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武家伝奏 - Wikipedia

武家ぶけ伝奏てんそう(ぶけてんそう)は、室町むろまち時代ときよから江戸えど時代じだいにかけての朝廷ちょうていにおける職名しょくめいひとつ。公卿くぎょうにんじられ、武家ぶけ奏請そうせい朝廷ちょうてい役目やくめたした。

概要がいよう

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たてたけし新政しんせいさいかれ、室町むろまち幕府ばくふがこれを制度せいどした。やくりょうはそれぞれ250たわらあたえられ、このほか官位かんいろくぶつ配当はいとうがあった。定員ていいん江戸えど時代じだいには2めい

江戸えど幕府ばくふしたでは、1603ねん慶長けいちょう8ねん)に設置せっちされ、幕末ばくまつ1867ねん慶応けいおう3ねん)までつづいた。

沿革えんかく

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室町むろまち時代ときよ

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室町むろまち時代じだいには武家ぶけ伝奏てんそう改元かいげん任官にんかん幕府ばくふ通告つうこくし、公武こうぶあいだ意思いし疎通そつうはかった。また、足利あしかが義満よしみつ以後いご武家ぶけ伝奏てんそう経由けいゆして室町むろまち殿どの政治せいじてき要求ようきゅう朝廷ちょうていつたえる役目やくめたした。ただし、武家ぶけ伝奏てんそう形態けいたいかたまったのは戦国せんごく時代じだいえいただし年間ねんかん以後いごである。また、室町むろまち幕府ばくふにおいては足利あしかが将軍家しょうぐんけ外戚がいせきとして有力ゆうりょく公家くげである日野ひの近衛このえ両家りょうけがあり、こうしたいえ朝廷ちょうてい幕府ばくふ仲介ちゅうかい場合ばあいもあった。

江戸えど時代じだい

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江戸えど屏風びょうぶ』にある伝奏てんそう屋敷やしき

江戸えど時代じだいには学問がくもんすぐれて弁舌べんぜつたくみな大納言だいなごんきゅう公卿くぎょう伝奏てんそうにんじられ、就任しゅうにんさいには京都きょうと所司代しょしだいより血判けっぱん提出ていしゅつもとめられた。幕府ばくふたいする勅使ちょくしには武家ぶけ伝奏てんそうにんじられ、幕府ばくふによる朝政ちょうせいへの介入かいにゅうつよまるようになって以降いこう摂関せっかんそうとの合議ごうぎ朝廷ちょうてい運営うんえい関与かんよするようになった。この時代じだい伝奏てんそう任命にんめいには幕府ばくふ許可きょか必要ひつようであるが、任命にんめい方法ほうほうおな江戸えど時代じだいでも変遷へんせんがあり、江戸前えどまえ幕府ばくふ人選じんせん決定けっていし、朝廷ちょうてい追認ついにんするのみであった。中期ちゅうきごろから朝廷ちょうてい人選じんせんし、幕府ばくふ基本きほんてき許可きょか関係かんけいへと移行いこうした[注釈ちゅうしゃく 1]幕末ばくまつには、朝廷ちょうてい人選じんせんたいする幕府ばくふ拒否きょひけんがなくなり、事後じご報告ほうこくけるのみとなった。前期ぜんき幕府ばくふ朝廷ちょうてい抑制よくせい政策せいさくのため、中期ちゅうきごろはだれつとめても大差たいさがなくなり幕府ばくふにとって人選じんせん利益りえきうすくなってきたため、幕末ばくまつ朝廷ちょうてい幕府ばくふあいだ権力けんりょく関係かんけい逆転ぎゃくてんしたためとかんがえられる。

王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいともな廃止はいしされた。

武家ぶけ伝奏てんそう一覧いちらん

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補任ほにんじゅん配列はいれつすることを原則げんそくとしたが、室町むろまち時代ときよ末期まっきからゆたか政権せいけんにかけての伝奏てんそうについてはなお検討けんとう余地よちがある。
以下いか一覧いちらんちゅうさい再任さいにん(臨)臨時りんじ代行だいこうしめす。

室町むろまち時代ときよ

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ゆたか時代じだい

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江戸えど時代じだい

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補任ほにん 解任かいにん*しるし死没しぼつによる解任かいにん
広橋ひろはしけんかち 慶長けいちょう8ねん2がつ12にち1603ねん3月24にち 元和がんわ8ねん12月18にち1623ねん1がつ18にち*
勧修寺かんしゅうじこうゆたか 慶長けいちょう8ねん2がつ12にち(1603ねん3がつ24にち[注釈ちゅうしゃく 2] 慶長けいちょう17ねん10月27にち1612ねん11月19にち*
三条西さんじょうにしみのるじょう 慶長けいちょう18ねん7がつ11にち1613ねん8がつ26にち 寛永かんえい17ねん10月9にち1640ねん11月22にち*
中院なかのいん通村みちむら 元和がんわ9ねん10月28にち(1623ねん12月19にち 寛永かんえい7ねん9月15にち1630ねん10がつ20日はつか
日野ひのしょう 寛永かんえい7ねん9がつ15にち(1630ねん10がつ20日はつか 寛永かんえい16ねん6月15にち1639ねん7がつ15にち*
今出川いまでがわけい 寛永かんえい16ねん8がつ13にち(1639ねん9がつ10日とおか 慶安けいあん5ねん2がつ7にち1652ねん3月16にち
飛鳥井あすかい雅宣まさのぶ 寛永かんえい17ねん12月28にち1641ねん2がつ8にち 慶安けいあん4ねん3月21にち1651ねん5がつ10日とおか*
野宮のみやじょういっ 慶安けいあん5ねん2がつ7にち(1652ねん3がつ16にち あかりれき4ねん2がつ15にち1658ねん3月18にち*
清閑寺せいかんじどもぼう 慶安けいあん5ねん2がつ7にち(1652ねん3がつ16にち 寛文ひろふみ元年がんねん7がつ24にち1661ねん8がつ18にち
勧修寺かんしゅうじけいひろ あかりれき4ねん7がつ10日とおか(1658ねん8がつ8にち 寛文ひろふみ4ねん10月6にち1664ねん11月23にち
飛鳥井あすかい雅章まさあき 寛文ひろふみ元年がんねん9月27にち(1661ねん11月18にち 寛文ひろふみ10ねん9がつ10日とおか1670ねん10月23にち
正親おうぎまち実豊みとよ 寛文ひろふみ4ねん10がつ6にち(1664ねん11月23にち 寛文ひろふみ10ねん9月12にち(1670ねん10月25にち
日野ひのひろし 寛文ひろふみ10ねん9月15にち(1670ねん10月28にち のべたから3ねん5月18にち1675ねん7がつ10日とおか
中院なかのいん通茂みちしげ 寛文ひろふみ10ねん9がつ15にち(1670ねん10がつ28にち のべたから3ねん2がつ10日とおか(1675ねん3月6にち
花山院かさんのいんじょうまこと のべたから3ねん2がつ10日とおか(1675ねん3がつ6にち 貞享ていきょう元年がんねん8がつ23にち1684ねん10月2にち
千種ちくさ有能ゆうのう のべたから3ねん5がつ18にち(1675ねん7がつ10日とおか 天和てんわ3ねん11月27にち(1684ねん1がつ13にち
甘露かんろ寺方てらかたちょう 天和てんわ3ねん11月28にち(1684ねん1がつ14にち 貞享ていきょう元年がんねん12月27にち1685ねん1がつ31にち
千種ちくさゆう 貞享ていきょう元年がんねん9がつ28にち(1684ねん11月5にち 元禄げんろく5ねん11月23にち1692ねん12月30にち
やなぎ原資げんしれん 貞享ていきょう元年がんねん12がつ27にち(1685ねん1がつ31にち 宝永ほうえい5ねん12月13にち1709ねん1がつ23にち
持明院じみょういんもと 元禄げんろく5ねん12月12にち1693ねん1がつ17にち 元禄げんろく6ねん8がつ16にち(1693ねん9月15にち
正親町おおぎまちこうどおり 元禄げんろく6ねん8がつ16にち(1693ねん9がつ15にち 元禄げんろく13ねん2がつ6にち1700ねん3月26にち
高野たかのたもつはる 元禄げんろく13ねん6月28にち(1700ねん8がつ12にち 正徳まさのり2ねん5月24にち1712ねん6月27にち
庭田にわたしげるじょう 宝永ほうえい5ねん12月23にち(1709ねん2がつ2にち とおる3ねんうるう10がつ1にち1718ねん11月22にち
徳大寺とくだいじこうぜん 正徳まさのり2ねん6月26にち(1712ねん7がつ29にち とおる4ねん11月30にち1720ねん1がつ9にち
中院なかのいんとおる とおる3ねんうるう10がつ1にち(1718ねん11月22にち とおる11ねん9月15にち1726ねん10がつ10日とおか
中山なかやまけんおや とおる4ねん12月23にち(1720ねん2がつ1にち とおる19ねん10月24にち1734ねん11月19にち
えんもと とおる11ねん9月21にち(1726ねん10月16にち とおる16ねん8がつ9にち1731ねん9月9にち
三条西さんじょうにしこうぶく とおる16ねん9月2にち(1731ねん10月2にち とおる19ねん11月7にち(1734ねん12月1にち
葉室はむろよりゆきたね とおる19ねん11月7にち(1734ねん12月1にち のべとおる4ねん12月19にち1748ねん1がつ19にち
冷泉れいせんためひさし とおる19ねん11月22にち(1734ねん12月16にち ひろし元年がんねん8がつ29にち1741ねん10月8にち*
久我くがとおるけい ひろし元年がんねん9月19にち(1741ねん10月28にち 寛延かんえい3ねん6月21にち1750ねん7がつ24にち
柳原やなぎはらひかりつな のべとおる4ねん12月19にち(1748ねん1がつ19にち たかられき10ねん9月28にち1760ねん11月5にち*
広橋ひろはし兼胤かねたね 寛延かんえい3ねん6がつ21にち(1750ねん7がつ24にち 安永やすなが5ねん12月25にち1777ねん2がつ3にち
あね小路こうじ公文こうぶん たかられき10ねん10月19にち(1760ねん11月26にち 安永やすなが3ねん10月18にち1774ねん11月21にち
あぶら小路しょうじたかしまえ 安永やすなが3ねん10がつ18にち(1774ねん11月21にち 天明てんめい8ねん1がつ11にち1788ねん2がつ17にち
久我くが信通のぶみち 安永やすなが5ねん12月25にち(1777ねん2がつ3にち 寛政かんせい3ねん11月23にち1791ねん12月18にち
万里小路まりこうじせいぼう 天明てんめい8ねん1がつ11にち(1788ねん2がつ17にち 寛政かんせい5ねん4がつ13にち1793ねん5月22にち
正親町おおぎまち公明こうめい 寛政かんせい3ねん12月25にち1792ねん1がつ18にち 寛政かんせい5ねん4がつ28にち(1793ねん6月6にち
勧修寺かんしゅうじけいいっ 寛政かんせい5ねん7がつ26にち(1793ねん9月1にち とおる3ねん12月22にち1804ねん2がつ3にち
千種ちくさゆうせい 寛政かんせい5ねん7がつ26にち(1793ねん9がつ1にち 文化ぶんか7ねん5月22にち1810ねん6月23にち
広橋ひろはしこう とおる3ねん12月22にち(1804ねん2がつ3にち 文化ぶんか10ねん9月15にち1813ねん10月8にち
ろくじょうゆういさお 文化ぶんか7ねん5がつ22にち(1810ねん6がつ23にち 文化ぶんか14ねん8がつ12にち1817ねん9月22にち
山科やましな忠言ちゅうげん 文化ぶんか10ねん9がつ15にち(1813ねん10がつ8にち 文政ぶんせい5ねん6月13にち1822ねん7がつ30にち
広橋ひろはしたねじょう 文化ぶんか14ねん8がつ12にち(1817ねん9がつ22にち 天保てんぽう2ねん1がつ20日はつか1831ねん3月4にち
甘露かんろてら国長くにおさ 文政ぶんせい5ねん6がつ13にち(1822ねん7がつ30にち 天保てんぽう7ねん8がつ27にち1836ねん10月7にち
徳大寺とくだいじみのるけん 天保てんぽう2ねん1がつ20日はつか(1831ねん3がつ4にち ひろし5ねん2がつ9にち1848ねん3月13にち
日野ひのあい 天保てんぽう7ねん8がつ27にち(1836ねん10がつ7にち ひろし2ねん10月22にち1845ねん11月21にち
ぼうじょう俊明としあき ひろし2ねん10がつ22にち(1845ねん11月21にち よしみひさし7ねん6月30にち1854ねん7がつ24にち
三条さんじょう実万さねつむ ひろし5ねん2がつ9にち(1848ねん3がつ13にち 安政あんせい4ねん4がつ27にち1857ねん5がつ20日はつか
東坊城ひがしぼうじょうさとしちょう よしみひさし7ねん6がつ30にち(1854ねん7がつ24にち 安政あんせい5ねん3月17にち1858ねん4がつ30にち
広橋ひろはし光成みつなり 安政あんせい4ねん4がつ27にち(1857ねん5がつ20日はつか 文久ぶんきゅう2ねんうるう8がつ5にち1862ねん9月28にち
万里小路まりこうじせいぼう 安政あんせい5ねん5月1にち(1858ねん6月11にち 安政あんせい6ねん1がつ17にち1859ねん2がつ19にち
ぼうじょう俊克としかつ 安政あんせい6ねん2がつ9にち(1859ねん3月13にち 文久ぶんきゅう3ねん6月21にち1863ねん8がつ5にち
野宮のみやじょういさお 文久ぶんきゅう2ねん11月7にち(1862ねん12月27にち 慶応けいおう3ねん4がつ17にち1867ねん5がつ20日はつか
飛鳥井あすかい雅典まさのり 文久ぶんきゅう3ねん6月22にち(1863ねん8がつ6にち 慶応けいおう3ねん12月9にち1868ねん1がつ3にち廃止はいし
ぼうじょう俊克としかつさい 文久ぶんきゅう4ねん1がつ23にち1864ねん3月1にち 元治もとはる元年がんねん7がつ26にち(1864ねん8がつ27にち
日野ひのむね 慶応けいおう3ねん4がつ19にち(1867ねん5月22にち 慶応けいおう3ねん12月9にち(1868ねん1がつ3にち廃止はいし

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ この転換てんかん元禄げんろく13ねん(1700ねん)に東山ひがしやま天皇てんのう幕府ばくふ無断むだん武家ぶけ伝奏てんそうである正親町おおぎまちこうどおり罷免ひめんした事件じけんをきっかけにしたとする見方みかたがある。将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよし側近そっきん柳沢やなぎさわ吉保よしやす縁戚えんせきであった正親町おおぎまち任命にんめいたいする不満ふまん朝廷ちょうていないにあり、天皇てんのう武家ぶけ伝奏てんそうへの人事じんじけん主張しゅちょうしてその罷免ひめん強行きょうこうしたさいには、正親おうぎまち不満ふまんいだ関白かんぱく京都きょうと所司代しょしだいもこれをめることなくみとめてしまい、幕府ばくふがこれをったときにはときおそしであった[1]
  2. ^ 通説つうせつでは、広橋ひろはしけんしょう勧修寺かんしゅうじこうゆたか同時どうじにんじられたとされているが、『お殿上てんじょう日記にっき慶長けいちょう8ねん3がつ24にちじょうには「ひろはし大納言だいなごんにてんそうおおせつけらるゝ」と広橋ひろはし名前なまえされて記載きさいしておらず、広橋ひろはし多忙たぼうによって後日ごじつ勧修寺かんしゅうじ追加ついかして任命にんめいされた可能かのうせいがある[2]

出典しゅってん

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  1. ^ 山口やまぐち和夫かずおれいもと院政いんせいについて」(初出しょしゅつ今谷いまたにあきらこう利彦としひこ へんちゅう近世きんせい宗教しゅうきょう国家こっか』(岩田いわた書院しょいん、1998ねん)/所収しょしゅう山口やまぐち近世きんせい日本にっぽん政治せいじ朝廷ちょうてい』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2017ねんISBN 978-4-642-03480-7) 2017ねん、P229.
  2. ^ 田中たなかあきらりゅう寛政かんせい尊号そんごういちけん風説ふうせつしょ展開てんかい」『近世きんせい公家くげ社会しゃかい幕府ばくふ』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2020ねんISBN 978-4-642-04331-1 P210-211.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 国史こくしだい辞典じてん だい12かん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1991ねんISBN 9784642005128
  • 永原ながはらけい監修かんしゅう石上いしがみ英一ひでかずへん岩波いわなみ日本にっぽん辞典じてん岩波書店いわなみしょてん、1999ねんISBN 9784000800938
  • 平井ひらい誠二せいじ武家ぶけ伝奏てんそう補任ほにんについて」(『日本にっぽん歴史れきしだい422ごう 吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1983ねん7がつNCID AN00198834
  • 川田かわた貞夫さだお本田ほんだとし武家ぶけ伝奏てんそうそう一覧いちらん」(今井いまいへん日本にっぽん総覧そうらん まき2(通史つうし)』 新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1986ねんISBN 9784404013620
  • 瀬戸せとかおる室町むろまち武家ぶけ伝奏てんそう補任ほにんについて」(『日本にっぽん歴史れきしだい543ごう 吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1993ねん8がつNCID AN00198834
  • 伊藤いとうしんあきらゆたか伝奏てんそうかんするいち考察こうさつ」(『史学しがく雑誌ざっしだい107へんだい2ごう 史学しがくかい、1998ねん2がつNCID AN0010024X
  • 編者へんしゃ神田かんだ裕理ゆり監修かんしゅう::日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい伝奏てんそうばれた人々ひとびとミネルみねるァ書房ぁしょぼう 2017ねん12月、ISBN 978-4-623-08096-0

関連かんれん項目こうもく

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