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道場 - Wikipedia

道場どうじょう

武道ぶどう稽古けいこおこな施設しせつ

道場どうじょう(どうじょう)は、武道ぶどう稽古けいこおこな施設しせつである。

講談社こうだんしゃきゅう野間のま道場どうじょう

江戸えど時代じだい以前いぜん

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もともと「道場どうじょう」は仏道ぶつどう修行しゅぎょう言葉ことばであった。「法華ほっけ根本こんぽん道場どうじょう」の扁額へんがくかかげる寺院じいん沖縄おきなわけん那覇なは琉球りゅうきゅうさん法華経ほけきょうてら
 
おなてら山門さんもんはしら左右さゆうのそれぞれに妙法みょうほう蓮華れんげけい如来にょらい神力しんりきひん当知とうちしょ」「そくこれ道場どうじょう」といてある。

道場みちばという言葉ことば本来ほんらい武術ぶじゅつではなく、仏教ぶっきょう用語ようごであり、梵語ぼんごのbodhi-manda(菩提樹ぼだいじゅしたきむつよし)の訳語やくごで、仏道ぶつどう修行しゅぎょうす。
妙法みょうほう蓮華れんげけい如来にょらい神力しんりきひんだいじゅういちには「当知とうちしょそくこれ道場どうじょう(とうちぜしょ、そくぜどうじょう / まさにるべし、このところはすなわちこれ道場どうじょうなり)」云々うんぬんという、いわゆる道場どうじょうかんかれている。これは、釈迦しゃかおしえを真剣しんけんまな修行しゅぎょうする場所ばしょは、いつの時代じだい、どの場所ばしょであっても、時空じくうえて釈迦しゃかがさとりをひらいた菩提樹ぼだいじゅ金剛こんごうとつながって同等どうとう道場どうじょうになる、というかんがえである[1]
禅僧ぜんそう道元どうげん(1200-1253)は、てらではなく、在家ありいえ弟子でしいえ死去しきょしたが、直前ちょくぜん、この「そく道場どうじょう云々うんぬんの「道場どうじょうかん」の経文きょうもんひくこえくちずさみながらあるきまわり、その経文きょうもんはしらけた[2]現代げんだいでもこの意味いみ用法ようほうのこっており、修行しゅぎょうそうれているぜんそう寺院じいんは「道場どうじょう」とばれる。

江戸えど時代じだい

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江戸えど時代じだいはじごろ武術ぶじゅつ稽古けいこじょうのことをして道場どうじょう事例じれいてきたが、一般いっぱんてきには「稽古けいこじょう」とばれていた[3]

戦国せんごく時代じだい末期まっきは、たとえば上泉かみいずみ信綱のぶつな柳生やぎゅう宗厳むねよし居城いじろにおもむき教授きょうじゅするなどのように、師範しはん全国ぜんこくまわって弟子でしのところにたずねており、稽古けいこじょう個人こじん屋敷やしき利用りようするなどせんもん施設しせつはなかった。ある程度ていど戦乱せんらんおさまると、宮本みやもと武蔵むさしとのたたかいで有名ゆうめい吉岡よしおかりゅうなどのように定住ていじゅうして稽古けいこじょうつようになっていったものとおもわれる。

屋外おくがい土間どま稽古けいこじょうとすることがおおかったが、江戸えど時代じだい中期ちゅうき以降いこう剣術けんじゅつでは竹刀しない稽古けいこ柔術じゅうじゅつでは乱取らんど稽古けいこ中心ちゅうしんになっていったため、板張いたばりやたたみ稽古けいこじょう整備せいびされるようになった。江戸えどなど人口じんこうおお地域ちいきたとえば江戸えどさん大道だいどうじょうなどでは入門にゅうもんしゃ多数たすうのぼり、それまでの個人こじんてきちいさい稽古けいこじょうからおおきな稽古けいこじょうへと変化へんかした。またかくはんにおいても藩校はんこう稽古けいこじょう併設へいせつするはんおおかった。

このころ稽古けいこじょう師範しはん弟子でし稽古けいこ総見そうけんするゆかがあり、そこに日本にっぽん神話しんわから、「けんかみたけかみ」とされた「鹿島かしま大神宮だいじんぐう」(タケミカヅチ)、「香取かとり大明神だいみょうじん」(けい主神しゅしん)のはしらかみめいいた掛軸かけじくけてあった。

明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわ前期ぜんき

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明治めいじ時代じだい以降いこう剣道けんどう柔道じゅうどう稽古けいこじょうを「武道ぶどうじょう」とぶようになり、「たけ」をりゃくして「道場どうじょう」とぶことが一般いっぱんてきになった[3]1899ねん明治めいじ32ねん)、だい日本にっぽん武徳ぶとくかい京都きょうと武徳たけのり殿どの造営ぞうえいし、そのかく府県ふけんだい日本にっぽん武徳ぶとくかい支部しぶとして武徳たけのり殿どの整備せいびされた。また、学校がっこう教育きょういく剣道けんどう柔道じゅうどう採用さいようされたことにより、学校がっこう道場どうじょうもうけられた。学校がっこうによっては道場どうじょうことを「格技かくぎしつ」とこともある。

1936ねん昭和しょうわ11ねん)、文部省もんぶしょう主催しゅさい体育たいいく運動うんどう主事しゅじ会議かいぎにおいて、「道場どうじょうニハ神棚かみだなしつらえクルコト」という答申とうしんおこなわれ、学校がっこう道場どうじょうへの神棚かみだな設置せっち義務ぎむされた[3]神棚かみだな江戸えど時代じだい伝統でんとうてき道場どうじょうにはく、このころから国家こっか神道しんとう影響えいきょうけて設置せっちされるようになったものである[注釈ちゅうしゃく 1]

太平洋戦争たいへいようせんそう敗戦はいせん占領せんりょうぐん指令しれいにより国家こっか神道しんとう廃止はいしされ、また学校がっこう教育きょういくへの武道ぶどう禁止きんしされたことにともない、1946ねん昭和しょうわ21ねん)1がつ12にちだい日本にっぽん武徳ぶとくかいから理事りじちょう藤沼ふじぬま庄平しょうへい名義めいぎ都道府県とどうふけん支部しぶちょうあてに「神殿しんでん神棚かみだなとう撤廃てっぱいせきスルけん」がはっせられ、神棚かみだな撤去てっきょされた。ただし現代げんだいにおいても神棚かみだなまつっている道場どうじょうすくなくない。また、日章旗にっしょうきかかげている道場どうじょうもある[注釈ちゅうしゃく 2]

昭和しょうわ後期こうき平成へいせい

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フィンランドにある合気道あいきどう道場どうじょう

現代げんだいでは都市とし過密かみつ地価ちか高騰こうとうなどにより、個人こじん道場どうじょう所有しょゆうすることはむずかしくなり、体育館たいいくかん雑居ざっきょビル一室いっしつりているれいおおい。

警察けいさつでは柔道じゅうどう剣道けんどう逮捕たいほじゅつ必修ひっしゅうとされていることから、かく都道府県とどうふけん警察けいさつしょ警察けいさつ学校がっこう警察けいさつ本部ほんぶうちすべてに道場どうじょう完備かんびされ、全国ぜんこくるとかぞれないほどの道場どうじょうすうになる。警察けいさつしょやわ剣道けんどう教室きょうしつひらき、道場どうじょう小中学生しょうちゅうがくせい開放かいほうしていることもおおい。

現代げんだい道場どうじょう経営けいえい形態けいたいには、武道ぶどう組織そしき団体だんたい本部ほんぶ直轄ちょっかつする直轄ちょっかつ道場どうじょう本部ほんぶ傘下さんかにあるものの独立どくりつした運営うんえいまかされる管轄かんかつ道場どうじょう、どこの団体だんたいにもぞくさない独立どくりつ自営じえい町道場まちどうじょう、などがある。 道場どうじょう日本にっぽん国内こくないのみならず世界せかい各国かっこくひろがっているが、米国べいこくでは空手からて道場どうじょう大半たいはん町道場まちどうじょうである[5]など、くに武道ぶどうのジャンルによってちがいがある。

養成ようせい道場どうじょう

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上述じょうじゅつとおり「道場どうじょう自体じたい武道ぶどう関連かんれん人材じんざい養成ようせいするをあらわす名称めいしょうであるが、ここから派生はせいして「養成ようせい道場どうじょう」と名乗なの講習こうしゅうセミナーとう以下いかとお存在そんざいする。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ このことについて武道ぶどう研究けんきゅうしゃ中村なかむら民雄たみおは、「『道場どうじょう』はきわめて近代きんだいてきなものであることがかろう」とべている[4]
  2. ^ 日本武道館にほんぶどうかんは、いかなるイベントの場合ばあいでも日章旗にっしょうきろしてはいけないことになっている。

出典しゅってん

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  1. ^ 植木うえき雅俊まさとし『サンスクリットばんちぢみやく 法華経ほけきょう 現代げんだいやく』(角川かどかわソフィア文庫ぶんこ、2018) pp.327-328
  2. ^ けん撕記かん』p.558 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/952819/1/123
  3. ^ a b c 日本にっぽん武道ぶどう学会がっかい剣道けんどう専門せんもん分科ぶんかかいへん剣道けんどう事典じてん』122-123ぺーじ東京とうきょうどう出版しゅっぱん
  4. ^ 日本にっぽん武道ぶどう学会がっかい剣道けんどう専門せんもん分科ぶんかかいへん剣道けんどう事典じてん』123ぺーじ東京とうきょうどう出版しゅっぱん
  5. ^ 日経にっけいビジネス「カラテが米国べいこくでクールにえるワケ」2019.9.13 閲覧えつらん2023ねん9がつ10日とおか

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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