(Translated by https://www.hiragana.jp/)
松永長頼 - Wikipedia

松永まつながちょうよりゆき

戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう三好みよし家臣かしん丹波たんば船井ふないぐん八木やぎ城主じょうしゅ備前びぜんもり丹波たんば守護しゅごだい

松永まつなが ちょうよりゆき/内藤ないとう 宗勝むねかつ(まつなが ながより/ないとう そうしょう)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう三好みよし家臣かしん丹波たんばこく船井ふないぐん八木はちぼくじょうおも松永まつなが久秀ひさひでおとうと内藤ないとう如安じょあんちち

 
松永まつなが ちょうよりゆき
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ えいろく8ねん8がつ2にち1565ねん8がつ27にち
改名かいめい 松永まつながちょうよりゆき松永まつなが宗勝むねかつ内藤ないとう宗勝むねかつ[注釈ちゅうしゃく 1]
別名べつめい 甚介(通称つうしょう)、よもぎくものき
官位かんい 備前びぜんもり
主君しゅくん 三好みよし長慶ちょうけい義継よしつぎ
氏族しぞく 松永まつなが内藤ないとう
兄弟きょうだい 久秀ひさひでちょうよりゆき
つま 正室せいしつ内藤ないとう国貞くにさだむすめ
貞勝さだかつ貞弘さだひろ如安じょあん)、ジュリア
テンプレートを表示ひょうじ

生涯しょうがい

三好みよし政権せいけんでの出世しゅっせ

摂津せっつこく東五百住ひがしよすみむら土豪どごうとみられる松永まつながまれで[2][3]あに久秀ひさひでおなじく三好みよし長慶ちょうけい家臣かしんとなった[注釈ちゅうしゃく 2]

天文てんもん18ねん1549ねん)7がつ江口えぐちたたか勝利しょうりした三好みよし長慶ちょうけい細川ほそかわ氏綱うじつなようして上洛じょうらくすると、同年どうねん9がつ[7]にはちょうよりゆき細川ほそかわ氏綱うじつなより山城やましろこく山科やましなななさとあたえられ、また同年どうねん天龍寺てんりゅうじりょう西岡にしおか長井ながいそう下司げすしょく就任しゅうにんした[8]

天文てんもん19ねん1550ねん)7がつ京都きょうとわれた将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてる細川ほそかわはるもと近江おうみこく六角ろっかく定頼さだよりとともに京都きょうとんだが、戦線せんせん膠着こうちゃくし、同年どうねん11がつちょうよりゆき近江おうみこく坂本さかもと侵攻しんこうして放火ほうか[9]三好みよしかた挟撃きょうげきおそれた義輝よしてる中尾なかおしろいて堅田かただ退しりぞいた(中尾なかおじょうたたか[10]

天文てんもん20ねん1551ねん)2がつちょうよりゆきあに久秀ひさひでとともに近江おうみんだが敗北はいぼくした[9]

同年どうねん7がつ細川ほそかわはる元方もとかた三好みよしはじめ香西こうざい元成もとなりが3,000のへい京都きょうとむと、久秀ひさひでちょうよりゆき兄弟きょうだい摂津せっつ河内かわうち大和やまとから40,000の軍勢ぐんぜいあつめ、相国寺しょうこくじやぶった(相国寺しょうこくじたたか[11]

丹波たんば侵攻しんこう

天文てんもん22ねん1553ねん)9がつちょうよりゆき久秀ひさひでとともに丹波たんばこく出陣しゅつじんし、波多野はたの元秀もとひで一族いちぞくはれ元方もとかたいた波多野はたのしげるおや居城きょじょうかずかけ山城やましろ桑田くわたぐん)を包囲ほういする[12]。そのさいはれ元方もとかた援軍えんぐんとしてあらわれた香西こうざい元成もとなり三好みよしはじめ渭に背後はいごかれ、長慶ちょうけいかた丹波たんば守護しゅごだい内藤ないとう国貞くにさだ戦死せんしした[13]落城らくじょう危機ききひんした国貞くにさだ居城きょじょう八木はちぼくじょう船井ふないぐん)には、国貞くにさだむすめ婿むこ[注釈ちゅうしゃく 3]となっていたちょうよりゆき急遽きゅうきょはいり、まもいた[16]

内藤ないとう家督かとくは、ちょうよりゆき国貞くにさだまごにあたるせんしょう(のちの貞勝さだかつ)がぎ、ちょうよりゆきはその後見人こうけんにんとして八木はちぼくじょうざいしろした[17]せんしょう家督かとく継承けいしょうたっては、天文てんもん22ねん(1553ねん)11月、丹波たんば守護しゅごかく細川ほそかわ氏綱うじつな奉行ぶぎょうじん茨木いばらぎちょうたかしつうじて、国貞くにさだちょうよりゆき契約けいやくによりちょうよりゆきせんしょう内藤ないとう家督かとくぐと丹波たんば国人くにびとらにつたえている[18]

しかし、これでは決着けっちゃくかなかったためか、天文てんもん23ねん1554ねん)3がつ国貞くにさだとの契約けいやくによりちょうよりゆき家督かとくぐところ、ちょうよりゆき配慮はいりょによりそのせんしょうぐと氏綱うじつな説明せつめい[19]氏綱うじつなささえる三好みよし長慶ちょうけいちょうよりゆき自身じしん書状しょじょう発給はっきゅうしている[20]ちょうよりゆきはこの直後ちょくご松永まつながよもぎくものき宗勝むねかつ」と名乗なのっており[21]出家しゅっけすることで内藤ないとう意思いしがないと表明ひょうめいしたものとみられる[22]

はれ元方もとかた波多野はたのとのたたかいをまかされた[23]宗勝むねかつは、えいろく2ねん1559ねん)12がつまでに波多野はたのしげるおや波多野はたの次郎じろう帰順きじゅんさせて[24]波多野はたの元秀もとひではち上城かみしろ多紀たきぐん)をうばっており[25]はちうえじょうには一族いちぞく松永まつながまごろくはいった[26]氷上ひかみぐん黒井くろいしろ赤井あかい荻野おぎの直正なおまさ父子ふし播磨はりまこく三木みきったとみられ[27]宗勝むねかつ丹波たんばのほぼ全域ぜんいき席巻せっけんすることとなった[28]

宗勝むねかつ儒学じゅがくしゃ清原きよはらえだけん交流こうりゅうがあり、その祖父そふせんけんしるした『貞永式目じょうえいしきもくしょう』をえだけんからあたえられている[29]。そこには、えいろく2ねん(1559ねん)3がつづけえだけんくわえた奥書おくがきがあり、「しゅう太守たいしゅよもぎくも宗勝むねかつ」とある[30]当時とうじ独自どくじ裁定さいてい所領しょりょう安堵あんどおこなうようになり、丹波たんば国内こくない寺院じいん禁制きんせい発給はっきゅうするようになっていた宗勝むねかつは、丹波たんば太守たいしゅともしょうされていた[31]

えいろく3ねん1560ねん)、波多野はたの元秀もとひで与党よとうとみられる丹波たんばろうじん若狭わかさのがれていたのを、逸見いつみけいとうと加勢かせいもありやぶった[32]同年どうねん9がつには丹後たんご金剛心こんごうしんいん禁制きんせいすなどしており、若狭わかさ丹後たんご軍事ぐんじ行動こうどうかえしている[32]。また、若狭わかさでは武田たけだからの自立じりつ目指めざ逸見いつみ武田たけだあらそっていたが、宗勝むねかつ逸見いつみ味方みかたした[33]

えいろく4ねん1561ねん)、せんしょう備前びぜんもり貞勝さだかつ名乗なのっているのが確認かくにんでき[34]貞勝さだかつえいろく3ねん(1560ねん)12がつまでに元服げんぷくして、名実めいじつともに内藤ないとう当主とうしゅ地位ちいいたとかんがえられる[35]。しかし、貞勝さだかつなんらかの理由りゆう家督かとくからはずれ、えいろく5ねん1562ねん)には宗勝むねかつ備前びぜんもり名乗なのり、内藤ないとう当主とうしゅとなっていた[36]。こうして内藤ないとう継承けいしょうした宗勝むねかつ三好みよし長慶ちょうけい後見こうけんすることで、摂津せっつ守護しゅごだいだった長慶ちょうけい細川ほそかわ氏綱うじつなした同格どうかくだった丹波たんば守護しゅごだい内藤ないとう従属じゅうぞくさせることとなった[37]

丹波たんば以外いがいでも長慶ちょうけいした軍事ぐんじ行動こうどうつづけ、えいろく元年がんねん1558ねん)5がつ義輝よしてるはれはじめらが近江おうみから上洛じょうらくくわだてるとあにとも将軍しょうぐん山城やましろ如意ヶ嶽にょいがだけ幕府ばくふぐん交戦こうせん北白川きたしらかわたたか)、えいろく2ねん(1559ねん)とよく3ねん(1560ねん)のかわ内国ないこく遠征えんせいにも従軍じゅうぐんえいろく5ねん(1562ねん)のはたけ山高やまたかまさしとのたたかい(教興寺きょうこうじたたか)にも丹波たんばこくしゅひきいて出陣しゅつじんしており、三好みよし政権せいけんした有力ゆうりょく軍団ぐんだんちょうであったといえる[38]

最期さいご

えいろく4ねん(1561ねん)6がつ宗勝むねかつ逸見いつみ若狭わかさ高浜たかはまたたかいで、武田たけだとそれに加勢かせいする越前えちぜん朝倉あさくらやぶれた[39]。そのため、丹波たんばなに鹿しかぐんしゅうは、再興さいこう目指めざ赤井あかい荻野おぎのかたになったものとみられる[40]

えいろく5ねん1562ねん)、波多野はたの元秀もとひで多紀たきぐんない土豪どごうらにしょやく免除めんじょ文書ぶんしょ発給はっきゅうはじめており、いきおいをもどしていた[41]

えいろく7ねん1564ねん)7がつ三好みよし長慶ちょうけい死去しきょして、養子ようし義継よしつぎ三好みよし家督かとく[42]えいろく8ねん1565ねん)5がつ軍勢ぐんぜいひきいて上洛じょうらくした義継よしつぎ将軍しょうぐん義輝よしてる殺害さつがいするというえいろくへんきた[43]

同年どうねん8がつ2にち[39]宗勝むねかつ荻野おぎの直正なおまさたたかってやぶれ、700のへい[44](『げんつぎきょう』によると260めい[45])とともに討死うちじにした[46]場所ばしょ天田あまだぐんなに鹿しかぐんのいずれかとされる[40]。こののちえいろく9ねん1566ねん)2がつに、松永まつながまごろく波多野はたの元秀もとひでによりはちうえじょううばかえされており、三好みよし丹波たんばうしなうこととなった[47]内藤ないとう家督かとく貞弘さだひろ如安じょあん)がいだ[48]

脚注きゃくちゅう

注釈ちゅうしゃく

  1. ^ 松永まつなが甚介ちょうよりゆき松永まつながよもぎくものき宗勝むねかつ内藤ないとうよもぎくものき宗勝むねかつ内藤ないとう備前びぜんもり宗勝むねかつ名乗なのりが変化へんかした[1]
  2. ^ ちょうよりゆき久秀ひさひで関係かんけいについて、はやくから軍事ぐんじてき才幹さいかんしめしたちょうよりゆき戦功せんこうにより、右筆ゆうひつ地位ちいからせていなかったあに久秀ひさひで後年こうねん台頭たいとうすることができたともされる[4]。 しかし、久秀ひさひで天文てんもん9ねん(1540ねん)の時点じてんすで三好みよし長慶ちょうけい奉行ぶぎょうじん地位ちいにあり、天文てんもん11ねん(1542ねん)11月には長慶ちょうけいいのち久秀ひさひで大和やまと侵攻しんこうするといううわさひろがるなど、一軍いちぐんしょうとしても認識にんしきされていた[5]。また、ちょうよりゆきはじめて史料しりょうあらわれたのとおなごろ天文てんもん18ねん(1549ねん)12月、久秀ひさひで本願寺ほんがんじしょうから長慶ちょうけいおなさんしゅ礼物れいもつおくられており、当時とうじすで長慶ちょうけい筆頭ひっとう家臣かしん地位ちいにあったといえる[6]
  3. ^ ちょうよりゆき国貞くにさだむすめとの婚姻こんいんについて、守護しゅごだいかくである内藤ないとう三好みよし家臣かしん無名むめい国人くにびとだった松永まつながとでは家格かかくわないが[14]細川ほそかわ氏綱うじつなから山科やましなあたえられたちょうよりゆき国貞くにさだおなじく氏綱うじつなちょくしんかくとみなされ、氏綱うじつなによる斡旋あっせんがあった可能かのうせいかんがえられる[15]

出典しゅってん

  1. ^ 福島ふくしま 2014, p. 126.
  2. ^ 天野あまの 2018, pp. 28–31.
  3. ^ 中西なかにし裕樹ゆうき ちょ松永まつなが久秀ひさひで出自しゅつじ末裔まつえい」、天野あまの忠幸ただゆき へん松永まつなが久秀ひさひでゆがめられた戦国せんごくの"梟雄きょうゆう"の実像じつぞう―』みやたい出版しゅっぱんしゃ、2017ねん、30 - 40ぺーじISBN 978-4-8016-0057-7 
  4. ^ 今谷いまたにあきら戦国せんごくさんこう一族いちぞく新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1985ねん、149 - 152、188ぺーじISBN 4-404-01262-4 
  5. ^ 天野あまの 2018, pp. 37–38.
  6. ^ 天野あまの 2018, pp. 42–43.
  7. ^ 福島ふくしま 2009, p. 105.
  8. ^ 福島ふくしま 2009, pp. 105–106; 高橋たかはし 2017, p. 42; 天野あまの 2018, pp. 42–43.
  9. ^ a b 天野あまの 2018, p. 44.
  10. ^ 福島ふくしま 2009, p. 107; 天野あまの 2018, p. 44.
  11. ^ 福島ふくしま 2009, p. 108; 天野あまの 2018, p. 45.
  12. ^ 福島ふくしま 2009, pp. 112–113; 天野あまの 2018, p. 64.
  13. ^ 福島ふくしま 2009, p. 113; 天野あまの 2018, p. 64.
  14. ^ 天野あまの 2018, p. 65.
  15. ^ 天野あまの忠幸ただゆき三好みよし一族いちぞく戦国せんごく最初さいしょの「天下てんかじん」』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、2021ねん、83 - 84ぺーじISBN 978-4-12-102665-1 
  16. ^ 福島ふくしま 2014, p. 127; 天野あまの 2018, p. 65.
  17. ^ 福島ふくしま 2009, p. 113; 天野あまの 2018, pp. 65–66.
  18. ^ 福島ふくしま 2014, pp. 128, 130; 天野あまの 2018, p. 65; うま 2018, pp. 709–710.
  19. ^ 福島ふくしま 2014, pp. 129–131; 天野あまの 2018, p. 65; うま 2018, p. 709.
  20. ^ 福島ふくしま 2014, pp. 129–131; 天野あまの 2018, p. 65.
  21. ^ 福島ふくしま 2014, p. 134.
  22. ^ うま 2018, p. 712.
  23. ^ 天野あまの 2018, p. 66.
  24. ^ 福島ふくしま 2009, p. 120.
  25. ^ 福島ふくしま 2009, p. 120; 高橋たかはし 2017, pp. 47–48; 天野あまの 2018, p. 116.
  26. ^ 福島ふくしま 2009, p. 120; 天野あまの 2018, p. 116; 高橋たかはし 2020, p. 18.
  27. ^ 福島ふくしま 2014, p. 135; 高橋たかはし 2020, pp. 18–19.
  28. ^ 福島ふくしま 2014, p. 135.
  29. ^ 田中たなか 2013, p. 149; 高橋たかはし 2017, p. 51; 天野あまの 2018, pp. 155–156.
  30. ^ 田中たなか 2013, p. 149.
  31. ^ 田中たなか 2013, pp. 148–151; 高橋たかはし 2017, pp. 49, 51.
  32. ^ a b 天野あまの 2018, p. 116.
  33. ^ 天野あまの 2018, pp. 116–117.
  34. ^ 福島ふくしま 2014, pp. 135–136; うま 2019, p. 61.
  35. ^ うま 2019, p. 62.
  36. ^ 福島ふくしま 2014, pp. 134, 136; うま 2019, p. 61.
  37. ^ 天野あまの 2018, pp. 66–67.
  38. ^ 長江ちょうこう 1989, pp. 152–153, 155–159, 173; 今谷いまたに 2007, pp. 184–188, 203–208, 214–224, 230, 241; 福島ふくしま 2009, pp. 112–116, 118–120.
  39. ^ a b 天野あまの 2018, p. 204.
  40. ^ a b 高橋たかはし 2020, p. 19.
  41. ^ 福島ふくしま 2009, p. 131.
  42. ^ 福島ふくしま 2009, p. 126; 天野あまの 2018, pp. 192–193.
  43. ^ 天野あまの 2018, p. 195.
  44. ^ 福島ふくしま 2009, p. 130; 高橋たかはし 2020, p. 19.
  45. ^ 福島ふくしま 2009, p. 130.
  46. ^ 福島ふくしま 2009, p. 130; 天野あまの 2018, p. 204; 高橋たかはし 2020, p. 19.
  47. ^ 福島ふくしま 2009, p. 131; 天野あまの 2018, p. 204.
  48. ^ 福島ふくしま 2014, pp. 140–155.

参考さんこう文献ぶんけん

関連かんれん項目こうもく