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由利公正 - Wikipedia

由利ゆり公正きみまさ

日本にっぽん政治せいじ

由利ゆり 公正きみまさ(ゆり きみまさ / ゆり こうせい[2]文政ぶんせい12ねん11月11にち1829ねん12月6にち〉- 明治めいじ42ねん1909ねん4がつ28にち)は、日本にっぽん武士ぶし福井ふくい藩士はんし)、政治せいじ財政ざいせい実業じつぎょう子爵ししゃく麝香じゃこうあいだ祗候しこう旧姓きゅうせい三岡みつおか通称つうしょういしろう八郎はちろうゆかり雅号がごうくものきなど。

由利ゆり 公正きみまさ
明治めいじ時代じだい由利ゆり 公正きみまさ
生年月日せいねんがっぴ 1829ねん12月6にち
旧暦きゅうれき文政ぶんせい12ねん11月11にち
出生しゅっしょう 越前えちぜんこく足羽あすわぐん福井ふくいじょうした
げん福井ふくいけん福井ふくい
ぼつ年月日ねんがっぴ (1909-04-28) 1909ねん4がつ28にち(79さいぼつ
死没しぼつ 東京とうきょう東京とうきょうしば高輪たかなわ
げん東京とうきょうみなと高輪たかなわ
ぜんしょく 福井ふくいはん
称号しょうごう 子爵ししゃく麝香じゃこうあいだ祗候しこう
勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう

在任ざいにん期間きかん 1871ねん9月7にち - 1872ねん8がつ18にち

在任ざいにん期間きかん 1875ねん4がつ25にち - 1876ねん12月18にち
1885ねん1がつ13にち - 1890ねん10がつ20日はつか

在任ざいにん期間きかん 1890ねん7がつ10日とおか - 1909ねん4がつ30にち[1]
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福井ふくい中央公園ちゅうおうこうえん由利ゆり公正きみまさぞう現在げんざいこうきょう (福井ふくい)みなみつめ移転いてん

来歴らいれき

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文政ぶんせい12ねん1829ねん)、福井ふくいはん三岡みつおか義知よしとも(100せき)の嫡男ちゃくなんとして越前えちぜんこく足羽あすわぐん福井ふくいじょうしたげん福井ふくいけん福井ふくい)にまれる。よしみひさし6ねん1853ねん)に家督かとく相続そうぞく福井ふくいおとずれた横井よこい小楠しょうなん殖産しょくさん興業こうぎょうさく触発しょくはつされ、横井よこいから財政ざいせいがくまなぶ。橋本はしもとひだりないらと国事こくじ奔走ほんそうし、藩主はんしゅ松平まつだいら慶永よしながから財政ざいせい手腕しゅわんひょうされて抜擢ばってきされ、藩札はんさつ発行はっこう専売せんばいせい結合けつごうした殖産しょくさん興業こうぎょう政策せいさく窮乏きゅうぼうしたはん財政ざいせい再建さいけんする。

慶永よしなが幕府ばくふ政事せいじ総裁そうさいしょく就任しゅうにんすると、慶永よしなが側用人そばようにん就任しゅうにんする。長州ちょうしゅう征伐せいばつでは、はんろんめぐって対立たいりつした征伐せいばつ支持しじ薩摩さつまはん長州ちょうしゅうはんなど雄藩ゆうはん支持しじ両派りょうは提携ていけい画策かくさくしたものの、支持しじられず福井ふくいにて蟄居ちっきょ謹慎きんしん処分しょぶんとなった。謹慎きんしんちゅう坂本さかもと龍馬りょうま来訪らいほうけて交流こうりゅうふかめる。坂本さかもととはしん政府せいふるべき経済けいざい政策せいさくについて談義だんぎし、このことがしん政府せいふへの参画さんかくもとめられたことへむすびついたのだとのちかたっている。

明治維新めいじいしん土佐とさはん福岡ふくおか孝弟こうていらととも箇条かじょう誓文せいもん起草きそう参画さんかくした(公正こうせい作成さくせいした「議事ぎじからだ大意たいい」が原文げんぶんとなっている)。しん政府せいふではちょう参与さんよとして、金融きんゆう財政ざいせい政策せいさく担当たんとうする。慶応けいおう4ねん2がつ16にち参与さんよ会計かいけい事務じむかけ由利ゆりは、紙幣しへい製造せいぞう対策たいさく建白けんぱくし、慶応けいおう4ねん1がつ24にち政府せいふは300まんりょう製造せいぞう決定けってい由利ゆり事務じむ管掌かんしょう命令めいれいした。会計かいけい事務じむかけ用金ようきんこく取締とりしまりとして、会計かいけいもと立金たつがね募集ぼしゅう太政官だじょうかんさつ発行はっこう商法しょうほう設置せっちなど積極せっきょくてき政策せいさく推進すいしんしたものの、太政官だじょうかんさつ流通りゅうつうなんなど政策せいさくたいする批判ひはんたかまった結果けっか明治めいじ2ねん1869ねん)に辞職じしょくするにいたった。このころ外国がいこくじん技師ぎしれて宇都宮うつのみやはん放棄ほうきした篠井しのい金山かなやま採掘さいくつしたものの、事業じぎょう軌道きどうらなかった[3]

明治めいじ4ねん1871ねん)に東京とうきょう府知事ふちじ就任しゅうにん明治めいじ5ねん1872ねん)5がつ岩倉いわくら使節しせつだん随行ずいこうくわわることになりアメリカヨーロッパ渡航とこうし、各国かっこく自治じち制度せいど議会ぎかい制度せいどなどを研究けんきゅう明治めいじ7ねん1874ねん)、板垣いたがき退助たいすけ江藤えとう新平しんぺいらとともに、政府せいふたいしてみんせん議院ぎいん設立せつりつ建白けんぱくしょ提出ていしゅつする。

明治めいじ8ねん1875ねん)に元老げんろう院議いんぎかんにんぜられ、明治めいじ20ねん1887ねん)5がつ24にち子爵ししゃくじょせられる[4]明治めいじ23ねん1890ねん)には貴族きぞくいん議員ぎいん同年どうねん10がつ20日はつか麝香じゃこうあいだ祗候しこうとなる[5]

明治めいじ27ねん1894ねん)3がつ京都きょうとにて有隣うりん生命せいめい保険ほけん会社かいしゃ初代しょだい社長しゃちょう就任しゅうにんした。

明治めいじ42ねん(1909ねん)4がつ28にち脳溢血のういっけつのため東京とうきょうしば高輪たかなわ自宅じたく死去しきょ[6]。79さいぼつ墓所はかしょ品川しながわうみ晏寺

政策せいさく

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はん殖産しょくさん興業こうぎょうさく実施じっしするため、横井よこい小楠しょうなんとも西国さいごく各地かくち出張しゅっちょうしている。下関しものせきでは物産ぶっさん取引とりひき実情じつじょう調査ちょうさし、長崎ながさきでははん蔵屋敷くらやしきててオランダ商館しょうかん生糸きいと販売はんばい特約とくやくむすぶなど、積極せっきょくてき経済けいざい政策せいさく推進すいしんした。「みんめばくにである」という「みんとみろんてき富国ふこくさくおおきな成果せいかげた結果けっかはん財政ざいせい黒字くろじてんじた。

東京とうきょう府知事ふちじ時代じだい、1872ねん4がつ3にち旧暦きゅうれき明治めいじ5ねん2がつ26にち)に銀座ぎんざ大火たいか発生はっせいし、現在げんざい東京とうきょうまるうち銀座ぎんざ築地つきじ一帯いったい全焼ぜんしょうした。当時とうじ東京とうきょう木造もくぞう家屋かおくおおかったため、由利ゆり銀座ぎんざ大火たいかけて東京とうきょう防火ぼうか防災ぼうさい都市としとすべく銀座ぎんざ煉瓦れんがづくりの建築けんちくぶつ数多かずおおてたり、現在げんざい銀座ぎんざ大通おおどお幅員ふくいんを「ニューヨークロンドン目抜めぬどおなみに45.5mに拡張かくちょうすべし」と主張しゅちょう結局けっきょくは27.3mの拡幅かくふくとなった)するなどといった都市とし改造かいぞう計画けいかく立案りつあん実行じっこううつした[7]

人物じんぶつ

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名乗なのりについて

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生誕せいたん福井ふくい藩士はんし時代じだいまでは「三岡みつおか 八郎はちろう(みつおか はちろう)」のもちい、明治維新めいじいしんのちに「由利ゆり 公正きみまさ」にあらためた。由利ゆり公正きみまさみについて「こうせい」か「きみまさ」かでなが議論ぎろんがあったが、「Yuri Kimimasa」とマ字まじみずか署名しょめいした東京とうきょう府知事ふちじ時代じだい公文書こうぶんしょ平成へいせい26ねん2014ねん)3がつ発見はっけんされたため由利ゆり公正きみまさみについて福井ふくいけんは「『ゆり・きみまさ』として今後こんごみをおこなう」とする意向いこうしめしている[8]

由利ゆりせい名乗なのったのは、平安へいあん時代じだい末期まっき出羽でわこく沿岸えんがん中部ちゅうぶ由利ゆり地方ちほうげん秋田あきたけん由利ゆり本荘ほんじょう)の豪族ごうぞく由利ゆり維平およびその子孫しそんである滝沢たきざわ由利ゆりじゅうとう)の家伝かでんからだった。

公正こうせい母親ははおや家政かせいまわしが上手じょうず賢婦人けんぷじんとしてられ、公正こうせい幼少ようしょうころよりははたすけて家屋かおく修繕しゅうぜん菜園さいえんでの農作業のうさぎょうちち乗馬じょうば飼育しいくなどを手伝てつだった一方いっぽう武道ぶどうにもはげんだとされる。

自身じしん越前えちぜんはんより蟄居ちっきょめいぜられているさいに、なかめることで保温ほおんりょくたかめるかまど(へっつい)を考案こうあん。このへっついはそれまでの製品せいひんよりも火力かりょくたか燃料ねんりょう節約せつやく出来できたことから重宝ちょうほうされ、「三岡みつおかへっつい」とばれて1935ねん昭和しょうわ10ねん)くらいまで福井ふくいけん使用しようされていたという[7]

坂本さかもと龍馬りょうまとの関係かんけい

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坂本さかもと龍馬りょうまとは大変たいへんったようで、龍馬りょうま2度目どめ福井ふくい来訪らいほう足羽川あすわがわちかくのやままちのたばこ旅館りょかんにて、早朝そうちょうから深夜しんやまでのべ日本にっぽん将来しょうらいかたったという。当時とうじ謹慎きんしんちゅう公正こうせい三岡みつおか八郎はちろう)には立会たちあいじんとして藩士はんしったにもかかわらず、龍馬りょうま遠慮えんりょせずに「三岡みつおかはなすことがやまほどあるぜよ」とさけんだとつたえられる。箇条かじょう誓文せいもん原文げんぶんとなった「議事ぎじからだ大意たいい」は龍馬りょうまふねちゅうはちさく(「ふねちゅうはちさく」については史料しりょうじょう疑義ぎぎおおく、史料しりょうとして現存げんそんしている「しん政府せいふ綱領こうりょうはちさく」ではないかとのせつもある)と思想しそうてき基本きほん共通きょうつうしている。龍馬りょうま公正こうせい会見かいけんして帰京ききょうした時期じきに「しん政府せいふ綱領こうりょうはちさく」を自筆じひつしているが、2014ねんにこれに関連かんれんする下書したがきが発見はっけんされた[9]

龍馬りゅうめ2度目どめ福井ふくい訪問ほうもんからやく1週間しゅうかん公正こうせい福井ふくい城下じょうかにて足羽川あすわがわ沿いの土手どてあるいていたそのときいちじん突風とっぷう土手どてある公正こうせいおそい、懐中かいちゅうしのばせておいた龍馬りょうま手紙てがみとしてしまった。公正こうせい手紙てがみ紛失ふんしつしたときおなじくして京都きょうとにて龍馬りょうま暗殺あんさつされたという巷談こうだんのこ[7]

評価ひょうか

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栄典えいてん

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位階いかい
勲章くんしょうとう

親族しんぞく

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  • 三男さんなん 由利ゆりこうどおり[17]
  • まご 由利ゆりこうしん子爵ししゃくおおやけどおり長男ちょうなん)・由利ゆりただしどおり貴族きぞくいん子爵ししゃく議員ぎいんおおやけどおり二男じなん[17]

登場とうじょう作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 官報かんぽうだい7753ごう明治めいじ42ねん5がつ3にち
  2. ^ 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんホームページ 近代きんだい日本人にっぽんじん肖像しょうぞう
  3. ^ かしわむら 2020, p. 61.
  4. ^ 官報かんぽうだい1169ごう明治めいじ20ねん5がつ25にち
  5. ^ 官報かんぽうだい2195ごう明治めいじ23ねん10がつ22にち
  6. ^ 新聞しんぶん集成しゅうせい明治めいじ編年史へんねんし. だいじゅうよんかん』p.88
  7. ^ a b c 由利ゆり公正きみまさ三岡みつおか八郎はちろう)をめぐるエピソードしゅう』(PDF)(プレスリリース)福井ふくい、2017ねん9がつ6にちhttps://www.city.fukui.lg.jp/sisei/plan/renkei/taiga_drama_d/fil/yuri-episode.pdf2017ねん9がつ7にち閲覧えつらん 
  8. ^ 由利ゆり公正きみまさ、「きみまさ」みで公務こうむ 署名しょめい公文書こうぶんしょ福井ふくいけん発見はっけん 福井ふくい新聞しんぶん 2014ねん3がつ26にち閲覧えつらん(Web魚拓ぎょたくによる保存ほぞん措置そち
  9. ^ 坂本さかもと龍馬りょうまの“まぼろし手紙てがみ”を番組ばんぐみ取材しゅざいちゅう発見はっけんおどろきの鑑定かんていがくにスタジオが騒然そうぜん!! Newswalker 2014ねん4がつ7にち
  10. ^ 官報かんぽうだい1351ごう叙任じょにん及辞れい」1887ねん12月28にち
  11. ^ 官報かんぽうだい2989ごう叙任じょにん及辞れい」1893ねん6がつ17にち
  12. ^ 官報かんぽうだい7751ごう叙任じょにん及辞れい」1909ねん4がつ30にち
  13. ^ 官報かんぽうだい610ごうしょうくん叙任じょにん」1885ねん7がつ14にち
  14. ^ 官報かんぽうだい1929ごう叙任じょにん及辞れい」1889ねん12月2にち
  15. ^ 官報かんぽうだい7272ごう叙任じょにん及辞れい」1907ねん9がつ23にち
  16. ^ 官報かんぽうだい7750ごう叙任じょにん及辞れい」1909ねん4がつ29にち
  17. ^ a b 平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせい下巻げかん、820ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいんへん議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 貴族きぞくいん参議院さんぎいん議員ぎいん名鑑めいかん大蔵省おおくらしょう印刷いんさつきょく、1990ねん
  • かすみ会館かいかん華族かぞく家系かけい大成たいせい編輯へんしゅう委員いいんかい平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせい下巻げかんかすみ会館かいかん、1996ねん
  • 柏村かしむら祐司ゆうじ『なるほど宇都宮うつのみや 歴史れきし民俗みんぞく人物じんぶつ百科ひゃっか随想ずいそうしゃ、2020ねん4がつ25にち、188ぺーじISBN 978-4-88748-382-8 

関連かんれん項目こうもく

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日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
叙爵じょしゃく
子爵ししゃく
由利ゆり公正こうせい初代しょだい
1887ねん - 1909ねん
次代じだい
由利ゆりこうしん