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会津藩(あいづはん)とは? 意味や使い方 - コトバンク

会津あいづはんみ)あいづはん

日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)会津あいづはん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

会津あいづはん
あいづはん

陸奥むつ(むつ)国会こっかいぐん中心ちゅうしんかれたはん室町むろまち時代じだいにはあしめい(あしな)所領しょりょうであったが、1589ねん天正てんしょう17)伊達だてまさしそう(だてまさむね)にうばわれた。しかし、翌年よくねん豊臣とよとみ(とよとみ)秀吉ひでよしせいむねよりこれを没収ぼっしゅう蒲生がもうきょう(がもううじさと)が入部にゅうぶすることになる。きょう若松わかまつじょう築城ちくじょう城下町じょうかまちおよび領内りょうない交通こうつうもう整備せいびおこない、「ぶんろく(ぶんろく)さんねん蒲生がもうりょうだか目録もくろく」を作成さくせいした。1598ねん慶長けいちょう3)上杉うえすぎ景勝かげかつ(かげかつ)120まんせき、1601ねん蒲生がもう秀行ひでゆき(ひでゆき)60まんせき、1627ねん寛永かんえい4)加藤かとう嘉明よしあき(よしあき)40まんせきつづき、その明成めいせい(あきなり)がまましいだが、重臣じゅうしんほりぬしすい(もんど)と抗争こうそうし、1643ねん領地りょうち幕府ばくふ返上へんじょうつぶせ(とりつぶ)しとなった(会津あいづ騒動そうどう)。同年どうねん出羽でわ(でわ)こく山形やまがたから保科ほしな正之まさゆき(ほしなまさゆき)が入部にゅうぶし23まんせきりょうし、南山なんざん御蔵おぐらいれ(みなみやまおくらいり)りょう5まん1200せきあまりわたしりょう同様どうよう取扱とりあつかいであずかった。正之まさゆきは3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつ(いえみつ)の異母弟いぼていで、1669ねん寛文ひろふみ9)隠居いんきょするまで幕政ばくせい参画さんかくした。正之まさゆき会津あいづ就封領内りょうないに「地下ちか仕置しおき条々じょうじょう(じげしおきじょうじょう)」をはっし、正保まさやす(しょうほう)年間ねんかん(1644~1648)までに、領内りょうない物資ぶっしりょうがい流出りゅうしゅつ禁止きんしとめぶつせい)、市場いちば再興さいこうろう(ろう)・うるし(うるし)の専売せんばいかいまい(かいまい)せい実施じっしなどをさだめ、1648ねん慶安けいあん1)領内りょうないそう検地けんち、1654ねんうけたまわおう3)しゃくら(しゃそう)ほう制定せいてい、1658ねんまん1)ていめん(じょうめん)せい採用さいようなどによりはん体制たいせいかためた。1696ねん元禄げんろく9)3だいせいよう(まさかた)のとき松平まつだいらせいあおい(あおい)もんたまわり、御三家ごさんけ(ごさんけ)につづ御家おいえもんとしてるぎなき地位ちい確立かくりつした。

 元禄げんろく(げんろく)(1688~1704)以降いこうはん同様どうようはん財政ざいせい悪化あっかし、京都きょうと三井みついなどから借財しゃくざいする一方いっぽう、1717ねんとおる2)には現物げんぶつ収納しゅうのう強化きょうかした「はんうね(たんせどり)」のほう採用さいようし、徹底てっていした収奪しゅうだつはかったので、農村のうそん疲弊ひへい結果けっかとなった。1729ねんふたたびていめんせいえ、しゃくらもみ(もみ)の積極せっきょくてき貸付かしつけなどによって利息りそくをとり、財政ざいせいなおしをはかろうとした(とおる(きょうほう)の財政ざいせい改革かいかく)。しかし江戸えど屋敷やしき類焼るいしょう若松わかまつ城下じょうか大火たいか江戸えど城堀しろほりさらいなどによる出費しゅっぴがかさみ、たかられき(ほうれき)(1751~1764)には40まんりょうもの借財しゃくざいとなった。くわえて1749ねん寛延かんえい2)会津あいづ藩政はんせい史上しじょう最大さいだい農民のうみん一揆いっき(いっき)(会津あいづ寛延かんえい一揆いっき)が発生はっせいし、はん若松わかまつ城下じょうかしかけた農民のうみん要求ようきゅうをいれ、年貢ねんぐ減免げんめん余地よち(てあまりち)の解消かいしょうなど民心みんしん安定あんていはかった。しかし天明てんめい(てんめい)のだい飢饉ききん(ききん)によっておおきな打撃だげきけ、これを藩政はんせい大改革だいかいかくせまられた。1787ねん天明てんめい7)5だい容頌かたのぶ(かたのぶ)は家老がろう田中たなかげんおさむ(げんさい)の建議けんぎをいれ農村のうそん復興ふっこうさい重点じゅうてんとする改革かいかく着手ちゃくしゅ村方むらかた秩序ちつじょ再編さいへん余地よち解消かいしょうのため土地とちぶんきゅう殖産しょくさん興業こうぎょう推進すいしんなどを実施じっしし、同時どうじに1799ねん寛政かんせい11)藩校はんこうにち新館しんかん創設そうせつし、領内りょうない15かしょさとこう設置せっち教育きょういく普及ふきゅうはかり、1789ねん寛政かんせい1)には軍事ぐんじ奉行ぶぎょう(ぶぎょう)を設置せっちして軍制ぐんせい改革かいかくをもおこなった(寛政かんせい藩政はんせい改革かいかく)。その会津あいづはん全国ぜんこくおそった天保てんぽう(てんぽう)のだい飢饉ききんをもることができた。

 最後さいご藩主はんしゅとなった9だい松平まつだいら容保かたもり(かたもり)は、佐幕さばくさい雄藩ゆうはんとして1862ねん文久ぶんきゅう2)京都きょうと守護しゅごしょく就任しゅうにんし、公武こうぶ合体がったい推進すいしんして活躍かつやくした。しかし1867ねん慶応けいおう3)12がつ王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれい京都きょうと守護しゅごしょく廃止はいしされ、1868ねん明治めいじ1)鳥羽とば伏見ふしみ(とばふしみ)のたたかいではじまるつちのえたつ(ぼしん)戦争せんそうでは、奥羽おううしょはん次々つぎつぎやぶれるなかで最後さいごまで抗戦こうせんし、同年どうねん9がつ白虎隊びゃっこたい(びゃっこたい)の悲劇ひげきのこして降伏ごうぶく翌年よくねん隠退いんたいした容保かたもりようだい(かたはる)が陸奥みちのくみなみ(となみ)(青森あおもりけんむつ)3まんせきうつされて会津あいづはいはんとなった。会津あいづはん若松わかまつけんとなり、1876ねん明治めいじ9)福島ふくしまけん併合へいごうされた。

誉田ほんだ ひろし

会津若松あいづわかまつ出版しゅっぱん委員いいんかいへん会津若松あいづわかまつぜん12かん(1981・国書刊行会こくしょかんこうかい)』山口やまぐち孝平たかひらちょ近世きんせい会津あいづ研究けんきゅう上下じょうげ(1978・歴史れきし春秋しゅんじゅうしゃ)』


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改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん会津あいづはん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

会津あいづはん (あいづはん)

陸奥みちのくこく若松わかまつはんちょうをおいたはん。1589ねん天正てんしょう17)中世ちゅうせい会津あいづ支配しはいしたあしめいやぶり,このりょうした伊達だてはまもなくり,90ねん蒲生がもうきょうが90まんせき領主りょうしゅとして黒川くろかわはいった。黒川くろかわは15世紀せいき後半こうはんからあしめい城下町じょうかまちとして発展はってんしてきていたが,きょうしろ城下じょうか本格ほんかくてき経営けいえいにのりだし,外郭がいかく新設しんせつかくない整備せいびさむらい屋敷やしき町屋敷まちやしき画然かくぜん区別くべつ郷里ごうり近江おうみこく蒲生がもうぐん若松わかまつもりにちなんで,この若松わかまつあらためた。98ねん慶長けいちょう3)120まんせき入部にゅうぶした上杉うえすぎ景勝かげかつは,関ヶ原せきがはらせん石田いしだ三成みつなり呼応こおうしたためにげんふうされて米沢よねざわうつされ,そのあとふたた蒲生がもうが60まんせきにゅうふうしたが,ちゅうきょう嗣子ししなくふうおさめられた。1627ねん寛永かんえい4)伊予いよ国松くにまつさんより入部にゅうぶした加藤かとう嘉明よしあきは40まんせき,その明成めいせいのときしろだい修築しゅうちくおこなわれた。だい土木どぼく工事こうじによる支出ししゅつ増大ぞうだいおぎなうための年貢ねんぐ増徴ぞうちょうくわえ,農村のうそんおそった寛永かんえいだい飢饉ききんにより農民のうみんの逃散があいつぎ,家臣かしんほりぬしすいとの軋轢あつれき(あつれき)(会津あいづ騒動そうどう)もあり,43ねん明成めいせいふう返還へんかんした。わって徳川とくがわ家光いえみつ異母弟いぼてい保科ほしな正之まさゆき最上さいじょうより入部にゅうぶ保科ほしなは95ねん元禄げんろく8)松平まつだいらせいあおいもんゆるされ,幕末ばくまつまで家門かもん大名だいみょうとしてこの支配しはいした。本領ほんりょう23まんせきのほかに,南山みなみやまあるいは越後えちごこくにおいてあずか変遷へんせんがみられた。正之まさゆき藩政はんせい整備せいび努力どりょく地下ちか仕置しおき条々じょうじょうごうむらよりの収納しゅうのうかたさだめ,特産とくさんぶつであるうるし・蠟は前代ぜんだいにひきつづき専売せんばいせいをとった。米価べいか安定あんていさせるためのかいまいせいつね平法ひらのり農民のうみん町人ちょうにん救済きゅうさいのためのしゃくらせいおこなわれた。寛文ひろふみのべたからにはしょう農民のうみん自立じりつすすみ,村役人むらやくにんそう恣意しいてき農民のうみん支配しはい否定ひていされ,城下町じょうかまち若松わかまつ領内りょうない交通こうつう商品しょうひん流通りゅうつう中心ちゅうしんとして位置いちづけられた。しかし元禄げんろくころよりはん財政ざいせい窮乏きゅうぼう深刻しんこくとなり,つよめられた年貢ねんぐ収奪しゅうだつ農民のうみんくるしめ,1749ねん寛延かんえい2)にはぜんりょうをおおうだい一揆いっきがおこった。藩政はんせいけんなおしをせまられたはんは,87ねん天明てんめい7)から改革かいかく着手ちゃくしゅ余地よち耕作こうさくじん確保かくほ漆器しっき酒造しゅぞうなどの産業さんぎょう奨励しょうれい軍制ぐんせい学制がくせい改革かいかくとうおこなった。藩校はんこう新館しんかんはこの時代じだいにつくられている。だが改革かいかく結果けっかいち安定あんていしたはん財政ざいせいも,1808ねん文化ぶんか5)の蝦夷えぞ守備しゅび,つづく相模さがみわん防備ぼうび負担ふたんと,天保てんぽうだい飢饉ききんによりふたた悪化あっか天保てんぽう藩政はんせい改革かいかくおこなわれることになった。倹約けんやくれい物価ぶっか引下ひきさげれいされ,かぶ仲間なかま解散かいさん再興さいこうおこなわれた。美濃みのこく高須たかすから養子ようしとしてむかえられていた松平まつだいら容保かたもり(かたもり)は,52ねんよしみなが5)かさねふうじ,62ねん文久ぶんきゅう2)には,幕府ばくふつよ要請ようせいにより京都きょうと守護しゅごしょく就任しゅうにん幕末ばくまつ困難こんなん政局せいきょくにあたった。このおりやくりょうとして5まんせき加増かぞう,64ねんもと1)軍事ぐんじ総裁そうさいしょくのちふたた京都きょうと守護しゅごしょくつとめる過程かていで,西南せいなんしょはんとの対立たいりつ決定的けっていてきとなり,68ねん明治めいじ1)恭順きょうじゅんあらわしたがいれられず,戊辰戦争ぼしんせんそうでは,奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい中心ちゅうしんとして徹底てってい抗戦こうせんし,敗北はいぼくした(会津あいづ戦争せんそう)。若松わかまつには軍政ぐんせいがしかれた。69年子としごようだい(かたはる)が家名かめい再興さいこうゆるされ,3まんせき陸奥みちのくこく北部ほくぶ移住いじゅうみなみ(となみ)はんしょうした。
執筆しっぴつしゃ

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百科ひゃっか事典じてんマイペディア会津あいづはん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

会津あいづはん【あいづはん】

陸奥むつ(むつ)若松わかまつはんちょういた親藩しんぱん家門かもん初期しょき外様とざま)。1598ねん上杉うえすぎ景勝かげかつ120まんせき,1601ねん蒲生がもう秀行ひでゆき60まんせき,1627ねん加藤かとう嘉明よしあき40まんせき(ここまで外様とざま)と交替こうたいののち,1643ねん将軍家しょうぐんけこう異母弟いぼてい保科ほしな(ほしな)正之まさゆき入部にゅうぶ保科ほしなは1695ねん松平まつだいらせいあおいもんゆるされ,明治めいじいたる。表高おもてだか23まんせき。1862ねんだい藩主はんしゅ松平まつだいら容保かたもり(かたもり)は幕府ばくふ要請ようせいにより京都きょうと守護しゅごしょく就任しゅうにん戊辰戦争ぼしんせんそうでは奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい中核ちゅうかくとなって徹底てってい抗戦こうせんやぶれた(会津あいづ戦争せんそう)。1869ねん陸奥みちのくみなみ(となみ)3まんせきうつりふうされ,はいはん
関連かんれん項目こうもく会津あいづ会津あいづはん実紀みき会津若松あいづわかまつ新編しんぺん会津あいづ風土記ふどき鳥羽とば伏見ふしみせんにち新館しんかん沼田ぬまたはん白虎隊びゃっこたい福島ふくしまけん陸奥みちのくこく

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はんめいきゅう国名こくめいがわかる事典じてん会津あいづはん」の解説かいせつ

あいづはん【会津あいづはん

江戸えど時代じだい陸奥むつ(むつ)こく会津あいづぐん若松わかまつげん福島ふくしまけん会津若松あいづわかまつ)にはんちょうをおいた、はじ外様とざま(とざま)はん、のち親藩しんぱん(しんぱん)。藩校はんこう日新にっしん(にっしん)かん。1590ねん天正てんしょう(てんしょう)18)に蒲生がもうきょう(がもううじさと)黒川くろかわじょうはいり、若松わかまつしろ別名べつめいつるじょう(つるがじょう))とあらためた。関ヶ原せきがはらたたか前後ぜんごして、1598ねん慶長けいちょう(けいちょう)3)に120まんせき上杉うえすぎ景勝かげかつ(かげかつ)、1601ねん慶長けいちょう6)に60まんせきふたた蒲生がもう、さらに1627ねん寛永かんえい(かんえい)4)、40まんせき加藤かとう嘉明よしあき(よしあき)にゅうふう(にゅうほう)した。その明成めいせい(あきなり)は、家臣かしんほり主人しゅじん(もんど)とのこうそう会津あいづ騒動そうどう)もあって1643ねん寛永かんえい20)にふう返上へんじょうわって同年どうねん徳川とくがわ秀忠ひでただ(ひでただ)の3なん保科ほしな正之まさゆき(ほしなまさゆき)が23まんせきにゅうふうした。正之まさゆき農政のうせいなどに手腕しゅわんしめしてはん体制たいせい確立かくりつ以後いご明治維新めいじいしんまで保科ほしな9だいつづいた。保科ほしなせいよう(まさかた)のときの1696ねん元禄げんろく9)に松平まつだいらせいあおいもんゆるされ、御三家ごさんけ御家おいえもんとしておもきをなした。最後さいご藩主はんしゅ9だい容保かたもり(かたもり)は京都きょうと守護しゅごしょくとなって公武こうぶ合体がったい推進すいしんつちのえたつ(ぼしん)戦争せんそうではおく羽越うえつ(おううえつ)列藩れっぱん同盟どうめい中心ちゅうしんとしてしん政府せいふぐん徹底てってい抗戦こうせんしたが、1868ねん明治めいじ1)9がつ白虎隊びゃっこたい(びゃっこたい)悲劇ひげきのこして降伏ごうぶく翌年よくねん容保かたもり(かたもり)のが3まんせきあたえられて陸奥みちのくこくみなみ(となみ)(げん青森あおもりけんむつ)にみなみはんてた。会津あいづはんりょう同年どうねん設置せっち若松わかまつけんて1876ねん明治めいじ9)に福島ふくしまけん編入へんにゅうされた。みなみはんりょうは1871ねん明治めいじ4)に青森あおもりけん編入へんにゅう。◇若松わかまつはんともいう。

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ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん会津あいづはん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

会津あいづはん
あいづはん

江戸えど時代じだい陸奥みちのくこく会津あいづ地方ちほう (福島ふくしまけん) を領有りょうゆうしたはん鎌倉かまくら時代じだい以来いらいこのあしめい領地りょうちであったが,伊達だてまさしむねによってほろぼされ,小田原おだわら征伐せいばつ蒲生がもうきょう慶長けいちょう3 (1598) 上杉うえすぎ景勝かげかつがこのりょうした。関ヶ原せきがはらたたかきょう蒲生がもう秀行ひでゆきさいふうじ寛永かんえい4 (1627) ねん加藤かとう嘉明よしあきがこれにかわり,40まんせきりょうしたが,その明成めいせいのとき会津あいづ騒動そうどうおこり,どう 20ねんじょふうされ,かわって3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつおとうと保科ほしな正之まさゆき出羽でわ山形やまがたよりうつされ,23まんせきりょうした。3だいせいよう (まさかた) 以後いご保科ほしな代々だいだい松平まつだいらしょうし,家門かもんとしておもきをなし幕末ばくまつおよんだ。江戸城えどじょうためあいだつめ正之まさゆき将軍家しょうぐんけつな補佐ほさして幕政ばくせい参与さんよする一方いっぽう藩政はんせい基礎きそかためる施政しせいつとめ,名君めいくんしょうせられた。5だい容頌かたのぶ (かたのぶ) は,家老がろう田中たなかげんおさむもちいて藩政はんせい改革かいかくおこない,殖産しょくさん興業こうぎょうをはかり,藩校はんこう新館しんかんおこし,軍制ぐんせいあらためた。9だい容保かたもり (かたもり) は,文久ぶんきゅう2 (1862) ねん京都きょうと守護しゅごしょくとなり,一橋ひとつばし慶喜よしのぶとともに公武こうぶ合体がったい推進すいしんした。文久ぶんきゅうさんねんはちがつじゅうはちにち政変せいへんでは尊攘そんじょう抗争こうそうし,もと1 (64) ねんには禁門きんもんへん長州ちょうしゅうぐん抗戦こうせんした。鳥羽とば伏見ふしみたたかやぶれてのちは奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい中心ちゅうしんとなり会津あいづ戦争せんそうおこし,若松わかまつづるじょうにこもって敗北はいぼくようだい (かたはる) は明治めいじ1 (68) ねん陸奥みちのくみなみ (となみ) はん3まんせきげんふうされ,はいはん

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山川やまかわ 日本にっぽんしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん会津あいづはん」の解説かいせつ

会津あいづはん
あいづはん

陸奥みちのくこく若松わかまつ(げん福島ふくしまけん会津若松あいづわかまつ)をしろとする家門かもん大藩たいはん近世きんせい初頭しょとう蒲生がもう,ついで上杉うえすぎ景勝かげかつ領地りょうちだったが,のち蒲生がもう加藤かとう両氏りょうし支配しはいをへて,1643ねん(寛永かんえい20)保科ほしな正之まさゆき出羽いずはこく山形やまがたからにゅうふう以後いご9だいにわたる(1696ねん以後いご松平まつだいらせい)。はんりょうは,陸奥むつ国会こっかい耶麻やま大沼おおぬま河沼かわぬま安積あさか5ぐんと,越後えちごこく蒲原かまはらぐんで23まんせき正之まさゆき家訓かくんじゅう箇条かじょう制定せいていするなど藩政はんせい確立かくりつにつとめ,凶作きょうさく対策たいさくしゃくらせいや,米価べいか安定あんてい目的もくてきとしたつね平法ひらのり実施じっしした。天明てんめい飢饉ききんはんせい改革かいかくでは農村のうそん復興ふっこうがはかられるとともに,藩校はんこう新館しんかん建築けんちく,「会津あいづ実紀みき」の編纂へんさんなどがおこなわれた。会津あいづろうは,せん売品ばいひんとして著名ちょめいつめせきみかどかんあいだまたはためあいだ。9だい藩主はんしゅ容保かたもり(かたもり)は,京都きょうと守護しゅごしょくなどをつとめ,幕末ばくまつ幕政ばくせいささえた。1864ねん(元治もとはるもと)5まんせき加増かぞう戊辰戦争ぼしんせんそうでは,奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい中心ちゅうしんとして官軍かんぐんたたかった。戦後せんご領地りょうち没収ぼっしゅうされ,民政みんせいきょくをへて若松わかまつけんとなる。会津あいづ松平まつへいは69ねん(明治めいじ2)同国どうこくみなみ(となみ)はんとして復興ふっこう

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旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばん会津あいづはん」の解説かいせつ

会津あいづはん
あいづはん

近世きんせい陸奥むつ岩代いわしろ福島ふくしまけん会津あいづ地方ちほうりょうしたはん
中世ちゅうせいあしめい (あしな) 支配しはいについで,伊達だて (だて) ・蒲生がもう (がもう) ・上杉うえすぎふたた蒲生がもう加藤かとうりょうし,1643ねん保科ほしな正之まさゆき (ほしなまさゆき) が藩主はんしゅとなり,会津あいづ松平まつへいはんとなった。石高こくだか23まんせき元禄げんろく(1688〜1704)以降いこうはん財政ざいせい窮迫きゅうはくし,寛政かんせい(1789〜1801)のころ蠟 (ろう) ・うるしなどの専売せんばいせい強化きょうかして藩政はんせい改革かいかくおこなう。9だい松平まつだいら容保かたもり (かたもり) は京都きょうと守護しゅごしょくとなり佐幕さばく中心ちゅうしんとして活躍かつやく維新いしんにはしん政府せいふぐん征討せいとうをうけ(つちのえたつ (ぼしん) 戦争せんそう),抗戦こうせんするがのち降伏ごうぶくした。

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防府ほうふ歴史れきし用語ようごしゅう会津あいづはん」の解説かいせつ

会津あいづはん

現在げんざい会津若松あいづわかまつ[あいづわかまつし](福島ふくしまけん)を中心ちゅうしんとした地域ちいき幕末ばくまつ藩主はんしゅ松平まつだいら容保かたもり[まつだいらかたもり]は京都きょうと警備けいび担当たんとうする京都きょうと守護しゅごしょく[きょうとしゅごしょく]をつとめ、公武こうぶ合体がったい[こうぶがったい]の意見いけんをとって長州ちょうしゅうはんとは対立たいりつしました。戊辰戦争ぼしんせんそう[ぼしんせんそう]では会津あいづはん薩摩さつま長州ちょうしゅうはん中心ちゅうしんしん政府せいふぐんたたかいました。

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デジタル大辞泉だいじせんプラス会津あいづはん」の解説かいせつ

会津あいづはん

陸奥みちのくこく若松わかまつげん福島ふくしまけん会津若松あいづわかまつ)を本拠地ほんきょちとしたはん蒲生がもうきょう(がもううじさと)、上杉うえすぎ景勝かげかつなどがにゅうふう会津あいづ騒動そうどうののち、3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつ異母弟いぼてい保科ほしな正之まさゆきにゅうふうしてからは、保科ほしな松平まつだいらが9だいにわたり藩主はんしゅをつとめた。幕末ばくまつには奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい中心ちゅうしん戊辰戦争ぼしんせんそうにおける白虎隊びゃっこたい悲劇ひげきられる。

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうち会津あいづはん言及げんきゅう

新編しんぺん会津あいづ風土記ふどき】より

あずかふくめた会津あいづはんいきかんする地誌ちし編集へんしゅうは1803ねん(とおる3)にはじまり,藩主はんしゅ松平まつだいらひろししゅの09ねん(文化ぶんか6)のじょがある。…

藩政はんせい改革かいかく】より

…だから,大名だいみょう補佐ほさする執政しっせいめぐまれるとき,藩政はんせいさい構築こうちくざす藩政はんせい改革かいかくがみられることになる。この典型てんけいとしては,肥後ひご熊本くまもとはん54まんせきいだだい6だい細川ほそかわ重賢しげかた(しげかた)と家老がろうほりまさるめい関係かんけい陸奥みちのく会津あいづはん28まんせきだい5だい松平まつだいら容頌かたのぶ(かたのぶ)と家老がろう田中たなかげんおさむとの関係かんけい,そして,出羽いずは米沢よねざわはん15まんせきだい10代上杉うえすぎ治憲はるのり(はるのり)(鷹山ようざん)と改革かいかく代表だいひょうする竹俣たけまた当綱まさつな(たけのまたまさつな)との関係かんけいをあげることができよう。 上杉うえすぎ治憲はるのり名君めいくん典型てんけいであったことはよくられているが,かれ日向ひなたこく高鍋たかなべ藩主はんしゅ秋月あきづき次男じなんとしてまれ,部屋住へやずみがりの辛酸しんさんをなめていた。…

保科ほしな正之まさゆき】より

江戸前えどまえ大名だいみょう会津あいづ藩主はんしゅ徳川とくがわ秀忠ひでただ三男さんなん。…

三谷みたにさんきゅうろう】より

米沢よねざわはんではさんたにろくだか700せき待遇たいぐうあたえ,金融きんゆうめんだけでなく上杉うえすぎ鷹山ようざん(ようざん)の殖産しょくさん興業こうぎょう政策せいさくふかくかかわり,蠟,あおからむし(あおそ),絹織物きぬおりもの一手いって販売はんばいまでおこなわせていた。会津あいづはんでも天明てんめい寛政かんせい(1781‐1801)の改革かいかくさんたにだけの資金しきん調達ちょうたつ実施じっしされており,1800ねん(寛政かんせい12)にははん三谷みたにからの借金しゃっきんは10まん8000りょうおよんだという。江戸えどでの三谷みたに寛政かんせい改革かいかくのさいの勘定かんじょうしょ御用達ごようたしとなり,さん貨の調節ちょうせつ公金こうきん貸付かしつけなどに従事じゅうじした。…

陸奥みちのくこく】より

…この戦後せんご大名だいみょう配置はいち陸奥みちのくにはじめて譜代ふだいはんもうけられ以後いごみなみ陸奥みちのくあいついで中小ちゅうしょうしょはん設置せっちをみた。まず,さいふう蒲生がもう会津あいづはんまんせきは2だい加藤かとう40まんせき交替こうたいし,加藤かとうも2だい保科ほしな(松平まつだいら)23まんせきわり幕末ばくまつおよんだ。この会津あいづはん変遷へんせん削減さくげんされた領地りょうち白河しらかわはん(丹羽にわ),三春みはるはん(加藤かとう),二本松にほんまつはん(松下まつした)がまれ,南会津みなみあいづ南山なんざん地方ちほう幕府ばくふりょうとなり会津あいづはん領地りょうちとなった。…

※「会津あいづはん」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

出典しゅってん株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばん)」

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