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松田伝十郎 - Wikipedia

松田まつだでん十郎じゅうろう

江戸えど時代じだい幕臣ばくしん探検たんけん

松田まつだ でん十郎じゅうろう(まつだ でんじゅうろう)は、江戸えど時代じだい中期ちゅうきから後期こうきにかけての幕臣ばくしん探検たんけんいみなもとけい幼名ようみょう幸太郎こうたろう。のち仁三郎じんざぶろう間宮まみや林蔵りんぞう樺太からふと踏査とうさし、樺太からふと見聞けんぶん実測じっそく作成さくせいした。

 
松田まつだでん十郎じゅうろう
時代じだい 江戸えど時代じだい中期ちゅうき - 後期こうき
生誕せいたん 明和めいわ6ねん1769ねん
死没しぼつ 天保てんぽう13ねん1842ねん
改名かいめい 幸太郎こうたろう幼名ようみょう)、仁三郎じんざぶろうでん十郎じゅうろうもとけい
官位かんい おくせい
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家斉いえなり
父母ちちはは あさかいちょうみぎ衛門えもん
松田まつだでん十郎じゅうろう
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生涯しょうがい

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越後えちごこく頚城くびきぐんはちさきむらげん新潟にいがたけん柏崎かしわざき)の貧農ひんのうあさかいちょうみぎ衛門えもんいえ長男ちょうなんとしてまれ、そこで道普請みちぶしんをしていた幕臣ばくしん大西おおにしさかえ八郎はちろうにその才能さいのう見出みいだされ江戸えどおもむいて、武士ぶしとなるべく修行しゅぎょう大西おおにし同僚どうりょう松田まつだでん十郎じゅうろう先代せんだい)の養子ようしになり、はつ仁三郎じんざぶろう名乗なのった。のち文化ぶんか5ねん1808ねん)に養父ようふぼっするとでん十郎じゅうろういだ。

寛政かんせい11ねん1799ねん)からの幕府ばくふひがし蝦夷えぞ直轄ちょっかつとなるにあたり、蝦夷えぞ調査ちょうさのため徳政とくせいまる蝦夷えぞ派遣はけんすることになり、その監督かんとくしゃ小人こども目付めつけからえらぶこととなったため、同地どうち勤務きんむ志望しぼう松前まさき奉行ぶぎょう支配しはい下役したやく元締もとじめとなり、アツケシ上陸じょうりくアブタエトモ赴任ふにん越年えつねんした。寛政かんせい12ねん1800ねん江戸えどもどり、江戸えどかけとなる。とおる元年がんねん1801ねん小人こども目付めつけめいぜられ、江戸えどがかりも兼任けんにん

とおる3ねん1803ねん択捉島えとろふとう赴任ふにん越年えつねんした。文化ぶんか5ねん1808ねん宗谷そうや赴任ふにんとなり、松前まさき奉行ぶぎょう戸川とがわやすしろんいのちにより間宮まみや林蔵りんぞう樺太からふとわたった。4月13にち宗谷そうや出航しゅっこう樺太からふと南端なんたんシラヌシしろぬし)に到着とうちゃく林蔵りんぞうかれて探検たんけんをした。西側にしがわでん十郎じゅうろう東側ひがしがわ林蔵りんぞう海岸かいがん沿いに小舟こぶね北上ほくじょうし、林蔵りんぞうきた知床岬しれとこみさきいたりこれより北上ほくじょうあきら西にした。でん十郎じゅうろう西海岸にしかいがん北上ほくじょうラッカみさきまでき「だい日本にっぽん国境こっきょう」のばしらてた(参考さんこう:多賀城たがじょう)。このとき現地げんちのききとりやきたくにつれてうみせまくなり、浅瀬あさせになり潮流ちょうりゅうつよくなることからほぼ樺太からふとしまであることを確信かくしんした。そのかえ再会さいかいした林蔵りんぞうでん十郎じゅうろうなどの案内あんないでラッカみさききこのしまであると確信かくしんした。ウルップとうではラッコりをごうとした[1]同年どうねん10がつでん十郎じゅうろう江戸えどもど樺太からふと見聞けんぶん実測じっそく幕府ばくふ提出ていしゅつした。林蔵りんぞうは、文化ぶんか6ねん1809ねん)にふたた樺太からふとわたり、間宮まみや海峡かいきょうわたそとまんしゅうまで踏破とうは樺太からふとしまであることを発見はっけんした。

文化ぶんか6ねん(1809ねん樺太からふと赴任ふにんしてやま交易こうえきにおけるアイヌ負債ふさい調査ちょうさし、アイヌが自力じりき返済へんさい不能ふのう部分ぶぶん幕府ばくふかね肩代かたがわりする実務じつむおこなった。文化ぶんか9ねん1812ねんふたた樺太からふと赴任ふにんしてやま交易こうえき改革かいかくおこなった。文化ぶんか10ねん1813ねん)にロシアヴァシーリー・ゴロヴニーンらの釈放しゃくほうさいして松前まさきからはこかんまでの護送ごそう責任せきにんしゃつとめた。文化ぶんか14ねん1817ねん江差えさし文政ぶんせい3ねん1820ねんはこかん赴任ふにんとなる。文政ぶんせい4ねん1821ねん)、宗谷そうや樺太からふと巡検じゅんけん増毛ましけとしした。文政ぶんせい5ねん1822ねん蝦夷えぞふたた松前まさきはんもどされ御用ごようずみとなる。

蝦夷えぞ松前まさきはんりょうとなると江戸えどもどり、そのとき無念むねん心境しんきょうを「骨折こっせつし24ねんあわもち黄粉きなこくるめてたからる」とんだ。その永年えいねん蝦夷えぞ勤務きんむ経験けいけんから樺太からふと風俗ふうぞく自然しぜん、そして異国いこくせん来航らいこう事案じあん幕府ばくふ北方ほっぽう防備ぼうびためさくなどを記録きろくした「きたえびすだん[2]しるわした。天保てんぽう13ねん1842ねん)に74さいぼっし、江戸えど駒込こまごみ吉祥寺きちじょうじ喜蔵よしぞうあんほうむられた。

昭和しょうわ3ねん(1928ねん)、せい追贈ついぞうされた[3]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ぜん一睡いっすいゆめ大谷木おおやぎただしあつし、『ねずみじゅうしゅ』(国書刊行会こくしょかんこうかい 1916)
  2. ^ 松田まつだでん十郞じゅうろうきたえびすだん」『北門きたもん叢書そうしょ だい5さつ国書刊行会こくしょかんこうかい、1972ねん、117-276ぺーじdoi:10.11501/9490712https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9490712/68 
  3. ^ 田尻たじりたすく へん贈位ぞうい諸賢しょけんでん 増補ぞうほばん じょう』(近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ、1975ねん特旨とくし贈位ぞうい年表ねんぴょう p.56

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 幕吏ばくり 松田まつだでん十郎じゅうろうのカラフト探検たんけんちょ中島なかじま欣也きんや 出版しゅっぱん新潮社しんちょうしゃ ISBN 978-4103799016
  • 「アイヌ民族みんぞく日本人にっぽんじんちょ菊池きくち勇夫いさお出版しゅっぱん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ ISBN 978-4022596109
  • きたえびすだん 樺太からふと探検たんけん北方ほっぽう経営けいえい先駆せんくしゃ 松田まつだでん十郎じゅうろう蝦夷えぞ見聞けんぶんろく中俣なかまたみつるへんやく松永まつなが靖夫やすお監修かんしゅう新潟にいがた日報にっぽう事業じぎょうしゃISBN 978-4861322785
  • きたえびすだんさかい比呂志ひろしちょ

外部がいぶリンク

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関連かんれん項目こうもく

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