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ウィルタ協会 - Wikipedia

ウィルタ協会きょうかい

北方ほっぽう少数しょうすう民族みんぞく復権ふっけん文化ぶんか保全ほぜん運動うんどうおこな日本にっぽん団体だんたい

ウィルタ協会きょうかい(ウィルタきょうかい)は、かつて日本にっぽんりょうだった北緯ほくい50以南いなん樺太からふと(サハリン)にんでいた先住民せんじゅうみんぞくウィルタ(オロッコ)の復権ふっけん文化ぶんか保全ほぜん目的もくてきとした日本にっぽん団体だんたい。ウィルタだけでなく、ニヴフ(ギリヤーク)やアイヌなどの北方ほっぽう少数しょうすう民族みんぞく復権ふっけん文化ぶんか保全ほぜん活動かつどうおこなっている。1975ねん昭和しょうわ50ねん7がつ12にちに、ウィルタぞくダーヒンニェニ・ゲンダーヌ北川きたがわ源太郎げんたろう)による日本にっぽん政府せいふ告発こくはつをきっかけに、「オロッコの人権じんけん文化ぶんかまもかい」として結成けっせいされ(当時とうじ会長かいちょう網走あばしり会議かいぎいん窪田くぼた茂人しげと)、よく1976ねん12月にウィルタ協会きょうかい改称かいしょうした。どう協会きょうかいは「オロッコ」を蔑称べっしょうとみなしている[注釈ちゅうしゃく 1]慰霊いれい建立こんりゅう資料しりょうかんジャッカ・ドフニ2010ねん10月31にち閉館へいかん)の建設けんせつにたずさわった。樺太からふと同胞どうほうとの交流こうりゅうなどもおこなっている。

概要がいよう

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1941ねん昭和しょうわ16ねん)、太平洋戦争たいへいようせんそうはじまると、日本にっぽん陸軍りくぐん樺太からふと先住民せんじゅうみんぞくウィルタやニヴフのたか身体しんたい能力のうりょく現地げんち地理ちりくわしいことにけ、ソビエト連邦れんぽうぐんうごきをさぐ活動かつどう従事じゅうじさせた[3][4][5]1942ねん陸軍りくぐん特務とくむ機関きかんは、じきこうやつぐんじきこうやつまち在住ざいじゅうのウィルタ22にん、ニヴフ18にんけい40めい日本にっぽんめいあたえ、諜報ちょうほう部隊ぶたい配置はいちした[3][5]諜報ちょうほういんとして召集しょうしゅうされたものおおくは戦後せんごシベリア抑留よくりゅうされ、そのおおくは同地どうち死去しきょしたといわれる[3]オタスそだったウィルタのダーヒンニェニ・ゲンダーヌ(北川きたがわ源太郎げんたろう)もそうしたひとりであったが、かれはそのなかをのこった[3]1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつ9にちソ連それんたいにち参戦さんせん8がつ20日はつか樺太からふとたたか樺太からふと全島ぜんとうはソビエト連邦れんぽうりょうとなったが、戦後せんご、ウィルタの一部いちぶには網走あばしり釧路くしろなど北海道ほっかいどう移住いじゅうしたものもいた[6][7]。ウィルタのひとびとは、1952ねん昭和しょうわ27ねん)のサンフランシスコ平和へいわ条約じょうやく発効はっこうさい就籍というかたち参政さんせいけん獲得かくとくした。

ダーヒンニェニ・ゲンダーヌは、スパイ幇助ほうじょざい判決はんけつけて9ねん6かげつにわたってシベリア抑留よくりゅうけ、そこで強制きょうせい労働ろうどう従事じゅうじさせられたが、サハリンで「戦犯せんぱんしゃ」の汚名おめいけながら肩身かたみせまおもいをするよりはと1955ねん昭和しょうわ30ねん)、渡航とこうさき京都きょうと舞鶴まいづるこうえらび、じゅう故郷こきょう雰囲気ふんいきている網走あばしりさだめた[3][8]かれは3ねん、サハリンにいるちち北川きたがわゴルゴロあね家族かぞく総勢そうぜい9にんを、9ねん、サハリンのいもうと家族かぞく総勢そうぜい8にん網走あばしりせた[8][注釈ちゅうしゃく 2]1975ねん昭和しょうわ50ねん)には、田中たなかりょうやゲンダーヌらの努力どりょくにより、ウィルタ民族みんぞく人権じんけん戦後せんご補償ほしょう問題もんだい解決かいけつする趣旨しゅしにもとづいて「オロッコの人権じんけん文化ぶんかまもかい」が設立せつりつされた[8][3]同年どうねん、かつての上官じょうかん手紙てがみからきゅう軍人ぐんじんには恩給おんきゅう支払しはらわれることをったゲンダーヌは、「オロッコの人権じんけん文化ぶんかまもかい」の協力きょうりょくながら申請しんせい手続てつづきをおこなったがみとめられなかった[3]許可きょか理由りゆうとして、

  1. 戸籍こせきほう適用てきようけていないものには兵役へいえきほう適用てきようされないこと
  2. 兵役へいえきほうした特務とくむ機関きかんちょうには召集しょうしゅうけんがないこと
  3. 兵役へいえきほうにもとづかない召集令状しょうしゅうれいじょう無効むこうであること
  4. 無効むこう召集令状しょうしゅうれいじょうらずにけて従軍じゅうぐんし、そのために戦犯せんぱんしゃとして抑留よくりゅうされたとしても日本にっぽん政府せいふ関知かんちするところではないこと
  5. 現行げんこう恩給おんきゅうほうしたでは適用てきようがいであること

の5てん政府せいふ見解けんかいとしてしめされた[3]。ゲンダーヌは、それまで日本人にっぽんじん北川きたがわ源太郎げんたろう名乗なのってきたが、そのて、ウィルタ「ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ」としてきることを決意けついした[3][9]かれは、こういている[9]

戦争せんそうときには日本人にっぽんじんとして使つかう。戦争せんそうおわればまたてる。チクショウ、わたしたちはいぬコロじゃないんだ。ええい、チクショウ! いつになったら戦後せんごおわるのか[9]

「オロッコの人権じんけん文化ぶんかまもかい」は、1976ねん12月、「ウィルタ協会きょうかい」と改称かいしょうされた[3][8]1978ねん昭和しょうわ53ねん)、ウィルタはじめ北方ほっぽう民族みんぞく文化ぶんかのこしたいというかれびかけに募金ぼきんあつまり、網走あばしり提供ていきょうした土地とちに「ジャッカ・ドフニ」(ウィルタで「大切たいせつものおさめるいえ」という意味いみ)と名付なづけた資料しりょうかん設立せつりつされた[10]

樺太からふと同胞どうほうとの交流こうりゅうは、1981ねん昭和しょうわ56ねん)7がつにその1かい実現じつげんした[3]歓迎かんげいパーティーの最後さいごにゲンダーヌは「これからは、ウィルタ、ニブヒなどの少数しょうすう民族みんぞくちからわせて一緒いっしょしあわせをきずこう。自分じぶんたちのしあわせは、自分じぶんたちのちかられよう」と挨拶あいさつした[3]苦難くなんをともにしたウィルタ・ニヴフ戦没せんぼつしゃ慰霊いれい(「キリシエ」)は、網走あばしり国定こくてい公園こうえんうち1982ねん昭和しょうわ57ねん)5がつてられた[3]慰霊いれいたかさ2.4メートル、はば1.3メートル、白色はくしょく御影石みかげいし台座だいざ濃緑こみどり蛇紋じゃもんせきいしぶみて、その表側おもてがわには「せいねむり」、台座だいざには「きみたちのをムダにはしない 平和へいわのねがいをこめて」の文字もじこくされた[3]いしぶみ裏側うらがわには「1942ねん 突然とつぜん召集令状しょうしゅうれいじょうをうけ サハリンのきゅう国境こっきょうで そして戦後せんご 戦犯せんぱんしゃ汚名おめいをきせられ シベリアで非業ひごうをとげたウィルタ ニブヒの若者わかものたち そのすう30めいにのぼる 日本にっぽん政府せいふが いかに責任せきにんをのがれようとも このいしぶみは いつまでも歴史れきし事実じじつかたりつぐことだろう ウリンガジ アクパッタァリシュ(しずかにねむれ)」というぶんきざまれている[3]

ウィルタがまもがみとする木偶でく(セワ)の制作せいさくいでいる大広だいこうさくひろしによれば、ダーヒンニェニ・ゲンダーヌの義妹ぎまいであった北川きたがわアイ子あいこ2007ねん網走あばしり死去しきょして以降いこう日本にっぽんではウィルタの民族みんぞくてきアイデンティティを名乗なのひとえてしまったという[3][11][注釈ちゅうしゃく 3]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 「オロッコ」は元来がんらい、アイヌによる他称たしょうであった[1][2]
  2. ^ 日本にっぽんのためにたたかい、苦労くろうもしたかれであったが、かれあたたかくむかえたひとはなく、戸籍こせきがないことも判明はんめいし、当初とうしょ就職しゅうしょくすらできなかったという[3]
  3. ^ 「ジャッカ・ドフニ」は、あに死後しご北川きたがわアイ子あいこ館長かんちょうつとめたが、2010ねん10月31にちをもって閉館へいかんした[12]。「ジャッカ・ドフニ」におさめられていた収蔵しゅうぞうひんは、散逸さんいつすることなく、一括いっかつ北海道ほっかいどうりつ北方ほっぽう民族みんぞく博物館はくぶつかん収蔵しゅうぞうされることになった[12]

出典しゅってん

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  1. ^ ほら(1980)p.956
  2. ^ Ants Viires (1993ねん8がつ). “The red book of the Russian Empire. "THE OROCS"”. The Peoples of the Red Book. The Redbook. 2022ねん8がつ5にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 榎澤えのさわ幸広ゆきひろ「ウィルタとはなにか? -弦巻つるまき宏史ひろし先生せんせい講演こうえん記録きろくから かれらの憲法けんぽうかんかんがえるために- だい一部いちぶ」『名古屋学院大学なごやがくいんだいがく論集ろんしゅう 社会しゃかい科学かがくへんだい48かんだい3ごう名古屋学院大学なごやがくいんだいがく、80-87ぺーじ、2012ねん1がつNAID 120006009768 
  4. ^ 真野まのもりさく. “あの人気にんき漫画まんが舞台ぶたい樺太からふと」の戦前せんぜん戦中せんちゅう、そして戦後せんご”. 政治せいじプレミア. 毎日新聞まいにちしんぶん. 2022ねん7がつ15にち閲覧えつらん
  5. ^ a b 平山ひらやま(2018)p.167
  6. ^ 荻原おぎわら(1988)p.151
  7. ^ 河野こうの(1981)pp.64-68
  8. ^ a b c d 弦巻つるまき宏史ひろし榎澤えのさわ幸広ゆきひろ「ウィルタとはなにか? -弦巻つるまき宏史ひろし先生せんせい講演こうえん記録きろくから かれらの憲法けんぽうかんかんがえるために- だい」『名古屋学院大学なごやがくいんだいがく論集ろんしゅう 社会しゃかい科学かがくへんだい48かんだい3ごう名古屋学院大学なごやがくいんだいがく、87-113ぺーじ、2012ねん1がつNAID 120006009768 
  9. ^ a b c 田中たなか・ゲンダーヌ(1978)
  10. ^ 津曲つまがり敏郎としお (2020ねん3がつ13にち). “ちいさなゆめ」をぐ 1.ウイルタとしてきる”. 館長かんちょう部屋へや. 北海道ほっかいどうりつ北方ほっぽう民族みんぞく博物館はくぶつかん. 2022ねん7がつ15にち閲覧えつらん
  11. ^ 大広だいこうさくひろし (2018ねん7がつ19にち). “北方ほっぽう民族みんぞくいのりをる:ウィルタぞく木偶でくモチーフ 網走あばしり制作せいさくつづける”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん 文化ぶんかめん「カバーストーリー」. 日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ. 2022ねん8がつ7にち閲覧えつらん
  12. ^ a b 笹倉ささくらいるよし (2016ねん2がつ29にち). “北方ほっぽう少数しょうすう民族みんぞく資料しりょうかんジャッカ・ドフニ【コラムリレーだい27かい”. あつまれ! 北海道ほっかいどう学芸がくげいいん. 北海道ほっかいどう博物館はくぶつかん協会きょうかい. 2022ねん8がつ8にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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