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東照宮 - Wikipedia

東照宮とうしょうぐう

徳川とくがわ家康いえやすまつ神社じんじゃ

東照宮とうしょうぐう(とうしょうぐう)は、江戸えど幕府ばくふ初代しょだい将軍しょうぐん徳川とくがわ家康いえやすを「あずまあきらだい権現ごんげん」としてまつ神社じんじゃである。

日光にっこう東照宮とうしょうぐう栃木とちぎけん日光にっこう
久能山くのうざん東照宮とうしょうぐう静岡しずおかけん静岡しずおか
滝山たきやま東照宮とうしょうぐう愛知あいちけん岡崎おかざき
金地院こんちいん東照宮とうしょうぐう京都きょうと京都きょうと
長崎ながさき東照宮とうしょうぐう長崎ながさきけん長崎ながさき

沿革えんかく

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徳川とくがわ家康いえやす今際いまわさい金地院こんちいん崇伝すうでん南光なんこうぼう天海てんかい本多ほんだ正純まさずみび、つぎのように遺言ゆいごんした。

久能山くのうざんおさめ、法會ほうえ江戸えど増上寺ぞうじょうじれいぱいさんしゅう大樹寺たいきでら周忌しゅうきおわり下野げやこく日光にっこうさんしょうどう營造えいぞう京都きょうとには金地院こんちいんしょうどうをいとなみ所司代しょしだいはじめ武家ぶけやからしんはいせしむべし。 — 徳川とくがわ実紀みき(たいとくいん殿御とのご実紀みきよんじゅうかん)

元和がんわ2ねん1616ねん4がつ17にち家康いえやす駿府すんぷじょう薨去こうきょひつぎ久能山くのうざんはこばれ、遺言ゆいごんしたがって江戸えど幕府ばくふ同年どうねん12がつ久能山くのうざんあずまあきらしゃげん久能山くのうざん東照宮とうしょうぐう)を創建そうけんした。これにともな朝廷ちょうていよく元和がんわ3ねん1617ねん2がつ21にち神社じんじゃとしてのあずまあきらしゃに「あずまあきらだい権現ごんげん」のかみごう宣下せんげするとともにせいいち贈位ぞうい、さらに神格しんかくされた家康いえやす本人ほんにんたいしても同年どうねん3月9にちせいいち贈位ぞういしている。幕府ばくふ日光にっこうにも建設けんせつすすめ、家康いえやす薨去こうきょいち周忌しゅうきにあたる同年どうねん4がつ17にち遷座せんざさい挙行きょこう、ここにふたつのあずまあきらだい権現ごんげんならつことになった。

しかしその各地かくち徳川とくがわ松平まつだいら一門いちもん大名だいみょう独自どくじあずまあきらしゃのぞみ、またさんだい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつしょ大名だいみょう造営ぞうえいすすめたこともあって、譜代ふだい大名だいみょう徳川とくがわ縁戚えんせき関係かんけいがある外様とざま大名だいみょうきそってあずまあきらしゃて、全国ぜんこくで500しゃえる東照宮とうしょうぐうつくられた(廃絶はいぜつされたものをふくめるとやく700しゃ確認かくにんされている[1])。

正保しょうほう2ねん(1645ねん)にはみやごう宣下せんげがあり、あずまあきらだい権現ごんげん東照宮とうしょうぐうごうするようになった。

しかし、明治維新めいじいしん以後いご廃仏毀釈はいぶつきしゃくあいまってはいしゃ合祀ごうし相次あいつぎ、現存げんそんするのはやく130しゃとなっている。

これらの東照宮とうしょうぐうのうち、本宮ほんぐう日光にっこう東照宮とうしょうぐう遺体いたいまつ久能くのさん東照宮とうしょうぐうに、自社じしゃくわえて「日本にっぽんさんだい東照宮とうしょうぐう」としょう東照宮とうしょうぐうおおいが、規模きぼ華麗かれいさでおと南禅寺なんぜんじ塔頭たっちゅう金地院こんちいん東照宮とうしょうぐう幕府ばくふ正史せいし遺言ゆいごんのこ家康いえやす遺髪いはつおよもち念佛ねんぶつまつっている。

宣命せんみょう

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おくあずまあきらだい権現ごんげん

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天皇てんのうわがみことのりむねまんとめ柳營りゅうえいだい相國しょうこくげん朝臣あそんなんじみことのりばいどめ、敕命乎聞しょくとめせん威風いふう於異邦之くにゆきいきほどこせ寬仁かんじん於率あいだ須、くだりぜんあつし而德あらわとめすんでぼつ而名そんぜいたかし其靈氐、東關ひがしせき乃奧いきなんじ大宮おおみやばしら廣敷ひろしきりつ氐、吉日きちじつ良辰りょうしん乎撰てい氐、あずまあきら乃大權現ごんげんどめじょうきゅう比治ひじたまものぬの、此狀乎平かい久安ひさやすかいひさ聞食氐、靈驗れいけんしんなんじ天皇てんのう朝廷ちょうてい乎寳どうひさし常磐ときわ堅磐かきわなんじよるまもり日守ひもりなんじまもるこうきゅう氐、天下てんか陞平なんじ、海內靜謐せいひつしかまもる恤賜ばいおそれおそれさるたまもの閇久とめさる 元和がんわさんねんがつ廿にじゅういちにち — 日光にっこう東照宮とうしょうぐう文書ぶんしょ
天皇てんのう(すめら=後水尾天皇ごみずのおてんのう)がみことのりむね(おほみこと)らまと、柳営りゅうえいだい相国しょうこく(もとのりうえいだいそうこく)みなもと朝臣あそんみことのり(のら)へと、勅命ちょくめい(おほみこと)を聞食(きこしめせ)とせん(のたま)ふ、威風いふう異邦いほう(とつくに)のいき(さかひ)に(ふる)ひ、寛仁かんじん率土そっとあいだほどこす、ぜんくだりふことあつし(あつ)くしてとくあらわ(あらは)る、すでぼつ(みまか)りてめいそんせり、れい(みたま)をたかし(たふと)びて東関ひがしせき(あづまのくに)のおくいき(おくつき)に大宮おおみやばしら(おほみやはしら)広敷ひろしきりつ(ひろしきた)て、吉日きちじつ良辰りょうしん(よきひのよきとき)を(えら)びさだめて、あずまあきらだい権現ごんげんうえ(のぼ)せきゅうおさたまものふ、此のじょう(さま)をひらめ(たいら)けくやす(やすら)けく聞食(きこしめ)して、霊験れいけん(みしるし)あらたに天皇てんのう(すめら)が朝廷ちょうてい(みかど)をたから(あまつひつぎ)うごくことく、常磐ときわ(ときは)に堅磐かきわ(かきは)によるもりもり(よのまもりひのまもり)に、まもる(まもり)さいわい(さきは)ひきゅうひて、天下てんか昇平しょうへい(あめがしたむくさか)に、海内かいだい静謐せいひつ(くぬちおだひ)に、まもる(まもり)恤(めぐみ)たまものへと、おそれ(かしこ)みおそれみももうたまものはくともうす 元和がんわさんねん(1617ねんがつじゅういちにち

おくせいいち

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あずまあきらだい權現ごんげんおくせいいち敕宣、おおせ太政大臣だじょうだいじんいみな幼少ようしょうしたがえむかしてきかこえじん仁閒にけんれん、其囲於遁れい若年じゃくねんしたがえときこころたけひさ長年ながねんこころざし而古だい名將めいしょうしかえつ而、武威ぶい日本にっぽんなんじてるこころざしぎゃくらん於治、庶民しょみん安閑あんかんおもえ乎成、かれ朝臣あそんわがちゅうこう多利たり在世ざいせい忠義ちゅうぎかんこころざし神靈しんれいとうおおせ東之ひがしの守護神しゅごじん旡事敕命ゆう而、宣旨せんじせんきゅうぬの 元和がんわさんねんがつ廿にじゅういちにち — 日光にっこう東照宮とうしょうぐう文書ぶんしょ
あずまあきらだい権現ごんげんせいいち(おほいひとつのくらゐ)をおくみことのり(おほみこと)せん(のたま)ふ、おおせ(そも)太政大臣だじょうだいじん(おほいまつりことのおほいまちきみ)いみな(おんいみな)、幼少ようしょう(おさな)きむかしよりてきじんかこまれ、そのかこえ(かこみ)を遁(のが)れ、若年じゃくねん(わかきよはひ)のときよりこころたけ(たけ)く、長年ながねん(ながきとし)にして古代こだい名将めいしょうえて、武威ぶい(たけきいかしきさま)を日本にっぽん(ひのもと)にてる(かがやか)し、ぎゃくらん(あらがひみだるるよ)をおさめ、庶民しょみん(あをひとぐさ)安閑あんかん(うらやすし)のおもえ(おもひ)をす、(これ)かれ朝臣あそんちゅうこう(まめなるいさをし)たり、って在世ざいせい(うつしよ)の忠義ちゅうぎ(まめなるつかへ)をかんじ、神霊しんれい(みたま)とあおぎ、ひがし守護神しゅごじん(まもりのかみ)たらむごと勅命ちょくめい(おほみこと)りて宣旨せんじせんきゅう(のりたま)ふ 元和がんわさんねん (1617) がつじゅういちにち

みやごう宣下せんげ

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天皇てんのうわがみことのりむねかけかしこ日光にっこう乃東あきらだい權現ごんげん乃廣まえしかおそれおそれさるたまもの閇久とめさるひだりひさし元和がんわ三年勸請世留良辰爾奉授正一位禮留以降、海內安全あんぜんなんじ氐、としじょせきれいことちん以薄とく氐天日嗣ひつぎうけたまわつてきゅうぬのまた武運ぶうん延長えんちょうなんじ氐、子孫しそん相續そうぞく公武こうぶ繁榮はんえい奈留なる者、へん權現ごんげんこう惠美えみあつじょ奈利、ゆうしょねん行事ぎょうじ氐、こんあらため社氐みやどめたかしたてまつとめ吉日きちじつ良辰りょうしん乎撰てい氐、せい二位行前大納言兼前右近衞大將藤原朝臣經季乎差使氐、位記いき乎改氐、れい捧持ほうじ氐、たてまつきゅうぬの權現ごんげん此狀乎平ひさ安久やすひさ聞食氐、天皇てんのう朝廷ちょうてい乎寳祚無どうひさし常磐ときわ堅磐かきわなんじよるまもり日守ひもりなんじまもるこうたまもの氐、一天安穏爾萬國豐稔爾、まもる恤賜ばいおそれおそれさるたまもの閇久とめさる 正保しょうほうねんじゅういちがつさんにち — 日光にっこう東照宮とうしょうぐう文書ぶんしょ
天皇てんのう(すめら=こう光明こうみょう天皇てんのう)がみことのりむね(おほみこと)らまと、けまくもかしこ(かしこ)き日光にっこうあずまあきらだい権現ごんげん広前ひろまえ(ひろまへ)におそれ(かしこ)みおそれみももうたまものはくとさるさく、元和がんわさんねん勧請かんじょう(くわんじやう)せる良辰りょうしん(よきとき)にせいいち(おほいひとつのくらゐ)を授げたてまつ(たてまつ)れるより以降いこう(このかた)、海内かいだい安全あんぜん(くぬちおだひ)にしてとしじょ(としつき)ももれり、こと(こと)にちんうすとくを以(も)ててん日嗣ひつぎ(あまつひつぎ)をうけたまわ(う)けでんきゅうふ、また武運ぶうん延長えんちょうにして、子孫しそん相続そうぞく(うみのこのつづき)し、公武こうぶ繁栄はんえいなるは、へん(ひとへ)に(これ)権現ごんげんひろめぐみ(おんめぐみ)、あつすけ(おんあなない)なり、(かれここ)にところねんぎょう(おもほす)のことりて、いましゃあらためてみやたかし(たふと)みたてまつ(まつ)る、吉日きちじつ良辰りょうしん(よきひのよきとき)をえらさだめて、せい(おほいふたつのくらゐ)ぎょう(ぎやう)ぜん大納言だいなごん(さきのおほいものまうすつかさ)けん(かねて)ぜんみぎ近衛このえ大将たいしょう(さきのみぎのちかきまもりのつかさのかみ)藤原ふじわら朝臣あそんけい(=今出川いまでがわけい)を使はして、ふる位記いきあらためてささたしめて、(いだ)したてまつ(たてまつ)りきゅうふ、権現ごんげん此のじょう(さま)をひらめ(たひらけ)くやす(やすらけ)く聞食(きこしめし)て、天皇てんのう(すめら)が朝廷ちょうてい(みかど)を宝祚ほうそ(あまつひつぎ)うごく、常磐ときわ堅磐かきわ(ときはかきは)によるもりもり(よのまもりひのまもり)にまもるこう(まもりさきは)ひたまものひて一天いってん安穏あんのん(あめのしたおだひ)に万国ばんこくゆたかみのり(よろづみのりゆたか)にまもる(まも)り恤(めぐ)みきゅうへと、おそれ(かしこ)みおそれみももうたまものはくともうす 正保しょうほうねん(1645ねんじゅういちがつさんにち

東照宮とうしょうぐう一覧いちらん

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北海道ほっかいどう東北とうほく地方ちほう

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渡島ととう振興しんこうきょく北海道ほっかいどう
青森あおもりけん
宮城みやぎけん
福島ふくしまけん

関東かんとう地方ちほう

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茨城いばらきけん
 
水戸みと徳川とくがわ水戸みと東照宮とうしょうぐう
栃木とちぎけん
群馬ぐんまけん
埼玉さいたまけん
 
仙波せんば東照宮とうしょうぐう本殿ほんでんひらとうもん
  • 仙波せんば東照宮とうしょうぐう - 川越かわごえさんだい東照宮とうしょうぐうしょうす。本殿ほんでんなど6けん建築けんちくくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい天海あまみによる創建そうけんで、久能山くのうざんから日光にっこうへの改葬かいそうさいし、後水尾天皇ごみずのおてんのうからあずまあきらだい権現ごんげん勅額ちょくがく下賜かししている。
  • にん東照宮とうしょうぐう - 行田ぎょうだ家康いえやす長女ちょうじょかめひめ家康いえやすぞう拝領はいりょうし、ひめ死後しご安置あんちしたのにはじまる。また川崎かわさき東照宮とうしょうぐうかれていた神体しんたい安置あんちされているが、これは鳥羽とば伏見ふしみたたか被災ひさいまぬかれるためはこばれて合祀ごうししたものである。
千葉ちばけん
東京とうきょう
 
江戸城えどじょうないにあった紅葉山もみじやま東照宮とうしょうぐう(『江戸えど屏風びょうぶ』)
  • 紅葉山もみじやま東照宮とうしょうぐう - 千代田ちよだ元和がんわ4ねん1618ねん)に江戸城えどじょううち紅葉山もみじやまにて創建そうけん秀忠ひでただ以降いこう歴代れきだい将軍しょうぐんびょうもうけられ、家康いえやす命日めいにちである4がつ17にちには将軍しょうぐん参詣さんけいする「紅葉山もみじやま御社おんしゃさん」がおこなわれていた。江戸えど開城かいじょうともな撤廃てっぱいされ、近代きんだい以後いご紅葉山もみじやま養蚕ようさんしょかれている。なお、江戸えど時代じだい前期ぜんきには、江戸城えどじょう本丸ほんまるまるにもあずまあきらしゃみやごう宣下せんげまえ)がっていた時期じきがあった[2]
  • 上野うえの東照宮とうしょうぐう - 台東たいとう徳川とくがわ家康いえやすいのちによって藤堂とうどう高虎たかとらはん下屋敷しもやしき敷地しきちないのち寛永寺かんえいじ境内けいだいとなる)にもうけられた。寛永かんえい4ねん1627ねん創建そうけん慶安けいあん4ねん1651ねん)に徳川とくがわ家光いえみつにより造営ぞうえいえした社殿しゃでん現存げんそんする。関東大震災かんとうだいしんさい戦災せんさいまぬかれており、社殿しゃでんからもんとおるへいどう灯篭どうろう大石おおいし鳥居とりいくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。さんだい東照宮とうしょうぐうこそはしょうしていないが、下記かきしば東照宮とうしょうぐうが「四大しだい東照宮とうしょうぐうひとつ」にふくめている。いけはし参道さんどうにあるいしせいにんこう鳥居とりいはかつての紅葉山もみじやま東照宮とうしょうぐうから明治めいじ6ねん1873ねん)に移築いちくしたもの。
  • しば東照宮とうしょうぐうみなと当初とうしょ増上寺ぞうじょうじ管轄かんかつだったが、神仏しんぶつ分離ぶんりれいにより明治めいじ6ねん(1873ねん)に独立どくりつ神社じんじゃとなる。その絢爛けんらん豪華ごうかさから「日光にっこう久能山くのうざん上野うえのなら四大しだい東照宮とうしょうぐうひとつ」としょうしている。神体しんたい家康いえやすぞう家康いえやす還暦かんれきむかえたおりつくらせたもので、戦災せんさいまぬか指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざいになっている。ただし本殿ほんでん戦災せんさい焼失しょうしつし、昭和しょうわ44ねん1969ねん)に再建さいけん
  • 東照宮とうしょうぐう - 府中ふちゅう大國たいこくたましい神社じんじゃ境内けいだい末社まっしゃ久能山くのうざんから日光にっこうさんへの遷座せんざさい霊柩れいきゅう武蔵むさし国府こくふ斎場さいじょう一夜いちやかし、大國たいこくたましい神社じんじゃ宮司ぐうじ祭祀さいしつとめたことを後世こうせいつたえるため、徳川とくがわ秀忠ひでただいのちにより建立こんりゅうされた[3]

中部ちゅうぶ地方ちほう

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新潟にいがたけん
長野ながのけん
石川いしかわけん
  • 金沢かなざわ東照宮とうしょうぐう - 金沢かなざわ金沢かなざわじょうきたまるてられ、「北陸ほくりく日光にっこう」とばれるが明治めいじ時代じだい現在地げんざいちうつされる。現在げんざい尾崎おざき神社じんじゃ本殿ほんでん拝殿はいでんぬさ殿どのとう重要じゅうよう文化財ぶんかざい
福井ふくいけん
岐阜ぎふけん
静岡しずおかけん
愛知あいちけん
 
尾張おわり徳川とくがわ名古屋なごや東照宮とうしょうぐう
 
さんだい東照宮とうしょうぐうかぞえられるおおとり来山らいざん東照宮とうしょうぐう

近畿きんき地方ちほう

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紀州きしゅう徳川とくがわ紀州きしゅう東照宮とうしょうぐう
滋賀しがけん
  • 日吉ひよし東照宮とうしょうぐう - 大津おおつ本殿ほんでん拝殿はいでんくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい。「関西かんさい日光にっこう」ともばれている。東照宮とうしょうぐう豪奢ごうしゃ絢爛けんらん装飾そうしょくされるようになった嚆矢こうし天海あまみ上人しょうにんによる元和がんわ9ねん1623ねん創建そうけん日吉ひよし東照宮とうしょうぐうで、これが唐様からよう権現造ごんげんづくりばれる日光にっこう東照宮とうしょうぐう雛形ひながたなったとわれている。日吉ひよし大社たいしゃ権現ごんげん信仰しんこうのモデルになった日吉ひよし信仰しんこうそう本社ほんしゃでもある。
京都きょうと
  • 金地院こんちいん東照宮とうしょうぐう - 京都きょうと左京さきょう臨済宗りんざいしゅう南禅寺なんぜんじ名刹めいさつ金地院こんちいん境内けいだいもうけられる。本殿ほんでん拝殿はいでんくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい幕府ばくふ公式こうしき記録きろくのこ家康いえやす遺言ゆいごんによりてられた3しゃひとつ。家康いえやす遺髪いはつまつる。
  • 東本願寺ひがしほんがんじ東照宮とうしょうぐう - 京都きょうと下京しもぎょう東本願寺ひがしほんがんじ境内けいだいにあったが焼失しょうしつ現存げんそんしない。
  • 圓光寺えんこうじ東照宮とうしょうぐう - 京都きょうと左京さきょう

 家康いえやす埋葬まいそうされている。

和歌山わかやまけん
  • 紀州きしゅう東照宮とうしょうぐう - 和歌山わかやまけん和歌山わかやま本殿ほんでんからもん楼門ろうもん廻廊かいろうなどはくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい元和がんわ7ねん1621ねん)に紀州きしゅう徳川とくがわはん徳川とくがわ頼宣よりのぶにより南海なんかいどうそう鎮護ちんごとして景勝けいしょう和歌浦わかうら創建そうけんされたのにはじまる。はやくから江戸えど時代じだい観光かんこう娯楽ごらくだった参詣さんけいとしてられるようになり、「和歌わかうらには名所めいしょがござる、いち権現ごんげん玉津島たまつしまさんがりまつよん塩釜しおがまよ、ヨイヨイヨイトナ」と民謡みんようにもうたわれるほどだった。「関西かんさい日光にっこう」またはまれに「西にし日光にっこう」ともばれ、日光にっこう東照宮とうしょうぐうおなじく唐様からよう権現造ごんげんづくり社殿しゃでんひだり甚五郎じんごろうさくつたえられる装飾そうしょくさむらいざかばれる急峻きゅうしゅんな108だん石段いしだんなどでられる。また和歌わかさいというれい大祭たいさい江戸えど時代じだい屈指くっし壮麗そうれい行事ぎょうじとしてられ、毎年まいとし全国ぜんこくから見物けんぶつきゃくおとずれるほどだった。
大阪おおさか
  • さかい東照宮とうしょうぐう - さかいさかいみなみはじめてら境内けいだい昭和しょうわ20ねん(1945ねん)の大戦たいせん戦災せんさいにより焼失しょうしつし、以降いこう再建さいけんされた「東照宮とうしょうぐう 徳川とくがわ家康いえやすはか」がのこる。
  • つくだ東照宮とうしょうぐう - 大阪おおさか西淀川にしよどがわみの神社じんじゃ境内けいだいつくだ漁民ぎょみん徳川とくがわ家康いえやすとのふかかかわりによってたてまつられており、毎年まいとし5月17にちには東照宮とうしょうぐうさいいとなまれている。
  • 川崎かわさき東照宮とうしょうぐう - 大阪おおさかきた元和がんわ3ねん1617ねん造営ぞうえい東照宮とうしょうぐうより歴史れきしふるかったが、豊臣とよとみしょくつよ造営ぞうえいしたなど政治せいじてき思惑おもわくつよかった。明治めいじ6ねん1873ねん)に廃絶はいぜつとなり、跡地あとち造幣局ぞうへいきょくなどに転用てんようされた。
兵庫ひょうごけん
  • 圓教寺えんきょうじおくいん開山かいさんどうない- 姫路ひめじ書写しょしゃ圓教寺えんきょうじ境内けいだい開山かいさんどう改築かいちく寛文ひろふみ年間ねんかん内陣ないじんしつらえられた。2だい秀忠ひでただおおやけ以下いか13だい家定いえさだおおやけまでのお位牌いはい安置あんちされている。ご神体しんたい明治めいじ以来いらい行方ゆくえ不明ふめいであったが平成へいせい22ねん2010ねん)の修理しゅうりにあたり、落慶らっけい法要ほうよう久能山くのうざん東照宮とうしょうぐうよりぶんかみ遷座せんざした。明治めいじ以降いこうはじめてのこと。

中国ちゅうごく地方ちほう

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岡山おかやまけん
  • 玉井たまいみや東照宮とうしょうぐう - 岡山おかやまちゅう玉井たまいみや東照宮とうしょうぐうおなやましゃ別々べつべつ鎮座ちんざしていたが明治めいじになり合祀ごうしされた神社じんじゃ岡山おかやまじょうならびに岡山おかやま城下町じょうかまちそう鎮守ちんじゅ創建そうけんされた。中国ちゅうごく地方ちほうはじめて勧請かんじょうされた東照宮とうしょうぐうである。本殿ほんでんならびに石垣いしがき東照宮とうしょうぐう建物たてもので、けん指定してい重要じゅうよう文化財ぶんかざいとなっている。
  • 愛山あいざん東照宮とうしょうぐう - 津山つやま天和てんわ2ねん1682ねん美作みさく津山つやまはんの3だい藩主はんしゅもり長武ながたけ徳川とくがわ幕府ばくふたいする忠誠ちゅうせいめて、天台宗てんだいしゅう愛宕山あたごやま地蔵じぞういん境内けいだいあずまあきらだい権現堂ごんげんどうてた。その文化ぶんか11ねん1814ねん)に津山つやま藩主はんしゅ松平まつだいらによって現在げんざい社殿しゃでんてられた。明治めいじ4ねん1871ねん)の神仏しんぶつ分離ぶんりによって東照宮とうしょうぐうむらばしらになり、土地とち建物たてもの地蔵じぞういん二分にぶんして松平まつだいら所有しょゆうとなったのち、昭和しょうわ38ねん1963ねん)に松平まつだいら津山つやま譲渡じょうと。そのあらためて地蔵じぞういんいで現在げんざいいたる。
鳥取とっとりけん
  • 鳥取とっとり東照宮とうしょうぐう - 鳥取とっとり別名べつめい因幡いなば東照宮とうしょうぐう以前いぜんぶな谿(おうちだに)神社じんじゃという名称めいしょうだったが、平成へいせい23ねん2011ねん)に改称かいしょう本殿ほんでんからもん拝殿はいでんなどはくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい鳥取とっとりはん初代しょだい藩主はんしゅ池田いけだひかりなかにより創建そうけんひかりなか家康いえやす曾孫そうそんにあたるが、一方いっぽう池田いけだ豊臣とよとみ恩顧おんこ大名だいみょうでもあったため、幕府ばくふへの恭順きょうじゅんしめして勧進かんじんしている。慶安けいあん3ねん落慶らっけい
広島ひろしまけん
島根しまねけん

四国しこく九州きゅうしゅう地方ちほう

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香川かがわけん
長崎ながさきけん

出典しゅってん

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  1. ^ 地形ちけい把握はあくねていた家康いえやすのタカり 遷霊行列ぎょうれつ中原なかはら府中ふちゅうで「御殿ごてん」に宿泊しゅくはく 産経新聞さんけいしんぶん2015.1.25
  2. ^ 入口いりくち, 敦志あつしまる権現ごんげんさま興廃こうはい」『調査ちょうさ研究けんきゅう報告ほうこくだい28ごう人間にんげん文化ぶんか研究けんきゅう機構きこう国文学研究資料館こくぶんがくけんきゅうしりょうかん、2007ねん1がつ31にち、29-50ぺーじISSN 0289-0410NAID 1200057224222024ねん5がつ23にち閲覧えつらん 
  3. ^ 東照宮とうしょうぐう - 大國たいこくたましい神社じんじゃ、2024ねん1がつ13にち閲覧えつらん
  4. ^ 板垣いたがき精神せいしん : 明治維新めいじいしんひゃくじゅうねん板垣いたがき退助たいすけ先生せんせい薨去こうきょひゃく回忌かいき記念きねん”. 一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじん 板垣いたがき退助たいすけ先生せんせい顕彰けんしょうかい (2019ねん2がつ11にち). 2021ねん6がつ3にち閲覧えつらん
  5. ^ 岐阜ぎふ新聞しんぶん』2021ねん (れい3ねん) 6がつ2にちごう朝刊ちょうかん
  6. ^ 日光にっこう東照宮とうしょうぐう板垣いたがき退助たいすけ』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編纂、2021ねんれい3ねん6月2にち出版しゅっぱんによる。
  7. ^ 岐阜ぎふ東照宮とうしょうぐう奉賛ほうさんかいしおり』伊奈いななみ神社じんじゃ、2021ねん (れい3ねん) による。
  8. ^ 国宝こくほう社殿しゃでん”. 久能山くのうざん東照宮とうしょうぐう. 2020ねん7がつ26にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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