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空城計 - Wikipedia

空城そらじょうけい

中国ちゅうごく兵法ひょうほうしょ兵法ひょうほうさんじゅうろくけい』にある戦術せんじゅつのひとつ

空城そらじょうけい(くうじょうけい)または空城そらじょうけい(くうじょうのけい)は兵法ひょうほうさんじゅうろくけいだいさんじゅうけいにあたる戦術せんじゅつ

あえて自分じぶん陣地じんちてきまねれることでてき警戒けいかいしんさそ計略けいりゃくのこと。てきかた見破みやぶられた場合ばあい全滅ぜんめつ危険きけんせいがあり、心理しんりせん一種いっしゅである。

野戦やせんてきやぶれた場合ばあいすでにしててきぐん圧倒的あっとうてき優勢ゆうせい状況じょうきょうであることがおおい。その状態じょうたいしろんでも結局けっきょく最後さいごには補給ほきゅうたれ、降伏ごうぶくすることを余儀よぎなくされる。自軍じぐん圧倒的あっとうてきかずすくない場合ばあいてきぐんおさむしろせん包囲ほういせんうつることをふせぐためには、てきしょう自軍じぐん戦闘せんとう能力のうりょく錯覚さっかくさせることが重要じゅうようである。たとえば、てきぐんせられたさい城門じょうもんはなみずかてきれようとすれば、優秀ゆうしゅう用心深ようじんぶか指揮しきかんほどぎゃく警戒けいかいする。『うことひゃくさとならばしょううしない、じゅうさとならばへいともばをうしなう』とあるとおり、てきわな仕掛しかかまえているところにはいるというのは、全滅ぜんめつもありえるほど危険きけんだからである。

中国ちゅうごく

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三国志さんごくし演義えんぎの「空城そらじょうけい」をえがいた

三国志さんごくし演義えんぎ』ではしょくしょかずらあきら野戦やせんたかしやぶれたさいしょくぐんぐんくらべて圧倒的あっとうてき兵力へいりょくすくなかった。しょかずらあきら一計いっけいあんじ、しろきこもって城内きうちきよめ、城門じょうもんはなち、兵士へいしたちをかくしてみずからは一人ひとり楼台ろうだいのぼってきんかなでてぐんまねれるかのような仕草しぐさをした。司馬しばしょかずらあきら奇策きさくおそれてあえて兵士へいし城内じょうないませなかったという。

史書ししょにおいては三国志さんごくしけられた注釈ちゅうしゃくかくおきかたった故事こじとして前述ぜんじゅつのモデルとなったしょかずらあきら城門じょうもんはな司馬しば懿を退しりぞけたはなし記録きろくされるほかかんちゅう争奪そうだつせんさいしょく将軍しょうぐんちょうくも空城そらじょうけい使つかって曹操そうそうぐん撤退てったいさせたのがはつである。てき食糧しょくりょううばいにったただし帰陣きじん時間じかんぎてももどってないので、ちょうくものこった少数しょうすう部下ぶかひきいてちゅう応援おうえんかった。ところがちゅうぐんつからないうちに突然とつぜんちょうくもぐん曹操そうそうぐん大軍たいぐん遭遇そうぐうしたが、無謀むぼうにもうまてき大軍たいぐんなか突入とつにゅうさせたところ、おどろいた曹操そうそうぐんみだれて退却たいきゃくはじめた。あばまわっていたちょうくもは、これをるとうまくび反転はんてんさせるや、今度こんどはまっしぐらに自分じぶんじんかって退却たいきゃくした。それをていた曹操そうそうぐん一斉いっせいはじめ、ちょうくもじんちかくまでたっするも、きゅう指揮しきかん馬上もうえからげて、ぜんぐん静止せいしした。不気味ぶきみにもちょうくもじんもんひらかれ、なかしずまりかえっているからだった。指揮しきかんは「おそらく伏兵ふくへいがいるにちがいない」とかんがえ、退却たいきゃくめいじたとき突然とつぜん後方こうほうからいしんできた。やはりちょうくもぐんじんそと伏兵ふくへい配置はいちしており、曹操そうそうぐん散々さんざんにあってってったとされている。

きたひとしきたじょしゅう刺史ししひね攻撃こうげきけたさい城門じょうもん開放かいほうし、守備しゅびへいろして城内きうちしずめさせ、ひとにわとりいぬ往来おうらいきんじた。ひね軍勢ぐんぜい城内きうち無人ぶにんではないかとかんがえてそなえをもうけなかった。珽がへいさけばせひびかせたところ、ひね軍勢ぐんぜいおどろいて遁走とんそうした。

とうだい吐蕃河西かさい侵攻しんこうふりしゅう陥落かんらくさせた。ふりしゅう刺史ししちょうまもるしゅうじょう再建さいけんしようとしたさいにもまた吐蕃ぐん襲撃しゅうげきしてきた。城中じょうちゅう防御ぼうぎょそなえはほとんどく、みな闘志とうしうしなっていた。ちょうまもる珪は「てき多勢たぜい我々われわれ無勢ぶぜい被害ひがい甚大じんだいせきもっこたえることもできない。臨機りんき手段しゅだんによるべきである」とい、城上じょうかみ将士しょうしとの宴席えんせきもうけた。吐蕃の軍勢ぐんぜい城中じょうちゅうそなえがあるのではないかとうたがい、えてめずにった。

てんろくかく外史がいしまき1「兵法ひょうほう」は、こうかん叔度が盗賊とうぞく司馬しばりゅうたいして空城そらじょうけいったとつたえる。

日本にっぽん

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日本にっぽんでは、戦国せんごく時代じだいにおいて、徳川とくがわ家康いえやす窮地きゅうちのがれたさい事例じれいがある。もとかめ3ねん12月22にち1573ねん1がつ25にち)、三方みかたばらたたか徳川とくがわぐん武田たけだ信玄しんげんひきいる武田たけだぐんやぶれて浜松はままつじょうかえった。武田たけだぐんはこれを追撃ついげきするが、家康いえやすは「あえて大手おおてもんひらき、うちそとだいかがりかせた」[1]敗走はいそうする徳川とくがわぐん追撃ついげきして、浜松はままつ城門じょうもんちかくまでせてきた山県やまがたあきらけい馬場ばば信春のぶはるりょうたいは、大手門おおてもんおおきくひらかれ、かがりかれているのをて、それに警戒けいかいして攻撃こうげきをためらっているところへ、さんぽうばらからげてきた徳川とくがわかた大久保おおくぼやすしだからと遭遇そうぐうし、あわててかえそうとしたしたところを城内じょうないからって鳥居とりい元忠もとただ渡辺わたなべまもるつならの軍勢ぐんぜいはさちになり、苦戦くせんすえ、ようやく名栗なぐり方面ほうめん脱出だっしゅつすることができた[2]家康いえやすとしては、なんのさくもなかった。さくのないまま、信玄しんげん空城そらじょうけい見破みやぶり、しかも、見破みやぶったがゆえに、兵法ひょうほう信玄しんげんが、かえってそこに策略さくりゃく不審ふしんいてすのをためらうことに、一縷いちるのぞみをいたのである[3]。つまり、信玄しんげん思考しこううえおこなったわけで、信玄しんげんみの軍略ぐんりゃくなら、むしろ空城そらじょうけい見破みやぶって、ただちに城門じょうもん突入とつにゅうさせたはずである。信玄しんげん非凡ひぼんぎて、かえってせなかったもので、結果けっかてきには、家康いえやす心理しんり作戦さくせんちであった[3]

参考さんこう文献ぶんけん

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脚注きゃくちゅう

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