治じちせい採用さいようした。

 1889ねんだい1やま県内けんないかく組織そしき。〈教育きょういく勅語ちょくご〉を渙発かんぱつして国民こくみん教化きょうかのための基本きほん理念りねんさだめ,90ねんからひらかれた最初さいしょ帝国ていこく議会ぎかいではみんとうによる予算よさんあんだい削減さくげん直面ちょくめんしながら妥協だきょうみちさぐり,土佐とさ議員ぎいんとの提携ていけい成功せいこうして解散かいさん回避かいひした。これ以後いごも,だい2伊藤いとう内閣ないかく法相ほうしょう枢密院すうみついん議長ぎちょうなどを歴任れきにんし,にちしん戦争せんそうにはだい1ぐんひきいて出征しゅっせいした。また,96ねんにはロシア皇帝こうてい戴冠たいかんしき特派とくはされ,外相がいしょうロバノフとのあいだ山県やまがた=ロバノフ協定きょうてい締結ていけつして行詰いきづま状態じょうたいにあった朝鮮ちょうせん問題もんだい打開だかいみちひらいた。98ねんには創設そうせつされた元帥げんすいれっし,元帥げんすい称号しょうごうあたえられ,これ以後いご,〈陸軍りくぐん大御所おおごしょ〉としておな長州ちょうしゅうはん出身しゅっしんかつら太郎たろう児玉こだま源太郎げんたろう寺内てらうち正毅まさきらを陸軍りくぐんしょう参謀さんぼう本部ほんぶ要職ようしょく配置はいちし,絶大ぜつだい発言はつげんりょく保持ほじした。

 1898ねん11月に日本にっぽん最初さいしょ政党せいとうないかくであるくまいたないかくだい1大隈おおくま重信しげのぶ内閣ないかく)のあとをうけてだい2内閣ないかく組織そしきすると,憲政けんせいとう提携ていけいして懸案けんあん地租ちそ増徴ぞうちょう法案ほうあん成立せいりつさせてにちしん戦後せんご経営けいえい財政ざいせいてき基礎きそ強化きょうかする一方いっぽう翌年よくねんには文官ぶんかん任用にんようれい改正かいせいして政党せいとういんの就官のみちをせばめ,さらに1900ねんには軍部ぐんぶ大臣だいじん現役げんえき武官ぶかんせい規定きていもうけて軍部ぐんぶないへの政党せいとう影響えいきょうりょく排除はいじょはかった。このようなかれの〈政党せいとうぎらい〉は政党せいとうへの不信ふしんかんにもとづくものであり,その姿勢しせい終生しゅうせいわらなかった。同年どうねん義和よしかずだん事件じけん収拾しゅうしゅう退陣たいじんして以後いごは,元老げんろうとして首相しゅしょう選任せんにん重要じゅうよう政策せいさく決定けってい参画さんかくすることになり,にちえい同盟どうめい締結ていけつ推進すいしんし,にち戦争せんそうさいしては参謀さんぼう総長そうちょうとして作戦さくせん指導しどうたった。とくに09ねん伊藤いとう博文ひろぶみハルビン暗殺あんさつされて以後いごは,陸軍りくぐん部内ぶないをはじめ,官界かんかい貴族きぞくいん枢密院すうみついん宮中きゅうちゅうにも山県やまがた直系ちょっけい人物じんぶつ配置はいちしてもと老中ろうじゅうもっとおおきな発言はつげんりょくゆうした。にちかん併合へいごうからし革命かくめいたい中国ちゅうごく政策せいさくなどでは強硬きょうこうろんとなえ,また,だい2西園寺さいおんじ公望きんもち内閣ないかく末期まっき師団しだん増設ぞうせつ問題もんだい陸相りくしょう辞任じにんすると後任こうにん陸相りくしょう推薦すいせん拒否きょひして内閣ないかく倒壊とうかいさせ,あるいはだい2大隈おおくま内閣ないかくたいしても不信任ふしんにん表明ひょうめいして退陣たいじんうながすなど,内閣ないかく死命しめいせいした。しかし,山県やまがた直系ちょっけいかつら太郎たろうはしだいに山県やまがた影響えいきょうりょくから離脱りだつし,寺内てらうち正毅まさき政権せいけん担当たんとうたってかならずしも山県やまがた意向いこうどおりにうごかず,その勢威せいいもようやくおとろえをしめすことになり,また,べい騒動そうどう激発げきはつ労働ろうどう運動うんどうたかまりにたいする処方しょほうさく苦慮くりょした。18ねんべい騒動そうどう直後ちょくご政友せいゆうかい総裁そうさいはらたかし首相しゅしょうし,はら内外ないがい政策せいさく基本きほんてき支持しじするにいたったことはあたらしい時代じだい対応たいおうするためにえらばざるをえない保身ほしんさくでもあった。20ねん表面ひょうめんしたいわゆる宮中きゅうちゅうぼう重大じゅうだい事件じけんでは,内定ないていをみていた皇太子こうたいし色盲しきもう血統けっとうがあることを理由りゆう婚約こんやく解消かいしょうろん主張しゅちょうして右翼うよく一部いちぶ政治せいじ攻撃こうげきをうけ,枢密院すうみついん議長ぎちょう辞任じにんもうるという不測ふそく事態じたいまねき,その威信いしんおおきく動揺どうようした。83さいぼっ国葬こくそうとなったが,参会さんかいしゃ意外いがいすくなく,それはなが権勢けんせいをほしいままにしたろう政治せいじ晩年ばんねん孤影こえい象徴しょうちょうするものであった。
執筆しっぴつしゃ

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ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん山県やまがた有朋ありとも」の解説かいせつ

山県やまがた有朋ありとも

没年ぼつねん大正たいしょう11.2.1(1922)
生年せいねん天保てんぽう9.うるう4.22(1838.6.14)
明治めいじ大正たいしょう軍人ぐんじん,政治せいじ元老げんろう筆頭ひっとうかくちち長州ちょうしゅう(はぎ)藩士はんし山県やまがたゆうみのり,ははどう藩士はんしおか治助じすけむすめ松子まつこ幼名ようみょう辰之助たつのすけ,きょうかいなど。長州ちょうしゅうばつ,陸軍りくぐんさい長老ちょうろう官界かんかい警察けいさつにも絶大ぜつだいなる勢力せいりょくるった怪物かいぶつてき人物じんぶつだが,家庭的かていてきにはめぐまれず,ははは5さいのときに病死びょうし,つま友子ゆうことのあいだに3なん4じょをもうけたが,山県やまがた死後しごきたのは次女じじょのみであった。吉田よしだ松陰しょういん松下まつした村塾そんじゅく(はぎ)にまなび,21さいのときはんいのち伊藤いとう博文ひろぶみら5めい京都きょうと派遣はけんされて以来いらい尊王そんのう攘夷じょうい運動うんどう参加さんか,文久ぶんきゅう3(1863)ねん兵隊へいたいぐんかん抜擢ばってきされ壇ノ浦だんのうらささえ営司れいとなり,翌年よくねんえいべいふつらん4こく連合れんごう艦隊かんたい交戦こうせんして負傷ふしょう(4こく艦隊かんたい下関しものせき砲撃ほうげき事件じけん)。明治めいじ2(1869)ねん西郷さいごう従道つぐみちともわたりおう。3ねん8がつ帰国きこく直後ちょくご兵部ひょうぶしょう輔となり,数日すうじつ兵部ひょうぶ大輔だいすけ前原まえはら一誠いっせい辞任じにんしたため実質じっしつじょう明治維新めいじいしん政府せいふ軍部ぐんぶ最高さいこう首脳しゅのうとなった。4ねん7がつ14にち(1871.8.29)廃藩置県はいはんちけん実施じっし山県やまがた兵部ひょうぶ大輔だいすけ就任しゅうにんかさなり,ただちに国軍こくぐん創設そうせつ着手ちゃくしゅ,薩長さっちょう3はんへい1まんおやへい組織そしきするとともに,東京とうきょう,大阪おおさか,鎮西ちんぜい(小倉おぐら),東北とうほく(仙台せんだい)の4鎮台ちんだい設置せっち,ヨーロッパですうひゃくねんようした兵権へいけん統一とういつだい事業じぎょう一気いっき実行じっこうした。5ねん兵部ひょうぶしょう廃止はいしとなり,わって陸軍りくぐん海軍かいぐん両省りょうしょう設置せっちされると,陸軍りくぐん大輔だいすけにんじられた。以後いご,16ねん内務ないむきょうになるまで,陸軍りくぐんきょう(初代しょだい),近衛このえとく,西南せいなん戦争せんそう(1877)における征討せいとうぐん参謀さんぼう,参謀さんぼう本部ほんぶちょうなど陸軍りくぐん枢要すうようポストをことごとく歴任れきにんした。 11ねんには参謀さんぼう本部ほんぶ,かんぐん本部ほんぶ設置せっちして統帥とうすいけん独立どくりつ(参謀さんぼう本部ほんぶ陸軍りくぐんしょうから独立どくりつさせること)をすすめ,軍政ぐんせい(軍備ぐんび人事じんじ予算よさんなど軍事ぐんじかんする行政ぎょうせい)と軍令ぐんれい(統帥とうすい)の区別くべつあきらかにし,組織そしきじょう天皇てんのうせい軍隊ぐんたい建設けんせつつとめた。同年どうねん軍人ぐんじん訓誡くんかい」,15ねん軍人ぐんじんみことのりさとし」を発布はっぷし,「忠君ちゅうくん愛国あいこく精神せいしん軍人ぐんじんそそぎ,内面ないめんからの天皇てんのうせい軍隊ぐんたい実現じつげんおこたらなかった。18ねんだい1伊藤いとう博文ひろぶみ内閣ないかくで,はじめて軍務ぐんむがい内務ないむ大臣だいじん就任しゅうにんし,黒田くろだ清隆きよたか内閣ないかくでもつづ内相ないしょうつとめた。20ねんには官僚かんりょう制度せいど出発しゅっぱつてんとなる文官ぶんかん試験しけん制度せいど施行しこうし,帝国ていこく大学だいがく出身しゅっしんエリートが官僚かんりょう独占どくせんするみちひらいた。21ねん市町村しちょうそんせい公布こうふ(翌年よくねん施行しこう)し,地方ちほうたいして国家こっか権力けんりょく介入かいにゅう容易よういにしたかんてき地方ちほう自治じち制度せいど成立せいりつはかった。22ねん12月~24ねん5がつ,だい1やま県内けんないかくでは,23ねんまで内相ないしょうね,全国ぜんこく包括ほうかつする中央ちゅうおう集権しゅうけんてき警察けいさつ制度せいど実現じつげんにもつとめた(33ねん3がつ治安ちあん警察けいさつほう公布こうふ)。31ねんから33ねん9がつまでふたた首相しゅしょうつとめ,33ねん5がつには軍部ぐんぶ大臣だいじん現役げんえき武官ぶかんせいもうけ,軍部ぐんぶないへの政党せいとう影響えいきょう排除はいじょはかった。その政策せいさく一貫いっかんしてながれていたのは執拗しつよう政党せいとうぎらいとかんせいたいする絶対ぜったいてき信奉しんぽうである。23ねん陸軍りくぐん大将たいしょうすすみ,24ねん元勲げんくん礼遇れいぐう,25ねんだい2伊藤いとう内閣ないかく司法しほう大臣だいじん,26ねん枢密院すうみついん議長ぎちょう経歴けいれきかさねた。にちしん戦争せんそう(1894~95)ではだい1ぐん司令しれいかん,にち戦争せんそう(1904~05)では参謀さんぼう総長そうちょうけん兵站へいたん総監そうかんつとめ,りょう戦争せんそう戦史せんし編纂へんさん統制とうせいき,自己じこ存在そんざいおおきくえがくことにつとめた。31ねん元帥げんすい。42ねん伊藤いとう博文ひろぶみ暗殺あんさつされると,ぐんおよび政界せいかい頂点ちょうてんきわめた。大正たいしょうになるとせいひじりょくおとろえ,10(1921)ねん宮中きゅうちゅうぼう重大じゅうだい事件じけん(皇太子こうたいし色盲しきもう事件じけん)で山県やまがた主張しゅちょうする婚約こんやく解消かいしょうろんやぶれると,小田原おだわら古稀こきあんじこもったまま翌年よくねん死去しきょ。<参考文献>御手洗みたらい辰雄たつお山県やまがた有朋ありとも

(田中たなかひろし)

出典しゅってん ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん(株)かぶしきがいしゃ朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱんちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてんについて 情報じょうほう

しんてい 政治せいじ家人かじんめい事典じてん 明治めいじ昭和しょうわ山県やまがた有朋ありとも」の解説かいせつ

山県やまがた 有朋ありとも
ヤマガタ アリトモ


肩書かたがき
だい3・9だい首相しゅしょう,元老げんろう,枢密院すうみついん議長ぎちょう

別名べつめい
幼名ようみょう=辰之助たつのすけ ぜん=しょうきょうかい

生年月日せいねんがっぴ
天保てんぽう9ねんうるう4がつ22にち(1838ねん)

出生しゅっしょう
長門ながとこくはぎ城下しろしたがわ島庄しまのしょう(山口やまぐちけんはぎ)

経歴けいれき
松下まつした村塾そんじゅくまなび、高杉たかすぎ晋作しんさく伊藤いとう博文ひろぶみ尊王そんのう志士ししまじわる。文久ぶんきゅう3ねん(1863)兵隊へいたいぐんかんとなり、4こく連合れんごう艦隊かんたい敗戦はいせん。また慶応けいおう2ねん(1866)だい2せいちょうやく参戦さんせん戊辰戦争ぼしんせんそう北陸ほくりく鎮撫ちんぶ総督そうとく会津あいづ征討せいとう越後えちごこく総督そうとく参謀さんぼう明治めいじ2ねんわたりおう、3ねん帰国きこく兵部ひょうぶ大輔だいすけ、5ねん陸軍りくぐん大輔だいすけ中将ちゅうじょう徴兵ちょうへいれい制定せいてい軍制ぐんせい確立かくりつ。6ねん陸軍りくぐんきょう就任しゅうにん佐賀さがらん西南せいなんやくさんぐん。その木戸きど大久保おおくぼ死去しきょ大隈おおくま板垣いたがき失脚しっきゃくにより、伊藤いとう博文ひろぶみとも藩閥はんばつ政府せいふ最高さいこう指導しどうしゃとなる。16ねん内務ないむきょう、18ねんだい1伊藤いとう内閣ないかくの、21ねん黒田くろだないかく内相ないしょう。20ねん保安ほあん条例じょうれい公布こうふした。22ねん首相しゅしょう就任しゅうにんし、教育きょういく勅語ちょくご発布はっぷ。23ねん陸軍りくぐん大将たいしょうすすみ、25ねんだい2伊藤いとう内閣ないかく法相ほうしょう、26ねん枢密院すうみついん議長ぎちょうにちしん戦争せんそうだい1ぐん司令しれいかんにち戦争せんそう参謀さんぼう総長そうちょうをつとめた。31ねん元帥げんすい同年どうねんだい2内閣ないかく組閣そかく、33ねん軍部ぐんぶ大臣だいじん現役げんえき武官ぶかんせい制定せいてい。42ねん伊藤いとう死後しご政界せいかい絶大ぜつだいなる権力けんりょくるったが、大正たいしょう10ねん宮中きゅうちゅうぼう重大じゅうだい事件じけん(皇太子こうたいし選定せんてい問題もんだい)でかく方面ほうめん非難ひなんけ、枢密院すうみついん議長ぎちょう辞任じにんした。終生しゅうせい政党せいとうぎらいでられる。著書ちょしょに「懐旧かいきゅう記事きじ」(ぜん5かん)「山県やまがた有朋ありとも意見いけんしょ」など。一方いっぽう近藤こんどう芳樹よしき井上いのうえとおるしんらに師事しじして和歌わかまなび、のちもり鷗外らと歌会うたかい常磐ときわかい(明治めいじ39ねん大正たいしょう11ねん)をもよおした。歌集かしゅうに「葉桜はざくら日記にっき」「椿山ちんざんしゅう」「年々ねんねん詠草よみくさ」などがある。

ぼつ年月日ねんがっぴ
大正たいしょう11ねん2がつ1にち

出典しゅってん 日外にちがいアソシエーツ「しんてい 政治せいじ家人かじんめい事典じてん 明治めいじ昭和しょうわ」(2003年刊ねんかんしんてい 政治せいじ家人かじんめい事典じてん 明治めいじ昭和しょうわについて 情報じょうほう

20世紀せいき日本人にっぽんじんめい事典じてん山県やまがた有朋ありとも」の解説かいせつ

山県やまがた 有朋ありとも
ヤマガタ アリトモ

江戸えど時代じだい末期まっき大正たいしょう政治せいじ,陸軍りくぐん大将たいしょう,元帥げんすい,公爵こうしゃく 首相しゅしょう;元老げんろう;枢密院すうみついん議長ぎちょう



生年せいねん
天保てんぽう9ねんうるう4がつ22にち(1838ねん)

没年ぼつねん
大正たいしょう11(1922)ねん2がつ1にち

出生しゅっしょう
長門ながとこくはぎ城下しろしたがわ島庄しまのしょう(山口やまぐちけんはぎ)

別名べつめい
幼名ようみょう=辰之助たつのすけ,まえめい=しょう輔,きょうかい

経歴けいれき
松下まつした村塾そんじゅくまなび、高杉たかすぎ晋作しんさく伊藤いとう博文ひろぶみ尊王そんのう志士ししまじわる。文久ぶんきゅう3ねん(1863)兵隊へいたいぐんかんとなり、4こく連合れんごう艦隊かんたい敗戦はいせん。また慶応けいおう2ねん(1866)だい2せいちょうやく参戦さんせん戊辰戦争ぼしんせんそう北陸ほくりく鎮撫ちんぶ総督そうとく会津あいづ征討せいとう越後えちごこく総督そうとく参謀さんぼう明治めいじ2ねんわたりおう、3ねん帰国きこく兵部ひょうぶ大輔だいすけ、5ねん陸軍りくぐん大輔だいすけ中将ちゅうじょう徴兵ちょうへいれい制定せいてい軍制ぐんせい確立かくりつ。6ねん陸軍りくぐんきょう就任しゅうにん佐賀さがらん西南せいなんやくさんぐん。その木戸きど大久保おおくぼ死去しきょ大隈おおくま板垣いたがき失脚しっきゃくにより、伊藤いとう博文ひろぶみとも藩閥はんばつ政府せいふ最高さいこう指導しどうしゃとなる。16ねん内務ないむきょう、18ねんだい1伊藤いとう内閣ないかくの、21ねん黒田くろだないかく内相ないしょう。20ねん保安ほあん条例じょうれい公布こうふした。22ねん首相しゅしょう就任しゅうにんし、教育きょういく勅語ちょくご発布はっぷ。23ねん陸軍りくぐん大将たいしょうすすみ、25ねんだい2伊藤いとう内閣ないかく法相ほうしょう、26ねん枢密院すうみついん議長ぎちょうにちしん戦争せんそうだい1ぐん司令しれいかんにち戦争せんそう参謀さんぼう総長そうちょうつとめた。31ねん元帥げんすい同年どうねんだい2内閣ないかく組閣そかく、33ねん軍部ぐんぶ大臣だいじん現役げんえき武官ぶかんせい制定せいてい。42ねん伊藤いとう死後しご政界せいかい絶大ぜつだいなる権力けんりょくるったが、大正たいしょう10ねん宮中きゅうちゅうぼう重大じゅうだい事件じけん(皇太子こうたいし選定せんてい問題もんだい)でかく方面ほうめん非難ひなんけ、枢密院すうみついん議長ぎちょう辞任じにんした。終生しゅうせい政党せいとうぎらいでられる。著書ちょしょに「懐旧かいきゅう記事きじ」(ぜん5かん)「山県やまがた有朋ありとも意見いけんしょ」など。一方いっぽう近藤こんどう芳樹よしき井上いのうえとおるしんらに師事しじして和歌わかまなび、のちもり鷗外らと歌会うたかい常磐ときわかい(明治めいじ39ねん大正たいしょう11ねん)をもよおした。歌集かしゅうに「葉桜はざくら日記にっき」「椿山ちんざんしゅう」「年々ねんねん詠草よみくさ」などがある。

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ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん山県やまがた有朋ありとも」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

山県やまがた有朋ありとも
やまがたありとも

[せい]天保てんぽう9(1838).4.22. 長門ながとはぎ
[ぼつ]1922.2.1. 東京とうきょう
政治せいじ軍人ぐんじんはぎはんそつ伊藤いとう博文ひろぶみなら長州ちょうしゅうばつ代表だいひょうてき政治せいじ一人ひとり長州ちょうしゅうはん下級かきゅう武士ぶしいえうまれた。安政あんせい5 (1858) 年頃としごろから尊王そんのう攘夷じょうい運動うんどう参加さんか松下まつした村塾そんじゅくまなび,のちに兵隊へいたいぐんかんとなった。明治めいじしん政府せいふのもとでヨーロッパ視察しさつ派遣はけんされ,帰国きこく兵部ひょうぶしょう輔ににんぜられて軍制ぐんせい確立かくりつ尽力じんりょく明治めいじ5 (72) ねん陸軍りくぐん大輔だいすけ,1873ねん陸軍りくぐんきょうになり,このあいだ徴兵ちょうへいれい制定せいてい士族しぞく農民のうみん反乱はんらん鎮圧ちんあつ軍人ぐんじんみことのりさとし発布はっぷなどに指導しどうてき役割やくわりはたし,にちきよしにちりょう戦争せんそうでは陸軍りくぐん最高さいこう指導しどうしゃとして活躍かつやく一方いっぽう政界せいかいでは,内閣ないかく総理そうり大臣だいじんとして 89ねんだい1山県やまがた有朋ありとも内閣ないかく組閣そかくし,教育きょういく勅語ちょくご発布はっぷすすめ,96ねんには全権ぜんけん大使たいしとしてモスクワで山県やまがた=ロバノフ協定きょうてい締結ていけつ。 98ねんだい2内閣ないかく組閣そかくは,藩閥はんばつ政治せいじ維持いじのため政党せいとう勢力せいりょく抑圧よくあつ軍部ぐんぶ大臣だいじん現役げんえき武官ぶかんせい公布こうふ文官ぶんかん任用にんようれい改正かいせいなどで,軍部ぐんぶ官僚かんりょう指導しどうけん確立かくりつつとめた。だい2山県やまがた有朋ありとも内閣ないかく崩壊ほうかい元老げんろうとして内閣ないかく人事じんじ行政ぎょうせい干渉かんしょうし,権力けんりょくをふるったが,1921ねん皇太子こうたいし選定せんてい問題もんだい政治せいじてき失策しっさくをおかし,政治せいじ生命せいめいうしなった。

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山川やまかわ 日本にっぽんしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん山県やまがた有朋ありとも」の解説かいせつ

山県やまがた有朋ありとも
やまがたありとも

1838.うるう4.22~1922.2.1

幕末ばくまつはぎ藩士はんし明治めいじ大正たいしょう政治せいじ陸軍りくぐん軍人ぐんじん幼名ようみょう辰之助たつのすけきょうかいなど。松下まつした村塾そんじゅくまな尊王そんのう攘夷じょうい運動うんどうにたずさわる。兵隊へいたいぐんかんとしてはんない抗争こうそうだい2長州ちょうしゅう戦争せんそう活躍かつやくつちのえたつ(ぼしん)戦争せんそうでは参謀さんぼうつとめる。維新いしん陸軍りくぐん兵制へいせい改革かいかく従事じゅうじ陸軍りくぐんきょう参議さんぎ参謀さんぼう本部ほんぶちょうつとめ,佐賀さがらん西南せいなん戦争せんそう征討せいとうさんぐんつとめた。1883ねん(明治めいじ16)参議さんぎけん内務ないむきょうてん町村ちょうそんせい確立かくりつ貢献こうけん,しだいに活動かつどう中心ちゅうしん内務ないむ行政ぎょうせいうつす。だい1伊藤いとう黒田くろだりょう内閣ないかく内相ないしょうをへて,89ねん12月~91ねん5がつ首相しゅしょうとしてだい1議会ぎかいのぞみ,だい2伊藤いとう内閣ないかく司法しほうしょうなどをへて,98ねん11月~1900ねん10がつ再度さいど首相しゅしょう就任しゅうにんにちしん戦争せんそうだい2伊藤いとう内閣ないかく自由党じゆうとうとの提携ていけい対抗たいこうし,政党せいとう批判ひはんてき政官せいかんかいしょ勢力せいりょく山県やまがたのもとに結集けっしゅう山県やまがたばつ(けい)とよばれ伊藤いとうけい対峙たいじした。にちしん戦争せんそうではだい1ぐん司令しれいかんにち戦争せんそうでは参謀さんぼう総長そうちょう伊藤いとう博文ひろぶみ死後しご元老げんろう第一人者だいいちにんしゃとして首相しゅしょう選定せんてい主導しゅどうけんにぎり,政党せいとう勢力せいりょく緊張きんちょう関係かんけいにあった。元帥げんすい陸軍りくぐん大将たいしょう公爵こうしゃく

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デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus山県やまがた有朋ありとも」の解説かいせつ

山県やまがた有朋ありとも やまがた-ありとも

1838-1922 明治めいじ-大正たいしょう時代じだい軍人ぐんじん,政治せいじ
天保てんぽう(てんぽう)9ねんうるう(うるう)4がつ22にちまれ。もと長門ながと(ながと)(山口やまぐちけん)はぎ(はぎ)藩士はんし松下まつした村塾そんじゅくにまなび,兵隊へいたいぐんかんとなる。維新いしん,徴兵ちょうへいせい,軍制ぐんせい確立かくりつし,明治めいじ6ねん陸軍りくぐんきょう(きょう),11ねん初代しょだい参謀さんぼう本部ほんぶちょう。18ねん初代しょだい内相ないしょうとなり地方ちほう制度せいど整備せいび。22ねん,31ねんの2組閣そかく以後いご元帥げんすい,元老げんろうとして陸軍りくぐん,政界せいかい山県やまがたばつをきずき,内政ないせい,外交がいこう絶大ぜつだい発言はつげんりょく発揮はっきした。大正たいしょう11ねん2がつ1にち死去しきょ。85さい
格言かくげんなど】わたし一介いっかい武弁ぶべんにすぎない

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旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばん山県やまがた有朋ありとも」の解説かいせつ

山県やまがた有朋ありとも
やまがたありとも

1838〜1922
明治めいじ大正たいしょう時代じだい軍人ぐんじん政治せいじ
陸軍りくぐん大将たいしょう元帥げんすい長州ちょうしゅうはん出身しゅっしん吉田よしだ松陰しょういん松下まつした村塾そんじゅくまなび,兵隊へいたいひき討幕とうばく運動うんどう活躍かつやく明治めいじしん政府せいふでは,兵部ひょうぶ大輔だいすけ陸軍りくぐんきょう歴任れきにんし,徴兵ちょうへいれい制定せいてい参謀さんぼう本部ほんぶ設置せっち軍人ぐんじんみことのりさとし発布はっぷなど陸軍りくぐん基礎きそ確立かくりつ尽力じんりょくした。だい伊藤いとう博文ひろぶみ内閣ないかく内相ないしょうとして地方ちほう自治じちせい制定せいていにちしん戦争せんそうではだいぐん司令しれいかんにち戦争せんそうでは参謀さんぼう総長そうちょうとなる。このあいだ1889・'98ねんの2にわたり内閣ないかく組織そしきし,藩閥はんばつ軍閥ぐんばつ巨頭きょとうとして政党せいとう勢力せいりょく進出しんしゅつ抑制よくせいした。伊藤いとう博文ひろぶみ死後しご元老げんろうとして絶大ぜつだい権力けんりょくにぎった。

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうち山県やまがた有朋ありとも言及げんきゅう

官報かんぽう】より

…《太政官だじょうかん日誌にっし》は77ねん1がつまでつづき1177ごう中止ちゅうし。その80ねん,《法令ほうれい公布こうふ日誌にっし》を創刊そうかん事業じぎょう福沢ふくさわ諭吉ゆきち委託いたくするあんつくられたが,開拓かいたく使官有かんゆうぶつはらい事件じけんをめぐるかくない対立たいりつのあおりをけてえとなり,いで82ねん3がつあらためて山県やまがた有朋ありとも官報かんぽう刊行かんこう建議けんぎ,これが翌年よくねん実現じつげんして創刊そうかんとなった。現在げんざい,《官報かんぽう本紙ほんしのほかに,解説かいせつ目的もくてきにした《官報かんぽう資料しりょうばん》がある。…

疑獄ぎごく】より

政治せいじ問題もんだいとして社会しゃかいてきおおきくりあげられ,ジャーナリズムによる声高こわだか批判ひはん代償だいしょうとして,刑事けいじ事件じけんとしては訴追そついされることがきわめてすくないのが疑獄ぎごく事件じけん特徴とくちょうといってよい。 明治めいじ初期しょきにおいては,山県やまがた有朋ありとも関与かんよしたといわれる山城やましろ事件じけんなど,藩閥はんばつ政府せいふ政商せいしょうとが特権とっけん供与きょうよをめぐって直接ちょくせつむすびついたケースがあり,おおくは表沙汰おもてざたにならなかった。しかし北海道ほっかいどう開拓かいたく使官有かんゆうぶつはらい事件じけんは,大隈おおくま財政ざいせいや薩派の積極せっきょく主義しゅぎ焦点しょうてんに,明治めいじ14ねん政変せいへんしょうされる政治せいじ変動へんどうこした。…

宮中きゅうちゅうぼう重大じゅうだい事件じけん】より

…1918ねんはる島津しまつ忠義ただよしまご久邇くにみや(くにのみや)邦彦くにひこおう長女ちょうじょ良子りょうこ(ながこ)が皇太子こうたいし内定ないていし,翌年よくねん6がつ正式せいしき婚約こんやく成立せいりつした。しかし元老げんろう山県やまがた有朋ありともは,良子りょうこ母系ぼけい島津しまづ色盲しきもう遺伝いでんがあるとして,この婚約こんやく反対はんたいとなえた。山県やまがた首相しゅしょうはらたかし相談そうだんして,専門せんもん医師いし調査ちょうさしょをもとに元老げんろう西園寺さいおんじ公望きんもちらとも協議きょうぎすえ久邇くに宮家みやけにやんわりと辞退じたいせまった。…

大逆だいぎゃく事件じけん】より

あらたな真相しんそう究明きゅうめい努力どりょくもすすみ,弁護べんごがわ証拠しょうこ資料しりょうは108てんおおきをかぞえた。そこでは,元老げんろう山県やまがた有朋ありともをはじめ明治めいじ政府せいふ裁判さいばんへの関与かんよ,〈奔馬ほんばごと裁判さいばん〉(大逆だいぎゃく事件じけん弁護人べんごにん今村いまむら力三りきぞうろうげん),拷問ごうもんによる聴取ちょうしゅしょ事件じけんのでっちあげ過程かていとう事件じけん裁判さいばん実態じったいあきらかにされた。また宮下みやした管野かんの新村しんむら古河ふるかわのいわゆる〈明科あかしな(あかしな)事件じけん〉の謀議ぼうぎはかろうじて推定すいていしうるとしても幸徳こうとく関係かんけいうたがわしいこと,しかし爆発ばくはつぶつ取締とりしまり罰則ばっそく違反いはんの2めいくわえたけい7めいのぞく19めいすくなくとも冤罪えんざい(えんざい)であるという慎重しんちょう主張しゅちょうもおこなわれた。…

地方ちほう財政ざいせい】より

…こうして地方ちほう自治じちせいがプロイセンの制度せいど模倣もほうし,国会こっかい開設かいせつ先立さきだっていそいで官製かんせいてきにつくられた。
地方ちほう財政ざいせい制度せいど特徴とくちょう
 地方ちほう自治じちせいはそのみのおや山県やまがた有朋ありともがいうように,政党せいとう勢力せいりょく地方ちほう行政ぎょうせい浸透しんとうするのを予防よぼうすることを目的もくてきにつくられたため,きわめてかんてき性格せいかくつよかった。市町村しちょうそん公法人こうほうじんたる自治じち団体だんたいとされ,市町村しちょうそん議会ぎかい議員ぎいん市町村しちょうそんちょう公選こうせんせい制限せいげんされたかたちでではあるがみとめられた。…

徴兵ちょうへいれい】より

廃藩置県はいはんちけん,1まんらずの政府せいふ直轄ちょっかつぐんであるおやへいのほかにはきゅうかくはんへいからる4鎮台ちんだい歩兵ほへい10大隊だいたいと19小隊しょうたいほうたい2たい地方ちほうぐんしかもっていなかった明治めいじ政府せいふは,早急そうきゅう統制とうせいある常備じょうびぐん建設けんせつ必要ひつようせまられた。実現じつげんすべき兵制へいせいについては,たけしへい職業しょくぎょう兵制へいせいとするか,徴兵ちょうへいせいとするか,民兵みんぺい国民こくみん軍制ぐんせいとするかについて議論ぎろんがあったが,陸軍りくぐん大輔だいすけ山県やまがた有朋ありとも主導しゅどうけんのもとに徴兵ちょうへいせい採用さいようされ,1872ねん(明治めいじ5)11月に徴兵ちょうへいみことのり徴兵ちょうへい告諭こくゆ翌年よくねん1がつ徴兵ちょうへい編成へんせいなみがいそく布告ふこくした。これがだい1徴兵ちょうへいれいである。…

乃木のぎ希典まれすけ】より

吉田よしだ松陰しょういん心服しんぷくし,伯父おじ玉木たまきぶんすすむじゅくまなぶ。はんしんぐんくわわりだい2せいちょう戦争せんそう山県やまがた有朋ありとも指揮しきたたかい,1871ねん(明治めいじ4)しん陸軍りくぐん少佐しょうさとなり,西南せいなん戦争せんそう歩兵ほへいだい14連隊れんたいちょう心得こころえとして参加さんか軍旗ぐんきを薩軍にうばわれ一生いっしょう恥辱ちじょくとした。86ねん川上かわかみ操六そうろくらとドイツ留学りゅうがくのち,94ねんにちしん戦争せんそう歩兵ほへいだい1旅団りょだんちょう(少将しょうしょう)として出征しゅっせい旅順りょじゅんこう要塞ようさいを1にち攻略こうりゃくしたが,占領せんりょうだい虐殺ぎゃくさつ事件じけん世界せかい非難ひなんまととなった。…

山城やましろ事件じけん】より

明治めいじ初年しょねん陸軍りくぐんない汚職おしょく事件じけん陸軍りくぐんしょう御用ごようしょう山城やましろ和助わすけ長州ちょうしゅうはん兵隊へいたい出身しゅっしんで,おな兵隊へいたい出身しゅっしん山県やまがた有朋ありともしたしく,兵部ひょうぶ大輔だいすけのち陸軍りくぐん大輔だいすけ山県やまがたつうじて陸軍りくぐんしょう官金かんきんやく65まんえん不正ふせい融資ゆうしけた。名目めいもく輸入ゆにゅうぶつ仕入しいれ代金だいきんであった。…

※「山県やまがた有朋ありとも」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

出典しゅってん株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばん)」

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