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会所 (近世) - Wikipedia

会所かいしょ (近世きんせい)

近世きんせい日本にっぽんにおける集会しゅうかいしょ事務所じむしょ取引とりひきしょ

会所かいしょ(かいしょ)とは、文字通もじどお解釈かいしゃくすれば、なんらかのかいもよおもの寄合よりあい会合かいごうおこなわれるところであるが、日本にっぽん近世きんせいにおいては、しゅとして町方まちかたにおいて商人しょうにん組合くみあい地域ちいき公的こうてき集会しゅうかいしょ事務所じむしょ取引とりひきしょとしてもちいられた独立どくりつした建物たてものが「会所かいしょ」とづけられることもあった。

また、ななふんせききん事務じむあつかうため、江戸えど浅草あさくさむこう柳原やぎわらもうけられた会所かいしょ町会ちょうかいしょばれた[1]

町会ちょうかいにおける会所かいしょ

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町会ちょうかいないにおいて「町会ちょうかいしょ」は事務所じむしょ集会しゅうかいしょとしてもちいられた。町役人まちやくにんめて、町内ちょうない住民じゅうみんあつめて奉行ぶぎょうしょなどからの「まちさわ」などの規則きそく伝達でんたつしたり、ぎゃく住民じゅうみん提出ていしゅつするとどけしょ作成さくせいする事務じむおこなったりした。都市としによってもその仕組しくみにちがいがあり、大坂おおさかではいわゆる「大坂おおさか三郷みさと」を構成こうせいするかくさとごとに上部じょうぶ機関きかんとして「そう会所かいしょ」が設置せっちされたが、江戸えどでは町名ちょうめいぬし役宅やくたく町会ちょうかいしょねた。

江戸えど時代じだい大阪おおさかではかくまちごとに町会ちょうかいしょがあり、町人ちょうにんから選出せんしゅつされた町年寄まちどしよりがいて、まちだい執務しつむおこなった[2]町会ちょうかいしょまちだい以下いか下役したやく夜番よばん木戸きどばんかきがいばんめ、夜番よばんよるまわりをいちばんさんかいいぬこくこくこく太鼓たいこち、木戸きどこくかぎりでじられて木戸きどばんばんをし、かきがいばんよんヶ所かしょ配下はいかぞくし、乞食こじきはらうのが日々ひび仕事しごとだった[2]

寛政かんせい改革かいかく以後いご江戸えどではななふんせききん制度せいど導入どうにゅうされ、せききん管理かんりする場所ばしょを「町会ちょうかいしょ」とんだ。町会ちょうかいしょにおいて貧民ひんみんたいして低利ていり資金しきん融資ゆうしした。これとはべつ江戸えどざるまちには札差ふださしたいする融資ゆうしおこな会所かいしょ特別とくべつ設置せっちされた(さるまち貸金かしきん会所かいしょ)。これは棄捐れいによって打撃だげきけた札差ふださし経済けいざいてき打撃だげき緩和かんわするとともに、かれらをなだめて武家ぶけたいするしぶりを回避かいひすることを目的もくてきとしていた。なお、この町会ちょうかいしょ実際じっさい管理かんり運営うんえい勘定かんじょうしょ御用ごよう両替りょうがえしょうがあたっていた。

ななふんせききん管理かんりをしていた町会ちょうかいしょ明治維新めいじいしんにより1872ねん解散かいさんし、東京とうきょう移管いかんされた資産しさん管理かんりのため東京とうきょう営繕えいぜん会議かいぎしょ設立せつりつされ、のちに東京とうきょう会議かいぎしょ改称かいしょうされ、1876ねんまでつづいた[3]

商業しょうぎょうにおける会所かいしょ

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商人しょうにん組織そしきした組合くみあいなどの事務所じむしょを「会所かいしょ」とんだ。なお、下記かき会所かいしょなかには役割やくわり重複じゅうふくする部分ぶぶん存在そんざいすることもあった。

かぶ仲間なかま

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かぶ仲間なかまにおける事務所じむしょ集会しゅうかいしょ会所かいしょ呼称こしょうし、役員やくいん事務じむ職員しょくいんなどがめて共有きょうゆう財産ざいさん管理かんり外部がいぶとの交渉こうしょう所属しょぞく商人しょうにんとの連絡れんらく管理かんり重要じゅうよう決定けっていさだめる会合かいごう招集しょうしゅう商品しょうひん品質ひんしつ検査けんさなど、かぶ仲間なかま所属しょぞく商人しょうにん取扱とりあつかい商品しょうひんかんする管理かんりなどをおこなった。「寄合よりあいしょ」・「通路つうろしょ」ともばれている。

取引とりひきしょ

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きむ銀貨ぎんか両替りょうがえべい綿めんあぶらなどの商品しょうひん取引とりひき相場そうばさだめて取引とりひきおこなう、取引とりひきしょ事務所じむしょとしての役割やくわりたした。とくべい取引とりひきしょとしての会所かいしょ設置せっち全国ぜんこく各地かくちおこなわれ、とく蔵屋敷くらやしき集中しゅうちゅうしていた摂津せっつこく西成にしなりぐん堂島どうじま大坂おおさか現在げんざいきた)の堂島どうじまべい会所かいしょ長崎ながさき貿易ぼうえきによる輸入ゆにゅうひんあつかった肥前ひぜんこく彼杵そのぎぐん長崎ながさき長崎ながさき会所かいしょやま交易こうえきでもたらされる蝦夷えぞにしきなどをあつかったほんぐんこうじんむらしろぬし会所かいしょなどはられている。また、蔵屋敷くらやしき直属ちょくぞく会所かいしょを「べい立会たちあいしょ」・「はらいまい捌所」とも呼称こしょうした。このほか、当時とうじ蝦夷えぞばれた北海道ほっかいどう樺太からふと北方領土ほっぽうりょうどなどにも会所かいしょうん上屋うわや)がもうけられ、地元じもと産品さんぴん本州ほんしゅう産品さんぴん流通りゅうつう拠点きょてんとなった。

専売せんばいせい

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しょはんせん売品ばいひん生産せいさん管理かんり直接ちょくせつ販売はんばいおこなうために設置せっちした役所やくしょはん運営うんえいする事実じじつじょう商業しょうぎょう組織そしきであり、「産物さんぶつ会所かいしょ」・「国産こくさん会所かいしょ」とばれ、あるいは産物さんぶつめいより「○○会所かいしょ」ともばれた。また、開国かいこくのちには開港かいこうしょはん営の貿易ぼうえき機関きかんとして「はん会所かいしょ」を設置せっちして産品さんぴん輸出ゆしゅつして武器ぶき器械きかいなどを入手にゅうしゅするはんもあった。江戸えど幕府ばくふはこうしたしょはん専売せんばい物価ぶっか高騰こうとう原因げんいんとして好意こういてきにはていなかったが、さい末期まっきには幕府ばくふみずからが諸色しょしき生活せいかつ物資ぶっし)の流通りゅうつう機構きこうはん国営こくえいする「諸色しょしき会所かいしょ構想こうそう推進すいしんした(もっとも、江戸えど幕府ばくふ滅亡めつぼうによって実現じつげんしなかった)。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 大辞泉だいじせん
  2. ^ a b 佐古さこけいさん教授きょうじゅ収集しゅうしゅう文書ぶんしょから大阪おおさか部落ぶらく通信つうしん11ごう大阪おおさか部落ぶらく委員いいんかい、1997ねん9がつ、p4
  3. ^ 渋沢しぶさわ栄一えいいち関連かんれん会社かいしゃめい団体だんたいめい変遷へんせん 渋沢しぶさわ栄一えいいち記念きねん財団ざいだん、2019ねん9がつ22にち

関連かんれん項目こうもく

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