(Translated by https://www.hiragana.jp/)
綸旨 - Wikipedia

綸旨りんじ

蔵人所くろうどどころ天皇てんのうけて発給はっきゅうする命令めいれい文書ぶんしょ

綸旨りんじ(りんじ)とは、蔵人くろうどところ(くろうどどころ)が天皇てんのうけて発給はっきゅうする命令めいれい文書ぶんしょ綸旨りんじとは本来ほんらいは「綸言りんげんむね」のりゃくであり、天皇てんのうそのものをしていたが、平安へいあん時代じだい中期ちゅうき以後いご天皇てんのうくちせんもとにして蔵人くろうど作成さくせい発給はっきゅうした公文書こうぶんしょ要素ようそった奉書ほうしょすようになった。綸旨りんじ(ごりんじ・ごりんし)ともぶ。

後光ごこうげん天皇てんのう綸旨りんじ

概説がいせつ

編集へんしゅう

太政官だじょうかん正式せいしき手続てつづき必要ひつよう詔書しょうしょ勅書ちょくしょや、発給はっきゅうされるまでに蔵人くろうどうえきょうべんかんなど複数ふくすう役人やくにんあいだ伝言でんごんがなされた宣旨せんじたいし、綸旨りんじ手続てつづきが一層いっそう簡略かんりゃくされ、蔵人くろうどが「綸言りんげん以下いかとおり」(書出かきだ部分ぶぶんならば「こうむ綸旨りんじうん/綸言りんげんうん」・しょ部分ぶぶんならば「綸言りんげん如此/天気てんき如此」という文言もんごん)といて自分じぶん名義めいぎ発行はっこうするという形式けいしきった。

本来ほんらい公式こうしき詔勅しょうちょくたい私的してきなものであったが、内容ないよう政治せいじ軍事ぐんじなどにかんするものがおおく、結果けっかとして、公文書こうぶんしょ性質せいしつびていた。

ただし、重大じゅうだい法令ほうれいなどは依然いぜんとして正式せいしき詔書しょうしょ勅書ちょくしょとしてされる場合ばあいおおく、綸旨りんじ発給はっきゅうされたのは、特定とくてい相手あいてのみを対象たいしょうとした命令めいれい臨時りんじ命令めいれいなどがおもであった。

はっせられた綸旨りんじなかには、木地きじ特定とくてい地域ちいき山林さんりん自由じゆう伐採ばっさい許可きょかするとしたものもあった[1]

沿革えんかく

編集へんしゅう

1028ねん万寿まんす5ねん)4がつ12にちづけ仁海にんかいてた後一条天皇ごいちじょうてんのう綸旨りんじ醍醐寺だいごじ三宝さんぼういんぞういのり日記にっき所載しょさい)が初出しょしゅつである[2]とく院政いんせい廃止はいしした後醍醐天皇ごだいごてんのう綸旨りんじ院宣いんぜんわる文書ぶんしょ位置いちづけたたてたけし年間ねんかんから南北なんぼくあさ時代じだいにかけていちじるしいりょう綸旨りんじされ、史料しりょうとしても重要じゅうようなものがおおい(たてたけし新政しんせい)。一方いっぽうでは、じょう河原かわはら落書らくがきに「此頃ニハヤルぶつ 夜討ようち 強盗ごうとう はかりごと綸旨りんじ・・・」とあるように綸旨りんじ偽造ぎぞう横行おうこうした。

後世こうせいにおいては、製造せいぞう高度こうど技術ぎじゅつ必要ひつようとして経費けいひ相応そうおうにかかる白紙はくしではなく、低廉ていれん非常時ひじょうじ綸旨りんじ発給はっきゅうそなえやすい中古ちゅうこからの再生さいせいである薄墨うすずみ宿やど/漉返)が用紙ようしとしてもちいられるようになり、のち綸旨りんじには薄墨うすずみもちいること書式しょしきとする慣例かんれい成立せいりつしたために、薄墨うすずみを「綸旨りんじ」、綸旨りんじ自体じたいを「薄墨うすずみ綸旨りんじ」とれいられるようになった。

ただし、天皇てんのうから蔵人くろうどあたま蔵人くろうど以外いがいかんじんべんかんなど)にたいして作成さくせい発給はっきゅうめいじられた場合ばあいには薄墨うすずみもちいられていない。

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ 大聖寺だいしょうじ川上かわかみ流域りゅういき歴史れきし大聖寺川だいしょうじがわうえ流域りゅういき歴史れきし編纂へんさん委員いいんかい、ホクトインサツ、小松こまつまち原著げんちょ2009-04-05)、初版しょはん、120ぺーじ
  2. ^ 相田あいだ二郎じろう日本にっぽん古文書こもんじょ うえ』(岩波書店いわなみしょてん、1949ねん

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう

外部がいぶリンク

編集へんしゅう