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薬師寺 - Wikipedia

薬師寺やくしじ

奈良ならにある仏教ぶっきょう寺院じいん

薬師寺やくしじ(やくしじ)は、奈良ならけん奈良なら西ノ京にしのきょうまちにある法相ほうしょうむね大本山だいほんざん仏教ぶっきょう寺院じいん山号さんごうはなし。本尊ほんぞん薬師くすしさんみこと南都七大寺なんとしちだいじひとつ。開基かいき天武天皇てんむてんのう

薬師寺やくしじ
薬師寺 東塔
ひがしとう国宝こくほう手前てまえ)と西にしとう
所在地しょざいち 奈良ならけん奈良なら西ノ京にしのきょうまち457
位置いち 北緯ほくい3440ふん6.08びょう 東経とうけい13547ふん3.52びょう / 北緯ほくい34.6683556 東経とうけい135.7843111 / 34.6683556; 135.7843111座標ざひょう: 北緯ほくい3440ふん6.08びょう 東経とうけい13547ふん3.52びょう / 北緯ほくい34.6683556 東経とうけい135.7843111 / 34.6683556; 135.7843111
山号さんごう なし
宗派しゅうは 法相ほうしょうむね
寺格じかく 大本山だいほんざん
本尊ほんぞん 薬師くすしさんみことぞう国宝こくほう
創建そうけんねん 天武天皇てんむてんのう9ねん680ねん
開基かいき 天武天皇てんむてんのう勅願ちょくがん
札所ふだしょとう 西国さいごく薬師くすしよんじゅうきゅう霊場れいじょうだい1ばん
大和やまと北部ほくぶはちじゅうはちヶ所かしょ霊場れいじょうだい49ばん
南都七大寺なんとしちだいじだい6ばん
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみちだい25ばん奈良ならだい12ばん
文化財ぶんかざい ひがしとう東院とういんどうどうづくり観音かんのん菩薩ぼさつ立像りつぞうほか(国宝こくほう
みなみもん木造もくぞうじゅういちめん観音かんのん立像りつぞう木造きづくりつたえ大津皇子おおつのおうじ坐像ざぞうほか(重要じゅうよう文化財ぶんかざい
世界せかい文化ぶんか遺産いさん
公式こうしきサイト 奈良なら薬師寺やくしじ 公式こうしきサイト
法人ほうじん番号ばんごう 2150005000433 ウィキデータを編集
薬師寺の位置(奈良市内)
薬師寺
薬師寺の位置(日本内)
薬師寺
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1998ねん平成へいせい10ねん)に「古都こと奈良なら文化財ぶんかざい」の構成こうせい資産しさんひとつとして、国際こくさい連合れんごう教育きょういく科学かがく文化ぶんか機関きかん(ユネスコ)により世界せかい文化ぶんか遺産いさん登録とうろくされている。

薬師寺やくしじ天武天皇てんむてんのう9ねん680ねん)、天武天皇てんむてんのう発願ほつがんにより、飛鳥あすか藤原ふじわらきょう奈良ならけん橿原かしはら城殿きどの〈きどの〉まち)の造営ぞうえい開始かいしされ、平城京へいじょうきょうへの遷都せんとの8世紀せいきはじめに現在地げんざいち西ノ京にしのきょう移転いてんしたものである。ただし、飛鳥ひちょう薬師寺やくしじほん薬師寺やくしじ北緯ほくい3429ふん33.88びょう 東経とうけい13548ふん0.95びょう / 北緯ほくい34.4927444 東経とうけい135.8002639 / 34.4927444; 135.8002639)の伽藍がらんも10世紀せいきごろまではつづ存続そんぞくしていたとられる。

創建そうけん

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薬師寺やくしじしき伽藍がらん配置はいち概念がいねん。A:中門ちゅうもん、B:回廊かいろう、C:金堂こんどう、D:とう、E:講堂こうどう、F:鐘楼しゅろう、G:経蔵きょうぞう

日本書紀にほんしょき天武天皇てんむてんのう9ねん680ねん)11月12にちじょうには、天武天皇てんむてんのうこうもちすべ天皇てんのうである鵜野うのさんりょう(うののさらら)皇后こうごう病気びょうき平癒へいゆ祈願きがんして薬師寺やくしじ建立こんりゅう発願ほつがんし、ひゃくそう得度とくど出家しゅっけ)させたとある。薬師寺やくしじひがしとう屋上おくじょうにある相輪そうりん支柱しちゅうきざまれた「ひがしとう檫銘」(とうとうさつめい、「さつ」は木偏きへんに「察」)にもどう趣旨しゅし記述きじゅつがある。しかし、天武天皇てんむてんのうてら完成かんせいずに朱鳥あすか元年がんねん686ねんぼっし、伽藍がらん整備せいびもちすべ天皇てんのう文武ぶんぶ天皇てんのうだいがれた。

ひがしとう檫銘」には、「清原きよはらみやてんした統治とうちした天皇てんのう天武てんむ)の即位そくいはちねんかのえたつとし中宮なかみやもちすべ天皇てんのう)の病気びょうきのため、この伽藍がらんつくはじめたが、完成かんせいしないうちに崩御ほうぎょしたので、その意志いしいで、太上天皇だじょうてんのうもちみつる)が完成かんせいしたものである」むねしるされている。ここでいう「天皇てんのう即位そくいはちねんかのえ辰之たつゆきとし」は、『しょ』の「天武天皇てんむてんのう9ねん」とおなねんしている。すなわち、『しょ』は天智天皇てんぢてんのうぼっした翌年よくねんみずのえさるねん西暦せいれき672ねんにあたる)を天武天皇てんむてんのう元年がんねんとするが、天武てんむ正式せいしき即位そくいしたのはその翌年よくねん西暦せいれき673ねんにあたる)であり、「天皇てんのう即位そくいはちねん」とは即位そくいとしからかぞえて8ねんという意味いみである[1]

もちすべ天皇てんのう2ねん688ねん)、薬師寺やくしじにてさえぎ大会たいかい(かぎりなきおがみ)という行事ぎょうじおこなわれたことが『しょ』にえ、このころまでには伽藍がらんがある程度ていどととのっていたものとおもわれる。『ぞく日本にっぽん』によれば、文武ぶんぶ天皇てんのう2ねん(698ねん)にはてら造営ぞうえいがほぼ完成かんせいし、そうまわせている。この創建そうけん薬師寺やくしじは、藤原ふじわらきょう右京うきょうはちじょうさんぼうにあった。大和やまと三山さんざん畝傍山うねびやま香久山かぐやま中間ちゅうかんにあたる橿原かしはら城殿きどのまち寺跡てらあとのこり、「ほん薬師寺やくしじあと」として特別とくべつ史跡しせき指定していされている。

平城京へいじょうきょうへの移転いてん

編集へんしゅう
 
奈良なら時代じだい平城京へいじょうきょう薬師寺やくしじ伽藍がらん模型もけい奈良なら市役所しやくしょ所蔵しょぞう平城京へいじょうきょう1/1000模型もけい一部いちぶ
西側にしがわから

その和銅わどう3ねん710ねん)の平城京へいじょうきょう遷都せんとさいして、薬師寺やくしじ飛鳥ひちょうから平城京へいじょうきょうろくじょう大路おおじめんした右京うきょうろくじょうぼう現在地げんざいち)に移転いてんした。移転いてん時期じき長和ながわ4ねん(1015ねん成立せいりつの『薬師寺やくしじ縁起えんぎ』がつたえるところによれば養老ようろう2ねん718ねん)のことであった。ただし、平城ひらじろ薬師寺やくしじ境内けいだいからはれいかめ2ねん(716ねん)の記載きさいのある木簡もっかん出土しゅつどしていることから、造営ぞうえい養老ようろう2ねんよりも若干じゃっかんはやくからはじまっていたとみられる。『扶桑ふそう略記りゃっき天平てんぺい2ねん730ねん)3がつ29にちじょうに「はじめ薬師寺やくしじひがしとうりつ」とあり、ひがしとう三重みえとう)が完成かんせいしたのがそのとしのことで、そのころまで造営ぞうえいつづいていたものとおもわれる。

なお、平城京へいじょうきょうへの移転いてんも、飛鳥ひちょう薬師寺やくしじほん薬師寺やくしじ)はしばらく存続そんぞくしていた。史料しりょう発掘はっくつ調査ちょうさ結果けっかからは平安へいあん時代じだい中期ちゅうき、10世紀せいきごろまでは存続そんぞくしていたようだが、のち廃寺はいじとなった。ほん薬師寺やくしじあとには金堂こんどうひがしとう礎石そせき西にしとうしんいしずえのこっている。ほん薬師寺やくしじ伽藍がらん配置はいちは「薬師寺やくしじしき伽藍がらん配置はいち」としょうされるもので、中央ちゅうおう金堂こんどう、その手前てまえ中門ちゅうもん背後はいご講堂こうどうはいし、金堂こんどう手前てまえ東西とうざいとうく。そして、中門ちゅうもん左右さゆうから回廊かいろう講堂こうどう左右さゆうたっし、金堂こんどう東西とうざいりょうとう回廊かいろうかこまれている。この伽藍がらん配置はいち平城ひらじろ薬師寺やくしじにおいても踏襲とうしゅうされている。ほん薬師寺やくしじ平城ひらじろ薬師寺やくしじ双方そうほう発掘はっくつ調査ちょうさにより、りょう伽藍がらん建物たてもの規模きぼ位置いち関係かんけいなどはほぼひとしく、ほん薬師寺やくしじ伽藍がらん平城ひらじろ薬師寺やくしじ再現さいげんしようとしたものであることがわかる。ただし、平城ひらじろ薬師寺やくしじでは中門ちゅうもん規模きぼ拡大かくだいされ、回廊かいろうはばひろげられている。

平城京へいじょうきょう薬師寺やくしじてんろく4ねん973ねん)の火災かさいによって金堂こんどうひがしとう西にしとうのこし、講堂こうどう僧坊そうぼう南大門なんだいもんなどおおくの建物たてもの焼失しょうしつした。発掘はっくつ調査ちょうさによって、西にし僧坊そうぼう跡地あとちからはそうたちが使用しようしていたとみられる奈良なら時代じだいや、中国ちゅうごくとう時代じだい陶磁器とうじき多数たすう出土しゅつどしており、てんろく4ねん火災かさいさいたなからちて土中どちゅううずもれたものとみられる。

戦国せんごく時代じだいとおるろく元年がんねん1528ねん)9がつ7にちには、興福寺こうふくじ衆徒しゅと筒井つついじゅんきょうによる兵火へいかひがしとう東院とういんどうのこぜんやま焼失しょうしつした。現在げんざい奈良なら時代じだい建物たてものひがしとうのこすのみである。

金堂こんどうは、慶長けいちょう5ねん1600ねん)に郡山こおりやましろおも増田ますだちょうもりによって再建さいけんされ、だい講堂こうどうよしみひさし5ねん1852ねん)に再建さいけんされる(以前いぜん慶長けいちょう5ねん(1600ねん再建さいけんせつのべたから4ねん1676ねん再建さいけんせつなどもあった)が、往時おうじだい伽藍がらんとはぶべくもなかった。

 
大池おおいけからみた薬師寺やくしじりょうとう金堂こんどう夜景やけい
 
大池おおいけからみた薬師寺やくしじりょうとう金堂こんどう若草山わかくさやま

白鳳はくほう伽藍がらん再建さいけん

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1967ねん昭和しょうわ42ねん)、名物めいぶつふく住職じゅうしょくとしてられた高田たかだこうたね(たかだこういん)がかんぬし就任しゅうにんすると、よく1968ねん昭和しょうわ43ねん)からひゃくまんかん写経しゃきょう勧進かんじんによる白鳳はくほう伽藍がらん復興ふっこう事業じぎょう開始かいしされた。これにより、1976ねん昭和しょうわ51ねん)に金堂こんどう再建さいけんされたのをはじめ、1981ねん昭和しょうわ56ねん)に西にしとう1984ねん昭和しょうわ59ねん)に中門ちゅうもん1995ねん平成へいせい7ねん)に東西とうざい回廊かいろう一部いちぶ2003ねん平成へいせい15ねん)にだい講堂こうどう2017ねん平成へいせい29ねん)には食堂しょくどうじきどう再建さいけんされ、復興ふっこう事業じぎょうはほぼ最終さいしゅう段階だんかいむかえた[2]

2017ねん平成へいせい29ねん)5がつ24にち龍谷大りゅうこくだいがくと、こうした文化財ぶんかざい保護ほご活動かつどうのほか、仏教ぶっきょうについての研究けんきゅう教育きょういくそう人材じんざい育成いくせいなどで連携れんけいする協定きょうていむすんでいる[3]

薬師寺やくしじまほろばじゅく」をひらいている[4]

うつりけんうつりけん論争ろんそう

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平城京へいじょうきょう薬師寺やくしじにあるひがしとうおよび本尊ほんぞん薬師くすしさん尊像そんぞう飛鳥ひちょうほん薬師寺やくしじからうつされたものか、平城京へいじょうきょうあらたにつくられたものかについての論争ろんそう明治めいじ時代じだい以来いらいある。21世紀せいき現在げんざいひがしとう平城京へいじょうきょうでの新築しんちくとするのがほぼ通説つうせつとなっているが、論争ろんそう完全かんぜん決着けっちゃくしたわけではない。

11世紀せいき成立せいりつの『薬師寺やくしじ縁起えんぎ』に引用いんようされる奈良なら時代じだいの『りゅう資財しざいちょう』に「薬師寺やくしじにはとうが4あり、うち2本寺ほんじにある」という趣旨しゅし記載きさいがあり、ある時期じきまでは平城京へいじょうきょう飛鳥ひちょうりょう薬師寺やくしじにそれぞれ2とうがあったと解釈かいしゃくされることから、足立あだちやすし町田まちだかぶといちらはこれをうつりけんせつ根拠こんきょの1つとしている。現存げんそんするひがしとうに、他所よそから解体かいたい移築いちくした痕跡こんせきられないことからも[5]ひがしとうについては『扶桑ふそう略記りゃっき』の記述きじゅつどおり、平城京へいじょうきょう移転いてん天平てんぴょう2ねん(730ねん新築しんちくせつ通説つうせつとなっている[6]。ただし、平城ひらじろ薬師寺やくしじ境内けいだいからはほん薬師寺やくしじから出土しゅつどするのと同様どうようふる様式ようしきかわら出土しゅつどしており、西にしとう飛鳥ひちょうからの移築いちくだったとするせつもある[7]

発掘はっくつ調査ちょうさ結果けっか平城ひらじろ薬師寺やくしじ廻廊かいろう当初とうしょたんろうはしらが2れつ)として計画けいかくされたものが、途中とちゅうふくろうはしらが3れつ通路つうろが2れつ)に設計せっけい変更へんこうされたことが判明はんめいしている。このことから、当初とうしょほん薬師寺やくしじ建物たてもの一部いちぶ移築いちくしようとしていたものを、途中とちゅう計画けいかく変更へんこうしたのではないかとするせつもある。

金堂こんどう本尊ほんぞん薬師くすしさん尊像そんぞうについては、すんでじゅつの「もちすべ天皇てんのう2ねん688ねん)、薬師寺やくしじにてさえぎ大会たいかい(かぎりなきおがみ)がおこなわれた」との『しょ』の記述きじゅつ重視じゅうしし、このとしまでには造立ぞうりゅうされて、のち平城ひらじろ薬師寺やくしじうつされたとするせつがある。一方いっぽうおも様式ようしき鋳造ちゅうぞう技法ぎほうめんから平城京へいじょうきょう移転いてん新造しんぞとするせつもあり、決着けっちゃくはついていない。

近代きんだい現代げんだい

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1934ねん昭和しょうわ9ねん)9がつ21にち室戸むろと台風たいふう暴風雨ぼうふううにより鐘楼しゅろう倒壊とうかい三重みえひがしとうおおきな被害ひがいける[8]

ひがしとう

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ひがしとう
 
薬師寺やくしじひがしとうの檫銘
 
ひがしとう礎石そせき解体かいたい修理しゅうりちゅう所見しょけん北西ほくせいからる、2015ねん2がつ28にち撮影さつえい中央ちゅうおうひらたいいししんいしずえ、その周囲しゅういの4つがよんてんばしら、その外側そとがわれつがわばしらもっと外側そとがわれつかいばしら礎石そせき

国宝こくほう現在げんざいてらのこ建築けんちくのうち、奈良なら時代じだい天平てんぴょう年間ねんかん)にさかのぼ唯一ゆいいつのもの。総高そうだか34.1メートル(相輪そうりんふくむ)。日本にっぽん現存げんそんする江戸えど時代じだい以前いぜんつくられた仏塔ぶっとうとしては、東寺とうじ五重塔ごじゅうのとう興福寺こうふくじ五重塔ごじゅうのとう法観寺ほうかんじ五重塔ごじゅうのとう醍醐寺だいごじ五重塔ごじゅうのとう仁和寺にんなじ五重塔ごじゅうのとうぎ、6番目ばんめたかさをほこる。屋根やねだしが6かしょにあり、一見いっけんろくじゅうとうえるが、したから1・3・5番目ばんめ屋根やねかい(もこし)であり、構造こうぞうてきにはさんじゅうとうである。仏塔ぶっとう建築けんちくとしては類例るいれいのない意匠いしょうしめす。とう先端せんたん相輪そうりんにある青銅せいどうせい水煙すいえん(すいえん)には飛天ひてんぞうかしりされており、奈良なら時代じだいたか工芸こうげい技術ぎじゅつ現代げんだいつたえている。

相輪そうりん中心ちゅうしんはしらさい下部かぶには「ひがしとう檫銘」(とうとうさつめい、「さつ」の漢字かんじ木偏きへんに「察」)としょうされる銘文めいぶんきざまれており、薬師寺やくしじ創建そうけん本尊ほんぞん造立ぞうりゅう趣旨しゅし漢文かんぶんしるされている。とう建築けんちく年代ねんだいについては飛鳥ひちょうほん薬師寺やくしじから移築いちくされたとするせつうつりけんせつ)と、平城京へいじょうきょうあらたにてられたとするせつうつりけんせつ)とがあったが、『扶桑ふそう略記りゃっき』の記述きじゅつのとおり、天平てんぴょう2ねん(730ねん)に平城京へいじょうきょうにて新築しんちくされたとするせつ通説つうせつとなっている。当初とうしょひがしとう西にしとうはつそう内部ないぶには釈迦しゃかはちそう釈迦しゃか生涯しょうがいの8つの主要しゅよう出来事できごと)をあらわした塑像そぞうぐん安置あんちされていたが、現在げんざい塑像そぞう断片だんぺんしん別途べっと保管ほかんされるのみである。

ほんとうは、建築けんちく様式ようしきてんでは、飛鳥あすか様式ようしき法隆寺ほうりゅうじ五重塔ごじゅうのとう法起寺ほうきじ三重みえとうよりはすすんだ形式けいしきれつつ、當麻寺たいまでらひがしとう奈良なら時代じだい末期まっき)や醍醐寺だいごじ五重塔ごじゅうのとう平安へいあん時代じだい初期しょき)ほどにはすすんでいない、過渡かとてき様相ようそうしめしている。はしらじょう組物くみもの着目ちゃくもくすると、くも肘木ひじきくも(くもと)をもちいた飛鳥あすか様式ようしきとうことなり、薬師寺やくしじひがしとう組物くみもの後世こうせい仏堂ぶつどう仏塔ぶっとう同様どうよう肘木ひじき(ます)をもちい、壁面へきめんから3だんしたさんさき(みてさき)である。肘木ひじきうえ垂木たるきかり、尾垂おだれ先端せんたんちかくにさんる。垂木たるき垂木たるき垂木たるき(ひえんたるき)からなるけん(ふたのき)で、垂木たるき円形えんけい断面だんめん垂木たるき角形かくがた断面だんめんとした、「えんかく」とばれる形式けいしきである。このように、組物くみものさん手先てさきとするてん垂木たるきけんとするてん飛鳥あすか様式ようしきよりすすんだ要素ようそである。一方いっぽうで、ささえ壁面へきめんのきうらななめにつなざい)をもちいず、のき天井てんじょうること、肘木ひじき先端せんたん1個いっこしからないこと(後世こうせいとうでは2る)、まるけた(がぎょう、垂木たるきささえるのきけたのうちもっと外側そとがわのもの)の断面だんめん円形えんけいでなく方形ほうけいとすること、おにすみ肘木ひじきじょうもちいる特殊とくしゅ形状けいじょう)をもちいないことなどは、後世こうせいとうとはことなる、ふる要素ようそである。奈良なら時代じだい末期まっき建立こんりゅう當麻とうま寺東てらひがしとうは、ささえおにもちい、まるけた円形えんけい断面だんめんとなり、肘木ひじきには2つのっている。一方いっぽう海龍かいりゅう王寺おうじじゅうしょうとうは、ささえおにもちいないが、まるけた円形えんけい断面だんめんとなり、肘木ひじきには2つのるなど、薬師寺やくしじひがしとう當麻とうま寺東てらひがしとうとの過渡かとてき形式けいしきをもっている。このほか薬師寺やくしじひがしとう建築けんちく様式ようしき特色とくしょくとしては、尾垂おだれ直線ちょくせんがたであり、先端せんたん垂直すいちょく方向ほうこうっていること、さんまるけたあいだじつ肘木ひじきもちいないこと、高欄こうらん(ほこぎ)やひらけたりがなく、かつ、これらのりょうはし垂直すいちょくっていることなどがげられる[9]

骨組ほねぐ部分ぶぶんてつくぎ接続せつぞくされていたが、各階かくかいあいだなどではくぎもちいられず木組きぐみだけで構成こうせいされていた。解体かいたい修理しゅうりにあたり、9わり木材もくざいさい利用りようされ、のこりは補修ほしゅうまたはしんざいもちいた[10]基壇きだん後世こうせい改修かいしゅうされているが、2009ねんから開始かいしされたひがしとう解体かいたい修理しゅうり工事こうじさい基壇きだん発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれている。その結果けっか創建そうけん当初とうしょはんちくによる基壇きだん良好りょうこうのこそんしていることが確認かくにんされた。また、かいばしら礎石そせき明治めいじ時代じだいなおされた可能かのうせいがあるものの、こころいしずえよんてんばしらがわばしら礎石そせき当初とうしょ位置いちからうごいていないことも確認かくにんされた[11]基壇きだんしたから和同開珎わどうかいちん4まい出土しゅつどした[12]創建そうけん当時とうじ基壇きだん保護ほごされ、それを鉄筋てっきんコンクリートおおってあらたな土台どだいとした。またしんばしら内側うちがわ根元ねもとから2mほどがありがいにあっており、不要ふよう部分ぶぶんのぞしんざいめた[13]天井てんじょう調査ちょうさにおいては、木材もくざいかげになった部分ぶぶん顔料がんりょう非常ひじょう状態じょうたいのこっていた[14]

前述ぜんじゅつのような特徴とくちょうてき姿すがたから、このとうひょうしてしばしば「こおれる音楽おんがく」という表現ひょうげんもちいられる。なお、明治めいじ時代じだい本寺ほんじおとずれたアーネスト・フェノロサが、このとうして「こおれる音楽おんがく」と表現ひょうげんしたと説明せつめいされることがおおいが、複数ふくすう文献ぶんけんこおれる音楽おんがく」をフェノロサの言葉ことばとするのはあやまだと指摘してきしている[ちゅう 1]佐佐木ささき信綱のぶつな会津あいづ八一やいちはそれぞれひがしとう題材だいざいにした短歌たんかのこしており、両人りょうにん歌碑かひ薬師寺やくしじ境内けいだい建立こんりゅうされている。

ひがしとう修理しゅうり

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地震じしん台風たいふうでの損傷そんしょう修理しゅうりするため、幾度いくど修理しゅうりおこなわれている[15]おも修理しゅうり以下いかげる。

 
ひだりから)ひがしとう金堂こんどう西にしとう
 
金堂こんどう
 
西にしとう
 
だい講堂こうどう

白鳳はくほう伽藍がらん

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  • 金堂こんどう - 1976ねん昭和しょうわ51ねん再建さいけん奈良なら時代じだい仏教ぶっきょう彫刻ちょうこく最高さいこう傑作けっさくひとつとされる本尊ほんぞん薬師くすしさんみことぞう国宝こくほう)をまつる(薬師くすしさん尊像そんぞうについては後述こうじゅつ)。上層じょうそう写経しゃきょうおさめられたおさめ経蔵きょうぞうとなっている。再建さいけんにあたっては、「てつってすうひゃくねん程度ていど木材もくざいヒノキ)はせんねんつ。てつ使つかうとその部分ぶぶんから腐食ふしょくする」と主張しゅちょうする宮大工みやだいく文化財ぶんかざい保存ほぞん技術ぎじゅつしゃ西岡にしおか常一つねいちと、「台風たいふう地震じしん火災かさいからの文化財ぶんかざい保護ほご観点かんてんからも鉄筋てっきんコンクリート補強ほきょうのぞましい」と主張しゅちょうする名古屋工業大学なごやこうぎょうだいがく教授きょうじゅ竹島たけしまたくいち意見いけん衝突しょうとつするが[22]結果けっか金堂こんどう内陣ないじんのみは鉄筋てっきんコンクリートでつくられることとなった。なお、慶長けいちょう5ねん1600ねん)に増田ますだちょうもりによって再建さいけんされた入母屋いりもやづくり以前いぜん金堂こんどうは、1975ねん昭和しょうわ50ねん)に興福寺こうふくじかり金堂こんどうげんかり講堂こうどう)として移築いちくされた。そのさいよせとうづくり改造かいぞうされてこうはい撤去てっきょしている。
  • ひがしとう国宝こくほう) - 三重みえとう既出きしゅつ
  • 西にしとう - 1981ねん昭和しょうわ56ねん再建さいけんひがしとう対称たいしょうてき位置いち三重みえとうきゅうとうとおるろく元年がんねん1528ねん)に戦火せんか焼失しょうしつしている。このとうはかつての伝統でんとう様式ようしき技法ぎほうによって再建さいけんされたものである。デザインはひがしとうているが、ひがしとうかい部分ぶぶん白壁しらかべとするのにたいし、西にしとうおな箇所かしょ連子窓れんじまどもうけるなどのちがいもある。ひがしとう元々もともと連子窓れんじまどであったが修復しゅうふく白壁しらかべにされている。再建さいけんさいしては、西岡にしおか常一つねいちにより、西にしとうてつ使用しよう極力きょくりょくすくなくし木材もくざい乾燥かんそう収縮しゅうしゅく考慮こうりょしてひがしとうよりやく30センチたかくして再建さいけんされている。500ねんには西にしとうひがしとうおなじように材木ざいもくたわみと基礎きそ沈下ちんかきておなたかさに計算けいさんとのことである[23]
  • だい講堂こうどう - 2003ねん平成へいせい15ねん)3がつ21にち再建さいけん正面しょうめん41m、奥行おくゆき20m、たかさ17mあり、伽藍がらん最大さいだい建造けんぞうぶつである。以前いぜんだい講堂こうどうとおるろく元年がんねん(1528ねん)に戦火せんか焼失しょうしつよしみひさし5ねん1852ねん)に再建さいけんされたものであったが、今回こんかい再建さいけんにあたって解体かいたいされている。本尊ほんぞんどうづくりさん尊像そんぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)は、ちゅうみことぞうだかやく267センチの大作たいさくだが、制作せいさく時期じき当初とうしょはどこにあったぞうであるかなどについてなぞおおぞうであるが、だい講堂こうどう安置あんちされる直前ちょくぜんには西院さいいん弥勒みろくどう弥勒みろくさん尊像そんぞうとしてまつられていた。だい講堂こうどう安置あんち金堂こんどう本尊ほんぞん同様どうように「薬師くすしさん尊像そんぞう」としていたが、今回こんかいだい講堂こうどう再建さいけん弥勒みろくさん尊像そんぞうふくしている。どうないにはふつあしせき国宝こくほう)やふつ足跡あしあと歌碑かひ国宝こくほう)も安置あんちされている。
  • 食堂しょくどう - 2017ねん平成へいせい29ねん再建さいけん本尊ほんぞん阿弥陀あみださんみこと浄土じょうど」をまつる。
  • ひがし僧坊そうぼう
  • 西にし僧坊そうぼう
  • 鐘楼しゅろう
  • 中門ちゅうもん - 1984ねん昭和しょうわ59ねん再建さいけん
  • ひがし回廊かいろう
  • 西にし回廊かいろう
  • 東院とういんどう国宝こくほう) - 鎌倉かまくら時代ときよ弘安ひろやす8ねん1285ねん再建さいけん境内けいだい東側ひがしがわ回廊かいろうそとつ。元明もとあき上皇じょうこう冥福めいふくいのるためにむすめ吉備きび内親王ないしんのう養老ようろう年間ねんかん717ねん - 724ねん)に建立こんりゅうしたひがしぜんいん前身ぜんしんである。当初とうしょみなみきであったが、とおる18ねん1733ねん)に西向にしむきにえられた。どうない厨子ずし本尊ほんぞん聖観音しょうかんのん立像りつぞう国宝こくほう)を安置あんちする。
  • 龍王りゅうおうしゃ
  • 勧進かんじんしょ
  • きゅうおか八幡宮はちまんぐう若宮わかみやしゃ重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 鎌倉かまくら時代じだい末期まっきちく
  • 弁財天べざいてんしゃ
  • 平木ひらき大明だいめい神社じんじゃ
  • 不動堂ふどうどう
  • 與樂ようらくもん
  • 唐院とういん - きた受付うけつけとなっている。
  • 聚寶かん
  • だい宝蔵ほうぞう殿どの
  • みなみもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 室町むろまち時代ときよえいただし9ねん1512ねん建立こんりゅう境内けいだいみなみ正面しょうめんにある小規模しょうきぼよんきゃくもんもと薬師寺やくしじ西院さいいんもんだったが、のち現在地げんざいちである南大門なんだいもん跡地あとち移築いちくした。

北境きたざかい内地ないち

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玄奘三蔵げんしょうさんぞういん伽藍がらん

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げん奘塔
 
れいもん

主要しゅよう伽藍がらん北側きたがわにあり、1991ねん平成へいせい3ねん)にてられた。

南境みなみざかい内地ないち

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きゅうおか八幡宮はちまんぐう

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塔頭たっちゅう

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  • 地蔵じぞういん
  • 龍眼りゅうがんいん
  • 世尊せそんいん
  • ほうこういん
  • 金蔵きんぞういん
  • 福蔵ふくぞういん
  • 法輪ほうりんいん
  • えんなりいん
  • 大乗だいじょういん
  • 八幡やはたいん

文化財ぶんかざい

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薬師くすしさん尊像そんぞう

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薬師くすしさん尊像そんぞう手前てまえから日光にっこう菩薩ぼさつ薬師やくし如来にょらい月光げっこう菩薩ぼさつ
写真しゃしん再建さいけんまえきゅう金堂こんどう安置あんちされていたときのもの
 
薬師如来像やくしにょらいぞう
 
観音かんのん菩薩ぼさつ聖観音しょうかんのん立像りつぞう
 
ひがしとう水煙すいえん模型もけい

金堂こんどう安置あんちされる薬師寺やくしじ本尊ほんぞん国宝こくほう飛鳥あすか時代ときよ後期こうき白鳳はくほう) - 奈良なら時代じだい(7 - 8世紀せいき)のさく国宝こくほう指定してい名称めいしょうは「どうづくり薬師如来やくしにょらい及両わきさむらいぞう 3」。ちゅうみこと薬師やくし如来にょらいひだりわきさむらいかってみぎ)に日光にっこう菩薩ぼさつ(にっこうぼさつ)、みぎわきさむらい月光げっこう菩薩ぼさつ(がっこうぼさつ)をはいしている。ぞうだか薬師如来やくしにょらい254.7センチメートル、日光にっこう菩薩ぼさつ317.3センチメートル、月光げっこう菩薩ぼさつ315.3センチメートル。日本にっぽん仏像ぶつぞう彫刻ちょうこくが、中国ちゅうごく六朝りくちょうとう影響えいきょうけつつ、独自どくじ古典こてん様式ようしき完成かんせいした7 - 8世紀せいき作品さくひんのなかでも最高さいこう傑作けっさくひとつとして古来こらい名高なだかいものである。

ちゅうみことは「ひがしとう檫銘」に「巍巍ぎぎ蕩蕩とうとう(ぎぎとうとう)たり薬師やくし如来にょらいおおいに誓願せいがんはっし、ひろく慈哀をうん(めぐら)す」とある薬師如来やくしにょらいである。「巍巍ぎぎ」とはたかみねのようにおおきく堂々どうどうとしている様子ようす、「蕩蕩とうとう」は大河たいがのようにひろくゆったりとした様子ようすで、この表現ひょうげんのとおり、ちゅう尊像そんぞう男性だんせいてき堂々どうどうたるぞうようあらわす。りょうわきさむらいぞうくびこしかるくひねり、頭部とうぶ上半身じょうはんしん下半身かはんしんがそれぞれことなった角度かくどあらわす「さんきょくほう」とばれるポーズをしめす。これはインドグプタあさにおける彫刻ちょうこく様式ようしき影響えいきょうが、から時代じだい中国ちゅうごく日本にっぽんつたわったものである。

かくぞう面貌めんぼう体躯たいくは、飛鳥あすか時代じだい前期ぜんき彫刻ちょうこくのような観念かんねんてき表現ひょうげんはなれ、人体じんたい正確せいかく把握はあくもとづいた自然しぜん肉付にくづけがみられる。一方いっぽうころもぶんふか明瞭めいりょうあらわされ、鋭角えいかくっためん構成こうせいしている。そうじて中国ちゅうごくはつ唐様からようしき影響えいきょうがみられる。

ちゅうみことてのひらにはたからせんこくし、あしうらにはたからのほか、ゆびまんじはなきざむなど、吉祥きっしょうぶんあらわされている。これらはふつ三十二相さんじゅうにそうもとづく表現ひょうげんである。ちゅう尊像そんぞう台座だいざせんうえひろげたかかである。このせんには古代こだいギリシャペルシャ、インド、中国ちゅうごくなどに淵源えんげんをもつ葡萄ぶどう(ぶどう)唐草からくさぶん異国いこくふう人物じんぶつぞうよんかみあおりゅう白虎びゃっこ朱雀すざく玄武げんぶ)などの意匠いしょうがあしらわれており、奈良ならシルクロード終着しゅうちゃく地点ちてんといわれる所以ゆえんとなっている[ちゅう 2]

制作せいさく年代ねんだいについては、「歴史れきし」のこうべたようにすべ天皇てんのう2ねん688ねんさえぎ大会たいかい実施じっしまでには完成かんせいしていたとするせつ、『日本書紀にほんしょき』にすべ天皇てんのう11ねん697ねん)、薬師寺やくしじにて公卿くぎょうひゃくりょう仏像ぶつぞうつく開眼かいがん法会ほうえおこなったむね記録きろくがあることから、このとき制作せいさくされたとするせつ平城京へいじょうきょう移転いてん新造しんぞとするせつがあり、決着けっちゃくをみていない。685ねんころ制作せいさくであるきゅう山田やまだてらふつあたまげん興福寺こうふくじぞう)と比較ひかくすると、薬師寺やくしじぞう鋳造ちゅうぞう技法ぎほうてん進歩しんぽがみられる。すなわち、山田やまだてらぞうでは鋳造ちゅうぞうさい中型ちゅうがたそとがたのずれを防止ぼうしするための「かた」と「笄」(くぎ)がずれてしまっているが、薬師寺やくしじぞうでは「かた」と「笄」を一体化いったいかしてずれを防止ぼうししており、どうあつ一定いっていである。こうした鋳造ちゅうぞう技法ぎほう進歩しんぽ制作せいさく年代ねんだい下降かこうせつがある一方いっぽうで、天皇てんのう発願ほつがんてらである薬師寺やくしじと、わたしてらである山田やまだてらどういちはできず、技法ぎほうちがいはそく年代ねんだいちがいではないとするせつもある[24]

聖観音しょうかんのん立像りつぞう

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東院とういん堂本どうもとたかし国宝こくほう指定してい名称めいしょうは「どうづくり観音かんのん菩薩ぼさつ立像りつぞう」。ぞうだか188.9センチメートル。飛鳥あすか時代じだい後期こうき白鳳はくほう)または奈良なら時代じだい(7 - 8世紀せいき)。蓮華れんげじょう直立ちょくりつする菩薩ぼさつぞうで、右腕うわん体側たいそく垂下すいかし、左腕さわんげ、かたあたりまでげててのひら正面しょうめんける。ろうがた鋳造ちゅうぞうによる銅像どうぞうで、右手みぎてさきてんころも遊離ゆうりなどをべつとする。ぞう表面ひょうめん鍍金めっきはほとんど剥落はくらくする。光背こうはい木造もくぞうのち近世きんせいさく。『薬師寺やくしじ縁起えんぎ』(護国ごこく寺本てらもとしょてら縁起えんぎしゅう』)によれば、東院とういんどう養老ようろう年間ねんかん721ねんころ)、元明もとあき太上天皇だじょうてんのう病気びょうき平癒へいゆのために建立こんりゅうされたとされるが、ほんぞう中世ちゅうせい以前いぜん所在しょざいあきらかでなく、当初とうしょから東院とういんどう本尊ほんぞんであったとする確証かくしょうはない(現存げんそんする東院とういんどう建物たてもの鎌倉かまくら時代じだいのもの)。

ほんぞうには自然しぜん人体じんたい把握はあくられ、中国ちゅうごくはつから末期まっきからもりから初期しょき(7世紀せいきまつ)の様式ようしき影響えいきょうがみられる。その一方いっぽう時代じだいさかのぼ様式ようしきられ、製作せいさく年代ねんだいについては飛鳥あすか時代じだい後期こうき白鳳はくほう)から奈良なら時代じだい(7 - 8世紀せいき)まで諸説しょせつある。薬師寺やくしじ金堂こんどう日光にっこう月光げっこう菩薩ぼさつぞう比較ひかくすると、ほんぞうには様式ようしきてきにはふる要素ようそられるが、実際じっさい制作せいさく時期じき先後せんごについてはさだかでない。日光にっこう月光げっこう菩薩ぼさつぞうどうに「くびれ」のせん明瞭めいりょうきざむのにたいし、ほんぞうにはそれがなく、からだ抑揚よくよう自然しぜんなカーブで表現ひょうげんされている。左肩ひだりかたからみぎ体側たいそくにかけては、日光にっこう月光げっこうぞうにはないじょう帛をする。こしからしたにはてんころも上下じょうげ3だんにU字形じけいかる。さらに、両脚りょうきゃく図式ずしきてきととのえられたころもあやあし左右さゆうひれじょうひろがる裳裾もすそ表現ひょうげんなど、全体ぜんたい左右さゆう相称そうしょうせい強調きょうちょうされている。面相めんそう着目ちゃくもくすると、口元くちもとにはアルカイック・スマイルおもわせるかすかなみをかべ、人中ひとなかせんを鎬ててきざみ、鼻梁びりょう鋭角えいかくてきあらわされるてんなどがふるようである。腰部ようぶ中央ちゅうおう裳裾もすそ左右さゆうられる「しなじょうていするころもぶん裳裾もすそ左右さゆうはしれるひも両脚りょうきゃくあいだられるジグザグじょうころもぶんなどは、前述ぜんじゅつひれじょうころもはし表現ひょうげんとともに、飛鳥あすか時代じだい前期ぜんき様式ようしきおもわせるふる要素ようそである。頭部とうぶには飛鳥あすか時代じだい後期こうき白鳳はくほう)の菩薩ぼさつぞうにしばしばみられる三面さんめんあたまかざりさず、たぶさ側面そくめんから背面はいめんにかけて唐草からくさぶんあらわすのはめずらしい[25]

国宝こくほう

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  • ひがしとうざい1540てん[26]
  • 東院とういんどう
  • どうづくり薬師如来やくしにょらい及両わきさむらいぞう薬師くすしさん尊像そんぞう) - 解説かいせつ既出きしゅつ
  • どうづくり観音かんのん菩薩ぼさつ立像りつぞう - 東院とういん堂本どうもとたかしてらでの呼称こしょうせい観世音菩薩かんぜおんぼさつぞう解説かいせつ既出きしゅつ
  • 木造もくぞう僧形そうぎょう八幡やはたしん神功じんぐう皇后こうごうなかひめいのち坐像ざぞう八幡やはたさん神像しんぞう) - 平安へいあん時代じだい初期しょきさく。いずれもぞうだか30すうセンチの小品しょうひんで、薬師寺やくしじ鎮守ちんじゅきゅうおか八幡宮はちまんぐう神体しんたいとしてつくられたもの。日本にっぽん神像しんぞう彫刻ちょうこく仏像ぶつぞう影響えいきょうけてつくはじめられたもので、薬師寺やくしじさん神像しんぞう日本にっぽん神像しんぞうとしては現存げんそん最古さいこさくの1つである。奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたくされている。
  • 麻布あざぶちょしょく吉祥天きちじょうてんぞう - 『金光かねみつあきらさいかちおうけい所説しょせつもとづき、吉祥きっしょう悔過かいきちじょうけかえ本尊ほんぞんとして制作せいさくされたもので、数少かずすくない奈良なら時代じだい絵画かいが遺品いひんとして貴重きちょうなものである。頭部とうぶ背後はいご光背こうはい後光ごこう)があることからこれが仏画ぶつがであることがわかるが、一見いっけんすると奈良なら時代じだい美人びじんのようにえる。ふうになびく着衣ちゃくい繊細せんさいさがよく表現ひょうげんされている。正月しょうがつさんにちはるあきなどに期日きじつかぎって、寺内てらうちだい宝蔵ほうぞう殿どの公開こうかいされる。
  • 絹本けんぽんちょしょく慈恩じおん大師だいしぞう - 中国ちゅうごく法相ほうしょうむね肖像しょうぞう。11世紀せいきさく
  • ふつあしせき - だい講堂こうどうないにある。礼拝れいはい対象たいしょうとしての仏陀ぶっだ釈迦しゃか)の足跡あしあときざんだいし側面そくめん長文ちょうぶんめいがあり、しょほんきぶみのほんじつとううつかえったふつ足跡あしあと文室ふむろ人智じんちつとむぶんやのまひとちぬ夫人ふじん追善ついぜんのためにうつさせたもので、天平てんぴょうかちたから5ねん753ねん)のさくられる。
  • ふつ足跡あしあと歌碑かひ - だい講堂こうどうないにあり、ふつあしせきとともに伝来でんらいしたものだが、元来がんらいいちのものであるかどうかはさだかでない。たかさ194cmの石碑せきひふつ足跡あしあとたたえるうたなど21しゅうた万葉仮名まんようがなきざむ。ここにきざまれたうたはいずれも通常つうじょう和歌わかより1おおい「なななななななな」の歌体かたいになり、これを「ふつ足跡あしあと歌体かたい」としょうする。

重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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  • みなみもん
  • きゅうおか八幡やはた神社じんじゃきゅうおか八幡宮はちまんぐう社殿しゃでん 3むね
    • 本殿ほんでん
    • みなみ北脇きたわき殿どの重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定してい名称めいしょう東西とうざいわき殿どの
  • きゅうおか若宮わかみやしゃ社殿しゃでん
  • いたちょしょく神像しんぞう 6めん えいひとしさんねんさんがつたかしげんひつ - きゅうおか八幡やはた神社じんじゃまつられていたもの。
  • どうづくり如来にょらい及両わきさむらいぞうだい講堂こうどう安置あんち)※重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定してい名称めいしょうは「どうづくり薬師如来やくしにょらいりょう脇士わきじぞうてらでは2003ねん平成へいせい15ねん)よりほんぞう呼称こしょうを「薬師くすしさんみこと」から「弥勒みろくさんみこと」に変更へんこうしている。
  • 木造もくぞうじゅういちめん観音かんのん立像りつぞう1897ねん指定していぞうだか165.5cm)(奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく
  • 木造もくぞうじゅういちめん観音かんのん立像りつぞう1902ねん指定していぞうだか191.5cm)(奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく
  • 木造もくぞうじゅういちめん観音かんのん立像りつぞう1921ねん指定していぞうだか180.3cm)(東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく
  • 木造もくぞう地蔵じぞう菩薩ぼさつ立像りつぞう大阪おおさか市立しりつ美術館びじゅつかん寄託きたく
  • 木造もくぞう地蔵じぞう菩薩ぼさつ立像りつぞう ぜんえんさく東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく
    • 願文がんもん のべおうねんよんがつ木造もくぞう大仏だいぶつぜんえん彩色さいしき仏師ぶっしえんけいとうがある(1240ねん
  • 木造きづくりつたえ大津皇子おおつのおうじ坐像ざぞう奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく
  • 木造もくぞう四天王してんのう立像りつぞう いん賢作けんさく所在しょざい東院とういんどう[27][28]
  • 木造もくぞう四天王してんのう立像りつぞう3うで1箇)[ちゅう 3]
  • 木造もくぞう文殊もんじゅ菩薩ぼさつ坐像ざぞう奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく
  • 木造もくぞう弥勒菩薩みろくぼさつ坐像ざぞう奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく
  • 木造もくぞう吉祥天きちじょうてん立像りつぞう大阪おおさか市立しりつ美術館びじゅつかん寄託きたく
  • とうほん釈迦しゃかはちそうぞう残欠ざんけつ
    • ひがしとう塑像そぞう心木しんぎ 160箇(:塑像そぞう断片だんぺん一括いっかつ木像もくぞう残欠ざんけつ25箇
    • 西にしとう塑像そぞう断片だんぺん 52箇(:土塔どとう1箇、和同開珎わどうかいちん残片ざんぺん2箇分、硬玉こうぎょくまるだま1箇)
  • 木造もくぞう光背こうはい残欠ざんけつ
  • 木造もくぞう狛犬こまいぬ獅子ししいちたい
  • どうがね梵鐘ぼんしょう) - 室町むろまち時代じだい戦火せんかはいったとされる亀裂きれつがあり「西ノ京にしのきょうやぶがね(われがね)」とばれる。
  • だい般若はんにゃけい 33かん
  • ぞういちおもね含経 まきだいじゅう 天平てんぴょうたから三年科野虫麿書写奥書
  • だい般涅槃経 まきだいじゅうろく - 敦煌とんこうけいきたたかし時代じだい[ちゅう 4]
  • くろ草紙ぞうし 1さつくろ草紙ぞうしたかられきさんねんしょ写本しゃほん)1さつ[29]
  • 薬師寺やくしじます 3くち
    • いちしょうます 天文てんもんじゅうねん正月しょうがつ 金堂こんどうきむふくとうこくめい1546ねん
    • いちしょうます 天正てんしょうねんろくがつ吉日きちじつ じゅうごうとうこくめい1574ねん
    • いちしょうます 天正てんしょうろくねん はんぜにますうつしとうこくめい1578ねん

典拠てんきょ:2000ねんまでの指定してい物件ぶっけんについては『国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい大全たいぜん 別巻べっかん』(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、2000ねん)の所有しょゆうしゃべつ総合そうごう目録もくろく名称めいしょうそう索引さくいん統計とうけい資料しりょうによる。

くに史跡しせき

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  • 薬師寺やくしじきゅう境内けいだい

奈良ならけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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奈良なら指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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  • 木造もくぞう毘沙門天びしゃもんてん立像りつぞう 納入のうにゅうけい2かん奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく
  • 絹本けんぽんちょしょく釈迦しゃかじゅうろくぜんしんぞう奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく
  • 絹本けんぽんちょしょく二河にこうしろどう奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく
  • きゅう福寿ふくじゅいん障壁しょうへき 長沢ながさわあしゆきふで 29めん奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく
  • 関係かんけい資料しりょう 4かん、29ぶく、8めん、1せき 位牌いはい 1(4かん・8めん奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく

年中ねんじゅう行事ぎょうじ

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  • 12月31にち - 1がつ1にち 越年えつねん写経しゃきょうかい写経しゃきょう道場どうじょう写経しゃきょう道場どうじょう一般いっぱん信徒しんとが、越年えつねん写経しゃきょうかいとしてよるとおして写経しゃきょうをする。
  • 1がつ1にち - 15にち 修正しゅうせいかい吉祥きっしょう悔過法要ほうよう金堂こんどう吉祥天きちじょうてんおんな画像がぞう本尊ほんぞんとして、1ねん吉祥きっしょう招福・天下てんか泰平たいへい滅罪めつざい消滅しょうめつなどを祈願きがんする法要ほうようたからひさし2ねん771ねん)よりせんねんえてつづいている。
  • 1がつ5にち はつ玄奘三蔵げんしょうさんぞうかい平和へいわ祈願きがんさい玄奘三蔵げんしょうさんぞういん伽藍がらん玄奘三蔵げんしょうさんぞう命日めいにちが2がつ5にちなので、はじめてのつき命日めいにちとして1がつ5にちはつ玄奘三蔵げんしょうさんぞうかいおこない、あわせてそのとし1年間ねんかん平和へいわ祈願きがんおこなう。
  • 1がつ8にち はつ薬師くすし縁日えんにちだい般若はんにゃけい転読てんどく法要ほうよう金堂こんどう薬師寺やくしじでは毎月まいつき8にち薬師如来やくしにょらい縁日えんにちさだめ、1がつ8にちはつ薬師くすし縁日えんにちとしてだい般若はんにゃけい転読てんどく法要ほうようおこなう。
  • 1がつ15にち 吉祥天きちじょうてんにちなむおこうとおちゃかい写経しゃきょう道場どうじょう修正しゅうせいかい結願けちがんに1ねん吉祥きっしょう福徳ふくとく吉祥天きちじょうてん祈願きがんし、茶会ちゃかいひらき、またこうく。
  • 2がつ3にち 節分せつぶんかい星祭ほしまつり
  • 3月23にち ぬぐ 午前ごぜんちゅう修二しゅうじかいようもちをつき、そのとき使つかったお使つかって僧侶そうりょ仏像ぶつぞうきよめる行事ぎょうじ金堂こんどう薬師如来像やくしにょらいぞう日光にっこう菩薩ぼさつぞう月光げっこう菩薩ぼさつぞうのおぬぐだい講堂こうどう東院とういんどうなどかくしょどうでもつづきおいがおこなわれる。
  • 3月25にち - 3月31にち 修二しゅうじかいはな会式えしき 奈良なら時代じだいからつづ薬師如来やくしにょらいたいする悔過法要ほうよう国家こっか繁栄はんえい五穀豊穣ごこくほうじょうなどをいのはる行事ぎょうじ薬師寺やくしじ修二しゅうじかいにはじゅうしゅ造花ぞうか本尊ほんぞんそなえられるところから「はな会式えしき」とばれ、奈良ならはる風物詩ふうぶつしとなっている。最終さいしゅうの3がつ31にちよるには「鬼追きおいしき」が法会ほうえめくくる。修二しゅうじかい参照さんしょう
  • 4にちだい3日曜にちよう さいかちかい(さいしょうえ) 平成へいせい15ねんやく500ねんぶりに復興ふっこうされた行事ぎょうじ国家こっか安泰あんたい五穀豊穣ごこくほうじょうなどをいの法要ほうようであり、またかんそう任命にんめいのための国家こっか試験しけんでもあった。僧侶そうりょ口頭こうとう試問しもん仏前ぶつぜんおこなわれる。
  • 5月5にち 玄奘三蔵げんしょうさんぞうかい大祭たいさい 法相ほうしょうむね始祖しそである玄奘三蔵げんしょうさんぞうたたえる法要ほうよう伎楽ぎがく雅楽ががくえんじられ、日没にちぼつまんとう供養くようかいおこなわれる。
  • 8がつ上旬じょうじゅん 夏休なつやす寺子屋てらこや 小・中学生しょうちゅうがくせいあつまり、おけいとなえたり、写経しゃきょう僧侶そうりょ法話ほうわなど普段ふだんできない生活せいかつ体験たいけんしたりして、礼儀れいぎ作法さほう勉強べんきょうする。
  • 8がつ13にち - 15にち 盂蘭盆会うらぼんえ
  • 8がつ23にち 地蔵じぞうぼん
  • 9月中秋ちゅうしゅう名月めいげつ 観月みづきかい
  • 10月8にち 天武てんむ万燈会まんどうえ 天武天皇てんむてんのう遺徳いとくしのんで法要ほうようおこなう。
  • 12月29にち ぬぐ 午前ごぜんちゅう正月しょうがつようもちをつき、そのとき使つかったお使つかって僧侶そうりょ仏像ぶつぞうきよめる行事ぎょうじ金堂こんどう薬師如来像やくしにょらいぞう日光にっこう菩薩ぼさつぞう月光げっこう菩薩ぼさつぞうのおぬぐだい講堂こうどう東院とういんどうなどかくしょどうでもつづきおいがおこなわれる。
  • 12月31にち 除夜じょやかね 午後ごご1130ふんごろより。

なお、これらの行事ぎょうじ以外いがいにも、大峯山おおみねさんにゅうみね修行しゅぎょう小豆島あずしまはちじゅうはち箇所かしょ巡礼じゅんれいなどの行事ぎょうじもある。

別院べついん

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奉納ほうのうコンサート

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薬師寺やくしじでは、クラシックけい音楽おんがく[31]高校生こうこうせい吹奏楽すいそうがく[32]から、ポピュラー音楽おんがくまで、様々さまざま機会きかい多様たようなジャンルの音楽家おんがくかによる奉納ほうのうコンサートが開催かいさいされている。2001ねんには、さだまさしが「薬師寺やくしじ玄奘三蔵げんしょうさんぞういん伽藍がらんそう供養くよう記念きねんさだまさし薬師寺やくしじ奉納ほうのう公演こうえん」をおこない、その模様もようは『瑠璃光るりこう 薬師寺やくしじライヴ2001』としてライブばんとなった。その2003ねんだい講堂こうどう再建さいけんされてからはだい講堂こうどうぜん特設とくせつ舞台ぶたいをステージとし、金堂こんどうとのあいだせきもうけた屋外おくがいコンサート形式けいしきおおくとられている。2024ねん6がつには、世界せかい遺産いさん薬師寺やくしじひがしとう落慶らっけい記念きねん奉納ほうのう「SYMPHONIC CONCERT in 薬師寺やくしじ」(主催しゅさい:RENAISSANCE CLASSICS)とだいして、工藤くどう静香しずか岩崎いわさき宏美ひろみ&岩崎いわさき良美よしみ麻倉あさくらもも絢香あやかがオーケストラとともに奉納ほうのう公演こうえん披露ひろうする[よう出典しゅってん]。これまでに奉納ほうのうコンサートをおこなったなかには、安全あんぜん地帯ちたい[33][34]AKB48[33]石井いしい竜也たつや[33][35]甲斐かいバンド[36]スターダストレビュー[37]堂本どうもとつよし[38][39]徳永とくなが英明ひであき[40]みなみこうせつ[41][42]などがふくまれている。

前後ぜんご札所ふだしょ

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西国さいごく薬師くすしよんじゅうきゅう霊場れいじょう
1 薬師寺やくしじ - 2 霊山りょうぜんてら
大和やまと北部ほくぶはちじゅうはちヶ所かしょ霊場れいじょう
48 とおるねんてら - 49 薬師寺やくしじ - 50 法隆寺ほうりゅうじ北室きたむろいん
南都七大寺なんとしちだいじ
5 西大寺さいだいじ - 6 薬師寺やくしじ - 7 法隆寺ほうりゅうじ
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみち
24 唐招提寺とうしょうだいじ - 25 薬師寺やくしじ - 26 法隆寺ほうりゅうじ

周辺しゅうへん

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歴代れきだいかんぬし

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 建築けんちくこおれる音楽おんがく」というフレーズはフェノロサ以前いぜんからドイツ使つかわれていたもので、ヨハン・ペーター・エッカーマンの『ゲーテとの対話たいわ』の1829ねん3がつ23にちでも「こおれる音楽おんがく」にあたるerstarrte Musikというフレーズがもちいられており、その初出しょしゅつはフリードリヒ・シェリングの『芸術げいじゅつ哲学てつがく』(1802 - 03ねん)ともわれている(以上いじょう町田まちだかぶといち大和やまと古寺ふるでら巡歴じゅんれき』による)。町田まちだかぶといち寺沢てらさわりゅうらは、フェノロサが薬師寺やくしじひがしとうして「こおれる音楽おんがく」とひょうしたとのせつあやまりであると明言めいげんしている。このけんについては以下いか文献ぶんけん参照さんしょう
    • 町田まちだかぶといち大和やまと古寺ふるでら巡歴じゅんれき』(講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、1989ねん)pp.140 - 144
    • 竹内たけうちあきら<こおれる音楽おんがく>こう:芸術げいじゅつあいだにおける感覚かんかく互換ごかんせいについて」『法政大学ほうせいだいがく教養きょうよう紀要きようだい96ごう法政大学ほうせいだいがく教養きょうよう、1996ねん2がつ、1-26ぺーじdoi:10.15002/00004605hdl:10114/3692ISSN 02882388NAID 120001613919 
    • 寺沢てらさわりゅう薬師寺やくしじ再興さいこう - 白鳳はくほう伽藍がらんけた人々ひとびと -』(くさおもえしゃ、2000ねん
    • 山折やまおり哲雄てつお監修かんしゅう槇野まきのおさむちょ奈良なら寺社じしゃ150をあるく』(PHP新書しんしょ、2010ねん)pp.105 - 107
  2. ^ 台座だいざあらわされた異国いこくふう人物じんぶつぞうについては、『金光かねみつあきらけい』「堅牢けんろう地神ちじんしな」との関連かんれんせつがある(はなとぎしゅう薬師寺やくしじ金堂こんどう薬師如来像やくしにょらいぞう台座だいざあらわされた異形いぎょう意義いぎ」『佛教ぶっきょう藝術げいじゅつ』284ごう)。
  3. ^ 大破たいはしていた四天王してんのうぞうのうち2明治めいじ時代じだい復元ふくげんされ、「木造もくぞう天王てんのう立像りつぞう2」(持国天じこくてん多聞天たもんてん)として1902ねん重要じゅうよう文化財ぶんかざい当時とうじ国宝こくほう)に指定していされた。2006ねん以降いこう寺内てらうち保管ほかんされていた破損はそんふつ断片だんぺん接合はぎあわし、かけしつ補作ほさくして四天王してんのうぞう4復元ふくげんしたものである。調査ちょうさ結果けっかきゅう持国天じこくてんぞう右腕うわん本来ほんらい増長天ぞうちょうてんぞうぞくしていたものであると判明はんめいし、きゅう持国天じこくてんぞううで部分ぶぶんつくなおして、げん広目天こうもくてんぞうとなった。げん持国天じこくてんぞう寺内てらうちにあった破損はそんぼとけ頭部とうぶ補作ほさくするなどして復元ふくげんしたものである。増長天ぞうちょうてんぞう右腕うわんのみがふるいものである。以上いじょうは『国宝こくほう薬師寺やくしじてん図録ずろく岐阜ぎふ歴史れきし博物館はくぶつかん、2011ねん)による。げん持国天じこくてんぞう2008ねん重要じゅうよう文化財ぶんかざい追加ついか指定してい平成へいせい20ねん文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい114ごう)。増長天ぞうちょうてんぞう右腕うわんのみが2009ねん追加ついか指定していされている(平成へいせい21ねん文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい101ごう)。
  4. ^ この経巻きょうかんは、1941ねん重要じゅうよう文化財ぶんかざいきゅう国宝こくほう)に指定していされたとき個人こじん所蔵しょぞうだったもので、のち薬師寺やくしじ所蔵しょぞうとなった。
  5. ^ 東大寺とうだいじ春日大社かすがたいしゃ奈良公園ならこうえん近鉄きんてつJR奈良ならえき方面ほうめんからは薬師寺やくしじバス停ばすてい下車げしゃするのが便利べんりだが、かえりは西ノ京にしのきょうえきバス停ばすていでJR・近鉄きんてつ奈良ならえき奈良公園ならこうえん東大寺とうだいじ春日大社かすがたいしゃ方面かたもきに乗車じょうしゃしたほうい。

出典しゅってん

編集へんしゅう
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  9. ^ 本節ほんぶし記述きじゅつは、特記とっきなきかぎり、以下いかによる。
    • 鈴木すずき嘉吉よしきち薬師寺やくしじしんうつりけんろん - 西にしとううつりけんだった -」『薬師寺やくしじ白鳳はくほう伽藍がらんなぞく』(白鳳はくほう文化ぶんか研究けんきゅうかいへん、2008ねん)pp.11 - 15
    • 週刊しゅうかん朝日あさひ百科ひゃっか 日本にっぽん国宝こくほう 5ごう 薬師寺やくしじ』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1997ねん)pp.4 - 142 - 144(筆者ひっしゃ後藤ごとうおさむ
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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 奈良ならけん』(角川書店かどかわしょてん
  • 国史こくしだい辞典じてん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん
  • 特別とくべつてん図録ずろく国宝こくほう薬師寺やくしじてん』(東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん、2008ねん所収しょしゅう以下いか解説かいせつ
    • 東野とうの治之はるゆき薬師寺やくしじ歴史れきし
    • 金子かねこ啓明ひろあきわか古代こだい 初期しょき律令りつりょう国家こっか理想りそうふつ 薬師寺やくしじ金堂こんどう薬師くすしさん尊像そんぞうについて」
    • 浅見あさみ龍介りゅうすけ金堂こんどう薬師やくし如来にょらい日光にっこう菩薩ぼさつ月光げっこう菩薩ぼさつ制作せいさく年代ねんだい論争ろんそう

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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