東宮とうぐう(とうぐう・みこのみや)、あるいは春宮とうぐう (しゅんぐう・はるのみや)とは、皇太子こうたいしの居所きょしょ、つまり住居じゅうきょする場所ばしょを意味いみし、転てんじて、皇太子こうたいしそのものを意味いみする言葉ことばにもなった。
中国ちゅうごくでは古代こだいから、東ひがしにも春はるにも五ご行ぎょう思想しそうでの「若わかい」という意味いみがあり、また易えき経けいでは東ひがしを『震しん』=長男ちょうなんとすることから、皇太子こうたいしの住居じゅうきょを皇居こうきょの東ひがしに配はいしたことに由来ゆらいする。
古代こだい日本にっぽんの史料しりょうにおける東宮とうぐう・春宮とうぐうの初はつ見みは、『日本書紀にほんしょき』巻まき第だい二に十じゅう一いちの
是ぜの皇子おうじ(=厩戸皇子うまやどのおうじ)、初はじめ上宮かみみや(かみつみや)に居い(ましま)しき。後のち(のち)に斑鳩いかる(いかるが)に移うつりたまふ。豊ゆたか御ご食しょく炊屋姫ひめ天皇てんのう(とよみけかしきやひめのすめらみこと)(=推古天皇すいこてんのう)の世よ(みよ)にして東宮とうぐう(みこのみや)に位くらい居きょ(ましま)す[1]
であり、さらに『日本書紀にほんしょき』巻まき第だい三さん十じゅうには
直ちょく広こう壱いち(ぢきくゎういち)当麻とうま真人まさと国見くにみを以もって東宮とうぐう大だい傅でん(みこのみやのおほきかしづき)とす。直ちょく広こう参さん(ぢきくゎうさむ)路みち真人しんじん跡見あとみをもて春宮とうぐう大夫たいふ(みこのみやのつかさのかみ)とす。直ちょく大だい肆(ぢきだいし)巨勢こせ朝臣あそん粟あわ持じ(こせのあそみあはもち)をもて亮あきらとす[2]
とある。同年どうねんには無む遮さえぎ大会たいかいを東宮とうぐうに設もうけた[3]、ともある。
職しょく司しとして、皇太子こうたいしの輔導ほどうを管掌かんしょうとする東宮とうぐう傅でん、及および東宮とうぐう学士がくしがあり、東宮とうぐう職しょくに属ぞくした。また皇太子こうたいしの宮みやの内政ないせいを取とり扱あつかう役所やくしょを春宮とうぐう坊ぼうといい、その付属ふぞく機関きかんとして三さん監かん・六ろく省しょうを配下はいかに置おいた。
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