百科ひゃっか事典じてんマイペディア 「鳥羽とば・伏見ふしみの戦せん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 鳥羽とば・伏見ふしみの戦せん【とばふしみのたたかい】 戊つちのえ辰たつ(ぼしん)戦争せんそうの発端ほったんとなった戦たたかい。小しょう御所ごしょ会議かいぎで辞じ官かん,領地りょうち返納へんのうを命めいじられた徳川とくがわ慶喜よしのぶは,これに応おうぜず大だい坂城さかきに移うつり主導しゅどう権けん回復かいふくを画策かくさく,新しん政府せいふ内部ないぶでも公おおやけ議ぎ政体せいたい派はが勢力せいりょくを強つよめていた。これに危機ききを感かんじた西郷さいごう隆盛たかもりらは江戸えどで挑発ちょうはつ活動かつどうを繰くり返かえした。これに乗のった幕府ばくふ側がわは江戸えど薩摩さつま藩はん邸やしきを焼打やきうち,挙兵きょへい入京にゅうきょうを決きめた。鳥羽とば伏見ふしみ街道かいどうを北上ほくじょうする旧幕きゅうばく兵へい,会津あいづ・桑名くわな両りょう藩はん兵へい1万まん5000は1868年ねん1月がつ27日にち(慶応けいおう4年ねん1月がつ3日にち),薩長さっちょうを主力しゅりょくとする朝廷ちょうていの討伐とうばつ軍ぐん4000余あまりと鳥羽とばと伏見ふしみで戦闘せんとう。その日ひのうちに旧幕きゅうばく軍ぐんは敗退はいたいし,この結果けっか新しん政府せいふ内ないでの討幕とうばく派はの主導しゅどう権けんが確立かくりつ。→会津あいづ藩はん/桑名くわな藩はん→関連かんれん項目こうもく会津あいづ戦争せんそう|ウィリス|勝かつ海舟かいしゅう|近藤こんどう勇いさむ|新撰しんせん組ぐみ|熾仁親王たるひとしんのう|鳥羽とば|白虎隊びゃっこたい|松平まつだいら容保かたもり|淀よどみ藩はん 出典しゅってん 株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ百科ひゃっか事典じてんマイペディアについて 情報じょうほう
山川やまかわ 日本にっぽん史し小しょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん 「鳥羽とば・伏見ふしみの戦せん」の解説かいせつ 鳥羽とば・伏見ふしみの戦せんとば・ふしみのたたかい 戊つちのえ辰たつ(ぼしん)戦争せんそうの発端ほったんとなった戦せん。1867年ねん(慶応けいおう3)12月の小しょう御所ごしょ会議かいぎで薩摩さつま(鹿児島かごしま)藩はんなどの討幕とうばく派はが公おおやけ議ぎ政体せいたい派はを抑おさえ,前ぜん将軍しょうぐん徳川とくがわ慶喜よしのぶ(よしのぶ)に辞じ官かん・納地のうちが命めいじられたが,慶喜よしのぶはこれを拒こばんで大だい坂城さかきに退しりぞき,公おおやけ議ぎ政体せいたい派はも巻返まきかえしをはかったため,薩摩さつま藩はんは関東かんとう各地かくちで挑発ちょうはつ行動こうどうを展開てんかいした。翌年よくねん元旦がんたん慶喜よしのぶは討薩の表ひょうを草そうし,翌日よくじつ会津あいづ・桑名くわな両りょう藩はん兵へいを含ふくむ約やく1万まん5000人にんの幕府ばくふ軍ぐんが進軍しんぐんを開始かいし,3日にち夜よる京都きょうと南郊なんこうの鳥羽とば・伏見ふしみ(現げん,京都きょうと市し伏見ふしみ区く)で薩摩さつま・長州ちょうしゅう両りょう軍ぐん約やく4000人にんと衝突しょうとつした。装備そうびでまさる薩長さっちょう軍ぐんは幕府ばくふ軍ぐんを圧倒あっとうし,翌日よくじつには朝廷ちょうていから錦旗きんきをうけて官軍かんぐんが成立せいりつ,淀よどみ・津つ両りょう藩はんの寝返ねがえりもあって,6日にち幕府ばくふ軍ぐんは敗走はいそうした。この戦せんで新しん政府せいふにおける討幕とうばく派はの主導しゅどう権けんが確立かくりつし,7日にちには慶喜よしのぶ追討ついとう令れいがでて東征とうせいが開始かいしされた。 出典しゅってん 山川やまかわ出版しゅっぱん社しゃ「山川やまかわ 日本にっぽん史し小しょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん」山川やまかわ 日本にっぽん史し小しょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱんについて 情報じょうほう