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林述斎 - Wikipedia

はやし じゅつとき(はやし じゅっさい、明和めいわ5ねん6月23にち1768ねん8がつ5にち[1]) - 天保てんぽう12ねん7がつ14にち1841ねん8がつ30にち[1])は、江戸えど時代じだい後期こうき儒学じゅがくしゃ林家はやしや8だい林家はやしや中興ちゅうこうちち美濃みのこく岩村いわむらはんおも松平まつだいらじょう祖父そふとおる改革かいかく推進すいしんした老中ろうじゅう松平まつだいらじょういみなはじめ(松平まつだいら(のりひら)、のちに(はやし(たいら)[1]熊蔵くまぞう・叔紞・とくかい[1]ごうじゅつとき・蕉軒・蕉隠など[1]晩年ばんねんだい内記ないきしょうす。

はやし大学だいがくあたまじゅつとき肖像しょうぞう稿本こうほん部分ぶぶん渡辺わたなべ崋山かざんふで 田原たはら博物館はくぶつかんぞう
はやしじゅつとき肖像しょうぞう近世きんせい名家めいか肖像しょうぞう』より

人物じんぶつ略歴りゃくれき

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岩村いわむらはん松平まつへいではあににん早生わせしていたので、三男さんなんじゅつとき家督かとくぐべき位置いちにあったが、病弱びょうじゃくだったため、明和めいわ7ねん1770ねん)12月、福知山ふくちやまはん朽木くちきげんつなきゅうなん薀の養子ようしとしてむかえられ、家督かとくいで名乗なのった[2]成長せいちょうしてからは身体しんたい壮健そうけんになったじゅつときであるが、病弱びょうじゃくという理由りゆうながらく部屋住へやずであった[2]じゅつとき少年しょうねん徂徠そらいけい儒者じゅしゃである大塩おおしお鼇渚服部はっとり仲山なかやま儒学じゅがくまなび、その林家はやしや門人もんじん朱子学しゅしがくしゃ渋井しぶいふとししつ入門にゅうもん[1]、さらには折衷せっちゅうがくけい儒者じゅしゃ細井ほそいひらしゅうにも儒をまなんだ[2]。18さい天明てんめい5ねん1785ねんごろには、大名だいみょう幕臣ばくしんなどが中心ちゅうしんになってむすんでいた風雅ふうがかい風月ふうげつしゃ」にも参加さんかし、漢詩かんしじんとしても非凡ひぼんざい評判ひょうばんとなっていた[2]。その評判ひょうばんいた松平まつだいら定信さだのぶ周旋しゅうせん[2][ちゅう 1]寛政かんせい5ねん1793ねん)、はやしにしきみね死去しきょ途絶とだえた林家はやしやいで大学だいがくあたまとなり[1]幕府ばくふ文書ぶんしょ行政ぎょうせい中枢ちゅうすうとして幕政ばくせい関与かんよする。近世きんせい日本にっぽん文学ぶんがく研究けんきゅうしゃ揖斐いびだかは、定信さだのぶじゅつとき大学だいがくあたまりんぐにふさわしい学才がくさいだけでなく、寛政かんせい改革かいかく一環いっかんである学制がくせい改革かいかく(さらに、その一環いっかん寛政かんせいことがくきんである)のにんこたえるだけの政治せいじてき手腕しゅわんそなえていることを見抜みぬいたうえで、林家はやしや継嗣けいしさだめたのではないかとべている[2]じゅつとき林家はやしや遺跡いせきぐのとほぼどう時期じきに、定信さだのぶ老中ろうじゅう首座しゅざ将軍しょうぐん輔佐ほさめんぜられたが、 それまで定信さだのぶ主導しゅどうしてきた昌平しょうへいざか学問がくもんしょ昌平しょうへい黌)の改編かいへん整備せいびによる学制がくせい改革かいかくという路線ろせん継承けいしょうされた。そして、その学制がくせい改革かいかく路線ろせん定信さだのぶぎ、先頭せんとうって実現じつげんしていったのが、定信さだのぶがそのざいがく手腕しゅわん見込みこんで林家はやしや養子ようしにしたじゅつときであり、柴野しばの栗山りつざん古賀こが精里せいり尾藤びとう二洲にしゅう寛政かんせいさん博士はかせ)らとともに儒学じゅがく教学きょうがく刷新さっしんちからくし、昌平しょうへい黌の幕府ばくふ直轄ちょっかつ推進すいしんした[2]寛政かんせい9ねん1793ねん)12月、幕府ばくふ学制がくせいおおきくあらため、これまで制度せいどじょう林家はやしやいえじゅくとして「かんわたし并行」されていた昌平しょうへい黌を、幕府ばくふ直轄ちょっかつ昌平しょうへいざか学問がくもんしょとした。あわせてはやし大学だいがくあたまいえろくは3000せき従来じゅうらいは1523せき)と倍増ばいぞうし、はんおくつめ小姓こしょう番頭ばんがしら次席じせき従来じゅうらいおくつめ)にげられた。その文化ぶんか年間ねんかんにおける朝鮮ちょうせん通信使つうしんし応接おうせつ対馬つしまこくおこなう聘礼の改革かいかくにもかかわった[1]

じゅつとき学問がくもんは、朱子学しゅしがく基礎きそとしつつもきよしあさ考証こうしょうがく関心かんしんしめし、『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』『徳川とくがわ実紀みき』(成島なりしま司直しちょく共同きょうどう)『朝野あさの旧聞きゅうぶん裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)』『新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう』など幕府ばくふ編纂へんさん事業じぎょう主導しゅどうした。ただし、資料しりょう選別せんべつ体裁ていさい指導しどうまり、実際じっさい執筆しっぴつ分担ぶんたんしゃ一任いちにんしていた[1]

和漢わかん詩才しさいにすぐれ、歌集かしゅういええん漫吟まんぎん』などがある。中国ちゅうごく散逸さんいつした漢籍かんせき佚存しょ)をあつめた『佚存叢書そうしょ』は中国ちゅうごく国内こくないでも評価ひょうかたかい。別荘べっそうすずあきえん小石川こいしかわ)・たまもの春園はるその谷中たになか)をつ。岩村いわむらはん時代じだいに「百姓ひゃくしょう覚書おぼえがき」を発見はっけんし、幕府ばくふの「慶安けいあん触書ふれがき」として出版しゅっぱんした。

大正たいしょう4ねん(1915ねん)、したがえよん追贈ついぞうされた[3]

門人もんじん

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著名ちょめい門弟もんてい佐藤さとう一斎いっさいおな岩村いわむらはん出身しゅっしんで、まれながらの主従しゅうじゅう)・松崎まつざき慊堂こうどうがおり、井部いべ香山かやま葛西かさいいん青葉あおば半山はんざんらも門人もんじんとしてられる[4]

死後しご嫡男ちゃくなんはやし檉宇林家はやしやいだ。三男さんなん鳥居とりい耀蔵ようぞうろくなんはやしふくときむすめには設楽したら貞丈さだたけつまほりとしけんつまがあり、外孫そとまご岩瀬いわせ忠震ただなり設楽したら貞丈さだたけ)、ほりとしひろしらがいる。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 松浦まつうらしずさん甲子きのえね夜話やわ

    寛政かんせい白川しらかわこうくび輔の権勢けんせい人々ひとびと恐怖きょうふして、殿中でんちゅうにてうわさごとじんりしころこととぞ。稠人(ちゅうじん)こうすわなかにてしゅう旗本はたもと曾我そが伊賀いがまもるじょさるけるは、白川しらかわひとを識るのかんありとうんへど、拙者せっしゃひだりそんこうはやし大学だいがくは〔じゅつときなり〕 使つかいじょうのあるべきおとこなり。おっと見出みいだしたりとて、儒者じゅしゃにしたるは、さりとはことなりとうんて、だいわらいふ。まんすわひとしろらけて、こたえふるものし。しゅうじつはやし知己ちきうんべし。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i 日本にっぽん古典こてん文学ぶんがくだい辞典じてん編集へんしゅう委員いいんかい日本にっぽん古典こてん文学ぶんがくだい辞典じてんだい5かん岩波書店いわなみしょてん、1984ねん10がつ、124-125ぺーじ 
  2. ^ a b c d e f g 揖斐いび だか寛政かんせいことがくきん学制がくせい改革かいかく老中ろうじゅう松平まつだいら定信さだのぶから大学だいがくあたまりんじゅつときへ─」『日本學士院にほんがくしいん紀要きようだい77かんだい3ごう日本学士院にほんがくしいん、2023ねん5がつ12にち、179-219ぺーじCRID 1390296066525918336doi:10.2183/tja.77.3_179 
  3. ^ 田尻たじりたすく へん贈位ぞうい諸賢しょけんでん 増補ぞうほばん じょう』(近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ、1975ねん特旨とくし贈位ぞうい年表ねんぴょう p.35
  4. ^ 師弟してい関係かんけい (PDF)小林こばやしまつたかむら

外部がいぶリンク

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