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黄忠 - Wikipedia

ただし

中国ちゅうごくかん末期まっきからさんこく時代じだいしょくかんにかけての将軍しょうぐん

ただし(こう ちゅう、拼音: Huáng Zhōng)は、中国ちゅうごくこうかん末期まっきからさんこく時代じだいしょくかんにかけての将軍しょうぐんかんます(かんしょう)。荊州南陽なんようぐんひとじょりゅうつかえ、えきしゅうかんちゅう攻略こうりゃくとう活躍かつやくした。

ただし
清代の書物に描かれた黄忠
きよしだい書物しょもつえがかれたただし
しょくかん
こう将軍しょうぐん関内かんないこう
出生しゅっしょう 生年せいねん不明ふめい
荊州南陽なんようぐん
死去しきょ たてやすし25ねん220ねん)7がつ
拼音 Huáng Zhōng
かんます
諡号しごう つよしこう
主君しゅくん りゅうひょうりゅうかんげんりゅう
テンプレートを表示ひょうじ

生涯しょうがい

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りゅう備軍の勇将ゆうしょう

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りゅうひょうつかえ、ちゅうろうしょうにんじられた。また、りゅうひょうしたがえであるりゅういわおともに、ちょうすなぐん攸県守備しゅびにんについていた。しかしりゅうひょうくなり、曹操そうそうが荊州を降伏ごうぶくさせたのちは、曹操そうそうよりかりの裨将ぐんにんじられ、職務しょくむはそのままでちょうすな太守たいしゅであったかんげん配下はいかについた。

あかかべたたかのちに、りゅう備が荊州みなみよんぐん平定へいていすると、ちゅうりゅうつぶさ帰順きじゅんしてづかえた。そのりゅうつぶさしたがえきしゅうはいり、りゅう備軍のいちしょうとしてりゅうあきら攻撃こうげきし、つね先駆さきがけててき陣地じんちとすなど、その勇猛ゆうもうさはぐんなかでもひびいた(りゅう備のにゅうしょく)。えきしゅう平定へいてい、討虜将軍しょうぐん任命にんめいされた。

たてやすし24ねん219ねんはるりゅう備がかんちゅうめをおこなうと、曹操そうそう配下はいかせきなか方面ほうめんそう司令しれいかんであったなつほうふかしと、じょうぐんやまにおいて対峙たいじたたかった。曹操そうそう配下はいかとして、勇猛ゆうもう果敢かかんであるとられていたなつこうふちであったが、法正のりまさ指示しじけたちゅう率先そっせんして、ぐんひきいて背後はいごからなつこうふちおそいかかり、なつこうふち曹操そうそう任命にんめいしたえきしゅう刺史ししちょうってだい勝利しょうりおさめた(じょうぐんやまたたか)。これをけ、りゅう備はかんちゅう平定へいていかんちゅうおうとなった。この功績こうせきちゅうせい西にし将軍しょうぐん昇進しょうしんした。

こう将軍しょうぐん

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同年どうねんあきりゅう備がかんちゅうおうになるとちゅうこう将軍しょうぐん任命にんめいしようとしたが、しょかずらあきらは「ちょう殿しんがりうまちょう殿しんがりらはかれ活躍かつやくているので文句もんくわないでしょうが、(荊州にのこった)せきはね将軍しょうぐんはそのことをらないので、納得なっとくしないでしょう」と進言しんげんした。だがりゅう備は、せきはね説得せっとく自分じぶんがするとって、ちゅうこう将軍しょうぐん任命にんめいし、関内かんないこう爵位しゃくいあたえた。後日ごじつ、やはりしょかずらあきら不安ふあん的中てきちゅうし、せきはねちゅうを「老兵ろうへい」とあなどって同列どうれつぜん将軍しょうぐんになることを拒否きょひしたが、説得せっとくぜん将軍しょうぐん就任しゅうにんした。

よくけんやす25ねん220ねん)7がつくなった。早世そうせいしていたため、かれいえ断絶だんぜつした。けい耀3ねん260ねん)にごうこうおくりなおくられた。

なお、おなまきまとめられたせきはねちょううまちょうちょうくもよんにんくらべてもちゅうでん記述きじゅつすくなく、裴松による注釈ちゅうしゃくい。かれ人柄ひとがらあらわ資料しりょうとして、『三国志さんごくししょくしょ末尾まつび記載きさいされている『かん輔臣さん』の9番目ばんめ名前なまえがあり、「あつ壮士そうし」であったとされている。

ちん寿ひさしは、ちょうくもともつよし摯・たけしたけしであり、そろってぐん爪牙そうがとなったとし、灌嬰なつこうしている[1]

三国志さんごくし演義えんぎでの活躍かつやく

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成都せいとたけしこうほこらちゅうぞう

小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』では、60さいぎたろうしょうでありながら、ゆみ名手めいしゅとしてその腕前うでまえ披露ひろうする姿すがたえがかれ、てきしょう一騎討いっきうちちで場面ばめんおおい。いるともなお勇猛ゆうもう果敢かかん活躍かつやくせている。とら大将軍だいしょうぐん一人ひとり位置付いちづけられている。

せきひきいるりゅう備軍がちょうすなせると、かんげん配下はいかとしてこれに応戦おうせんする。そのさいせきはねとの一騎討いっきうちちで互角ごかくたたかうが、うまつまずあやうくられそうになる。せきちゅう武勇ぶゆうみとめ「貴殿きでんのおいのちしばしあづけた。はやうまえてたたかいにもどられよ[2]」とい、これを見逃みのがしている。これに恩義おんぎかんじたちゅう再戦さいせんに、せきはねかぶといとぐち命中めいちゅうさせることで、せきはねいのちうばうことなく撤退てったいさせるが、かんげんてきぐん内応ないおうしているのではとうたがわれ、捕縛ほばくされ処刑しょけいされそうになる。しかし、のべ反乱はんらんかんげん死亡しぼうすると、りゅうつぶさつかえることになる。

かんちゅう攻略こうりゃくには、おなじくろうしょうである設定せっていいむがおとコンビをみ、ちょうなつこうなおらをやぶり、自分じぶんあにかたきねらかんげんおとうとである設定せっていかんひろしっている。そのじょうぐんやまなつこうふちり、かんちゅう平定へいていとら大将軍だいしょうぐん一人ひとりとされるのである。せきはねちゅうろうしょうあなどり、同列どうれつあつかいされるのをきらうのは史実しじつどおりである。

また史実しじつでは220ねんくなっているが、『演義えんぎ』ではえびすりょうたたかにも参加さんかしている。その最中さいちゅうりゅう備がせききょうちょうつとといった若者わかものとなえ、老兵ろうへいかるんじる発言はつげんをしたため、部下ぶかじゅうすうめいはんあきらじんへとんでいる。しかし最後さいごうまただしにあたり、それがもと死亡しぼうしてしまう。

現在げんざい中国ちゅうごくでは、いて益々ますますさかんなひとを、演義えんぎなか描写びょうしゃされたちゅうのイメージからして「ろうただし」とようになっている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ひかりによれば、ちゅうなつこうふちったことが、灌嬰が項羽こううったことに対応たいおうしている。
  2. ^ わが且饒你性いのちかいかわうまらい廝殺!」(だいじゅうさんかい

関連かんれん項目こうもく

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