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荘園 - Wikipedia

荘園しょうえん

公的こうてき支配しはいけない一定いってい規模きぼ以上いじょう私的してき所有しょゆう経営けいえい土地とち
荘園しょうえんせいから転送てんそう

荘園しょうえん(しょうえん)は、公的こうてき支配しはいけない(あるいは公的こうてき支配しはい極力きょくりょく制限せいげんした)一定いってい規模きぼ以上いじょう私的してき所有しょゆう経営けいえい土地とちである。なお、中世ちゅうせい西にしヨーロッパ中央ちゅうおうヨーロッパられたmanor(英語えいご)、Grundherrschaft(ドイツ)の訳語やくごとしてももちいられている。

日本にっぽん荘園しょうえん

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日本にっぽんにおける荘園しょうえんとは、奈良なら時代じだい律令制りつりょうせいしたはじまり、羽柴はしば秀吉ひでよしによる太閤たいこう検地けんちによってわりをげる権力けんりょくしゃ私有地しゆうちす。時代じだいごとに形式けいしきことなる。

中国ちゅうごく荘園しょうえん

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中国ちゅうごくにおいては、かん時代じだいより后妃こうひ皇族こうぞく富豪ふごうらが所有しょゆうする「そう」もしくは「えん」とばれるものが存在そんざいし、これが荘園しょうえんもととなった。ただし、当時とうじの「そう」や「えん」の主体しゅたい娯楽ごらくのための別荘べっそうであり、これに附属ふぞく庭園ていえんさらには周囲しゅうい田園でんえん山林さんりんふくめたものであった。六朝りくちょう時代じだい南朝なんちょうでは、別墅べっしょ(べっしょ)・別業べつぎょうばれて江南こうなん貴族きぞくなかにはすうひゃくごろ田畠たばたもの存在そんざいしたが、あくまでも別荘べっそう一部いちぶとしてとらえられていた。

からそう荘園しょうえん

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ちゅうとう以後いごひとし田制たせい崩壊ほうかいすると、宮廷きゅうてい貴族きぞく武人ぶじん地方ちほう豪族ごうぞくなどが個人こじん田畠たばた財産ざいさんとして私有しゆうする風潮ふうちょうつよまり、各地かくち荘田しょうだ荘園しょうえん形成けいせいされるようになる。だいには貴族きぞくそう没落ぼつらくし、そうはつには科挙かきょ制度せいど整備せいびされる一方いっぽう武人ぶじん勢力せいりょく抑圧よくあつされるようになったために、地方ちほう豪族ごうぞくから官僚かんりょうされ、その庇護ひごによって当人とうにんおよ一族いちぞく荘園しょうえん発展はってんするという構図こうずえがかれるようになった。荘園しょうえん構成こうせいする田畠たばたおも皇帝こうていよりの恩賜おんし墾田こんでんしついれかいいれによる購入こうにゅう寄進きしんさらには暴力ぼうりょくともな強奪ごうだつなどの手法しゅほうによって獲得かくとくされたものもふくまれていた。そのため、地域ちいきいちえん荘園しょうえんしてさんがわなどの自然しぜんぶつをもって境界きょうかいとした荘園しょうえん分散ぶんさんした土地とちわせて1つの荘園しょうえんとしてあつか場合ばあいなど様々さまざま形態けいたい存在そんざいし、なかにはかずにわたって多数たすう荘園しょうえんゆうするもの存在そんざいした。とうそう荘園しょうえんには輸不いれ特権とっけん存在そんざいしなかったものの、皇帝こうていからの恩賜おんし租税そぜい減免げんめんされ、官僚かんりょう所有しょゆう荘園しょうえんには免役めんえき特権とっけん存在そんざいしたため、農民のうみんおもぜい負担ふたんからのがれるために荘園しょうえん官僚かんりょう寄進きしんするれいられた。さらにこれを官僚かんりょう荘園しょうえん所有しょゆうしゃ政府せいふ官僚かんりょうとの個人こじんてきつながりをつうじて本来ほんらいまぬかない租税そぜい納付のうふ回避かいひしようとするものもいた。その結果けっか中央ちゅうおう財政ざいせいにも影響えいきょうあたえるようになり、そう王朝おうちょうではいぬいきょう元年がんねん1022ねん)に官僚かんりょう荘園しょうえんを30ごろはた吏衙まえ荘園しょうえんを15ごろ制限せいげんする提案ていあんされたものの失敗しっぱいし、そのかぎり免役めんえきほうおこなって免役めんえき範囲はんい寄進きしん制約せいやくそうとしている。もっとも、宮廷きゅうてい官庁かんちょう自身じしん荘園しょうえん一大いちだい所有しょゆうしゃであり、宮廷きゅうていぞくする荘園しょうえんとううちそうたく使そう御荘みしょう)や軍事ぐんじてき要所ようしょ周囲しゅういにて兵糧ひょうろう確保かくほのために開墾かいこん屯田とんでんによって形成けいせいされた営田かんそうおよび屯田とんでんぐんそう、その民間みんかんから没収ぼっしゅうしてぼつかんかんそうなども存在そんざいしていた。

からそう荘園しょうえん経営けいえい

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からそう荘園しょうえん庭園ていえんおよ農地のうちほか複数ふくすう耕地こうち構成こうせいされていた。そういんそうたくには荘園しょうえん所有しょゆうしゃとその家族かぞくかんそうかんそう幹人みきひとばれる管理かんりしゃそう、その家事かじ労働ろうどうなどをおこな使用人しようにんなどから構成こうせいされた。荘園しょうえん所有しょゆうしゃ直接ちょくせつ経営けいえいたずさわる場合ばあいもあったが、所有しょゆうしゃやとわれた管理かんりしゃ直接ちょくせつ耕作こうさくしゃであるつくだおよ奴隷どれい監督かんとくして生産せいさんぶつ金銭きんせんなどの形式けいしき租税そぜい小作こさくりょう徴収ちょうしゅうして管理かんりし、ときには相場そうば利用りようして運用うんようはか差額さがくもうけるものもいた。かぶとほう制定せいてい以後いご管理かんりしゃからつくだなかから雇用こようされてつくだかぶと編成へんせいさせるとともに租税そぜい小作こさくりょう徴収ちょうしゅう業務ぎょうむ補佐ほさおこなかぶとあたま設置せっちされた。直接ちょくせつ耕作こうさくしゃとしてはつくだ奴隷どれい、その雇傭こようしゃげられる。つくだそうきゃくきゃくつくだぼくきゃくともばれ、なかには自己じこ土地とち自作農じさくのう生活せいかつのためにつくだ役目やくめになれいもあった。荘園しょうえんないすうじゅうないしすうひゃくつくだてられそこにもの外部がいぶからかよものがいる。かれらは必要ひつよう農具のうぐこううし提供ていきょう所有しょゆうしゃ管理かんりしゃからけながら荘園しょうえんない耕地こうち耕作こうさくして租税そぜい小作こさくりょうおさめたほか荘園しょうえんない労働ろうどうにも従事じゅうじした。奴隷どれい家内かない奴隷どれいてき性質せいしつゆうするもの独立どくりつした住居じゅうきょかまえてつくだちか性質せいしつゆうするものがあった。奴隷どれいぜん時代じだいわたし奴婢ぬひきょくながれをみ、とうだいまでは荘園しょうえんない労働ろうどうにおいて重要じゅうよう役目やくめになっていたが、そうだいになるとつくだによる耕作こうさくほう所有しょゆうしゃ管理かんりしゃ負担ふたんかるく、次第しだいつくだえられたり、奴隷どれい雇傭こようしゃすすむことになっていった。それでも直営ちょくえいたがや要員よういんとして奴隷どれい完全かんぜん排除はいじょされることはかった。

あきらしん荘園しょうえん

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あきらきよしにおいても、ぜん王朝おうちょう官有かんゆうぼつかんぜん王朝おうちょう関係かんけいしゃ荘園しょうえん接収せっしゅうしたもの)、戦乱せんらんのおりの荒廃こうはいなどを宮廷きゅうてい諸王しょおうくん戚、官僚かんりょうなどに荘田しょうだ荘園しょうえんなどとしてあたえた。こうした荘園しょうえん中央ちゅうおううちかんこうじょうによって管理かんりされたが、現地げんち有力ゆうりょくしゃそうあたまにんじて実務じつむおこなわせる場合ばあいもあった。あかり国内こくない各地かくち宮廷きゅうてい直営ちょくえいすめらぎそう設置せっちした。きよしではすめらぎそうわって拠点きょてんとなるちょくおよまんしゅう内務ないむかんそうもりきょう戸部とべれいかんそうもうけられた。かんそうにはえい小作こさくけんゆうする漢人かんど世襲せしゅうそうあたまかれ、かん荘内そうないより租税そぜいあつめて生産せいさんぶつ後世こうせいにはそのだいぎん)を宮廷きゅうていおさめた。

日本にっぽんにおける中国ちゅうごく荘園しょうえんめぐ論争ろんそう

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日本にっぽん学界がっかいでは中国ちゅうごく荘園しょうえんたいする理解りかいおもに「世界せかい基本きほん原則げんそくおよ中世ちゅうせいヨーロッパの荘園しょうえんとの対比たいひ)についておおきくけると2せつかれて論争ろんそうおこなわれてきた。1つはしゅう藤吉とうきちこれほり敏一としいちらのせつひとし田制たせい崩壊ほうかいしょう農民のうみんによる土地とち所有しょゆう原則げんそく崩壊ほうかいしてだい土地とち所有しょゆう発生はっせいして地主じぬしつくだ形成けいせいされ、そうだいはいると地主じぬしそう官僚かんりょうとなりつくだ駆使くしして荘園しょうえん経営けいえいするようになった。つくだ地主じぬしによって経済けいざいてき依存いぞんなくして生計せいけいてられない状況じょうきょうかれ、移転いてん自由じゆうたず土地とち呪縛じゅばくされた一種いっしゅ農奴のうどせいであったというものである。もう1つは宮崎みやざきじょうらのせつひとし田制たせい実施じっしみとめない立場たちばからかんだいからだい土地とち所有しょゆうしゃによる荘園しょうえん開発かいはつ貧民ひんみんまねいた耕作こうさくおこなわれ後世こうせい荘園しょうえんをその延長えんちょうとする。とうだいきょくがヨーロッパの農奴のうど相当そうとうしていたが、ばんとう以後いご混乱こんらんによってきょく自立じりつしていちえんてきだい土地とち所有しょゆう分解ぶんかいした。その結果けっかそうだい荘園しょうえん内実ないじつ零細れいさい土地とちへん集積しゅうせき便宜上べんぎじょう荘園しょうえんとしているにぎず、地主じぬしつくだ自由じゆう人間にんげん契約けいやく関係かんけいもとづく小作こさく制度せいどによって経営けいえいされていたとするものである。

この両者りょうしゃせつ中国ちゅうごくにおける時代じだい区分くぶんろん密接みっせつ関係かんけいしており、しゅうふじとうおよだいを「古代こだい」・そうを「中世ちゅうせい」とする立場たちばから、宮崎みやざきかんだいを「古代こだい」・さんこく時代じだいからとうおよだいを「中世ちゅうせい」・そうを「近世きんせい」とする立場たちばっており、ヨーロッパ中世ちゅうせい荘園しょうえん対比たいひすべき農奴のうどせいによる経営けいえいもとづく荘園しょうえんがそれぞれが主張しゅちょうする「中世ちゅうせい」に存在そんざいしたというものである。そのため、双方そうほう中国ちゅうごく史上しじょうにおける荘園しょうえん位置いちづけもおおきくことなっているうえしゅうふじ宮崎みやざき晩年ばんねんには冷戦れいせん構造こうぞう崩壊ほうかいとともに「世界せかい基本きほん原則げんそく」という概念がいねんのそのものにたいする批判ひはん出現しゅつげんしたことで、議論ぎろん自体じたい中途ちゅうと停滞ていたいすることとなった。その高橋たかはし芳郎よしおつくだには農奴のうどせいによるつくだぼく小作こさくせいによるつくだきゃくの2種類しゅるいがあるとする「類型るいけいろん」をとなえた[1]のをはじめとして、りょうせつ折衷せっちゅうする見解けんかい地域ちいき民族みんぞく問題もんだいなどと関連付かんれんづけてりょうせつ並立へいりつ可能かのうせいさぐ見解けんかいされているが、通説つうせつ確立かくりつには程遠ほどとお状況じょうきょうにあるとされている。

ヨーロッパの荘園しょうえん

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ベリーこうのいとも豪華ごうかなるときいのりしょ』より絵暦えごよみ(3がつ

ヨーロッパにおける荘園しょうえんせい(Manorialism or Seigneurialism)は、中世ちゅうせい西にしヨーロッパ農村のうそんおよ中央ちゅうおうヨーロッパ一部いちぶ農村のうそんられた経済けいざい社会しゃかい構造こうぞう用語ようごである。ヨーロッパ荘園しょうえんせい特徴とくちょうは、法的ほうてき経済けいざいてき権力けんりょく領主りょうしゅ集中しゅうちゅうしていたてんにある。領主りょうしゅ経済けいざい生活せいかつは、みずからが保有ほゆうする直営ちょくえいからの収入しゅうにゅうと、支配しはいにおく農奴のうどからの義務ぎむてきみつぎおさめによってささえられていた。農奴のうどからのみつぎおさめは、労役ろうえき生産せいさんぶつ現物げんぶつ)、またはまれに金銭きんせん現金げんきん)という形態けいたいをとっていた。

ManorismやSeigneurialismのかたりは、それぞれ、農村のうそんにおいて代々だいだい相続そうぞくされる伝統でんとうてき支配しはい地域ちいきあらわすmanors、seigneuries(日本語にほんごでは荘園しょうえんやくされる)に由来ゆらいしている。荘園しょうえん領主りょうしゅ地位ちいは、より上位じょうい領主りょうしゅからの要求ようきゅううことにより保証ほしょうされていた(くわしくは封建ほうけんせい参照さんしょうのこと)。荘園しょうえん領主りょうしゅは、公共こうきょうほう地域ちいき慣習かんしゅうにのっとり裁判さいばんおこなっていた。また、すべての荘園しょうえん領主りょうしゅ在俗ざいぞくしゃだったわけではなく、司教しきょう修道院しゅうどういんちょう領主りょうしゅとしてみつぎおさめともな土地とち所有しょゆうおこなっていたれいられる。


農村のうそん社会しゃかいにおけるすべての社会しゃかい経済けいざい要素ようそ基礎きそとなったのは、土地とち所有しょゆう状況じょうきょうであった。荘園しょうえん登場とうじょう先立さきだって、2つの土地とちシステムが存在そんざいしていた。より一般いっぱんてきだったのは、完全かんぜん所有しょゆうけんした土地とち保有ほゆうするシステム(1人ひとり土地とち所有しょゆうしゃほかにその土地とち権利けんりゆうするもの皆無かいむというシステム。英語えいごallodiumという。)であり、もうひとつのシステムは、土地とち条件じょうけんきで保有ほゆうする形態けいたいであるかみへの贈与ぞうよ(precaria)また聖職せいしょくろく(beneficium)の利用りようであった。

これら2つにくわえて、カロリングあさ君主くんしゅたちは、だい3のシステムとして、荘園しょうえんせい封建ほうけんせい融合ゆうごうさせたアプリシオ(aprisio)を創始そうしした。アプリシオが最初さいしょ出現しゅつげんしたのは、シャルルマーニュ(カール大帝たいてい)の南仏なんふつ保有ほゆうであるセプティマニア地方ちほうである。当時とうじ、シャルルマーニュは、778ねんサラゴサ遠征えんせい失敗しっぱいし、そのさい退却たいきゃくぐんについてきた西にしゴートぞく難民なんみんをどこかへ定住ていじゅうさせてやる必要ひつようわれていた。この問題もんだいは、皇帝こうてい直轄ちょっかつであるおうりょう(fisc)のうち、耕作こうさく不毛ふもう地帯ちたい西にしゴートぞくてることで解決かいけつした。これがアプリシオのはつげんだとされている。確認かくにんされたもののうち、もっと初期しょきのアプリシオは、ナルボンヌ(Narbonne)にちかいフォンジョクス(Fontjoncouse)でつかっている。

西にしヨーロッパきゅう帝国ていこくない一定いってい地域ちいきでは、古代こだい末期まっき別荘べっそう(villa)システムが確立かくりつし、中世ちゅうせい世界せかいへと継承けいしょうされた。

ヨーロッパ荘園しょうえんられる共通きょうつうてん

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荘園しょうえん構成こうせいする土地とちは、つぎの3階層かいそうけられた。

  1. 領地りょうちdemesne領主りょうしゅ直轄ちょっかつ)は、領主りょうしゅにより直接ちょくせつ支配しはいされた地区ちくであり、領主りょうしゅ一族いちぞく郎党ろうとう利益りえきのための収奪しゅうだつおこなわれた。
  2. 農奴のうどserfまたvilleinという)の保有ほゆうは、領主りょうしゅ納入のうにゅうする労役ろうえき生産せいさんぶつ現金げんきんといったみつぎおさめ保有ほゆう付随ふずいする慣習かんしゅうとされていた)をささえるための土地とちであった。このような農奴のうどによる土地とち保有ほゆう農奴のうど保有ほゆう(villein tenure)という。くわしくは農奴のうどせい項目こうもく参照さんしょう
  3. 自由じゆう農民のうみん保有ほゆうでは、上記じょうきようみつぎおさめ免除めんじょされていた。反面はんめん自由じゆう農民のうみん荘園しょうえん裁判さいばんけん慣習かんしゅう従属じゅうぞくし、賃借ちんしゃくともな借金しゃっきんわされていた。

領主りょうしゅ収入しゅうにゅうげんには、このほかにも(法廷ほうてい収入しゅうにゅう借地しゃくち変更へんこう契約けいやくごとの収入しゅうにゅう同様どうように)領主りょうしゅ水車みずぐるませいパンしょワイン圧搾あっさくなどの使用しようりょう領主りょうしゅもりでの狩猟しゅりょうけんりょう・ブタ飼育しいくけんりょうなどがふくまれていた。領主りょうしゅ支出ししゅつめんてみると、荘園しょうえん管理かんりおおきな出費しゅっぴともなうものであり、小規模しょうきぼ荘園しょうえんでは農奴のうど保有ほゆう依存いぞんしない傾向けいこうがあったのも、このためだったとかんがえられている。

農奴のうど保有ほゆう財産ざいさんは、名目めいもくじょう領主りょうしゅ借地しゃくちじん農奴のうど)との合意ごういもとづくものとされていたが、実際じっさいには、ほぼ強制きょうせいてき世襲せしゅうさせられていた(相続そうぞく領主りょうしゅへの支払しはらいせられていた)。農奴のうどは、人口じんこうてき経済けいざいてき条件じょうけんととのって逃亡とうぼうできる見込みこみたないかぎり、土地とち放棄ほうきすることはできなかった。おなじく、領主りょうしゅ承認しょうにん慣習かんしゅうてき支払しはらいなくして、土地とち第三者だいさんしゃ譲渡じょうとすることもできなかった。

農奴のうど自由じゆうみんではなかったが、奴隷どれいだったわけでもない。農奴のうど法的ほうてき権利けんり主張しゅちょうし、地域ちいき慣習かんしゅうしたがい、(領主りょうしゅふく収入しゅうにゅうでもある)法廷ほうていりょう支払しはらえば訴訟そしょううったえることもできた。農奴のうど保有ほゆう財産ざいさん転貸てんたいすることはめずらしくなく、13世紀せいきころからは領地りょうち領主りょうしゅ直轄ちょっかつ)での労役ろうえきわりに金銭きんせん納入のうにゅうおこなわれるようになった。

ヨーロッパ荘園しょうえん様々さまざま形態けいたい

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封建ほうけん社会しゃかい法的ほうてき組織そしきてき枠組わくぐみを荘園しょうえんせいとともにかたちづくる封建ほうけんせいがそうであるように、荘園しょうえん構造こうぞうもまた、封建ほうけんてき特徴とくちょうしめ社会しゃかい普遍ふへんてき一定いってい現象げんしょうであるとはえない。経済けいざい状況じょうきょう変化へんかにともなって荘園しょうえん経済けいざい相当そうとう発展はってんせたが、それでも中世ちゅうせい後期こうきいたるまで、荘園しょうえんまった存在そんざいしないか、不完全ふかんぜんでしか存在そんざいしない地域ちいき残存ざんそんつづけた。

また、すべての荘園しょうえん前述ぜんじゅつ3種類しゅるい土地とちから構成こうせいされていたわけではない。平均へいきんしてみれば、領地りょうち領主りょうしゅ直轄ちょっかつ)は耕地こうち可能かのう土地とちのおよそ3ぶんの1を占有せんゆうし、農奴のうど保有ほゆうはそれよりもひろいというケースがおおかった。しかし、領地りょうち領主りょうしゅ直轄ちょっかつ)のみから荘園しょうえんや、自由じゆう農民のうみん保有ほゆうのみから荘園しょうえん存在そんざいしていた。同様どうように、農奴のうど保有ほゆう自由じゆう農民のうみん保有ほゆう割合わりあいには地域ちいきおおきく、領地りょうちでの農作業のうさぎょうかか賃金ちんぎん労役ろうえきへの依存いぞんおおきく左右さゆうした。

おおきな荘園しょうえんでは(領地りょうち領主りょうしゅ直轄ちょっかつ)での義務ぎむ労役ろうえきというおおきな潜在せんざいてき供給きょうきゅうりょく領主りょうしゅがいれば、)農奴のうど保有ほゆう割合わりあいおおきかったのにたいして、ちいさな荘園しょうえんでは、領地りょうちにおける耕地こうち可能かのう面積めんせき割合わりあいおおきくなりがちであった。自由じゆう農民のうみん保有ほゆうめる割合わりあいは、一定いってい範囲はんいないおさまっていたが、ちいさな荘園しょうえんでは幾分いくぶんおおきくなる傾向けいこうられた。

荘園しょうえんは、地理ちりてき状況じょうきょうめんでも多様たようせいられた。単一たんいつ村落そんらくからなる荘園しょうえんはあまりられず、おおくは2すう村落そんらくから構成こうせいされており、そのほとんどは荘園しょうえん一部いちぶ混在こんざいしていた。このため、領主りょうしゅ所有しょゆうからはなれた場所ばしょ生活せいかつする農民のうみんすくなくなく、このような農民のうみん領地りょうち領主りょうしゅ直轄ちょっかつ)で労役ろうえき義務ぎむたすわりに金銭きんせん納入のうにゅうおこなうようになっていった。

農民のうみん保有ほゆうしょう地面じめんからっていたように、領地りょうち領主りょうしゅ直轄ちょっかつ)も単一たんいつてき土地とちではなかった。領地りょうちは、領主りょうしゅ居館きょかん中心ちゅうしんとして、その近接きんせつ資産しさん建物たてもの、さらに自由じゆう農民のうみん農奴のうど保有ほゆうあいだうように存在そんざいする小片しょうへん土地とちぐんから構成こうせいされていた。また、領主りょうしゅは、よりひろ範囲はんい生産せいさんぶつ供給きょうきゅうしうるべく、いくらかはなれた場所ばしょにあるほか荘園しょうえん保有ほゆうするだけでなく、隣接りんせつする荘園しょうえん財産ざいさん賃貸借ちんたいしゃくすることもあった。

荘園しょうえん保有ほゆうしていたのは、かならずしも上位じょうい領主りょうしゅ軍役ぐんえき奉公ほうこう(またはだいぜにおさめ)をおこなうような在俗ざいぞく領主りょうしゅばかりではなかった。イングランド1086ねん編纂へんさんされた統計とうけい大鑑たいかんドームズデイ・ブックのこされた記録きろくから推計すいけいしてみると、国王こくおう直接ちょくせつ支配しはいした荘園しょうえん全体ぜんたいの17%をめ、さらにおおきな割合わりあい(4ぶんの1以上いじょう)を主教しゅきょうしょく修道院しゅうどういん保有ほゆうしていた。聖職せいしょくしゃ保有ほゆうする荘園しょうえんは、隣接りんせつする在俗ざいぞく領主りょうしゅ荘園しょうえんよりもはるかに広大こうだい農奴のうどっており、次第しだい拡大かくだいしていった。

荘園しょうえん経済けいざいめぐ社会しゃかい環境かんきょうからまれる影響えいきょうは、複雑ふくざつであり、ときには矛盾むじゅんをはらむこともあった。高地こうちでは農民のうみん自由じゆうたもたれるようになっていた(とく畜産ちくさん労働ろうどう集約しゅうやくよわまったため、農奴のうど奉仕ほうし必要ひつようとしなくなっていった)が、他方たほう、ヨーロッパのいくつかの地域ちいきでは、もっと圧政あっせいてき荘園しょうえん支配しはいばれるような状況じょうきょうられた。そのなかにあって、東部とうぶイングランド低地ていちでは、スカンジナビア入植にゅうしょくしゃ遺産いさん一部いちぶとして、当時とうじとしては例外れいがいてきともえる農民のうみん広範こうはん自由じゆう確保かくほされていた。

同様どうように、貨幣かへい経済けいざい拡大かくだいは、労役ろうえきわりの金銭きんせん納入のうにゅう普及ふきゅうしていくというかたちあらわれた。しかし、1170ねん以降いこうマネーサプライ増大ぞうだいとそれがもたらしたインフレーション結果けっか貴族きぞくたちは、賃貸ちんたいしていた土地とち財産ざいさんもどすとともに、文字もじどおり減退げんたいしてしまった現金げんきん支払しはらい固定こてい価値かち同等どうとう労役ろうえきふたたしていった。

れきてき概略がいりゃく

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荘園しょうえんせい(manorialism)という用語ようごは、中世ちゅうせい西にしヨーロッパを説明せつめいするじょうもっともよく使用しようされる。荘園しょうえんせい先立さきだつシステムは、後期こうきマ帝国まていこく農村のうそん経済けいざいにそのはつげんることができる。出生しゅっしょうりつ人口じんこう減少げんしょうしていくなかで、生産せいさん重要じゅうよう要素ようそ労働ろうどうであった。代々だいだい支配しはいしゃたちは、社会しゃかい構造こうぞう固定こていすることにより帝国ていこく経済けいざい維持いじはかっていった。

父親ちちおやしょく息子むすこ世襲せしゅうするものとされた。評議ひょうぎいん(coucillor)は任期にんきれで退任たいにんし、コロヌスばれる耕作こうさくしゃそう居住きょじゅうする領地りょうちからの移動いどうきんじられた。これらの耕作こうさくしゃserfばれる農奴のうどとなっていった。複数ふくすう要素ようそかさなって、旧来きゅうらい奴隷どれい地位ちい旧来きゅうらい自由じゆう農民のうみん地位ちいあわったコロヌスという従属じゅうぞくてき階級かいきゅうまれたのである。325ねんごろコンスタンティヌス1せい発布はっぷした法令ほうれいは、コロヌスのはん奴隷どれいてき地位ちい規定きていするだけでなく、法廷ほうていにおける告訴こくそけん保証ほしょうするものでもあった。帝国ていこくないへの居住きょじゅうみとめられた民族みんぞくfoederati移住いじゅうしてきたため、コロヌスのかず増加ぞうかしていった。

5世紀せいきはいると、ゲルマン王国おうこくマ帝国まていこく権威けんい継承けいしょうしたことにより、ローマじん領主りょうしゅ民族みんぞくってわられた。8世紀せいきには、地中海ちちゅうかい貿易ぼうえき壊滅かいめつしたことで、農村のうそん自給自足じきゅうじそく体制たいせい急速きゅうそく確立かくりつされていった。歴史れきしアンリ・ピレンヌは、イスラムけんへの征服せいふく活動かつどうが、ヨーロッパ中世ちゅうせい経済けいざいいちじるしい農村のうそんをもたらし、また多様たよう農奴のうど階級かいきゅうささえる地域ちいき権力けんりょくヒエラルキーという伝統でんとうてき封建ほうけん様式ようしきこしたとするせつ展開てんかいしている(ただし異論いろんすくなからずある)。

その地域ちいきにおける荘園しょうえんせい

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古代こだいインドにおいては絶対ぜったいてき所有しょゆうけん概念がいねん存在そんざいせず、自給自足じきゅうじそくちか生活せいかつおく零細れいさい農家のうか森林しんりん開発かいはつして田畑たはたとしたもの土地とち所有しょゆうしゃとなり、君主くんしゅ租税そぜいおさめることでその耕作こうさくけん保障ほしょうされた。ふるいインドの村落そんらく共同きょうどうたいはこうした土地とち所有しょゆうしゃによって構成こうせいされていた。古代こだいカーストせい氏族しぞく社会しゃかいにおいては自由じゆう土地とち売買ばいばい譲渡じょうとゆるされていなかったが、紀元前きげんぜん5世紀せいき前後ぜんごには社会しゃかい発展はってんとともにゆるやかになっていった。また、君主くんしゅ土地とちたいする支配しはいけん確立かくりつされ、バラモンクシャトリヤ土地とちあたえることがおこなわれるようになり、かれらはダーサばれる従属じゅうぞくみんなどをもちいてだい土地とち所有しょゆうしゃとしての地位ちい確保かくほしてきた。

ところが、1793ねんにインドの植民しょくみんすすめるイギリスはきたインドにおいてザミーンダーリー制度せいど導入どうにゅうして領主りょうしゅ地主じぬし土地とち近代きんだいてき土地とちしょ有権者ゆうけんしゃみとめる一方いっぽうで、従来じゅうらい現地げんち住民じゅうみんっていた土地とち所有しょゆうけん耕作こうさくけん強制きょうせいてき剥奪はくだつして領主りょうしゅ地主じぬし小作こさくじんとして所属しょぞくさせ、領主りょうしゅ地主じぬしつうじて恒久こうきゅうてき現金げんきん徴税ちょうぜいすることにした。これは小作こさく制度せいどというよりも中世ちゅうせい荘園しょうえん制度せいどのインドへの導入どうにゅうちかく、従来じゅうらい古代こだいには収穫しゅうかくぶつの6ぶんの1、デリー・スルターンあさ時代じだい以後いごでも収穫しゅうかくぶつの3ぶんの1の徴収ちょうしゅうであったものが定額ていがくかつ高額こうがくぜい現金げんきんによる納付のうふとなり、なおかつ徴収ちょうしゅう実務じつむ領主りょうしゅ地主じぬしまかされていたために、農民のうみん農奴のうどちか状況じょうきょうかれた。

これにたいしてみなみインドでは伝統でんとうてき村落そんらく共同きょうどうたい影響えいきょうつよいために、農民のうみん従来じゅうらいどおりの土地とち所有しょゆう前提ぜんていとしてよりゆるやかなライーヤトワーリーせい導入どうにゅうされたものの、5-6わり地租ちそまえ未納みのう理由りゆうとしたかん没収ぼっしゅうもしくは納税のうぜいのための借金しゃっきんのかたに領主りょうしゅ地主じぬしそうからなる金融きんゆう業者ぎょうしゃ差押さしおさえきたインドと同様どうよう土地とち支配しはい体制たいせいひろがっていった。この状況じょうきょうだい世界せかい大戦たいせんのインド独立どくりつまでつづくことになる。

朝鮮半島ちょうせんはんとう

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朝鮮半島ちょうせんはんとうでも統一とういつしん時代じだいより貴族きぞく寺院じいんによる小規模しょうきぼ荘園しょうえん形成けいせいされていたが、本格ほんかくするのは武臣ぶしん政権せいけん成立せいりつモンゴル帝国ていこく侵略しんりゃくつづいたこううらら後期こうきである。この時代じだいしば基本きほんとした土地とち租税そぜい制度せいど崩壊ほうかいかい、そうちかしりょうはん寺院じいん武人ぶじんらが各地かくちだい規模きぼ土地とち兼併けんぺいおこなうようになった。高麗こうらい荘園しょうえん朝鮮ちょうせんばんのうそうそう別墅べっしょなどとばれ、荘園しょうえんには耕作こうさく以外いがいにも山野さんや森林しんりんなどをふくみ、そのなか農舎のうしゃちんろう学堂がくどう仏寺ぶつじなどが設置せっちされ、なかには内部ないぶ利潤りじゅん目的もくてきとした墓地ぼち長利ながとし高利貸こうりかし経営けいえいおこなため施設しせつゆうするものもいたが、ほとんどの所有しょゆうしゃ通常つうじょう都市としみ、実際じっさい運営うんえい現地げんち派遣はけんされたやつぼくによっておこなわれていた。耕作こうさくしゃ奴婢ぬひ土地とち良民りょうみんであったが、かれらは5わりにものぼる小作こさくりょうほか運送うんそう飲食いんしょくだいなどしょ経費けいひ徴収ちょうしゅうされた。土地とち兼併けんぺい徴収ちょうしゅう暴力ぼうりょくともな場合ばあいもあり、土地とちめぐってあらそいがきている場合ばあいには当事とうじしゃ双方そうほう小作こさくじんよりじゅう徴収ちょうしゅうおこなわれる場合ばあいもあった。高麗こうらい荘園しょうえんには輸不いれみとめられていなかったが、所有しょゆうしゃ権勢けんせいしゃであった場合ばあいにはその政治せいじてき圧力あつりょく事実じじつじょう輸不いれ状態じょうたいとなった。

朝鮮ちょうせん成立せいりつ過程かてい土地とち制度せいど改革かいかくおこなわれ、ほうおよしょくほう導入どうにゅうされ、おおくの既存きそん荘園しょうえん没収ぼっしゅうされていった。だが、その一方いっぽうでこうした改革かいかく朝宗ともむねおや功臣こうしん所有しょゆうしゃとするあらたな荘園しょうえん体制たいせい再編さいへんへとつながっていった。それでも、改革かいかく土地とち売買ばいばいによる土地とち拡大かくだい可能かのうせいたかめて高麗こうらい時代じだいのような暴力ぼうりょくてき収奪しゅうだつによる土地とち兼併けんぺい可能かのうせい排除はいじょした。また、そうちかしりょうはん生活せいかつ拠点きょてん都市としから在地ざいち荘園しょうえんうつり、積極せっきょくてき経営けいえい姿勢しせいはじめた。だが、16世紀せいきすえから17世紀せいきはじめにかけてきたみずのえたつやまとらんちょうとりやまとらんちょうしげる胡乱うろんへい胡乱うろんの4つの戦乱せんらんによってしょく田制たせい崩壊ほうかいし、17世紀せいき後半こうはんには免税めんぜい特権とっけん国家こっかからあたえられた宮荘みやしょうたむろしょう設置せっちされるとともに土地とち売買ばいばい制約せいやく一層いっそうゆるくなり、荘園しょうえん制度せいど最盛さいせいむかえた。また、奴婢ぬひ社会しゃかいてき地位ちい上昇じょうしょうして従属じゅうぞくせいひくくなったことによって荘園しょうえん仕組しくみ変化へんかしていった。すなわち、しるべてのひらしゃおんばれる専任せんにん管理かんりしゃによって経営けいえいされ、租とばれる定額ていがく小作こさくりょう制度せいどひろまるようになり、その納付のうふ金納きんのうだい金納きんのう主流しゅりゅうとなっていった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 高橋たかはし芳郎よしおそうはじめだい奴婢ぬひやといいさおじんつくだぼく身分みぶんについて―法的ほうてき身分みぶん形成けいせい特質とくしつ―」(『北海道大學ほっかいどうだいがく文學部ぶんがくぶ紀要きよう』26かん2ごう、1978ねん高橋たかはしそうしん身分みぶんほう研究けんきゅう』(北海道大学ほっかいどうだいがく図書としょ刊行かんこうかい、2001ねん)におさめる

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 中国ちゅうごく
    • 『アジア歴史れきし事典じてんだい4かん平凡社へいぼんしゃ、1992ねん)「荘園しょうえん中国ちゅうごくぶし執筆しっぴつしゃ:しゅう藤吉とうきちこれ
    • 歴史れきしがく事典じてんだい13かん弘文こうぶんどう、2006ねん)「荘園しょうえん (中国ちゅうごくの)」(執筆しっぴつしゃ:大澤おおさわただしあきら
  • インド
    • 『アジア歴史れきし事典じてんだい4かん平凡社へいぼんしゃ、1992ねん)「荘園しょうえん」インドぶし執筆しっぴつしゃ:大類おおるいじゅん
  • 朝鮮ちょうせん
    • 『アジア歴史れきし事典じてんだい4かん平凡社へいぼんしゃ、1992ねん)「荘園しょうえん朝鮮ちょうせんぶし執筆しっぴつしゃ:武田たけだ幸男ゆきお
  • ドイツ
    • Georg Friedrich Knapp "Die Bauernbefreiung und der Ursprung der Landarbeiter in den älteren Teilen Preussens"(1887)
    • Werner Wittich "Die Grundherrschaft in Nordwestdeutschland"(1896)

関連かんれん項目こうもく

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