精選せいせん版ばん 日本にっぽん国語こくご大だい辞典じてん 「古賀こが謹一きんいち郎ろう」の意味いみ・読よみ・例文れいぶん・類語るいご こが‐きんいちろう【古賀こが謹一きんいち郎ろう】 幕末ばくまつ・明治めいじ初期しょきの朱子学しゅしがく者しゃ、洋学ようがく者しゃ。侗庵(どうあん)の子こ。名なは増ぞう(まさる)。字じは如川。号ごう茶ちゃ渓けい(さけい)、謹堂。家学かがくを承うけて幕府ばくふの儒官じゅかんとなり、また洋学ようがくに志こころざして、のち洋学ようがく所しょの創設そうせつに尽力じんりょくし、その初代しょだい頭取とうどりとなる。またアメリカ使節しせつペリーの応対おうたいや、外交がいこう文書ぶんしょの作成さくせいなどにあたる。著ちょの「度ど日び閑言」は、西洋せいよう事情じじょうを多おおく伝つたえる。文化ぶんか一いち三さん~明治めいじ一いち七なな年ねん(一いち八はち一いち六ろく‐八はち四よん) 出典しゅってん 精選せいせん版ばん 日本にっぽん国語こくご大だい辞典じてん精選せいせん版ばん 日本にっぽん国語こくご大だい辞典じてんについて 情報じょうほう | 凡例はんれい
百科ひゃっか事典じてんマイペディア 「古賀こが謹一きんいち郎ろう」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 古賀こが謹一きんいち郎ろう【こがきんいちろう】 幕末ばくまつ明治めいじ初期しょきの儒者じゅしゃ,洋学ようがく者もの。名なは増ふえ(まさる)。号ごうは茶ちゃ渓けい(ちゃけい),謹堂。父ちちは幕府ばくふ儒官じゅかん古賀こが【どう】庵あん〔1788-1847〕。江戸えど昌平しょうへい黌の官舎かんしゃに生うまれる。1853年ねんロシア海軍かいぐん提督ていとくプチャーチンの来航らいこうに際さいして勘定かんじょう奉行ぶぎょう川路かわじ聖謨としあきら(としあきら)に従したがって長崎ながさきへおもむく。1855年ねん創設そうせつの洋学ようがく所しょ(のちの蕃しげる書しょ調ちょう所しょ,開成かいせい所しょ)頭取とうどり。明治維新めいじいしん後ごは新しん政府せいふより徴ちょうせられたが辞退じたい。著書ちょしょ《度ど日び閑言(とじつかんげん)》《蕃しげる談だん(ばんだん)》。→関連かんれん項目こうもく河井かわい継之助つぐのすけ 出典しゅってん 株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ百科ひゃっか事典じてんマイペディアについて 情報じょうほう
改訂かいてい新版しんぱん 世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてん 「古賀こが謹一きんいち郎ろう」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 古賀こが謹一きんいち郎ろう (こがきんいちろう)生なま没年ぼつねん:1816-84(文化ぶんか13-明治めいじ17) 幕末ばくまつ,明治めいじ前期ぜんきの儒学じゅがく者しゃ,洋学ようがく者しゃ。名なは増ふえ,字じは如川,号ごうは謹堂,茶ちゃ渓けい。謹一きんいち郎ろうは通称つうしょう。幕府ばくふ儒官じゅかん古賀こが侗庵の子こ。早はやくより家学かがくを受うけ17歳さいにして二に十じゅう一いち史しに通つうずる。1836年ねん(天保てんぽう7)幕府ばくふに出仕しゅっしし,46年ねん(弘ひろし化か3)儒者じゅしゃ見習みならいとなる。このころから洋学ようがくに関心かんしんを持もち外交がいこうにも関与かんよした。55年ねん(安政あんせい2)洋学ようがく所しょ(翌年よくねん,蕃しげる書しょ調ちょう所しょと改称かいしょう)頭取とうどりとなり洋学ようがくの興隆こうりゅうにつとめ,62年ねん(文久ぶんきゅう2)昌平しょうへい黌学事がくじに転てんずる。主著しゅちょ《度ど日び閑言》。執筆しっぴつ者しゃ:頼よりゆき 祺一 出典しゅってん 株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ「改訂かいてい新版しんぱん 世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてん」改訂かいてい新版しんぱん 世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてんについて 情報じょうほう
日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ) 「古賀こが謹一きんいち郎ろう」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 古賀こが謹一きんいち郎ろうこがきんいちろう(1816―1884) 幕末ばくまつの進歩しんぽ的てき儒官じゅかん、外交がいこう官かん。江戸えどに生うまれる。名なは増ふえ(まさる)、字じ(あざな)は如川。謹堂または茶ちゃ渓けいと号ごうした。祖父そふの精里せいり、父ちちの侗庵(どうあん)は漢学かんがく者しゃながら開国かいこく論ろん者しゃであり、彼かれも海外かいがいに目めを向むけた。ハワイからアラスカを見聞けんぶんした漂民の次郎吉じろきちの談話だんわをまとめて『蕃しげる談だん(ぱんだん)』(1849)を著あらわし、1853年ねん(嘉よしみ永なが6)ロシア使節しせつプチャーチンが来航らいこうしたおりには異国いこく応接おうせつ掛かけとして長崎ながさきに派遣はけんされ交渉こうしょうにあたった。洋学ようがく研究けんきゅう機関きかん蕃しげる書しょ調ちょう所しょ(ばんしょしらべしょ)の創設そうせつに尽力じんりょくし、初代しょだい頭取とうどりとなり(1855~62)、西洋せいよう研究けんきゅうの官学かんがくにおける確立かくりつ者しゃとして功績こうせきが大おおきい。オランダの雑誌ざっし記事きじの漢かん訳やく文集ぶんしゅう『度ど日び閑言』25巻かん、そのほか詩集ししゅう、文集ぶんしゅう(いずれも未刊みかん)を残のこしている。[石山いしやま 洋よう] 出典しゅってん 小学館しょうがくかん 日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)について 情報じょうほう | 凡例はんれい
デジタル版ばん 日本人にっぽんじん名めい大だい辞典じてん+Plus 「古賀こが謹一きんいち郎ろう」の解説かいせつ 古賀こが謹一きんいち郎ろう こが-きんいちろう 1816-1884 幕末ばくまつ-明治めいじ時代じだいの儒者じゅしゃ。文化ぶんか13年ねん11月11日にち生うまれ。古賀こが侗庵(どうあん)の長男ちょうなん。家学かがくをついで幕府ばくふの儒官じゅかんとなる。嘉よしみ永えい(かえい)6年ねん川路かわじ聖謨としあきら(としあきら)らとロシア使節しせつプチャーチンの応接おうせつ掛かけをつとめる。安政あんせい3年ねん蕃しげる書しょ調ちょう所しょ初代しょだい頭取とうどり。のち製鉄せいてつ所しょ奉行ぶぎょう並なみ,目付めつけなどを歴任れきにん。維新いしん後ごは新しん政府せいふに出仕しゅっししなかった。明治めいじ17年ねん10月がつ31日にち死去しきょ。69歳さい。江戸えど出身しゅっしん。名なは増ふえ(まさる)。字じ(あざな)は如川。号ごうは茶ちゃ渓けい,謹堂。著作ちょさくに「度ど日び閑言」など。 出典しゅってん 講談社こうだんしゃデジタル版ばん 日本人にっぽんじん名めい大だい辞典じてん+Plusについて 情報じょうほう | 凡例はんれい
ブリタニカ国際こくさい大だい百科ひゃっか事典じてん 小しょう項目こうもく事典じてん 「古賀こが謹一きんいち郎ろう」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 古賀こが謹一きんいち郎ろうこがきんいちろう [生せい]文化ぶんか13(1816)[没ぼつ]1884幕末ばくまつの洋学ようがく者しゃ。漢学かんがくの家いえに生うまれ,海外かいがい事情じじょうに関心かんしんをもち,蕃しげる書しょ調ちょう所しょの初代しょだい頭取とうどりとなった。また嘉よしみ永なが6 (1853) 年ねん,ロシア使節しせつの長崎ながさき来航らいこうの際さい,交渉こうしょうの任にんにあたった。 出典しゅってん ブリタニカ国際こくさい大だい百科ひゃっか事典じてん 小しょう項目こうもく事典じてんブリタニカ国際こくさい大だい百科ひゃっか事典じてん 小しょう項目こうもく事典じてんについて 情報じょうほう
367日にち誕生たんじょう日大にちだい事典じてん 「古賀こが謹一きんいち郎ろう」の解説かいせつ 古賀こが謹一きんいち郎ろう (こがきんいちろう) 生年月日せいねんがっぴ:1816年ねん11月11日にち江戸えど時代じだい末期まっき;明治めいじ時代じだいの幕臣ばくしん1884年ねん没ぼつ 出典しゅってん 日外にちがいアソシエーツ「367日にち誕生たんじょう日大にちだい事典じてん」367日にち誕生たんじょう日大にちだい事典じてんについて 情報じょうほう