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周礼 - Wikipedia
儒家じゅか経典きょうてん
五経ごきょう つて
きゅうけい
えき
しょ

れい儀礼ぎれい/しゅうあや
春秋しゅんじゅう
れい
春秋しゅんじゅうひだりでん
春秋しゅんじゅうこうひつじでん
春秋しゅんじゅうこくりょうつたえ
ななけい じゅうけい
論語ろんご
こうけい
しかみやび
じゅうさんけい
孟子もうし

しゅうあや』(しゅらい)は、儒教じゅきょう経典きょうてんじゅうさんけい)のひとつで、『れい』『儀礼ぎれい』とともに「さんれい」を構成こうせいする書物しょもつである[1]

しゅうあや』は偽書ぎしょうたがいがあり[2]紀元前きげんぜん11世紀せいきしゅうこうだんつくったとも、前漢ぜんかんだいりゅうつくったともされる。また現代げんだい研究けんきゅう進展しんてんにより戦国せんごく時代じだい末期まっき成立せいりつしたとの見方みかたしめされている。

内容ないようとしては、しゅう王朝おうちょうの「れい」、すなわち文物ぶんぶつ習俗しゅうぞく政治せいじ制度せいどとく官位かんい制度せいどについてしるされており、戦国せんごく時代じだい以降いこう儒者じゅしゃにとって理想りそうてき制度せいどとみなされた。ただし、考古学こうこがく調査ちょうさによってられた金文きんぶん資料しりょうさきしん文献ぶんけんしるされた制度せいどとは、ちがいをせている。

こうかんていげんによるちゅうとう公彦きみひこによるともなって『しゅうあや注疏ちゅうそ』として『じゅうさんけい注疏ちゅうそ』におさめられている。

歴史れきし 編集へんしゅう

しゅうあや』の書名しょめい本来ほんらいしゅうかん』であり、六経りくけいのひとつである「れい」とは関係かんけいなかったとかんがえられる。前漢ぜんかんたけみかどのときにかわあいだけんじおう入手にゅうしゅした[3]

しんおうのときはじめて経典きょうてんくわえられ、りゅうが『しゅうあや』に書名しょめいあらためたという[4][5]。しかし、ふゆかんへんけていたので、そのかわりに『こうこう』を収録しゅうろくした[6]。あるいはかわあいだけんじおうのときにすでに『こうこう』でおぎなってあったともいう[7]

こうかんにはいるともりはるが『しゅうあや』をつたえたといい[8]、賈徽やていきょうも『しゅうあや』につうじていた。賈徽の賈逵[9]ていきょうていしゅううまとおるらが注釈ちゅうしゃくいた[10]。『しゅうあや』は古文こぶん学派がくはにとって重要じゅうよう経典きょうてんであり、賈逵の門人もんじんだったもとまきも『しゅうあや』をおさめている。ていげんもりはるていきょうていしゅうらのせつ総合そうごうし、さらに『しゅうあや』のせつ基本きほんに『儀礼ぎれい』『れい』にも注釈ちゅうしゃくほどこした。たかしおうあずますすむたからにもちゅうがあったというが[11]現在げんざいていげんちゅう以外いがいほろびている。

清末きよすえまご詒譲は、清朝せいちょう考証こうしょうがく成果せいかをまとめて『しゅうあや正義まさよし』をあらわした[1]

内容ないよう 編集へんしゅう

官職かんしょくてんかんかんはるかんなつかんあきかんふゆかんろくかんろくきょう)にけ、それぞれに60の官職かんしょくぞくするため[12]官職かんしょく合計ごうけいは360になるはずであるが、実際じっさいにはかくかんにはそれ以上いじょう官職かんしょくぞくしている(てんかん63、かん78[13]はるかん69[14]なつかん70、あきかん66)。それぞれのかんについていちへんをなし、本来ほんらいぜん6へんからなるが、ふゆかんへんほろび佚し、わりに『こうこう』でおぎなわれている。しかし『こうこう』はあかりかにほかのへんとは内容ないようことなり、官職かんしょくかず半分はんぶんの30しかない。

かんつかさろくなつかんぐん司馬しば輿こし司馬しば行司ぎょうじてのひら疆・つかさかぶとあきかんてのひら察・てのひら貨賄・そくいえこうこうだん・韋氏・裘氏・かたみじん・楖人・雕人の合計ごうけい17かんだいのみで中身なかみがない。またなつかんしょう司馬しば断章だんしょうしかのこっていない。

てんかんしょうおさむによるとかくかん以下いかのような職能しょくのうっている:

てんかん
国政こくせい)を所管しょかん
長官ちょうかんは冢宰(ちょうさい)
かん
きょう教育きょういく)を所管しょかん
長官ちょうかんつかさ
はるかん
れい礼法れいほう祭典さいてん)を所管しょかん
長官ちょうかん宗伯そうはく
なつかん
へい軍政ぐんせい)を所管しょかん
長官ちょうかん司馬しば
あきかん
けい訴訟そしょう刑罰けいばつ)を所管しょかん
長官ちょうかんつかさ
ふゆかん
こと土木どぼく工作こうさく)を所管しょかん
長官ちょうかんつかさむなし

実際じっさいにはかんには地方ちほう行政ぎょうせい農業のうぎょう関係かんけいしょくおおぞくしており、ろく分類ぶんるいちかい。

影響えいきょう 編集へんしゅう

この書物しょもつは、しんおう前漢ぜんかんから簒奪さんだつするさい道義どうぎてきうしたてとしており、おう莽の側近そっきんであるりゅうにより捏造ねつぞうされたのではないかとする見解けんかいもありむかしから議論ぎろんんでいる(たとえばみなみそうひろし容斎ようさいぞくふでまき16「しゅうあやしゅうおおやけしょ」、清末きよすえ康有為こうゆういしんがくにせけいこう』「漢書かんしょりゅう歆王莽伝べんにせだいろく」)。現在げんざいではしゅうあや文章ぶんしょうと、どう時代じだいのと暦法れきほうなどの比較ひかくもとづいて、戦国せんごく時代じだい末期まっきに「しゅうあや」が成立せいりつしたのではないかとされる。またしゅうれいの「しゅう」とは西にししゅうではなく、戦国せんごく時代じだいしゅうこく意味いみしているとかんがえられる[15][16][17]

そのも、おおきな政治せいじてき改革かいかく改変かいへんおこなさいに『しゅうあや』を根拠こんきょにされた。とくに有名ゆうめいなのは西にしたかし時代じだいべんによっておこなわれた官制かんせい改革かいかくで、『しゅうあや』をもとにしたろくかんせいつくり、これを兵制へいせいわせた軍国ぐんこくせいつくげた。西にしたかし官制かんせいきたあまねけつがれ、国家こっか強化きょうか成功せいこうした[18]ずいろくかんせい廃止はいしした。

きたそうおうやすしせき新法しんぽうもこの書物しょもつ利用りようしている。

こうこう 編集へんしゅう

上記じょうきのように『こうこう』は本来ほんらいしゅうあや』とは無関係むかんけい書物しょもつであったとかんがえられる。『こうこう』は現存げんそんする中国ちゅうごく最古さいこ工業こうぎょう技術ぎじゅつしょであって、さまざまな器物きぶつ中国ちゅうごく青銅器せいどうきなど)の寸法すんぽうこまかくべている。

きよし以来いらいおおくの研究けんきゅうがある。戴震は『こうこう』をつくっている[19][20]こうひさしによると、『こうこう』はあずまあまね以後いごひとしひとによってかれた[21]

脚注きゃくちゅう 編集へんしゅう

  1. ^ a b 高橋たかはし忠彦ただひこ小学館しょうがくかん 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)『しゅうあや』 - コトバンク
  2. ^ 宇野うの精一せいいち中国ちゅうごく古典こてんがく展開てんかい」『宇野うの精一せいいち著作ちょさくしゅう だい2かん明治めいじ書院しょいん、1986ねん原著げんちょ1949ねんhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12214695/1/1 
  3. ^ 漢書かんしょけいじゅうさんおうでんけんじおう所得しょとくしょみな古文こぶんさきしんきゅうしょしゅうかん尚書しょうしょれいれい孟子もうこ老子ろうしぞくみなけい伝説でんせつななじゅうこれ所論しょろん。」
  4. ^ 荀悦かんなりみかど「歆以『しゅうかんじゅうろくへんためしゅうあや』。おう莽時、歆奏、以為れいけいおけ博士はかせ。」
  5. ^ 経典きょうてんしゃくあやじょろくおう莽時、りゅう歆為国師こくしはじめ建立こんりゅうしゅうかんけい、以為しゅうれい。」
  6. ^ 公彦きみひこしゅうあや注疏ちゅうそじょしゅうれいはいきょう以馬とおるでんうん中略ちゅうりゃくしかほろび其冬かんいちへん、以『こうこうあし。」
  7. ^ ずいしょ経籍けいせきこころざしいち「而漢ゆうしゅうかん』。『しゅうかんぶたしゅう公所ぐぞせいかん政之まさゆきほううえ於河あいだけんじおうどく闕冬かんいちへんけんじおう購以千金せんきんとげこうこう』、以補其処、合成ごうせいろくへんそう。」
  8. ^ 公彦きみひこしゅうあや注疏ちゅうそじょしゅうれいはいきょう以馬とおるでんうん中略ちゅうりゃく)奈遭天下でんか倉卒そうそつ兵革へいかくなみおこりやまし疫喪あら弟子でし有里ありさとじん河南かなん緱氏もりはるなおざいなが平之ひらのはつとし且九じゅういえ南山なんざんのうどおり其読、頗識其説。ていしゅう・賈逵往受業じゅぎょう焉。」
  9. ^ こう漢書かんしょてい范陳賈張でん・賈逵「(あきらみかどふくれいせんひとし・魯・かんあずかもう異同いどう、并作『しゅうかんかい。」
  10. ^ こう漢書かんしょ』儒林列伝れつでん中興ちゅうこうていしゅうでんしゅうかんけいこううまとおるさくしゅうかんでん、授鄭げんげんさくしゅうかんちゅう。」
  11. ^ 経典きょうてんしゃくあやじょろく
  12. ^ しゅうあやてんかんしょうおさむろくぞくによる
  13. ^ さと大夫たいふさとおっとけると79かん
  14. ^ いえ宗人むねとかみつかまつけると70かん
  15. ^ Zhou Ritual Culture and its Rationalization”. Indiana University. 2016ねん3がつ28にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2016ねん10がつ28にち閲覧えつらん
  16. ^ Rites of Zhou - Classics of Confucianism”. Cultural China. Shanghai News and Press Bureau. 2009ねん11月19にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2016ねん10がつ28にち閲覧えつらん
  17. ^ Theobald, Ulrich. “Chinese History - Zhou Period Literature, Thought, and Philosophy”. China Knowledge. 2011ねん7がつ12にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2016ねん10がつ28にち閲覧えつらん
  18. ^ 川俣かわまた義雄よしおすすむ南北なんぼくあさ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、2003ねん原著げんちょ1974ねん)、406-408ぺーじ 
  19. ^ 近藤こんどう光男みつお (1987). “戴震の『こうこう』について”. 清朝せいちょう考証こうしょうがく研究けんきゅう. けんぶん出版しゅっぱん. ISBN 978-4876360765 
  20. ^ 戴震『こうこうhttps://archive.org/stream/02073706.cn#page/n30/mode/2up  (archive.org)
  21. ^ こうひさししゅうれい疑義ぎぎきょようまきろくhttp://ctext.org/library.pl?if=gb&file=74739&page=66。"『こうこう』、あずまあまねひとしじん所作しょさ也。其言「はたいおり」「ていこれがたな」、厲王ふう其子ともはじめゆうてい東遷とうせん以西いせいしゅうあずかはたはじめゆうしん故知こちためひがししゅうしょ。其言「たちばな踰淮而北ためからたち」「鸜鵒踰済、むじな踰汶そくみなひとし魯間すい、而「おわりいにしえ」「戚速」「椑」「茭」これるいてい註皆以為ひとし人語じんご故知こちひとしじん所作しょさ也。ぶたひとし魯間せい物理ぶつりぜん工事こうじ、而工文辞ぶんじしゃ為之ためゆき。"。 

外部がいぶリンク 編集へんしゅう