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三上次男 - Wikipedia

三上みかみ次男つぐお

日本にっぽん学者がくしゃ

三上みかみ 次男つぐお(みかみ つぎお、1907ねん明治めいじ40ねん3月31にち[1] - 1987ねん昭和しょうわ62ねん6月6にち[1])は、日本にっぽん東洋とうよう学者がくしゃ考古こうこ学者がくしゃ日本学士院にほんがくしいん会員かいいん東京大学とうきょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ出光いでみつ美術館びじゅつかん理事りじ中近東ちゅうきんとう文化ぶんかセンター理事りじちょうごうしろ水子みずこ[1]

三上みかみ 次男つぐお
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん (1907-03-31) 1907ねん3月31にち
日本の旗 日本にっぽん京都きょうと宮津みやづまち
死没しぼつ 1987ねん6月6にち(1987-06-06)(80さいぼつ
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 東洋とうようがく考古学こうこがく
研究けんきゅう機関きかん 東京大学とうきょうだいがく
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専攻せんこう東洋とうようとく東北とうほくアジアふみ)・騎馬きば民族みんぞく国家こっか研究けんきゅうや、東洋とうよう陶磁器とうじき著名ちょめいとく後者こうしゃ東西とうざい交流こうりゅう研究けんきゅううみシルクロード)における「陶磁とうじ貿易ぼうえき」を開拓かいたくした。

来歴らいれき

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北前きたまえせん運営うんえいかかわった元結もとゆい[注釈ちゅうしゃく 1]さん上家うわや親族しんぞくとして京都きょうと宮津みやづまちげん宮津みやづ)にまれた[2]小学しょうがく5年生ねんせいまで宮津みやづごし[2]、その家族かぞくとも北海道ほっかいどう移住いじゅうした。1932ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく東京大学とうきょうだいがく文学部ぶんがくぶ東洋とうよう学科がっか卒業そつぎょう[1][3]東亜とうあ考古こうこ学会がっかい留学生りゅうがくせいとして戦前せんぜん中国ちゅうごく考古学こうこがく勉学べんがくはげんだ[1]1939ねん東京大学とうきょうだいがく文学部ぶんがくぶ講師こうし[1]1949ねんどう教授きょうじゅ[1]。この時期じき鎌倉かまくらアカデミアでも講義こうぎ1967ねん東京とうきょう大学だいがく退官たいかん[1]どう大学だいがく名誉めいよ教授きょうじゅ[1]青山学院大学あおやまがくいんだいがく教授きょうじゅ(- 1977ねんまで)[1]東宮とうぐういえげん皇室こうしつ)の東洋とうよう教師きょうしつとめ、世界せかい教科書きょうかしょ編纂へんさんにもおおかかわった。さらに理事りじつとめる出光いでみつ美術館びじゅつかんでは週末しゅうまつ講義こうぎおこなった[注釈ちゅうしゃく 2]。1986ねん日本にっぽんはつのトルコ古代こだい遺跡いせき発掘はっくつたい隊長たいちょうつとめた[1]

このほか、日本にっぽん学術がくじゅつ会議かいぎ会員かいいん(1972ねん - 1975ねん)、日本にっぽんユニセフ国内こくない委員いいんかい委員いいん(1972ねん - 1981ねん)、出光いでみつ美術館びじゅつかん理事りじ(1966ねん - 1987ねん)、中近東ちゅうきんとう文化ぶんかセンター理事りじちょう(1978ねん)などを歴任れきにんした[1]

1969ねん陶磁とうじみち』で毎日まいにち出版しゅっぱん文化ぶんかしょうだい23かい)、1974ねんきむふみ研究けんきゅう』で日本学士院にほんがくしいん恩賜おんししょう[1]1986ねん日本学士院にほんがくしいん会員かいいんとなった。1950年代ねんだい以降いこうは、エジプトなど地中海ちちゅうかい紅海こうかい地域ちいきや、イランなど西にしアジア中近東ちゅうきんとう各国かっこく日本にっぽん各地かくちで、陶磁とうじ研究けんきゅうでのかまあと遺跡いせきとう発掘はっくつ調査ちょうさおおった。なおこの方面ほうめんでの著作ちょさく生前せいぜん刊行かんこう)は、図版ずはん解説かいせつおもであった。

墓所はかしょは、出光いでみつ美術館びじゅつかん初代しょだい館長かんちょう出光いでみつ佐三さぞう出光興産いでみつこうさん創業そうぎょうしゃ)、鎌倉かまくらアカデミア同僚どうりょう三枝さえぐさ博音ひろと横浜市立大学よこはましりつだいがく学長がくちょう)や高見たかみじゅん作家さっか)とともに、鎌倉かまくら東慶寺とうけいじにある。

たんちょ

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  • 三上みかみ次男つぐお著作ちょさくしゅう1 陶磁とうじ貿易ぼうえき研究けんきゅう 上巻じょうかん ひがしアジア・東南とうなんアジアへん中央公論ちゅうおうこうろん美術びじゅつ出版しゅっぱん、1987ねん
  • 三上みかみ次男つぐお著作ちょさくしゅう2 陶磁とうじ貿易ぼうえき研究けんきゅう ちゅうまき みなみアジア・西にしアジアへん同上どうじょう、1988ねん
  • 三上みかみ次男つぐお著作ちょさくしゅう3 陶磁とうじ貿易ぼうえき研究けんきゅう 下巻げかん 中近東ちゅうきんとうへん同上どうじょう、1988ねん
  • 三上みかみ次男つぐお著作ちょさくしゅう4 中国ちゅうごく陶磁とうじ研究けんきゅう同上どうじょう、1989ねん
  • 三上みかみ次男つぐお著作ちょさくしゅう5 日本にっぽん朝鮮ちょうせん陶磁とうじ研究けんきゅう同上どうじょう、1989ねん
  • 三上みかみ次男つぐお著作ちょさくしゅう6 イスラーム陶器とうき研究けんきゅう同上どうじょう、1990ねん別冊べっさつ三上みかみ次男つぐお著作ちょさく目録もくろく
  • 高句麗こうくり渤海吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1990ねん、オンデマンドばん2018ねん
  • 東北とうほくアジア研究けんきゅう1 まん原始げんし墳墓ふんぼ研究けんきゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1961ねんだい2はん1977ねん
  • 東北とうほくアジア研究けんきゅう2 古代こだい東北とうほくアジア研究けんきゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1966ねんだい2はん1977ねん
  • かね研究けんきゅう1 金代かなだいおんなしん社会しゃかい研究けんきゅう中央公論ちゅうおうこうろん美術びじゅつ出版しゅっぱん、1970ねん
  • かね研究けんきゅう2 金代かなだい政治せいじ制度せいど研究けんきゅう同上どうじょう、1971ねん
  • かね研究けんきゅう3 金代かなだい政治せいじ社会しゃかい研究けんきゅう同上どうじょう、1972ねん
  • 陶磁とうじみち紀行きこう Ⅰ・Ⅱ』中央公論ちゅうおうこうろん美術びじゅつ出版しゅっぱん(制作せいさく)、1993ねん横書よこが表記ひょうき登美子とみこ夫人ふじんあとがき、1964ねんと1972ねん調査ちょうさ日記にっき
  • みなみアジア紀行きこう』『西にしアジア紀行きこう同上どうじょう、1997ねん。1955-56ねん調査ちょうさ日記にっき

共著きょうちょ編著へんちょ図版ずはん解説かいせつ

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記念きねん論集ろんしゅう

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  • 東洋とうよう考古学こうこがく論集ろんしゅう 三上みかみ次男つぐお博士はかせ頌寿記念きねん朋友ほうゆう書店しょてん、1979ねん
  • 三上みかみ次男つぐお博士はかせ喜寿きじゅ記念きねんろん文集ぶんしゅう 歴史れきしへん考古こうこへん陶磁とうじへん平凡社へいぼんしゃ、1985ねん8がつ。3分冊ぶんさつ刊行かんこう

回想かいそう図版ずはん目録もくろく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 宮津みやづはん有数ゆうすう商家しょうかで、江戸えど時代じだいには町名ちょうめいぬしなどをつとめ、はん財政ざいせい運営うんえいかかわった。
  2. ^ 両者りょうしゃでの講義こうぎゼミが、没後ぼつご刊行かんこう著作ちょさく

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 三上みかみ次男つぐお :: ひがしぶんけんアーカイブデータベース”. www.tobunken.go.jp. 独立どくりつ行政ぎょうせい法人ほうじん国立こくりつ文化財ぶんかざい機構きこう東京とうきょう文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ. 2023ねん9がつ19にち閲覧えつらん
  2. ^ a b だい63かい 東洋とうよう考古こうこ学者がくしゃ三上みかみ次男つぐおと「うみみち”. www.city.miyazu.kyoto.jp. 宮津みやづ. 2023ねん9がつ19にち閲覧えつらん
  3. ^ 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく卒業生そつぎょうせい氏名しめいろく東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく、1939ねん、p.343