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北前船 - Wikipedia

北前きたまえせん

日本にっぽん日本海にほんかい海運かいうん利用りようされた廻船かいせん

北前きたまえせん(きたまえぶね)とは、江戸えど時代じだいから明治めいじ時代じだいにかけて日本海にほんかい海運かいうん活躍かつやくした、おもかいみの北国きたぐに廻船かいせん(かいせん)の名称めいしょう[1]

明治めいじまつから大正たいしょう撮影さつえいした北前きたまえせん井田いだきゅうぞう写真しゃしん福井ふくい県立けんりつ若狭わかさ歴史れきし博物館はくぶつかんぞう
復元ふくげん北前きたまえせん みちのくまる
兵庫ひょうごけん淡路島あわじしま出発しゅっぱつして瀬戸内海せとないかい - 日本海にほんかい回航かいこうし、北海道ほっかいどう江差えさしこう寄港きこうした 復元ふくげん北前きたまえせん たつえつまる(1986ねん6がつ

かい廻船かいせんとは商品しょうひんあずかって運送うんそうをするのではなく、航行こうこうする船主せんしゅ自体じたい商品しょうひんい、それを売買ばいばいすることで利益りえきげる廻船かいせんのことをす。

概要がいよう

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千石船せんごくぶねの1/5複製ふくせい天神丸てんじんまる

当初とうしょ近江おうみ商人しょうにん主導しゅどうけんにぎっていたが、のち船主せんしゅ主体しゅたいとなって貿易ぼうえきおこなうようになる。のぼりでは対馬つしま海流かいりゅうこうして、北陸ほくりく以北いほく日本海にほんかい沿岸えんがんもろみなとから下関しものせき経由けいゆして瀬戸内海せとないかい大坂おおさかかう航路こうろくだりはこのぎゃくおよび、この航路こうろきかうふねのことである。西にしまわ航路こうろ西にしまわり海運かいうん)の通称つうしょうでもられ、航路こうろのち蝦夷えぞ北海道ほっかいどう樺太からふと)にまで延長えんちょうされた。

畿内きないいた水運すいうん利用りようした物流ぶつりゅうにんりゅうルートには、古代こだいから瀬戸内海せとないかい経由けいゆするもののほかに、若狭湾わかさわん陸揚りくあげして、琵琶湖びわこ経由けいゆして淀川よどがわ水系すいけい難波なんばいた内陸ないりく水運すいうんルートも存在そんざいしていた。この内陸ないりく水運すいうんルートには、日本海にほんかいがわ若狭湾わかさわん以北いほくからの物流ぶつりゅうほかに、若狭湾わかさわん以西いせいから対馬つしま海流かいりゅうって物流ぶつりゅう接続せつぞくしていた。この内陸ないりく水運すいうんルート沿いの京都きょうと室町むろまち幕府ばくふひらかれ、畿内きない経済けいざいだけでなく政治せいじてきにも日本にっぽん中心ちゅうしんとなった室町むろまち時代ときよ以降いこう若狭湾わかさわん以北いほくからの物流ぶつりゅうでは内陸ないりく水運すいうんルートが主流しゅりゅうとなった。

江戸えど時代じだい

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北国きたぐにせんふね絵馬えま

江戸えど時代じだいになっても、経済けいざいめん上方かみがた京都きょうと大坂おおさか)の存在そんざいおおきかった。例年れいねん70,000せき以上いじょうべい大坂おおさか換金かんきんしていた加賀かがはんが、寛永かんえい16ねん1639ねん)に兵庫ひょうご北風きたかぜたすけをて、西にしまわ航路こうろで100せきこめ大坂おおさかおくることに成功せいこうした。これは、在地ざいち流通りゅうつう業者ぎょうしゃつなかたち内陸ないりく水運すいうんルートでは、大津おおつなどでのべいりょう関係かんけい割高わりだかであったことから、中間ちゅうかんマージンげるためであるとされる。また、外海がいかいでのふね海難かいなん事故じこなどのリスクふくめたとしても、内陸ないりく水運すいうんルートにくらべてべい損失そんしつすくなかったことにも起因きいんする。さらに、かくはんいちえん知行ちぎょうによって資本しほん集中しゅうちゅうき、そのだい資本しほん背景はいけい大型おおがたせんもちいた国際こくさい貿易ぼうえきおこなっていたところに、江戸えど幕府ばくふ鎖国さこく政策せいさくんだため、大型おおがたせんもちいた流通りゅうつうノウハウが国内こくない流通りゅうつうかい、太平洋たいへいようがわながれのきびしい黒潮くろしお比較ひかくして航行こうこう容易ようい対馬つしま海流かいりゅうこうした航路こうろ開拓かいたくいたったとかんがえられる。

一方いっぽう寛文ひろふみ12ねん1672ねん)には、江戸えど幕府ばくふ当時とうじ天領てんりょうであった出羽でわこめ大坂おおさかまで効率こうりつ大量たいりょう輸送ゆそうするため、河村かわむらみずほけんめいじたこともこの航路こうろこりとされる。前年ぜんねんひがしまわ航路こうろ開通かいつうわせて西にしまわ航路こうろ完成かんせいで、大坂おおさか市場いちばは「天下てんか台所だいどころ」として発展はってんし、北前きたまえせん発展はってんにもつながった。江戸えど時代じだい北前きたまえせんとして運用うんようされたふねは、はじめは北国きたぐにせんばれるこげはし帆走はんそう兼用けんよう和船わせんであった。18世紀せいき中期ちゅうきには帆走はんそう専用せんよう経済けいざいせいたか和船わせんである弁才べんさいせん普及ふきゅうした[2]北前きたまえ船用せんよう弁才べんさいせんは、18世紀せいき中期ちゅうき以降いこうひしかき廻船かいせんなどの標準ひょうじゅんてき弁才べんさいせんたいし、学術がくじゅつじょう日本海にほんかいけいとして区別くべつされる独自どくじ改良かいりょうすすんだ。日本海にほんかいけい弁才べんさいせん特徴とくちょうとして、船首せんしゅ船尾せんびのそりがつよいこと、だな(かじき)とばれる舷側げんそく最下さいかいたこう船底ふなそこけん竜骨りゅうこつ)なみにあついこと、はり部材ぶざいのうちなかせんはり下船げせんはり統合とうごうされて、こうせっした肋骨あばらぼねふう配置はいちになっていることがげられる[3]。これらの改良かいりょうにより、構造こうぞう簡素かんそさせつつ船体せんたい強度きょうど通常つうじょう弁才べんさいせんよりもたかかった。

また天明てんめい5ねん1785ねん)にこうらくまつみぎ衛門えもんにより、飛躍ひやくてき丈夫じょうぶ帆布ほぬのまつみぎ衛門えもん)が発明はつめいされた。従来じゅうらいうす綿布めんぷかさいしたとげ使用しようしていたが寿命じゅみょうみじかく、このしん帆布ほぬの登場とうじょうにより航行こうこう長期ちょうき効率こうりつなどが可能かのうになり、類似るいじのものもふく急速きゅうそく普及ふきゅうしていった。

しかし北前きたまえせん通常つうじょうとしに1航海こうかいで、2航海こうかいできることはまれであった。こうした不便ふべんさや海難かいなんリスク、航路こうろ短縮たんしゅくねらって、播磨はりまこく市川いちかわ但馬たじまこく円山川まるやまがわとお航路こうろ開拓かいたくする計画けいかく柳沢やなぎさわ淇園きえんらが推進すいしん)や、由良川ゆらがわ保津川ほづがわ経由けいゆするあんたこともあったが、様々さまざま利害りがい関係かんけい介在かいざいする複数ふくすう領地りょうちまたが工事こうじ困難こんなんさなどから実現じつげんはしなかった。

明治めいじ時代じだい

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明治めいじ時代じだいはいると、1せきふねとしに1航海こうかい程度ていどしかできなかったのが、としに3航海こうかいから4航海こうかいずつできるようになった。その理由りゆうは、松前まさきはん入港にゅうこう制限せいげん撤廃てっぱいされたことにある。スクーナーなどの西洋せいようしき帆船はんせん登場とうじょうした影響えいきょうとする見解けんかいもあるが、運航うんこうされていた船舶せんぱく主力しゅりょく西洋せいようしき帆船はんせんではなく、在来ざいらいがた弁才べんさいせん一部いちぶ西洋せいようふう改良かいりょうしたあいせんであった。

明治維新めいじいしん以降いこう封建ほうけんせい崩壊ほうかい廃藩置県はいはんちけん)や電信でんしん郵便ゆうびん登場とうじょうは、各種かくしゅ商品しょうひん相場そうば地域ちいきてき価格かかくおおきくげんじさせ、一攫千金いっかくせんきんてき意味いみくなった。さらに日本にっぽん全国ぜんこく鉄道てつどう敷設ふせつされることで国内こくない輸送ゆそう鉄道てつどうへシフトしていき、江戸えど以降いこうつづ北前きたまえせん形態けいたい消滅しょうめつしていった。

その北前きたまえせん船主せんしゅたちは小樽おたる函館はこだてなどをおも寄港きこうとして、北海道ほっかいどうニシンおもとして北陸ほくりく北海道ほっかいどうむすぶ、北前きたまえせんによく航海こうかい明治めいじ後期こうきごろまでっていた。にち戦争せんそうにおいて、ロシア海軍かいぐん水雷すいらいてい北海道ほっかいどうおき日本海にほんかい航行こうこうちゅう右近うこん所有しょゆう弁才べんさいせん八幡やはたまる」を拿捕だほ撃沈げきちんした記録きろくのこっている。

名称めいしょう

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北前きたまえとは上方かみがた人間にんげん北陸ほくりくなど日本海にほんかい沿岸えんがん北国きたぐに方面ほうめんして歴史れきしてき地域ちいき名称めいしょうであり[4]北国きたぐに物資ぶっしはこんでくることから北前きたまえせんばれた。北陸ほくりくでは北前きたまえせんのことを「弁才べんさいせん」とぶが[1]、これは元々もともと瀬戸内海せとないかい発達はったつした弁才べんさいせん北国きたぐに上方かみがた瀬戸内海せとないかいむすんだ西にしまわ航路こうろ発達はったつによって日本海にほんかい沿岸えんがんにも進出しんしゅつしていき全盛期ぜんせいき北前きたまえせん主力しゅりょくとなったことから[4]

北前きたまえせんいちねん

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1ねん1航海こうかい場合ばあい

  • くだり(対馬つしま海流かいりゅうたいして順流じゅんりゅう
    • 3がつ下旬げじゅんごろ大阪おおさか出帆しゅっぱん
    • 4 - 5月、航路こうろじょう瀬戸内海せとないかい日本海にほんかいで、途中とちゅう商売しょうばいをしながら北上ほくじょう
    • 5がつ下旬げじゅんごろ蝦夷えぞしま北海道ほっかいどう)に到着とうちゃく
  • のぼり(対馬つしま海流かいりゅうたいして逆流ぎゃくりゅう
    • 7がつ下旬げじゅんごろ蝦夷えぞしま出帆しゅっぱん
    • 8 - 10月、航路こうろじょう寄港きこう商売しょうばいをしながら南下なんか
    • 11月上旬じょうじゅんごろ大阪おおさか到着とうちゃく

北陸ほくりくなど各地かくち北前きたまえせん船員せんいんは、大阪おおさかから徒歩とほ地元じもとかえって正月しょうがつむかえ、春先はるさきにまた徒歩とほ大阪おおさかもどってきた。

北前きたまえせん

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くだ北国きたぐに方面ほうめん)にかんしては以下いかとおりである。

  • 蝦夷えぞ人々ひとびとへの飲食いんしょくひんべいさけ砂糖さとう)、瀬戸内海せとないかい各地かくちしお漁獲ぎょかくぶつ塩漬しおづ不可欠ふかけつ)、日常にちじょう生活せいかつひん衣服いふく煙草たばこかみ瀬戸内せとうち沿岸えんがんさん蝋燭ろうそく)、わら製品せいひんなわむしろ)など。また、近畿きんきけんでは木綿こわた大和やまとかすりなど)・菜種なたねはな)など高級こうきゅう商品しょうひん栽培さいばいするために、北風きたかぜ介入かいにゅうして葛下かつしもぐん築山つきやまむら当初とうしょ広大こうだい大谷おおやむら一部いちぶ)で「ぐろほう、「くろほう、「ほう、「しまばたけほう、「しまはたけほうわれる水田すいでんあげをして栽培さいばいする方法ほうほう開発かいはつされた。司馬しばりょう太郎たろうの「はなおき」の風景ふうけいは、築山つきやまむら近隣きんりんである、司馬しばりょう太郎たろう母方ははかた當麻とうまでの幼年ようねん時代じだい記憶きおくがベースになっているとわれている。「ぐろほう大和やまとから河内かわうち当初とうしょひろまり、やがて畿内きないいちえんひろまり、北前きたまえせんくだ内容ないようたすけることとなった。栽培さいばいのぼ干鰯ほしかにしんかす商品しょうひん作物さくもつ栽培さいばいのための肥料ひりょう)などが大量たいりょう消費しょうひされたことはうまでもない。

のぼ畿内きない方面ほうめん)はほとんどが海産物かいさんぶつで、くだほど種類しゅるいおおくない。にしんかす商品しょうひん作物さくもつ栽培さいばいのための肥料ひりょう)、かず身欠みかきニシンナマコ昆布こぶ干鰯ほしかなどがある。

昆布こぶロード

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日本にっぽん料理りょうり中国ちゅうごく医薬いやく珍重ちんちょうされた北海道ほっかいどう昆布こぶは、北前きたまえせん直接ちょくせつまたはだいさかから薩摩さつまはんまでたっし、さらに琉球りゅうきゅう王国おうこく経由けいゆきよしにまで当時とうじ鎖国さこく政策せいさくちゅう日本にっぽんから密輸みつゆされており、薩摩さつまはんおおきな収入しゅうにゅうげんとなりはん財政ざいせいささえて、武器ぶきなども輸入ゆにゅうされて、明治維新めいじいしんまえ薩摩さつまはん台頭たいとうおおきく貢献こうけんした。[5][6]富山とやまはんには「薩摩さつまぐみ」とばれる担当たんとう部署ぶしょがあり、きよからは漢方薬かんぽうやく材料ざいりょう輸入ゆにゅうして、富山とやま売薬ばいやくささえた。北海道ほっかいどうえつ中国ちゅうごく薩摩さつまこく琉球りゅうきゅう王国おうこく沖縄おきなわ)、きよしまでのルートを現代げんだいでは「昆布こぶロード」[7]んでいる。

北前きたまえせん地域ちいきへの影響えいきょう

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北前きたまえせん往来おうらい周辺しゅうへん地域ちいきおおきな影響えいきょうあたえた。1つは周辺しゅうへん農村のうそん生産せいさんりょく増加ぞうかである。積荷つみにのなかにはふゆあいだ農閑期のうかんき利用りようした副業ふくぎょうプロト工業こうぎょう)によるものもある。それらの需要じゅようたかまるにつれ、商品しょうひん優先ゆうせんてき効率こうりつてき生産せいさんされた。もう1つは造船ぞうせん産業さんぎょう発達はったつという可能かのうせいで、寄港きこうふね修理しゅうりふね建造けんぞう作事さくじまかされていたという。これらのことが周辺しゅうへん地域ちいきにも流通りゅうつうめんえた影響えいきょうおよぼしたとおもわれる。また寄港きこう周辺しゅうへんでは近畿きんき文化ぶんかつたわり、言葉ことばしょく文化ぶんかとう影響えいきょうがみられる。たとえば関西かんさいしょく文化ぶんかであるちゃかゆは、北前きたまえせん航路こうろである北陸ほくりく東北とうほく港町みなとちょうにもひろまっている。また、伊勢神宮いせじんぐう式年しきねん遷宮せんぐううたわれる木遣きやりうた松前まさき木遣きやり」は、船乗ふなのりのくちつうじて瀬戸内海せとないかいから山陰さんいん北陸ほくりく東北とうほくから北海道ほっかいどうにまで伝播でんぱしている。北前きたまえせん日本海にほんかい沿岸えんがんにおける文化ぶんか伝播でんぱやくでもあった。

北前きたまえせん寄港きこう

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最速さいそくたちでは以下いかみなとっていた。各地かくち見張みは役人やくにんき、途中とちゅう要所ようしょには毎夜まいよたきぎげてふねからの目標もくひょうとさせた。[よう出典しゅってん]

ほかに明石あかしだいあいだ佐井さい脇野沢わきのさわ大畑おおはた川内かわうち田名部たなべ野辺地のへじ蟹田かにた三厩みんまやあじさわ以上いじょう陸奥みちのくこく)、岩船いわふね桃崎浜ももざきはま新潟にいがた寺泊てらどまり出雲崎いずもざき柏崎かしわざき直江津なおえつ能生のう糸魚川いといがわ以上いじょう越後えちごこく)、赤泊あかどまり大川おおかわ以上いじょう佐渡さどこく)、水橋みずはし岩瀬いわせ放生津ほうじょうづ伏木ふしき以上いじょうえつ中国ちゅうごく)、七尾ななお輪島わじま黒島くろしま福浦ふくうら以上いじょう能登のとこく)、橋立はしだて本吉もとよしみなと以上いじょう加賀かがこく)、さんこくみなと河野こうの敦賀つるが以上いじょう越前えちぜんこく)、小浜おばま以上いじょう若狭わかさこく)、神崎かんざきこう丹後たんごこく)、境港さかいみなと伯耆ほうきこく)、備後びんごこく)、玉島たましま備中びっちゅうこく)、下津井しもつい備前びぜんこく)、兵庫ひょうご摂津せっつこく)などにもっていた。[よう出典しゅってん]

江戸えど百科ひゃっか記載きさいされた大坂おおさかから奥州おうしゅう南部なんぶあいだ海路かいろ地名ちめいつぎのとおり[8]

大坂おおさか尼崎あまがさき西宮にしのみや兵庫ひょうご須磨すま鳥崎とりざき、(播州ばんしゅう明石あかし江崎えざき(えがさき)、高砂たかさご亀島かめじま鞍掛くらかけ室津むろつ赤穂あこう[よう曖昧あいまい回避かいひ]御崎おんざき坂越さこしうら)、(備前びぜん大田おおたたけし(おおたふ)、ぎゅうみがく(うしまづ)、寄木よりきさき犬島いぬじま出崎でさきしおどおり(しおとおし)、日比ひび下津井しもつい、(備中びっちゅう水島みずしま、(備後びんご白石しらいし(とも)、穴太あのう(あぶと)、桃島ももしま[よう曖昧あいまい回避かいひ]江崎えざき海布かり(めかり)、(安芸あき野内やない(のうち)、多田ただあや(ただみ)、高崎たかさき唐船とうせん(とうせん)、日門ひかどはく(ひもんとまり)、こうとんび(たかとび)、蒲刈かまがり(がまかり)、亀首かめくび(かめがくび)、りょ宇土うと津和野つわの、(周防すおう由宇ゆう家室かむろ(かむろ)、上関かみのせき(かみのせき)、ぞう(そうし)、室積むろづみ(むろづみ)、向島むこうじま花香はなか(はなか)、岩屋いわや丸尾まるお水崎みずさき(みさき)、(長門ながと本山もとやまともさき(へざき)、下関しものせき(しものせき)、稟受(ひんしゅ)、瀬戸崎せとざきはぎ(はぎ)、須佐すさこう須、(石見いわみ浜田はまだまもる(ごふ)、いの(いのづ)、(出雲いずも瓜生うりゅう(うりう宇龍?)、よしみ三保さんぼうせき(みほのせき)、とまり(とまり)、(因幡いなばとめ(かる)(但馬たじま諸寄もろよせ芝山しばやま朝日あさひ夕日ゆうひたい(たいざ)、(丹後たんごけいさき宮津みやづりょう、(若狭わかさ小浜おばま(おばま)、つねじょう(つねかみ)、丹生たんじょううら(にううら)、立石たていしりょ、(越前えちぜん敦賀つるが河野こうのよねりょう(めら)、さんこく堀切ほりきり、(加賀かが安宅あたか(あたか)、本吉もとよし宮腰みやこし、(能登のと阿武あぶ(あぶや)、福浦ふくうら木須きす和島わしま(わじま)、塩津しおづ、(越後えちご今町いままち柏崎かしわざき出雲崎いずもざき新潟にいがた瀬波せなみ(せなみ)、(出羽でわねずみせき(ねずのせき)、加茂かも酒田さかた小刀こがたな本庄ほんじょう(ほんじょう)、みなと(みなと)、舟川ふながわとがとう(とがしま)、野代のしろ(のしろ)、(奥州おうしゅう津軽つがる深浦ふかうらあじさわ(あじがさわ)、小泊こどまり(ことまり)、今別いまべつ(いまべち)、赤根あかねさわ(あかねざわ)、南部なんぶ(たなぶ)。

北前きたまえせん活躍かつやくしたおも船主せんしゅ

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加賀かが橋立はしだてみなと船主せんしゅ久保くぼてい移築いちく

日本海にほんかい航路こうろ海運かいうんおこなったふねのうち、狭義きょうぎに「北前きたまえせん」とばれるのは日本海にほんかい在地ざいち資本しほんによるものにかぎ見解けんかいもある。この見解けんかいによれば、高田屋たかだや嘉兵衛かへえのような上方かみがた資本しほん日本海にほんかい航路こうろ廻船かいせん運航うんこうした場合ばあいは「北回きたまわせん」として区別くべつする[9]以下いかでは、広義こうぎ北前きたまえせんかかわった船主せんしゅげる。

現代げんだいにおける北前きたまえせん

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太平洋戦争たいへいようせんそう日本にっぽん経済けいざい人口じんこう中心ちゅうしん太平洋たいへいようベルトうつったこともあり、日本海にほんかいがわかく地域ちいきにとって、北前きたまえせんはかつての繁栄はんえい象徴しょうちょうとしてほこりの対象たいしょうとなっており、観光かんこう地域ちいきおこし活用かつようされている。関連かんれんする博物館はくぶつかんなどもおおくあるほか(後述こうじゅつ)、「たつえつまる」や「みちのくまる」のように航行こうこうおよび帆走はんそう可能かのうかたち復元ふくげんされた和船わせんもある。

北前きたまえせん繁栄はんえい歴史れきし象徴しょうちょう現代げんだいのこ各種かくしゅこころみやイベントもおこなわれている。そのなかのひとつとして、1985ねん当時とうじのおのころあいランド公園こうえんげん淡路あわじワールドパークONOKORO)でおこなわれた「くにうみの祭典さいてん」に出展しゅってんするために、上記じょうきの「たつえつまる」が当時とうじ木造もくぞうせん造船ぞうせん技術ぎじゅついきあつめて復元ふくげん造船ぞうせんされ、そのたつえつまる使つかった回航かいこう翌年よくねんに、兵庫ひょうごけん淡路島あわじしまにある当時とうじ津名つなぐん津名つなまちげん淡路あわじ)・津名つなこうから北海道ほっかいどう檜山ひやまぐん江差えさしまち江差えさしこう函館はこだて函館はこだてこう経由けいゆする航路こうろって実施じっしされた[10][11]

また、2007ねん以降いこうには石川いしかわよしみ新田にった嘉一きいち平田ひらた牧場ぼくじょう会長かいちょう)らのけで「北前きたまえせん寄港きこうフォーラム」がひらかれている。2017ねんには文化庁ぶんかちょうにより、日本にっぽん遺産いさんひとつとして「荒波あらなみえたおとこたちのゆめつむいだ空間くうかん北前きたまえせん寄港きこう船主せんしゅ集落しゅうらく~」に、北海道ほっかいどうから福井ふくいけんまでの7道県どうけん11市町しちょう認定にんていされた[12]

北前きたまえせん主要しゅようテーマとする博物館はくぶつかん

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北前きたまえせん題材だいざいとする作品さくひん

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  • ほり田善でんぜんまもるづるのいたにわ
  • 浅見あさみ光彦みつひこシリーズ化生かせいうみ
  • 西村にしむら道男みちおうみしょうさんだい北前きたまえ船主せんしゅ西村にしむらひとびと』(1964ねん 中公新書ちゅうこうしんしょ
  • 堀田ほった成雄しげお北前きたまえせん西村にしむら忠兵衞ちゅうべえ』(1963ねん 羽咋はくい郷土きょうど研究けんきゅう叢書そうしょ
  • 赤神あかかみりょう北前きたまえせん用心棒ようじんぼう 赤穂あこうみなと 犬侍いぬざむらい見参けんざん』(小学館しょうがくかん、2020ねん3がつ6にちISBN 978-4094067491文庫ぶんこ
  • 司馬しばりょう太郎たろうはなおき』(1982ねん 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう
  • 玉岡たまおかかおるしん 北前きたまえせんせたおとここうらくまつみぎ衛門えもん』(2021ねん 新潮社しんちょうしゃ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 北前きたまえせんコトバンク
  2. ^ 石井いしい(1995ねんa)、125ぺーじ
  3. ^ 石井いしい(1995ねんa)、127ぺーじ
  4. ^ a b 野間のま晴雄はるおひがしアジア「地中海ちちゅうかい」における歴史れきし生態せいたい基盤きばん地域ちいきせい文化ぶんか交渉こうしょう」『ひがしアジア文化ぶんか交渉こうしょう研究けんきゅう. 別冊べっさつだい8ごう関西大学かんさいだいがく文化ぶんか交渉こうしょうがく教育きょういく研究けんきゅう拠点きょてん(ICIS)、2012ねん2がつ、113-137ぺーじISSN 1882-7756NAID 110008895346 
  5. ^ 昆布こぶロードがもたらした明治維新めいじいしんしょく文化ぶんか機関きかんみず文化ぶんか』54ごう和船わせんはこんだ文化ぶんか
  6. ^ 薩摩さつまはんぐみにした「昆布こぶロード」 明治維新めいじいしん情報じょうほう資金しきんたくわえる(withnews、2015ねん
  7. ^ 読売新聞よみうりしんぶん北陸ほくりく支社ししゃ北前きたまえせん日本海にほんかいこんぶロード』、北日本新聞社きたにっぽんしんぶんしゃ昆布こぶロードと越中えっちゅううみはし』などがある。
  8. ^ 寺島てらしまりょうやす和漢わかんさんさい図会ずえ吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1906ねん復刻ふっこく原著げんちょ1713ねん正徳まさのり3ねん))、1032-1033ぺーじ・『大坂おおさかより西国さいこくおよび北国きたぐにいた海路かいろ』のこう
  9. ^ 石井いしい(1995ねんb)、36-37ぺーじ
  10. ^ a b 北前きたまえせん(1989ねん
  11. ^ 江差えさしまち(1997ねん
  12. ^ 解説かいせつスペシャル]北前きたまえせん連携れんけい 訪日ほうにちきゃく誘致ゆうちへ…寄港きこう11市町しちょう 地方ちほう振興しんこう期待きたい読売新聞よみうりしんぶん朝刊ちょうかん2018ねん5がつ3にち(2018ねん5がつ8にち閲覧えつらん)。
  13. ^ 石井いしい(1995ねんb)、40-43ぺーじ、297 - 300ぺーじ
  14. ^ 富山とやま北前きたまえせんは「バイせん(せん)」とばれていて、これは「ばいばいもうかるからだともりでは紹介しょうかいされる。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 石井いしい謙治けんじ和船わせん I』法政大学ほうせいだいがく出版しゅっぱんきょく〈ものと人間にんげん文化ぶんか〉、1995ねんISBN 978-4588207617 
  • 石井いしい謙治けんじ和船わせん II』同上どうじょう同上どうじょう〉、1995ねんISBN 978-4588207624 
  • ゆめとロマンを満載まんさいして 北前きたまえせん――日本海にほんかい帆走はんそう(はし)り太平洋たいへいようわたる』1989ねん7がつ20日はつか 
  • 江差えさしまちだい11かん 通説つうせつ5、江差えさしまち、1997ねん 
  • しょうおさめひろし荒海あらうみ北前きたまえせん』 ほるぷ出版しゅっぱん、1982ねん
  • 加藤かとう貞仁さだひと北前きたまえせん 寄港きこう交易こうえき物語ものがたり無明むみょうしゃ出版しゅっぱん、2002ねんISBN 4-89544-317-5
  • 加藤かとう貞仁さだひとうみ総合そうごう商社しょうしゃ 北前きたまえせん無明むみょうしゃ出版しゅっぱん、2003ねんISBN 4-89544-328-0
  • 清水しみず金二きんじ北前きたまえせん日本海にほんかい時代じだい校倉あぜくら書房しょぼう、1997ねんISBN 4-7517-2730-3
  • 高田たかだひろし日本海にほんかい繁盛はんじょう岩波いわなみ新書しんしょ、1992ねんISBN 4-00-430208-0
  • 高田たかだひろしうみかわ物語ものがたり学陽書房がくようしょぼう、1996ねんISBN 4-313-47007-7
  • 牧野まきの隆信たかのぶ北前きたまえせん研究けんきゅう法政大学ほうせいだいがく出版しゅっぱんきょく、2005ねん、ODばんISBN 4-588-92026-X
  • 関野せきの章代あきよ北前きたまえせん足跡あしあとたずねて」『梅花女子大学ばいかじょしだいがくしょく文化ぶんか学部がくぶ紀要きようだい9ごう梅花女子大学ばいかじょしだいがくしょく文化ぶんか学部がくぶ、2021ねん3がつ、1-39ぺーじdoi:10.20832/00000237ISSN 2432-0455NAID 120006994823 

関連かんれんしょ

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  • 中西なかにしさとし北前きたまえせん近代きんだい増補ぞうほ改訂かいていばん)-うみ豪商ごうしょうたちがのこしたもの』成山なりやまどう書店しょてん(2017/11/23)

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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