唯物 ゆいぶつ 史観 しかん (ゆいぶつしかん)は、「唯物 ゆいぶつ 論 ろん 的 てき 歴史 れきし 観 かん 」の略 りゃく であり、史的 してき 唯物 ゆいぶつ 論 ろん (してきゆいぶつろん、独 どく : Historischer Materialismus )と同義 どうぎ である[ 1] 。
マルクスは『経済 けいざい 学 がく 批判 ひはん 』の序言 じょげん で唯物 ゆいぶつ 史観 しかん を定式 ていしき 化 か し、これを自 みずか らの「導 みちび きの糸 いと 」と呼 よ んでおり、その内容 ないよう は以下 いか である。端 はし 的 てき に言 い えば、下部 かぶ 構造 こうぞう が経済 けいざい 的 てき に変化 へんか すると社会 しゃかい 革命 かくめい が起 お き、上部 じょうぶ 構造 こうぞう が変化 へんか することを述 の べ、その後 ご で生産 せいさん 方式 ほうしき の分類 ぶんるい を述 の べている。
物質 ぶっしつ 的 てき 生活 せいかつ の生産 せいさん 方法 ほうほう が、社会 しゃかい ・政治 せいじ ・精神 せいしん 的 てき な人々 ひとびと の意識 いしき を決定 けってい づけるのである。人々 ひとびと は自 みずか らの意識 いしき により存在 そんざい を決定 けってい づけるのではない。その反対 はんたい に、社会 しゃかい の経済 けいざい 状態 じょうたい が人々 ひとびと の意識 いしき を作 つく るのである。
社会 しゃかい が発展 はってん すると、所有 しょゆう 関係 かんけい に矛盾 むじゅん が生 しょう じ、その桎梏 しっこく に悩 なや む人 ひと との間 あいだ でそこに闘争 とうそう が生 しょう じるのだ。そして社会 しゃかい 革命 かくめい が起 お きる。
こうして、経済 けいざい 的 てき な基礎 きそ 構造 こうぞう すなわち下部 かぶ 構造 こうぞう が変化 へんか すると、大 おお きな上部 じょうぶ 構造 こうぞう も遅 おそ かれ早 はや かれ変 か わらざるを得 え ない。
いかなる社会 しゃかい 秩序 ちつじょ も、それが十分 じゅうぶん な生産 せいさん 力 りょく がすべて開発 かいはつ される前 まえ に破壊 はかい されることはなく、新 あたら しい優 すぐ れた生産 せいさん 関係 かんけい が、その存在 そんざい のための物質 ぶっしつ 的 てき 条件 じょうけん が古 ふる い社会 しゃかい の枠組 わくぐ みの中 なか で成熟 せいじゅく する前 まえ に、古 ふる い生産 せいさん 関係 かんけい に取 と って代 か わることはない。
なぜなら、
問題 もんだい そのものは、その
解決 かいけつ に
必要 ひつよう な
物質 ぶっしつ 的 てき 条件 じょうけん がすでに
存在 そんざい しているか、
少 すく なくとも
形成 けいせい の
途上 とじょう にあるときに
初 はじ めて
生 しょう じることが、よくよく
検討 けんとう すれば
必 かなら ずわかるからである。
大 おお づかみに
言 い えば、
アジア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき 、古代 こだい 的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき 、封建 ほうけん 的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき 、および近世 きんせい ブルジョア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき といった
諸々 もろもろ の
社会 しゃかい の
生産 せいさん 様式 ようしき は、
社会 しゃかい の
経済 けいざい 的 てき 発展 はってん における
進歩 しんぽ を
示 しめ すエポックとして
指定 してい することができる。ブルジョア
生産 せいさん 様式 ようしき は、
社会 しゃかい 的 てき 生産 せいさん 過程 かてい の
最後 さいご の
敵対 てきたい 的 てき 形態 けいたい である。
— カール・マルクス『経済 けいざい 学 がく 批判 ひはん 』序言 じょげん 。猪俣 いのまた 津南雄 つなお (1946、彰 あきら 考 こう 書院 しょいん )訳 やく 及 およ びMarxists Internet Archive版 ばん の『経済 けいざい 学 がく 批判 ひはん 』(英文 えいぶん )より要旨 ようし
経済 けいざい 発展 はってん 段階 だんかい 説 せつ も参照 さんしょう 。
資本 しほん 主義 しゅぎ 経済 けいざい の仕組 しく みを分析 ぶんせき したカール・マルクス は「歴史 れきし はその発展 はってん 段階 だんかい における経済 けいざい の生産 せいさん 力 りょく に照応 しょうおう する生産 せいさん 関係 かんけい に入 はい り、生産 せいさん 力 りょく と生産 せいさん 関係 かんけい の矛盾 むじゅん により進歩 しんぽ する」という考 かんが えに基 もと づいて、唯物 ゆいぶつ 史観 しかん の概念 がいねん を発展 はってん させた。生産 せいさん 関係 かんけい とは、共同 きょうどう 狩猟 しゅりょう と食料 しょくりょう の採集 さいしゅう であり、封建 ほうけん 領主 りょうしゅ と農奴 のうど の関係 かんけい であり、資本 しほん 主義 しゅぎ 段階 だんかい における労働 ろうどう 者 しゃ と資本 しほん 家 か の間 あいだ に結 むす ばれる契約 けいやく というような概念 がいねん である。マルクスは、生産 せいさん 様式 ようしき 、搾取 さくしゅ 、剰余 じょうよ 価値 かち 、過剰 かじょう 生産 せいさん 、物 もの 神 しん 崇拝 すうはい 、資本 しほん の本源 ほんげん 的 てき 蓄積 ちくせき などについて分析 ぶんせき することで、19世紀 せいき 当時 とうじ の資本 しほん 主義 しゅぎ の論理 ろんり を厳密 げんみつ に考察 こうさつ したのち、「資本 しほん 主義 しゅぎ はその内在 ないざい する矛盾 むじゅん から必然 ひつぜん 的 てき に社会 しゃかい 主義 しゅぎ 革命 かくめい を引 ひ き起 お こし、次 つぎ の段階 だんかい である共産 きょうさん 主義 しゅぎ に移行 いこう する」と考 かんが えた。ただ、全 ぜん 世界 せかい がそうなるのか、「アジア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき 」になっているアジア諸国 しょこく は違 ちが うのか、それについてはマルクス経済 けいざい 学 がく を受容 じゅよう する人々 ひとびと の間 あいだ でも議論 ぎろん があった。スターリン の『弁証法 べんしょうほう 的 てき 唯物 ゆいぶつ 論 ろん と史的 してき 唯物 ゆいぶつ 論 ろん 』では、原始 げんし 共産 きょうさん 制 せい →奴隷 どれい 制 せい →封建 ほうけん 制 せい →資本 しほん 主義 しゅぎ →社会 しゃかい 主義 しゅぎ に移行 いこう するとされ、「アジア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき 」そのものの存在 そんざい が消 け された。[ 4] 小林 こばやし 良彰 よしあき によれば、スターリン急死 きゅうし 後 ご は逆 ぎゃく に「アジア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき 」論 ろん を捨 す て去 さ った事 こと 自体 じたい がスターリニストの個人 こじん 崇拝 すうはい に過 す ぎないとされ、様々 さまざま な説 せつ が乱立 らんりつ したという。[ 5]
マルクスやマルクス主義 まるくすしゅぎ 者 しゃ の理論 りろん は歴史 れきし の発展 はってん 過程 かてい を以下 いか のように説明 せつめい する:
社会 しゃかい の発展 はってん は、その社会 しゃかい のもつ物質 ぶっしつ 的 てき 条件 じょうけん や生産 せいさん 力 りょく の発展 はってん に応 おう じて引 ひ き起 お こされる。
社会 しゃかい は、その生産 せいさん 力 りょく により必然 ひつぜん 的 てき に一定 いってい の生産 せいさん 関係 かんけい [ 注 ちゅう 2] に入 はい る。それは社会 しゃかい にとって最 もっと も重要 じゅうよう な社会 しゃかい 的 てき 関係 かんけい である。
生産 せいさん 力 りょく が何 なん らかの要因 よういん で発展 はってん すると、従来 じゅうらい の生産 せいさん 関係 かんけい との間 あいだ に矛盾 むじゅん が生 しょう じ、その矛盾 むじゅん が突 とっ き動 うご かす力 ちから により生産 せいさん 関係 かんけい が変化 へんか (発展 はってん )する。これが階級 かいきゅう 闘争 とうそう を生 う み出 だ し歴史 れきし を突 とっ き動 うご かす基本 きほん 的 てき な力 ちから であると考 かんが える。
生産 せいさん 力 りょく や生産 せいさん 関係 かんけい は、個々 ここ の人間 にんげん の意図 いと や意志 いし とは独立 どくりつ して変化 へんか する。
政治 せいじ 的 てき 法律 ほうりつ 的 てき 上部 じょうぶ 構造 こうぞう は、生産 せいさん 関係 かんけい を中心 ちゅうしん とする経済 けいざい のあり方 かた (土台 どだい =下部 かぶ 構造 こうぞう )に規定 きてい される。(下部 かぶ 構造 こうぞう が上部 じょうぶ 構造 こうぞう を規定 きてい する )
今 いま ある生産 せいさん 関係 かんけい の形態 けいたい がもはや生産 せいさん 力 りょく の発展 はってん を助 たす けず、その足 あし かせとなるとき、革命 かくめい が起 お こる。
狩猟 しゅりょう 採集 さいしゅう 社会 しゃかい は、経済 けいざい 力 りょく と政治 せいじ 力 りょく が同 おな じ意味 いみ を持 も つ組織 そしき であった。封建 ほうけん 社会 しゃかい では、王 おう や貴族 きぞく たちの政治 せいじ 力 りょく は、農奴 のうど たちの住 す む村 むら 々の経済 けいざい 力 りょく と関係 かんけい していた。農奴 のうど は、完全 かんぜん には分離 ぶんり されていない二 ふた つの力 ちから 、すなわち政治 せいじ 力 りょく と経済 けいざい 力 りょく に結 むす びつけられており、自由 じゆう ではなかった。こうしたことを踏 ふ まえてマルクスは、「資本 しほん 主義 しゅぎ では経済 けいざい 力 りょく と政治 せいじ 力 りょく が完全 かんぜん に分離 ぶんり され、政府 せいふ を通 とお して限定 げんてい 的 てき な関係 かんけい をもつようになる」と述 の べた。
「アジア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき 」を巡 めぐ る問題 もんだい
編集 へんしゅう
歴史 れきし 学会 がっかい において、『経済 けいざい 学 がく 批判 ひはん 』の主張 しゅちょう はかなり衝撃 しょうげき を持 も って受 う け止 と められた。特 とく に学者 がくしゃ たちが議論 ぎろん したのはマルクスが言 い う「アジア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき 」とは何 な ぞや、ということであった。『経済 けいざい 学 がく 批判 ひはん 』においてはこの件 けん については簡単 かんたん にしか触 ふ れられていなかったためである。1947年 ねん 、日本 にっぽん のリベラル歴史 れきし 学者 がくしゃ のグループ歴史 れきし 学 がく 研究 けんきゅう 会 かい では、「アジア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき 」について討議 とうぎ 会 かい が行 おこな われたが決着 けっちゃく を見 み なかった。[ 6]
「歴史 れきし 学 がく 研究 けんきゅう 会 かい 」の研究 けんきゅう グループはマルクスの遺稿 いこう の中 なか にあった未 み 発表 はっぴょう の草稿 そうこう の中 なか に、「アジア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき 」に関 かん する記載 きさい があることを知 し り、経済 けいざい 学者 がくしゃ を招 まね いて再度 さいど 討論 とうろん を行 おこな っている。議論 ぎろん はその後 ご も続 つづ き、いろいろな学者 がくしゃ が解釈 かいしゃく を発表 はっぴょう した。
例 たと えば服部 はっとり 之総 しそう は、「アジア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき 」は古代 こだい 天皇 てんのう 制 せい そのものだと述 の べ、マルクスは『古事記 こじき 』などもよく知 し らなかったはずだが、それでいてこれほど優 すぐ れた見解 けんかい に到達 とうたつ するのは驚 おどろ きだと述 の べ、マルクスの説 せつ を全面 ぜんめん 的 てき に受容 じゅよう した。[ 5]
ところが、塩沢 しおざわ 君夫 きみお はこれと異 こと なる見解 けんかい を取 と った。塩沢 しおざわ はマルクスやエンゲルスの説 せつ を年代 ねんだい ごとに分析 ぶんせき し、「マルクスはアジア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき がドイツ(ゲルマン)やロシアでもあったという想定 そうてい を行 おこな った」と考 かんが えた。[ 5]
しかしながら、「アジア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき 」説 せつ によれば中国 ちゅうごく に封建 ほうけん 制 せい はなかったことになるため、これまでの中国 ちゅうごく 史 し の理屈 りくつ はことごとく成 な りたなくなってしまうこと、更 さら にソ連 それん 共産党 きょうさんとう ・中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう において「アジア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき 」論 ろん が否定 ひてい されてしまったため、この理論 りろん は行 い き場 ば を失 うしな ってしまった。[ 7]
逆 ぎゃく に反共 はんきょう の立場 たちば の学者 がくしゃ 、カール・ウィットフォーゲル はマルクスの問題 もんだい 提起 ていき を受 う けて「水力 すいりょく 社会 しゃかい (水 みず の理論 りろん ) 」を創案 そうあん し、この理論 りろん は中国 ちゅうごく 古代 こだい 史 し の説 せつ として受容 じゅよう された。[ 8]
アジア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき 論 ろん は一般 いっぱん 読書 どくしょ 人 じん には「アジア的 てき 停滞 ていたい 」論 ろん として受 う け入 い れられた。[ 8] 例 たと えば司馬 しば 遼 りょう 太郎 たろう は歴史 れきし 小説 しょうせつ 『項羽 こうう と劉邦 りゅうほう 』の後書 あとが きに於 お いて「中国 ちゅうごく では春秋 しゅんじゅう 戦国 せんごく 時代 じだい に急激 きゅうげき な発展 はってん があり、秦 はた 漢 かん の頃 ころ までに極度 きょくど に古代 こだい 文明 ぶんめい が発展 はってん した後 のち 、中国 ちゅうごく 文明 ぶんめい はずっと古代 こだい のまま長 なが い眠 ねむ りについた」という「アジア的 てき 停滞 ていたい 」論 ろん に基 もと づいて小説 しょうせつ を書 か いていると述 の べている。[ 9]
ただ、アジア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき 論 ろん は後 のち にソ連 それん 共産党 きょうさんとう ・中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう において否定 ひてい されてしまったため、ウィットフォーゲルや司馬 しば のような論 ろん は「反共 はんきょう 理論 りろん 」として異端 いたん の説 せつ 扱 あつか いにされてしまった。しまいには日本 にっぽん のアカデミズムや左翼 さよく 陣営 じんえい について「アジア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき 」論 ろん を話 はな すことさえ不快 ふかい がられるに至 いた った。歴史 れきし 学者 がくしゃ 福本 ふくもと 勝清 かつきよ の回想 かいそう によれば、「中国 ちゅうごく 研究所 けんきゅうじょ での勉強 べんきょう 会 かい でも長老 ちょうろう たちは『アジア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき など観念論 かんねんろん に過 す ぎない。検討 けんとう する価値 かち など無 な い』と否定 ひてい 的 てき だった」「中国 ちゅうごく に関心 かんしん がある、旧 きゅう 左翼 さよく ・新 しん 左翼 さよく 、いわゆる親 おや 中国 ちゅうごく 派 は の人々 ひとびと に中国 ちゅうごく の実情 じつじょう を話 はな しても、人々 ひとびと は中国 ちゅうごく を理想 りそう 化 か していたために、『あなたは中国 ちゅうごく の悪口 わるぐち をいうのか。そんなひどいところでよく過 す ごせたものだ』『中国 ちゅうごく のことは少々 しょうしょう のことは大目 おおめ に見 み るべきだ。革命 かくめい 後 ご すぐに良 よ くなる訳 わけ でもないだろう』と不快 ふかい がって批判 ひはん され、受 う け入 い れてもらえなかった。まして、実情 じつじょう を理論 りろん 化 か したアジア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき 論 ろん により、伝統 でんとう 中国 ちゅうごく が封建 ほうけん 制 せい ではなかったことを話 はな すことなど出来 でき ることではなかった」という。[ 10]
マルクスの理論 りろん 提起 ていき を受 う け、歴史 れきし 学者 がくしゃ たちは唯物 ゆいぶつ 史観 しかん に基 もと づいて歴史 れきし を解釈 かいしゃく するようになり、それについて下記 かき のような論争 ろんそう が生 しょう じた。
例 たと えば、日本 にっぽん 史学 しがく や中国 ちゅうごく 史学 しがく の分野 ぶんや において下記 かき のような論争 ろんそう があった。
中国 ちゅうごく 史学 しがく では、特 とく に中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の学界 がっかい において顕著 けんちょ な唯物 ゆいぶつ 史観 しかん 受容 じゅよう が見 み られた。中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく では諸子 しょし 百 ひゃく 家 いえ が唯物 ゆいぶつ 史観 しかん に照 て らして進歩 しんぽ 的 てき ・反動 はんどう 的 てき に分 わ けられ、はじめ郭沫若 かくまつじゃく は孔子 こうし は進歩 しんぽ 的 てき で、墨 ぼく 子 こ は反動 はんどう 的 てき だと主張 しゅちょう した。[ 11]
しかし、毛沢東 もうたくとう は郭 かく の説 せつ を批判 ひはん し、法家 ほうか が進歩 しんぽ 的 てき で唯物 ゆいぶつ 史観 しかん に即 そく しており、儒家 じゅか は「貴族 きぞく や奴隷 どれい 主 ぬし の代表 だいひょう 」、すなわち反動 はんどう 的 てき 地主 じぬし (ブルジョア)勢力 せいりょく の代表 だいひょう だとした。すなわち、中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう の公式 こうしき 見解 けんかい として「法家 ほうか =毛沢東 もうたくとう 思想 しそう 」「儒家 じゅか =反 はん 中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 」という考 かんが え方 かた が毛沢東 もうたくとう 統治 とうち 時代 じだい に確立 かくりつ し、歴代 れきだい の歴史 れきし は正義 せいぎ の法家 ほうか と悪 あく の儒家 じゅか の闘争 とうそう として解釈 かいしゃく された。[ 12]
絶対 ぜったい 的 てき 権力 けんりょく 者 しゃ である毛沢東 もうたくとう の主張 しゅちょう に背 そむ いたことで、郭 かく は自己 じこ 批判 ひはん を迫 せま られ、自己 じこ の説 せつ を「私 わたし の説 せつ は焼 や き尽 つ くすべきです。少 すこ しの価値 かち もありません。」と否定 ひてい させられた。[ 13]
後 ご の文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい では毛沢東 もうたくとう の主張 しゅちょう に沿 そ って「儒法闘争 とうそう 史観 しかん 」が作 つく られ、いわゆる四 よん 人組 にんぐみ も法家 ほうか を標榜 ひょうぼう した。この時期 じき 、発掘 はっくつ 調査 ちょうさ で新 しん 発見 はっけん された老子 ろうし の馬 うま 王堆漢 おうたいかん 墓 ぼ 本 ほん と、孫子 まごこ の銀 ぎん 雀 すずめ 山 やま 漢 かん 墓 はか 本 ほん も法家 ほうか 思想 しそう に結 むす びつけて解釈 かいしゃく された。逆 ぎゃく に毛沢東 もうたくとう と四 よん 人組 にんぐみ との権力 けんりょく 闘争 とうそう に敗 やぶ れた中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 内 ない の負 ま け組 ぐみ 林 はやし 彪 ぴょう ・王 おう 明 あきら は儒家 じゅか と見 み なされ、批判 ひはん の対象 たいしょう となった。[ 14] 後 のち には儒家 じゅか の聖人 せいじん 「周 しゅう 公 こう 旦 だん 」と似 に た名 な を持 も つ周 しゅう 恩来 おんらい も儒家 じゅか とみなされ、「大儒 たいじゅ 」とあだ名 な され、四 よん 人組 にんぐみ は「大儒 たいじゅ を打倒 だとう せよ」「批林批孔批周公 こう 」という運動 うんどう を起 お こしたが、民衆 みんしゅう が周 しゅう 恩来 おんらい を尊敬 そんけい していたので余 あま り成功 せいこう しなかった。[ 15]
郭沫若 かくまつじゃく 以外 いがい の中国 ちゅうごく の歴史 れきし 学者 がくしゃ も「アジア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき 」や奴隷 どれい 制 せい から封建 ほうけん 制 せい に移行 いこう する期間 きかん などについて研究 けんきゅう を行 おこな ったが、研究 けんきゅう 成果 せいか がまとまる前 まえ に文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい でほとんど学者 がくしゃ が追放 ついほう されてしまい、毛沢東 もうたくとう の指示 しじ で「歴史 れきし 学 がく は革命 かくめい に奉仕 ほうし せよ」ということになり、素人 しろうと の労働 ろうどう 者 しゃ が歴史 れきし 学会 がっかい を支配 しはい するようになったため、議論 ぎろん は深 ふか まりを欠 か いた。この研究 けんきゅう で現在 げんざい 残 のこ っているのは郭 かく の『十 じゅう 批判 ひはん 書 しょ 』と楊寛 の『古史 こし 新 しん 探 さがせ 』だけである。[ 16] 楊寛は中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 中央 ちゅうおう の言 い う通 とお りに次々 つぎつぎ に説 せつ を変 か えることで有名 ゆうめい であり、被害 ひがい をまぬがれた。[ 17]
現在 げんざい 中国 ちゅうごく でも唯物 ゆいぶつ 史観 しかん に基 もと づいて歴史 れきし を解釈 かいしゃく する傾向 けいこう は存続 そんぞく しているが、四 よん 人組 にんぐみ 失脚 しっきゃく 後 ご の儒家 じゅか に対 たい する敵視 てきし はやわらいでいる。例 たと えば孔子 こうし 学院 がくいん など。
日本 にっぽん 史学 しがく では、戦前 せんぜん は明治維新 めいじいしん が資本 しほん 主義 しゅぎ に基 もと づくブルジョア革命 かくめい か、革命 かくめい でないものかについての「日本 にっぽん 資本 しほん 主義 しゅぎ 論争 ろんそう 」が講座 こうざ 派 は ・労農 ろうのう 派 は の二 に 派 は に分 わ かれた大 だい 論争 ろんそう になっていた。講座 こうざ 派 は は革命 かくめい ではない、と主張 しゅちょう 。それに対 たい して労農 ろうのう 派 は はブルジョア革命 かくめい だと主張 しゅちょう した。この資本 しほん 主義 しゅぎ 論争 ろんそう は論争 ろんそう 中 ちゅう にコミンテルン がしばしば解釈 かいしゃく の変更 へんこう を行 おこな ったために論争 ろんそう をリードした野呂 のろ 栄太郎 えいたろう が自説 じせつ を撤回 てっかい するなど紆余曲折 うよきょくせつ があったが、結論 けつろん としては講座 こうざ 派 は の勝利 しょうり となり、「封建 ほうけん 制 せい が強化 きょうか され、天皇 てんのう 制 せい 絶対 ぜったい 主義 しゅぎ が確立 かくりつ されただけで民衆 みんしゅう 革命 かくめい とは言 い い難 がた い」ということとなった。歴史 れきし 学者 がくしゃ たちはこの結論 けつろん に基 もと づいて実証 じっしょう 的 てき 研究 けんきゅう を進 すす めようとしたが、[ 18] その矢先 やさき に戦争 せんそう に伴 ともな う思想 しそう 統制 とうせい が行 おこな われ、唯物 ゆいぶつ 史観 しかん 研究 けんきゅう が下火 したび になったこともあり終了 しゅうりょう した。[ 19]
また、戦後 せんご の日本 にっぽん 史 し の史学 しがく においては、先述 せんじゅつ の「アジア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき 」に対 たい する議論 ぎろん を巡 めぐ り石母田 いしもた 正 ただし が議論 ぎろん をリードしていった。詳細 しょうさい はアジア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき の項目 こうもく を参照 さんしょう 。石母田 いしもた が起 お こした「国民 こくみん 的 てき 歴史 れきし 学 がく 運動 うんどう 」や、石母田 いしもた の後継 こうけい 者 しゃ である網野 あみの 善彦 よしひこ も唯物 ゆいぶつ 史観 しかん の影響 えいきょう を受 う けている。「国民 こくみん 的 てき 歴史 れきし 学 がく 運動 うんどう 」は、これまでの歴史 れきし 著述 ちょじゅつ は権力 けんりょく 者 しゃ の変遷 へんせん をたどるのみだったことを反省 はんせい し、民衆 みんしゅう 側 がわ からの歴史 れきし を編 あ もうとする運動 うんどう であった。この運動 うんどう により、新 あら たに民衆 みんしゅう 史 し という新 あら たなジャンルが作 つく られ「村 むら の歴史 れきし 」「工場 こうじょう の歴史 れきし 」「母 はは の歴史 れきし 」「職場 しょくば の歴史 れきし 」などにスポットが当 あ てられた。ただ、石母田 いしもた の議論 ぎろん は「中国 ちゅうごく は一人 ひとり の皇帝 こうてい が多数 たすう の民衆 みんしゅう を従 したが えている奴隷 どれい 制 せい に近 ちか い「アジア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき 」国家 こっか だったために歴史 れきし の発展 はってん がなく、古代 こだい 文明 ぶんめい が花開 はなひら いた後 のち 停滞 ていたい し、逆 ぎゃく に日本 にっぽん やモンゴル(特 とく にモンゴル帝国 ていこく ・元 もと 王朝 おうちょう は奴隷 どれい 制 せい を克服 こくふく して封建 ほうけん 制 せい や資本 しほん 主義 しゅぎ に進 すす んだ[ 20] 」という結論 けつろん に読 よ めなくもないため、ナショナリズムに近 ちか いのではないかという批判 ひはん も存在 そんざい していた。[ 21]
その後 ご 、民衆 みんしゅう 史 し の研究 けんきゅう がさらに進 すす むにつれ、1990年代 ねんだい には江戸 えど 時代 じだい の身分 みぶん 制度 せいど が従来 じゅうらい 考 かんが えられていたよりも柔軟 じゅうなん だったこと、農民 のうみん でも優秀 ゆうしゅう であれば士分 しぶん に取 と り立 た てられ武士 ぶし になった人物 じんぶつ が多 おお かったことがわかり、従来 じゅうらい の唯物 ゆいぶつ 史観 しかん は「貧農 ひんのう 史観 しかん 」を強調 きょうちょう しすぎており、余 あま りにも日本 にっぽん の民衆 みんしゅう を貧 まず しく捉 とら えすぎていたのではないか?という反省 はんせい が生 しょう じた。その研究 けんきゅう をリードしたのは大石 おおいし 慎 まき 三郎 さぶろう である。[ 22] また、小林 こばやし 良彰 よしあき (経済 けいざい 学者 がくしゃ ) のように「幕末 ばくまつ 時点 じてん で武士 ぶし が民衆 みんしゅう から学 まな んだことにより、高杉 たかすぎ 晋作 しんさく のような民衆 みんしゅう とともに立 た ち上 あ がり奇 き 兵隊 へいたい を創設 そうせつ して権力 けんりょく を打倒 だとう するような市民 しみん 革命 かくめい 家 か も出 で ている。すなわち、講座 こうざ 派 は の『民衆 みんしゅう 革命 かくめい とは言 い い難 がた い』という説 せつ は誤 あやま りである」という説 せつ も出現 しゅつげん した。ただし小林 こばやし の説 せつ は国民 こくみん 的 てき 歴史 れきし 学 がく 運動 うんどう グループの影響 えいきょう を受 う けた「新 あたら しい歴史 れきし 教科書 きょうかしょ をつくる会 かい 」グループから批判 ひはん されており、[ 23] その「つくる会 かい 」グループも講座 こうざ 派 は の史観 しかん を受 う け継 つ ぐ「歴史 れきし 学 がく 研究 けんきゅう 会 かい 」グループから批判 ひはん されているため、結局 けっきょく は未 いま だ結論 けつろん がついていない。
唯物 ゆいぶつ 史観 しかん への批判 ひはん については、前述 ぜんじゅつ の中国 ちゅうごく 史 し 家 か ・日本 にっぽん 史家 しか によるものの他 ほか 、マックス・ヴェーバー や経済 けいざい 学者 がくしゃ ・政治 せいじ 哲学 てつがく 者 しゃ マレー・ロスバード などによるものなど多数 たすう ある[ 24] 。
堺 さかい 利彦 としひこ 『唯物 ゆいぶつ 史觀 しかん の立場 たちば から』三田 みた 書房 しょぼう 、1919年 ねん 8月 がつ 。
三木 みき 清 きよし 『唯物 ゆいぶつ 史觀 しかん と現代 げんだい の意識 いしき 』岩波書店 いわなみしょてん 、1928年 ねん 5月 がつ 。
河上 かわかみ 肇 はじめ 『唯物 ゆいぶつ 史觀 しかん 研究 けんきゅう 』弘文 こうぶん 堂 どう 書房 しょぼう 、1921年 ねん 8月 がつ 。
原 はら 光雄 みつお 『唯物 ゆいぶつ 史観 しかん の原理 げんり 』青木 あおき 書店 しょてん 、1960年 ねん 6月 がつ 。
郭沫若 かくまつじゃく 『十 じゅう 批判 ひはん 書 しょ 』、邦訳 ほうやく 、野原 のはら 四郎 しろう ・佐藤 さとう 武敏 たけとし ・上原 うえはら 淳 あつし 道 みち 訳 やく 『中国 ちゅうごく 古代 こだい の思想家 しそうか たち』上 じょう ・下巻 げかん 、岩波書店 いわなみしょてん 刊行 かんこう 。上巻 じょうかん 1953・下巻 げかん 1957
武市 たけいち 健 けん 人 じん 『ニヒリズムと唯物 ゆいぶつ 史観 しかん 』福村 ふくむら 書店 しょてん 〈ロゴス新書 しんしょ 〉、1947年 ねん 10月 がつ 。
田山 たやま 春夫 はるお 『われらの「社会 しゃかい 学 がく 」:やさしい唯物 ゆいぶつ 史観 しかん 』くれは書店 しょてん 、1948年 ねん 6月 がつ 。
服部 はっとり 之総 しそう 『明治維新 めいじいしん 史 し :唯物 ゆいぶつ 史觀 しかん 的 てき 研究 けんきゅう 』大 だい 鳳 おおとり 閣 かく 書房 しょぼう 、1930年 ねん 4月 がつ 。
廣 こう 松 まつ 渉 わたる 『唯物 ゆいぶつ 史観 しかん の原 はら 像 ぞう 』三 さん 一 いち 書房 しょぼう 〈三 さん 一 いち 新書 しんしょ 737〉、1971年 ねん 3月 がつ 。
富沢 とみざわ 賢治 けんじ 『唯物 ゆいぶつ 史観 しかん と労働 ろうどう 運動 うんどう :マルクス・レーニンの「労働 ろうどう の社会 しゃかい 化 か 」論 ろん 』ミネル みねる ヴァ書房 ぁしょぼう 、1974年 ねん 10月 がつ 。
梅本 うめもと 克己 かつみ 『唯物 ゆいぶつ 史観 しかん と現代 げんだい 』岩波書店 いわなみしょてん 〈岩波 いわなみ 新書 しんしょ 〉、1967年 ねん 9月 がつ 。(第 だい 2版 はん 、1974年 ねん 6月 がつ 。ISBN 9784004120087 )
中村 なかむら 静 しず 治 ち 『唯物 ゆいぶつ 史観 しかん と経済 けいざい 学 がく 』大月書店 おおつきしょてん 、1988年 ねん 9月 がつ 。ISBN 4272110608
滝村 たきむら 隆一 りゅういち 『唯物 ゆいぶつ 史観 しかん と国家 こっか 理論 りろん 』三 さん 一 いち 書房 しょぼう 、1980年 ねん 5月 がつ 。
影山 かげやま 光夫 みつお 『唯物 ゆいぶつ 史観 しかん と変革 へんかく の論理 ろんり 』こぶし書房 しょぼう 、1971年 ねん 7月 がつ 。
影山 かげやま 光夫 みつお 『唯物 ゆいぶつ 史観 しかん と経済 けいざい 学 がく 』こぶし書房 しょぼう 、1973年 ねん 6月 がつ 。
淡 あわ 野 の 安太郎 やすたろう 『初期 しょき のマルクス:唯物 ゆいぶつ 史観 しかん の成立 せいりつ 過程 かてい 』勁草書房 しょぼう 、1956年 ねん 11月。
潮 しお 文 ぶん 社 しゃ 編集 へんしゅう 部 ぶ 編 へん 『マルクス主義 まるくすしゅぎ :唯物 ゆいぶつ 史観 しかん のホントとウソ』潮 しお 文 ぶん 社 しゃ 〈潮 しお 文 ぶん 社 しゃ 新書 しんしょ 〉、1976年 ねん 8月 がつ 。
岩佐 いわさ 茂 しげる 『人間 にんげん の生 なま と唯物 ゆいぶつ 史観 しかん 』青木 あおき 書店 しょてん 〈青木 あおき 教養 きょうよう 選書 せんしょ 〉、1988年 ねん 12月。ISBN 4250880494
[1] シノドス、2015年 ねん 5月 がつ 22日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。2023年 ねん 12月17日 にち 閲覧 えつらん 。
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福本 ふくもと 勝清 かつきよ 「アジア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき の発見 はっけん 1946-1955」明治大学 めいじだいがく 教養 きょうよう 論集 ろんしゅう 刊行 かんこう 会 かい 、2019
^ しかし、「唯物 ゆいぶつ 史観 しかん は弁証法 べんしょうほう 的 てき 唯物 ゆいぶつ 論 ろん をそのまま適用 てきよう したものではない」と述 の べるマルクス主義 まるくすしゅぎ 者 しゃ もいる[要 よう 出典 しゅってん ] 。
^ おおまかに言 い うと「経済 けいざい 的 てき な関係 かんけい 」を指 さ す[要 よう 出典 しゅってん ] 。
^ 芝田 しばた 進 すすむ 午 うま 「史的 してき 唯物 ゆいぶつ 論 ろん 」日本 にっぽん 大 だい 百科全書 ひゃっかぜんしょ (ニッポニカ)=コトバンク
^ 松尾 まつお 匡 ただし :連載 れんさい 『リスク・責任 せきにん ・決定 けってい 、そして自由 じゆう !』「「生身 なまみ の個人 こじん にとっての自由 じゆう 」の潮流 ちょうりゅう の中 なか のマルクス」 シノドス、2015年 ねん 5月 がつ 22日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。2023年 ねん 12月17日 にち 閲覧 えつらん 。
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^ 福本 ふくもと 勝清 かつきよ 「導 しるべ 論 ろん -アジア的 てき 生産 せいさん 様式 ようしき 」『明治大学 めいじだいがく 教養 きょうよう 論集 ろんしゅう :福本 ふくもと 勝清 かつきよ 名誉 めいよ 教授 きょうじゅ 退職 たいしょく 記念 きねん 号 ごう 』明治大学 めいじだいがく 教養 きょうよう 論集 ろんしゅう 刊行 かんこう 会 かい 、2019
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^ 何 なに 剛 つよし 『郭沫若 かくまつじゃく 史学 しがく 在 ざい “文革 ぶんかく ”中 ちゅう 的 てき 跌宕遭际』光明日報 こうみょうにっぽう 「群 ぐん 覧 らん 博 はく 書 しょ 」2016年 ねん 04月 がつ 01日 にち より。著者 ちょしゃ は楽山 らくざん 師範 しはん 学院 がくいん 四川 しせん 郭沫若 かくまつじゃく 研究 けんきゅう 中心 ちゅうしん の研究 けんきゅう 者 しゃ 。 2023年 ねん 12月24日 にち 閲覧 えつらん
^ 竹内 たけうち 論文 ろんぶん 1978及 およ び竹内 たけうち 実 みのる 「現代 げんだい 中国 ちゅうごく における古典 こてん の再 さい 評価 ひょうか とその流 なが れ」『中国 ちゅうごく の古典 こてん 名著 めいちょ ・総 そう 解説 かいせつ 』自由 じゆう 国民 こくみん 社 しゃ 所収 しょしゅう 。
^ 産経新聞 さんけいしんぶん 「毛沢東 もうたくとう 秘録 ひろく 」取材 しゅざい 班 はん (名 めい 雪 ゆき 雅夫 まさお 他 た )『毛沢東 もうたくとう 秘録 ひろく 下 した 』第 だい 6部 ぶ 若干 じゃっかん の歴史 れきし 問題 もんだい に関 かん する決議 けつぎ による。潮 しお 書房 しょぼう 光人 みつひと 新 しん 社 しゃ (産経 さんけい NF文庫 ぶんこ )、2021
^ 以上 いじょう 、学会 がっかい 動向 どうこう は貝塚 かいづか 茂樹 しげき 「中国 ちゅうごく 古代 こだい 社会 しゃかい 研究 けんきゅう (三 さん )」、『中国 ちゅうごく 古典 こてん 文学 ぶんがく 大系 たいけい 月報 げっぽう 』1965,9 平凡社 へいぼんしゃ による。
^ 楊の代表 だいひょう 作 さく 『戦国 せんごく 史 し 』は版 はん が変 か わるごとに説 せつ が180度 ど 変 か わることで有名 ゆうめい であり、第 だい 二 に 版 はん と第 だい 三 さん 版 はん では全 まった く内容 ないよう が異 こと なる。このことを学界 がっかい 報告 ほうこく した小倉 おぐら 芳彦 よしひこ は宮崎 みやざき 市 し 定 じょう が「第 だい 四 よん 版 はん を待 ま ちましょう」と一言 ひとこと だけ言 い ったことに強烈 きょうれつ な印象 いんしょう を受 う けたという。『宮崎 みやざき 市 し 定 てい 全集 ぜんしゅう 』月報 げっぽう より。宮崎 みやざき の発言 はつげん は「どうせ中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう の都合 つごう で平気 へいき で別 べつ のことをい出 いだ すので、彼 かれ らの説 せつ は学問 がくもん 的 てき になんの意味 いみ もない」の意味 いみ 。宮崎 みやざき は著書 ちょしょ 『水 みず 滸伝 虚構 きょこう の中 なか の史実 しじつ 』でこの時期 じき の中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう の元 もと 労働 ろうどう 者 しゃ による粗雑 そざつ な論文 ろんぶん を痛烈 つうれつ に批判 ひはん した。
^ 藤岡 ふじおか 信勝 のぶかつ 『歴史 れきし の本音 ほんね 』扶桑社 ふそうしゃ 、1997、p16
^ 谷沢 たにさわ 永一 えいいち 「生涯 しょうがい の師 し と終生 しゅうせい の友 とも ―『日本 にっぽん 資本 しほん 主義 しゅぎ 論争 ろんそう 』『随想 ずいそう 録 ろく 』」『雑書 ざっしょ 放蕩 ほうとう 記 き 』新潮社 しんちょうしゃ 、1996年 ねん
^ なお、石母田 いしもた の元 もと の発展 はってん についての論説 ろんせつ は前田 まえだ 直 ただし 典 てん の影響 えいきょう によるものである。前田 まえだ 説 せつ は後 のち に岡田 おかだ 英弘 ひでひろ により補強 ほきょう され、「モンゴル帝国 ていこく から資本 しほん 主義 しゅぎ や世界 せかい 史 し が始 はじ まった」と、モンゴル帝国 ていこく による歴史 れきし の発展 はってん が大 おお いに強調 きょうちょう されるに至 いた った。岡田 おかだ 英弘 ひでひろ 『世界 せかい 史 し の誕生 たんじょう 』ちくま文庫 ぶんこ
^ 小国 おぐに 喜弘 よしひろ 「国民 こくみん 的 てき 歴史 れきし 学 がく 運動 うんどう における「国民 こくみん 」化 か の位相 いそう : 加藤 かとう 文三 ぶんぞう 「石間 いしま (いさま)をわるしぶき」を手 て がかりとして」東京都立大学 とうきょうとりつだいがく 人 じん 文学 ぶんがく 報 むくい 、2002
^ 大石 おおいし は国民 こくみん 的 てき 歴史 れきし 学 がく 運動 うんどう グループの影響 えいきょう を受 う けた「新 あたら しい歴史 れきし 教科書 きょうかしょ をつくる会 かい 」グループにも加入 かにゅう し、『貧農 ひんのう 史観 しかん を見直 みなお す』(講談社 こうだんしゃ 現代新書 げんだいしんしょ )などの概説 がいせつ 書 しょ の執筆 しっぴつ 、歴史 れきし 教科書 きょうかしょ の編纂 へんさん など精力 せいりょく 的 てき に活動 かつどう した
^ 藤岡 ふじおか 1997
^ Murray Rothabrd (1995), An Austrian Perspective on the History of Economic Thought , Volume 2 , Edward Elgar Publishing Ltd, Chapter 12, p.371-385. p.433.