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李百薬 - Wikipedia

百薬ひゃくやく(り ひゃくやく、565ねん - 648ねん)は、とう官僚かんりょう歴史れきしじゅうぶんまわしほんぬきはくりょうぐん安平あびらけん

経歴けいれき

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ずいうちれいいさおりんとしてまれた。ちちいさおりんきたひとし歴史れきししょいていたが、完成かんせいできなかった。

百薬ひゃくやくおさなころ病弱びょうじゃくで、祖母そぼちょうにそのために「百薬ひゃくやく」とづけられた。7さい文章ぶんしょうをよくし、ちちともりく乂とじょりょうぶんみ、難解なんかい一節いっせつみこなしたのでおどろかれた。かげかんによりさんまもるちょうとして仕官しかんした。ずいひらきすめらぎ初年しょねん太子たいし通事つうじ舎人とねり東宮とうぐう学士がくしにんぜられた。ひらきすめらぎ19ねん599ねん)、ひとし寿ことぶきみやされて、ちち安平あびらぐんおおやけ爵位しゃくいいだ。楊素ぎゅうひろしらに才能さいのうあいされ、れい部員ぶいん外郎ういろうにんぜられた。いのちけてれい律令りつりょう陰陽いんようしょさだめた。

かつてやまいのため舎人とねり辞任じにんしたとき、楊広の煬帝)があげしゅうにいて、百薬ひゃくやくしたが百薬ひゃくやくおもむかなかった。そのため煬帝が即位そくいすると、爵位しゃくいうばわれ、かつらしゅう司馬しば左遷させんされた。そこでかん退しりぞいて郷里きょうりかえった。大業おおわざ9ねん613ねん)、かいにあってかんたかしらんい、しろまもるのに功績こうせきげて、たてやすしぐんすすむにんぜられた。

ずいまつ江南えなではらんつづき、沈法きょうどおりもりふくらが興亡こうぼうしたが、百薬ひゃくやくはかれらのした転々てんてんとした。とう高祖こうそふかしもりふくを招諭したとき、百薬ひゃくやくもりふく説得せっとくして長安ながやすかわせた。もりふく途中とちゅう後悔こうかいして百薬ひゃくやくころそうとしたが、おうつよし誕の保護ほごすくわれた。輔公祏中国語ちゅうごくごばんが叛くと、吏部さむらいろうにんぜられた。高祖こうそは「百薬ひゃくやくも叛いた」とおこったが、もりふく百薬ひゃくやくころすよう輔公祏にめいじた手紙てがみをえて、百薬ひゃくやく一命いちめいゆるした。とうが輔公祏を平定へいていすると、百薬ひゃくやく涇州司馬しば左遷させんされた。

さだかん元年がんねん627ねん)、中書ちゅうしょ舎人とねりにんぜられ、安平あびらけんおとこふうぜられた。よくさだかん2ねん628ねん)、れいさむらいろうとなった。ときに皇族こうぞく功臣こうしん土地とちあたえる議論ぎろんきたが、百薬ひゃくやくは「封建ほうけんろん」を上書うわがきして反対はんたい論陣ろんじんり、ふとしむね百薬ひゃくやく意見いけんってりやめた。さだかん4ねん630ねん)、太子たいしみぎ庶子しょしにんぜられた。太子たいしうけたまわいぬい素行そこうあらたまらないので、「さんどう」をつくって太子たいしを諫めた。

ちち遺稿いこういできたひとし歴史れきししょきつづり、さだかん10ねん636ねん)に完成かんせいさせて、『ひとししょ』といった。南朝なんちょうはりしょうあらわの『みなみひとししょ』と区別くべつして『きたひとししょ』と改名かいめいされた。

さだかん22ねん(648ねん)、84さいぼっした。やすしがあった。

伝記でんき資料しりょう

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