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興福寺 - Wikipedia

興福寺こうふくじ

奈良ならにある仏教ぶっきょう寺院じいん

興福寺こうふくじ(こうふくじ)は、奈良ならけん奈良なら登大路のぼりおおじまち(のぼりおおじちょう)にある法相ほうしょうむね大本山だいほんざん寺院じいん山号さんごうはなし。本尊ほんぞんちゅう金堂こんどう釈迦如来しゃかにょらい南都七大寺なんとしちだいじひとつ。藤原ふじわら藤原鎌足ふじわらのかまたりとその子息しそく藤原不比等ふじわらのふひとゆかりの寺院じいん藤原ふじわらてらであり、古代こだいから中世ちゅうせいにかけて強大きょうだい勢力せいりょくほこった。「古都こと奈良なら文化財ぶんかざい」の一部いちぶとして世界せかい遺産いさん登録とうろくされている。

 興福寺こうふくじ
東金とうがねどう五重塔ごじゅうのとうとも国宝こくほう
所在地しょざいち 奈良ならけん奈良なら登大路のぼりおおじまち48
位置いち 北緯ほくい3440ふん59.7びょう 東経とうけい13549ふん52.2びょう / 北緯ほくい34.683250 東経とうけい135.831167 / 34.683250; 135.831167座標ざひょう: 北緯ほくい3440ふん59.7びょう 東経とうけい13549ふん52.2びょう / 北緯ほくい34.683250 東経とうけい135.831167 / 34.683250; 135.831167
山号さんごう なし
宗派しゅうは 法相ほうしょうむね
寺格じかく 大本山だいほんざん
本尊ほんぞん 釈迦如来しゃかにょらい
創建そうけんねん 天智天皇てんぢてんのう8ねん669ねん
開基かいき 藤原不比等ふじわらのふひと
札所ふだしょとう 西国さいこくさんじゅうさんしょだい9ばんみなみ円堂えんどう
西国さいごく薬師くすしよんじゅうきゅう霊場れいじょうだい4ばん東金とうがねどう
大和やまと北部ほくぶはちじゅうはちヶ所かしょ霊場れいじょうだい62ばん菩提ぼだいいん
南都七大寺なんとしちだいじだい2ばん
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみちだい16ばん奈良ならだい3ばん
文化財ぶんかざい 五重塔ごじゅうのとう木造もくぞう弥勒みろくほとけ坐像ざぞう乾漆かんしつはちしゅぞうほか(国宝こくほう
みなみ円堂えんどう木造もくぞうくすりおう菩薩ぼさつくすりじょう菩薩ぼさつ立像りつぞうほか(重要じゅうよう文化財ぶんかざい
世界せかい遺産いさん
公式こうしきサイト 法相ほうしょうむね大本山だいほんざん 興福寺こうふくじ
法人ほうじん番号ばんごう 7150005000123 ウィキデータを編集
興福寺の位置(奈良市内)
興福寺
興福寺こうふくじ
興福寺こうふくじ (奈良なら)
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興福寺の位置(日本内)
興福寺
興福寺こうふくじ
興福寺こうふくじ

みなみ円堂えんどう本尊ほんぞん不空ふくう羂索観音かんのん)は西国さいこくさんじゅうさんしょだい9ばん札所ふだしょ東金とうがねどう本尊ほんぞん薬師やくし如来にょらい)は西国さいごく薬師くすしよんじゅうきゅう霊場れいじょうだい4ばん札所ふだしょ菩提ぼだいいん大御堂おおみどう本尊ほんぞん阿弥陀如来あみだにょらい)は大和やまと北部ほくぶはちじゅうはちヶ所かしょ霊場れいじょうだい62ばん札所ふだしょとなっている。また、境内けいだいにある一言ひとこと観音堂かんのんどう南都なんとなな観音かんのん巡拝じゅんぱいしょひとつである。

創建そうけん

編集へんしゅう

藤原鎌足ふじわらのかまたり夫人ふじんかがみ王女おうじょおっと病気びょうき平癒へいゆねがい、かまあし発願ほつがん釈迦三尊しゃかさんぞんぞう本尊ほんぞんとして、天智天皇てんぢてんのう8ねん669ねん)にやまこく山階やましなげん京都きょうと京都きょうと山科やましな)で創建そうけんした山階やましなてら(やましなでら)がとうてら起源きげんである。みずのえさるらんのあった天武天皇てんむてんのう元年がんねん672ねん)、山階やましなてら藤原ふじわらきょううつり、地名ちめい高市たかいちぐんうまやざかをとってうまやざかてら(うまやさかでら)としょうした。

和銅わどう3ねん710ねん)の平城京へいじょうきょうへの遷都せんとさいし、かまあしとううまやざかてら平城京へいじょうきょう左京さきょう現在地げんざいち移転いてんし「興福寺こうふくじ」と名付なづけた[ちゅう 1]。この710ねん実質じっしつてき興福寺こうふくじ創建そうけんねんといえる。ちゅう金堂こんどう建築けんちく平城ひらじろ遷都せんとまもなく開始かいしされたものとられる。

そのも、天皇てんのう皇后こうごう、また藤原ふじわらによって堂塔どうとうてられ、伽藍がらん整備せいびすすめられた。とうぼっした養老ようろう4ねん720ねん)には「みやつこ興福寺こうふくじ仏殿ぶつでん」という役所やくしょもうけられ、元来がんらい藤原ふじわらわたしてらである興福寺こうふくじ造営ぞうえい国家こっかすすめられるようになった。天平てんぺい10ねん738ねん)3がつ28にちには山階やましなてら興福寺こうふくじ)にしょくふうせん朝廷ちょうていからほどこせいれされている。

南都なんと北嶺ほくれい

編集へんしゅう

興福寺こうふくじ奈良なら時代じだいにはよん大寺おおてら平安へいあん時代じだいにはなな大寺おおてらひとつにかぞえられ、とく摂関せっかん藤原ふじわらきたとの関係かんけいふかかったために手厚てあつ保護ほごされた。平安へいあん時代じだいには春日しゅんじつしゃ藤原ふじわら氏神うじがみ)の実権じっけんち、大和やまとこくいちこく荘園しょうえんのほとんどをりょうして事実じじつじょう同国どうこく国主こくしゅとなった。その勢力せいりょく強大きょうだいさは、比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじともに「南都なんと北嶺ほくれい」としょうされた。てら周辺しゅうへんには無数むすう付属ふぞく寺院じいんいんてられ、最盛さいせいにはひゃくいん以上いじょうかぞえた。なかでもてんろく元年がんねん970ねん)に定昭さだあき創立そうりつした一乗院いちじょういん寛治かんじ元年がんねん1087ねん)にりゅうぜん創立そうりつした大乗だいじょういん皇族こうぞく摂関せっかん子弟していにゅうてらする門跡もんぜき寺院じいんとしてさかえた。

しかし、興福寺こうふくじ創建そうけん以来いらい度々たびたび火災かさい見舞みまわれその都度つど再建さいけんかえしてきた。とくちゅう金堂こんどう失火しっか兵火へいか落雷らくらいによりなな焼失しょうしつしている[2]なかでもながうけたまわ元年がんねん1046ねん)12月24にち大火たいかではきた円堂えんどうのこしてぜんやま焼失しょうしつしている。うけたまわ4ねん1180ねん)、うけたまわ寿ことぶきひさしらん源平げんぺい合戦かっせん)の最中さいちゅうおこなわれた平重衡たいらのしげひらによる南都なんと焼討やきうちによる被害ひがい甚大じんだいで、東大寺とうだいじとも大半たいはん伽藍がらん焼失しょうしつした。

このとき焼失しょうしつ直後ちょくご別当べっとうしょくいたしんえん解脱げだつ上人しょうにん貞慶じょうけいらが奔走ほんそうし、朝廷ちょうてい藤原ふじわらとの交渉こうしょう結果けっかたいら政権せいけん朝廷ちょうてい実権じっけんにぎっていた時期じき一旦いったんおさむおおやけされてげられていた荘園しょうえん実質じっしつてき興福寺こうふくじがわ返却へんきゃくされ、朝廷ちょうてい藤原ふじわら長者ちょうじゃ興福寺こうふくじの3しゃ費用ひよう分担ぶんたんして、復興ふっこう事業じぎょう実施じっしされることとなった。現存げんそん興福寺こうふくじ建物たてものすべてこの火災かさい以後いごのものである。なお仏像ぶつぞうをはじめとする寺宝じほうるい多数たすう焼失しょうしつしたため、現存げんそんするものはこの火災かさい以後いご鎌倉かまくら復興ふっこう制作せいさくされたものがおおい。興福寺こうふくじ拠点きょてんとした運慶うんけいけい仏師ぶっしになる仏像ぶつぞうもこの時期じき数多かずおおつくられている。

鎌倉かまくら時代ときよ室町むろまち時代ときよには武士ぶし時代じだいになっても大和やまと武士たけし[ちゅう 2]僧兵そうへいひとしよう強大きょうだいちからっていたため、鎌倉かまくら幕府ばくふ室町むろまち幕府ばくふ守護しゅごくことができず、大和やまとこく実質じっしつてき興福寺こうふくじ支配しはいにありつづけた。安土あづち桃山ももやま時代じだいいたってゆたか政権せいけんくっし、ぶんろく4ねん1595ねん)の検地けんちでは、春日かすがしゃ興福寺こうふくじ合体がったい知行ちぎょうとして2まん1,000あまりいしとされた。また、江戸えど幕府ばくふからも寺領じりょう2まん1,000せきみとめられた。

江戸えど時代じだいとおる2ねん1717ねん)にまたしてもだい火災かさい発生はっせいし、ちゅう金堂こんどう西にし金堂こんどう講堂こうどう南大門なんだいもんなどが焼失しょうしつした。しかし、時代じだい背景はいけい変化へんかもあって再建さいけん資金しきん捻出ねんしゅつできず、だい規模きぼ復興ふっこうはなされなかった。そのやく100ねんたった文政ぶんせい2ねん1819ねん)、町屋まちや篤志とくしたち寄付きふによってかりどうではあるがようやくちゅう金堂こんどう再建さいけんされた。

きん現代げんだい

編集へんしゅう

慶応けいおう4ねん1868ねん)に神仏しんぶつ分離ぶんりれいされた[3]興福寺こうふくじ別当べっとうだった一乗院いちじょういんおよび大乗だいじょういん門主もんしゅ還俗げんぞくし、それぞれ水谷みずたにかわ松園まつぞの名乗なのった(奈良なら華族かぞく)。18かてらあった末寺まつじとは本末ほんまつ関係かんけい解消かいしょうし、83かてらいん、6つのぼう廃止はいしされ、そう全員ぜんいん自主じしゅてき還俗げんぞくし「しんかみ」として春日しゅんじつしゃ神職しんしょくとしてつかえることとなった。

明治めいじ2ねん1869ねん)に東大寺とうだいじ興福寺こうふくじ管理かんりおこないたいともうたが、もとそうらはそれをって、西大寺さいだいじ唐招提寺とうしょうだいじ興福寺こうふくじ管理かんりまかせている。寺領じりょう明治めいじ3ねん([1870ねん])12月のうえともれい堂塔どうとうのみのこして接収せっしゅうとなった[3]明治めいじ4ねん1871ねん)から一乗院いちじょういん奈良なら県庁けんちょうとなり、ちゅう金堂こんどうほう警察けいさつしょ奈良なら県庁けんちょうぐん役所やくしょとして使用しようされていたが、1883ねん明治めいじ16ねん)に興福寺こうふくじ返還へんかんされている。

1880ねん明治めいじ13ねん)2がつ14にちきゅう興福寺こうふくじ境内けいだいは、築地つきじへいはらわれて樹木じゅもくえられ奈良公園ならこうえんとなった。一乗院いちじょういんあと現在げんざい奈良なら地方裁判所ちほうさいばんしょ大乗だいじょういんあと奈良ならホテルとなっている。一時いちじ廃寺はいじ同然どうぜんとなり、五重塔ごじゅうのとう三重みえとうりにされていた。五重塔ごじゅうのとうは250えん値段ねだんには諸説しょせつある)でいたといわれ、当初とうしょ買主かいぬしとう自体じたいやして金目かねめ金具かなぐるいだけをそうとかんがえていたというが、延焼えんしょう心配しんぱいする近隣きんりん住民じゅうみん反対はんたいかんがえをえたという。また延焼えんしょう心配しんぱいだけでなく、とうのこしておいたほう観光かんこうきゃく誘致ゆうち有利ゆうりだという意見いけんもあったという[4]。しかし、五重塔ごじゅうのとう売却ばいきゃくはなし自体じたい伝承でんしょういきないというせつもある。

1881ねん明治めいじ14ねん)2がつ9にち興福寺こうふくじ再興さいこう許可きょかされた[3]1884ねん明治めいじ17ねん)には金堂こんどうもとまゆみから奈良なら時代じだいの鎮檀発掘はっくつされた[3]

1897ねん明治めいじ30ねん)6がつ10日とおか社寺しゃじ保存ほぞんほう発布はっぷきた円堂えんどう三重みえとう五重塔ごじゅうのとう特別とくべつ保護ほご建築けんちくぶつ指定していされた[3]1900ねん明治めいじ33ねん)に五重塔ごじゅうのとう、1907ねん明治めいじ40ねん)には三重みえとう修理しゅうりがあった[3]

1937ねん昭和しょうわ12ねん)10がつ30にち東金とうがねどう解体かいたい修理しゅうりちゅう銅像どうぞうふつあたまきゅう山田寺やまだじ講堂こうどう本尊ほんぞんぞう)が発掘はっくつされた[3]

1959ねん昭和しょうわ34ねん)に食堂しょくどう宝物ほうもつ収蔵しゅうぞう国宝こくほうかん)が建設けんせつされた[3]1965ねん昭和しょうわ40ねん)にきた円堂えんどう解体かいたい修理しゅうりがあり、1970ねん昭和しょうわ45ねん)には菩提ぼだいいん大御堂おおみどう改築かいちくがあった。1979ねん昭和しょうわ54ねん)に三重みえとう修理しゅうりがあった[3]1996ねん平成へいせい4ねん)にはみなみ円堂えんどう修理しゅうりがあり、また興福寺こうふくじ会館かいかん竣工しゅんこうした[3]

1998ねん平成へいせい10ねん)に世界せかい遺産いさん登録とうろくされ[3]1999ねん平成へいせい11ねん)からくに史跡しせき整備せいび保存ほぞん事業じぎょうとして、発掘はっくつ調査ちょうさすすめられている。平城京へいじょうきょうでの創建そうけん1300ねんちゅう金堂こんどう[5]南大門なんだいもん再建さいけん計画けいかくされ、ちゅう金堂こんどう2018ねん平成へいせい30ねん)10がつ落慶らっけい法要ほうようむかえた(7にち - 11にち[6]中心ちゅうしんきょばしら国内こくないひのき大木たいぼく入手にゅうしゅしにくく、宮大工みやだいく棟梁とうりょう提案ていあんカメルーンさんけやきせて使用しようした[2]

2023ねんれい5ねん〉からだい規模きぼ修理しゅうり開始かいし屋根やねかわらえ・漆喰しっくいなおしなどを2031ねんれい13ねん〉にかけておこな予定よてい[7]

建築けんちくぶつ年表ねんぴょう

編集へんしゅう
  • 和銅わどう7ねん714ねん)3がつ藤原不比等ふじわらのふひと初代しょだいちゅう金堂こんどう建立こんりゅう
  • 養老ようろう5ねん721ねん)8がつ3にち元明もとあき天皇てんのう元正がんしょう天皇てんのう長屋王ながやおうめいじて初代しょだいきた円堂えんどう建立こんりゅう
  • かみひさし3ねん726ねん)7がつ聖武天皇しょうむてんのう初代しょだい東金とうがねどう建立こんりゅう
  • 天平てんぺい2ねん730ねんあき光明皇后こうみょうこうごう初代しょだい五重塔ごじゅうのとう建立こんりゅう
  • 天平てんぴょう6ねん734ねん)1がつ11にち光明皇后こうみょうこうごう初代しょだい西にし金堂こんどう建立こんりゅう
  • ひろしひとし4ねん813ねん)、藤原ふじわらふゆ初代しょだいみなみ円堂えんどう建立こんりゅう
  • もとけい2ねん878ねん)4がつ8にち鐘楼しゅろう僧房そうぼう焼失しょうしつ
  • 寛仁かんじん元年がんねん1017ねん)6がつ22にち初代しょだい五重塔ごじゅうのとう初代しょだい東金とうがねどう焼失しょうしつ
  • ちょうはじめ4ねん1031ねん)10がつ20日はつか、2代目だいめ五重塔ごじゅうのとう・2代目だいめ東金とうがねどう再建さいけん
  • ながうけたまわ元年がんねん1046ねん)12月24にち伽藍がらんおおくを焼失しょうしつした最初さいしょ大火たいかである。初代しょだいちゅう金堂こんどう・2代目だいめ東金とうがねどう初代しょだい西にし金堂こんどう初代しょだい講堂こうどう・2代目だいめ五重塔ごじゅうのとう初代しょだいみなみ円堂えんどう焼失しょうしつ
  • ながうけたまわ3ねん1048ねん)3がつ2にち、2代目だいめちゅう金堂こんどう・2代目だいめ講堂こうどう・2代目だいめみなみ円堂えんどう再建さいけん
  • ながうけたまわ4ねん1049ねん)2がつ18にち初代しょだいきた円堂えんどう焼失しょうしつ
  • 康平こうへい3ねん1060ねん)5がつ4にち、2代目だいめちゅう金堂こんどう・2代目だいめ講堂こうどう中門ちゅうもん南大門なんだいもん僧房そうぼう焼失しょうしつ
  • れき3ねん1067ねん)2がつ25にち、3代目だいめちゅう金堂こんどう・3代目だいめ講堂こうどう再建さいけん
  • うけたまわこよみ2ねん1078ねん)1がつ27にち、2代目だいめ西にし金堂こんどう・3代目だいめ五重塔ごじゅうのとう再建さいけん
  • 寛治かんじ6ねん1092ねん)1がつ19にち、2代目だいめきた円堂えんどう食堂しょくどう再建さいけん
  • よしみ3ねん1096ねん)9がつ25にち、3代目だいめちゅう金堂こんどう・3代目だいめ講堂こうどう三面さんめん僧房そうぼう南大門なんだいもん焼失しょうしつ
  • かんかず元年がんねん1099ねん)、かんかず南海なんかい地震じしんで2代目だいめ西にし金堂こんどう小破しょうは大門おおもん回廊かいろうたおれる。
  • かんかず5ねん1103ねん)7がつ25にち、4代目だいめちゅう金堂こんどう・4代目だいめ講堂こうどう再建さいけん
  • 康治こうじ2ねん1143ねん)12月、崇徳天皇すとくてんのう中宮なかみやすめらぎ嘉門かもんいん初代しょだい三重みえとう建立こんりゅう
  • うけたまわ4ねん12月28にち1181ねん1がつ13にち)、平重衡たいらのしげひらによる南都なんと焼討やきうちによって東大寺とうだいじとも興福寺こうふくじ主要しゅよう建造けんぞうぶつ炎上えんじょうした。4代目だいめちゅう金堂こんどう・2代目だいめ西にし金堂こんどう・4代目だいめ講堂こうどう・3代目だいめ五重塔ごじゅうのとう・2代目だいめみなみ円堂えんどう焼失しょうしつ
  • 養和ようわ2ねん1182ねん)8がつ16にち、3代目だいめ東金とうがねどう・3代目だいめ西にし金堂こんどう・5代目だいめ講堂こうどう上棟じょうとう
  • もとこよみ2ねん1185ねん)7がつごろ、3代目だいめ東金とうがねどう・3代目だいめ西にし金堂こんどう再建さいけん
  • 文治ぶんじ2ねん1186ねん)10がつ10日とおか、5代目だいめ講堂こうどう再建さいけん。このころ食堂しょくどう再建さいけん
  • 文治ぶんじ4ねん1188ねん)、5代目だいめちゅう金堂こんどう上棟じょうとう
  • 文治ぶんじ5ねん1189ねん)9がつ28にち、3代目だいめみなみ円堂えんどう再建さいけん
  • たてひさ5ねん1194ねん)9がつ22にち、5代目だいめちゅう金堂こんどう南大門なんだいもん再建さいけん興福寺こうふくじ伽藍がらんはほぼ再建さいけんされる。
  • たてひとし3ねん1203ねん以前いぜんじゅうみなもと五重塔ごじゅうのとうしんばしらほどこせいれする。
  • 元久もとひさ2ねん1205ねん)2がつ22にち、このころ4代目だいめ五重塔ごじゅうのとう再建さいけん
  • うけたまわもと4ねん1210ねん)11月、3代目だいめきた円堂えんどう再建さいけん
  • 鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき、2代目だいめさんじゅうとう再建さいけん
  • 建治けんじ3ねん1277ねん)7がつ26にち、5代目だいめちゅう金堂こんどう・5代目だいめ講堂こうどう三面さんめん僧房そうぼう中門ちゅうもん南大門なんだいもん焼失しょうしつ
  • 正安まさやす2ねん1300ねん)12月5にち、6代目だいめちゅう金堂こんどう・6代目だいめ講堂こうどう再建さいけん
  • よしみれき2ねん1327ねん)3がつ12にち、6代目だいめちゅう金堂こんどう・3代目だいめ西にし金堂こんどう・6代目だいめ講堂こうどう・3代目だいめみなみ円堂えんどう中門ちゅうもん南大門なんだいもん焼失しょうしつ
  • かんひさし4ねん1345ねん)、4代目だいめ西にし金堂こんどう再建さいけん
  • 貞和さだかず3ねん1347ねん)、7代目だいめちゅう金堂こんどう再建さいけん
  • 文和ふみかず5ねん1356ねん)2がつ17にち、3代目だいめ東金とうがねどう・4代目だいめ五重塔ごじゅうのとう焼失しょうしつ
  • 正平しょうへい16ねん1361ねん)、正平しょうへい南海なんかい地震じしんで7代目だいめちゅう金堂こんどう・4代目だいめみなみ円堂えんどう破損はそん
  • おうやす元年がんねん1368ねん)6がつ1にち、4代目だいめ東金とうがね堂上どうじょうとうすうねんない再建さいけん
  • 永和えいわ元年がんねん1375ねん)6がつ16にち、5代目だいめ五重塔ごじゅうのとう上棟じょうとうすうねんない再建さいけん
  • おうひさし6ねん1399ねん)3がつ11にち、7代目だいめちゅう金堂こんどう修理しゅうり完成かんせい
  • おうなが18ねん1411ねんうるう10がつ15にち、4代目だいめ東金とうがねどう・5代目だいめ五重塔ごじゅうのとうだい湯屋ゆや焼失しょうしつ
  • おうなが22ねん1415ねん)6がつ26にち、5代目だいめ東金とうがねどう再建さいけん
  • おうなが33ねん1426ねん)、6代目だいめ五重塔ごじゅうのとうだい湯屋ゆや再建さいけん興福寺こうふくじ伽藍がらんはほぼ再建さいけんされる。
  • ぶんやす6ねん1449ねん)、山城やましろ大和やまと地震じしん築地つきじへいことごとこわれる。
  • あかりおう3ねん1494ねん)、地震じしん被害ひがい
  • ぶんろく4ねん1595ねんぶんろく検地けんち寺領じりょう2まん1000せきあまりさだめる[3]
  • 宝永ほうえい4ねん1707ねん)、宝永ほうえい地震じしんで7代目だいめちゅう金堂こんどう西にし回廊かいろう一部いちぶ転倒てんとう
  • とおる2ねん1717ねん)1がつ4にち、7代目だいめちゅう金堂こんどう・4代目だいめ西にし金堂こんどう・7代目だいめ講堂こうどう・4代目だいめみなみ円堂えんどう僧房そうぼう中門ちゅうもん南大門なんだいもん焼失しょうしつ[3]
  • ひろし元年がんねん1741ねん)4がつ、5代目だいめみなみ円堂えんどうりつばしら
  • 寛政かんせい元年がんねん1789ねん)、5代目だいめみなみ円堂えんどう再建さいけん
  • 文政ぶんせい2ねん1819ねん)9がつ25にち篤志とくし寄進きしんにより8代目だいめちゅう金堂こんどうかりどうとして再建さいけん[3]
  • 慶応けいおう4ねん1868ねん)、神仏しんぶつ分離ぶんりれい布告ふこく[3]
  • 明治めいじ3ねん1870ねんうえともれい布告ふこく堂塔どうとう以外いがい寺領じりょう没収ぼっしゅう[3]
  • 1874ねん明治めいじ7ねん)、食堂しょくどうほそ殿でんこわされる[3]
  • 1880ねん明治めいじ13ねんきゅう境内けいだい奈良公園ならこうえんとして開園かいえん[3]
  • 1881ねん明治めいじ14ねん)2がつ9にち興福寺こうふくじ再興さいこう許可きょかされる[3]
  • 1883ねん明治めいじ16ねん)、警察けいさつしょ奈良なら県庁けんちょうぐん役所やくしょとして使用しようされていたなか金堂こんどう返還へんかんされる。
  • 1891ねん明治めいじ24ねん)、地震じしんいし灯籠どうろう築地つきじへい屋根やねかわらとう被害ひがい
  • 1897ねん明治めいじ30ねん)、社寺しゃじ保存ほぞんほう公布こうふきた円堂えんどう三重みえとう五重塔ごじゅうのとう特別とくべつ保護ほご建築けんちくぶつ指定してい[3]
  • 1902ねん明治めいじ35ねん)、五重塔ごじゅうのとう修理しゅうり完了かんりょうする[3]
  • 1905ねん明治めいじ38ねん)7がつ、6代目だいめ五重塔ごじゅうのとう三重みえ東北とうほくすみ肘木ひじき落雷らくらい命中めいちゅうするが、大事だいじにはいたらなかった。
  • 1907ねん明治めいじ40ねん)8がつ、6代目だいめ五重塔ごじゅうのとう避雷針ひらいしん設置せっちされる。
  • 1910ねん明治めいじ43ねん)3がつ三重みえとう修理しゅうり完了かんりょう[3]
  • 1944ねん昭和しょうわ19ねん)、ひがし南海なんかい地震じしんいし灯籠どうろうなど倒壊とうかい
  • 1959ねん昭和しょうわ34ねん)2がつ食堂しょくどうあと国宝こくほうかん建設けんせつ[3]
  • 1974ねん昭和しょうわ49ねん)11月23にち講堂こうどうあとかり金堂こんどうとして薬師寺やくしじきゅう金堂こんどう移築いちくする。
  • 2000ねん平成へいせい12ねん)7がつ31にち、8代目だいめちゅう金堂こんどう解体かいたいされる[3]
  • 2010ねん平成へいせい22ねん)、9代目だいめちゅう金堂こんどう再建さいけん工事こうじ開始かいし[3]
  • 2018ねん平成へいせい30ねん)10がつ、9代目だいめちゅう金堂こんどう再建さいけんかり金堂こんどうかり講堂こうどう(8代目だいめ講堂こうどう)に名称めいしょうあらためる。
  • 2023ねんれい5ねん)7がつ五重塔ごじゅうのとう修理しゅうり開始かいしされる。

建築けんちく儀式ぎしき 番匠ばんじょう

編集へんしゅう

興福寺こうふくじのような高貴こうき建物たてものてる棟梁とうりょうを「番匠ばんしょう」(ばんしょう)といい、2014ねん平成へいせい26ねん)、興福寺こうふくじにおいて番匠ばんしょう棟上とうじょうづちという儀式ぎしき披露ひろうされた[8]。この儀式ぎしき保存ほぞんするため、1968ねん昭和しょうわ43ねん)、番匠ばんしょう保存ほぞんかい設立せつりつされた[8]番匠ばんじょうは、建築けんちくすべてにたずさわるものにわざわいがきぬよう邪気じゃきはら陰陽いんようどう祭祀さいし祭礼さいれいほうわせ、戦国せんごく時代じだい陰陽いんよう迫害はくがいけても刀鍛冶かたなかじ同様どうようたか地位ちい位置付いちづけられた「番匠ばんじょう」が口述こうじゅつ伝承でんしょうし、のちに書物しょもつした「割書わりがき」(きわりしょ)から、家相かそうされたものであると、名古屋工業大学なごやこうぎょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ内藤ないとうあきらべている[9]

門跡もんぜき

編集へんしゅう

興福寺こうふくじには「興福寺こうふくじりょう門跡もんぜき」とばれる2つのいんがあった。一乗院いちじょういん大乗だいじょういんである。

一乗院いちじょういん門跡もんぜきは、平安へいあん時代じだい後期こうきだい6だい門主もんしゅさとししん関白かんぱく藤原ふじわら子息しそくだったことをきっかけに、代々だいだい摂関せっかんあるいは皇族こうぞく門主もんしゅつとめる門跡もんぜき寺院じいんひとつとなった。その五摂家ごせっけ分立ぶんりつ以降いこう近衛このえ管領かんりょうするところとなり、近衛このえりゅう近衛このえ鷹司たかつかさ)の子弟してい門主もんしゅとなるれいおおかった。足利あしかが義昭よしあきは、元々もともと近衛このえしょうどおり猶子ゆうしとして法名ほうみょうさとしけい」を名乗なの一乗院いちじょういん門跡もんぜきとなっていた。あにである足利あしかが義輝よしてる殺害さつがいにともない還俗げんぞくし、織田おだ信長のぶなが援助えんじょ室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐんとなったのである。大和やまとくにしゅのち戦国せんごく大名だいみょうした筒井つつい一乗院いちじょういん衆徒しゅと筆頭ひっとうであった。江戸えど時代じだいはいって、こう陽成ようぜい天皇てんのう皇子おうじみことさとし法親王ほうしんのう門主もんしゅとなったのをきっかけに親王しんのう門主もんしゅつとめるケースもえた。たとえば、久邇くにみや朝彦親王あさひこしんのうは、もと一乗院いちじょういん門主もんしゅで、そのあおれんいんうつったのである。摂関せっかん親王しんのう同様どうようしょ大夫たいふ以下いか専属せんぞくいえもおり、摂関せっかん親王しんのう同格どうかく立場たちばほこっていた。また奈良ならだけではなく、京都きょうと今出川いまでがわかつらみややしき御所ごしょあいだに「里坊さとぼう」とばれる屋敷やしきっていた。

大乗だいじょういん門跡もんぜきは、これも藤原ふじわら子息しそくであるひろはん門主もんしゅとなったのをきっかけに門跡もんぜき寺院じいんとなった。こちらはきゅうじょう管領かんりょうぞくし、九条くじょうりゅうきゅうじょうじょう一条いちじょう)の子弟してい門主もんしゅつとめるところであった。戦国せんごく時代じだいには、日記にっき大乗だいじょういん寺社じしゃ雑事ざつじ』で著名ちょめい門主もんしゅひろみこと一条いちじょう兼良かねら)がている。また、足利あしかが義昭よしあき将軍しょうぐん地位ちいわれたのちと、義昭よしあきのひとり息子むすこ出家しゅっけして法名ほうみょうひろ名乗なのり、大乗だいじょういん門主もんしゅとなっている。一乗院いちじょういん筒井つつい衆徒しゅととしたように、大乗だいじょういん古市ふるいち衆徒しゅととしている。しょ大夫たいふ以下いかいえ里坊さとぼうゆうし、摂関せっかん親王しんのう同様どうよう格式かくしきほこったことは一乗院いちじょういん同様どうようであるが、親王しんのう門主もんしゅとなったれいはない。

興福寺こうふくじ最高さいこうしょくである別当べっとうは、一乗院いちじょういん門主もんしゅ大乗だいじょういん門主もんしゅ交互こうご就任しゅうにんするならわしだった。ただし、平家ひらかによる南都なんと焼討やきうち直後ちょくご時期じきだい44だい別当べっとうとなったしんえん[ちゅう 3]かぎっては、例外れいがいてき一乗院いちじょういん門跡もんぜき大乗だいじょういん門跡もんぜき双方そうほうを、いくつかのいんとも兼帯けんたいしている。また、りょう門跡もんぜきぞくする門主もんしゅ以外いがいもの別当べっとう就任しゅうにんしたれいもある。

また、興福寺こうふくじがその権限けんげん行使こうししていた大和やまとこく守護しゅごしょくについては諸説しょせつある。別当べっとう権限けんげんゆうしていたせつ両院りょういん門主もんしゅ共同きょうどう権限けんげん行使こうししていたとするせつ門主もんしゅ別当べっとうとき別当べっとう全権ぜんけん行使こうしし、それ以外いがいもの別当べっとうとき別当べっとう両院りょういん共同きょうどう権限けんげん行使こうししていたとするせつである[10]江戸えど時代じだいには世俗せぞくてき権力けんりょくうしない、江戸えど幕府ばくふから一定いってい知行ちぎょう一乗院いちじょういんが1,492せき大乗だいじょういんが951せき)をあたえられたたんなる寺院じいんとなった。両院りょういんとも明治めいじ廃仏毀釈はいぶつきしゃく廃寺はいじとなった。

ちゅう金堂こんどう

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2018ねん平成へいせい30ねん)10がつ再建さいけん。9代目だいめ創建そうけん当初とうしょ建物たてもの藤原鎌足ふじわらのかまたり発願ほつがん釈迦三尊しゃかさんぞんぞう安置あんちするための、てら中心ちゅうしんてきどうとして和銅わどう3ねん710ねん)の平城京へいじょうきょう遷都せんと直後ちょくご造営ぞうえいはじめられたと推定すいていされる。のち東金とうがねどう西にし金堂こんどうてられてからはちゅう金堂こんどうばれるようになった。創建そうけん以来いらいたびたび焼失しょうしつ再建さいけんかえしたが、江戸えど時代じだいとおる2ねん1717ねん)の火災かさいによる焼失しょうしつは1世紀せいき以上いじょう再建さいけんされず、文政ぶんせい2ねん1819ねん)、町屋まちや篤志とくしたち寄付きふによってようやく再建さいけんされた。この文政ぶんせい再建さいけんどうかりどうで、規模きぼ従前じゅうぜんどうよりいちまわ以上いじょうちいさかったが、1959ねん昭和しょうわ34ねん)の国宝こくほうかん開館かいかんまでは、たかさ5.2メートルの千手観音せんじゅかんのん立像りつぞうをはじめ、国宝こくほうかん現在げんざいられる仏像ぶつぞうおおくをどうない安置あんちしていた。また、朱色しゅいろられていたため「あかどう」としてしたしまれていた。あくまでかりどうとしててられたため、長年ながねん使用しよう不向ふむきである安価あんかまつざい使用しようされ、かわら安物やすもの使つかわれており、経年けいねんによる雨漏あまもりは年々ねんねんひどくなっていった。そこで、仏像ぶつぞうへの雨漏あまも被害ひがいふせぐために1974ねん昭和しょうわ49ねん)11月23にちちゅう金堂こんどう北側きたがわ講堂こうどう跡地あとちかり金堂こんどうげんかり講堂こうどう)として薬師寺やくしじきゅう金堂こんどう移築いちくし、本尊ほんぞん釈迦如来しゃかにょらい坐像ざぞうなどがそちらにうつされた。文政ぶんせい再建さいけんかりどうなか金堂こんどう老朽ろうきゅうのため移築いちくさい利用りよう不可能ふかのう判断はんだんされ、一部いちぶさい利用りようできる木材もくざいのこして2000ねん平成へいせい12ねん)に解体かいたいされた。そのちゅう金堂こんどう解体かいたい発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれ、創建そうけん当初とうしょ姿すがた再現さいげんしたしんちゅう金堂こんどう建設けんせつ境内けいだい各所かくしょ整備せいびはじめられた。創建そうけん1,300ねんとなる2010ねん平成へいせい22ねん)にちゅう金堂こんどう再建さいけん工事こうじ着工ちゃっこうされ、2017ねん平成へいせい29ねん)、翌年よくねんちゅう金堂こんどう完成かんせいするのを見越みこかり金堂こんどうないしょほとけはやくもちゅう金堂こんどううつし、2018ねん平成へいせい30ねん)10がつに9代目だいめとなるなか金堂こんどう落慶らっけいした[11]

  • 釈迦如来しゃかにょらい坐像ざぞう - とうてら本尊ほんぞん。5代目だいめ文化ぶんか8ねん1811ねん)に仏師ぶっし赤尾あかお右京うきょうによりつくられた。ぞうだか283.9cm、ひのきざいよせ木造もくぞううるしはく
  • 木造もくぞうくすりおう菩薩ぼさつくすりじょう菩薩ぼさつ立像りつぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - ぞうだか3.6メートルのきょぞう現在げんざい本尊ほんぞん釈迦如来しゃかにょらい坐像ざぞうりょうわき安置あんちされるが、本来ほんらい廃絶はいぜつした西金さいがね堂本どうもとたかし釈迦如来しゃかにょらいぞうわきさむらいとして、鎌倉かまくら時代ときよたてひとし2ねん1202ねん)に造立ぞうりゅうされたもの。
  • 木造もくぞう四天王してんのう立像りつぞう国宝こくほう) - 鎌倉かまくら時代じだいさく。この四天王してんのうぞう当初とうしょ安置あんち場所ばしょ作者さくしゃ不明ふめいであるが[12]、2017ねん平成へいせい29ねん)まではみなみ円堂えんどう安置あんちされていた。みなみ円堂えんどう本尊ほんぞん不空ふくう羂索観音かんのんぞう同様どうようほん四天王してんのうぞう運慶うんけいちち康慶こうけい一門いちもんさくであるとながらくしんじられていたが、藤岡ふじおかみのる1990ねん平成へいせい2ねん)に発表はっぴょうした論考ろんこうで、当時とうじなか金堂こんどうかり金堂こんどう)に安置あんちされていたげんみなみ円堂えんどう安置あんち四天王してんのうぞうが、もとからみなみ円堂えんどうにあった康慶こうけいさくぞうであると指摘してきして以降いこう、これが定説ていせつとなった。ほん四天王してんのうぞうは2017ねん平成へいせい29ねん)に東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん開催かいさいされた「運慶うんけいてんに、康慶こうけいさく四天王してんのうぞうわるかたちちゅう金堂こんどううつされた[13]。また、多聞天たもんてんのぞく3について、持国天じこくてんかんがえられていたぞう増長天ぞうちょうてん増長天ぞうちょうてんかんがえられていたぞう広目天こうもくてん広目天こうもくてんかんがえられていたぞう持国天じこくてんであることから、それをまえた安置あんちとなっている。これらのぞうはもともときた円堂えんどうにあったと想定そうていされている。

東金とうがねどう

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国宝こくほうおうひさし22ねん1415ねん再建さいけん。5代目だいめ平面へいめん桁行けたゆきななあいだ梁間はりまよんあいだ屋根やねいちじゅうよせとうづくりほん瓦葺かわらぶきである[14]1897ねん明治めいじ30ねん)12月28にち当時とうじ社寺しゃじ保存ほぞんほうもとづく特別とくべつ保護ほご建造けんぞうぶつ文化財ぶんかざい保護ほごほうにおける「重要じゅうよう文化財ぶんかざい」に相当そうとう)に指定してい[15]1952ねん昭和しょうわ27ねん)3がつ29にち文化財ぶんかざい保護ほごほうもとづく国宝こくほう指定していされている[16]西国さいごく薬師くすしよんじゅうきゅう霊場れいじょうだい4ばん札所ふだしょ東金とうがねどうかみひさし3ねん726ねん)、聖武天皇しょうむてんのう伯母おばにあたる元正がんしょう上皇じょうこう病気びょうき平癒へいゆ祈願きがんし、薬師くすしさんみことぞう安置あんちするどうとして創建そうけんされた。うけたまわ4ねん1180ねん)の兵火へいかによる焼失しょうしつ文治ぶんじ3ねん1187ねん)、興福寺こうふくじ僧兵そうへい東金とうがねどうしゅ飛鳥あすか山田やまだてらげん奈良ならけん桜井さくらい)にあった天武天皇てんむてんのう14ねん685ねん)に蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわのまろ冥福めいふくいのって造立ぞうりゅうされたものとおもわれる講堂こうどう本尊ほんぞん薬師くすしさん尊像そんぞう強奪ごうだつし、それをあらたな東金とうがねどう本尊ほんぞんとして安置あんちした。東金とうがねどうはそのおうなが18ねん1411ねん)に五重塔ごじゅうのとうともけ、現在げんざい建物たてものおうなが22ねん(1415ねん)の再建さいけんとなる室町むろまち時代じだい建築けんちくである。様式ようしきは、唐招提寺とうしょうだいじ金堂こんどう参考さんこうにした天平てんぺい様式ようしき平面へいめん規模きぼは、創建そうけんどうじゅんじている。どうないには以下いかしょほとけ安置あんちする。

  • どうづくり薬師くすしさん尊像そんぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - ちゅうみことおうなが18ねん(1411ねん)の火災かさい再興さいこうぞう室町むろまち時代じだいさくわきさむらい日光にっこう菩薩ぼさつぞう月光げっこう菩薩ぼさつぞうおうなが火災かさいさい救出きゅうしゅつされたもので、奈良なら時代じだいさくである。
  • 木造もくぞう維摩居士こじ坐像ざぞう国宝こくほう) - 本尊ほんぞん薬師如来像やくしにょらいぞうかってひだり安置あんち鎌倉かまくら時代じだいたてひさ7ねん1196ねん)、ていけいさく。維摩は大乗だいじょう仏教ぶっきょう重要じゅうよう経典きょうてんひとつである『維摩詰所つめしょ説経せっきょう維摩けい)』に登場とうじょうする伝説でんせつじょう人物じんぶつで、在家ありいえ仏教徒ぶっきょうと理想りそうぞうとされる。興福寺こうふくじでは山階やましなてら創建そうけん直後ちょくご藤原鎌足ふじわらのかまたりが維摩けいこうさん供養くようする維摩かいはじめさせ、以後いごさい重要じゅうよう法会ほうえひとつとして現在げんざいいたるまで毎年まいとし10がつおこなわれている。その経緯けいいなどから維摩は藤原ふじわらあつ信仰しんこうあつめ、また興福寺こうふくじにおいてもとく重要じゅうよう存在そんざいなされている。実在じつざい老人ろうじんのようにリアルに表現ひょうげんされている。
  • 木造もくぞう文殊もんじゅ菩薩ぼさつ坐像ざぞう国宝こくほう) - 本尊ほんぞん薬師やくし如来にょらいかってみぎ安置あんちされ、上記じょうき維摩居士こじぞうたいす。作者さくしゃ不明ふめいだが、維摩ぞうおなごろていけいになるものと推定すいていされる。維摩けいのクライマックスにあたる文殊もんじゅと維摩の問答もんどう場面ばめん表現ひょうげんしたものである。
  • 木造もくぞう四天王してんのう立像りつぞう国宝こくほう) - どうない四隅よすみ安置あんちどうないほかぞうよりふるく、平安へいあん時代じだい前期ぜんき重厚じゅうこう作風さくふうぞう最初さいしょからあったぞうではなく、どこからうつりやすされたかは不明ふめい
  • 木造もくぞうじゅう二神にかみすすむ立像りつぞう国宝こくほう) - 薬師如来やくしにょらい守護しゅごする12の眷属けんぞくぞう鎌倉かまくら時代じだいたてひさし2ねん1207ねんごろさくかくぞうのダイナミックな姿勢しせいと12たい個性こせいけた群像ぐんぞう表現ひょうげん見所みどころである。

五重塔ごじゅうのとう

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国宝こくほうおうなが33ねん1426ねん再建さいけん。6代目だいめほん瓦葺かわらぶきさんあいだじゅう塔婆とうばである[14]。1897ねん明治めいじ30ねん)12月28にち当時とうじ社寺しゃじ保存ほぞんほうもとづく特別とくべつ保護ほご建造けんぞうぶつきゅう国宝こくほう文化財ぶんかざい保護ほごほうにおける「重要じゅうよう文化財ぶんかざい」に相当そうとう))に指定してい[15]。1952ねん昭和しょうわ27ねん)3がつ29にち文化財ぶんかざい保護ほごほうもとづく国宝こくほう指定していされている[16]創建そうけん天平てんぺい2ねん730ねん)で、光明皇后こうみょうこうごう発願ほつがんによるものである。現存げんそんとうは、おうなが33ねん(1426ねん)の再建さいけんであるが、たかさは50.1メートルで、現存げんそんする日本にっぽん木造もくぞうとうとしては東寺とうじ五重塔ごじゅうのとういでたかいものである。

明治めいじ初期しょき廃仏毀釈はいぶつきしゃく政策せいさくもとづき、奈良ならけんれい四条しじょう隆平りゅうへいよりとう撤去てっきょ命令めいれいて、頂上ちょうじょうあみをかけてたおそうとしたが、かなわず、焼却しょうきゃくのためまわりにしばまれたが、類焼るいしょうおそれた近隣きんりん住民じゅうみん反対はんたいにより中止ちゅうしされた[17]

1905ねん明治めいじ38ねん)7がつには三重みえ東北とうほくすみ肘木ひじき落雷らくらい命中めいちゅうくろけむりをはくが、大事だいじにはいたらなかった。これにより、1907ねん明治めいじ40ねん)8がつ避雷針ひらいしん設置せっちしている。

1902ねん明治めいじ35ねん)に修理しゅうりえて以来いらい、2024ねんれい5ねん)7がつからおよそ120ねんぶりに本格ほんかく修理しゅうりはじまっている。

きた円堂えんどう

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国宝こくほううけたまわもと4ねん1210ねん再建さいけん屋根やねいちじゅうほん瓦葺かわらぶきとする八角はっかく円堂えんどうである[14]1897ねん明治めいじ30ねん)12月28にち当時とうじ社寺しゃじ保存ほぞんほうもとづく特別とくべつ保護ほご建造けんぞうぶつ文化財ぶんかざい保護ほごほうにおける「重要じゅうよう文化財ぶんかざい」に相当そうとう)に指定してい[15]1952ねん昭和しょうわ27ねん)3がつ29にち文化財ぶんかざい保護ほごほうもとづく国宝こくほう指定していされている[16]きた円堂えんどう養老ようろう5ねん721ねん)8がつ藤原不比等ふじわらのふひといち周忌しゅうきさいし、元明もとあき上皇じょうこう元正がんしょう天皇てんのうりょう女帝にょてい長屋王ながやおうめいじて創建そうけんさせた。現在げんざい建物たてものうけたまわもと4ねん(1210ねん)の再建さいけんで、興福寺こうふくじ現存げんそんするなかもっとふる建物たてものである。法隆寺ほうりゅうじ夢殿ゆめどの同様どうよう平面へいめんはち角形かくがたの「八角はっかく円堂えんどう」である。かつては回廊かいろう復元ふくげん計画けいかくされたこともあり、現在げんざいはその基壇きだん復元ふくげんされている。

  • 木造もくぞう弥勒みろくほとけ坐像ざぞう国宝こくほう) - 本尊ほんぞん晩年ばんねん運慶うんけい一門いちもん仏師ぶっしひきいてけんれき2ねん1212ねんごろ完成かんせいさせたもの。
  • 木造もくぞうほうえんりん菩薩ぼさつだいみょうしょう菩薩ぼさつはん跏像 - 弥勒みろくふつわきさむらいぞうだが、制作せいさく年代ねんだい室町むろまち時代じだいくだる。
  • 木造もくぞうちょ菩薩ぼさつおや菩薩ぼさつ立像りつぞう国宝こくほう) - ちょせいおや兄弟きょうだいは5世紀せいきごろインド活動かつどうした唯識ゆいしき教学きょうがくで、興福寺こうふくじぞくする法相ほうしょうむねたっとばれている。本尊ほんぞん弥勒みろくぞうおなごろ運慶うんけい一門いちもんさく鎌倉かまくら時代じだいのリアリズム彫刻ちょうこく頂点ちょうてんをなす作品さくひんで、日本にっぽん肖像しょうぞう彫刻ちょうこく最高さいこう傑作けっさくの1つとしてたか評価ひょうかている。※みぎれつ画像がぞうあり。
  • こころ乾漆かんしつ四天王してんのう立像りつぞう国宝こくほう) - どうないほかしょふつよりふる平安へいあん時代じだいのごく初期しょきぞうである。弘安ひろやす8ねん1285ねん)の修理しゅうりめいによると、本来ほんらい大安寺だいあんじのもので、のべれき10ねん791ねん)に造立ぞうりゅうされたという。なお、本来ほんらい現在げんざいちゅう金堂こんどう安置あんちされている四天王してんのうぞうが、きた円堂えんどう本来ほんらいぞうではないだろうかと判断はんだんする学説がくせつ根強ねづよい。

みなみ円堂えんどう

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つてくだりぞう法相ほうしょうろくぞうの1

重要じゅうよう文化財ぶんかざい寛政かんせい元年がんねん1789ねん再建さいけん。4代目だいめ屋根やねいちじゅうほん瓦葺かわらぶきとする八角はっかく円堂えんどうで、正面しょうめんはいしょ付属ふぞくする[14]1986ねん昭和しょうわ61ねん)12がつ20日はつか文化財ぶんかざい保護ほごほうもとづく重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている[18]西国さいこくさんじゅうさんしょだい9ばん札所ふだしょみなみ円堂えんどう藤原ふじわらきた藤原ふじわらふゆが、ちちうち麻呂まろ追善ついぜんのためにひろしひとし4ねん813ねん)に創建そうけんした八角やすみどうである。創建そうけん本尊ほんぞんは、もと興福寺こうふくじ講堂こうどう安置あんちされていた不空ふくう羂索観音かんのんぞうであった。このぞう天平てんぴょう18ねん748ねん)、その前年ぜんねんぼっした藤原ふじわら房前ふさざき追善ついぜんのため、夫人ふじん牟漏女王じょおう子息しそく藤原ふじわらしんだてらが造立ぞうりゅうしたものであった。どう西国さいこくさんじゅうさんしょだい9ばん札所ふだしょとして参詣さんけいじんえないが、どうとびら常時じょうじざされており、ひらきとびらは10月17にちだい般若はんにゃけい転読てんどくかいという行事ぎょうじのみである(2002ねん平成へいせい14ねんあき2008ねん平成へいせい20ねんあき2013ねん平成へいせい25ねんはる特別とくべつひらけとびらおこなわれた)。どうないには本尊ほんぞんである不空ふくう羂索観音かんのん坐像ざぞうほか四天王してんのう立像りつぞう法相ほうしょうろくぞう安置あんちする。どうまええる「みなみ円堂えんどうふじ」は南都なんと八景はっけいひとつで、毎年まいとしうつくしいはなかせている。

  • 木造きづくり不空ふくう羂索観音かんのん坐像ざぞう国宝こくほう) - 運慶うんけいちち康慶こうけい一門いちもんさくで、文治ぶんじ5ねん1189ねん)に完成かんせい坐像ざぞうたかさ336センチのきょぞうである。
  • 木造もくぞう四天王してんのう立像りつぞう国宝こくほう) - 元々もともとみなみ円堂えんどうにあったもの。そのかり金堂こんどううつされていたが、2017ねん平成へいせい29ねん)に東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん開催かいさいされた「運慶うんけいてんみなみ円堂えんどうもどされた[13]運慶うんけいちち康慶こうけい一門いちもんさく。2018ねん平成へいせい30ねん国宝こくほう指定してい[19][20]
  • 木造もくぞう法相ほうしょうろく坐像ざぞう国宝こくほう) - 運慶うんけいちち康慶こうけい一門いちもんさくげんまろうどくだりげんかみあきらつねあがぜんたまという、法相ほうしょうむねの6めい高僧こうそう肖像しょうぞう。(※みぎれつつてぎょうぞう画像がぞうあり)

国宝こくほうかん

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阿修羅あしゅらぞうはちしゅぞうの1
 
きゅう山田やまだてらふつあたま

文化財ぶんかざい収蔵しゅうぞう展示てんじ目的もくてきとする耐火たいかしき収蔵しゅうぞう施設しせつで、1959ねん昭和しょうわ34ねん)に食堂しょくどうおよほそ殿どの跡地あとちてられた。鉄筋てっきんコンクリート構造こうぞうであるが、外観がいかん創建そうけん食堂しょくどうほそ殿でん、すなわち奈良なら時代じだい寺院じいん建築けんちくしたものとなっている。国宝こくほうかん内部ないぶには、食堂しょくどう本尊ほんぞんであった巨大きょだい千手観音せんじゅかんのん立像りつぞうたかさ5.2メートル)が中央ちゅうおう安置あんちされ、仏像ぶつぞうはじめとするおおくの寺宝じほう展示てんじされている。2010ねん平成へいせい22ねん)3がつにリニューアルオープンし、従前じゅうぜんくら展示てんじ点数てんすうえた。文化財ぶんかざいあたえる悪影響あくえいきょうすくないLED照明しょうめい採用さいようされたことにより、おおくの仏像ぶつぞうがガラスケースなしでられるようになった。その、2017ねん平成へいせい29ねん)1がつから12がつまでの1年間ねんかん休館きゅうかんして耐震たいしん改修かいしゅう工事こうじ施工しこう、2018ねん平成へいせい30ねん)1がつ再度さいどリニューアルした[21]館長かんちょうには小西こにし正文まさふみ金子かねこ啓明ひろあき歴任れきにんし、現在げんざい当山とうざん貫首かんじゅ兼務けんむしている。詳細しょうさい興福寺こうふくじ仏像ぶつぞう参照さんしょう

  • 乾漆かんしつはちしゅ立像りつぞう国宝こくほう) - 奈良なら時代じだいさく。もと西にし金堂こんどう本尊ほんぞん釈迦如来しゃかにょらいぞう周囲しゅうい安置あんちされていた群像ぐんぞうの1つ。きよしすな羯羅(しゃがら)、ばと槃荼(くはんだ)、いぬい闥婆(けんだつば)、阿修羅あしゅら迦楼緊那畢婆迦羅(ひばから)の8たいそろって現存げんそんするが、きよしぞう大破たいはしてむねからしたからだうしなわれている。なかでも三面六臂さんめんろっぴかおが3つでが6ほん)の阿修羅あしゅらぞう著名ちょめいである。(※みぎれつ阿修羅あしゅらぞう画像がぞうあり)
  • 乾漆かんしつじゅうだい弟子でし立像りつぞう6国宝こくほう) - 奈良なら時代じだいさくはちしゅぞうともに、西にし金堂こんどう本尊ほんぞん釈迦如来しゃかにょらいぞう周囲しゅうい安置あんちされていた群像ぐんぞうひとつである。当然とうぜんながら制作せいさく当初とうしょは10たい群像ぐんぞうであったが、4たい明治めいじ時代じだいてらがい流出りゅうしゅつし、舎利しゃりどる犍連(もくけんれん)、菩提ぼだいとみろう迦旃のべ睺羅ぞうめいはいずれもてらでんによる)の6たいのみがてら現存げんそんする。てらがい流出りゅうしゅつした4たいは、明治めいじ時代じだい写真しゃしんうつっているがいずれも破損はそんはげしい。これら4たいのうち、大倉おおくらしゅう古館ふるたてきゅうぞうの1たいつたえゆうはなれぞう)は関東大震災かんとうだいしんさい焼失しょうしつした。の3たい以下いか所蔵しょぞうさき現存げんそんするが、いずれのぞう原形げんけいめていない。
  • どうづくりふつあたま国宝こくほう) - きゅう山田寺やまだじふつあたま白鳳はくほう時代じだいさく頭部とうぶのみのこっているが、白鳳はくほう文化ぶんか代表だいひょうする作品さくひんである。もと飛鳥ひちょう山田やまだてらげん奈良ならけん[桜井さくらい講堂こうどう本尊ほんぞん薬師くすしさん尊像そんぞうなか尊像そんぞうで、興福寺こうふくじ僧兵そうへい略奪りゃくだつしてきたものである。薬師くすしさん尊像そんぞう東金とうがねどう本尊ほんぞんとしてまつられていたが、室町むろまち時代じだい火災かさいい、りょうわきさむらいぞうたすされたがちゅう尊像そんぞう頭部とうぶだけがかろうじてのこった。この火災かさいにより、ひだりみみ付近ふきんおおきく変形へんけいしている。この頭部とうぶあたらしくつくった本尊ほんぞんぞう台座だいざないおさめられてながらく人目ひとめにふれず、1937ねん昭和しょうわ12ねん)にさい発見はっけんされた。このときにはに、類例るいれいすくない銀製ぎんせい仏像ぶつぞううで重要じゅうよう文化財ぶんかざい)も発見はっけんされている。(※みぎれつふつあたま画像がぞうあり)
  • 木造もくぞうふつあたま重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 廃絶はいぜつした西にし金堂こんどうきゅう本尊ほんぞん釈迦如来しゃかにょらいぞう頭部とうぶ鎌倉かまくら時代じだいさく頭部とうぶのほかに両手りょうて一部いちぶ光背こうはいかざっていた飛天ひてんぞうほとけ小型こがた仏像ぶつぞう)ものこっている。従来じゅうらい運慶うんけいちち康慶こうけい兄弟子あにでしなりあささくとされていたが、近年きんねん興福寺こうふくじ別当べっとう住職じゅうしょくしんえん日記にっき記述きじゅつから、文治ぶんじ2ねん1186ねん)1がつ運慶うんけいによってつくられたとするせつ有力ゆうりょくとなっている。
  • 木造もくぞう金剛力士こんごうりきし立像りつぞう国宝こくほう) - もと西にし金堂こんどう安置あんち鎌倉かまくら時代じだいさくていけいさくとするせつもある。(※みぎれつ画像がぞうあり)
  • 木造もくぞうてんとうおに龍燈りゅうとうおに立像りつぞう国宝こくほう) - もと西にし金堂こんどう安置あんちおおきな燈篭とうろうてんとうおにかたにかつぎ、龍燈りゅうとうおに頭上ずじょうささえる。架空かくう存在そんざい写実しゃじつてきかつユーモラスに表現ひょうげんした鎌倉かまくら彫刻ちょうこく傑作けっさくである。龍燈りゅうとうおにぞう運慶うんけい子息しそくであるかんべんたてたもつ3ねん1215ねん)のさくで、てんとうおに同人どうじん周辺しゅうへん仏師ぶっしさくおもわれる。(※みぎれつ画像がぞうあり)
  • 木造もくぞう千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう国宝こくほう) - もと食堂しょくどう(じきどう)本尊ほんぞん現在げんざいは、食堂しょくどう跡地あとち国宝こくほうかん中央ちゅうおう安置あんちされる[ちゅう 5]たかさ5.2メートルのきょぞうで、ぞうない納入のうにゅうひん銘記めいきから鎌倉かまくら時代じだいひろし元年がんねん1229ねんごろ完成かんせい推定すいていされる。この千手観音せんじゅかんのんぞう記録きろくによるとみやつこぞう開始かいしから完成かんせいまで4はん世紀せいき歳月さいげつようした。当初とうしょみやつこぞう担当たんとうしゃであったなりあさ運慶うんけいちち康慶こうけい兄弟子あにでしにあたり、康慶こうけいよりも正当せいとうけい後継こうけいしゃであった。しかしなりあさ病弱びょうじゃくであったため千手観音せんじゅかんのんぞう制作せいさく途中とちゅうくなったと推定すいていされている。その放置ほうちされていたものがなんらかの理由りゆう制作せいさく再開さいかいされ、べつ仏師ぶっしにより完成かんせいされた。ぞう部材ぶざい制作せいさく中止ちゅうしされているあいだ風雨ふううさらされていたらしく、内部ないぶ木肌きはだひどいたんだ状態じょうたいであった。
  • いたじゅう二神にかみすすむぞう国宝こくほう) - 平安へいあん時代じだい11世紀せいきなかばのさく日本にっぽんではめずらしいひのきいたりで制作せいさくされた仏像ぶつぞうで、現在げんざい剥落はくらくしているが、もとは彩色さいしきされていた。12めんかんそんしている。ぞうよう誇張こちょうてきデフォルメされており、武神ぶしんぞうでありながらどこかユーモラスな雰囲気ふんいきただよう。あつさ3cmほどのいたられたとはおもえないほど立体りったいかん奥行おくゆきがかんじられ、とくかお手足てあし筋肉きんにく微妙びみょう段差だんさ起伏きふくによってたくみにあらわされており、作者さくしゃたか技量ぎりょうることができる。10世紀せいき末期まっき活躍かつやくしたそうげんあさみなもとあさ)の図様ずようもと制作せいさくされた。江戸えど時代じだい文献ぶんけんには、このいたすとられる十二神じゅうにしんしょうぞう東金とうがねどうにあったという記載きさいがあるが、それ以前いぜん伝来でんらいについてはわかっていない。十二神じゅうにしんしょう薬師やくし如来にょらい守護しゅごし、仁和寺にんなじ薬師如来やくしにょらい坐像ざぞう台座だいざには十二神じゅうにしんしょうった作例さくれいがあることから、元々もともと薬師如来像やくしにょらいぞう台座だいざ側面そくめんられていたと推測すいそくされる。
  • 金銅かなどう燈籠どうろう国宝こくほう) - みなみ円堂えんどうまえっていたどうせい燈籠とうろう現在げんざい国宝こくほうかん展示てんじされている。平安へいあん時代じだい初期しょきひろしひとし7ねん816ねん)のめいがあり、紀年きねんめいのある燈籠とうろうとしては日本にっぽん最古さいこのものである。別置べっちされる火袋ひぶくろ羽目はめ文字もじ当代とうだい書道しょどう遺品いひんとしても貴重きちょう
 
ちゅう金堂こんどうひだり)と東金とうがねどうみぎ
 
ちゅう金堂こんどう
 
東金とうがねどう
 
東金とうがねどうない諸仏しょぶつ
 
西にし金堂こんどうあと
 
五重塔ごじゅうのとう
 
きた円堂えんどう
 
みなみ円堂えんどう
 
三重みえとうあきけい

かつての興福寺こうふくじには、ちゅう金堂こんどう(ちゅうこんどう)、東金とうがねどう(とうこんどう)、西にし金堂こんどう(さいこんどう)という3つの金堂こんどうがあり、それぞれにおおくの仏像ぶつぞう安置あんちしていた。てら中心ちゅうしんには、みなみからきたに、南大門なんだいもん中門ちゅうもんちゅう金堂こんどう講堂こうどう一直線いっちょくせんならび、境内けいだい東側ひがしがわには、みなみから、五重塔ごじゅうのとう東金とうがねどう食堂しょくどう(じきどう)が、境内けいだい西側にしがわには、みなみから、みなみ円堂えんどう(なんえんどう)、西にし金堂こんどうきた円堂えんどう(ほくえんどう)がっていた。このほか境内けいだい南西なんせいすみ一段いちだんひく土地とち三重みえとうが、境内けいだい南東なんとうにはだい湯屋ゆやがそれぞれてられた。これらの堂宇どうう創建そうけん以来いらい火災かさい度々たびたび見舞みまわれ、焼失しょうしつ再建さいけんかえしてきた。明治めいじ時代じだい以降いこう興福寺こうふくじ境内けいだい奈良公園ならこうえん一部いちぶし、てらいき区切くぎっていたへい南大門なんだいもんもなくなり天平てんぴょう時代じだい整然せいぜんとした伽藍がらん配置はいち想像そうぞうすることは困難こんなんになっている。「興福寺こうふくじ仏像ぶつぞう」も参照さんしょう

  • ちゅう金堂こんどう - 2018ねん平成へいせい30ねん)10がつ再建さいけん解説かいせつすんでじゅつ
  • 経蔵きょうぞうあと - 基壇きだん復元ふくげんされている。
  • 鐘楼しゅろうあと - 基壇きだん復元ふくげんされている。この位置いちにあったとされる鐘楼しゅろうは、すそがスカートじょうひろがる「はかまこし」をもつ姿すがたであったことが近年きんねん発掘はっくつ調査ちょうさあきらかになった[22][23]
  • 廻廊かいろうあと - 基壇きだん復元ふくげんされている。
  • ちゅう門跡もんぜき - 基壇きだん復元ふくげんされている。
  • かり講堂こうどう - かり講堂こうどう建物たてものもと薬師寺やくしじ金堂こんどうで、慶長けいちょう5ねん1600ねん)に増田ますだちょうもりによっててられたものである。薬師寺やくしじあらたな金堂こんどうてられるために撤去てっきょされることとなったので、1974ねん昭和しょうわ49ねん)11月23にち屋根やね入母屋いりもやづくりからよせとうづくりにし、こうはい撤去てっきょするなどのだい改造かいぞうおこなってとうてら講堂こうどうあとかり金堂こんどうとして移築いちくされた。その老朽ろうきゅうしていたなか金堂こんどう本尊ほんぞん釈迦如来しゃかにょらい坐像ざぞうなどをうつし、ながらくかり金堂こんどうとしての役目やくめっていた。2000ねん平成へいせい12ねん)に老朽ろうきゅうしたなか金堂こんどう解体かいたいし、2018ねん平成へいせい30ねん)10がつちゅう金堂こんどう再建さいけんすると、かり金堂こんどうかり講堂こうどう名称めいしょうあらためて国宝こくほうかんにあった阿弥陀如来あみだにょらい坐像ざぞうあらたな本尊ほんぞんとして安置あんちした。
  • 東金とうがねどう国宝こくほう) - おうひさし22ねん1415ねん再建さいけん解説かいせつすんでじゅつ
  • 五重塔ごじゅうのとう国宝こくほう) - おうなが33ねん1426ねん再建さいけん解説かいせつすんでじゅつ
  • 西にし金堂こんどうあと - 西にし金堂こんどう光明皇后こうみょうこうごうが、はは橘三千代たちばなのみちよいち周忌しゅうきさいし、釈迦三尊しゃかさんぞんぞう安置あんちするどうとして天平てんぴょう6ねん734ねん)に創建そうけんした。平安へいあん時代じだいに2かい鎌倉かまくら時代じだいに1かい被災ひさいしたが、その都度つど再建さいけんされてきた。その江戸えど時代じだいとおる2ねん1717ねん)1がつ4にち講堂こうどうからの出火しゅっかによってちゅう金堂こんどうみなみ円堂えんどうとも焼失しょうしつした。このとき資金しきんなんため再建さいけんかなわず、基壇きだんのこすのみという状態じょうたいになってしまった。そうしていま西にし金堂こんどうあととして往時おうじしのぶばかりとなっている。ただ、どうないおさめられていた寺宝じほうには焼失しょうしつまぬかれて今日きょうまでつたえられているものがすくなくない。釈迦如来しゃかにょらいぞうつたえ運慶うんけいさくからだ焼失しょうしつし、いま頭部とうぶのみが国宝こくほうかん安置あんちされている)、りょうわきさむらいぞうくすりおう菩薩ぼさつぞうくすりじょう菩薩ぼさつぞういまちゅう金堂こんどうりょうわきさむらいぞうとして安置あんち)、梵天ぼんてん帝釈天たいしゃくてんぞう奈良なら時代じだいさく明治めいじ時代じだい国外こくがい流出りゅうしゅつし、いま米国べいこくサンフランシスコアジア美術館びじゅつかん英語えいごばん所蔵しょぞう)、じゅうだい弟子でしぞう奈良なら時代じだいさくいまは10ちゅうの6国宝こくほうかんなどに安置あんち)、はちしゅぞう奈良なら時代じだいさくいま国宝こくほうかん安置あんち)、金剛力士こんごうりきしぞうつてていけいさくいま国宝こくほうかん安置あんち)、四天王してんのうぞう所在しょざい不明ふめい)、華原かはらいわお(「かげんけい」とどうせい楽器がっきで、奈良なら時代じだいさく[24]いま国宝こくほうかん安置あんち)などがそれである。
  • みなみ円堂えんどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛政かんせい元年がんねん1789ねん再建さいけん解説かいせつすんでじゅつ
  • 興善院こうぜんいん - いん本来ほんらい興善院こうぜんいん菩提ぼだいいん東側ひがしがわにある菊水きくすいろう付近ふきん存在そんざいした。
  • 一言ひとこと観音堂かんのんどう - みなみ円堂えんどうよこにある。南都なんとなな観音かんのん巡拝じゅんぱいしょひとつ。明治めいじ竜華りゅうげじゅいん地蔵堂じぞうどう移築いちくしてしょほとけうつした。一言ひとことねんずればねがいごとがかなうという観音かんのんまつる。
  • 不動堂ふどうどう - 不動明王ふどうみょうおう坐像ざぞうなどのほか西国さいこくさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょうのそれぞれの札所ふだしょ本尊ほんぞんした33たい観音かんのんぞうまつる。
  • 額塚すくもづか - 茶臼山ちゃうすやまばれるづか。かつて南大門なんだいもんには興福寺こうふくじ山号さんごうであった「月輪山つきのわやま」とかれたがくかかげられていたが、不思議ふしぎなことが多々たた発生はっせいし、結局けっきょく月輪げつりんというくないとされてそのがくがここにめられ、不思議ふしぎなこともおさまった。それ以来いらい興福寺こうふくじ山号さんごう自体じたいをなくしてしまった。
  • 鐘楼しゅろう - みなみ円堂えんどう南側みなみがわ。6・12・18ときげるかねがある。
  • 興福寺こうふくじ会館かいかん - 三重みえとう西側にしがわつ。佛教ぶっきょう文化ぶんか講座こうざなどの講演こうえんかいしょ行事ぎょうじ使用しようされる。
  • 三重みえとう国宝こくほう) - 鎌倉かまくら時代じだい前期ぜんき再建さいけん正確せいかく建立こんりゅう年次ねんじ不明ふめい)。たかさ19m、ほん瓦葺かわらぶきさんあいださんじゅう塔婆とうばである[14]1897ねん明治めいじ30ねん)12月28にち当時とうじ社寺しゃじ保存ほぞんほうもとづく特別とくべつ保護ほご建造けんぞうぶつ文化財ぶんかざい保護ほごほうにおける「重要じゅうよう文化財ぶんかざい」に相当そうとう)に指定してい[15]1952ねん昭和しょうわ27ねん)3がつ29にち文化財ぶんかざい保護ほごほうもとづく国宝こくほう指定していされている[16]三重みえとう康治こうじ2ねん1143ねん)、崇徳天皇すとくてんのう中宮なかみやすめらぎ嘉門かもんいんによって創建そうけんされた。うけたまわ4ねん1180ねん)の平重衡たいらのしげひらによる南都なんと焼討やきうちでの焼失しょうしつ記録きろくはないが、現在げんざいとう建築けんちく様式ようしきから大火たいかまもなく再建さいけんされた鎌倉かまくら建築けんちくかんがえられる。
  • きた円堂えんどう国宝こくほう) - うけたまわもと4ねん1210ねん再建さいけん解説かいせつすんでじゅつ
  • きた円堂えんどう廻廊かいろうあと - 南側みなみがわ東側ひがしがわ基壇きだん復元ふくげんされている。
  • 食堂しょくどうおよほそ殿どのあと - 食堂しょくどうおよびほそ殿どの奈良なら時代じだい創建そうけんされ焼失しょうしつ再建さいけんかえしたが、1874ねん明治めいじ7ねん)、廃仏毀釈はいぶつきしゃくのあおりで興福寺こうふくじ荒廃こうはいしていた時代じだいこわされた[25]跡地あとちには、1959ねん昭和しょうわ34ねん)になって寺宝じほうおさめる耐火たいかしき宝物ほうもつ国宝こくほうかん」が建設けんせつされた。食堂しょくどうほそ殿でん遺構いこう国宝こくほうかん地下ちかにそのままのかたち保存ほぞんされている。
  • 国宝こくほうかん - 1959ねん昭和しょうわ34ねんちく解説かいせつすんでじゅつ
  • 南大門なんだいもんあと - 基壇きだん復元ふくげんされている。
  • 般若はんにゃしば - 南大門なんだいもん基壇きだん南側みなみがわもうけられているだん。ここで興福寺こうふくじたきぎのうおこなわれる。
  • じゅうだん - 南大門なんだいもん猿沢さるさわむす石段いしだん菩薩ぼさつじゅう由来ゆらいしている。
  • 猿沢さるさわ - 興福寺こうふくじ南側みなみがわにあるいけ。かつては興福寺こうふくじ放生ほうじょうであった。
  • ほんぼう - 境内けいだい東方とうほう位置いちする。一般いっぱんには公開こうかいされていない。
    • だい圓堂えんどう持仏堂じぶつどう) - 明治めいじ時代じだい建立こんりゅう
      • 木造もくぞう聖観音しょうかんのん立像りつぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - だい圓堂えんどう本尊ほんぞん鎌倉かまくら時代じだいさく一般いっぱんには公開こうかいされていないが、1997ねん平成へいせい9ねん)に東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん開催かいさいされた「興福寺こうふくじ国宝こくほうてん」ではじめて展示てんじされたほか、2007ねん平成へいせい19ねん)10がつ20日はつか - 11月25にち寺内てらうちはじめて公開こうかいされた。てらでんでは聖観音しょうかんのんぞうとされているが、ぞうない納入のうにゅう文書ぶんしょによれば本来ほんらい弥勒菩薩みろくぼさつぞうとして、けんちょう5ねん1253ねん)に仏師ぶっしかいえんによってつくられたものである[26]
    • 庫裏くり
    • みなみ客殿きゃくでん - 天正てんしょう年間ねんかん1573ねん - 1592ねん建立こんりゅう
    • きた客殿きゃくでん - よしみひさし7ねん1854ねん再建さいけん東西とうざいなが僧房そうぼう東室ひがしむろしている。
    • 表門おもてもん - 天正てんしょう年間ねんかん(1573ねん - 1592ねん)に建立こんりゅうされたほん瓦葺かわらぶきよんきゃくもん1907ねん明治めいじ40ねん)にいん菩提ぼだいいんから移築いちくしたもの。
 
菩提ぼだいいん大御堂おおみどう
 
だい湯屋ゆや
  • 菩提ぼだいいん - 現在げんざいのこいんなか唯一ゆいいつ位置いちわっていない。別名べつめいを「じゅうさんかね」ともいう。五重塔ごじゅうのとうみなみ三条さんじょうどおわたったところにあり、げん創建そうけん、または菩提ぼだいとむらうとされている。大和やまと北部ほくぶはちじゅうはちヶ所かしょ霊場れいじょうだい62ばん札所ふだしょ詳細しょうさい菩提ぼだいいん大御堂おおみどう参照さんしょう
    • 大御堂おおみどう - 本堂ほんどう天正てんしょう8ねん1580ねん再建さいけん1970ねん昭和しょうわ45ねん)に改築かいちくされ、内陣ないじん鉄筋てっきんコンクリートづくりとされた。本尊ほんぞん阿弥陀如来あみだにょらい坐像ざぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)などを安置あんちする。
    • 鐘楼しゅろう - 梵鐘ぼんしょうえいとおる8ねん1436ねんみやつこ
    • さん作塚さくづか - 死刑しけいとなったさんさくまつる。
    • 庫裏くり
  • だい湯屋ゆや重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 五重塔ごじゅうのとう東方とうほうつ。おうなが33ねん(1426ねん再建さいけん平面へいめん桁行けたゆきよんあいだ梁間はりまよんあいだ屋根やねいちじゅうほん瓦葺かわらぶきで、西にしめん入母屋いりもやづくり東面とうめん切妻きりづまづくりとする[14]1953ねん昭和しょうわ28ねん)3がつ31にち文化財ぶんかざい保護ほごほうもとづく重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている[27]

文化財ぶんかざい

編集へんしゅう
   
木造もくぞうじゅう二神にかみすすむぞうのうち、おりぞうひだり)となみえびすぞうみぎ
木造もくぞう不空ふくう羂索観音かんのん坐像ざぞうみなみ円堂えんどう
 
木造もくぞう四天王してんのう立像りつぞう東金とうがねどう)のうち、広目天こうもくてんぞう
 
華原かはらかおる
 
金堂こんどう鎮壇東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん展示てんじ

現在げんざい境内けいだいわせて奈良公園ならこうえん一部いちぶにまたがるきゅう境内けいだいくに史跡しせき指定していされている。所有しょゆうする国宝こくほうは27けんになる。

国宝こくほう

編集へんしゅう
建造けんぞうぶつ
  • 東金とうがねどう
  • 五重塔ごじゅうのとう
  • きた円堂えんどうきゅう内陣ないじんしょうかべ8まいめいさつ1まい
  • 三重みえとう
彫刻ちょうこく
  • 木造もくぞう文殊もんじゅ菩薩ぼさつ坐像ざぞう東金とうがねどう
  • 木造もくぞう維摩居士こじ坐像ざぞう ていけいさく東金とうがねどう
  • 木造もくぞう四天王してんのう立像りつぞう東金とうがねどう) ※みぎれつ広目天こうもくてんぞう画像がぞうあり。
  • 木造もくぞうじゅう二神にかみすすむ立像りつぞう東金とうがねどう) ※みぎれつおりぞうなみえびすぞう画像がぞうあり。
  • 木造もくぞう弥勒みろくほとけ坐像ざぞう 運慶うんけいさくきた円堂えんどう) ※みぎれつ画像がぞうあり。
  • 木造もくぞうちょ立像りつぞう木造もくぞうおや立像りつぞう 運慶うんけいさくきた円堂えんどう
  • こころ乾漆かんしつ四天王してんのう立像りつぞうきた円堂えんどう
  • 木造もくぞう不空ふくう羂索観音かんのん坐像ざぞう 康慶こうけいさくみなみ円堂えんどう) ※みぎれつ画像がぞうあり。
  • 木造もくぞう四天王してんのう立像りつぞうみなみ円堂えんどう) - 2018年度ねんど国宝こくほう指定してい[28][29]
  • 木造もくぞう四天王してんのう立像りつぞうちゅう金堂こんどう) ※みぎれつ画像がぞうあり。
  • 乾漆かんしつはちしゅ立像りつぞう 8国宝こくほうかんきゅう西にし金堂こんどう
  • 乾漆かんしつじゅうだい弟子でし立像りつぞう 6国宝こくほうかんきゅう西にし金堂こんどう
  • 木造もくぞう金剛力士こんごうりきし立像りつぞう 2国宝こくほうかんきゅう西にし金堂こんどう
  • 木造もくぞうてんとうおに立像りつぞう木造もくぞう龍燈りゅうとうおに立像りつぞう国宝こくほうかんきゅう西にし金堂こんどう
  • 木造もくぞう法相ほうしょうろく坐像ざぞう 6 康慶こうけいさくみなみ円堂えんどう
  • いた十二神じゅうにしんしょうぞう国宝こくほうかん旧東きゅうとう金堂こんどう
  • どうづくりふつあたま国宝こくほうかん旧東きゅうとう金堂こんどう
  • 木造もくぞう千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう:ぞうない納入のうにゅうひん)(国宝こくほうかんきゅう食堂しょくどう
工芸こうげいひん書跡しょせき典籍てんせきほか)
  • 金銅かなどう燈篭どうろう
  • 梵鐘ぼんしょう
  • 華原かはらかおる ※みぎれつ画像がぞうあり。
  • 日本にっぽん霊異れいい上巻じょうかん 延喜えんぎよんねん書写しょしゃ奥書おくがき
  • 興福寺こうふくじ金堂こんどう鎮壇銀製ぎんせい鍍金めっきからはなぶん鋺2くち銀製ぎんせい鍍金めっき唐草からくさぶんあしはい残欠ざんけつ1くちぎん鋺7くち水晶すいしょう念珠ねんじゅだま5箇、水晶すいしょうだまるい6箇) - 1884ねん明治めいじ17ねん)に発掘はっくつされた鎮壇だい部分ぶぶん東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん所蔵しょぞうになっている。興福寺こうふくじ所蔵しょぞうぶん銀器ぎんき水晶すいしょうだまなど21てん。 ※みぎれつ画像がぞうあり。

阿修羅あしゅらぞうは「乾漆かんしつはちしゅ立像りつぞう 8」のうちの1である。

重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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建造けんぞうぶつ
  • だい湯屋ゆや
  • みなみ円堂えんどう
彫刻ちょうこく
  • 木造もくぞうやくおう菩薩ぼさつくすりじょう菩薩ぼさつ立像りつぞうちゅう金堂こんどう
  • どうづくり薬師如来やくしにょらいおよびりょうわきさむらいぞう東金とうがねどう
  • 木造もくぞう阿弥陀如来あみだにょらい坐像ざぞう菩提ぼだいいん大御堂おおみどう
  • 木造もくぞう阿弥陀如来あみだにょらい坐像ざぞうかり講堂こうどう
  • 木造もくぞう釈迦如来しゃかにょらい坐像ざぞう国宝こくほうかん
  • 木造もくぞう薬師如来やくしにょらい坐像ざぞうぞうない納入のうにゅうひん薬師やくしけい)(かり講堂こうどう
  • 木造もくぞうふつあたま:ふつしゅ2箇)(国宝こくほうかんきゅう西にし金堂こんどう本尊ほんぞん
  • 木造もくぞう飛天ひてんほとけ 11飛天ひてん8、ほとけ3)(国宝こくほうかんきゅう西にし金堂こんどう本尊ほんぞん光背こうはい付属ふぞく
  • 木造もくぞう帝釈天たいしゃくてん立像りつぞうかり講堂こうどう)- てらでは「梵天ぼんてんぞう」としょうしている。
  • 木造もくぞう梵天ぼんてん帝釈天たいしゃくてん立像りつぞう国宝こくほうかん
  • 木造もくぞう地蔵じぞう菩薩ぼさつ立像りつぞうかり講堂こうどう
  • 厨子ずしにゅう木造もくぞう弥勒菩薩みろくぼさつはん跏像(:ぞうない納入のうにゅうひん)(国宝こくほうかん) - 大乗だいじょういん持仏堂じぶつどうきゅう所在しょざい
  • 厨子ずしにゅう木造もくぞう吉祥天きちじょうてん倚像(ちゅう金堂こんどう
  • ぎんづくりふつしゅ国宝こくほうかん
  • 木造もくぞう大黒天だいこくてん立像りつぞうちゅう金堂こんどう
  • 木造もくぞう広目天こうもくてん立像りつぞう奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく) - 四天王してんのうのうちの1たいのこり3たい滋賀しがMIHO MUSEUM持国天じこくてん)および奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん増長天ぞうちょうてん多聞天たもんてん所蔵しょぞう
  • 木造もくぞう聖観音しょうかんのん立像りつぞう弥勒菩薩みろくぼさつ立像りつぞうかいえんさくほんぼう持仏堂じぶつどう
  • 木造もくぞう釈迦如来しゃかにょらい立像りつぞう1929ねん盗難とうなん

参考さんこう広島ひろしまけん尾道おのみち生口島いくちしま)のこうさんてら所蔵しょぞう木造もくぞう釈迦如来しゃかにょらい坐像ざぞう1901ねん重文じゅうぶん指定してい)はもと興福寺こうふくじにあり、だい世界せかい大戦たいせんのちたがやせさんてらうつったものである。

絵画かいが書跡しょせき典籍てんせきほか)

典拠てんきょ:2000ねん平成へいせい12ねん)までの指定してい物件ぶっけんについては、『国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい大全たいぜん 別巻べっかん』(所有しょゆうしゃべつ総合そうごう目録もくろく名称めいしょうそう索引さくいん統計とうけい資料しりょう)(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、2000)による。

くに史跡しせき

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  • 興福寺こうふくじきゅう境内けいだい

奈良ならけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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  • 絹本けんぽんちょしょく法相ほうしょう曼荼羅まんだら 1ぶく 南北なんぼくあさ時代じだい
  • 絹本けんぽんちょしょく春日かすが社寺しゃじ曼荼羅まんだら 1ぶく 鎌倉かまくら時代じだい
  • 絹本けんぽんちょしょく濮陽大師だいしぞう 1ぶく 室町むろまち時代じだい
  • 鰐口わにぐち 1くち けんちょう8ねん1256ねん
  • くろうるし舎利しゃり厨子ずし 4 ない2南北なんぼくあさ時代じだい、2天文てんもん6ねん1537ねん)と天文てんもん23ねん1554ねん
  • てつ湯釜ゆがま 2くち 平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代じだい
  • だい般若はんにゃけい 600じょう 室町むろまち時代じだい
  • 興福寺こうふくじ大和やまとこく雑役ざつえきめんつぼづけちょう 2さつ 室町むろまち時代じだい

奈良なら指定してい無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい

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  • たきぎのうたきぎのう保存ほぞんかい

おも行事ぎょうじ

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上記じょうきほかはるあき一定いってい期間きかん (やく2週間しゅうかん)、きた円堂えんどう特別とくべつひらけとびらされる。また、通常つうじょう非公開ひこうかいとなっているしょどう特別とくべつ公開こうかいおこなわれる。

近代きんだい以降いこう住職じゅうしょく貫首かんじゅ

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前後ぜんご札所ふだしょ

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西国さいこくさんじゅうさんしょ
8 長谷寺はせでら - 9 興福こうふく寺南てらみなみ円堂えんどう - 10 さんしつてら
西国さいごく薬師くすしよんじゅうきゅう霊場れいじょう
3 般若寺はんにゃじ - 4 興福こうふく寺東てらひがし金堂こんどう - 5 元興寺がんこうじ
大和やまと北部ほくぶはちじゅうはちヶ所かしょ霊場れいじょう
61 はるだけいん - 62 興福寺こうふくじ菩提ぼだいいん大御堂おおみどう - 63 白毫寺びゃくごうじ
南都七大寺なんとしちだいじ
1 東大寺とうだいじ - 2 興福寺こうふくじ - 3 元興寺がんこうじ
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみち
15 春日大社かすがたいしゃ - 16 興福寺こうふくじ - 17 大安寺だいあんじ

真言しんごん御詠歌ごえいか

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みなみ円堂えんどう不空ふくう羂索観音かんのん
東金とうがねどう薬師如来やくしにょらい
  • 真言しんごん:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
  • 詠歌えいか猿沢さるさわの いけのほとりの てらにわに 瑠璃るりこうは あまねかりけり
一言ひとこと観音かんのん
  • 詠歌えいかたのもしく あゆみをはこべ 一言ひとことの ねがいもてぬ ちかいいませば

拝観はいかん

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  • 境内けいだいへいなどがなく、24あいだ自由じゆう無料むりょう通行つうこうできる(立入禁止たちいりきんし区域くいきのぞく)
  • 国宝こくほうかん東金とうがねどうちゅう金堂こんどう原則げんそく通年つうねん拝観はいかん可能かのうだが、ホームページで最新さいしん情報じょうほう確認かくにんする必要ひつようあり(それぞれ別々べつべつ拝観はいかんりょうようする。国宝こくほうかん東金とうがねどう共通きょうつう割引わりびきけんあり)。
  • きた円堂えんどう内陣ないじんはる(GW前後ぜんこう)・あきせいくら院展いんてん開催かいさい時期じき)に期間きかん限定げんていして拝観はいかん可能かのう有料ゆうりょう期間きかんはそのとしによる)。
  • みなみ円堂えんどう内陣ないじんは10月17にちだい般若はんにゃけい転読てんどくかいおうじて、当日とうじつにちのみ拝観はいかん可能かのう有料ゆうりょう)。
  • その堂宇どうう五重塔ごじゅうのとう三重みえとうかり講堂こうどう大御堂おおみどうなど)の内陣ないじん通常つうじょう非公開ひこうかい

近隣きんりん施設しせつ

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ドキュメンタリー

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  • 落慶らっけい奈良なら興福寺こうふくじ〜」(2019ねん1がつ13にちNHK BS8K[11]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ なお、とうにおいて「ひろしぶくてら」が「興福寺こうふくじ」と改名かいめいされた事例じれいがあるとして、通説つうせつでは平城ひらじろ遷都せんと飛鳥ひちょうとどまったとされる川原かわはらてらひろしぶくてら)を移転いてん継承けいしょうする意図いとふくまれていたとするせつもある[1]
  2. ^ 室町むろまち時代じだいになると、十市といち刀禰とねとする長谷川はせがわとうはし刀禰とねとする長川ながかわとう筒井つつい刀禰とねとする戌亥いぬいわきとう楢原ならはら中心ちゅうしんとしたみなみとう越智おち中心ちゅうしんとした散在さんざいとう平田ひらたとうろくとう割拠かっきょし、そのなかでも筒井つつい越智おちはし十市といちよんが「大和やまとよんいえ」とばれる勢力せいりょく成長せいちょうしていった。
  3. ^ しんえんまつ殿どの始祖しそとなったまつ殿どのもとぼう同母どうぼおとうとで、近衛このえ始祖しそとなった近衛このえはじめきゅうじょう始祖しそとなった九条くじょうけん異母弟いぼていにあたる。かれは「奈良なら僧正そうじょう」とばれ、こう白河しらかわ法皇ほうおうあにまつ殿どのもとぼう、それにきゅうじょうけんといったいん摂関せっかん有力ゆうりょくしゃとのかかわりがふかかったことが『たま』などの記述きじゅつえる。
  4. ^ これら3たい写真しゃしんは、『週刊しゅうかん朝日あさひ百科ひゃっか 日本にっぽん国宝こくほう 55 興福寺こうふくじ1』の5-141ぺーじおよび5-143ぺーじにある。
  5. ^ 食堂しょくどう明治めいじ廃仏毀釈はいぶつきしゃくによりこわされその跡地あとち国宝こくほうかんっている。
  6. ^ 当初とうしょ指定してい(1956ねん)は「9かん」。1999ねんまきよん追加ついか指定していされ「10かん」となった。(平成へいせい11ねん6がつ7にち文部省もんぶしょう告示こくじだい139ごう
  7. ^ 文化庁ぶんかちょうサイトの「くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース」に「こん金字こんじ唯識ゆいしきろん」とあるのはあやまりで、「こん金字こんじなり唯識ゆいしきろん」が正当せいとう

出典しゅってん

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  1. ^ 加藤かとうゆう興福寺こうふくじつて戒師招請しょうせいせきあきら先生せんせい古希こき記念きねんかいへん律令りつりょう国家こっか構造こうぞう』、吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1989ねん
  2. ^ a b 多川たがわしゅんうつ(1)ちゅう金堂こんどう落慶らっけい/300ねんぶり 天平てんぴょう規模きぼに/事業じぎょう開始かいしから四半世紀しはんせいきわたし履歴りれきしょ】『日本経済新聞にほんけいざいしんぶん朝刊ちょうかん2018ねん11月1にち(2019ねん10がつ20日はつか閲覧えつらん)。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 興福寺こうふくじ歴史れきし”. 興福寺こうふくじ. 2023ねん8がつ24にち閲覧えつらん
  4. ^ 磯貝いそがいまこと廃仏毀釈はいぶつきしゃく興福寺こうふくじ」『興福寺こうふくじ 美術びじゅつ研究けんきゅうあゆみ』所収しょしゅう、p.39 - 44
  5. ^ 興福寺こうふくじ整備せいび計画けいかく
  6. ^ 興福寺こうふくじ 300ねんぶり再建さいけんなか金堂こんどう落慶らっけい法要ほうよう産経さんけいWEST(2018ねん10がつ7にち)2018ねん10がつ10日とおか閲覧えつらん
  7. ^ 重要じゅうよう当山とうやま五重塔ごじゅうのとう修理しゅうり工事こうじかんするおらせ
  8. ^ a b 小池こいけ 2015, p. 86.
  9. ^ 小池こいけ 2015, p. 85.
  10. ^ 田中たなか慶治けいじ室町むろまち大和やまとこく守護しゅごかんするいち考察こうさつ -幕府ばくふ発給はっきゅう文書ぶんしょ中心ちゅうしんに-」(初出しょしゅつ:矢田やた俊文としふみ へん戦国せんごく権力けんりょく文書ぶんしょ』(高志こうし書院しょいん、2004ねんISBN 978-4-906641-80-2/所収しょしゅう:田中たなか中世ちゅうせい後期こうき畿内きない近国きんごく権力けんりょく構造こうぞう』(清文せいぶんどう、2013ねんISBN 978-4-7924-0978-4
  11. ^ a b 落慶らっけい奈良なら興福寺こうふくじ”. ザ・テレビジョン (2019ねん1がつ13にち). 2021ねん4がつ8にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2021ねん4がつ10日とおか閲覧えつらん
  12. ^ 興福寺こうふくじ国宝こくほうてん』(東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん、1997)、p.197
  13. ^ a b 興福寺こうふくじ四天王してんのうぞうがお奈良なら朝日新聞あさひしんぶん』2018ねん2がつ16にち
  14. ^ a b c d e f くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース - 文化庁ぶんかちょう
  15. ^ a b c d 明治めいじ30ねん12月28にち内務省ないむしょう告示こくじだい87ごう参照さんしょう[1]国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション))
  16. ^ a b c d 昭和しょうわ27ねん10がつ16にち文化財ぶんかざい保護ほご委員いいんかい告示こくじだい21ごう指定してい昭和しょうわ27ねん3がつ29にちけ)
  17. ^ 九鬼くき天心てんしん 明治めいじのドン・ジュアンたち』きたかんとし PHP研究所ぴーえいちぴーけんきゅうしょ 2008「日本にっぽん文化ぶんか救世主きゅうせいしゅ
  18. ^ 昭和しょうわ61ねん12月20にち文部省もんぶしょう告示こくじだい150ごう
  19. ^ 平成へいせい30ねん10がつ31にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい204ごう
  20. ^ 文化ぶんか審議しんぎかい答申とうしん国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい美術びじゅつ工芸こうげいひん)の指定していについて〜」文化庁ぶんかちょうサイト、2018ねん3がつ9にち発表はっぴょう
  21. ^ どうづくりふつあたま東金とうがねどうへ80ねんぶりかえ - 興福寺こうふくじ国宝こくほうかん元日がんじつから休館きゅうかん奈良なら新聞しんぶん』2016ねん12月30にち(2019ねん10がつ20日はつか閲覧えつらん)。
  22. ^ 史跡しせき興福寺こうふくじきゅう境内けいだい 興福寺こうふくじ鐘楼しゅろう発掘はっくつ調査ちょうさ(平城ひらじろだい625調査ちょうさ)”. 2024ねん4がつ1にち閲覧えつらん
  23. ^ 興福寺こうふくじ鐘楼しゅろう創建そうけん姿すがたあきらかに 建築けんちくもど発見はっけん”. 2024ねん4がつ1にち閲覧えつらん
  24. ^ 天平てんぴょうおと 奈良なら興福寺こうふくじ国宝こくほう楽器がっき華原かはらかおる台座だいざ復元ふくげん公開こうかい産経さんけいWEST(2014ねん4がつ3にち)2018ねん10がつ10日とおか閲覧えつらん
  25. ^ 興福寺こうふくじ国宝こくほうてん』(東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん、1997)、p.221
  26. ^ 山本やまもとつとむ興福寺こうふくじほんぼう持仏堂じぶつどう弥勒菩薩みろくぼさつ立像りつぞう(つて聖観音しょうかんのん菩薩ぼさつぞう)について」『Museum』553ごう(1998ねん4がつ
  27. ^ 昭和しょうわ28ねん7がつ16にち文化財ぶんかざい保護ほご委員いいんかい告示こくじだい59ごう指定してい昭和しょうわ28ねん3がつ31にちけ)
  28. ^ 平成へいせい30 ねん10 がつ31にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい204ごう
  29. ^ 文化ぶんか審議しんぎかい答申とうしん国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい美術びじゅつ工芸こうげいひん)の指定していについて〜」文化庁ぶんかちょうサイト、2018ねん3がつ9にち発表はっぴょう
  30. ^ 興福寺こうふくじ長老ちょうろう 多川たがわじょうさとし死去しきょ 88さい”. 産経新聞さんけいしんぶん (2024ねん4がつ16にち). 2024ねん4がつ17にち閲覧えつらん
  31. ^ 多川たがわじょうさとしさん死去しきょ”. 朝日新聞あさひしんぶん. 2024ねん4がつ17にち閲覧えつらん
  32. ^ 訃報ふほう 多川たがわじょうさとしさん 88さい興福寺こうふくじ長老ちょうろう”. 毎日新聞まいにちしんぶん. 2024ねん4がつ17にち閲覧えつらん
  33. ^ 多川たがわじょうさとし興福寺こうふくじ長老ちょうろう)おくやみ”. 2024ねん4がつ19にち閲覧えつらん
  34. ^ 興福寺こうふくじ多川たがわじょうさとし長老ちょうろう 本山ほんざんそう最期さいごわか”. 奈良なら新聞しんぶん. 2024ねん4がつ30にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 井上いのうえやすし塚本つかもと善隆よしたか監修かんしゅう大原おおはら富枝とみえ多川たがわしゅんうつちょ古寺ふるでら巡礼じゅんれい奈良なら11 興福寺こうふくじ』、あわ交社、1979ねん
  • 小西こにし正文まさふみ興福寺こうふくじ』(日本にっぽん古寺ふるでら美術びじゅつ5)、保育ほいくしゃ、1987ねん ISBN 4-586-72005-0
  • 週刊しゅうかん朝日あさひ百科ひゃっか 日本にっぽん国宝こくほう』55 - 57ごう興福寺こうふくじ1 - 3)、朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1998ねんのちに『朝日あさひ百科ひゃっか 日本にっぽん国宝こくほう5 近畿きんき3[奈良なら]』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1999ねん所収しょしゅうISBN 4-02-380012-0
  • 西村にしむらこうあさ釈迦しゃかじゅうだい弟子でし』(とんぼのほん新潮社しんちょうしゃ、2004ねん ISBN 4-10-602114-5
  • 金子かねこ啓明ひろあき『もっとりたい興福寺こうふくじふつたち』(アートビギナーズ・コレクション)、東京とうきょう美術びじゅつ、2009ねん ISBN 978-4-8087-0859-7
  • 古寺ふるでらをゆく1 興福寺こうふくじ小学館しょうがくかん101ビジュアル新書しんしょ、2009ねん4がつISBN 978-4-098-23001-3 写真しゃしん多数たすう貫首かんじゅ法話ほうわがある。
  • 大橋おおはしいちしょう片岡かたおか直樹なおき編著へんちょ興福寺こうふくじ 美術びじゅつ研究けんきゅうのあゆみ』、さとぶん出版しゅっぱん、2011ねんISBN 978-4-8980-6379-8
  • 小池こいけ, かん寿ひさし日本人にっぽんじんならっておきたいただしい家相かそうほん』プレジデントしゃ、2015ねん11月。ISBN 9784833421492 
辞典じてんるい
図録ずろく

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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