荘園 しょうえん (しょうえん)は、公的 こうてき 支配 しはい を受 う けない(あるいは公的 こうてき 支配 しはい を極力 きょくりょく 制限 せいげん した)一定 いってい 規模 きぼ 以上 いじょう の私的 してき 所有 しょゆう ・経営 けいえい の土地 とち である。なお、中世 ちゅうせい の西 にし ヨーロッパ ・中央 ちゅうおう ヨーロッパ に見 み られたmanor(英語 えいご )、Grundherrschaft(ドイツ語 ご )の訳語 やくご としても用 もち いられている。
中国 ちゅうごく においては、漢 かん の時代 じだい より后妃 こうひ や皇族 こうぞく 、富豪 ふごう らが所有 しょゆう する「荘 そう 」もしくは「園 えん 」と呼 よ ばれるものが存在 そんざい し、これが荘園 しょうえん の元 もと となった。ただし、当時 とうじ の「荘 そう 」や「園 えん 」の主体 しゅたい は娯楽 ごらく のための別荘 べっそう であり、これに附属 ふぞく の庭園 ていえん 、更 さら には周囲 しゅうい の田園 でんえん や山林 さんりん を含 ふく めたものであった。六朝 りくちょう 時代 じだい の南朝 なんちょう では、別墅 べっしょ (べっしょ)・別業 べつぎょう と呼 よ ばれて江南 こうなん 貴族 きぞく の中 なか には数 すう 百 ひゃく 頃 ごろ の田畠 たばた を持 も つ者 もの も存在 そんざい したが、あくまでも別荘 べっそう の一部 いちぶ として捉 とら えられていた。
中 ちゅう 唐 とう 以後 いご 均 ひとし 田制 たせい が崩壊 ほうかい すると、宮廷 きゅうてい や貴族 きぞく 、武人 ぶじん 、地方 ちほう の豪族 ごうぞく などが個人 こじん で田畠 たばた を財産 ざいさん として私有 しゆう する風潮 ふうちょう が強 つよ まり、各地 かくち で荘田 しょうだ ・荘園 しょうえん が形成 けいせい されるようになる。五 ご 代 だい には貴族 きぞく 層 そう が没落 ぼつらく し、宋 そう 初 はつ には科挙 かきょ 制度 せいど が整備 せいび される一方 いっぽう で武人 ぶじん の勢力 せいりょく が抑圧 よくあつ されるようになったために、地方 ちほう の豪族 ごうぞく から官僚 かんりょう が生 う み出 だ され、その庇護 ひご によって当人 とうにん 及 およ び一族 いちぞく の荘園 しょうえん が発展 はってん するという構図 こうず が描 えが かれるようになった。荘園 しょうえん を構成 こうせい する田畠 たばた は主 おも に皇帝 こうてい よりの恩賜 おんし 地 ち や墾田 こんでん 、質 しつ 入 いれ や買 かい 入 いれ による購入 こうにゅう 、寄進 きしん 、更 さら には暴力 ぼうりょく を伴 ともな う強奪 ごうだつ などの手法 しゅほう によって獲得 かくとく されたものも含 ふく まれていた。そのため、地域 ちいき 一 いち 円 えん を荘園 しょうえん 化 か して山 さん や川 がわ などの自然 しぜん 物 ぶつ をもって境界 きょうかい とした荘園 しょうえん や分散 ぶんさん した土地 とち を合 あ わせて1つの荘園 しょうえん として扱 あつか う場合 ばあい など様々 さまざま な形態 けいたい が存在 そんざい し、中 なか には数 かず 路 ろ にわたって多数 たすう の荘園 しょうえん を有 ゆう する者 もの も存在 そんざい した。唐 とう や宋 そう の荘園 しょうえん には不 ふ 輸不入 いれ の特権 とっけん は存在 そんざい しなかったものの、皇帝 こうてい からの恩賜 おんし 地 ち は租税 そぜい を減免 げんめん され、官僚 かんりょう 所有 しょゆう の荘園 しょうえん には免役 めんえき 特権 とっけん が存在 そんざい したため、農民 のうみん が重 おも い税 ぜい 負担 ふたん から逃 のが れるために荘園 しょうえん を官僚 かんりょう に寄進 きしん する例 れい も見 み られた。更 さら にこれを見 み た非 ひ 官僚 かんりょう の荘園 しょうえん 所有 しょゆう 者 しゃ も政府 せいふ や官僚 かんりょう との個人 こじん 的 てき つながりを通 つう じて本来 ほんらい は免 まぬか れ得 え ない租税 そぜい の納付 のうふ を回避 かいひ しようとする者 もの もいた。その結果 けっか 、中央 ちゅうおう 財政 ざいせい にも影響 えいきょう を与 あた えるようになり、宋 そう 王朝 おうちょう では乾 いぬい 興 きょう 元年 がんねん (1022年 ねん )に官僚 かんりょう 荘園 しょうえん を30頃 ごろ 、将 はた 吏衙前 まえ 荘園 しょうえん を15頃 ごろ に制限 せいげん する提案 ていあん が出 だ されたものの失敗 しっぱい し、その後 ご 限 かぎり 田 た 免役 めんえき 法 ほう を行 おこな って免役 めんえき の範囲 はんい や寄進 きしん に制約 せいやく を課 か そうとしている。もっとも、宮廷 きゅうてい や官庁 かんちょう 自身 じしん も荘園 しょうえん の一大 いちだい 所有 しょゆう 者 しゃ であり、宮廷 きゅうてい に属 ぞく する荘園 しょうえん (唐 とう の内 うち 荘 そう 宅 たく 使 し 、宋 そう の御荘 みしょう )や軍事 ぐんじ 的 てき 要所 ようしょ の周囲 しゅうい にて兵糧 ひょうろう 確保 かくほ のために開墾 かいこん ・屯田 とんでん によって形成 けいせい された営田官 かん 荘 そう および屯田 とんでん 軍 ぐん 荘 そう 、その他 た 民間 みんかん から没収 ぼっしゅう して没 ぼつ 官 かん 田 た の官 かん 荘 そう なども存在 そんざい していた。
唐 から 宋 そう 期 き の荘園 しょうえん は庭園 ていえん 及 およ び農地 のうち の他 ほか 、複数 ふくすう の耕地 こうち で構成 こうせい されていた。荘 そう 院 いん ・荘 そう 宅 たく には荘園 しょうえん の所有 しょゆう 者 しゃ とその家族 かぞく 、監 かん 荘 そう ・管 かん 荘 そう ・幹人 みきひと と呼 よ ばれる管理 かんり 者 しゃ 層 そう 、その他 た 家事 かじ 労働 ろうどう などを行 おこな う使用人 しようにん などから構成 こうせい された。荘園 しょうえん は所有 しょゆう 者 しゃ が直接 ちょくせつ 経営 けいえい に携 たずさ わる場合 ばあい もあったが、所有 しょゆう 者 しゃ に雇 やと われた管理 かんり 者 しゃ が直接 ちょくせつ 耕作 こうさく 者 しゃ である佃 つくだ 戸 と 及 およ び奴隷 どれい を監督 かんとく して生産 せいさん 物 ぶつ や金銭 きんせん などの形式 けいしき で租税 そぜい や小作 こさく 料 りょう を徴収 ちょうしゅう して管理 かんり し、時 とき には相場 そうば を利用 りよう して運用 うんよう を図 はか り差額 さがく を儲 もう ける者 もの もいた。保 ほ 甲 かぶと 法 ほう 制定 せいてい 以後 いご 、管理 かんり 者 しゃ から佃 つくだ 戸 と の中 なか から雇用 こよう されて佃 つくだ 戸 ど に甲 かぶと を編成 へんせい させるとともに租税 そぜい ・小作 こさく 料 りょう 徴収 ちょうしゅう 業務 ぎょうむ の補佐 ほさ を行 おこな う甲 かぶと 頭 あたま が設置 せっち された。直接 ちょくせつ 耕作 こうさく 者 しゃ としては佃 つくだ 戸 ど 、奴隷 どれい 、その他 た 雇傭 こよう 者 しゃ が挙 あ げられる。佃 つくだ 戸 ど は荘 そう 客 きゃく ・地 ち 客 きゃく ・佃 つくだ 僕 ぼく ・客 きゃく 戸 ど とも呼 よ ばれ、中 なか には自己 じこ の土地 とち を持 も つ自作農 じさくのう が生活 せいかつ の資 し のために佃 つくだ 戸 ど の役目 やくめ を担 にな う例 れい もあった。荘園 しょうえん 内 ない に数 すう 十 じゅう ないし数 すう 百 ひゃく の佃 つくだ 戸 ど が建 た てられそこに住 す む者 もの と外部 がいぶ から通 かよ う者 もの がいる。彼 かれ らは必要 ひつよう な農具 のうぐ や耕 こう 牛 うし の提供 ていきょう を所有 しょゆう 者 しゃ や管理 かんり 者 しゃ から受 う けながら荘園 しょうえん 内 ない の耕地 こうち を耕作 こうさく して租税 そぜい や小作 こさく 料 りょう を納 おさ めた他 ほか 、荘園 しょうえん 内 ない の労働 ろうどう にも従事 じゅうじ した。奴隷 どれい は家内 かない 奴隷 どれい 的 てき な性質 せいしつ を有 ゆう する者 もの と独立 どくりつ した住居 じゅうきょ を構 かま えて佃 つくだ 戸 ど に近 ちか い性質 せいしつ を有 ゆう する者 もの があった。奴隷 どれい は前 ぜん 時代 じだい の私 わたし 奴婢 ぬひ ・部 ぶ 曲 きょく の流 なが れを汲 く み、唐 とう 代 だい までは荘園 しょうえん 内 ない の労働 ろうどう において重要 じゅうよう な役目 やくめ を担 にな っていたが、宋 そう 代 だい になると佃 つくだ 戸 と による耕作 こうさく の方 ほう が所有 しょゆう 者 しゃ ・管理 かんり 者 しゃ の負担 ふたん が軽 かる く、次第 しだい に佃 つくだ 戸 ど に切 き り替 か えられたり、奴隷 どれい の雇傭 こよう 者 しゃ 化 か が進 すす むことになっていった。それでも直営 ちょくえい 地 ち を耕 たがや す要員 よういん として奴隷 どれい が完全 かんぜん に排除 はいじょ されることは無 な かった。
明 あきら 清 きよし 期 き においても、前 ぜん 王朝 おうちょう の官有 かんゆう 地 ち や没 ぼつ 官 かん 地 ち (前 ぜん 王朝 おうちょう 関係 かんけい 者 しゃ の荘園 しょうえん を接収 せっしゅう したもの)、戦乱 せんらん のおりの荒廃 こうはい 地 ち などを宮廷 きゅうてい や諸王 しょおう 、勲 くん 戚、官僚 かんりょう などに荘田 しょうだ ・荘園 しょうえん などとして与 あた えた。こうした荘園 しょうえん は中央 ちゅうおう の内 うち 官 かん や校 こう 尉 じょう によって管理 かんり されたが、現地 げんち の有力 ゆうりょく 者 しゃ を荘 そう 頭 あたま に任 にん じて実務 じつむ を行 おこな わせる場合 ばあい もあった。明 あかり は国内 こくない 各地 かくち に宮廷 きゅうてい 直営 ちょくえい の皇 すめらぎ 荘 そう を設置 せっち した。清 きよし では皇 すめらぎ 荘 そう に替 か わって拠点 きょてん となる直 ちょく 隷及 およ び満 まん 洲 しゅう に内務 ないむ 府 ふ 官 かん 荘 そう や盛 もり 京 きょう 戸部 とべ ・礼 れい 部 ぶ 官 かん 荘 そう が設 もう けられた。官 かん 荘 そう には永 えい 小作 こさく 権 けん を有 ゆう する漢人 かんど 世襲 せしゅう の荘 そう 頭 あたま が置 お かれ、官 かん 荘内 そうない より租税 そぜい を集 あつ めて生産 せいさん 物 ぶつ (後世 こうせい にはその代 だい 銀 ぎん )を宮廷 きゅうてい に納 おさ めた。
日本 にっぽん における中国 ちゅうごく の荘園 しょうえん を巡 めぐ る論争 ろんそう
編集 へんしゅう
日本 にっぽん の学界 がっかい では中国 ちゅうごく の荘園 しょうえん に対 たい する理解 りかい (主 おも に「世界 せかい 史 し の基本 きほん 原則 げんそく 」及 およ び中世 ちゅうせい ヨーロッパの荘園 しょうえん との対比 たいひ )について大 おお きく分 わ けると2説 せつ に分 わ かれて論争 ろんそう が行 おこな われてきた。1つは周 しゅう 藤吉 とうきち 之 これ ・堀 ほり 敏一 としいち らの説 せつ で均 ひとし 田制 たせい の崩壊 ほうかい で小 しょう 農民 のうみん による土地 とち 所有 しょゆう 原則 げんそく が崩壊 ほうかい して大 だい 土地 とち 所有 しょゆう が発生 はっせい して地主 じぬし と佃 つくだ 戸 と が形成 けいせい され、宋 そう 代 だい に入 はい ると地主 じぬし 層 そう が官僚 かんりょう となり佃 つくだ 戸 ど を駆使 くし して荘園 しょうえん を経営 けいえい するようになった。佃 つくだ 戸 ど は地主 じぬし によって経済 けいざい 的 てき な依存 いぞん なくして生計 せいけい が立 た てられない状況 じょうきょう に置 お かれ、移転 いてん の自由 じゆう を持 も たず土地 とち に呪縛 じゅばく された一種 いっしゅ の農奴 のうど 制 せい であったというものである。もう1つは宮崎 みやざき 市 し 定 じょう らの説 せつ で均 ひとし 田制 たせい の実施 じっし を認 みと めない立場 たちば から漢 かん 代 だい から大 だい 土地 とち 所有 しょゆう 者 しゃ による荘園 しょうえん 開発 かいはつ と貧民 ひんみん を招 まね いた耕作 こうさく が行 おこな われ後世 こうせい の荘園 しょうえん をその延長 えんちょう とする。唐 とう 代 だい の部 ぶ 曲 きょく がヨーロッパの農奴 のうど に相当 そうとう していたが、晩 ばん 唐 とう 以後 いご の混乱 こんらん によって部 ぶ 曲 きょく が自立 じりつ して一 いち 円 えん 的 てき な大 だい 土地 とち 所有 しょゆう も分解 ぶんかい した。その結果 けっか 、宋 そう 代 だい の荘園 しょうえん の内実 ないじつ は零細 れいさい な土地 とち 片 へん の集積 しゅうせき を便宜上 べんぎじょう 荘園 しょうえん としているに過 す ぎず、地主 じぬし と佃 つくだ 戸 と は自由 じゆう 人間 にんげん の契約 けいやく 関係 かんけい に基 もと づく小作 こさく 制度 せいど によって経営 けいえい されていたとするものである。
この両者 りょうしゃ の説 せつ は中国 ちゅうごく 史 し における時代 じだい 区分 くぶん 論 ろん と密接 みっせつ に関係 かんけい しており、周 しゅう 藤 ふじ は唐 とう 及 およ び五 ご 代 だい を「古代 こだい 」・宋 そう を「中世 ちゅうせい 」とする立場 たちば から、宮崎 みやざき は漢 かん 代 だい を「古代 こだい 」・三 さん 国 こく 時代 じだい から唐 とう 及 およ び五 ご 代 だい を「中世 ちゅうせい 」・宋 そう を「近世 きんせい 」とする立場 たちば に立 た っており、ヨーロッパ中世 ちゅうせい の荘園 しょうえん と対比 たいひ すべき農奴 のうど 制 せい による経営 けいえい に基 もと づく荘園 しょうえん がそれぞれが主張 しゅちょう する「中世 ちゅうせい 」に存在 そんざい したというものである。そのため、双方 そうほう の中国 ちゅうごく 史上 しじょう における荘園 しょうえん の位置 いち づけも大 おお きく異 こと なっている上 うえ 、周 しゅう 藤 ふじ や宮崎 みやざき の晩年 ばんねん には冷戦 れいせん 構造 こうぞう の崩壊 ほうかい とともに「世界 せかい 史 し の基本 きほん 原則 げんそく 」という概念 がいねん のそのものに対 たい する批判 ひはん が出現 しゅつげん したことで、議論 ぎろん 自体 じたい が中途 ちゅうと で停滞 ていたい することとなった。その後 ご 、高橋 たかはし 芳郎 よしお が佃 つくだ 戸 ど には農奴 のうど 制 せい による佃 つくだ 僕 ぼく と小作 こさく 制 せい による佃 つくだ 客 きゃく の2種類 しゅるい があるとする「二 に 類型 るいけい 論 ろん 」を唱 とな えた[ 1] のをはじめとして、両 りょう 説 せつ を折衷 せっちゅう する見解 けんかい や地域 ちいき 差 さ ・民族 みんぞく 問題 もんだい などと関連付 かんれんづ けて両 りょう 説 せつ の並立 へいりつ の可能 かのう 性 せい を探 さぐ る見解 けんかい も出 だ されているが、通説 つうせつ の確立 かくりつ には程遠 ほどとお い状況 じょうきょう にあるとされている。
『ベリー公 こう のいとも豪華 ごうか なる時 とき 祷 いのり 書 しょ 』より絵暦 えごよみ (3月 がつ )
ヨーロッパ における荘園 しょうえん 制 せい (Manorialism or Seigneurialism )は、中世 ちゅうせい の西 にし ヨーロッパ農村 のうそん 及 およ び中央 ちゅうおう ヨーロッパ の一部 いちぶ 農村 のうそん に見 み られた経済 けいざい ・社会 しゃかい 構造 こうぞう を指 さ す用語 ようご である。ヨーロッパ荘園 しょうえん 制 せい の特徴 とくちょう は、法的 ほうてき ・経済 けいざい 的 てき な権力 けんりょく が領主 りょうしゅ に集中 しゅうちゅう していた点 てん にある。領主 りょうしゅ の経済 けいざい 生活 せいかつ は、自 みずか らが保有 ほゆう する直営 ちょくえい 地 ち からの収入 しゅうにゅう と、支配 しはい 下 か におく農奴 のうど からの義務 ぎむ 的 てき な貢 みつぎ 納 おさめ によって支 ささ えられていた。農奴 のうど からの貢 みつぎ 納 おさめ は、労役 ろうえき 、生産 せいさん 物 ぶつ (現物 げんぶつ )、又 また はまれに金銭 きんせん (現金 げんきん )という形態 けいたい をとっていた。
ManorismやSeigneurialismの語 かたり は、それぞれ、農村 のうそん において代々 だいだい 相続 そうぞく される伝統 でんとう 的 てき な支配 しはい 地域 ちいき を表 あらわ すmanors、seigneuries(日本語 にほんご では荘園 しょうえん と訳 やく される)に由来 ゆらい している。荘園 しょうえん 領主 りょうしゅ の地位 ちい は、より上位 じょうい の領主 りょうしゅ からの要求 ようきゅう を請 う け負 お うことにより保証 ほしょう されていた(詳 くわ しくは封建 ほうけん 制 せい を参照 さんしょう のこと)。荘園 しょうえん 領主 りょうしゅ は、公共 こうきょう 法 ほう や地域 ちいき 慣習 かんしゅう にのっとり裁判 さいばん も行 おこな っていた。また、全 すべ ての荘園 しょうえん 領主 りょうしゅ が在俗 ざいぞく 者 しゃ だった訳 わけ ではなく、司教 しきょう や修道院 しゅうどういん 長 ちょう が領主 りょうしゅ として貢 みつぎ 納 おさめ を伴 ともな う土地 とち 所有 しょゆう を行 おこな っていた例 れい も見 み られる。
農村 のうそん 社会 しゃかい における全 すべ ての社会 しゃかい 経済 けいざい 要素 ようそ の基礎 きそ となったのは、土地 とち 所有 しょゆう の状況 じょうきょう であった。荘園 しょうえん の登場 とうじょう に先立 さきだ って、2つの土地 とち システムが存在 そんざい していた。より一般 いっぱん 的 てき だったのは、完全 かんぜん な所有 しょゆう 権 けん の下 した で土地 とち を保有 ほゆう するシステム(1人 ひとり の土地 とち 所有 しょゆう 者 しゃ の他 ほか にその土地 とち の権利 けんり を有 ゆう する者 もの が皆無 かいむ というシステム。英語 えいご でallodium という。)であり、もう一 ひと つのシステムは、土地 とち を条件 じょうけん 付 つ きで保有 ほゆう する形態 けいたい である神 かみ への贈与 ぞうよ (precaria)又 また は聖職 せいしょく 禄 ろく (beneficium)の利用 りよう であった。
これら2つに加 くわ えて、カロリング朝 あさ の君主 くんしゅ たちは、第 だい 3のシステムとして、荘園 しょうえん 制 せい に封建 ほうけん 制 せい を融合 ゆうごう させたアプリシオ (aprisio)を創始 そうし した。アプリシオが最初 さいしょ に出現 しゅつげん したのは、シャルルマーニュ (カール大帝 たいてい )の南仏 なんふつ 保有 ほゆう 地 ち であるセプティマニア地方 ちほう である。当時 とうじ 、シャルルマーニュは、778年 ねん のサラゴサ 遠征 えんせい に失敗 しっぱい し、その際 さい 、退却 たいきゃく 軍 ぐん についてきた西 にし ゴート族 ぞく の難民 なんみん をどこかへ定住 ていじゅう させてやる必要 ひつよう に追 お われていた。この問題 もんだい は、皇帝 こうてい 直轄 ちょっかつ 地 ち である王 おう 領 りょう (fisc )のうち、未 み 耕作 こうさく で不毛 ふもう な地帯 ちたい を西 にし ゴート族 ぞく へ割 わ り当 あ てることで解決 かいけつ した。これがアプリシオの初 はつ 現 げん だとされている。確認 かくにん されたもののうち、最 もっと も初期 しょき のアプリシオは、ナルボンヌ(Narbonne)に近 ちか いフォンジョクス(Fontjoncouse)で見 み つかっている。
西 にし ヨーロッパ旧 きゅう 帝国 ていこく 内 ない の一定 いってい の地域 ちいき では、古代 こだい 末期 まっき に別荘 べっそう (villa )システムが確立 かくりつ し、中世 ちゅうせい 世界 せかい へと継承 けいしょう された。
ヨーロッパ荘園 しょうえん に見 み られる共通 きょうつう 点 てん
編集 へんしゅう
荘園 しょうえん を構成 こうせい する土地 とち は、次 つぎ の3階層 かいそう に分 わ けられた。
領地 りょうち (demesne :領主 りょうしゅ の直轄 ちょっかつ 地 ち )は、領主 りょうしゅ により直接 ちょくせつ 支配 しはい された地区 ちく であり、領主 りょうしゅ の一族 いちぞく ・郎党 ろうとう の利益 りえき のための収奪 しゅうだつ が行 おこな われた。
農奴 のうど (serf 又 また はvillein という)の保有 ほゆう 地 ち は、領主 りょうしゅ へ納入 のうにゅう する労役 ろうえき や生産 せいさん 物 ぶつ ・現金 げんきん といった貢 みつぎ 納 おさめ (保有 ほゆう 地 ち に付随 ふずい する慣習 かんしゅう とされていた)を支 ささ えるための土地 とち であった。このような農奴 のうど による土地 とち 保有 ほゆう を農奴 のうど 保有 ほゆう (villein tenure)という。詳 くわ しくは農奴 のうど 制 せい の項目 こうもく を参照 さんしょう 。
自由 じゆう 農民 のうみん の保有 ほゆう 地 ち では、上記 じょうき の様 よう な貢 みつぎ 納 おさめ は免除 めんじょ されていた。反面 はんめん 、自由 じゆう 農民 のうみん も荘園 しょうえん の裁判 さいばん 権 けん や慣習 かんしゅう に従属 じゅうぞく し、賃借 ちんしゃく に伴 ともな う借金 しゃっきん を負 お わされていた。
領主 りょうしゅ の収入 しゅうにゅう 源 げん には、この他 ほか にも(法廷 ほうてい 収入 しゅうにゅう や借地 しゃくち の変更 へんこう 契約 けいやく ごとの収入 しゅうにゅう と同様 どうよう に)領主 りょうしゅ の持 も つ水車 みずぐるま ・製 せい パン所 しょ ・ワイン圧搾 あっさく 機 き などの使用 しよう 料 りょう や領主 りょうしゅ の森 もり での狩猟 しゅりょう 権 けん 料 りょう ・ブタ飼育 しいく 権 けん 料 りょう などが含 ふく まれていた。領主 りょうしゅ の支出 ししゅつ 面 めん を見 み てみると、荘園 しょうえん 管理 かんり は大 おお きな出費 しゅっぴ を伴 ともな うものであり、小規模 しょうきぼ な荘園 しょうえん では農奴 のうど 保有 ほゆう に依存 いぞん しない傾向 けいこう があったのも、このためだったと考 かんが えられている。
農奴 のうど の保有 ほゆう 財産 ざいさん は、名目 めいもく 上 じょう は領主 りょうしゅ と借地 しゃくち 人 じん (農奴 のうど )との合意 ごうい に基 もと づくものとされていたが、実際 じっさい には、ほぼ強制 きょうせい 的 てき に世襲 せしゅう させられていた(相続 そうぞく 時 じ に領主 りょうしゅ への支払 しはらい が課 か せられていた)。農奴 のうど は、人口 じんこう 的 てき ・経済 けいざい 的 てき な条件 じょうけん が整 ととの って逃亡 とうぼう できる見込 みこみ が立 た たない限 かぎ り、土地 とち を放棄 ほうき することはできなかった。同 おな じく、領主 りょうしゅ の承認 しょうにん や慣習 かんしゅう 的 てき な支払 しはらい なくして、土地 とち を第三者 だいさんしゃ へ譲渡 じょうと することもできなかった。
農奴 のうど は自由 じゆう 民 みん ではなかったが、奴隷 どれい だったわけでもない。農奴 のうど は法的 ほうてき 権利 けんり を主張 しゅちょう し、地域 ちいき の慣習 かんしゅう に従 したが い、(領主 りょうしゅ の副 ふく 収入 しゅうにゅう でもある)法廷 ほうてい 料 りょう を支払 しはら えば訴訟 そしょう に訴 うった えることもできた。農奴 のうど が保有 ほゆう 財産 ざいさん を転貸 てんたい することは珍 めずら しくなく、13世紀 せいき 頃 ころ からは領地 りょうち (領主 りょうしゅ の直轄 ちょっかつ 地 ち )での労役 ろうえき の代 か わりに金銭 きんせん 納入 のうにゅう が行 おこな われるようになった。
封建 ほうけん 社会 しゃかい の法的 ほうてき ・組織 そしき 的 てき な枠組 わくぐ みを荘園 しょうえん 制 せい とともに形 かたち づくる封建 ほうけん 制 せい がそうであるように、荘園 しょうえん 構造 こうぞう もまた、封建 ほうけん 的 てき な特徴 とくちょう を示 しめ す社会 しゃかい に普遍 ふへん 的 てき な一定 いってい 現象 げんしょう であるとは言 い えない。経済 けいざい 状況 じょうきょう の変化 へんか にともなって荘園 しょうえん 経済 けいざい は相当 そうとう な発展 はってん を見 み せたが、それでも中世 ちゅうせい 後期 こうき に至 いた るまで、荘園 しょうえん が全 まった く存在 そんざい しないか、不完全 ふかんぜん でしか存在 そんざい しない地域 ちいき が残存 ざんそん し続 つづ けた。
また、すべての荘園 しょうえん が前述 ぜんじゅつ 3種類 しゅるい の土地 とち から構成 こうせい されていたわけではない。平均 へいきん してみれば、領地 りょうち (領主 りょうしゅ の直轄 ちょっかつ 地 ち )は耕地 こうち 可能 かのう な土地 とち のおよそ3分 ぶん の1を占有 せんゆう し、農奴 のうど の保有 ほゆう 地 ち はそれよりも広 ひろ いというケースが多 おお かった。しかし、領地 りょうち (領主 りょうしゅ の直轄 ちょっかつ 地 ち )のみから成 な る荘園 しょうえん や、自由 じゆう 農民 のうみん の保有 ほゆう 地 ち のみから成 な る荘園 しょうえん も存在 そんざい していた。同様 どうよう に、農奴 のうど の保有 ほゆう 地 ち と自由 じゆう 農民 のうみん の保有 ほゆう 地 ち の割合 わりあい には地域 ちいき 差 さ が大 おお きく、領地 りょうち での農作業 のうさぎょう に係 かか る賃金 ちんぎん ・労役 ろうえき への依存 いぞん 度 ど を大 おお きく左右 さゆう した。
大 おお きな荘園 しょうえん では(領地 りょうち (領主 りょうしゅ の直轄 ちょっかつ 地 ち )での義務 ぎむ 労役 ろうえき という大 おお きな潜在 せんざい 的 てき 供給 きょうきゅう 力 りょく を持 も つ領主 りょうしゅ がいれば、)農奴 のうど 保有 ほゆう 地 ち の割合 わりあい が大 おお きかったのに対 たい して、小 ちい さな荘園 しょうえん では、領地 りょうち における耕地 こうち 可能 かのう な面積 めんせき の割合 わりあい が大 おお きくなりがちであった。自由 じゆう 農民 のうみん の保有 ほゆう 地 ち が占 し める割合 わりあい は、一定 いってい 範囲 はんい 内 ない に収 おさ まっていたが、小 ちい さな荘園 しょうえん では幾分 いくぶん 大 おお きくなる傾向 けいこう が見 み られた。
荘園 しょうえん は、地理 ちり 的 てき 状況 じょうきょう の面 めん でも多様 たよう 性 せい が見 み られた。単一 たんいつ の村落 そんらく からなる荘園 しょうえん はあまり見 み られず、多 おお くは2個 こ ~数 すう 個 こ の村落 そんらく から構成 こうせい されており、そのほとんどは他 た の荘園 しょうえん の一部 いちぶ と混在 こんざい していた。このため、領主 りょうしゅ の所有 しょゆう 地 ち から離 はな れた場所 ばしょ で生活 せいかつ する農民 のうみん も少 すく なくなく、このような農民 のうみん は領地 りょうち (領主 りょうしゅ の直轄 ちょっかつ 地 ち )で労役 ろうえき 義務 ぎむ を果 は たす代 か わりに金銭 きんせん 納入 のうにゅう を行 おこな うようになっていった。
農民 のうみん の保有 ほゆう 地 ち が小 しょう 地面 じめん から成 な っていたように、領地 りょうち (領主 りょうしゅ の直轄 ちょっかつ 地 ち )も単一 たんいつ 的 てき な土地 とち ではなかった。領地 りょうち は、領主 りょうしゅ の居館 きょかん を中心 ちゅうしん として、その近接 きんせつ 地 ち や資産 しさん 建物 たてもの 、さらに自由 じゆう 農民 のうみん や農奴 のうど の保有 ほゆう 地 ち の間 あいだ を縫 ぬ うように存在 そんざい する小片 しょうへん の土地 とち 群 ぐん から構成 こうせい されていた。また、領主 りょうしゅ は、より広 ひろ い範囲 はんい の生産 せいさん 物 ぶつ を供給 きょうきゅう しうるべく、幾 いく らか離 はな れた場所 ばしょ にある他 ほか の荘園 しょうえん を保有 ほゆう するだけでなく、隣接 りんせつ する荘園 しょうえん の財産 ざいさん を賃貸借 ちんたいしゃく することもあった。
荘園 しょうえん を保有 ほゆう していたのは、必 かなら ずしも上位 じょうい 領主 りょうしゅ へ軍役 ぐんえき 奉公 ほうこう (または代 だい 銭 ぜに 納 おさめ )を行 おこな うような在俗 ざいぞく 領主 りょうしゅ ばかりではなかった。イングランド で1086年 ねん に編纂 へんさん された統計 とうけい 大鑑 たいかん ドームズデイ・ブック に残 のこ された記録 きろく から推計 すいけい してみると、国王 こくおう が直接 ちょくせつ 支配 しはい した荘園 しょうえん は全体 ぜんたい の17%を占 し め、さらに大 おお きな割合 わりあい (4分 ぶん の1以上 いじょう )を主教 しゅきょう 職 しょく や修道院 しゅうどういん が保有 ほゆう していた。聖職 せいしょく 者 しゃ の保有 ほゆう する荘園 しょうえん は、隣接 りんせつ する在俗 ざいぞく 領主 りょうしゅ の荘園 しょうえん よりもはるかに広大 こうだい な農奴 のうど 地 ち を持 も っており、次第 しだい に拡大 かくだい していった。
荘園 しょうえん 経済 けいざい を巡 めぐ る社会 しゃかい 環境 かんきょう から生 う まれる影響 えいきょう は、複雑 ふくざつ であり、時 とき には矛盾 むじゅん をはらむこともあった。高地 こうち では農民 のうみん の自由 じゆう が保 たも たれるようになっていた(特 とく に畜産 ちくさん は労働 ろうどう の集約 しゅうやく 化 か が弱 よわ まったため、農奴 のうど の奉仕 ほうし を必要 ひつよう としなくなっていった)が、他方 たほう 、ヨーロッパの幾 いく つかの地域 ちいき では、最 もっと も圧政 あっせい 的 てき な荘園 しょうえん 支配 しはい と呼 よ ばれるような状況 じょうきょう も見 み られた。その中 なか にあって、東部 とうぶ イングランド低地 ていち では、スカンジナビア入植 にゅうしょく 者 しゃ の遺産 いさん の一部 いちぶ として、当時 とうじ としては例外 れいがい 的 てき とも言 い える農民 のうみん の広範 こうはん な自由 じゆう が確保 かくほ されていた。
同様 どうよう に、貨幣 かへい 経済 けいざい の拡大 かくだい は、労役 ろうえき の代 か わりの金銭 きんせん 納入 のうにゅう が普及 ふきゅう していくという形 かたち で現 あらわ れた。しかし、1170年 ねん 以降 いこう 、マネーサプライ の増大 ぞうだい とそれがもたらしたインフレーション の結果 けっか 、貴族 きぞく たちは、賃貸 ちんたい していた土地 とち や財産 ざいさん を取 と り戻 もど すとともに、文字 もじ どおり減退 げんたい してしまった現金 げんきん 支払 しはらい の固定 こてい 価値 かち と同等 どうとう の労役 ろうえき を再 ふたた び課 か していった。
荘園 しょうえん 制 せい (manorialism)という用語 ようご は、中世 ちゅうせい 西 にし ヨーロッパを説明 せつめい する上 じょう で最 もっと もよく使用 しよう される。荘園 しょうえん 制 せい に先立 さきだ つシステムは、後期 こうき ロ ろ ーマ帝国 まていこく の農村 のうそん 経済 けいざい にその初 はつ 現 げん を見 み ることができる。出生 しゅっしょう 率 りつ と人口 じんこう が減少 げんしょう していく中 なか で、生産 せいさん の重要 じゅうよう な要素 ようそ は労働 ろうどう であった。代々 だいだい の支配 しはい 者 しゃ たちは、社会 しゃかい 構造 こうぞう を固定 こてい することにより帝国 ていこく 経済 けいざい の維持 いじ を図 はか っていった。
父親 ちちおや の職 しょく は息子 むすこ が世襲 せしゅう するものとされた。評議 ひょうぎ 員 いん (coucillor)は任期 にんき 切 き れで退任 たいにん し、コロヌス と呼 よ ばれる耕作 こうさく 者 しゃ 層 そう は居住 きょじゅう する領地 りょうち からの移動 いどう を禁 きん じられた。これらの耕作 こうさく 者 しゃ はserf と呼 よ ばれる農奴 のうど となっていった。複数 ふくすう の要素 ようそ が重 かさ なって、旧来 きゅうらい の奴隷 どれい の地位 ちい と旧来 きゅうらい の自由 じゆう 農民 のうみん の地位 ちい を併 あわ せ持 も ったコロヌスという従属 じゅうぞく 的 てき な階級 かいきゅう が生 う まれたのである。325年 ねん 頃 ごろ にコンスタンティヌス1世 せい が発布 はっぷ した法令 ほうれい は、コロヌスの半 はん 奴隷 どれい 的 てき な地位 ちい を規定 きてい するだけでなく、法廷 ほうてい における告訴 こくそ 権 けん を保証 ほしょう するものでもあった。帝国 ていこく 内 ない への居住 きょじゅう が認 みと められた異 い 民族 みんぞく foederati が移住 いじゅう してきたため、コロヌスの数 かず は増加 ぞうか していった。
5世紀 せいき に入 はい ると、ゲルマン王国 おうこく がロ ろ ーマ帝国 まていこく の権威 けんい を継承 けいしょう したことにより、ローマ人 じん 領主 りょうしゅ は異 い 民族 みんぞく に取 と って代 か わられた。8世紀 せいき には、地中海 ちちゅうかい 貿易 ぼうえき が壊滅 かいめつ したことで、農村 のうそん の自給自足 じきゅうじそく 体制 たいせい が急速 きゅうそく に確立 かくりつ されていった。歴史 れきし 家 か アンリ・ピレンヌ は、イスラム 圏 けん への征服 せいふく 活動 かつどう が、ヨーロッパ中世 ちゅうせい 経済 けいざい の著 いちじる しい農村 のうそん 化 か をもたらし、また多様 たよう な農奴 のうど 階級 かいきゅう が支 ささ える地域 ちいき 権力 けんりょく ヒエラルキーという伝統 でんとう 的 てき な封建 ほうけん 様式 ようしき を引 ひ き起 お こしたとする説 せつ を展開 てんかい している(ただし異論 いろん も少 すく なからずある)。
古代 こだい インドにおいては絶対 ぜったい 的 てき 所有 しょゆう 権 けん の概念 がいねん が存在 そんざい せず、自給自足 じきゅうじそく に近 ちか い生活 せいかつ を送 おく る零細 れいさい 農家 のうか が森林 しんりん を開発 かいはつ して田畑 たはた とした者 もの が土地 とち の所有 しょゆう 者 しゃ となり、君主 くんしゅ に租税 そぜい を納 おさ めることでその耕作 こうさく 権 けん が保障 ほしょう された。古 ふる いインドの村落 そんらく 共同 きょうどう 体 たい はこうした土地 とち 所有 しょゆう 者 しゃ によって構成 こうせい されていた。古代 こだい のカースト制 せい 氏族 しぞく 社会 しゃかい においては自由 じゆう な土地 とち の売買 ばいばい や譲渡 じょうと は許 ゆる されていなかったが、紀元前 きげんぜん 5世紀 せいき 前後 ぜんご には社会 しゃかい の発展 はってん とともに緩 ゆる やかになっていった。また、君主 くんしゅ の土地 とち に対 たい する支配 しはい 権 けん が確立 かくりつ され、バラモン やクシャトリヤ に土地 とち を与 あた えることが行 おこな われるようになり、彼 かれ らはダーサ と呼 よ ばれる従属 じゅうぞく 民 みん などを用 もち いて大 だい 土地 とち 所有 しょゆう 者 しゃ としての地位 ちい を確保 かくほ してきた。
ところが、1793年 ねん にインドの植民 しょくみん 地 ち 化 か を進 すす めるイギリスは北 きた インド においてザミーンダーリー制度 せいど を導入 どうにゅう して領主 りょうしゅ ・地主 じぬし を土地 とち の近代 きんだい 的 てき な土地 とち 所 しょ 有権者 ゆうけんしゃ と認 みと める一方 いっぽう で、従来 じゅうらい 現地 げんち 住民 じゅうみん が持 も っていた土地 とち 所有 しょゆう 権 けん ・耕作 こうさく 権 けん を強制 きょうせい 的 てき に剥奪 はくだつ して領主 りょうしゅ ・地主 じぬし の小作 こさく 人 じん として所属 しょぞく させ、領主 りょうしゅ ・地主 じぬし を通 つう じて恒久 こうきゅう 的 てき に現金 げんきん を徴税 ちょうぜい することにした。これは小作 こさく 制度 せいど というよりも中世 ちゅうせい 荘園 しょうえん 制度 せいど のインドへの導入 どうにゅう に近 ちか く、従来 じゅうらい は古代 こだい には収穫 しゅうかく 物 ぶつ の6分 ぶん の1、デリー・スルターン朝 あさ 時代 じだい 以後 いご でも収穫 しゅうかく 物 ぶつ の3分 ぶん の1の徴収 ちょうしゅう であったものが定額 ていがく かつ高額 こうがく な地 ち 税 ぜい を現金 げんきん による納付 のうふ となり、なおかつ徴収 ちょうしゅう 実務 じつむ は領主 りょうしゅ ・地主 じぬし に任 まか されていたために、農民 のうみん は農奴 のうど に近 ちか い状況 じょうきょう に置 お かれた。
これに対 たい して南 みなみ インド では伝統 でんとう 的 てき な村落 そんらく 共同 きょうどう 体 たい の影響 えいきょう が強 つよ いために、農民 のうみん の従来 じゅうらい 通 どお りの土地 とち 所有 しょゆう を前提 ぜんてい としてより緩 ゆる やかなライーヤトワーリー制 せい が導入 どうにゅう されたものの、5-6割 わり の地租 ちそ の前 まえ に未納 みのう を理由 りゆう とした官 かん の没収 ぼっしゅう もしくは納税 のうぜい のための借金 しゃっきん のかたに領主 りょうしゅ ・地主 じぬし 層 そう からなる金融 きんゆう 業者 ぎょうしゃ の差押 さしおさえ を経 へ て北 きた インドと同様 どうよう の土地 とち 支配 しはい 体制 たいせい が広 ひろ がっていった。この状況 じょうきょう は第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご のインド独立 どくりつ まで続 つづ くことになる。
朝鮮半島 ちょうせんはんとう でも統一 とういつ 新 しん 羅 ら の時代 じだい より貴族 きぞく や寺院 じいん による小規模 しょうきぼ な荘園 しょうえん が形成 けいせい されていたが、本格 ほんかく 化 か するのは武臣 ぶしん 政権 せいけん の成立 せいりつ 、モンゴル帝国 ていこく の侵略 しんりゃく が続 つづ いた高 こう 麗 うらら 後期 こうき である。この時代 じだい に田 た 柴 しば 科 か を基本 きほん とした土地 とち ・租税 そぜい 制度 せいど は崩壊 ほうかい に向 む かい、宗 そう 親 ちかし ・両 りょう 班 はん ・寺院 じいん ・武人 ぶじん らが各地 かくち で大 だい 規模 きぼ な土地 とち 兼併 けんぺい を行 おこな うようになった。高麗 こうらい の荘園 しょうえん (朝鮮 ちょうせん 語 ご 版 ばん ) は農 のう 荘 そう ・田 た 荘 そう ・別墅 べっしょ などと呼 よ ばれ、荘園 しょうえん には耕作 こうさく 地 ち 以外 いがい にも山野 さんや や森林 しんりん などを含 ふく み、その中 なか に農舎 のうしゃ ・亭 ちん 楼 ろう ・学堂 がくどう ・仏寺 ぶつじ などが設置 せっち され、中 なか には内部 ないぶ で利潤 りじゅん を目的 もくてき とした墓地 ぼち や長利 ながとし (高利貸 こうりかし )経営 けいえい を行 おこな う為 ため の施設 しせつ を有 ゆう する者 もの もいたが、ほとんどの所有 しょゆう 者 しゃ は通常 つうじょう は都市 とし に住 す み、実際 じっさい の運営 うんえい は現地 げんち に派遣 はけん された奴 やつ 僕 ぼく によって行 おこな われていた。耕作 こうさく 者 しゃ は奴婢 ぬひ と土地 とち の無 な い良民 りょうみん であったが、彼 かれ らは5割 わり にものぼる小作 こさく 料 りょう の他 ほか 、運送 うんそう ・飲食 いんしょく 代 だい など諸 しょ 経費 けいひ も徴収 ちょうしゅう された。土地 とち 兼併 けんぺい や徴収 ちょうしゅう が暴力 ぼうりょく を伴 ともな う場合 ばあい もあり、土地 とち を巡 めぐ って争 あらそ いが起 お きている場合 ばあい には当事 とうじ 者 しゃ 双方 そうほう が小作 こさく 人 じん より二 に 重 じゅう の徴収 ちょうしゅう を行 おこな われる場合 ばあい もあった。高麗 こうらい の荘園 しょうえん には不 ふ 輸不入 いれ は認 みと められていなかったが、所有 しょゆう 者 しゃ が権勢 けんせい 者 しゃ であった場合 ばあい にはその政治 せいじ 的 てき 圧力 あつりょく で事実 じじつ 上 じょう の不 ふ 輸不入 いれ の状態 じょうたい となった。
李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん 成立 せいりつ の過程 かてい で土地 とち 制度 せいど の改革 かいかく が行 おこな われ、科 か 田 た 法 ほう 及 およ び職 しょく 田 た 法 ほう が導入 どうにゅう され、多 おお くの既存 きそん 荘園 しょうえん が没収 ぼっしゅう されていった。だが、その一方 いっぽう でこうした改革 かいかく は李 り 朝宗 ともむね 親 おや ・功臣 こうしん を所有 しょゆう 者 しゃ とする新 あら たな荘園 しょうえん 体制 たいせい の再編 さいへん へとつながっていった。それでも、改革 かいかく は土地 とち の売買 ばいばい による土地 とち 拡大 かくだい の可能 かのう 性 せい を高 たか めて高麗 こうらい 時代 じだい のような暴力 ぼうりょく 的 てき な収奪 しゅうだつ による土地 とち 兼併 けんぺい の可能 かのう 性 せい を排除 はいじょ した。また、宗 そう 親 ちかし ・両 りょう 班 はん の生活 せいかつ の拠点 きょてん が都市 とし から在地 ざいち の荘園 しょうえん に移 うつ り、積極 せっきょく 的 てき な経営 けいえい に乗 の り出 だ す姿勢 しせい を見 み せ始 はじ めた。だが、16世紀 せいき 末 すえ から17世紀 せいき 初 はじ めにかけて起 お きた壬 みずのえ 辰 たつ 倭 やまと 乱 らん ・丁 ちょう 酉 とり 倭 やまと 乱 らん ・丁 ちょう 卯 しげる 胡乱 うろん ・丙 へい 子 こ 胡乱 うろん の4つの戦乱 せんらん によって職 しょく 田制 たせい が崩壊 ほうかい し、17世紀 せいき 後半 こうはん には免税 めんぜい 特権 とっけん を国家 こっか から与 あた えられた宮荘 みやしょう や屯 たむろ 庄 しょう が設置 せっち されるとともに土地 とち 売買 ばいばい の制約 せいやく が一層 いっそう 緩 ゆる くなり、荘園 しょうえん 制度 せいど は最盛 さいせい 期 き を迎 むか えた。また、奴婢 ぬひ の社会 しゃかい 的 てき 地位 ちい が上昇 じょうしょう して従属 じゅうぞく 性 せい も低 ひく くなったことによって荘園 しょうえん の仕組 しくみ も変化 へんか していった。すなわち、導 しるべ 掌 てのひら ・舎 しゃ 音 おん と呼 よ ばれる専任 せんにん の管理 かんり 者 しゃ によって経営 けいえい され、堵 と 租と呼 よ ばれる定額 ていがく 小作 こさく 料 りょう 制度 せいど が広 ひろ まるようになり、その納付 のうふ も金納 きんのう や代 だい 金納 きんのう が主流 しゅりゅう となっていった。
^ 高橋 たかはし 芳郎 よしお 「宋 そう 元 はじめ 代 だい の奴婢 ぬひ ・雇 やとい 庸 いさお 人 じん ・佃 つくだ 僕 ぼく の身分 みぶん について―法的 ほうてき 身分 みぶん の形成 けいせい と特質 とくしつ ―」(『北海道大學 ほっかいどうだいがく 文學部 ぶんがくぶ 紀要 きよう 』26巻 かん 2号 ごう 、1978年 ねん )後 ご に高橋 たかはし 『宋 そう -清 しん 身分 みぶん 法 ほう の研究 けんきゅう 』(北海道大学 ほっかいどうだいがく 図書 としょ 刊行 かんこう 会 かい 、2001年 ねん )に収 おさ める
中国 ちゅうごく
『アジア歴史 れきし 事典 じてん 』第 だい 4巻 かん (平凡社 へいぼんしゃ 、1992年 ねん )「荘園 しょうえん 」中国 ちゅうごく 節 ぶし (執筆 しっぴつ 者 しゃ :周 しゅう 藤吉 とうきち 之 これ )
『歴史 れきし 学 がく 事典 じてん 』第 だい 13巻 かん (弘文 こうぶん 堂 どう 、2006年 ねん )「荘園 しょうえん (中国 ちゅうごく の)」(執筆 しっぴつ 者 しゃ :大澤 おおさわ 正 ただし 昭 あきら )
インド
『アジア歴史 れきし 事典 じてん 』第 だい 4巻 かん (平凡社 へいぼんしゃ 、1992年 ねん )「荘園 しょうえん 」インド節 ぶし (執筆 しっぴつ 者 しゃ :大類 おおるい 純 じゅん )
朝鮮 ちょうせん
『アジア歴史 れきし 事典 じてん 』第 だい 4巻 かん (平凡社 へいぼんしゃ 、1992年 ねん )「荘園 しょうえん 」朝鮮 ちょうせん 節 ぶし (執筆 しっぴつ 者 しゃ :武田 たけだ 幸男 ゆきお )
ドイツ
Georg Friedrich Knapp "Die Bauernbefreiung und der Ursprung der Landarbeiter in den älteren Teilen Preussens"(1887)
Werner Wittich "Die Grundherrschaft in Nordwestdeutschland"(1896)