(Translated by https://www.hiragana.jp/)
武田信繁 - Wikipedia

武田たけだ信繁のぶしげ

戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう甲斐かい武田たけだ親族しんぞくしゅで庶流の吉田よしだいだ。一門いちもんしゅ筆頭ひっとうひだりすけ

武田たけだ 信繁のぶしげ(たけだ のぶしげ)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう甲斐かい武田たけだ18だい武田たけだ信虎のぶとらで、武田たけだ信玄しんげん同母どうぼおとうと

 
武田たけだ 信繁のぶしげ
きのえ陽二ようじじゅうよんしょういち 武田たけだひだりかい信繁のぶしげ歌川うたがわ国芳くによしさく
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん だいひさし5ねん1525ねん
死没しぼつ えいろく4ねん9がつ10日とおか1561ねん10月18にち
改名かいめい 次郎じろう幼名ようみょう)、武田たけだ信繁のぶしげ吉田よしだ信繁のぶしげ
別名べつめい てんうまや仮名かめい)、古典こてんうまや
戒名かいみょう まつみさおいん殿どの鶴山つるやまがつだい居士こじ
墓所はかしょ てんうまやてら長野ながの篠ノ井杵淵しののいきねぶち
官位かんい ひだりすけ
主君しゅくん 武田たけだ信玄しんげん
氏族しぞく 甲斐かい武田たけだ吉田よしだ
父母ちちはは ちち武田たけだ信虎のぶとらはは大井おおいほう
兄弟きょうだい 竹松たけまつ信玄しんげんいぬせんだい信繁のぶしげしんもと信友のぶとも?)、しんじれんしんじあらわ一条いちじょうしんりゅうそうさとし松尾まつおしんこれかわくぼ信実しんじつ信友のぶともかちとらていめぐみいんみなみまついん殿どの穴山あなやま信友のぶとも正室せいしつ)、禰々はなこういん浦野うらのしつ)、かめ御料ごりょうじん大井おおいしんため正室せいしつ)、下条しもじょうしん正室せいしつ禰津しんたいらしつ葛山かつらやましつきく御料ごりょうじん菊亭きくていはるしつ
つま やしなえしゅういん日藤ひとうあま出自しゅつじしょう[1]
望月もちづき信頼しんらいしんじゆたか望月もちづきしんひさしむすめ仁科にしなもりしんしつ
テンプレートを表示ひょうじ

官職かんしょくであるひだりすけ唐名とうみょうから「てんうまや(てんきゅう)」とばれ、嫡子ちゃくし武田たけだしんゆたかてんうまや名乗なのったため、後世こうせい古典こてんうまや」としるされる。武田たけだじゅうよんしょうにおいては武田たけだ副将ふくしょうとして位置いちづけられている。

生涯しょうがい

編集へんしゅう

だいひさし5ねん1525ねん)、武田たけだ信虎のぶとらよんおとことしてまれる[2]幼名ようみょう次郎じろう信虎のぶとら幼少ようしょうから信繁のぶしげ寵愛ちょうあいし、嫡男ちゃくなんである晴信はるのぶ武田たけだ信玄しんげん)をはいし、信繁のぶしげ家督かとくゆずろうとしていた。しかし天文てんもん10ねん1541ねん)、晴信はるのぶ信虎のぶとら駿河するがこく今川いまがわ義元よしもともと追放ついほうするクーデターにたり、信繁のぶしげ晴信はるのぶちからわせた[3]。ただし甲斐かいこくこころざしによれば両者りょうしゃ合意ごういうえで、信虎のぶとら隠居いんきょしたとされる。晴信はるのぶ家督かとく相続そうぞく信繁のぶしげあね婿むこ穴山あなやま信友のぶともとも一門いちもんしゅなか数少かずすくない成人せいじんであり、晴信はるのぶ補佐ほさやくとして信濃しなの経略けいりゃく従事じゅうじしている。

天文てんもん11ねん1542ねん)の諏訪すわ侵攻しんこうでは信繁のぶしげ大将たいしょうとして、宿老しゅくろう板垣いたがきしんかたとともに出兵しゅっぺい主導しゅどうし、同年どうねん9がつ高遠たかとおよりゆきつぎ反乱はんらんさいしても鎮圧ちんあつ大将たいしょうつとめたとされる。このとき晴信はるのぶから勘気かんきけていた長坂ながさかとらぼうよりゆきつぎおとうとはちすよしときり、信繁のぶしげ取次とりつぎとなって赦免しゃめんされたという逸話いつわのこされている。諏訪すわ制圧せいあつした武田たけだしんじかた郡代ぐんだいとし、信繁のぶしげにも諏訪すわしゅう同心どうしんとして付属ふぞくさせたという[4]天文てんもん13ねん1544ねん)には信虎のぶとら高野山こうのやま参詣さんけいさいし、宿坊しゅくぼうとなった引導いんどういんへの礼状れいじょう発給はっきゅうしており、対外たいがい交渉こうしょうへのたずさわりも確認かくにんされる。

天文てんもん20ねん1551ねん)2がつ1にち、『こうしろとき』にると信繁のぶしげは、武田たけだ庶流の吉田よしだ襲名しゅうめいしている。信玄しんげんには武田たけだ一族いちぞくにおいても武田たけだせい免許めんきょされるいえ一門いちもんしゅにおいてもかぎられており、信繁のぶしげについては吉田よしだせい襲名しゅうめいした記録きろくられるものの文書ぶんしょじょうからは確認かくにんされず、一門いちもんしゅ筆頭ひっとうとしての特別とくべつ立場たちばにあったとかんがえられている[5]どう時期じきには晴信はるのぶ嫡男ちゃくなん義信よしのぶ元服げんぷくしており、信繁のぶしげ吉田よしだ継承けいしょうは、武田たけだ宗家そうけからはずれ庶流当主とうしゅとなることで義信よしのぶ武田たけだ宗家そうけ後継こうけいしゃとしての立場たちば明確めいかくにするための、政治せいじてき配慮はいりょであった可能かのうせいかんがえられている[6]

天文てんもん20ねん7がつ村上むらかみ義清よしきよ討伐とうばつのためのさきしゅとして出陣しゅつじん[7]天文てんもん22ねん1553ねん)4がつには甲斐かいしゅう今井いまい岩見いわみまもるたいし、落城らくじょうした信濃しなのこく苅屋かりやげん城主じょうしゅへの任命にんめい通達つうたつおなじく4がつにはむら上方かみがたから奪取だっしゅした葛尾かつらおしろざいしろしていた秋山あきやまとらしげるたいしても上位じょうい通達つうたつしたほか[2]恩賞おんしょう付与ふよなどをおこなっている。また、武田たけだはやがて北信ほくしん地域ちいきめぐ越後えちごこく長尾ながお景虎かげとら上杉うえすぎ謙信けんしん)と抗争こうそうひろげるが(川中島かわなかじまたたか)、天文てんもん24ねん1555ねん)には景虎かげとら越後えちご帰陣きじん報告ほうこくした。

武田たけだ征服せいふくした信濃しなのしょぞくたいし、一族いちぞく養子ようしれて懐柔かいじゅうする方策ほうさくっているが、信繁のぶしげ信頼しんらいしんじひさしも、信濃しなの佐久さくぐん望月もちづき養子ようしとなっている。

えいろく4ねん1561ねん)9がつ10日とおかだい4川中島かわなかじまたたかいで討死うちじにする。享年きょうねん37[8]

信繁のぶしげ遺骸いがいは、だい4川中島かわなかじまたたかいにおいて信繁のぶしげ本陣ほんじんとなった鶴巣つるすてら埋葬まいそうされた。うけたまわおう3ねん1654ねん)、松代まつだいはんあるじ真田さなだ信之のぶゆき鶴巣つるすてらてんうまやてらあらため、信繁のぶしげ菩提ぼだいとむらった[9][10]真田さなだによる信繁のぶしげへの敬愛けいあいは、武田たけだつかえた信之のぶゆきちち真田さなだ昌幸まさゆきはしはっし、昌幸まさゆき自身じしん次男じなんにそのあたえている(真田さなだ信繁のぶしげ[3]

信繁のぶしげは『武田たけだほうせいいん信玄しんげんおおやけ御代みよそう人数にんずうこと』『きのえようぐんかんとうにおける武田たけだ家臣かしんだんにおいて、同母どうぼおとうとであるしんじれんとともに武田たけだせい称号しょうごう免許めんきょされる一門いちもんしゅぞくし、信繁のぶしげしんじゆたか武田たけだのりうまやしんじかど武田たけだ逍遥しょうようのきとともに一門いちもんしゅ筆頭ひっとう位置いちする。信繁のぶしげ武田たけだりょう国内こくないにおいてしろばんとして領域りょういき支配しはいおこなっていることが確認かくにんされず、基本きほんてきには甲府こうふ在住ざいじゅうして武田たけだ外交がいこう参与さんよし、合戦かっせんさいには信玄しんげん名代なだいとして軍事ぐんじ指揮しきし、さきしゅ統制とうせいする立場たちば出陣しゅつじんしていたとかんがえられている[11]

子孫しそんにはいん蔵人くろうどつとめた武田たけだはるおやがいる[12]

人物じんぶつ評価ひょうか

編集へんしゅう

武田たけだでは信玄しんげんをはじめ文人ぶんじんてき業績ぎょうせきのこした人物じんぶつ複数ふくすういるが、信繁のぶしげ天文てんもん17ねん1548ねん)、四辻よつつじとおらが甲斐かいおとずれたさい和歌わかんでいる。

えいろく元年がんねん1558ねん)4がつ、99ヶ条かじょうわたる『武田たけだ信繁のぶしげ家訓かくん』(甲州こうしゅう法度はっと次第しだい原型げんけい)を作成さくせいし、嫡子ちゃくし長老ちょうろうしんゆたか)にあたえた。序文じょぶん長禅寺ちょうぜんじ住職じゅうしょくはる国光こっこうしん撰文せんぶんし、内容ないようも『論語ろんご』をはじめ中国ちゅうごく古典こてんから引用いんようされた箇所かしょがあり、信繁のぶしげ教養きょうよう物語ものがたるものとして注目ちゅうもくされる。この家訓かくん江戸えど時代じだい武士ぶし心得こころえとしてひろがれ、信繁のぶしげは「まことの武将ぶしょう」とひょうされるほど敬愛けいあいあつめた。儒学じゅがくしゃ室鳩巣むろきゅうそうは「天文てんもんえいろくあいだいたってけんしょうすべきひとあり。甲州こうしゅう武田たけだ信玄しんげんおおやけおとうと古典こてんうまや信繁のぶしげおおやけなり」との賞賛しょうさんおくった[13]

信玄しんげん戦死せんしした信繁のぶしげ遺体いたいいだくと号泣ごうきゅうしたとつたえられ、てき上杉うえすぎ輝虎てるとらはじめ、上杉うえすぎ家臣かしんだんからもそのしまれたという。武田たけだ家臣かしんだんからも「しみてもなおしむべし」とひょうされ、もし信繁のぶしげきていたら、信玄しんげん義信よしのぶ父子ふし対立たいりつはなかったとわれるほどである。また山県やまがたあきらけいは「古典こてんうまや信繁のぶしげ内藤ないとうあきらゆたかこそは、まい事相じそうととのしん副将ふくしょうなり」とひょうしたという[14]

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ しばつじ俊六しゅんろく武田たけだ信玄しんげんとその一族いちぞくしばつじへん新編しんぺん武田たけだ信玄しんげんのすべて』(2008、新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ
  2. ^ a b こうしろとき
  3. ^ a b 真田さなだ昌幸まさゆきあこがれた武田たけだ信玄しんげんおとうと信繁のぶしげ歴史れきしじん 2023-04-08閲覧えつらん
  4. ^ きのえようぐんかん』より。同書どうしょにおける諏訪すわ侵攻しんこう経緯けいい年次ねんじあやまりをおおふく評価ひょうか慎重しんちょうされるが、高遠たかとおれんよしとき討取うちととらぼう活躍かつやくは『こうしろとき』においても確認かくにんされ、丸島まるしま和洋わようは「信繁のぶしげ甲信こうしん国境こっきょう武川たけかわしゅうひきいていることからも、諏訪すわ侵攻しんこうにおいて大将たいしょうつとめていたせつには一定いってい信憑しんぴょうせいがある」とひょうす(丸島まるしま 2007)。
  5. ^ 平山ひらやまゆう武田たけだ信玄しんげん家臣かしんだん編成へんせい」『新編しんぺん武田たけだ信玄しんげんのすべて』
  6. ^ 丸島まるしま 2007
  7. ^ 恵林寺えりんじきゅうぞう文書ぶんしょ
  8. ^ 勝山かつやま』にる。だい4川中島かわなかじまたたかいについては文書ぶんしょ記録きろく史料しりょうともにすくなく合戦かっせん実情じつじょう不明ふめいであるが、信繁のぶしげをはじめとする武田たけだ重臣じゅうしん戦死せんしから激戦げきせんであったとかんがえられている。近世きんせい成立せいりつした『きのえようぐんかん』をはじめ、江戸えど時代じだいには様々さまざま軍記ぐんきぶつにおいて合戦かっせんかんする虚実きょじつじった逸話いつわ流布るふするが、信繁のぶしげ戦死せんしについては『上杉うえすぎ謙信けんしんさるじょう』『北越ほくえつ軍談ぐんだん』『武辺ぶへん咄聞しょ』などにおいて、かつての宿敵しゅくてきである村上むらかみ義清よしきよによってられた、あるいは直前ちょくぜん討死うちじに覚悟かくご春日しゅんじつげんすすむ形見かたみたくしたなどの逸話いつわしるされている。
  9. ^ 長野ながの信州しんしゅう風林火山ふうりんかざん特設とくせつサイト 2023-04-08閲覧えつらん
  10. ^ 長野ながの文化財ぶんかざいデータベース あたまかんじる文化財ぶんかざい デジタル図鑑ずかんあたまかん 2023-04-08閲覧えつらん
  11. ^ 平山ひらやま(2008)
  12. ^ 三上みかみけいぶん地下ちか家伝かでん だい1-7 (日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう ; だい6)[1]』(日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう刊行かんこうかい、1937ねん
  13. ^ 駿台すんだい雑話ざつわ
  14. ^ きのえようぐんかん

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
  • 平山ひらやまゆう武田たけだ信繁のぶしげ」『新編しんぺん武田たけだ信玄しんげんのすべて』新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2008ねん
  • 平山ひらやまゆう武田たけだ信玄しんげん家臣かしんだん」『新編しんぺん武田たけだ信玄しんげんのすべて』新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2008ねん
  • 丸島まるしま和洋わよう戦国せんごく大名だいみょう武田たけだ一門いちもん領域りょういき支配しはい」『戦国せんごく研究けんきゅうだい53ごう、2007ねん