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ウィルタ - Wikipedia

ウィルタ

樺太からふと東岸とうがん民族みんぞくで、アイヌからはオロッコ (Orokko) とばれた。

ウィルタウィルタ: уилта、ロシア: Ороки)は、ロシア連邦れんぽうサハリンしゅう樺太からふと(サハリンとう東岸とうがんおも居住きょじゅういきとする少数しょうすう民族みんぞくで、ツングースけいぞくする[1][注釈ちゅうしゃく 1]。その生活せいかつ舞台ぶたいは、伝統でんとうてきには樺太からふと中部ちゅうぶ幌内川ほろないがわ流域りゅういき北部ほくぶのロモウがわ流域りゅういきであった。アイヌからはオロッコ (Orokko) とばれた[2][3]オロチぞくないしオロチョンぞく混同こんどうされることもあるが、ことなる民族みんぞくである[4]本来ほんらい言語げんごツングース諸語しょご系統けいとうであるウィルタである[5]。なお、言語げんご学者がくしゃ中心ちゅうしんにUiltaを「ウイルタ」とくこともある。

ウィルタ、オロッコ
Uilta, Orok
武装ぶそうしたウィルタじん20世紀せいき前半ぜんはんみなみ樺太からふと
そう人口じんこう
ロシアの旗 ロシア 295にん2010ねん国勢調査こくせいちょうさ
 ウクライナ 959にん2001ねん国勢調査こくせいちょうさ
日本の旗 日本にっぽん やく20にん1989ねん推計すいけい
居住きょじゅう地域ちいき
ロシア サハリンしゅう
ウクライナ
日本にっぽん 北海道ほっかいどう
言語げんご
ウィルタロシアウクライナ日本語にほんご
宗教しゅうきょう
正教せいきょうシャーマニズム
関連かんれんする民族みんぞく
アイヌニヴフウリチナナイ

居住きょじゅういき人口じんこう 編集へんしゅう

 
ロシア極東きょくとう地方ちほうの2010ねん国勢調査こくせいちょうさにおけるウィルタ集落しゅうらく

ウィルタは、ロシア連邦れんぽうによる2002ねん国勢調査こくせいちょうさではロシア国内こくないに346にんおり、そのうち、298にんはサハリン(樺太からふと)で生活せいかつしている。おも居住きょじゅういきは、かつてはサハリンとう中部ちゅうぶから北部ほくぶにかけての東岸とうがん幌内川ほろないがわ・ロモウがわ流域りゅういき)であったが、2002ねん調査ちょうさではサハリンとう南部なんぶポロナイスクきゅうじきこうやつぐんじきこうやつまち)に119にん北部ほくぶノグリキ地区ちくのヴァルむらに105にんんでおり、この2箇所かしょ集中しゅうちゅうしている。それ以外いがいでは、ノグリキ地区ちくのノグリキむら、ポロナイスク地区ちくのガステロむらとヴァフルシェフむらのほか、アレクサンドロフスク・サハリンスキー地区ちくのヴィアフトゥむら、スミルニフ地区ちくのスミルヌイクむらオハ地区ちくユジノサハリンスク豊原とよはら)などにらばっている。ウクライナ人口じんこう調査ちょうさでは、自身じしんウィルタ(オロッコ)にぞくするとこたえたひとが959にんにおよんだものの、ウィルタ母語ぼごとするとこたえたひとは12にん(1.25パーセント)だけであった[注釈ちゅうしゃく 2]。サハリンでは、かれらはニヴフ(ギリヤーク)と近接きんせつし、共生きょうせいしている[3]

人口じんこうについては、すべての国勢調査こくせいちょうさがウィルタを独立どくりつした民族みんぞくとしてあつかっているわけではないので、詳細しょうさい情報じょうほうるのは困難こんなんである[3][注釈ちゅうしゃく 3]1926ねん段階だんかいでは、北部ほくぶに162にん南部なんぶふくめたそう人口じんこうやく460にんであった[3]1960ねんでは南部なんぶのウィルタが160にんから170にん程度ていど1989ねんには全体ぜんたいやく190にんという情報じょうほうがある[3]戦争せんそう影響えいきょうつうこんすすんだ影響えいきょうもあって、みずからの出自しゅつじ名乗なのらないひとおおいため、2012ねん段階だんかいで、おお見積みつもってもせいぜい300にん程度ていどではないかとも推計すいけいされている[2]。なお、民族みんぞく学者がくしゃのZ・ソコロフは1990ねん発行はっこう雑誌ざっし『ソビエト民族みんぞく』のなかでウィルタぞくとオロチぞく人口じんこうは1979ねんから1989ねんまでの10ねんで7.7パーセント減少げんしょうしたことに言及げんきゅうしている[3]

民族みんぞく名称めいしょう 編集へんしゅう

この民族みんぞくの、極東きょくとうしょ民族みんぞく区別くべつされるユニークな特徴とくちょうは、民族みんぞくグループにあたえられる呼称こしょう並外なみはずれたおおさであり、それは、ウィルタのほか、オロッコ、オロク、オラカタ、オロツコ、オロホ、オロクコ、オロケス、オロックス、オロチョン、オロンゴドフン、オルニール、ドジン、タズン、トズン、ウルタ、ウイルタ、ウルチャル、ウルカ、オルカ、オルチ、オルチャなど20以上いじょうにおよぶ。「オロッコ」は元来がんらい、アイヌによる他称たしょうである[2][3][4][8]自称じしょうはウィルタ、ウリタ、ウリチャ[5]、ウィッタ、ウルチャ、ウルチェンなどである[8]

自称じしょうの「ウィルタ」「ウリタ」の語源ごげんula (ウィルタで「いならしたトナカイ」の)であり、ウリタとは「トナカイ保有ほゆうしゃ」「飼トナカイととも生活せいかつするひと」をあらわす[9][10]。なお、ウィルタぞくには大陸たいりく住人じゅうにん共通きょうつうするナニ(Nani、「土着どちゃくひと」の)という自称じしょうもある[9]

アイヌによる他称たしょう「オロッコ」、ロシアじんによる他称たしょう「オロク」「オロチェン」などの起源きげんは、まんしゅう・ツングースの「オロ oro家畜かちくとしてのトナカイ)」にもとめられるとかんがえられ、やはり「トナカイのみん」「トナカイ飼養しようしゃ」のであろうと推測すいそくされる[3]

歴史れきし 編集へんしゅう

人類じんるい学者がくしゃ考古こうこ学者がくしゃ鳥居とりい龍蔵りゅうぞうは、かつて『日本書紀にほんしょき』にみられる「粛慎」をウィルタぞく比定ひていしたことがあったが、これには異論いろんもある[4]もとだい以降いこう中国ちゅうごく文献ぶんけん資料しりょうに「䚟因」「またさと于」「使つかい鹿部しかべ」などとみえる種族しゅぞくについては、ウィルタである可能かのうせい指摘してきされている[8]

ウィルタの樺太からふと移住いじゅう 編集へんしゅう

ウィルタの口頭こうとう伝承でんしょうでは、ウィルタのひとびとはウリチやまじん)と歴史れきし共有きょうゆうし、ロシア極東きょくとうアムグンがわ地域ちいきからトナカイをともなって樺太からふと(サハリン)へと移住いじゅうしたことがしめされている。調査ちょうさによると、この移住いじゅうおそくとも17世紀せいきこったとかんがえられている[9][注釈ちゅうしゃく 4]

やま交易こうえき 編集へんしゅう

江戸えど時代じだい中期ちゅうきには、北海道ほっかいどう - 樺太からふと - アムールがわ流域りゅういき舞台ぶたい交易こうえきがあった(やま交易こうえき[11]。ウリチやアイヌニヴフとともにウィルタもこの交易こうえきくわわった[11]やま交易こうえき中心ちゅうしんは、みなみ樺太からふとのアイヌとアムール川下かわしも流域りゅういきんでいたウリチ(やまじん)であり、アイヌは、樺太からふと捕獲ほかくされたテンカワウソキツネ毛皮けがわ日本にっぽんせいてつなべ小刀こがたなみ、一方いっぽう、ウリチがわからは清国きよくにせい絹織物きぬおりもの官服かんぷく(「蝦夷えぞにしき」)、青玉せいぎょくわしなどがもたらされた[11]。タライカ(じきこうやつぐんじきこうやつまち)のウィルタぞくはウリチから中国ちゅうごく製品せいひんをたずさえて南下なんかし、久春ひさはる古丹こたん大泊おおとまりぐん大泊おおとまりまち)の松前まさきはん会所かいしょ交易こうえきした[8]

和人わじん樺太からふと探検たんけん 編集へんしゅう

1700ねん元禄げんろく13ねん)、松前まさきはん江戸えど幕府ばくふ提出ていしゅつした『松前まさきとうごうちょう』の「からとしま」のこうに「おれかた」「にくふん」の記載きさいがみえる[12]。「おれかた」は「オロッコ(ウィルタ)」、「にくふん」はニヴフとかんがえられる。

1800ねん寛政かんせい12ねん)に蝦夷えぞ御用ごようやといにんじられて蝦夷えぞ勤務きんむとなった間宮まみや林蔵りんぞうは、1808ねん文化ぶんか5ねん)、松田まつだでん十郎じゅうろうとともに樺太からふと探検たんけんめいじられた[13]2人ふたりかれてすすみ、でん十郎じゅうろう西海岸にしかいがん林蔵りんぞう東海岸ひがしかいがんすすむこととした[14]林蔵りんぞうはシラヌシ(ほんぐんこうじんむら)からひがしかってタライカ(じきこうやつぐんじきこうやつまち)まで到達とうたつしたが、小舟こぶねなみ翻弄ほんろうされて食糧しょくりょうとぼしくなり、そのさき容易よういすすむことができなかったので、マーヌイ(豊栄ほうえいぐんしろぬいむら)までかえして西海岸にしかいがんて、でん十郎じゅうろうのちってラッカみさきまですすんだ[13][14]。このとき、林蔵りんぞう樺太からふと西岸せいがんのニヴフ集落しゅうらくおとずれ、デレンにかれた清朝せいちょう出先でさき機関きかんのことをいている[注釈ちゅうしゃく 5]1809ねん文化ぶんか6ねん)の探検たんけんによって林蔵りんぞうはナニオーにたっし、樺太からふとしまであることを確認かくにんした[13][14][15]。ニヴフのひとびととともに、のちに「間宮まみや海峡かいきょう」としょうされる海峡かいきょうわたってそとまんしゅうからアムールがわ下流したる地域ちいき到達とうたつしたのである[13][14][15]間宮まみや林蔵りんぞうは、この探査たんさ過程かていでタライカのウィルタ民族みんぞく遭遇そうぐうし、『きた蝦夷えぞ図説ずせつ』などに「ヲロッコえびす」として叙述じょじゅつしたが、これが和人わじんにウィルタのひとびとが紹介しょうかいされる最初さいしょであった[8]

1856ねん樺太からふと踏査とうさした松浦まつうら武四郎たけしろうは『きた蝦夷えぞあまり』をのこし、ウィルタのくわしい図説ずせつえがいた[8]武四郎たけしろうは、ウィルタ語彙ごいのいくつかをカナでのこしており、ウィルタのひとびとの気質きしつについては「懦にしてあつしほお也」としるしている[8]

一方いっぽう、ロシアでウィルタぞく研究けんきゅうはじめたのは、1852ねんのN・ボシュニャックが最初さいしょであった[3]

きん現代げんだい 編集へんしゅう

近代きんだい樺太からふとは、領有りょうゆうけん移動いどうもとづいて区分くぶんすると以下いかのようになる[16]

  1. にち共同きょうどう領有りょうゆう(1855ねん-1875ねん) - にち和親わしん条約じょうやくから樺太からふと千島ちしま交換こうかん条約じょうやくまで
  2. 全島ぜんとうロシアりょう(1875ねん-1905ねん) - 樺太からふと千島ちしま交換こうかん条約じょうやくからポーツマス条約じょうやくまで
  3. 南北なんぼくふん前半ぜんはん(1905ねん-1920ねん) - ポーツマス条約じょうやくから日本にっぽんきたサハリン占領せんりょうまで
  4. 事実じじつじょう全島ぜんとう日本にっぽんりょう(1920ねん-1925ねん) - サガレンしゅう派遣はけんぐんによるきたサハリン占領せんりょう期間きかん
  5. 南北なんぼくふん半期はんき(1925ねん-1945ねん) - にち基本きほん条約じょうやくからだい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつまで
  6. 全島ぜんとうソ連それん・ロシアりょう(1945ねん- ) - だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつ以降いこう

1855ねん下田しもだ条約じょうやくにち和親わしん条約じょうやく以降いこう樺太からふと地域ちいきをつなぐしまから国境こっきょう区切くぎしまへと変貌へんぼうした[11]

ロシア帝国ていこくは、1858ねんアイグン条約じょうやく1860ねん北京ぺきん条約じょうやくののち、ウィルタの土地とち支配しはいするようになった[17]1857ねんから1906ねんにかけて、サハリンに流刑りゅうけい設定せっていされ、多数たすうのロシアの犯罪はんざいしゃ政治せいじ亡命ぼうめいしゃがやってきたが、これはサハリンとうにロシアじんんでいるという既成きせい事実じじつをつくりげようとする営為えいいでもあった[16]流刑りゅうけいしゃのなかには、ウィルタやニヴフ、樺太からふとアイヌ調査ちょうさした重要じゅうよう初期しょき民族みんぞく学者がくしゃであるレフ・シュテルンベルクもいた[18]1875ねん樺太からふと千島ちしま交換こうかん条約じょうやくによってサハリンは全島ぜんとうロシアりょうとなるが、このことのウィルタにあたえた影響えいきょうのひとつにロシア正教せいきょう改宗かいしゅうしたものあらわれたことで、ロシアふう名前なまえどもにつけるひとはじめている[19]

 
「オタスのもり」(じきこうやつぐんじきこうやつまち

一方いっぽうにち戦争せんそう勝利しょうりによって、1905ねん明治めいじ38ねん)、北緯ほくい50以南いなん樺太からふと日本にっぽんりょうとなったが、ウィルタやニヴフは樺太からふと北部ほくぶから中部ちゅうぶにかけての地域ちいきんでいたので、日本人にっぽんじんとのつながりはアイヌと比較ひかくするとだいぶうすかった[11]りょう民族みんぞくたいしては、1920年代ねんだいまで樺太からふとちょうはほぼ放任ほうにん状態じょうたいという姿勢しせいであったが、1926ねんから1927ねんにかけて、日本人にっぽんじんから隔離かくりしてあつまりじゅうさせるという方針ほうしんがとられるようになり、じきこうやつぐんじきこうやつまちにアイヌ以外いがい先住民せんじゅうみん(ウィルタ、ニヴフ、サンダー、キーリン、ヤクート)をしゅうじゅうさせる村落そんらくオタスのもり」が造成ぞうせいされた[11][注釈ちゅうしゃく 6]みなみ樺太からふと開拓かいたくのためだったといわれている[10]。オタスでは1930ねん日本語にほんごによる教育きょういくをおこなう学校がっこう(「土人どじん教育きょういくしょ」)が設立せつりつされ、やく40めい児童じどう実技じつぎけることを重点じゅうてんとした教育きょういくけた[19]。その一方いっぽうでオタスは、民族みんぞくむエキゾチックな空間くうかんとして人気にんきがあり、当時とうじ代表だいひょうてき観光かんこうのひとつとなった[11][20][19]。ただし、実際じっさいには、ウィルタ304めい、ニヴフ109めい1935ねん統計とうけい)のうち、オタスにんだのは半数はんすう以下いかだったといわれている[11]

ウィルタのきゅう日本にっぽんりょうにおける人口じんこう推移すいいは、以下いかとおりである[11]

 
河畔かはんつウィルタの少女しょうじょ(1931ねん

ロシア革命かくめい以前いぜん、ウィルタには5だい氏族しぞくグループがあり、それぞれに独自どくじ移動いどうエリアがあった[21]。しかし、1922ねん成立せいりつしたソビエト連邦れんぽう政府せいふは、ウィルタにたいする従来じゅうらい政策せいさく変更へんこうして、共産きょうさん主義しゅぎイデオロギーにもとづく集団しゅうだん政策せいさく推進すいしんした[22]1932ねんソ連それんりょうきた樺太からふとのウィルタは、少数しょうすうのニヴフ、エヴェンキ、ロシアじんとともに、トナカイ繁殖はんしょく専門せんもんとするヴァルむら集団しゅうだん農場のうじょうくわわった[21]

1933ねん昭和しょうわ8ねん以降いこう日本にっぽんりょうみなみ樺太からふとではアイヌに戸籍こせきあたえられて「内地ないちじんあつかいとなったが、ウィルタやニヴフには戸籍こせきあたえられず、「土人どじんあつかいのままだった[11]樺太からふとアイヌには刑法けいほう民法みんぽう適用てきようされたが、ウィルタとニヴフには刑法けいほうのみが適用てきようされるにとどまった[23]。ただ、同化どうか政策せいさくがなされたのは、ソ連それん統治とうちきたサハリンもおなじであった[20]

1941ねん昭和しょうわ16ねん)、太平洋戦争たいへいようせんそうはじまると、日本にっぽん陸軍りくぐんはウィルタやニヴフのたか身体しんたい能力のうりょくけ、ソ連それんぐんうごきをさぐ活動かつどう従事じゅうじさせた[10][20][23]1942ねん陸軍りくぐん特務とくむ機関きかんは、じきこうやつまち在住ざいじゅうのウィルタ22にん、ニヴフ18にんけい40めい日本にっぽんめいあたえ、諜報ちょうほう部隊ぶたい配置はいちした[10][23]諜報ちょうほういんとして召集しょうしゅうされたものおおくは戦後せんごシベリア抑留よくりゅうされ、そのおおくは同地どうち死去しきょしたといわれる[10]。オタスにそだったウィルタのダーヒンニェニ・ゲンダーヌ北川きたがわ源太郎げんたろう)は、そのなかをのこった[10]

1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつ9にちソ連それんたいにち参戦さんせん8がつ20日はつか樺太からふとたたか樺太からふと全島ぜんとうはソビエト連邦れんぽうりょうとなったが、戦後せんご、ウィルタの一部いちぶには網走あばしり釧路くしろなど北海道ほっかいどう移住いじゅうしたものもいた[5][24]。10ねんちかシベリア抑留よくりゅうけたダーヒンニェニ・ゲンダーヌも網走あばしりうつった一人ひとりである[10]ウィルタのひとびとは、1952ねん昭和しょうわ27ねん)のサンフランシスコ平和へいわ条約じょうやく発効はっこうさい就籍というかたち参政さんせいけん獲得かくとくした[よう出典しゅってん]

ダーヒンニェニ・ゲンダーヌは、スパイ幇助ほうじょざい判決はんけつけて9ねん6かげつにわたって抑留よくりゅうされ、強制きょうせい労働ろうどう従事じゅうじさせられたが、サハリンで「戦犯せんぱんしゃ」の汚名おめいけながら肩身かたみせまおもいをするよりはと1955ねん昭和しょうわ30ねん)、渡航とこうさき京都きょうと舞鶴まいづるこうえらび、じゅう故郷こきょう雰囲気ふんいきている網走あばしりさだめた[2][10]かれは3ねん、サハリンにいるちち北川きたがわゴルゴロあね家族かぞく総勢そうぜい9にんを、9ねん、サハリンのいもうと家族かぞく総勢そうぜい8にん網走あばしりせた[2][注釈ちゅうしゃく 7]1975ねん昭和しょうわ50ねん)には、田中たなかりょうやダーヒンニェニ・ゲンダーヌらの努力どりょくにより、ウィルタ民族みんぞく人権じんけん戦後せんご補償ほしょう問題もんだい解決かいけつする趣旨しゅしにもとづいて「オロッコの人権じんけん文化ぶんかまもかい」が設立せつりつされた[2][10]同年どうねん、かつての上官じょうかん手紙てがみからきゅう軍人ぐんじんには恩給おんきゅう支払しはらわれることをったダーヒンニェニ・ゲンダーヌは、「オロッコの人権じんけん文化ぶんかまもかい」の協力きょうりょくながら申請しんせい手続てつづきをおこなったがみとめられなかった[10][注釈ちゅうしゃく 8]。「オロッコの人権じんけん文化ぶんかまもかい」は、1976ねん12月、「ウィルタ協会きょうかい」と改称かいしょうされた[2][10]1978ねん昭和しょうわ53ねん)、ウィルタはじめ北方ほっぽう民族みんぞく文化ぶんかのこしたいというかれびかけに募金ぼきんあつまり、網走あばしり提供ていきょうした土地とちに「ジャッカ・ドフニ」(ウィルタで「大切たいせつものおさめるいえ」という意味いみ)と名付なづけた資料しりょうかん設立せつりつされた[25]

ウィルタがまもがみとする木偶でく(セワ)の制作せいさくいでいる大広だいこうさくひろしによると、ダーヒンニェニ・ゲンダーヌの義妹ぎまいであった北川きたがわアイ子あいこ2007ねん網走あばしり死去しきょして以降いこう日本にっぽんではウィルタの民族みんぞくてきアイデンティティを名乗なのひとえてしまったという[10][26]あに死後しご彼女かのじょ館長かんちょうつとめた「ジャッカ・ドフニ」は、2010ねん10月31にちをもって閉館へいかんした。「ジャッカ・ドフニ」におさめられていた収蔵しゅうぞうひんは、散逸さんいつすることなく、一括いっかつ北海道ほっかいどうりつ北方ほっぽう民族みんぞく博物館はくぶつかん収蔵しゅうぞうされることになった[27]

一方いっぽうのロシアでは、どもたちがニヴフ、ナナイ、エヴェンキのどもたちとともに寄宿きしゅく学校がっこうロシアによる教育きょういくがほどこされており、ロシア影響えいきょう年々ねんねんつよまっている[3]。ウィルタの民族みんぞく組織そしきがなかったにもかかわらず、N・ソロビョフは1990ねん3月30にちから31にちにかけてモスクワひらかれた北部ほくぶ少数しょうすう民族みんぞく会議かいぎにウィルタぞく代表だいひょうとして参加さんかした[3]

生業せいぎょう 編集へんしゅう

農業のうぎょういとなむことなく、しゅとして小規模しょうきぼトナカイ牧畜ぼくちく狩猟しゅりょう漁撈ぎょろうなどを生業せいぎょうとした[4][10]。ただ、漁撈ぎょろうみんであるニヴフ(ギリヤーク)にくらべるとやまでの生活せいかつおおく、漁撈ぎょろうはやや補助ほじょてきなものであることが昭和しょうわ10年代ねんだい樺太からふと調査ちょうさした研究けんきゅうしゃ犬飼いぬかい哲夫てつおによって報告ほうこくされている[28]はるからなつにかけてはサハリン東部とうぶオホーツクかい沿岸えんがんんで漁撈ぎょろう海獣かいじゅう狩猟しゅりょうにたずさわり、ふゆ内陸ないりく狩猟しゅりょうをおこないながら移動いどう生活せいかつおくった[5][9]狩猟しゅりょう捕獲ほかくする陸上りくじょう動物どうぶつオオカミイノシシキツネヤマネコなどであった[29]移動いどう手段しゅだんはトナカイであり、トナカイの飼料しりょうとなるくさコケさかなじゅうもとめて移動いどうした[8]。トナカイはさかな獣類じゅうるいのほか、しょざつ狩猟しゅりょう漁撈ぎょろうなどの運搬うんぱんにも利用りようされた[2][8]。また、少数しょうすうではあるがサハリン南部なんぶ散在さんざいしてニヴフやアイヌとも接触せっしょく交渉こうしょうをもつものがあった[9]

かれらは民族みんぞくのうえでは、オロチぞくウリチぞくちかいといわれるが、トナカイの繁殖はんしょくにもとづく経済けいざいというてんではかれらとおおきくことなっている[3]。トナカイへの愛着あいちゃくふかく、それはエヴェンキぞく支族しぞくではないかとみなされる契機けいきとなったほどである[3]漁撈ぎょろうにたずさわってきたことがかれらの生活せいかつ様式ようしきつよ影響えいきょうあたえ、遊牧民ゆうぼくみんとしての生活せいかつ習慣しゅうかんをいくらか修正しゅうせいしなければならなかった[3]かれらの移動いどう比較的ひかくてき制限せいげんされていたのは夏季かき漁場ぎょじょう付近ふきんにとどまる必要ひつようがあったためで、はるにはふゆのテントがタイガのなかにのこされた[3]上述じょうじゅつした5氏族しぞくは、それぞれが独自どくじ移動いどうルートをもっていた[3]かれらに独特どくとく慣行かんこうはアムールがわ沿いの交易こうえきしょくわわるため大陸たいりく定期ていきてきおとずれることであった[3]。トナカイをげないようにする工夫くふうとして、ウィルタのひとびとはヤナギわかえだでつくった「カイガリ」という首輪くびわをトナカイのくびき、そのしたにチェーンガイをぶらげてトナカイのあしめる方法ほうほうがあった[2]

ソビエト政権せいけんでは野菜やさい栽培さいばい牧牛ぼくぎゅうあたらしい生業せいぎょうとしてくわわったが、漁撈ぎょろう海獣かいじゅう狩猟しゅりょういまもなお、いくらかの重要じゅうようせいたもっている[3]

ウィルタの男性だんせい
間宮まみや林蔵りんぞう口述こうじゅつ村上むらかみ貞助さだすけひつろくきたえびす分界ぶんかい余話よわまき7「ヲロッコえびす」(1810ねん)より
ウィルタの女性じょせい
間宮まみや林蔵りんぞう口述こうじゅつ村上むらかみ貞助さだすけひつろくきたえびす分界ぶんかい余話よわまき7「ヲロッコえびす」(1810ねん)より

文化ぶんか習俗しゅうぞく 編集へんしゅう

 
キツネがわ手袋てぶくろ(19世紀せいきごろのもの。ドレスデン美術館びじゅつかん所蔵しょぞう

伝統でんとうてき住居じゅうきょエヴェンキ(キーリン)やオロチョンなどのツングースけい民族みんぞく同様どうよう比較的ひかくてきほそみきはしらなんほんんで、外部がいぶ毛皮けがわおおった天幕てんまくしき住居じゅうきょであった[4][8]。テントしき住居じゅうきょは、円錐えんすいがたのものとむねもうけるものがあった[8]屋根やねおおいは冬季とうきにあってはつづあわせたカバノキ樹皮じゅひもしくはさかながわ初夏しょかからあきにかけてはいだ雑木ざつぼくかわもちいた[8]。1932ねん設立せつりつされたトナカイ繁殖はんしょくせんもんおこなうヴァルの集団しゅうだん農場のうじょうにはウィルタのほか、ニヴフ、エヴェンキ、ロシアじんくわわったが、そこでの住居じゅうきょはロシアふう丸太まるた小屋こやであった[3]

衣服いふくのうち、はだうえものおおくはさかなかわせいであった。獣皮じゅうひ衣服いふくもちいられ、木綿こわたころもはウリチ(やまじん)との交易こうえき入手にゅうしゅしたという[8]。キツネの毛皮けがわ利用りようした手袋てぶくろなどももちいていた。

ヘアスタイル男子だんしおも斬髪ざんぱつ女子じょし辮髪べんぱつであった[4]

「イルガ」とばれる独特どくとく連続れんぞく文様もんようがあり、衣服いふくぬの製品せいひん小物こもの食器しょっきなどあらゆるものにほどこされてきた[30]。また、ウィルタ独自どくじかみ細工ざいくやその型紙かたがみのことを「イルガ」ということもある[2]。ウィルタではかわなめし、とりわけトナカイのかわをなめす技術ぎじゅつ発達はったつしており、刺繍ししゅう巧妙こうみょうである[2]ぬのくさなどでつくる人形にんぎょうづくりもさかんで、このような人形にんぎょうを、ウィルタでは「ホホー」といった[31]

言語げんご 編集へんしゅう

言語げんごは、広義こうぎツングース分類ぶんるいされ、アムールがわ下流かりゅうウリチぞくはなウリチナナイぞくはなナナイている[3][4]。エヴェンキやネギダールとも共通きょうつう特徴とくちょう共有きょうゆうしている[3]固有こゆう文字もじたなかったが[4]現在げんざいではキリル文字もじ表記ひょうきすることができる。

一人ひとりいちにんだい自然しぜんのなかで自立じりつしてき、しょう人数にんずうでトナカイととも移動いどう生活せいかつをしてきたため、さまざまな民族みんぞくとかかわってきてきたウィルタは、文字もじこそゆうしなかったものの語学ごがく能力のうりょくにはけており、おおくはすう言語げんごあやつった[10]。また、文字もじたないためにつね記憶きおくすることが幼少ようしょうから習慣しゅうかんされていて、記憶きおくりょくにもすぐれているという[2][10]

精神せいしん生活せいかつ 編集へんしゅう

シャーマニズム信仰しんこう基盤きばんとなっている[4][29]。シャーマン(サマ)は、ちょう自然しぜんてき能力のうりょく透視とうしりょくをもつものとして尊敬そんけいされた[32]。シャーマンはボオ(てん。ウィルタのかみ)のおしえをけたものとして、予言よげん病者びょうしゃ治療ちりょうにあたり[10]狩猟しゅりょう漁撈ぎょろう成功せいこう祈願きがんし、また、死者ししゃ霊魂れいこん他界たかいおく儀礼ぎれいを、そのために設営せつえいされた祭壇さいだんおこなった[32]祭壇さいだんにはたかはしらもうけられたが、ウィルタのはしらは「トゥルー(turu)」とばれ、彫刻ちょうこくほどこされていた[32]ひとびとは、みずからのまもがみとして木偶でく「セワ」をつくるなどの宗教しゅうきょうてきいとなみをおこなっていた[26]。「セワ」はひとかたちをしたものがおおく、とくどもが病気びょうきにかかったさいには母親ははおやが50センチメートルから70センチメートルだいの「セワ」をつくって家屋かおく戸口とぐちかざるならわしがあり、シャーマンのいのちからりて災禍さいか天空てんくうはなったという[26]。シャーマンのもちいるトナカイのかわせい太鼓たいこを「ダーリ」といい、たたくバチを「ギシプ」といった[2]。シャーマンがおどさいには、こししたにいくつもの金具かなぐならべておとす「ヤークパ」やふくろりのなかしょう砂利じゃりれた打楽器だがっき「ヨードプ」でリズムをとった[2]

ウィルタには、自分じぶんたちの祖先そせんユーラシア大陸たいりくからトナカイをともなってサハリンに移住いじゅうしてきたといういいつたえがあった[9]。ウィルタ文化ぶんかには、物質ぶっしつ文化ぶんかのみならず精神せいしん文化ぶんかにおいてもアムールがわ流域りゅういき先住民せんじゅうみん共通きょうつうする特徴とくちょうがある[5]しま造化ぞうかしんとして神話しんわ登場とうじょうする海神わたつみ「ハダウ」もそのいちれいである[5]

葬送そうそう一般いっぱん土葬どそうである[2]。ただし、冬季とうき土葬どそうむずかしいので遺体いたいをくるんで動物どうぶつべられないように樹木じゅもくしばっておくこともあった[2]。ウィルタでは、土葬どそうされたひと土中どちゅうねむつづけ、やがてかみになるとしんじられた[2]

社会しゃかい生活せいかつ 編集へんしゅう

ウィルタ社会しゃかいは、父系ふけいてきそとこん規制きせいのある氏族しぞく組織そしきをもっていた[8][29]氏族しぞく組織そしきは、「ガサ」ないし「ガシャ」としょうされ、集団しゅうだんんで移動いどうするが、その移動いどう範囲はんいはガサ(ガシャ)ごとにほぼ一定いっていであった[4]。ウィルタのひとびとはトナカイをうため、いぬ民族みんぞくには近寄ちかよらず、民族みんぞくとの結婚けっこんをなるべくけようとする傾向けいこうがあり、結婚けっこん相手あいて民族みんぞくでもいやがらない社交しゃこうてきなニヴフ(ギリヤーク)とは対照たいしょうてきであるという[33]

ウィルタ社会しゃかい本来ほんらい特徴とくちょうは、1.戦争せんそうあらそいをこのまないこと、2.上下じょうげ関係かんけい階級かいきゅうをもたないこと、3.私有しゆう観念かんねん薄弱はくじゃくであることなどであるという[10]食糧しょくりょう大地だいちからのめぐみとして必要ひつよう以上いじょうには捕獲ほかくせず、まずしいものにはあたえ、相互そうご扶助ふじょ精神せいしん発達はったつしていた[10]上述じょうじゅつしたシャーマンも階級かいきゅうてき要素ようそをもたないものである[10]

通過つうか儀礼ぎれい 編集へんしゅう

ウィルタの少年しょうねんたちは、ときればチョウザメりに参加さんかし、通常つうじょうオオチョウザメまたはダウリアチョウザメをさがした。これには、通常つうじょういち週間しゅうかんぶんのわずかな食料しょくりょう特殊とくしゅやり武装ぶそうした少年しょうねん1人ひとりかけることがふくまれていた。チョウザメを仕留しとめると、ハンターはそのを1つり、がくうでしるしきざむ。これは、漁猟ぎょりょう成功せいこうしたことをしめあかしである。さかなおおきさ、つよさ、はげしさのために、首尾しゅびよくチョウザメをころすことができず、おおくのハンターがいのちとしたという。

身体しんたいてき特徴とくちょう 編集へんしゅう

種族しゅぞくとの混血こんけつみとめられるが[4]たんあたまこうあたま頬骨ほおぼね発達はったつし、にはこうむひだがなく、一重ひとえながである[4][8][29]頭髪とうはつ黒褐色こっかっしょくちょくで、ヒゲをはじめ体毛たいもうすくない[4][8][29]くちびるうす[34]皮膚ひふいろ褐色かっしょくモンゴロイド特徴とくちょうていしている[4]。ニヴフに比較ひかくすると、ウィルタのひとびとの皮膚ひふ毛髪もうはついろ際立きわだってあかるい[34]。これは、ネギダール、ナナイについても同様どうよう傾向けいこう指摘してきできる[34]

日本にっぽんのウィルタ民族みんぞく著名ちょめいじん 編集へんしゅう

  • 北川きたがわゴルゴロ(1899ねんごろ - 1978ねん)・・・日本にっぽんめい:北川きたがわ五郎ごろう、ウィルタめい:ダーヒンンェニ・ゴルゴロ(Daxinnieni Gorgolo)。ウィルタのシャーマン。樺太からふと出身しゅっしん
  • 佐藤さとうチヨ(1910ねん? - 1985ねん)・・・ウィルタめい:ナプカ。みなみ樺太からふとオタスじきこうやつぐんじきこうやつまち出身しゅっしん釧路くしろ死去しきょ。ウィルタのかた
  • ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ (Dahinien Gendanu / Daxinnieni Geldanu、1926ねんごろ戸籍こせきじょうは1924ねん3がつ17にち) - 1984ねん7がつ8にち)・・・日本にっぽんめい北川きたがわ源太郎げんたろう北川きたがわゴルゴロの養子ようし民族みんぞく研究けんきゅう運動うんどう。ウィルタ文化ぶんか継承けいしょう普及ふきゅう努力どりょく。「ジャッカ・ドフニ」設立せつりつしゃ館長かんちょうみなみ樺太からふとのオタス出身しゅっしん
  • 北川きたがわアイ子あいこ(1928ねん - 2007ねん12月16にち)・・・ダーヒンニェニ・ゲンダーヌの義妹ぎまい。オタス出身しゅっしん。「フレップかい」の顧問こもんや「ジャッカ・ドフニ」の館長かんちょうつとめた[注釈ちゅうしゃく 9]

ウィルタを題材だいざいにした作品さくひん 編集へんしゅう

  • 野田のだサトルゴールデンカムイ』(漫画まんが・アニメ) - 樺太からふとへんにおいてその習俗しゅうぞくえがかれ、ウィルタ研究けんきゅうしゃ監修かんしゅう表現ひょうげんされている。

脚注きゃくちゅう 編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく 編集へんしゅう

  1. ^ アムールがわ黒竜江こくりゅうこう流域りゅういきおよび沿海州えんかいしゅう樺太からふと生活せいかつするツングース・まんしゅうけい民族みんぞくは、ウィルタ以外いがいではナナイオロチウリチウデヘまんしゅうネギダールしょぞくがいる[1]ニヴフとアイヌはパレオアジアけいぞくする[1]
  2. ^ 179にん(19パーセント)がウクライナ母語ぼご、710にん(74パーセント)がロシア母語ぼごこたえた[6]一方いっぽう1989ねんのソビエト連邦れんぽう国勢調査こくせいちょうさでは、ウクライナ・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくにはウィルタは2にんしかいなかった[7]
  3. ^ 1959ねんと1979ねん国勢調査こくせいちょうさでは、ウィルタは独立どくりつ民族みんぞくとして登録とうろくされていなかった[3]
  4. ^ ウィルタは、元来がんらいはアムグンがわ地方ちほうにいたエヴェンキぞくであるという推測すいそくもある[9]
  5. ^ デレンのまんしゅうかりについては、候補こうほが3かしょほどあり、なかでも現在げんざいノヴォイリノフカロシアばんにあった可能かのうせいたかいとするせつ提唱ていしょうされている[15]
  6. ^ 樺太からふとちょう対応たいおう急変きゅうへんは、1925ねんきたサハリン保障ほしょう占領せんりょう終了しゅうりょうにともない、「トナカイおう」とばれたサハ(ヤクート)の資産しさんヴィノクーロフがきた樺太からふとより亡命ぼうめいしたことが影響えいきょうしているといわれる[11]。なお、「オタス」とはアイヌで「砂地すなじ」という意味いみであった[2]
  7. ^ 日本にっぽんのためにたたかい、苦労くろうもしたかれであったが、かれあたたかくむかえたひとはなく、戸籍こせきがないことも判明はんめいし、当初とうしょ就職しゅうしょくすらできなかったという[10]
  8. ^ 許可きょか理由りゆうとして、戸籍こせきほう適用てきようけていないものには兵役へいえきほう適用てきようされないこと、兵役へいえきほうにもとづかない召集令状しょうしゅうれいじょう無効むこうであること、無効むこう召集令状しょうしゅうれいじょうらずにけて従軍じゅうぐんし、そのために戦犯せんぱんしゃとして抑留よくりゅうされたとしても日本にっぽん政府せいふ関知かんちするところではないことなどの5てん政府せいふ見解けんかいとしてしめされた[10]
  9. ^ フレップかいは、日本にっぽん最初さいしょのウィルタ刺繍ししゅうサークルである[10]。なお、「フレップ」とはアイヌコケモモ(カウベリー)という意味いみで、ウィルタのひとびとがこのんでしょくした果実かじつである[10]

出典しゅってん 編集へんしゅう

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  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 弦巻つるまき宏史ひろし榎澤えのさわ幸広ゆきひろ「ウィルタとはなにか? -弦巻つるまき宏史ひろし先生せんせい講演こうえん記録きろくから かれらの憲法けんぽうかんかんがえるために- だい」『名古屋学院大学なごやがくいんだいがく論集ろんしゅう 社会しゃかい科学かがくへんだい48かんだい3ごう名古屋学院大学なごやがくいんだいがく、87-113ぺーじ、2012ねん1がつNAID 120006009768 
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  5. ^ a b c d e f 荻原おぎわら(1988)p.151
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  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p ほら(1980)p.956
  9. ^ a b c d e f g 荻原おぎわら(1989)p.77
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  32. ^ a b c 荻原おぎわら(1989)pp.120-121
  33. ^ 髙橋(2008)pp.73-77
  34. ^ a b c 荻原おぎわら(1989)p.92

参考さんこう文献ぶんけん 編集へんしゅう

関連かんれん項目こうもく 編集へんしゅう

外部がいぶリンク 編集へんしゅう