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武田元明 - Wikipedia

武田たけだ元明もとあき

戦国せんごく時代じだい安土あづち桃山ももやま時代じだい守護しゅご大名だいみょう若狭わかさ武田たけだ当主とうしゅ

武田たけだ 元明もとあき(たけだ もとあき)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょう若狭わかさこく守護しゅご大名だいみょう武田たけだ義統よしむねで、若狭わかさ武田たけだだい9だい当主とうしゅ後瀬のちせ山城やましろきゅう若狭わかさ小浜おばまじょうおもいみなは、元次もとつぐ(もとつぐ)ともいう[4]

 
武田たけだ 元明もとあき
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん えいろく5ねん1562ねん[注釈ちゅうしゃく 1]または天文てんもん21ねん1552ねん[1]
死没しぼつ 天正てんしょう10ねん7がつ19にち1582ねん8がつ7にち
改名かいめい まご犬丸いぬまる[2]/まごけん[3]幼名ようみょう)、元明もとあき
別名べつめい 元次もとつぐ[4]通称つうしょうまご八郎はちろう[3]
法名ほうみょう:紹昌[1]みちごうぶんはじめ[1]
戒名かいみょう 法雲寺ほううんじ殿どのぶんはじめ紹昌だい禅定ぜんじょうもん
墓所はかしょ 滋賀しがけん高島たかしまマキノまち海津かいづあまさんたから幢院薬師寺やくしじ
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ若狭わかさ守護しゅご
主君しゅくん 朝倉あさくら義景よしかげ織田おだ信長のぶなが明智あけち光秀みつひで
氏族しぞく 若狭わかさ武田たけだ
父母ちちはは ちち武田たけだ義統よしむねはは足利あしかが義晴よしはるむすめ
つま 正室せいしつ京極きょうごく竜子りゅうこ京極きょうごくだかきちむすめ
津川つがわ義勝よしかつ女子じょし
特記とっき
事項じこう
  • 元明もとあき正室せいしつ京極きょうごくとのあいだまれた男子だんし木下きのした勝俊かつとしとして北政所きたのまんどころひそかに保護ほごし、素性すじょういつわって養育よういくしたという異説いせつがある。木下きのしたとしぼうあに同様どうよう伝承でんしょうがある)。
  • 類従るいじゅうほん明智あけち系図けいず』では光秀みつひで武田たけだ義統よしむねいもうとははとするので元明もとあきとは従兄弟いとこ関係かんけいになる[5]
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生涯しょうがい

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えいろく5ねん1562ねん)または天文てんもん21ねん1552ねん)、若狭わかさ武田たけだ当主とうしゅ武田たけだ義統よしむね義元よしもと)のとして誕生たんじょうした。はは室町むろまち幕府ばくふの12だい将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはるむすめ[3]義輝よしてる義昭よしあきいもうと推定すいてい[6])である。幼名ようみょうまご犬丸いぬまる

えいろく9ねん1566ねん)、次期じき将軍しょうぐんうかが足利あしかが義昭よしあき若狭わかさ武田たけだ保護ほごもとめて若狭わかさはいるが、義統よしむね反発はんぱつする被官ひかんたちがもとあかり擁立ようりつして反抗はんこうはじめたために上洛じょうらくすることが出来できず、義昭よしあき越前えちぜんこく戦国せんごく大名だいみょう朝倉あさくら義景よしかげたよった[7]

えいろく10ねん1567ねん)4がつちち死去しきょしたため、元明もとあき家督かとくいで当主とうしゅとなるが、国内こくない状況じょうきょう不安定ふあんてい状態じょうたいつづいた[2]。かつて応仁おうにんらんでは副将ふくしょうつとめた若狭わかさ武田たけだはすでに衰退すいたいしていた。若狭わかさ守護しゅごだい内藤ないとう内藤ないとう筑前ちくぜんもり若狭わかさたかしじょうとう山城やましろ天筒てづつさんに、有力ゆうりょく被官ひかん逸見いつみあきらけいあきらきよし)は高浜たかはましろに、粟屋あわや勝久かつひさ国吉くによししろ佐柿さがき)に、熊谷くまがいただしきよし大倉おおくら見城けんじょう井崎いさきじょう)に割拠かっきょして、それぞれ守護しゅご大名だいみょう支配しはいより離反りはんし、独立どくりつしている状態じょうたいだった。

えいろく11ねん1568ねん)、朝倉あさくら義景よしかげ若狭わかさ侵攻しんこうした。朝倉あさくらぜい国吉くによしじょうとう山城やましろなどをとし、朝倉あさくらけいとぼけ太郎左衛門たろうざえもん)、半田はんだ又八郎またはちろうらがへいひきいて後瀬のちせ山城やましろかこむと、元明もとあき自害じがいしようとしたが、こうじると説得せっとくされ、親族しんぞくであるから身柄みがら保護ほごするという名目めいもく拉致らちされ、いちじょうたに朝倉あさくらかん強制きょうせいてき移住いじゅうさせられることとなった。当時とうじ若狭わかさ国内こくない状況じょうきょう元明もとあき同族どうぞくである甲斐かいこく武田たけだ信玄しんげん朝倉あさくら義景よしかげたいして義統よしむね没後ぼつごもとあかり保護ほごしたことに謝意しゃいしめ書状しょじょう[8]おくっていることから実際じっさい朝倉あさくらもとあかり庇護ひごする必要ひつようせいがあったとする見解けんかい存在そんざいするが[2]朝倉あさくらもとあかり傀儡かいらいとして若狭わかさ間接かんせつ支配しはいしたので、実質じっしつじょう若狭わかさ朝倉あさくら支配しはいはいったともいえる。

若狭わかさ武田たけだ朝倉あさくら従属じゅうぞくし、国人くにびとしゅ朝倉あさくら臣従しんじゅうしながら武田たけだ再興さいこう機会きかいったが、すで武田たけだより独立どくりつしていた逸見いつみ栗屋くりや熊谷くまがいなどは完全かんぜんにはしたがわず、織田おだ勢力せいりょく近江おうみこく湖西こさい地域ちいきおよぶと織田おだ信長のぶながつうじた。

もとかめ元年がんねん1570ねん)1がつ信長のぶなが触状ふれじょうで「武田たけだまご犬丸いぬまる」に上洛じょうらくうながされている[3]同年どうねん4がつ信長のぶなが突如とつじょとして越前えちぜん侵攻しんこうすると、若狭わかさ粟屋あわや勝久かつひさ松宮まつみや玄蕃げんばらはこれをむかえて、越前えちぜんくち案内あんないした[9]信長のぶなが重臣じゅうしん丹羽にわ長秀ながひで守護しゅごにんじて若狭わかさなかばこくあたえたが、このとき浅井あさい離反りはんにより撤退てったい金ヶ崎かねがさきたたかのち武藤むとうけいひさし母親ははおや人質ひとじちにをすことをもとめられ、しろやぶ却がめいじられている[9]信長のぶなが当初とうしょのうちはもとあかり若狭わかさ国主こくしゅとしてみとめる方向ほうこうにあったが、元明もとあき自身じしん越前えちぜん国内こくないかれたままであった[10]。なお、近年きんねんにおいて、信長のぶなが越前えちぜん侵攻しんこう本来ほんらい武田たけだ再興さいこう意向いこう足利あしかが義昭よしあきいのちけたおや朝倉あさくら排除はいじょ目的もくてきとした若狭わかさ侵攻しんこうであったが、朝倉あさくら義景よしかげがこれを容認ようにんせずに若狭わかさ援軍えんぐんおく姿勢しせいせたために方向ほうこう転換てんかんしたとするせつされている[11]

天正てんしょう元年がんねん1573ねん)、若狭わかさいちこく丹羽にわ長秀ながひでまかせられ、若狭わかさしゅう逸見いつみあきらけい内藤ないとう越前えちぜんまもる香川かがわみぎ衛門えもん大夫たいふ熊谷くまがいただしきよし山県やまがた下野げやもり白井しらいひかりたね粟屋あわや勝久かつひさ松宮まつみや玄蕃げんば寺井てらいみなもと左衛門さえもん武藤むとうけいひさ)はその与力よりきとされた[12]。8月、朝倉あさくら滅亡めつぼうすると、元明もとあき解放かいほうされた[3]。9月に国許くにもともどった元明もとあきは、長秀ながひではいった後瀬のちせ山城やましろけて、おな遠敷おにゅうぐん小浜おばまにある若狭わかさ神宮寺じんぐうじ桜本さくらもとぼうはいった。元明もとあき度々たびたびゆるしをもとめたが、信長のぶなが無視むししていた[12]

天正てんしょう2ねんごろ1574ねん)、元服げんぷくしてまごはちろうしょうし、ちちより「もと」のいちけて元明もとあき名乗なのった[3]

天正てんしょう3ねん1575ねん)7がつ1にち元明もとあき逸見いつみあきらけい粟屋あわや勝久かつひさ熊谷くまがいただしきよし内藤ないとう越前えちぜんまもる山県やまがた下野げやまも家老がろうしゅをつれて、相国寺しょうこくじ信長のぶなが伺候しこうした[3]どう5ねん1577ねん)1がつ14にちにも年賀ねんがおとずれれいをしているが、若狭わかさこく丹羽にわ長秀ながひで支配しはいにおかれて、元明もとあき立場たちば回復かいふくしなかった[13]

天正てんしょう9ねん1581ねん)1がつ京都きょうと御馬おんまそろいでは、明智あけち光秀みつひであて書状しょじょうにて、元明もとあき逸見いつみ粟屋あわや熊谷くまがい内藤ないとう山県やまがたらと同列どうれつにされて参加さんか予定よていしゃとされており、『信長のぶながこう』には元明もとあきはないが、若狭わかさしゅう一員いちいんとして丹羽にわ長秀ながひでくみ行進こうしんしたとおもわれる[14]。3月、大飯おおいぐん高浜たかはましろ8,000せき領主りょうしゅである逸見いつみあきらけい死去しきょすると、4がつ16にち信長のぶながはこれを後嗣こうしなしとして逸見いつみ所領しょりょう没収ぼっしゅうし、その一部いちぶである大飯おおいぐん佐分利さぶり石山いしやまじょう3,000せききゅう武藤むとうりょう)をもとあかりあたえた[14][12]元明もとあき若狭わかさしゅう1人ひとりとして、長秀ながひで与力よりきとなった。

天正てんしょう10ねん1582ねん)6がつ本能寺ほんのうじへん信長のぶなが横死おうしすると、若狭わかさ守護しゅごだったころ勢力せいりょく回復かいふくする好機こうきおもった元明もとあきは、若狭わかさこくしゅ糾合きゅうごうして蜂起ほうきし、明智あけち光秀みつひで義兄ぎけい京極きょうごく高次こうじつうじて、近江おうみ侵攻しんこうして丹羽にわ長秀ながひで本城ほんじょう佐和さわ山城やましろ陥落かんらくさせた。しかし、山崎やまざきたたか光秀みつひで羽柴はしば秀吉ひでよしはいすると、状況じょうきょう一転いってんした。

7がつ19にち恭順きょうじゅんしめそうとした元明もとあき長秀ながひでのいる近江おうみ海津かいづ貝津かいづ)にまねかれて、海津かいづたから幢院(ほうどういん)で謀殺ぼうさつされた。『野史やし』では長秀ながひでによってころされたとするが[12]、『若狭わかさ守護しゅごだい』などでは明智めいち加担かたんしたことを理由りゆう秀吉ひでよし命令めいれい自害じがいさせられたとする[15]。またられた俗説ぞくせつ自害じがい元明もとあきうつくしきつま竜子りゅうこ)をうばうために秀吉ひでよし仕向しむけたことであるとするはなしがある[16]いずれにしろ、元明もとあき若狭わかさ武田たけだ滅亡めつぼうした。

享年きょうねん21または31[注釈ちゅうしゃく 2][注釈ちゅうしゃく 3][注釈ちゅうしゃく 4]

元明もとあき継嗣けいしである義勝よしかつは、武田たけだせいはばか津川つがわせいしょうし、親族しんぞくである京極きょうごく高次こうじつかえた。のちに京極きょうごく高次こうじ関ヶ原せきがはらたたかこうにより若狭わかさいちこくあるじとなると大飯おおいぐん高浜たかはまじょう5,000せきあたえられ、また佐々木ささきせいしょうすることがゆるされ、京極きょうごく家重いえしげしんれつした。江戸えど時代じだい丸亀まるがめはん家老がろう佐々ささはこの末裔まつえいといわれている。なお、義勝よしかつについては息子むすこではなくおとうととする所伝しょでん(『京極きょうごく高次こうじ由緒ゆいしょしょじょう』)もあり、元明もとあきおとうととしたほう整合せいごうせいがあるとする研究けんきゅうしゃもいる[18]

なお、木下きのした勝俊かつとしが、武田たけだ元明もとあき正室せいしつ京極きょうごく竜子りゅうことのあいだまれた男子だんしとするせつがある[注釈ちゅうしゃく 5]が、元明もとあきえいろく5ねん(1562ねん生誕せいたんせつしたがうと、勝俊かつとしぼう父親ちちおや可能かのうせいはほとんどいものとおもわれる(木下きのしたとしぼうについてもおなじである)。ただし生年せいねん前述ぜんじゅつとおり、べつせつがある。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 天正てんしょう10ねん1582ねん)に享年きょうねん21からの逆算ぎゃくさん
  2. ^ 若狭わかさこくこころざし』ではぼつ年齢ねんれいを21さい、『若州わかすかんあとろく』ではぼつ年齢ねんれいを31さいとしており、ぼつ年齢ねんれいについては2せつある。
  3. ^ 分家ぶんけしんじゆたかおとうと山県やまがたもりしん子孫しそん)がのこした『武田たけだ系図けいず山縣やまがたほん』でも享年きょうねんを31、生年せいねん天文てんもん21ねんとする[1]
  4. ^ 武田たけだ信玄しんげん朝倉あさくら義景よしかげおくった書状しょじょうには「まご犬丸いぬまる幼少ようしょう」とかれていること、天正てんしょう年間ねんかんはいっても「まご犬丸いぬまる表記ひょうきられる(『信長のぶながこう』)ことから、享年きょうねん21とかんがえるべきとする見解けんかいもある[17]
  5. ^ ぐんしょ系図けいずしゅう』では、4つせている若狭わかさ武田たけだ系図けいずひとつ、若州わかす武田たけだ系圖けいずべつほん狩野かのひさしおさめによるとする)に、勝俊かつとし武田たけだ元明もとあきで、はは松丸まつまる殿どのしるされていたとする。ただし同書どうしょ秀吉ひでよし松丸まつまる殿どのわらわにするためにもとあかりころしてうばったとくが、つづけてこのせつだいあいだちがい(だい謬)であるともいており、の3つの系図けいずには勝俊かつとし表記ひょうきはなく、あくまで異本いほんの1つを紹介しょうかいしているにぎない[19]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d はなわ & 太田おおた 1973, p. 65
  2. ^ a b c 木下きのした 2016, p. 47
  3. ^ a b c d e f g 谷口たにぐち 1995, p. 241.
  4. ^ a b はなわ & 太田おおた 1973, p. 64
  5. ^ 須田すだ 1970, p. 84.
  6. ^ 河村かわむら 2021, p. 192.
  7. ^ 木下きのした 2016, p. 46.
  8. ^ 武田たけだ信玄しんげん書状しょじょう朝倉あさくら文書ぶんしょ」『戦国せんごく遺文いぶん 武田たけだへんだいさんかん』1551ごう
  9. ^ a b 太田おおた牛一ごいち; 中川なかがわ太古たこ現代げんだいやく 信長のぶながこう』(Kindleちゅうけい出版しゅっぱん新人しんじんぶつ文庫ぶんこ〉、2013ねん、90-91ぺーじ ASIN B00G6E8E7A
  10. ^ 木下きのした 2016, p. 48.
  11. ^ 久野くの雅司まさし織田おだ信長のぶなが足利あしかが義昭よしあき軍事ぐんじてき関係かんけいについて」『白山はくさん史学しがくだい53ごう、2017ねん /所収しょしゅう:久野くの雅司まさし織田おだ信長のぶなが政権せいけん権力けんりょく構造こうぞうえびすひかりさち出版しゅっぱん、2019ねん、137-140ぺーじISBN 978-4-86403-326-8 
  12. ^ a b c d だい日本人にっぽんじんめい辞書じしょ刊行かんこうかい 1926, p. 1537.
  13. ^ 谷口たにぐち 1995, pp. 241–242.
  14. ^ a b 谷口たにぐち 1995, p. 242.
  15. ^ 須田すだ悦生えつお国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 若州わかす三潟郡佐柿国吉籠城記 : こう福井ふくいけん美浜みはままち文化財ぶんかざい保護ほご委員いいんかい、1970ねん、83ぺーじhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9536431/55 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 
  16. ^ 永江ながえ秀雄ひでお ちょ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 武田たけだ元明もとあき最後さいごについて」、福井ふくいけん郷土きょうど懇談こんだんかい へんわかえつ郷土きょうど研究けんきゅう 13(4)(71)』福井ふくいけん郷土きょうど懇談こんだんかい、1968ねん、87ぺーじhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/6072821/10 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 
  17. ^ 河村かわむら 2021, p. 204.
  18. ^ 河村かわむら 2021, pp. 207–208.
  19. ^ はなわ & 太田おおた 1973, pp. 62–63.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • だい日本人にっぽんじんめい辞書じしょ刊行かんこうかい へん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 武田たけだ元次もとつぐ」『だい日本人にっぽんじんめい辞書じしょしただい日本人にっぽんじんめい辞書じしょ刊行かんこうかい、1926ねんhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879535/48 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 
  • はなわ保己一ほきいち; 太田おおた藤四郎とうしろうぐんしょ系図けいずしゅう だい3』ぞくぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい、1973ねん 
  • 木下きのしたさとし若狭わかさ武田たけだ研究けんきゅうとその系譜けいふ動向どうこう」『若狭わかさ武田たけだ』、シリーズ・中世ちゅうせい西国さいこく武士ぶし研究けんきゅうよんえびすひかりさち出版しゅっぱん、2016ねんISBN 9784864031929 
  • 河村かわむら昭一しょういち若狭わかさ武田たけだ家臣かしんだんえびすひかりさち出版しゅっぱん、2021ねんISBN 9784864033718 
  • 谷口たにぐち克広かつひろ; 高木たかぎ昭作しょうさく監修かんしゅう)『織田おだ信長のぶなが家臣かしん人名じんめい辞典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1995ねん、241-242ぺーじISBN 4642027432 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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