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壬生藩 - Wikipedia

壬生みぶはん

日本にっぽん江戸えど時代じだいに、下野げやこく所在しょざいしたはん
壬生みぶけんから転送てんそう

壬生みぶはん(みぶはん)は、下野げやこく都賀つがぐん壬生みぶ壬生みぶしろげん栃木とちぎけん下都賀しもつがぐん壬生みぶまち本丸ほんまるいち丁目ちょうめ)にはんちょういたはん。1602ねん外様とざま大名だいみょう日根野ひねのにゅうふうしたことによりだてはんし、1634ねん以後いご譜代ふだい大名だいみょうすういえ交代こうたいした。1712ねん鳥居とりいが3まんせき大名だいみょうとしてにゅうふうし、廃藩置県はいはんちけんまでつづいている。

はんちょうかれた壬生みぶ城跡じょうせき
 
 
宇都宮うつのみや
 
日光にっこう
 
今市いまいち
 
鹿沼かぬま
 
小山こやま
 
佐野さの
 
壬生みぶ
 
山川やまかわ
関連かんれん地図ちず栃木とちぎけん[注釈ちゅうしゃく 1]

戦国せんごく壬生みぶじょうには壬生みぶ拠点きょてん[1]、その勢力せいりょく壬生みぶから鹿沼かぬまにかけてひろがっていたとされる。小田原おだわら征伐せいばつさい壬生みぶ義雄よしお北条ほうじょうかたとして小田原おだわら籠城ろうじょう参加さんかし、大名だいみょうとしての壬生みぶ没落ぼつらくした。壬生みぶ地域ちいき結城ゆうき秀康ひでやす結城ゆうきはん)の支配しはいかれた[2]結城ゆうき所領しょりょう支配しはいについてはほとんどわかっていないが、結城ゆうきの「指南しなん」である徳川とくがわ家康いえやすふか関与かんよし、大久保おおくぼ長安ながやす伊奈いな忠次ただつぐ家康いえやす代官だいかんたちによって実質じっしつてき支配しはいおこなわれていたという推測すいそくがある[3]関ヶ原せきがはらたたかのち秀康ひでやす越前えちぜんこく1こく福井ふくいはん参照さんしょう)をあたえられ転出てんしゅつした。

日根野ひねのにゅうふう壬生みぶどおりの整備せいび

編集へんしゅう
 
壬生みぶどおりおよび周辺しゅうへん主要しゅよう街道かいどう略図りゃくず
 
壬生みぶ一里塚いちりづか国史こくしあと)。1604ねん壬生みぶどおりにもうけられた一里塚いちりづかである。

慶長けいちょう7ねん1602ねん)、信濃しなのこく高島たかしまはんから日根野ひねの吉明よしあきが1まん900せきにゅうふうした[4][5]。これが壬生みぶはんたてはんとなる。壬生みぶじょう中世ちゅうせい築城ちくじょうつたえられているが、日根野ひねの吉明よしあき時代じだい近世きんせいてき城郭じょうかくとしての修築しゅうちくおこなわれたとかんがえられる[6]

元和がんわ2ねん(1616ねん)から3ねん(1617ねん)にかけて日光にっこうあずまあきらしゃ(のちの日光にっこう東照宮とうしょうぐう)が造営ぞうえいされるが、これと並行へいこうして小山こやまから壬生みぶ鹿沼かぬま今市いまいち日光にっこういたる「壬生みぶどお」(日光にっこう西にし街道かいどう)が大河内おおこうちしげるつなによって整備せいびされた[7]宇都宮うつのみやから日光にっこういた日光にっこう街道かいどう整備せいびは、本多ほんだ正純まさずみ宇都宮うつのみや城下じょうか整備せいびした元和がんわ5ねん(1619ねん以降いこうられることから、壬生みぶどおりは日光にっこうへのしゅ街道かいどうとして整備せいびされたとみなされる[7]壬生みぶどおりは将軍しょうぐんしゃさんとして、あるいは資材しざい輸送ゆそうとして使用しようされ[7]幕府ばくふ道中どうちゅう奉行ぶぎょうによって管轄かんかつされた。秀忠ひでただ家光いえみつ時代じだいには、将軍しょうぐん日光にっこうしゃさんするときには復路ふくろ壬生みぶどおりをとおり、壬生みぶじょう宿泊しゅくはくすることが通例つうれいであった[8]

寛永かんえい11ねん1634ねん)、日根野ひねの吉明よしあき豊後ぶんごこく府内ふないはんに2まんせき加増かぞうてんふうとなる[5]

将軍しょうぐん側近そっきんたちのしろ

編集へんしゅう

よく寛永かんえい12ねん(1635ねんねん6がつ徳川とくがわ譜代ふだい阿部あべ忠秋ただあきが2まん5000せきにゅうふうする[9]忠秋ただあき徳川とくがわ家光いえみつ幼少ようしょうからつかえた側近そっきんで、「ろくにんしゅ」として幕政ばくせい参与さんよし、寛永かんえい10ねん(1633ねん)には松平まつだいら信綱のぶつな堀田ほったただしもりとも宿老しゅくろう老中ろうじゅうなみすすんでいた[9]壬生みぶにゅうふうあいだもない寛永かんえい12ねん(1635ねん)12月にはばんれつくわわっている[9]寛永かんえい16ねん(1639ねん)1がつ阿部あべ忠秋ただあき武蔵むさしこくにんはんうつりふうされた[9]。なお、壬生みぶならんで壬生みぶどおりの要地ようちである鹿沼かぬま鹿沼かぬまはん)には、阿部あべ忠秋ただあき壬生みぶにゅうふうおな寛永かんえい12ねん(1635ねん)に「ろくにんしゅ」の阿部あべ重次しげつぐが、いで家光いえみつ側近そっきん朽木くちき稙綱にゅうふうしており、これは家光いえみつ壬生みぶどお重視じゅうしあらわれとなされる[10]以後いご壬生みぶまくかくきゅう大名だいみょう封地ほうちとなった[9]

寛永かんえい16ねん1639ねん)1がつ忠秋ただあきわって2まん5000せき壬生みぶにゅうふうした三浦みうら正次まさつぐも、家光いえみつの「ろくにんしゅ」の一人ひとりである[9]下総しもうさこく矢作やさくはんからの1まんせきてんふうであった[9]。なお、三浦みうら正次まさつぐにゅうふうされたさい下総しもうさこく結城ゆうきぐん猿島さしまぐんで6900せきあておこなわれているが、「山川やまかわりょう」とばれるこの地域ちいき幕末ばくまつまで壬生みぶはんりょうとしてがれることになる[9][注釈ちゅうしゃく 2]三浦みうら検地けんちなど[13]おこなって藩政はんせい基礎きそかためた。だい2だい藩主はんしゅ三浦みうら安次やすじおとうとに5000せきぶん[9]だい3だい藩主はんしゅ三浦みうらあきらけい奏者そうしゃばん若年寄わかどしより歴任れきにんしている。元禄げんろく5ねん1692ねん)2がつ23にちあかりけい日向ひなたこく延岡のべおかはんに2まん3000せきうつりふうされた[14]

三浦みうらわり、松平まつだいらあきらさだ大河内おおこうち松平まつへい)が3まん2000せきはいった。てるさだ徳川とくがわ綱吉つなよし小姓こしょうつとめていた側近そっきんで、柳沢やなぎさわ吉保よしやすとともに側用人そばようにんとして活動かつどうした[14]元禄げんろく7ねん1694ねん)8がつには摂津せっつこく河内かわちこく下野げや国内こくないで1まんせき加増かぞうされ[14]元禄げんろく8ねん1695ねん)5がつには上野うえのこく高崎たかさきはん加増かぞうてんふうされた[14]てるさだ壬生みぶ藩主はんしゅであったのは3年間ねんかんであったが[14]壬生みぶじょうだい改築かいちく城下じょうかだい改修かいしゅうおこなわれた[15]城下じょうか経済けいざいてき発展はってん対応たいおうするものとされ、しろ大手おおてもんしろみなみからひがしうつされた[15]

加藤かとうあきらえいと「ななしょく掛物かけもの反対はんたい越訴えっそ

編集へんしゅう

元禄げんろく8ねん1695ねん)、若年寄わかどしよりつとめていた近江おうみこく水口みずぐちはんおも加藤かとうあきらえいが2まん5000せき壬生みぶてんふうされた[14]

加藤かとうあきらえいにゅうふうあいだもなく「ななしょく掛物かけもの反対はんたい越訴えっそ」とばれる事件じけん発生はっせいしたとされている[16]。これは、7種類しゅるい農作物のうさくもつ[注釈ちゅうしゃく 3]について運上うんじょうきんおさめさせる「ななしょく掛物かけもの」とわれる新税しんぜいがかけられため、これに反対はんたいする農民のうみんたちが越訴えっそくわだてて、下稲葉しもいなばむら現在げんざい壬生みぶまち下稲葉しもいなば)の石井いしい左衛門さえもん[17]上稲葉かみいなばむら現在げんざい壬生みぶまち上稲葉かみいなば)の神永かみなが市兵衛いちべえ壬生みぶ新町しんまち現在げんざい壬生みぶまち壬生みぶ)の須長すなが作次郎さくじろうの3にん処刑しょけいされたが、越訴えっそくわわった11かそんでは「ななしょく掛物かけもの」が免除めんじょされたというものである[18]刑死けいししゃ名前なまえ[19]事件じけん細部さいぶについては、バリエーションがある)。この「ななしょく掛物かけもの反対はんたい越訴えっそ」の顛末てんまつについては、天保てんぽう年間ねんかん(1830ねん - 1844ねん)には地域ちいき伝承でんしょうとしてすでにひろられるようになっており[20]刑死けいししゃまつほこら存在そんざいする[21]明治めいじ自由じゆう民権みんけん運動うんどうなか小室こむろ信介しんすけ全国ぜんこく一揆いっきをまとめた書籍しょせき東洋とうよう民権みんけんひゃく家伝かでん』において、下稲葉しもいなばむら鯉沼こいぬま九八郎くはちろう提供ていきょうした情報じょうほうをもとに収録しゅうろくしたことで全国ぜんこくられるようになった[22]

ただし、この事件じけんについての直接的ちょくせつてき史料しりょうななしょく掛物かけもの賦課ふかめいじる触書ふれがきや、免除めんじょみとめるたっしなど)は発見はっけんされていない[23]。『壬生みぶまち』は、壬生みぶはんには「ななしょく掛物かけもの」の賦課ふかがあり鳥居とりい時代じだいにもがれたこと(ただし「ななしょく掛物かけもの」が加藤かとう時代じだいはじまったかは不明ふめい[24]賦課ふか対象たいしょう作物さくもつかならずしも壬生みぶ地域ちいき生産せいさんされておらずりょうおこなわれていた制度せいど移入いにゅうした可能かのうせいたかいこと[24]越訴えっそ参加さんかしたとつたえられるむら鳥居とりい時代じだいに「ななしょく掛物かけもの」が免除めんじょされていること[24]などをあきらかにしている。これらは加藤かとう時代じだい賦課ふかをめぐる越訴えっそがあった可能かのうせいしめしているが、『壬生みぶまち』は「歴史れきしてき事実じじつとして確定かくていするにはいたっていない」と慎重しんちょう叙述じょじゅつをおこなっている[25]

あきらえい正徳まさのり2ねん1712ねん)1がつ2にち死去しきょ同年どうねん2がつ26にち加藤かとうよしみのり家督かとく相続そうぞくみとめられたが、同時どうじ加藤かとう旧領きゅうりょう水口みずぐちもどされた[14]

鳥居とりいにゅうふう

編集へんしゅう
 
鳥居とりい忠英ただひで

正徳まさのり2ねん1712ねん)、加藤かとうわるかたちで、水口みずぐち藩主はんしゅであった若年寄わかどしより鳥居とりい忠英ただひでただてるが3まんせき壬生みぶはい[26]以後いご鳥居とりい治世ちせい幕末ばくまつ明治維新めいじいしんまでつづ[26]

初代しょだい鳥居とりい忠英ただひで殖産しょくさん興業こうぎょうにもはらった[27]名君めいくんであったとつたえられており、きゅう封地ほうち水口みずぐちから干瓢かんぴょうをもたらしたとされる[27]#特産とくさんひんふし参照さんしょう)。藩校はんこうである学習がくしゅうかん創設そうせつするなどして藩政はんせい基礎きそかためた。3だい鳥居とりいただし寺社じしゃ奉行ぶぎょう若年寄わかどしよりて、天明てんめい6ねん(1786ねん)に老中ろうじゅうのぼった。

寛延かんえい年間ねんかん(1748ねん - 1751ねん)にはすでに窮乏きゅうぼうしていたとされる[28]はん財政ざいせい悪化あっか一途いっとをたどった。背景はいけいとしては、年貢ねんぐ収納しゅうのう減少げんしょう[28]、18世紀せいき中期ちゅうき以降いこう北関東きたかんとうむら々の荒廃こうはい[29]などがげられる。

文政ぶんせい9ねん(1826ねん)、鳥居とりいちゅうきょただひろが6だい藩主はんしゅとなる。ちゅうきょはのちに奏者そうしゃばんから若年寄わかどしより昇進しょうしんするが、はん財政ざいせい困難こんなんたびし、天保てんぽう9ねん(1838ねん)にははん借財しゃくざいは9000りょうたっする[29]はん藩士はんしからの知行ちぎょうげなどの施策しさくをとった[29]天保てんぽう5ねん(1834ねん)には「殿様とのさま無尽むじん」とばれる金融きんゆう政策せいさくおこなわれているが、まちむらてをおこない、強制きょうせいてきなかたちでおこなわれたとられている[30]農民のうみんたいしては奢侈しゃし禁止きんしして質素しっそ倹約けんやくもと[31]講師こうしはん招聘しょうへいして心学しんがく講話こうわおこなった[32]。また、りょうへのだし奉公ほうこう禁止きんしや、すでにりょうがい奉公ほうこうしているもの帰郷ききょう奨励しょうれいするとともに[33]北陸ほくりく方面ほうめんから一向いっこうそう門徒もんと移住いじゅうさせるにゅう百姓ひゃくしょう政策せいさくおこな[34]同様どうようにゅう百姓ひゃくしょう政策せいさく近隣きんりんはんりょうまくりょうでもこころみられていた[34])、領内りょうない人口じんこう維持いじ増加ぞうかはかった[33]

幕末ばくまつ壬生みぶはん

編集へんしゅう

ペリー来航らいこう衝撃しょうげき

編集へんしゅう

よしみなが6ねん(1853ねん)、ペリーが来航らいこうした。藩主はんしゅ鳥居とりいただしきょ当時とうじ若年寄わかどしよりつとめていたが、政治せいじてき目立めだったうごきはせていない。

ペリー来航らいこう衝撃しょうげき壬生みぶにもおよんだ。壬生みぶはん高島たかしまりゅう砲術ほうじゅつ師範しはんであった友平ともへいさかえは、よしみなが6ねん(1853ねん)に幕府ばくふからの要請ようせいて「幕府ばくふ大砲たいほう鋳造ちゅうぞうかた」ににんじられた[35]はん鉄砲てっぽう鍛冶たんや火薬かやく製造せいぞう担当たんとうしゃ雇用こよう軍備ぐんび増強ぞうきょうはかったが[35]町村ちょうそん豪商ごうしょうから多額たがくの「用金ようきん」を徴収ちょうしゅうした[36]おりあしく、よしみなが6ねん(1853ねん)12月28にちには壬生みぶ城下じょうかで「伊勢屋いせや火事かじ」とばれる大火たいか発生はっせいし、まち大半たいはん焼失しょうしつした[37]

はんない抗争こうそうと「元治もとはる騒乱そうらん

編集へんしゅう

安政あんせい4ねん(1857ねん)、だい7だい鳥居とりいちゅうたからただとみ藩主はんしゅ就任しゅうにんした[38]壬生みぶはんないには、わか藩主はんしゅててはん体制たいせい変革へんかくしようとする大島おおしまきむ七郎しちろう石崎いしざきまことあんらの尊王そんのう攘夷じょういグループが形成けいせいされ、門閥もんばつ政治せいじのもとで実権じっけんにぎ保守ほしゅ重臣じゅうしんたちを打倒だとうしようとするうごきをはじめた[39]文久ぶんきゅう2ねん(1862ねん)には江戸えど家老がろう鳥居とりい志摩しま国家老くにがろう鳥居とりいせんまんすすむ自殺じさつ[39]文久ぶんきゅう3ねん(1863ねん)には藩政はんせい主導しゅどうけん手中しゅちゅうにした[40]文久ぶんきゅう3ねん(1863ねん)3がつ藩主はんしゅちゅうたから江戸えど出府しゅっぷめいじられ[41]同年どうねん5がつには大坂おおさかばんめいじられる[42]

よく文久ぶんきゅう4ねん/もと元年がんねん(1864ねん)にはいると、水戸みとはん尊攘そんじょううごきが活発かっぱつ[43]筑波つくばさん結集けっしゅうした藤田ふじた小四郎こしろう田丸たまるいね衛門えもんらは3がつ27にち挙兵きょへいする(天狗てんぐとうらん)。壬生みぶ藩政はんせい主導しゅどうする尊攘そんじょうは、藩主はんしゅ不在ふざい壬生みぶはんりょう混乱こんらんけるべく、「天狗てんぐとう筑波つくばぜい接触せっしょくし、金銭きんせんなどを提供ていきょうした[44]鎌田かまたすんよんろう脱藩だっぱんのかたちをとって「天狗てんぐとう」に参加さんかし、いちとう壬生みぶはんりょう通行つうこうしないようにし、壬生みぶ城下じょうかへの放火ほうかなどをけさせている。

幕府ばくふが「天狗てんぐとう討伐とうばつ命令めいれいすと、壬生みぶはん山川やまかわ陣屋じんや兵力へいりょく動員どういんする。大坂おおさかちゅうたから国元くにもと情勢じょうせい理由りゆうに「ばん御免ごめん」をめいじられ、7がつ25にち壬生みぶじょう帰着きちゃくした[44]。こうした状況じょうきょう、「天狗てんぐとう」への資金しきん提供ていきょう問題もんだいされ、大島おおしま壬生みぶはん尊攘そんじょう失脚しっきゃくすることになる[44]鎌田かまたすんよんろうは6がつはんしたのち投獄とうごくされ、獄中ごくちゅうばんかたなうばって自刃じじんするという最期さいごげた[44]壬生みぶはんぜい筑波つくばぜい追討ついとうのため常陸ひたちこく進軍しんぐんし、那珂湊なかみなとめぐたたかいにくわわった。9月18にちには雲雀ひばりづかで、9月25にちにはみなとばら戦闘せんとうがあり、藩士はんしさと足軽あしがる死傷ししょうしゃした。そのもいくつかの戦闘せんとうおこなわれた。「天狗てんぐとう」の西上にしがみけ、壬生みぶはんへいじょうするが、はんないおや水戸みとたいする処分しょぶんつづいた[44]大島おおしまきむ七郎しちろうらは揚屋あげやりの処分しょぶんくだされた[45]幕府ばくふ壬生みぶはん鎮圧ちんあつ行動こうどうとなえた[46]

大政奉還たいせいほうかんから戊辰戦争ぼしんせんそうまで

編集へんしゅう

慶応けいおう3ねん(1867ねん)10がつ14もく徳川とくがわ慶喜よしのぶ大政奉還たいせいほうかんおこなう。壬生みぶはんたいして、江戸えど幕府ばくふ江戸城えどじょう和田わだくらもん警備けいび命令めいれい朝廷ちょうてい藩主はんしゅ上洛じょうらく命令めいれいした。一方いっぽう壬生みぶはんは、臨時りんじ資金しきん必要ひつようという名目めいもく領内りょうないたいして用金ようきん賦課ふかした。慶応けいおう4ねん(1868ねん)1がつ3にち鳥羽とば伏見ふしみたたかいで幕府ばくふ敗北はいぼくすると、壬生みぶはんしん政府せいふがわについた[4]朝廷ちょうていからの上洛じょうらく命令めいれいたいし、藩主はんしゅちゅうたから病気びょうきであると弁明べんめいしたうえ藩主はんしゅおとうとである鳥居とりい忠文ただふみ家老がろう鈴木すずき文蔵ぶぞうらを京都きょうと派遣はけんした。忠文ただふみ京都きょうと壬生みぶはん立場たちばまもるため尽力じんりょくした[47]一方いっぽう下野げやこくでは、3月29にち安塚やすづかむら現在げんざい壬生みぶまち大字だいじ安塚やすづかはた本領ほんりょう)でちこわしが発生はっせい周辺しゅうへん地域ちいき拡大かくだいし「下野げや世直よなお一揆いっき」(「しゅう世直よなお一揆いっき」などともしょうされる)へと発展はってんした。壬生みぶはんはんりょうへの一揆いっき波及はきゅうめるためはんへいうごかした。

下野げやこく進出しんしゅつしたしん政府せいふぐんは4がつ11にち宇都うづ宮城みやぎはいるが、大鳥おおとり圭介けいすけもと歩兵ほへい奉行ぶぎょう)らきゅう幕府ばくふぐん日光にっこう本拠地ほんきょちとすべく北上ほくじょう小山こやまたたかいでしん政府せいふぐんやぶり(しん政府せいふぐんがわには壬生みぶはんへい参加さんかしていた)、宇都うと宮城みやぎ落城らくじょうさせた。しん政府せいふぐん宇都うと宮城みやぎ奪回だっかいのため、壬生みぶしろ拠点きょてんとした。壬生みぶじょうはいったしん政府せいふぐんは、鳥取とっとりはん土佐とさはん松本まつもとはん主体しゅたいで、これに近隣きんりん吹上ふきあげはんなどもくわわっていた。4月22にちには、姿川すがたがわ河畔かはん安塚やすづか戦闘せんとうおこなわれ、苦戦くせんすえきゅう幕府ばくふぐん宇都宮うつのみやげさせた(安塚やすづかたたかい)。一方いっぽうべつきゅう幕府ばくふぐん部隊ぶたい壬生みぶじょうせまり、雄琴おごと神社じんじゃ付近ふきん戦闘せんとうおこなわれている。壬生みぶ地域ちいきでは、雄琴おごと神社じんじゃ神職しんしょくである黒川くろかわゆたか麿まろ神職しんしょく結集けっしゅうして「利鎌とがまたい」を組織そしき、また常世とこよ長胤ながたね組織そしきした「あおいりゅうたい」に壬生みぶ出身しゅっしんしゃ参加さんかした。

明治維新めいじいしん壬生みぶはん

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明治めいじ3ねん(1870ねん)、鳥居とりいただしたから病気びょうき理由りゆう隠居いんきょし、鳥居とりい忠文ただふみ壬生みぶはん知事ちじ就任しゅうにんする。明治めいじ4ねん1871ねん)の廃藩置県はいはんちけん壬生みぶはんはいはんとなり、壬生みぶけんかれ、その栃木とちぎけん編入へんにゅうされた[4]

なお、壬生みぶはん知事ちじ解任かいにんされた鳥居とりい忠文ただふみ岩倉いわくら使節しせつだん同行どうこうしてアメリカに留学りゅうがく、のちに外交がいこうかんとなる。

また、鳥居とりいただしたからあか御堂みどう地区ちく現在げんざい壬生みぶまち上稲葉かみいなば)の別邸べってい隠居いんきょした[48]別邸べっていには士族しぞく授産じゅさん施設しせつとして茶畑ちゃばた[49]製茶せいちゃ工場こうじょう共産きょうさんしゃ」をもうけた[48]茶畑ちゃばた工場こうじょうでは最盛さいせいに800にんはたら[49]、アメリカを中心ちゅうしん年間ねんかん20トン程度ていどちゃ輸出ゆしゅつおこなったが[49]明治めいじ10年代ねんだい後半こうはん(1872ねん - 1886ねん)に農産物のうさんぶつ価格かかく下落げらくのあおりをけて経営けいえい悪化あっかし、工場こうじょう解散かいさんして茶畑ちゃばた公売こうばいにかけられた[49]。2023ねん壬生みぶまち歴史れきし民俗みんぞく資料しりょうかんは、別邸べってい製茶せいちゃ工場こうじょうえがいた見取みと[注釈ちゅうしゃく 4]確認かくにんされたと発表はっぴょうした[48][50]

歴代れきだい藩主はんしゅ

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日根野ひねの

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1まん900せき 外様とざま

  1. 日根野ひねの吉明よしあき

阿部あべ

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2まん5000せき 譜代ふだい

  1. 阿部あべ忠秋ただあき

三浦みうら

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2まん5000せき 譜代ふだい

  1. 三浦みうら正次まさつぐ
  2. 三浦みうら安次やすじ
  3. 三浦みうらあきらけい

松平まつだいら大河内おおこうち

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3まん2000せき→4まん2000せき 譜代ふだい

  1. 松平まつだいらあきらさだ

加藤かとう

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2まん5000せき 譜代ふだいかく

  1. 加藤かとうあきらえい
  2. 加藤かとうよしみのり

鳥居とりい

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3まんせき 譜代ふだい

  1. 鳥居とりい忠英ただひで
  2. 鳥居とりいただしあきら
  3. 鳥居とりいただし
  4. 鳥居とりいただし
  5. 鳥居とりいただしたけし
  6. 鳥居とりいただしきょ
  7. 鳥居とりいただしたから
  8. 鳥居とりい忠文ただふみ

幕末ばくまつ領地りょうち

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文化ぶんか産業さんぎょう人物じんぶつ

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藩校はんこう学習がくしゅうかん

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壬生みぶはん藩校はんこう正徳しょうとく3ねん(1713ねん)に鳥居とりい初代しょだい鳥居とりい忠英ただひでによって創設そうせつされた[51]全国ぜんこくてきにみてもはや時期じき設立せつりつされた藩校はんこうひとつであり、下野げやこく現在げんざい栃木とちぎけん)では最初さいしょ藩校はんこうである[51]忠英ただひで時代じだい藩校はんこうについてはっきりしたことはわからないが、藩校はんこうは「まる門外もんがい北側きたがわほりはし」にかれて学問がくもん古学こがく中心ちゅうしんとしており、家老がろう高須たかすわたるすけいみな便びん)が助力じょりょくしたという[51]

6だい鳥居とりいただしきょ藩校はんこう大改革だいかいかくおこない、学問がくもん古学こがくわって朱子学しゅしがく採用さいようされた[51]。「学習がくしゅうかん」という名称めいしょうもこのときさだめられたものである[51]藩士はんし子弟していは8さい藩校はんこう入学にゅうがくすることが義務付ぎむづけられ、教授きょうじゅじんについても充実じゅうじつはかられた[51]水戸みとはん笠間かさまはんからの入学にゅうがくしゃ寄宿きしゅくせいもあり、藩校はんこう手狭てぜまになったためまる門前もんぜん移転いてんした[51]

なお、明治めいじ2ねん鳥居とりい忠文ただふみ藩政はんせい改革かいかくおこななか学習がくしゅうかん改革かいかくおこなわれた。1872ねん明治めいじ5ねん)ごろとみられる時期じき学習がくしゅうかん校舎こうしゃ生徒せいと撮影さつえいした写真しゃしんが2022ねん発見はっけんされており、「藩校はんこう写真しゃしんとしては全国ぜんこくもっとふる可能かのうせい」もあるとされる[52][53][注釈ちゅうしゃく 5]学習がくしゅうかんはいはん壬生みぶけん移管いかんされて廃止はいしされた[51]学習がくしゅうかん跡地あとち学校がっこう用地ようちとして使用しようされ、現在げんざい壬生みぶ町立ちょうりつ壬生みぶ小学校しょうがっこう[51]

蘭学らんがく医学いがく

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壬生みぶ市街しがい蘭学らんがくどおり(壬生みぶまち役場やくば入口いりくち交差点こうさてん付近ふきん、2012ねん撮影さつえい

江戸えど時代じだい後期こうき壬生みぶはんでは蘭学らんがくさかんにおこなわれた。現代げんだい壬生みぶ市街しがい中心ちゅうしんとお道路どうろ(かつての壬生みぶどおり=日光にっこう西にし街道かいどうであり、栃木とちぎけんどう18ごう小山おやま壬生みぶせん一部いちぶ)には「蘭学らんがくどおり」の愛称あいしょうけられている。

壬生みぶはんとしてまれた斎藤さいとうげんあきらげんせい)は江戸えど蘭学らんがく医学いがくまなび、天保てんぽう5ねん(1834ねん)に壬生みぶはんとなった[54][55]天保てんぽう11ねん(1840ねん)には壬生みぶうえ河岸かわぎし刑場けいじょう石崎いしざきただしたちらとともに人身じんしん解剖かいぼうおこない、記録きろくとして『解体かいたいせい』をのこした[54]。1850ねんには、疱瘡ほうそう天然痘てんねんとう)をふせぐための種痘しゅとう牛痘ぎゅうとう)を下野げやこくはじめて実施じっしした[54][55]

鳥居とりいただしきょ蘭学らんがく採用さいよう医学いがく振興しんこう熱心ねっしん藩主はんしゅで、1857ねんにオランダじん医師いしポンぺ来日らいにちして長崎ながさき西洋せいよう医学いがく体系たいけいてき教授きょうじゅしたさいには、壬生みぶはん榊原さかきばらげんみず長崎ながさき派遣はけんされてまなんだ[56]

壬生みぶ藩士はんし友平ともへいさかえ江川えがわ英龍ひでたつ蘭学らんがく砲術ほうじゅつまなび、はん砲術ほうじゅつとなった。のちに幕府ばくふ登用とうようされる[54]。またおなじく藩士はんし斎藤さいとう留蔵とめぞう江川えがわじゅく蘭学らんがく砲術ほうじゅつまなび、のちに咸臨丸かんりんまる航海こうかいには最年少さいねんしょう(16さい)の乗組のりくみいんとして参加さんかした[54]

また、明治めいじ時代じだい御用ごよう医師いし史学しがく研究けんきゅうしゃとなった漢方かんぽう河内かわうちぜんふし壬生みぶはん出身しゅっしんである[54]。このほか、太田おおた胃散いさん創業そうぎょうしゃ太田おおた源三郎げんざぶろう太田おおた信義のぶよし)が壬生みぶはん出身しゅっしんである[57]

剣術けんじゅつ

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神道しんとう無念むねんりゅうりゅうである福井ふくいへいみぎ衛門えもん嘉平かへい壬生みぶ出身しゅっしんであり、壬生みぶはんでは剣術けんじゅつさかんであった[58]幕末ばくまつには藩主はんしゅ鳥居とりいただしきょ武芸ぶげい奨励しょうれいしたこともあり、おおくの剣士けんし輩出はいしゅつした[58]江戸えどひらかれた神道しんとう無念むねんりゅう道場どうじょう練兵れんぺいかんでは、斎藤さいとうわたる九郎くろうのもとで壬生みぶ藩士はんし野原のはら正一郎しょういちろう松本まつもと五郎ごろう兵衛ひょうえ友平ともへいさかえらがまなんだ[58]野原のはらは「練兵れんぺいかん四天王してんのう」の一人ひとりとしてられ[58]松本まつもと天狗てんぐとうらんさいして壬生みぶはんぐん指揮しき[59]友平ともへい先述せんじゅつとおりのちに砲術ほうじゅつおさめた[58]

特産とくさんひん

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歌川うたがわ広重ひろしげ東海道とうかいどうじゅうさん』のうち「水口みずぐち」の部分ぶぶん拡大かくだい干瓢かんぴょうしをえがいている。壬生みぶ干瓢かんぴょう鳥居とりい忠英ただひでぜん領地りょうち水口みずぐちからもたらしたと伝承でんしょうされている。

壬生みぶかんぴょう(干瓢かんぴょう特産とくさんひんとされている(現代げんだいにおいても、かんぴょうの国内こくない生産せいさんりょうの9わり以上いじょう栃木とちぎけんめる[60])。

干瓢かんぴょうは、摂津せっつこく木津きづ現在げんざい大阪おおさか浪速なにわ付近ふきん)が発祥はっしょうであるとされ[61]慶長けいちょうはじめ(16世紀せいきまつ)に長束ながつかただし近江おうみこく水口みずぐちにもたらしたとつたえられる[62]壬生みぶ地域ちいきでは、鳥居とりい忠英ただひできゅう封地ほうち近江おうみ水口みずぐちから壬生みぶ地域ちいき干瓢かんぴょう栽培さいばいつたえたとされており[21]鳥居とりい忠英ただひでにゅうふうした正徳しょうとく2ねん(1712ねん)は壬生みぶで「かんぴょう伝来でんらい」のとし位置付いちづけられている[60][63]一方いっぽう水口みずぐちがわでは、同年どうねん壬生みぶから水口みずぐちうつった加藤かとうよしみのりが、壬生みぶから干瓢かんぴょうあたらしい生産せいさん技術ぎじゅつをもたらしたともつたえている[21][62]

実際じっさい壬生みぶ地域ちいきでいつごろから干瓢かんぴょう生産せいさんされるようになったかは不明ふめいである[21]。『壬生みぶまち』では、壬生みぶ地域ちいき干瓢かんぴょう生産せいさんさかんになったのは鳥居とりいにゅうふう以後いごとしており、たかられき明和めいわ(1751ねん - 1772ねん)にはんなんらかのはたらきかけをおこなった可能かのうせいべている[27]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 赤丸あかまる本文ほんぶんないはんりょうとして言及げんきゅうする土地とちあおまるはそれ以外いがい
  2. ^ 壬生みぶはん山川やまかわりょうでは新宿しんじゅくむら山川やまかわ陣屋じんやかれ、山川やまかわりょう支配しはい拠点きょてんとなった[11][12]。このまとまった領域りょういき来歴らいれきについては下総しもうさ山川やまかわはん参照さんしょう
  3. ^ 大麦おおむぎ大豆だいずひえ荏油えのあぶら真綿まわた紅花べにばな麻苧あさお
  4. ^ 付近ふきんんでいた住民じゅうみんが1956ねん幼少ようしょう記憶きおくをもとにえがいたもの[50]
  5. ^ それ以前いぜん水戸みと藩校はんこう弘道こうどうかんを1875ねん明治めいじ8ねん)に撮影さつえいした写真しゃしん最古さいことされていた[53]

出典しゅってん

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  2. ^ 壬生みぶまち 通史つうしへん1』 1990, p. 536.
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  4. ^ a b c 壬生みぶはん”. はんめいきゅう国名こくめいがわかる事典じてん. 2022ねん9がつ27にち閲覧えつらん
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  11. ^ 壬生みぶまち 通史つうしへん1』 1990, p. 548.
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  14. ^ a b c d e f g 壬生みぶまち 通史つうしへん1』 1990, p. 532.
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  21. ^ a b c d 壬生みぶまち 通史つうしへん1』 1990, p. 573.
  22. ^ 壬生みぶまち 通史つうしへん1』 1990, pp. 568–569, 640.
  23. ^ 壬生みぶまち 通史つうしへん1』 1990, p. 568.
  24. ^ a b c 壬生みぶまち 通史つうしへん1』 1990, p. 569.
  25. ^ 壬生みぶまち 通史つうしへん1』 1990, p. 572.
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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 壬生みぶまち 通史つうしへん1』壬生みぶまち、1990ねん 
  • 壬生みぶまち 通史つうしへん2』壬生みぶまち、1990ねん 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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