市姫いちひめ(いちひめ、慶長けいちょう12年ねん1月がつ1日にち(1607年ねん1月がつ28日にち) - 慶長けいちょう15年ねん2月がつ12日にち[1](1610年ねん3月7日にち))は、伊達だて政まさし宗むねの嫡男ちゃくなん・伊達だて忠ただし宗むねと婚約こんやくしていた女性じょせい。父ちちは徳川とくがわ家康いえやす、母ははは側室そくしつのお梶かじの方ほう(遠山とおやま氏し)。
徳川とくがわ家康いえやすが66歳さいのときに生うまれた五ご女じょである。家康いえやすは、織田おだ信長のぶながの妹いもうとで絶世ぜっせいの美女びじょと謳うたわれたお市いちの方かたのように美女びじょになってほしいと願ねがっていたらしく、市姫いちひめと命名めいめいした。
慶長けいちょう12年ねん(1607年ねん)2月がつ8日にち、家康いえやすは当時とうじ、最大さいだいの勢力せいりょくを誇ほこっていた外様とざま大名だいみょうの伊達だて政まさし宗むねと関係かんけいをさらに深ふかめるため、政せい宗むねの嫡男ちゃくなん・虎とら菊丸きくまる(のちの忠ちゅう宗むね)と婚約こんやくさせている。しかし慶長けいちょう15年ねん(1610年ねん)2月がつ12日にち、市姫いちひめは3歳さいで夭折ようせつした。野の苺いちごを摘つんでいた際さい、毒虫どくむしに刺さされ、それが原因げんいんでこの世よを去さったと言いわれている。追号ついごうは清きよし雲くも院いん[2]、または一いち照あきら院いん[3]。墓所はかしょは静岡しずおか市し葵あおい区くの華陽かよう院いん。
家康いえやすは市姫いちひめの夭折ようせつに嘆なげき悲かなしむと同時どうじに、忠ちゅう宗むねに対たいして孫娘まごむすめの振ふ姫ひめ(実父じっぷは池田いけだ輝政てるまさで、生母せいぼが家康いえやすの次女じじょ・督とく姫ひめ)を徳川とくがわ秀忠ひでただの養女ようじょとして婚約こんやくさせている。