百科ひゃっか事典じてんマイペディア 「磐城いわき平ひら藩はん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 磐城いわき平ひら藩はん【いわきたいらはん】 陸奥みちのく国こく磐いわ前まえ(いわさき)郡こおり磐いわお城平じょうひら(現げん,福島ふくしま県けんいわき市し)を城しろ地ちとした藩はん。平ひら藩はんともいう。中世ちゅうせい以来いらい磐城いわき地方ちほうを領有りょうゆうしてきた岩城いわき氏しは豊臣とよとみ秀吉ひでよしから旧領きゅうりょうを安堵あんどされるが,1602年ねんに改易かいえき。替かわって鳥居とりい忠政ただまさが10万まん石せきで入はいる(のち12万まん石せき)。忠政ただまさは1622年ねん出羽でわ山形やまがたに移うつり,以後いご内藤ないとう氏し(7万まん石せき,6代だい),井上いのうえ氏し(6万まん石せき,1代だい),安藤あんどう氏し(5万まん石せき,のち3万まん石せき,7代だい)が入にゅう封ふう。鳥居とりい氏し以降いこうはいずれも譜代ふだい。領りょう知ちは鳥居とりい氏し・内藤ないとう氏しが陸奥みちのく国くに楢葉ならは(ならは)郡ぐん・磐城いわき郡ぐん・磐いわ前まえ郡ぐん・菊きく多た(きくた)郡ぐんのうち,井上いのうえ氏し・安藤あんどう氏しは磐城いわき郡ぐん・磐いわ前まえ郡ぐん・菊きく多おお郡ぐんの城しろ付づけ2万まん3000石せきと飛地とびち領りょうであった。歴代れきだい藩主はんしゅのうち内藤ないとう忠興ただおきは大坂おおさか城代じょうだい,安藤あんどう信成のぶなり・安藤あんどう信正のぶまさは老中ろうじゅうに就任しゅうにん。1738年ねん(元もと文ぶん3年ねん)不作ふさく・洪水こうずいなどによる減収げんしゅうに対たいして過酷かこくな徴税ちょうぜいがあり,大だい規模きぼな百姓ひゃくしょう一揆いっき(元もと文ぶん大だい一揆いっき)が発生はっせい,このことが原因げんいんで内藤ないとう氏しは1747年ねん日向ひなた延岡のべおか(のべおか)に転てん封ふう。戊辰戦争ぼしんせんそうでは奥羽おうう越えつ列藩れっぱん同盟どうめいに加くわわり,1868年ねん新しん政府せいふ軍ぐんの攻撃こうげきを受うけて磐城いわき平城ひらじろは落城らくじょう。→関連かんれん項目こうもく小名浜おなはま|平ひらた 出典しゅってん 株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ百科ひゃっか事典じてんマイペディアについて 情報じょうほう
藩はん名めい・旧きゅう国名こくめいがわかる事典じてん 「磐城いわき平ひら藩はん」の解説かいせつ いわきたいらはん【磐城いわき平ひら藩はん】 江戸えど時代じだい、陸奥むつ(むつ)国こく磐いわ前まえ(いわさき)郡こおり磐いわお城平じょうひら(現げん、福島ふくしま県けんいわき市し)に藩はん庁ちょうをおいた譜代ふだい(ふだい)藩はん。藩校はんこうは施政しせい堂どう(しせいどう)。関ヶ原せきがはらの戦たたかい後ご、それまでの岩城いわき(いわき)氏しが改易かいえき(かいえき)され、1602年ねん(慶長けいちょう(けいちょう)7)、徳川とくがわ家康いえやす(とくがわいえやす)の側近そっきんだった鳥居とりい忠政ただまさとりい ただまさが10万まん石せきで入にゅう封ふう(にゅうほう)、城しろの築造ちくぞう、城下町じょうかまちの整備せいび、新田にった開発かいはつなどを進すすめた。22年ねん(元和がんわ(げんな)8)、忠政ただまさが出羽でわ(でわ)国こく山形やまがた藩はんへ転うたて封ふうじ(てんぽう)(国替くにがえ(くにがえ))、上総かずさ(かずさ)国こく佐貫さぬき(さぬき)藩はんから内藤ないとう政長まさなが(まさなが)が7万まん石せきで入にゅう封ふうじ、2代だい忠興ただおき(ただおき)が38年ねん(寛永かんえい(かんえい)15)に総そう検地けんちを行おこない、農政のうせいの改革かいかくに取とり組くんだ。しかし当初とうしょから財政難ざいせいなんが続つづき、1738年ねん(元もと文ぶん(げんぶん)3)には年貢ねんぐ減免げんめんなどを要求ようきゅうして全ぜん藩はん一揆いっきが発生はっせいした。それが原因げんいんで、47年ねん(延のべ享とおる(えんきょう)4)に内藤ないとう氏しは日向ひなた(ひゅうが)国こく延岡のべおか(のべおか)藩はんに転てん封ふうとなり、代かわって常陸ひたち(ひたち)国こく笠間かさま(かさま)藩はん主おもの井上いのうえ正ただし経けい(まさつね)が6万まん石せきで、56年ねん(宝たから暦れき6)には井上いのうえ氏しの転てん封ふうで、美濃みの(みの)国こく加納かのう(かのう)藩はん主おもの安藤あんどう信成のぶなり(のぶなり)が5万まん石せきで入にゅう封ふうじ、以後いごは明治維新めいじいしんまで安藤あんどう氏し7代だいが続つづいた。5代だい藩主はんしゅ安藤あんどう信正のぶまさ(のぶまさ)は1860年ねん(万延まんえん(まんえん)1)に幕府ばくふ老中ろうじゅう(ろうじゅう)に昇進しょうしん、公武こうぶ合体がったいを推進すいしんしたが、62年ねん(文久ぶんきゅう2)に尊王そんのう攘夷じょうい派はの水戸みと浪士ろうしの襲撃しゅうげきを受うけ負傷ふしょう、老中ろうじゅうを罷免ひめんされ2万まん石せきを減げん封ふうされた。戊つちのえ辰たつ(ぼしん)戦争せんそうでは奥おく羽越うえつ(おううえつ)列藩れっぱん同盟どうめいに参加さんかした。71年ねん(明治めいじ4)の廃藩置県はいはんちけんにより磐いわ城平じょうひら県けんが成立せいりつ、その後ご、平たいら(たいら)県けん、磐いわ前まえ(いわさき)県けんを経へて、76年ねん福島ふくしま県けんに編入へんにゅうされた。 出典しゅってん 講談社こうだんしゃ藩はん名めい・旧きゅう国名こくめいがわかる事典じてんについて 情報じょうほう
改訂かいてい新版しんぱん 世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてん 「磐城いわき平ひら藩はん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 磐城いわき平ひら藩はん (いわきたいらはん) 陸奥みちのく国こく磐いわ前ぜん郡ぐん磐城いわき平ひらたに藩はん庁ちょうを置おいた譜代ふだい中小ちゅうしょう藩はん。1602年ねん(慶長けいちょう7)岩城いわき氏しの改易かいえき後ご,奥州おうしゅう太平洋たいへいよう岸がん(浜はま通どおり)南端なんたんの押おさえとして鳥居とりい忠政ただまさが10万まん石せきで入にゅう封ふうし,築城ちくじょう,城下町じょうかまち建設けんせつ,08年ねんの領内りょうない総そう検地けんち,新田にった開発かいはつの奨励しょうれいなど藩はん体制たいせい確立かくりつに努つとめた。22年ねん(元和がんわ8)内藤ないとう政長まさながが7万まん石せきで入にゅう封ふうし,内藤ないとう氏しは6代だい124年ねんに及およんだ。38年ねん(寛永かんえい15)総そう検地けんち(寅とらの縄なわ)を実施じっしして確立かくりつしつつあった近世きんせい村落そんらくの状況じょうきょうを掌握しょうあくし,夏井川なついがわ上流じょうりゅうから小川おがわ江こうを開削かいさくするなど農政のうせい,沿岸えんがん漁業ぎょぎょう,馬うま産さんに力ちからを入いれ,小名浜おなはま湊みなとを窓口まどぐちに江戸えど,大だい坂さかなどとの取引とりひきを盛さかんにした。しかし当初とうしょより財政難ざいせいなんで53年ねん(承うけたまわ応おう2),57年ねん(明あかり暦れき3)初期しょき藩政はんせい改革かいかくを断行だんこうして地方ちほう知行ちぎょうから禄ろく米まい制せいへ切きり替かえ,農民のうみん収奪しゅうだつを強化きょうかしたが,家中いえじゅう騒動そうどうや農民のうみんの抵抗ていこうがあいついで藩政はんせいは動揺どうようし,1738年ねん(元もと文ぶん3)には元もと文ぶん一揆いっきといわれる大だい抵抗ていこうを受うけた。47年ねん(延のべ享とおる4)井上いのうえ正ただし経けいが6万まん石せき,56年ねん(宝たから暦れき6)安藤あんどう信成のぶなりが5万まん石せきで入にゅう封ふうするが,所領しょりょうは分散ぶんさんされ,廃藩置県はいはんちけんに至いたる。藩はん財政ざいせいは天明てんめい・天保てんぽうの飢饉ききんもあって困窮こんきゅうし,老中ろうじゅう安藤あんどう信正のぶまさが坂下さかした門外もんがいの変へんで失脚しっきゃくし2万まん石せきに減げん封ふうじ,戊辰戦争ぼしんせんそうでは奥羽おうう越えつ列藩れっぱん同盟どうめいに加盟かめいして新しん政府せいふ軍ぐんに抵抗ていこうしたため,陸奥みちのく磐井いわい郡ぐんに移うつされようとしたが,中止ちゅうしされた。執筆しっぴつ者しゃ:青木あおき 美智男みちお 出典しゅってん 株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ「改訂かいてい新版しんぱん 世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてん」改訂かいてい新版しんぱん 世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてんについて 情報じょうほう
デジタル大辞泉だいじせんプラス 「磐城いわき平ひら藩はん」の解説かいせつ 磐城いわき平ひら藩はん 陸奥みちのく国こく、磐城いわき平ひら地方ちほう(現げん:福島ふくしま県けんいわき市し)を領有りょうゆうした平たいら(たいら)藩はんの別称べっしょう。 出典しゅってん 小学館しょうがくかんデジタル大辞泉だいじせんプラスについて 情報じょうほう
日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ) 「磐城いわき平ひら藩はん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 磐城いわき平ひら藩はんいわきたいらはん →平ひら藩はん 出典しゅってん 小学館しょうがくかん 日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)について 情報じょうほう | 凡例はんれい
世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてん(旧版きゅうばん)内うちの磐城いわき平ひら藩はんの言及げんきゅう 【陸奥みちのく国こく】より …1664年ねん(寛文ひろふみ4)上杉うえすぎ氏しの削そぎ封ふうによって伊達だて・信夫しのぶ両りょう郡ぐんは幕府ばくふ領りょうとなり,その後ご,同どう地方ちほうには福島ふくしま藩はん,梁川はしかわ(やながわ)藩はん,桑折くわおり(こおり)藩はん,下手渡しもてど(しもてど)藩はん,下村しもむら藩はんなどの小しょう藩はんに,桑折くわおり,川俣かわまた,梁川やながわなどの幕府ばくふ領りょうが加くわわり複雑ふくざつな入いれ組ぐみ支配しはい(いりくみしはい)の変遷へんせんが続つづいた。現げん福島ふくしま県けん南部なんぶも同おなじ傾向けいこうで,鳥居とりい氏しが山形やまがたに移うつり封ふうとなった後のちの磐城いわき平ひら藩はんには譜代ふだい大名だいみょう内藤ないとう氏し7万まん石せきが入はいり,以後いご井上いのうえ氏し,安藤あんどう氏しと続つづき,泉いずみ藩はん2万まん石せきが1634年ねん(寛永かんえい11)に,湯ゆ長谷ながたに(ゆながや)藩はんが70年ねんにそれぞれ磐いわ城平じょうひら藩はんから分ぶん知ちした。棚倉たなぐら藩はんは立花たちばな氏しが筑後ちくご柳河やなかわに去さった後のち,丹羽にわ,内藤ないとう,太田おおた,松平まつだいら,小笠原おがさわらなど5万まん~6万まん石せきの大名だいみょうの転入てんにゅう封ふうが続つづき,塙はなわ領りょうに加くわえて小名浜おなはま5万まん石せき弱じゃくが1746年ねん(延のべ享とおる3)に幕府ばくふ領りょうとなった。… ※「磐城いわき平ひら藩はん」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつの一部いちぶを掲載けいさいしています。 出典しゅってん|株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ「世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてん(旧版きゅうばん)」