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彦根藩(ひこねはん)とは? 意味や使い方 - コトバンク

彦根ひこねはんみ)ひこねはん

改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん彦根ひこねはん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

彦根ひこねはん (ひこねはん)

近江おうみこく滋賀しがけん彦根ひこねはんちょういた譜代ふだい大藩たいはん。1600ねん慶長けいちょう5)関ヶ原せきがはらせんひがしぐんぐん奉行ぶぎょう(いくさぶぎよう)として戦功せんこうのあった徳川とくがわ四天王してんのう一人ひとり井伊いい直政なおまさは,よく01ねん石田いしだ三成みつなりにかわり佐和山さわやま城主じょうしゅふうじられ,近江おうみこくで15まんせき上野うえのこくで3まんせきけい18まんせき大名だいみょうとなった。02ねん直政なおまさ戦傷せんしょうがもとで死去しきょ嫡子ちゃくしちょくつぎよく03ねん彦根ひこねさん築城ちくじょう工事こうじこし,7ヵ国かこく12大名だいみょう手伝てつだえ普請ふしんにより22ねん元和がんわ8)20ねん歳月さいげつをかけ,彦根城ひこねじょう完成かんせいをみた。しかしこのあいだちょくつぎ病弱びょうじゃくのため,庶弟直孝なおたか名代なだいとして大坂おおさかふゆなつりょうせんさんじんして武威ぶいをあげ,1615ねん家康いえやす直孝なおたかをもって家督かとくがせ,ちょくつぎ(のちちょくかち改名かいめい)には彦根ひこねはん18まんせきのうち3まんせきをもって上野うえの国安くにやすちゅう(あんなか)しろふうじた。直孝なおたか戦功せんこうにより15ねん5まんせき,17ねん5まんせき,33ねん寛永かんえい10)5まんせき加増かぞうされ,しかもだい部分ぶぶん近江おうみ国内こくない犬上いぬかみ愛知あいち神崎かんざき蒲生がもう坂田さかた浅井あさい伊香いかしょぐんにまとめて封地ほうちあたえられ,そのほかに幕府ばくふじょうづけまい5まんせきあずかり,35まんせき格式かくしきゆうする譜代ふだい大名だいみょうとして,彦根ひこねはんせい基礎きそかためた。

 元来がんらい彦根ひこねはんだてはんさいし,西国さいごく大名だいみょうたいする監察かんさつ京都きょうと守護しゅごにんせられたが,直孝なおたかまくかくにあって秀忠ひでただ家光いえみつ家綱いえつな3だい補佐ほさし,その井伊いい江戸城えどじょうためあいだつめ(たまりのまづめ)でかつつねためせき筆頭ひっとう)をあたえられた。また大老たいろう家格かかくにより,井伊いい初代しょだい直政なおまさから16だいじきけん(なおのり)(うち2だいさいつとむ)のあいだ大老たいろうしょくにつく藩主はんしゅは6だい(うち1だいさいつとむ)をかぞえた。藩士はんしすうは1695ねん元禄げんろく8)江戸詰えどづめ家老がろう以下いか士卒しそつあわせて5000にん彦根ひこねざいしろは1まん9000にんであった。席順せきじゅん家老がろうとうからささあいだつめたけやくせきたいら小姓こしょう中小ちゅうしょうせい騎馬きば徒士かち士分しぶんであり,以下いかでは歩行ほこう(かち),足軽あしがる中間ちゅうかんちゆうげん),ほどこせ職人しょくにんとう武家ぶけ奉公人ほうこうにんおおくいた。はんない民政みんせいでは,領内りょうないみなみすじ愛知あいちぐん以南いなん),中筋なかすじ犬上いぬかみぐん坂田さかたぐん天野川あまのがわ以南いなん),きたすじ天野川あまのがわ以北いほく伊香いかぐん)の3すじけ,かくすじ奉行ぶぎょう任命にんめいすじ奉行ぶぎょうしたには12にん代官だいかんき,かくむら庄屋しょうや横目よこめ支配しはいした。また琵琶湖びわこ松原まつばらこう長浜ながはま米原まいばらこう彦根ひこねさんみなと整備せいびし,しろづけ用船ようせん120そうはいし,軍船ぐんせん年貢ねんぐ輸送ゆそうせんとしてもちいた。中期ちゅうき以降いこうはん財政ざいせい悪化あっかにともない彦根ひこねはんも1799ねん寛政かんせい11)国産こくさんかた設置せっちし,特産とくさんひんはま縮緬ちりめんはま蚊帳かやはま天鵞絨びろうどビロード),高宮たかみやぬのひとし保護ほご育成いくせい統制とうせいによる専売せんばいせい施行しこうにより,商業しょうぎょう利潤りじゅん追求ついきゅうした。一方いっぽうではこの時代じだい藩校はんこう稽古けいこかん(のち弘道こうどうかん,さらに文武ぶんぶかん改称かいしょう)を開校かいこうし,ちょくあきら(なおあき),直弼なおすけ(なおすけ)のだいには蔵書ぞうしょすう2まん30まんかんぞうしたといわれる。1850ねんよしみなが3)かさねふうした直弼なおすけは,58ねん安政あんせい5)大老たいろう就任しゅうにんまくかく安政あんせいヵ国かこく条約じょうやく将軍しょうぐん継嗣けいし問題もんだいはしはっし,攘夷じょうい弾圧だんあつしたため,60ねん万延まんえん1)3がつ桜田さくらだ門外もんがいへん非業ひごう最期さいごをとげた。幕府ばくふは,それを理由りゆうとして62ねん文久ぶんきゅう2)ちょくけんたい京都きょうと守護しゅご罷免ひめんと,はんとも10まんせき削減さくげんめいじた。

 67ねん慶応けいおう3)王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいに,彦根ひこねはんはんろん統一とういつ朝廷ちょうていがわにつき,戊辰戦争ぼしんせんそうでは官軍かんぐんとして各地かくち転戦てんせんし,ために69ねん明治めいじ2)朝廷ちょうていちょくけんに2まんせき加増かぞうした。しかし同年どうねん版籍はんせき奉還ほうかんにより,ちょくけん彦根ひこねはんごと任命にんめいされ,71ねん7がつはいはんいたった。
執筆しっぴつしゃ

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日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)彦根ひこねはん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

彦根ひこねはん
ひこねはん

近江おうみ(おうみ)こく滋賀しがけん彦根ひこね居城きょじょうをもった譜代ふだい(ふだい)はん。1600ねん慶長けいちょう5)関ヶ原せきがはらたたかいでひがしぐんぐん奉行ぶぎょう(いくさぶぎょう)として戦功せんこうのあった井伊いい直政なおまさ(なおまさ)は、翌年よくねん石田いしだ三成みつなり(みつなり)にかわり佐和山さわやま(さわやま)城主じょうしゅふうぜられ、近江おうみこくで15まんせき上野うえの(こうずけ)こく群馬ぐんまけん)で3まんせきけい18まんせき大名だいみょうとなった。1602ねん直政なおまさ戦傷せんしょうがもとで死去しきょ嫡子ちゃくしちょくつぎ(なおつぐ)(のちちょくかち(なおかつ)と改名かいめい)は翌年よくねん彦根ひこねさん築城ちくじょう工事こうじ着手ちゃくしゅし、20ねん歳月さいげつをかけ1622ねん元和がんわ8)彦根城ひこねじょう完成かんせいをみた。しかし、このあいだちょくつぎ病弱びょうじゃくのため、庶弟直孝なおたか(なおたか)が名代なだいとして大坂おおさかふゆなつりょうじん参戦さんせんして、武威ぶいをあげ、1615ねん元和がんわ1)徳川とくがわ家康いえやす直孝なおたかをもって家督かとくがせ、ちょくつぎには3まんせき分与ぶんよし、上野うえの国安くにやすちゅう(あんなか)しろふうじた。直孝なおたか戦功せんこうにより相次あいつ加増かぞうけ、30まんせき封地ほうち幕府ばくふじょうづけまい(しろつきまい)5まんせきあずかり、35まんせき格式かくしきゆうする譜代ふだい大名だいみょうとなりはんせい基礎きそかためた。直孝なおたかまくかくにあって徳川とくがわ秀忠ひでただ(ひでただ)・家光いえみつ(いえみつ)・家綱いえつな(いえつな)3だい将軍しょうぐん補佐ほさし、また大老たいろう家格かかくにより、初代しょだい直政なおまさから16だいじきけん(なおのり)のあいだ大老たいろうしょくにつく藩主はんしゅは6だいかぞえた。

 江戸えど中期ちゅうき以降いこうはん財政ざいせい悪化あっかともない、1799ねん寛政かんせい11)国産こくさんかた設置せっちし、特産とくさんひんはま縮緬ちりめん(はまちりめん)、はま蚊帳かや(はまかや)などの保護ほご育成いくせい統制とうせいによる専売せんばい施行しこうにより、商業しょうぎょう利潤りじゅん追求ついきゅうした。また、このころ藩校はんこう稽古けいこかん(けいこかん)(のち弘道こうどうかん(こうどうかん)、さらに文武ぶんぶかん改称かいしょう)を開校かいこうし、蔵書ぞうしょすう2まん30まんかんぞうしたという。1850ねんよしみなが3)かさねふうした直弼なおすけ(なおすけ)は58ねん安政あんせい5)大老たいろう就任しゅうにんし、安政あんせい(あんせい)こく条約じょうやく将軍しょうぐん継嗣けいし(けいし)問題もんだいなどで攘夷じょうい(じょうい)弾圧だんあつしたため、60ねん万延まんえん1)3がつ桜田さくらだ門外もんがいへんで斃(たお)れた。62ねん文久ぶんきゅう2)このつみわれ10まんせきげん。67ねん慶応けいおう3)王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれい彦根ひこねはん朝廷ちょうていがわにつき、69ねん明治めいじ2)の版籍はんせき奉還ほうかんによりちょくけん彦根ひこねはんごと任命にんめいされ、71ねん7がつはいはんいたった。はんいきは、彦根ひこね長浜ながはまいぬじょう(いぬかみ)けんて、滋賀しがけん編入へんにゅう

もり 安彦やすひこ

中村なかむらただしかちへん彦根ひこね うえさつ』(1960・彦根ひこね)』


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はんめいきゅう国名こくめいがわかる事典じてん彦根ひこねはん」の解説かいせつ

ひこねはん【彦根ひこねはん

江戸えど時代じだい近江おうみ(おうみ)こくいぬじょう(いぬかみ)ぐん彦根ひこねげん滋賀しがけん彦根ひこね)にはんちょうをおいた譜代ふだい(ふだい)はん藩校はんこう稽古けいこかん(けいこかん)(のち弘道こうどうかん、さらに文武ぶんぶかん改称かいしょう)。1600ねん慶長けいちょう(けいちょう)5)の関ヶ原せきがはらたたかひがしぐんぐん奉行ぶぎょう(いくさぶぎょう)をつとめた徳川とくがわ四天王してんのう一人ひとり井伊いい直政なおまさ(いいなおまさ)が、よく01ねん石田いしだ三成みつなり(みつなり)わって佐和山さわやま城主じょうしゅふうじられ、近江おうみこく15まんせき上野うえの(こうずけ)こく3まんせきけい18まんせき大名だいみょうとなった。嫡子ちゃくし(ちゃくし)ちょくつぎ(なおつぐ)のときに彦根ひこねさん新城しんじょう建設けんせつ開始かいしされ、完成かんせいまで20ねん歳月さいげつついやされた。そのあいだちょくつぎ病弱びょうじゃく大坂おおさかじんさんじんできず、そのため15ねん元和がんわ(げんな)1)にちょくかち(なおかつ)とあらため、上野うえのこく安中あんなか(あんなか)はんに3まんせきぶんされうつりふう(いほう)となった。わってさんじん活躍かつやくしたおとうと直孝なおたか(なおたか)が藩主はんしゅとなり、2だいちょくつぎ抹消まっしょうされ、直孝なおたかとされた。直孝なおたか徳川とくがわ秀忠ひでただ(ひでただ)徳川とくがわ家光いえみつ(いえみつ)徳川とくがわ家綱いえつな(いえつな)と3だい将軍しょうぐん補佐ほさし、加増かぞうかえされて、33ねん寛永かんえい10)までに30まんせきとなり、天領てんりょうしろづけまいあずかりとして5まんせき付与ふよされ35まんせき格式かくしきるにいたった。この石高こくだか譜代ふだい大名だいみょうのなかでは最高さいこうである。以後いご彦根ひこねはん井伊いい幕末ばくまつまでいちてんふう(てんぽう)(国替くにがえ(くにがえ))もなく16だい継続けいぞく、そのうち5めい藩主はんしゅ大老たいろうになるなどまくかく中枢ちゅうすうつづけた。15だい藩主はんしゅ井伊いい直弼なおすけ(なおすけ)は1858ねん安政あんせい5)に大老たいろう就任しゅうにん勅許ちょっきょ(ちょっきょ)をずに日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく調印ちょういん、また攘夷じょうい弾圧だんあつした安政あんせい大獄たいごく反発はんぱつまねき、60ねん万延まんえん(まんえん)1)の桜田さくらだ門外もんがいへん水戸みとはん浪士ろうしらに暗殺あんさつされた。つちのえたつ(ぼしん)戦争せんそうでは彦根ひこねはん朝廷ちょうていがわにつき、しん政府せいふぐんくわわって各地かくち転戦てんせんした。71ねん廃藩置県はいはんちけん彦根ひこねけんとなり、その長浜ながはまけん犬上いぬかみけんて、よく72ねん滋賀しがけん編入へんにゅうされた。

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百科ひゃっか事典じてんマイペディア彦根ひこねはん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

彦根ひこねはん【ひこねはん】

近江おうみ(おうみ)国彦くにひこはんちょうをおいた譜代ふだい(ふだい)はん西国さいこく大名だいみょうたいする監察かんさつ京都きょうと守護しゅごにんせられていた。藩主はんしゅ初代しょだい井伊いい直政なおまさ(いいなおまさ)以来いらい井伊いいざいふうりょうだかは15まんせき〜30まんせき。1860ねん16だい井伊いい直弼なおすけ(なおすけ)(幕府ばくふ大老たいろう)は桜田さくらだ(さくらだ)門外もんがいへん攘夷じょうい(じょうい)論者ろんしゃ暴徒ぼうと襲撃しゅうげきされた。つちのえたつ(ぼしん)戦争せんそうではしん政府せいふぐんとして各地かくち転戦てんせんした。
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ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん彦根ひこねはん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

彦根ひこねはん
ひこねはん

江戸えど時代じだい近江おうみこく (滋賀しがけん) 彦根ひこね地方ちほう領有りょうゆうしたはん慶長けいちょう9 (1604) ねん井伊いいただしかち居所きょしょ同国どうこく佐和山さわやまから彦根ひこねうつしたことにはじめる (→佐和山さわやまはん ) 。井伊いい遠江とおのえこく豪族ごうぞくで,はじめは今川いまがわつかえていたが,天正てんしょう3 (1575) ねん直政なおまさだい徳川とくがわ家康いえやすつかえ,家康いえやす関東かんとう入国にゅうこくとともに上野うえの (群馬ぐんまけん) 箕輪みのわ領有りょうゆうした。さらに関ヶ原せきがはらたたかいで大功たいこうをあげ,佐和山さわやまに 18まんせきふうじられた。直政なおまさつぎちょくかち彦根ひこねしろきずいて彦根ひこねはんてたが,ちょくかち多病たびょうのため元和がんわ1 (1615) ねん上野うえの安中あんなか3まんせきりょうしていたおとうと直孝なおたかかさねふうし,ちょくかち安中あんなかに3まんせき分与ぶんよされて分家ぶんけした。直孝なおたかだいには 30まんせきとなり,その大老たいろうしょくし,譜代ふだい雄藩ゆうはんとなった。幕末ばくまつ直弼なおすけ (なおすけ) が,安政あんせい5 (1858) ねん大老たいろう就任しゅうにんして日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく調印ちょういんし,14だい将軍しょうぐん紀州きしゅう慶福けいふく (よしとみ。のちの家茂いえもち) を決定けっていさせ,反対はんたい弾圧だんあつして安政あんせい大獄たいごくおこすなどちからをふるったが,どう7ねん桜田さくらだ門外もんがい暗殺あんさつされた。そのため文久ぶんきゅう2 (62) としちょくけん (なおのり) のだいには 10まんせきげんふうされた。ちょくけんは,明治維新めいじいしんさい倒幕とうばくについて奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいぐん攻撃こうげきした。譜代ふだい江戸城えどじょうためあいだつめ

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山川やまかわ 日本にっぽんしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん彦根ひこねはん」の解説かいせつ

彦根ひこねはん
ひこねはん

近江おうみ国彦くにひこ(げん滋賀しがけん彦根ひこね)をしろとする譜代ふだい大藩たいはん関ケ原せきがはら戦後せんご井伊いい直政なおまさ石田いしだ三成みつなり居城きょじょうであった佐和山さわやま18まんせきはいり,嫡子ちゃくしちょくかち(ちょくつぎ)のとき居城きょじょう彦根ひこねうつして成立せいりつ。1615ねん(元和がんわもと)ちょくかち病弱びょうじゃく理由りゆう上野うえの国安くにやすちゅう3まんせき分与ぶんよされて転出てんしゅつし,彦根ひこねはん15まんせきおとうと直孝なおたか継承けいしょう。その30まんせきとなり,さらに幕府ばくふからのしろまいあずかぶんふくめて格式かくしき35まんせきとしてあつかわれた。譜代ふだいようとして14にん16だいにわたり,大老たいろう就任しゅうにんしゃ6にんす。幕末ばくまつ直弼なおすけ(なおすけ)が桜田さくらだ門外もんがいへん横死おうししたため,1862ねん(文久ぶんきゅう2)20まんせきげんふう特産とくさんぶつ長浜ながはま縮緬ちりめんがある。18世紀せいきのはじめ内分ないぶんささえはん(彦根ひこね新田にったはん)をおいたが,20ねんほどではいはん。1799ねん(寛政かんせい11)創設そうせつ藩校はんこう稽古けいこかんは,のち弘道こうどうかん改称かいしょうためあいだつめ筆頭ひっとうはいはん彦根ひこねけんとなる。

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デジタル大辞泉だいじせんプラス彦根ひこねはん」の解説かいせつ

彦根ひこねはん

近江おうみこく彦根ひこね地方ちほうげん滋賀しがけん彦根ひこね)を領有りょうゆうした譜代ふだいはん藩主はんしゅ井伊いい佐和山さわやま藩主はんしゅ井伊いい直政なおまさちょくかち佐和山さわやまから居城きょじょう彦根ひこねうつして成立せいりつ歴代れきだい藩主はんしゅでは、桜田さくらだ門外もんがいへん暗殺あんさつされた井伊いい直弼なおすけ有名ゆうめい彦根城ひこねじょう国宝こくほう

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうち彦根ひこねはん言及げんきゅう

近江おうみこく】より

…85ねん(貞享ていきょう2)の膳所ぜぜ城下町じょうかまち戸数こすう930,うち武家ぶけ屋敷やしき499町家まちや409である。 彦根ひこねはん井伊いい大坂おおさかじん加増かぞうされ,1633ねん(寛永かんえい10)に下野げや武蔵むさしのうち2まんせきわせ30まんせき翌年よくねんしろづけあずかべい5まんせきせられた。彦根城ひこねじょうは95ねん(元禄げんろく8)まちすう53まちのうち39まち町家まちやめた。…

すじ】より

むらめいぐんすじめいかんして地名ちめいしめすこともあるが,これはことなった系列けいれつしめ場合ばあいおおい。美濃みのこくにはかくぐんすじめいられ,近江おうみ彦根ひこねはんではみなみちゅうきたの3すじがあり,かくすじごとにすじ奉行ぶぎょう交通こうつう駅伝えきでん衣食住いしょくじゅう年貢ねんぐ収納しゅうのうなどを管轄かんかつし,そのした代官だいかん分担ぶんたん執務しつむした。【村上むらかみ ただし】 また豊前ぶぜん小倉こくらはんでは,はんないくわだてすくえ(きく)・田川たがわ京都きょうと(みやこ)・なか築城ちくじょう(ついき)・じょう(こうげ)の6ぐんけ,かくぐんぐん奉行ぶぎょう(こおりぶぎよう)が配置はいちされていたが,ぐん奉行ぶぎょうすじ奉行ぶぎょうともばれていた。…

大名だいみょう屋敷やしき】より

…そして参勤さんきんには国元くにもとから藩主はんしゅとともに江戸えど勤番きんばん家臣かしん随従ずいじゅうしてていた。たとえば彦根ひこねはん井伊いい場合ばあい,18世紀せいきちゅうごろの史料しりょうによれば桜田さくらだ上屋敷かみやしき1まん9685つぼ赤坂あかさか中屋敷なかやしき1まん4175つぼせんたに別邸べってい17まん4795つぼ八丁堀はっちょうぼり蔵屋敷くらやしき7277つぼがあり,1695ねん(元禄げんろく8)の史料しりょうによれば定府じょうふ家臣かしん1458にん勤番きんばん家臣かしん1764にんであった。大藩たいはん場合ばあいにはなおおおくの家臣かしんだんようし,こうだいかつ多数たすう屋敷やしきをもっていた。…

※「彦根ひこねはん」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

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