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成朝 - Wikipedia

なりあさ

平安へいあん時代じだいまつから鎌倉かまくら時代じだい初期しょきごろ活躍かつやくした仏師ぶっし

なりあさ(せいちょう、なま没年ぼつねんしょう)は、平安へいあん時代じだいすえから鎌倉かまくら時代ときよ初期しょきごろ活躍かつやくした仏師ぶっしかんすけまごかんちょうていあさ奈良なら仏師ぶっし正系せいけい

経歴けいれき

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1181ねんうけたまわ5ねん)6がつ焼失しょうしつした興福寺こうふくじしょほとけ京都きょうと仏師ぶっしであるえん明円みょうえんいん院尊いんそんとともに再興さいこうし、なりあさ食堂しょくどうみやつこほとけ担当たんとうした。1185ねん文治ぶんじ元年がんねん)、みなもと頼朝よりともまねきにおうじて関東かんとうくだり、頼朝よりとも発願ほつがん勝長かつなが寿ひさしいん阿弥陀如来あみだにょらいぞう永福寺えいふくじたけろく阿弥陀如来あみだにょらいぞうなどを制作せいさくする。この出来事できごとは、運慶うんけいひとし鎌倉かまくら幕府ばくふ関係かんけいかんがえるうえ重要じゅうようで、しょしょでしばしば紹介しょうかいされる。頼朝よりともかぞえいる仏師ぶっしなかからなぜなりあさえらんだかについては諸説しょせつあるが、頼朝よりとも正系せいけい傍系ぼうけい一門いちもんないの嫡庶のべつ明確めいかく企図きとする政治せいじ姿勢しせいから、なりあさていあさ嫡流ちゃくりゅう仏師ぶっしだったからとかんがえられる。そして、北条ほうじょう時政ときまさ御家人ごけにんたちが運慶うんけい採用さいようしたのも、なりあさ同門どうもんではあるが傍系ぼうけい康慶こうけい一門いちもんのうち、さら無位むいなりあさもちいた頼朝よりとも配慮はいりょし、当時とうじ奈良なら仏師ぶっしない唯一ゆいいつそうつなていた康慶こうけいけ、そのあと運慶うんけいちいたと推測すいそくできる[1]なりあさ東国とうごくくだっているあいだ大仏だいぶつ地位ちいめぐ紛争ふんそうがあり、これをった頼朝よりとも1186ねん文治ぶんじ2ねんなりあさ擁護ようごする書状しょじょう京都きょうとしていることが『吾妻あづまきょう』にしるされており(文治ぶんじ2ねん3がつ2にちじょう)、すくなくてもこの頼朝よりとも依頼いらい完成かんせいさせたのちもしばらくは東国とうごくにいたと推定すいていされる[2]

1189ねん文治ぶんじ5ねん)、興福こうふく寺西てらにし金堂こんどうみやつこぼとけ1194ねんたてひさ5ねん)9がつ興福寺こうふくじちゅう金堂こんどう弥勒みろくぞうづくりふつにより法橋ほっきょうくらいじょせられた。なりあさ没後ぼつごすると奈良なら仏師ぶっし正系せいけい途絶とだえ、奈良なら仏師ぶっしながれは傍系ぼうけい康慶こうけい運慶うんけいとうけいがれていった。

現存げんそん作品さくひん

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  • 釈迦如来しゃかにょらいぞう興福寺こうふくじ
  • 木造もくぞう金剛力士こんごうりきし立像りつぞうひかりてら[2]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 塩澤しおざわ(2009)。
  2. ^ a b 鈴木すずき麻里子まりこ山梨やまなしひかりてら仁王におうぞうについて」(初出しょしゅつ:『佛教ぶっきょう藝術げいじゅつよん、1999ねん/所収しょしゅう:西川にしかわ広平ひろへい 編著へんちょ甲斐かいはじめ一族いちぞく』戒光さち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいかん〉、2021ねんISBN 978-4-86403-398-5)2021ねん、P231-254.

参考さんこう文献ぶんけん

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