アレクシオス1世 せい の即位 そくい と東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の中興 ちゅうこう
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アレクシオス1世 せい コムネノス
1081年 ねん 、皇帝 こうてい イサキオス1世 せい コムネノス の甥 おい で、軍事 ぐんじ 貴族 きぞく コムネノス家 か 出身 しゅっしん の将軍 しょうぐん アレクシオス・コムネノス が、時 とき の皇帝 こうてい ニケフォロス3世 せい ボタネイアテス に対 たい して反乱 はんらん を起 おこ し、ニケフォロス3世 せい を退位 たいい させて皇帝 こうてい に即位 そくい した(アレクシオス1世 せい )。アレクシオスの即位 そくい は、コンスタンティノープル で高級 こうきゅう 官僚 かんりょう として、その地位 ちい を築 きず いた文官 ぶんかん 貴族 きぞく と、地方 ちほう 属 ぞく 州 しゅう を拠点 きょてん とする軍事 ぐんじ 貴族 きぞく の対立 たいりつ の中 なか で後者 こうしゃ の勝利 しょうり を意味 いみ するとされる場合 ばあい がある。このニ類型 るいけい 論 ろん はゲオルク・オストロゴルスキー によって提唱 ていしょう され、東 ひがし ローマ学会 がっかい に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。しかし、現在 げんざい ではこの説 せつ はほとんど放棄 ほうき されたと言 い ってよい[ 1] 。コムネノス朝 あさ 時代 じだい の爵位 しゃくい 形態 けいたい は、コムネノス家 か と姻戚 いんせき ・血縁 けつえん 関係 かんけい にある有力 ゆうりょく 貴族 きぞく のみが爵位 しゃくい を与 あた えられ、地位 ちい を得 え ることのできるシステムであった[ 2] 。つまり、庶民 しょみん が皇帝 こうてい まで登 のぼ りつめる可能 かのう 性 せい すらあった身分 みぶん 的 てき に流動 りゅうどう 性 せい のあるそれまでの東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく から大 おお きく姿 すがた を変 か えていった時代 じだい でもある。
当時 とうじ の帝国 ていこく はマケドニア王朝 おうちょう 時代 じだい の中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 制度 せいど が形骸 けいがい 化 か し、経済 けいざい 力 りょく ・軍事 ぐんじ 力 りょく は破綻 はたん に瀕 ひん し、帝国 ていこく にとって重要 じゅうよう な小 しょう アジア の大半 たいはん をセルジューク朝 あさ に占領 せんりょう され、南 みなみ イタリア (マグナ・グラエキア )はノルマン人 じん に奪 うば われ、北 きた からはペチェネグ人 じん の侵攻 しんこう が続 つづ いていた。アレクシオスの娘 むすめ アンナ・コムネナ は「帝国 ていこく は息 いき を引 ひ き取 と ろうとしていた」と綴 つづ っている。
これを受 う けて、軍事 ぐんじ ・内政 ないせい の才能 さいのう に優 すぐ れたアレクシオス1世 せい とその子 こ ヨハネス2世 せい の2代 だい の皇帝 こうてい は果敢 かかん に帝国 ていこく の再建 さいけん に挑 いど み、周囲 しゅうい の敵 てき をはねのけ、帝国 ていこく の威光 いこう を取 と り戻 もど し、およそ100年 ねん の間 あいだ 帝国 ていこく の衰退 すいたい を食 く い止 と めることに成功 せいこう した。
アレクシオスは爵位 しゃくい 体系 たいけい や通貨 つうか を改革 かいかく したほか、軍事 ぐんじ 奉仕 ほうし と引 ひ き換 か えに一定 いってい の地域 ちいき の徴税 ちょうぜい 権 けん などを認 みと めるプロノイア 制度 せいど を導入 どうにゅう し、ドゥーカス家 か や各地 かくち の有力 ゆうりょく 軍事 ぐんじ 貴族 きぞく たちと姻戚 いんせき 関係 かんけい を結 むす んで、皇族 こうぞく に相当 そうとう するコムネノス・ドゥーカス一門 いちもん を盟主 めいしゅ とする軍事 ぐんじ 貴族 きぞく の連合 れんごう 政権 せいけん という形 かたち で帝国 ていこく を再編 さいへん した。こうして国内 こくない を安定 あんてい させるとヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく の支援 しえん を受 う けて海軍 かいぐん 力 りょく を再建 さいけん し、西欧 せいおう へ傭兵 ようへい を要請 ようせい した。西欧 せいおう への傭兵 ようへい 派遣 はけん 依頼 いらい は十字軍 じゅうじぐん という想定 そうてい 外 がい の結果 けっか を生 う んで対応 たいおう に苦慮 くりょ することになった。その間 あいだ にセルジューク朝 あさ から小 しょう アジア西部 せいぶ を奪回 だっかい し、クマン人 じん の援軍 えんぐん を得 え てペチェネグ人 じん を打 う ち破 やぶ った。
ヨハネス2世 せい コムネノス
「善良 ぜんりょう なるヨハネス」と呼 よ ばれて国民 こくみん に尊敬 そんけい された長男 ちょうなん のヨハネス2世 せい も贅沢 ぜいたく を慎 つつし み、父 ちち の政策 せいさく を継承 けいしょう して各地 かくち へ親 おや 征 せい して戦 たたか いを進 すす めて小 しょう アジアの沿岸 えんがん 部 ぶ をほぼ全 すべ て奪回 だっかい し、アンティオキア公国 こうこく に宗主 そうしゅ 権 けん を認 みと めさせるまでに帝国 ていこく の勢威 せいい を回復 かいふく した。また北方 ほっぽう から侵攻 しんこう してきたペチェネグ族 ぞく をベロイアの戦 たたか いで(Battle of Beroia )壊滅 かいめつ させ、ハンガリー王国 おうこく の介入 かいにゅう を退 しりぞ けた。
こうして初期 しょき の皇帝 こうてい の治世 ちせい に帝国 ていこく は東 ひがし 地中海 ちちゅうかい の大国 たいこく の座 ざ を取 と り戻 もど し、周囲 しゅうい に帝国 ていこく の威光 いこう を示 しめ すことに成功 せいこう した。首都 しゅと コンスタンティノポリスは国際 こくさい 交易 こうえき 都市 とし として繁栄 はんえい し、文化 ぶんか も前 ぜん 時代 じだい の「マケドニア朝 ちょう ルネサンス 」を引 ひ き継 つ いで古典 こてん の研究 けんきゅう が進 すす み、文学 ぶんがく ・美術 びじゅつ などが栄 さか えた。
マヌエル1世 せい コムネノス
こうした繁栄 はんえい を受 う けて3代目 だいめ の皇帝 こうてい マヌエル1世 せい コムネノス は、古代 こだい ロ ろ ーマ帝国 まていこく の復興 ふっこう を目指 めざ してイタリア遠征 えんせい 、キリキア ・シリア地方 ちほう への遠征 えんせい 、神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく との外交 がいこう 戦 せん を繰 く り広 ひろ げ、盛 さか んに建築 けんちく 活動 かつどう を行 おこ なった。しかしマヌエル1世 せい の積極 せっきょく 的 てき な外交 がいこう 政策 せいさく や享楽 きょうらく 的 てき な生活 せいかつ は財政 ざいせい 支出 ししゅつ の増大 ぞうだい を生 う んで帝国 ていこく の財政 ざいせい を悪化 あっか させた。また祖父 そふ アレクシオス1世 せい の代 だい から特権 とっけん を得 え ていたヴェネツィアの増長 ぞうちょう ぶりを見 み たマヌエルは、1171年 ねん にヴェネツィア人 じん の一斉 いっせい 逮捕 たいほ を行 おこな ったために、関係 かんけい が悪化 あっか し、のちの第 だい 4回 かい 十字軍 じゅうじぐん を生 う む結果 けっか となる。内政 ないせい 面 めん でもコムネノス・ドゥーカス一門 いちもん の軍事 ぐんじ 貴族 きぞく は代 だい を経 へ るにしたがって人数 にんずう が増加 ぞうか するとともに、各地 かくち に根付 ねつ いて強大 きょうだい 化 か し、中央 ちゅうおう 政府 せいふ から一定 いってい の独立 どくりつ 性 せい を保持 ほじ して、あたかも封建 ほうけん 領主 りょうしゅ のようにふるまった。このため皇帝 こうてい も貴族 きぞく たちを統御 とうぎょ しきれず、なかには半 はん 独立 どくりつ 状態 じょうたい になる者 もの まで現 あらわ れた。数次 すうじ にわたる十字軍 じゅうじぐん と首都 しゅと 市民 しみん との軋轢 あつれき も次第 しだい に深 ふか まり、軍事 ぐんじ 協力 きょうりょく の見返 みかえ りとしてヴェネツィアやジェノヴァに貿易 ぼうえき 特権 とっけん を与 あた えたことで国内 こくない の商 しょう 工業 こうぎょう は衰退 すいたい し、関税 かんぜい 収入 しゅうにゅう も失 うしな われた。
さらに軍事 ぐんじ 面 めん でも1176年 ねん 小 しょう アジアのミュリオケファロンの戦 たたか い でルーム・セルジューク朝 あさ に惨敗 ざんぱい し、帝国 ていこく の威信 いしん は失墜 しっつい した。神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の皇帝 こうてい フリードリヒ1世 せい は東 ひがし ローマ皇帝 こうてい を「皇帝 こうてい 」として認 みと めず「ギリシャ人 じん の王 おう 」と呼 よ ばれる屈辱 くつじょく を味 あじ わうことになる。こうして失地 しっち 回復 かいふく を果 は たせないまま、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の国力 こくりょく を使 つか い尽 つ くした状態 じょうたい でマヌエルは没 ぼっ した。アレクシオス1世 せい とヨハネス2世 せい によって取 と り戻 もど されたかに見 み えた帝国 ていこく の繁栄 はんえい は再 ふたた び失 うしな われ、衰退 すいたい への道 みち をたどることになったのである。
マヌエルの死後 しご 、マヌエルの未亡人 みぼうじん マリア の後見 こうけん のもと、マヌエルとマリアのあいだに生 う まれた息子 むすこ のアレクシオス2世 せい が即位 そくい したが、アレクシオス2世 せい はまだ幼 おさな く、クーデタで政権 せいけん を掌握 しょうあく したマヌエルの従兄弟 いとこ アンドロニコス1世 せい コムネノス に帝位 ていい を奪 うば われて、母親 ははおや ともども殺害 さつがい されてしまった。
アンドロニコス1世 せい の改革 かいかく とコムネノス王朝 おうちょう の終焉 しゅうえん
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アンドロニコスは強権 きょうけん 的 てき な統治 とうち で国内 こくない を改革 かいかく し、大 だい 土地 とち 所有 しょゆう 貴族 きぞく を抑 おさ えて帝国 ていこく の支配 しはい を再建 さいけん しようとしたがうまくいかず、ついには恐怖 きょうふ 政治 せいじ を行 おこな って反抗 はんこう する高官 こうかん を次々 つぎつぎ に処刑 しょけい したために有能 ゆうのう な人材 じんざい が失 うしな われた。1185年 ねん 、西方 せいほう から侵入 しんにゅう したシチリア王国 おうこく 軍 ぐん が帝国 ていこく 第 だい 2の都市 とし テッサロニキ を陥落 かんらく させて首都 しゅと に迫 せま ると、パニックに陥 おちい った首都 しゅと 市民 しみん はアレクシオス1世 せい の娘 むすめ の孫 まご であるイサキオス・アンゲロス を擁 よう して反乱 はんらん を起 お こし、アンドロニコス1世 せい は廃位 はいい され、街頭 がいとう で怒 いか り狂 くる った市民 しみん たちの手 て で虐殺 ぎゃくさつ された。
コムネノス朝 あさ の時代 じだい は帝国 ていこく がその名 な に相応 ふさわ しい栄華 えいが を誇 ほこ った最後 さいご の時代 じだい だった。その後 ご の帝国 ていこく がかつての勢 いきお いを取 と り戻 もど す事 こと はついに叶 かな わず、1453年 ねん の滅亡 めつぼう まで緩 ゆる やかに衰退 すいたい していく道 みち を辿 たど った。ただし、アンゲロス家 か はもちろん、その後 ご 帝位 ていい を世襲 せしゅう したラスカリス家 か ・パライオロゴス家 か はいずれもコムネノス家 か との姻戚 いんせき 関係 かんけい を足 あし がかりに帝位 ていい を獲得 かくとく したものである。
なお、アンドロニコスの孫 まご アレクシオスとダヴィドはアンドロニコス1世 せい が殺 ころ されたときに母 はは に連 つ れられてコンスタンティノポリスからグルジアのタマル の宮廷 きゅうてい へ逃 に げ、1204年 ねん の第 だい 4回 かい 十字軍 じゅうじぐん によるコンスタンティノポリス陥落 かんらく の後 のち に、小 しょう アジア北東 ほくとう 部 ぶ のトレビゾンド(現在 げんざい のトルコ・トラブゾン )を都 と としてトレビゾンド帝国 ていこく を建国 けんこく 、皇帝 こうてい を宣言 せんげん した(アレクシオス1世 せい )。トレビゾンド帝国 ていこく は1461年 ねん にオスマン帝国 ていこく に滅 ほろ ぼされるまで、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 本体 ほんたい よりも長 なが く存続 そんぞく した。