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本斗郡 - Wikipedia

ほんぐん

日本にっぽん領有りょうゆう樺太からふと所在しょざいしたぐん

ほんぐん(ほんとぐん)は、日本にっぽん領有りょうゆうにおいて樺太からふと存在そんざいしたぐん

樺太からふとほんぐん位置いち(1.ほんまち 2.うちほろまち 3.こうじんむら 4.海馬かいばむら

以下いかの2まち2むらふくむ。

ぐんいき

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1915ねん大正たいしょう4ねん)に行政ぎょうせい区画くかくとして発足ほっそくした当時とうじぐんいきは、上記じょうき2まち2むら区域くいき相当そうとうする。

ぐん発足ほっそくまでの沿革えんかく

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先史せんし時代じだい

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ぐん域内いきない各地かくち遺跡いせきからそうひとししき縄文じょうもん土器どきなどが出土しゅつどそうひとししき名称めいしょうは、こうじんむらそうひとし遺跡いせきにちなむ。また、ほんまち大字だいじほん南浜通みなみはまとおり2丁目ちょうめにある南浜みなみはままち貝塚かいづかからは、イノシシのものとられる出土しゅつどしている[1]日本にっぽんにおけるイノシシ利用りよう参照さんしょう)。南浜みなみはままち貝塚かいづかは、吐鯤がわ右岸うがん河口かこう付近ふきん段丘だんきゅうじょう金比羅こんぴら神社じんじゃ境内けいだい発見はっけんされた。縄文じょうもん時代じだいには、らえたイノシシのようじゅうそだて、ころしてしょくまつりが全国ぜんこくでおこなわれていた。のちに、対象たいしょう動物どうぶつくま置換ちかんされ、アイヌのイオマンテつながるとのせつ[2] もある。

樺太からふと南部なんぶでは、ぞく縄文じょうもん文化ぶんかぞくするアニワ文化ぶんかとおふちしき)が古墳こふん時代じだい前期ぜんきまでさかえ、道東どうとう北部ほくぶぞく縄文じょうもん文化ぶんか共通きょうつうするへずかた石器せっき琥珀こはくなどの出土しゅつどられる。当時とうじ北日本きたにっぽんでは、栄浜さかえはまぐんさん琥珀こはく流通りゅうつうしていた。

その樺太からふとおこ4世紀せいきすえまでつづいた鈴谷すずや文化ぶんかて、5世紀せいきころからオホーツク文化ぶんかさかえた。オホーツク文化ぶんかは、飛鳥あすか時代ときよ阿倍比羅夫あべのひらふ交戦こうせんし『日本書紀にほんしょき』や『ぞく日本にっぽん』に記述きじゅつされた粛慎 (みしわせ)とされる。戦闘せんとう場所ばしょについては、みしわせ の本拠地ほんきょち樺太からふと比定ひていするせつ[3] もある。5世紀せいきから8世紀せいきにかけもちいられた十和田とわだしき土器どき名称めいしょうは、こうじんむら十和田とわだ遺跡いせき由来ゆらい。そのこすぶん文化ぶんか進出しんしゅつにともない、オホーツクじん樺太からふと南部なんぶから駆逐くちくされた。

平安へいあん時代じだい中期ちゅうき10世紀せいき)までに、オオワシはねアザラシかわなどをもとこすぶん文化ぶんかひとほんぐんいきにも進出しんしゅつぞく縄文じょうもん文化ぶんかこすぶん文化ぶんかになは、縄文じょうもん文化ぶんかにな子孫しそんであり、かつアイヌの祖先そせん相当そうとうする。かれらが進出しんしゅつした当時とうじ和人わじん社会しゃかいでは武士ぶし台頭たいとうはじめ、甲冑かっちゅうなどの武具ぶぐ使つかわれるワシ海獣かいじゅうがわ需要じゅようしていた。これらは本州ほんしゅう方面ほうめんへの重要じゅうよう交易こうえきしなとなっており、安倍あべ奥州おうしゅう藤原ふじわらをはじめとする奥羽おうう豪族ごうぞく全国ぜんこく各地かくち流通りゅうつうしていった[4]同時どうじに、蝦夷えぞ社会しゃかいへの産物さんぶつ流入りゅうにゅうもあり、こすぶん文化ぶんかからアイヌ文化ぶんかへの転換てんかん契機けいきになったとみられる。また、ほんまち大字だいじとおぶしりょうおととい(らねとい)にあるりょうおととい神社じんじゃ遺跡いせきほんまち大字だいじとおぶしとおぶしさわ水源すいげんさわ遺跡いせきからは、縄文じょうもん土器どきなどのほかしゅく土器どき須恵すえ)も出土しゅつど[5]前者ぜんしゃは、しょう貝塚かいづかともな竪穴たてあな建物たてもので、りょうおととい神社じんじゃ付近ふきんにあった。須恵すえは、和人わじん社会しゃかいから供給きょうきゅうされるべいこうじさけなどの容器ようきとしてももちいられており、五所川原ごしょがわら須恵すえかまのあった奥羽おううとのつながりがうかがえる。

中世ちゅうせい

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鎌倉かまくら時代ときよ以降いこう蝦夷えぞ管領かんりょう安東あんどう唐子からこばれる蝦夷えぞアイヌ)を統括とうかつ(『諏訪すわ大明神だいみょうじん絵詞えことば』)[6][7]中世ちゅうせい安東あんどうは、じゅうさんみなと拠点きょてんとし日本海にほんかい北部ほくぶ中心ちゅうしんにかなり広範囲こうはんいにわたって活動かつどうしていたという(『廻船かいせん式目しきもく』)[8][9]奥州おうしゅう藤原ふじわらりく豪族ごうぞくであるとともに安藤あんどう水軍すいぐんようし、蝦夷えぞ社会しゃかいでの騒乱そうらんには、しばしば津軽海峡つがるかいきょう以北いほく出兵しゅっぺいした[10]

また、えいひとし年間ねんかん日蓮宗にちれんしゅうそうにち上人しょうにん布教ふきょうのためわたりかば[11]こうじんむらしろぬしほんまちおもねこう足跡あしあとのこした。

しろぬしじょう
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ぐん域内いきない西にし能登のとりょみさき周辺しゅうへんには、江戸えど時代じだい発見はっけんされたしろぬしじょうばれる遺跡いせきがある。その構造こうぞうは1へん120mの方形ほうけいごうるいゆう大陸たいりく普及ふきゅうしたはんちく技法ぎほうもち築造ちくぞうされており、アイヌのチャシとりで)とはおおきくことなっているとされる。はんちく万里ばんり長城ちょうじょうにももちいられた技法ぎほうである。また、いちしゃく=31.6cmの尺度しゃくどもちいていることから、築造ちくぞうされた時期じきについては11世紀せいき以降いこうとされ、諸説しょせつある。用途ようとについては、とりであるいは交易こうえきしょ推察すいさつされる[12] という。

平安へいあん時代じだいまつ鎌倉かまくら時代じだい初頭しょとう築造ちくぞうせつ

樺太からふとのワシなどの産品さんぴんはアイヌや和人わじん社会しゃかいだけではなく、間宮まみや海峡かいきょう対岸たいがん大陸たいりく満州まんしゅうにおいても需要じゅようがあった。事実じじつきた樺太からふとニヴフは、オホーツク文化ぶんか時代じだいから大陸たいりく民族みんぞく頻繁ひんぱん交易こうえきしていた。このため、おんなしんぞくてた大陸たいりくきむ王朝おうちょうとのあいだ利害りがい衝突しょうとつした可能かのうせいもあり、じょう末期まっきかねあさ拠点きょてんとした施設しせつとする見解けんかいもある。

モンゴルの樺太からふと侵攻しんこうせつ

当時とうじ唐子からこほね嵬)とばれたアイヌと吉里よしさと迷(ギレミ、よしれつめつあいだにワシなどの産品さんぴん確保かくほをめぐり軋轢あつれきしょうじた。吉里よしさと迷はこうむモンゴルじんてた王朝おうちょう)に援軍えんぐん要請ようせいし、モンゴルの樺太からふと侵攻しんこうまねいた(吉里よしさと迷・こうむいにしえ唐子からこエゾ陣営じんえいたたか参照さんしょう)。こうむいにしえ1264ねんから1308ねんあいだはん世紀せいきちかくのあいだすうせんにんまんにん単位たんいへいふね1000そうなどだい規模きぼなものだけでもふくすうかいけた)にわたり派遣はけんしている(『もと』、『もとぶんるいまきよんじゅういち[13]

しかし、当時とうじのアイヌの人口じんこうすくなく、兵力へいりょくける人数にんずうおおくてすうひゃくにんとされ[14]武器ぶき材料ざいりょうとなるてつ食料しょくりょうなども和人わじん社会しゃかいから供給きょうきゅうけていた。また、さらに人口じんこうすくないきた樺太からふと住人じゅうにんのニヴフの一部いちぶオロッコくわえても、こうむいにしえ兵力へいりょくとおおよばず対抗たいこうするのがきわめてむずかしいことは想像そうぞうかたくない。ただ、当時とうじ安藤あんどう水軍すいぐんよう北海道ほっかいどう樺太からふと周辺しゅうへん活動かつどう組織そしきてきこうむいにしえ対抗たいこうしうる勢力せいりょくであった安東あんどう[15] も、ワシなどの産品さんぴん確保かくほてん唐子からこエゾと利害りがい一致いっちし、そのうしたてになっていたことが推察すいさつされる。安東あんどう連携れんけい支援しえん[16]唐子からこエゾははん世紀せいきちかたたかつづけたとみられる。唐子からこエゾ陣営じんえいこうむいにしえはほぼ互角ごかくたたかい、『もとぶんるいまきよんじゅういちには、ほね嵬(唐子からこエゾ)陣営じんえい黒龍江こくりゅうこう流域りゅういきんだ記録きろくえる。このとき、みなみからの支援しえん援軍えんぐん監視かんし妨害ぼうがいする目的もくてきこうむいにしえが「はておびただし(クオフオ)」しろ築造ちくぞうしたとされており、このしろぬしじょう比定ひていするせつもある。

その1308ねん徳治とくじ3ねん/のべけい元年がんねん)に唐子からこ陣営じんえいがわから、地元じもとさん毛皮けがわなどのみつぎおさめ停戦ていせん条件じょうけんとして提示ていじ実質じっしつ和睦わぼく」するかたちで戦闘せんとうをやめて交易こうえきするようになり、大陸たいりく産品さんぴん安定あんていてき確保かくほ可能かのうになった[17] とみられる。このさい安東あんどう交戦こうせん継続けいぞく停戦ていせんかれ安藤あんどうらん原因げんいんになったという[18]。そのこうむもと)は、あきらとのあらそいがつづ1368ねん南朝なんちょう:正平しょうへい23ねん北朝ほくちょう:おうやす元年がんねん中国ちゅうごく大陸たいりく支配しはいけんうしなきたはし大陸たいりく黒竜江こくりゅうこうしも流域りゅういきもしばらく空白くうはく地帯ちたいとなっていた(そのについては、なみかわまもる参照さんしょう)。

関東かんとう御免ごめんせん
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室町むろまち時代ときよになり、安東あんどう水軍すいぐん関東かんとう御免ごめんせんとして活動かつどうした。産物さんぶつ蝦夷えぞ社会しゃかい供給きょうきゅうするとともに北方ほっぽう産品さんぴん大量たいりょう仕入しい全国ぜんこく出荷しゅっかしていた(『じゅうさん往来おうらい』)[19][20][21]後世こうせいぐん域内いきない遺跡いせきからは、和人わじん社会しゃかいから流入りゅうにゅうするてつなべ影響えいきょうけた内耳ないじ土器どき出土しゅつどしており、これはアイヌ文化ぶんか確立かくりつ過程かているうえで貴重きちょう遺物いぶつである。おうひさし年間ねんかんになると安東あんどうは「北海ほっかい夷狄いてき動乱どうらん」を平定へいていし、にちほん将軍しょうぐんしょうした。

また、中世ちゅうせい唐子からこは、北海道ほっかいどう日本海にほんかいがわきた海岸かいがんおよび樺太からふと南部なんぶ居住きょじゅうし、地元じもと産品さんぴんともな和人わじん相当そうとうするわたりとう領域りょういきまで出向でむいて生活せいかつ必需ひつじゅひんなどを入手にゅうしゅしていた(城下じょうか交易こうえき参照さんしょう)。15世紀せいきすえ文明ぶんめい17ねん1485ねん)には、安東あんどう代官だいかん武田たけだ信広のぶひろどうすずめだいかわらすずり献上けんじょうしその配下はいかとなる(『福山ふくやま』)[22]。これ以降いこう信広のぶひろ大陸たいりくとの交易こうえき掌握しょうあく

近世きんせい

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江戸えど時代じだいになると、西にし蝦夷えぞぞくした。慶長けいちょう8ねん1603ねん宗谷そうやかれた役宅やくたく樺太からふと管轄かんかつするようになり、貞享ていきょう2ねん1685ねん宗谷そうや場所ばしょふくまれた。宗谷そうやでは樺太からふとアイヌたいしても撫育ぶいく政策せいさくとしてオムシャなどがおこなわれた。たかられき2ねん1752ねん)ころシラヌシにて交易こうえきおこなわれ、数箇所すうかしょ漁場ぎょじょう開設かいせつされた。寛政かんせい2ねん1790ねん樺太からふと南端なんたんこうじんむらしろぬし松前まさきはん樺太からふとしょうじょう場所ばしょ設置せっち場所ばしょ請負人うけおいにん阿部あべ村山むらやま幕府ばくふ勤番きんばんしょく。このときトンナイ(ホントケシ、ほんまち)にも拠点きょてんかれ、のちはん出先でさき機関きかん機能きのうねたうん上屋うわやとなり、撫育ぶいく政策せいさくオムシャおこなわれ、しろぬし有力ゆうりょくしゃおつめいやく蝦夷えぞ)に任命にんめいされるようになった。当時とうじ地方ちほう行政ぎょうせい詳細しょうさいについては、場所ばしょ請負うけおいせい成立せいりつ行政ぎょうせいおよび江戸えど時代じだい日本にっぽん人口じんこう統計とうけい参照さんしょう。その場所ばしょ請負人うけおいにんは、寛政かんせい8ねんから大阪おおさか商人しょうにんしょう山屋やまや権兵衛ごんべえ藩士はんし板垣いたがき豊四郎とよしろうよく9ねんからは板垣いたがき豊四郎とよしろう単独たんどくとなる。寛政かんせい12ねん1800ねん松前まさきはん、カラフト場所ばしょ直営ちょくえい直営ちょくえい時代じだい藩士はんし高橋たかはしそうよんろうたにやすろう管理かんりし、兵庫ひょうご商人しょうにん柴屋しばやちょう太夫たゆう仕入しいれを請負うけおった。

だいいちまくりょう
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文化ぶんか4ねん1807ねん)の文化ぶんか[23][24][25]け、樺太からふとふく西にし蝦夷えぞ松前まさき奉行ぶぎょう管轄かんかつするおおやけ御料ごりょう幕府ばくふ直轄ちょっかつりょう)となった(〜1821ねんだいいちまくりょう)。

奥羽おううしょはん樺太からふと警固けいご松田まつだでん十郎じゅうろう間宮まみや林蔵りんぞう樺太からふと検分けんぶん

文化ぶんか5ねん(1808ねん)幕命ばくめいにより、会津あいづはんほんぐんいき警固けいご文化ぶんか6ねん(1809ねん)樺太からふと西にし蝦夷えぞから分立ぶんりつきた蝦夷えぞとなる。このとしから弘前ひろさきはんがシラヌシに出張しゅっちょう陣屋じんやきず警固けいごたった。

文化ぶんか5ねん(1808ねん)、樺太からふと検分けんぶんのため、間宮まみや林蔵りんぞう松田まつだでん十郎じゅうろうわたりかば[26][27][28][29]西岸せいがん北上ほくじょうしたでん十郎じゅうろう上陸じょうりくしたシラヌシのほか、ぐん域内いきないでは十和田とわだほんっている。

また、文化ぶんか5ねん(1808ねん)から文化ぶんか6ねん(1809ねん)にかけて、スメレンクルえびすきた樺太からふと西岸せいがん間宮まみや海峡かいきょう周辺しゅうへん踏査とうさした間宮まみや林蔵りんぞう[26][27][30][31] は、さい調査ちょうささいトンナイ(ほん)で正月しょうがつむかえている。

しろぬし会所かいしょ

アイヌたちは交易こうえきのため大陸たいりくから来航らいこうするやまじんたい莫大ばくだい借財しゃくざいい、はたら成人せいじんアイヌが借財しゃくざいのかたにられるなど、やまじんとのあいだ軋轢あつれきしょうじており、おおやけ御料ごりょうとなったさい発覚はっかく問題もんだいとなった。このため、しろぬしやま靼(さんたん)交易こうえき会所かいしょうん上屋うわや)をき、松田まつだでん十郎じゅうろう改革かいかく[32][33] によりやま交易こうえき幕府ばくふ直営ちょくえいとし、幕吏ばくり立会たちあいのもとしろぬし会所かいしょのみでおこなわれることとなった。このとき、やまじんからの借財しゃくざいあえ蝦夷えぞ(アイヌ)の救済きゅうさい措置そちとして、支払しはらえない負債ふさい幕府ばくふ立替たてか救済きゅうさいしている。また、借財しゃくざいのかたにやまじん大陸たいりく連行れんこうされたアイヌが、のちやませんしろぬし会所かいしょ姿すがたせることもあったという[34]

やま交易こうえき改革かいかく以降いこうやまじんやスメレンクルえびすたちとの交易こうえき会所かいしょ儀式ぎしきおこな取引とりひき、いわゆる幕府ばくふたいする朝貢ちょうこう形式けいしきでおこなわれ、そのさい小使こづかいなどの役職やくしょく任命にんめいさつふう)されている。同時どうじに、樺太からふと北東ほくとうじきこうやつぐん以北いほく)にヲロッコニクブンとのオロッコ交易こうえきも、しろぬし会所かいしょでおこなわれるようになった。

場所ばしょ請負人うけおいにん栖原すはら就任しゅうにん

おおやけ御料ごりょう幕府ばくふ直轄ちょっかつりょう)となったときの樺太からふと場所ばしょ請負人うけおいにん柴屋しばやちょう太夫たゆうだった。文化ぶんか6ねん(1809ねん)以降いこう明治めいじ8ねん(1875ねん)まで、樺太からふと場所ばしょきた蝦夷えぞ場所ばしょ)は栖原すはら伊達だて共同きょうどう請負うけおい[35] となっていた。西にし蝦夷えぞから分立ぶんりつ当時とうじ漁場ぎょじょう[36]つぎのとおり。漁場ぎょじょう状況じょうきょうについては、北海道ほっかいどうにおけるニシンりょう参照さんしょうされたい。

西浦にしうら漁場ぎょじょう南方なんぽうより順次じゅんじ記載きさい文化ぶんか6ねん(1809ねん)栖原すはらななだいすみ兵衛ひょうえ信義しんぎ時代じだい漁場ぎょじょうめい[37]

文政ぶんせい4ねん1821ねんほんぐんいき松前まさきはんりょうふくした。その松浦まつうら武四郎たけしろうひろし3ねんはじめてわたりかば松浦まつうら安政あんせい3ねん1856ねん)にもはこかん奉行ぶぎょうところ支配しはい組頭くみがしら向山むかいやまはじめ太夫たゆう同行どうこうおとずれている。

よしみひさし7ねん1854ねん刊行かんこうの『鈴木すずきしげるなお 松浦まつうら武四郎たけしろう からふとし日記にっき』に、ひろし3ねん当時とうじ状況じょうきょう一部いちぶしるされている。

  • うちほろまち
  • ほんまち
    • トコンホ(吐鯤)・・・かわ南岸なんがん番屋ばんやいちむねいたぞう、アイヌのいえ1けん

幕末ばくまつ状況じょうきょうについて、「北海道ほっかいどうれきけん[38] のカラフトの部分ぶぶん絵図えず松浦まつうら武四郎たけしろうの「きた蝦夷えぞ山川やまかわ地理ちり取調とりしらべとうによると、会所かいしょ(うん上屋うわや)・役宅やくたくはシラヌシ(こうむらしろぬし)にえがかれ安政あんせい4ねん(1857ねん)までは、会所かいしょ運上うんじょう役人やくにん居住きょじゅうしていたが、人数にんずう増加ぞうかしたため、シラヌシに1むね役宅やくたく新設しんせつすることとし、安政あんせい5ねん8がつ完成かんせいしたという[39]

西浦にしうら樺太からふと西岸せいがん)にはみちほん西にし能登のとりょみさきせんほん安別やすべつせん前身ぜんしん)がつうじ、通行つうこうしょうきゅうしょでは、ショウニ(ほんぐんこうむらそうひとし)からナヨロ(とまりぐん名寄なよせむら名寄なよろ)まで、途中とちゅう3カ所かしょれ、5カ所かしょに「通行つうこう」があったという。また、にわわんきし方面ほうめんへもみちしん西にし能登のとりょみさきせん前身ぜんしん)がつうじていた。ぐん域内いきないは、南部なんぶしろぬしりょうみなみめいこのみほんなどは西にしトンナイりょうぞくした。当時とうじ行政ぎょうせい区分くぶんについては、りょうこう参照さんしょう

幕末ばくまつ当時とうじ宗教しゅうきょう施設しせつ漁場ぎょじょうについては下記かきのとおり。

西浦にしうら神社じんじゃ[40][41]南方なんぽうより順次じゅんじ記載きさい

  • こうむら・・・能登のとみさき(しろぬし)弁天べんてんしゃしろぬしノトロみさき(しろぬし)弁天べんてんしゃ、シラヌシ・しろぬし(しろぬし)弁天べんてんしゃ、シヨニ(そうひとし)弁天べんてんしゃ
  • うちほろまち・・・ナイホロ(うちほろ)弁天べんてんしゃ稲荷いなり
  • ほんまち・・・トコリホ(吐鯉)弁天べんてんしゃ、ヲコー(おもねこう)弁天べんてんしゃ、アサンナイ(あさない)弁天べんてんしゃ

西浦にしうら漁場ぎょじょう南方なんぽうより順次じゅんじ記載きさい慶応けいおう3ねん12月 栖原すはらじゅうだいやすしみき時代じだい樺太からふと漁場ぎょじょう

  • ほんまち・・・トコンボ(吐鯉)、トヲブシ(とおぶし)
幕末ばくまつ樺太からふと警固けいごだいまくりょう
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安政あんせい2ねん1855ねんにち和親わしん条約じょうやく樺太からふと国境こっきょう確定かくていのまま棚上たなあ先送さきおくりとされ、樺太からふとふく蝦夷えぞふたたおおやけ御料ごりょうとなった(だいまくりょう)。当時とうじしろぬしりょう西にしトンナイりょうふくまれたほんぐんいき秋田あきたはんがシラヌシに出張しゅっちょう陣屋じんやきず樺太からふと警固けいご担当たんとう[42]冬季とうき漁場ぎょじょう番屋ばんやめる番人ばんにん足軽あしがるとし、武装ぶそうして警固けいごおこなった。万延まんえん元年がんねん1860ねん樺太からふと警固けいご仙台せんだい会津あいづ秋田あきた庄内しょうないの4はんとなり、ぐん域内いきないではあらたに庄内しょうないはんしろぬし会津あいづはんほん陣営じんえいいたが、文久ぶんきゅう3ねん1863ねん以降いこう仙台せんだい秋田あきた庄内しょうないの3はん体制たいせいとなる[43]慶応けいおう3ねん1867ねん樺太からふと雑居ざっきょ条約じょうやく樺太からふと全島ぜんとうにち雑居ざっきょとされた。

大政奉還たいせいほうかん

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大政奉還たいせいほうかん慶応けいおう4ねん1868ねん)4がつ12にちはこかん裁判所さいばんしょ(うるう4がつ24にちはこかん改称かいしょう)の管轄かんかつとなり、同年どうねん6がつまつ岡本おかもとかん、シラヌシ(自主じしゅ)にきゅうごと鈴木すずきじょ輔を派遣はけんし、王政おうせい復古ふっこ布告ふこくしてはこかんおおやけしょ(裁判所さいばんしょ)の出張所しゅっちょうしょもうけた[44][45]明治めいじ2ねん1869ねんきた蝦夷えぞ樺太からふとしゅうくに)と改称かいしょう[46]開拓かいたく使直轄ちょっかつりょうとなった。明治めいじ3ねん1870ねん開拓かいたく使から分離ぶんりした樺太からふと開拓かいたく使りょうとなったが、明治めいじ4ねん1871ねん樺太からふと開拓かいたく使さい統合とうごうにより開拓かいたく使直轄ちょっかつりょうもどり8がつ29にち廃藩置県はいはんちけん。このころおこなわれた文明開化ぶんめいかいか事象じしょうとしては、神仏しんぶつ分離ぶんりれいみずのえさる戸籍こせきへんせい散髪さんぱつだつかたなれい平民へいみん苗字みょうじ必称義務ぎむれい公布こうふなどがげられる。アイヌは百姓ひゃくしょう身分みぶんだったため、平民へいみんとなった。明治めいじ8ねん1875ねん)、樺太からふと千島ちしま交換こうかん条約じょうやくによりロシアりょうとされ、どう条約じょうやくだいろく款において、オホーツクかいおよカムチャツカ半島はんとう周辺しゅうへん日本人にっぽんじん漁業ぎょぎょうけんみとめられており[47]りょう時代じだい西にし能登のとりょみさきより久春ひさはるないまで、西海岸にしかいがん漁区ぎょく範囲はんいふくまれた。しかし、漁場ぎょじょう経営けいえい困難こんなんとなった栖原すはら樺太からふとから撤退てったい漁場ぎょじょう労働ろうどうなどで生計せいけいてていたアイヌたちが日本にっぽん国籍こくせき選択せんたくし、ショウニとシラヌシから北海道ほっかいどう移住いじゅうした。のこったアイヌも生活せいかつ手段しゅだんうしな困窮こんきゅうしたという。

日本にっぽんりょう復帰ふっき

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ぐん発足ほっそく以降いこう沿革えんかく

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