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久春古丹 - Wikipedia

久春ひさはる古丹こたん(クシュンコタン)は、江戸えど時代じだいから明治めいじ初期しょきにかけてもちいられた樺太からふと地名ちめい

概要がいよう

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アイヌのkus-un-kotan(対岸たいがん・にある・むら)に由来ゆらいする。きゅうはる古丹こたんとも。大泊おおとまりまちくすのきけいまち市街地しがいち中央ちゅうおうにある台地だいち神楽岡かぐらおかきた位置いちする。江戸えど時代じだい松前まさきはんあな陣屋じんやがあった。また、交易こうえき拠点きょてん北前きたまえせん寄港きこうし、松前まさきはん出先でさき機関きかんとしてうん上屋うわや会所かいしょ)もかれていた。江戸えど時代じだい後期こうきから幕末ばくまつにかけ、度々どどロシアじん襲撃しゅうげきったが、明治めいじ時代じだいはいって一時期いちじき樺太からふと開拓かいたく使かれた。にち戦争せんそうこう樺太からふと民政みんせいしょ樺太からふとちょうかれたが、樺太からふとちょうのち豊原とよはら移転いてんした。

以下いか大泊おおとまりまちいき関連かんれんする出来事できごと

松前まさきはんりょう時代じだい
文化ぶんか寇とだいいちまくりょう
松前まさきはんふくりょう
だいまくりょう
  • 1854ねんよしみなが7ねん
    • 6月12にち目付めつけほりとしあきら勘定かんじょう吟味ぎんみやくむらかきはんただしらがきた蝦夷えぞクシュンコタンに渡海とかい
  • 1855ねん安政あんせい2ねん) - 樺太からふとふく蝦夷えぞふたたおおやけ御料ごりょう幕府ばくふ直轄ちょっかつりょう)となり、秋田あきたはんしろぬし久春ひさはる古丹こたん陣屋じんやきず警固けいごおこなった。また、このとし以降いこう番人ばんにん足軽あしがる取立とりたて武装ぶそう冬季とうき警固けいごした。これは、前年ぜんねんにち和親わしん条約じょうやくにより、にち国境こっきょう樺太からふととうじょうさだめずまでの仕来しきたりによること(国境こっきょう確定かくていのまま棚上たなあ先送さきおくり)を決定けっていした[6]のをけた措置そち
  • 1856ねん安政あんせい3ねん) - はこかん奉行ぶぎょうしょ支配しはい組頭くみがしら向山むかいやまはじめ太夫たゆうが5~8がつ樺太からふと調査ちょうさのためおとずれている。このとき松浦まつうら武四郎たけしろう同行どうこう(『きた蝦夷えぞあまり』)。
  • 安政あんせい3ねん4ねん(1856・57)ごろ幕府ばくふ施設しせつでクシュンコタンに大砲たいほう4設置せっちされた台場だいば1カ所かしょ存在そんざい
  • 1860ねん万延まんえん元年がんねん
    • 樺太からふと南部なんぶ警固けいご仙台せんだい会津あいづ秋田あきた庄内しょうないの4はんとなる。
  • 1862ねん文久ぶんきゅう2ねん
    • 勤番きんばんしょ、クシュンコタン、シラヌシ、西にしトンナイ(真岡しんおかぐん真岡しんおかまち)、ワーレ(栄浜さかえはまぐんしろぬいむらあら)、クシュンナイの5ケ所かしょとなる。
  • 1863ねん文久ぶんきゅう3ねん) - 樺太からふと南部なんぶ警固けいご仙台せんだい秋田あきた庄内しょうないの3はんとなる。
にち雑居ざっきょ時代じだい

うん上屋うわや

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場所ばしょ請負人うけおいにん
  • 寛政かんせい2ねん1790ねん村山むらやまへいみぎ衛門えもん樺太からふと場所ばしょ請負うけおう。
  • 寛政かんせい8ねんから大阪おおさか商人しょうにんしょう山屋やまや権兵衛ごんべえ藩士はんし板垣いたがき豊四郎とよしろうよく9ねんからは板垣いたがき豊四郎とよしろう単独たんどくとなる。
  • 寛政かんせい12ねん1800ねん松前まさきはん、カラフト場所ばしょ直営ちょくえいとし、藩士はんし高橋たかはしそうよんろうたにやすろう管理かんり兵庫ひょうご商人しょうにん柴屋しばやちょう太夫たゆう仕入しいれを請負うけおった。
  • 1809ねん(文化ぶんか6ねん) - 栖原すはらすみ兵衛ひょうえ信義しんぎ伊達だてりんみぎ衛門えもん共同きょうどうきた蝦夷えぞ(樺太からふと)場所ばしょ[8]幕命ばくめいにより樺太からふと久春ひさはる古丹こたん(大泊おおとまりぐん大泊おおとまりまちくすのきけい)と宗谷そうやあいだに500 せき以上いじょう帆船はんせん2そう就航しゅうこうさせ、松前まさき陸奥みちのくさんうまやあいだにも定期ていき航路こうろ開設かいせつ
ヲロッコ交易こうえき

じきこうやつぐんいき幌内川ほろないがわ流域りゅういき以北いほくむ、ヲロッコニクブンとのあいだでおこなわれるオロッコ交易こうえきは、クシュンコタンに運上うんじょうかれるまで、栄浜さかえはまぐんいきの魯礼や内淵ないぶち交易こうえきとなっていた。からふとし場所ばしょ開設かいせつ、クシュンコタン(大泊おおとまりまちくすのきけいまち)の運上うんじょうおこなわれた。運上うんじょうでは、朝貢ちょうこうちか形態けいたい交易こうえきがおこなわれていたが、やま交易こうえき改革かいかく以降いこうはシラヌシ(ほんぐんこうじんむらしろぬし)にうつった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 前田まえだ孝和こうわ、「きゅう樺太からふと時代じだい神社じんじゃについて -あわせて北方領土ほっぽうりょうど神社じんじゃについて-」『年報ねんぽう 文字もじ資料しりょう研究けんきゅう』 2015ねん 11ごう p.1-36, 神奈川大学かながわだいがく日本にっぽん常民じょうみん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ 文字もじ資料しりょう研究けんきゅうセンター
  2. ^ 前田まえだ孝和こうわ樺太からふと神社じんじゃ終戦しゅうせん顛末てんまつ」『文字もじ資料しりょう研究けんきゅう』 2012ねん 27ごう p.10-15, 神奈川大学かながわだいがく日本にっぽん常民じょうみん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ 文字もじ資料しりょう研究けんきゅうセンター
  3. ^ 稚内わっかない だいさんしょう 松田まつだでん十郎じゅうろう間宮まみや林蔵りんぞう樺太からふと踏査とうさ
  4. ^ 池添いけぞえ博彦ひろひこ、「きた蝦夷えぞ紀行きこうしょく文化ぶんかこう きたえびす分界ぶんかい余話よわについて」『帯広大谷短期大学おびひろおおたにたんきだいがく紀要きよう』 1993 ねん 30 かん p. A51-A60, doi:10.20682/oojc.30.0_A51
  5. ^ 松浦まつうら美由紀みゆき, 池添いけぞえ博彦ひろひこ、「きた蝦夷えぞ紀行きこうしょく文化ぶんかこう ひがし地方ちほう紀行きこうおよびきた蝦夷えぞあまりについて」『帯広大谷短期大学おびひろおおたにたんきだいがく紀要きよう』 1994ねん 31かん p.1-12, doi:10.20682/oojc.31.0_1
  6. ^ 榎森えのもりすすむ、「にち和親わしん条約じょうやく」がカラフトとう両国りょうこく雑居ざっきょとしたとするせつただしいか」『東北とうほく文化ぶんか研究所けんきゅうじょ』2013ねん l45ごう p.1-22, NCID AN00167466, NAID 120005732776, 東北学院大学とうほくがくいんだいがく東北とうほく文化ぶんか研究所けんきゅうじょ
  7. ^ 秋月あきづき俊幸としゆき、「明治めいじ初年しょねん樺太からふと にち雑居ざっきょをめぐるしょ問題もんだい」『スラヴ研究けんきゅう』 1993ねん 40かん p.1-21, 北海道大学ほっかいどうだいがくスラブ研究けんきゅうセンター, NAID 110000189426
  8. ^ 田島たじまけい也、「近世きんせい明治めいじ初期しょき北海道ほっかいどう樺太からふと千島ちしまうみ操業そうぎょうした紀州きしゅう漁民ぎょみん商人しょうにん」『知多半島ちたはんとう歴史れきし現在げんざい(16) 』 2015ねん 19かん, ISSN 0915-4833,日本福祉大学にほんふくしだいがく知多半島ちたはんとう総合そうごう研究所けんきゅうじょ, NAID 120005724562

外部がいぶリンク

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関連かんれん項目こうもく

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