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河井継之助(カワイツグノスケ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

河井かわい継之助つぐのすけみ)カワイツグノスケ

デジタル大辞泉だいじせん河井かわい継之助つぐのすけ」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

かわい‐つぐのすけ〔かはゐ‐〕【河井かわい継之助つぐのすけ

[1827~1868]幕末ばくまつ越後えちご長岡ながおかはん家老がろう秋義あきよしごうあおいりゅうくつ継之助つぐのすけは「つぎのすけ」とも。山田やまだかたたにらにまなび、長崎ながさきにも遊学ゆうがくして開国かいこくろんものとなる。藩政はんせい改革かいかく成功せいこうし、洋式ようしき兵法ひょうほう導入どうにゅう

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かわい‐つぐのすけ【河井かわい継之助つぐのすけ

  1. 幕末ばくまつ越後えちご長岡ながおかはん執政しっせい上席じょうせき家老がろう秋義あきよしごうあおいりゅうくつ陽明学ようめいがくおさめ、さらに佐久間さくま象山ぞうさん斎藤さいとうつたなどうについてまなぶ。世界せかい事情じじょうつうじて開国かいこくろんとなえた。戊辰戦争ぼしんせんそうさいしては、はん局外きょくがい中立ちゅうりつをはかったが、官軍かんぐんこばまれ、抗戦こうせんして戦死せんし文政ぶんせいいち〇~慶応けいおうよんねんいちはちななろくはち

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河井かわい継之助つぐのすけ (かわいつぐのすけ)
なま没年ぼつねん:1827-68(文政ぶんせい10-明治めいじ1)

江戸えど末期まっき越後えちご長岡ながおか藩士はんしで,戊辰戦争ぼしんせんそうのときしん政府せいふぐん頑強がんきょう抵抗ていこうした。秋義あきよしごうあおいりゅうくつ継之助つぐのすけ通称つうしょうはん上士じょうしいえまれて20だい江戸えど遊学ゆうがくし,斎藤さいとうつたなどう古賀こが謹堂に儒学じゅがくまなんだ。またペリー来航らいこうの30だいには,西日本にしにほんあしをのばして備中びっちゅう松山まつやま山田やまだかたたに師事しじし,さらに長崎ながさきにもあそんで見聞けんぶんひろめた。判断はんだんりょくぎょう動力どうりょくともに独特どくとく強烈きょうれつさをもつ人格じんかく形成けいせいされる。1864ねんもと1)のぐん奉行ぶぎょうから68ねん家老がろういたはん要職ようしょく歴任れきにんしたが,かれ特異とくいせいもっともよく発揮はっきされたのは,戊辰戦争ぼしんせんそうさいしての中立ちゅうりつ主義しゅぎである。継之助つぐのすけ上京じょうきょうちゅうだった藩主はんしゅかえると同時どうじ外商がいしょうから最新さいしんしき銃砲じゅうほう大量たいりょう購入こうにゅうし,はんへい1000あまりはんさかい配置はいちした。しん政府せいふ旧幕きゅうばくのどちらにも荷担かたんしない局外きょくがい中立ちゅうりつ宣言せんげんする。むろんしん政府せいふぐんはこれをみとめずめこみ,長岡ながおかしろ占領せんりょう奪還だっかんさい占領せんりょう激戦げきせんとなった。中立ちゅうりつ主義しゅぎのために城下町じょうかまち壊滅かいめつするというめずらしい戦争せんそうだった。継之助つぐのすけもこの戦闘せんとうきずってぬ。日記にっきちりつぼ》がある。
執筆しっぴつしゃ

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百科ひゃっか事典じてんマイペディア河井かわい継之助つぐのすけ」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

河井かわい継之助つぐのすけ【かわいつぐのすけ】

幕末ばくまつ越後えちご長岡ながおかはん秋義あきよし(あきよし),ごうあおいりゅうくつ(そうりゅうくつ)。江戸えど遊学ゆうがく佐久間さくま象山ぞうさん古賀こが謹一きんいちろう師事しじ帰国きこくして砲術ほうじゅつ研究けんきゅう開国かいこくろんとなえる。さらに長崎ながさき遊学ゆうがくはん要職ようしょくにつき政治せいじ改革かいかくおこなう。戊辰戦争ぼしんせんそうさいしてはしん政府せいふ旧幕きゅうばくのいずれにも荷担かたんしない局外きょくがい中立ちゅうりつとなえたが,北陸ほくりく征討せいとうしん政府せいふぐんにいれられず交戦こうせん長岡ながおかじょう占領せんりょう奪還だっかんさい占領せんりょうという激戦げきせんとなった。継之助つぐのすけ自身じしんもこの戦闘せんとう負傷ふしょうし,陸奥むつ(むつ)会津あいづかう途中とちゅう死去しきょ日記にっきちりつぼ(ちりつぼ)》がある。→北越ほくえつ戦争せんそう

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ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん河井かわい継之助つぐのすけ」の解説かいせつ

河井かわい継之助つぐのすけ

没年ぼつねん明治めいじ1.8.16(1868.10.1)
生年せいねん文政ぶんせい10.1.1(1827.1.27)
幕末ばくまつ長岡ながおかはん(新潟にいがたけん)藩士はんしちちあきおさむ,はは貞子さだこ。2にわたり江戸えど,いで中国ちゅうごく,九州きゅうしゅう遊学ゆうがくし,慶応けいおう1(1865)ねんぐん奉行ぶぎょう,翌年よくねん町奉行まちぶぎょう兼務けんむ,どう3ねん家老がろうのぼる。同年どうねん12がつ藩主はんしゅ牧野まきのただしくんしたが上洛じょうらく,王政おうせい復古ふっこ誕生たんじょうしたしん政府せいふたい徳川とくがわへの大政たいせいさい委任いにん建言けんげんした。よく明治めいじ1(1868)ねん1がつ鳥羽とば伏見ふしみせんののち江戸えど退しりぞく。藩邸はんてい資財しざい売却ばいきゃくしガトリングほうほかの新式しんしき兵器へいき購入こうにゅう,3月に長岡ながおかかえる。しん政府せいふ会津あいづはんならびに奥羽おううしょはんとのあいだ中立ちゅうりつし,双方そうほう融和ゆうわはかろうとして失敗しっぱい,奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいくわわる。5月19にち政府せいふぐん攻撃こうげき長岡ながおか落城らくじょう,7がつ24にち奪回だっかいするがどう29にちふたた落城らくじょう戦闘せんとう負傷ふしょうし,松本まつもとりょうじゅん手当てあてをけたが甲斐かいなく陣没じんぼつ。<参考文献>今泉いまいずみ鐸次ろう河井かわい継之助つぐのすけでん

(井上いのうえいさお)

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山川やまかわ 日本にっぽんしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん河井かわい継之助つぐのすけ」の解説かいせつ

河井かわい継之助つぐのすけ
かわいつぐのすけ

1827.1.1~68.8.16

幕末ばくまつ維新いしん越後えちごこく長岡ながおか藩士はんしちちだいみぎ衛門えもんあきおさむ秋義あきよし江戸えど佐久間さくま象山ぞうさん(しょうざん)・古賀こが謹堂にまなび,長崎ながさき遊学ゆうがくして開国かいこくろんしゃとなる。ぐん奉行ぶぎょう町奉行まちぶぎょうから執政しっせいすすみ,そのあいだはんいて長州ちょうしゅうさいせい参加さんか中止ちゅうしさせ,また財政ざいせい改革かいかくつとめた。1867ねん(慶応けいおう3)藩主はんしゅ牧野まきのただしくん(ただくに)にしたがってきょうはいり,大政奉還たいせいほうかん反対はんたい戊辰戦争ぼしんせんそう開始かいし長岡ながおかかえり,はん中立ちゅうりつ立場たちばにたたせた。北陸ほくりく征討せいとうぐんせまると,5がつ小千谷おじや(おぢや)に東山ひがしやまみちぐんぐんかん岩村いわむらこうしゅんたず中立ちゅうりつ趣旨しゅし弁明べんめいするがいれられず,官軍かんぐん抗戦こうせん決意けつい陥落かんらくした長岡ながおかしろ奇襲きしゅうにより奪還だっかんするが,このおりのきずがもとで,会津あいづおもむ途中とちゅう会津あいづはんりょう大沼おおぬまぐん塩沢しおざわむらぼつたび日記にっきちりつぼ(ちりつぼ)」。

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デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus河井かわい継之助つぐのすけ」の解説かいせつ

河井かわい継之助つぐのすけ かわい-つぐのすけ

1827-1868 幕末ばくまつ武士ぶし
文政ぶんせい10ねん1がつ1にちまれ。越後えちご(えちご)(新潟にいがたけん)長岡ながおか藩士はんし江戸えど斎藤さいとうつたなどう,古賀こが謹一きんいちろう,佐久間さくま象山ぞうさんにまなぶ。慶応けいおう3ねんはん執政しっせいとなり藩政はんせい改革かいかく断行だんこう翌年よくねん家老がろう上席じょうせきにすすむ。つちのえたつ(ぼしん)戦争せんそうでは中立ちゅうりつ立場たちばをとろうとしたがしん政府せいふぐんにみとめられず戦闘せんとうにはいる。長岡ながおかじょう攻防こうぼう負傷ふしょう,慶応けいおう4ねん8がつ16にちぼっした。42さい秋義あきよしごうあおいりゅうくつ
格言かくげんなど】天下てんかになくてはならぬひととなるか,ゆうてはならぬひととなれ

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ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん河井かわい継之助つぐのすけ」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

河井かわい継之助つぐのすけ
かわいつぐのすけ

[せい]文政ぶんせい10(1827)
[ぼつ]明治めいじ1(1868)
幕末ばくまつ越後えちご長岡ながおか藩士はんし秋義あきよしあおいりゅうくつごうした。長岡ながおかまち奉行ぶぎょうから長岡ながおかはん上席じょうせき家老がろう軍事ぐんじ総督そうとく戊辰戦争ぼしんせんそうさい武装ぶそう中立ちゅうりつさくをとったが,政府せいふぐんみとめなかったために激戦げきせんとなり,この戦闘せんとう負傷ふしょう戦死せんしした。

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367にち誕生たんじょう日大にちだい事典じてん河井かわい継之助つぐのすけ」の解説かいせつ

河井かわい継之助つぐのすけ (かわいつぐのすけ)

生年月日せいねんがっぴ:1827ねん1がつ1にち
江戸えど時代じだい末期まっき越後えちご長岡ながおかはん家老がろう
1868ねんぼつ

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河井かわい継之助つぐのすけ(かわいつぐのすけ)
かわいつぐのすけ

河井かわい継之助つぐのすけ

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうち河井かわい継之助つぐのすけ言及げんきゅう

北越ほくえつ戦争せんそう】より

しん政府せいふぐんは,動向どうこう疑惑ぎわくをもたれた長岡ながおかはんめざして進撃しんげきし,5月に柏崎かしわざき本営ほんえいを,小千谷おじや関原せきはら会議かいぎしょを,高田たかだ民政みんせいきょく設立せつりつした。河井かわい継之助つぐのすけ指導しどうされた長岡ながおかはんは,奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいはしって頑強がんきょう抗戦こうせんし,長岡ながおかじょう争奪そうだつせんひろげた。戉辰戦争せんそうちゅう,もっともはげしい焦土しょうどせんは,8がつ11にち村上むらかみはん落城らくじょう終息しゅうそくした。…

※「河井かわい継之助つぐのすけ」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

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