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中国の歴史 - Wikipedia

中国ちゅうごく歴史れきし

世界せかい一部いちぶいまいたるまでの中国ちゅうごく歴史れきし
古代こだい中国ちゅうごくから転送てんそう

中国ちゅうごく歴史れきし(ちゅうごくのれきし)、あるいは中国ちゅうごく(ちゅうごくし)の対象たいしょうは、中国ちゅうごく大陸たいりく地域ちいきであり、かん民族みんぞく中心ちゅうしん様々さまざま民族みんぞくくわえ、現在げんざい中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくいたるまでの歴史れきしである。中国ちゅうごく黄河こうが文明ぶんめい古代こだい世界せかいよんだい文明ぶんめいひとつにかぞえられ、また、黄河こうが文明ぶんめいよりもさらにさかのぼる長江ながえ文明ふみあき存在そんざいしていた。以降いこう現代げんだいまでの中国ちゅうごく歴史れきししるす。

中国歴史
中国ちゅうごく歴史れきし
先史せんし時代じだい中国語ちゅうごくごばん
ちゅう石器せっき時代じだい中国語ちゅうごくごばん
しん石器せっき時代じだい
さんすめらぎみかど
いにしえこく時代じだい
黄河こうが文明ぶんめい
長江ながえ文明ふみあき
りょうかわ文明ぶんめい
なつ
いん
しゅう西にしあまね
しゅう
あずまあまね
春秋しゅんじゅう時代じだい
戦国せんごく時代じだい
はた
かん前漢ぜんかん
しん
かんこうかん

孫呉そんご
かん
しょくかん
たかし
曹魏
すすむ西にしすすむ
すすむあずますすむ じゅうろくこく
そうりゅうそう たかしきたたかし
ひとしみなみひとし
りょう たかし
(西にしたかし)
たかし
(あずまたかし)
ひね りょう
(こうはり)
しゅう
(きたあまね)
ひとし
(きたひとし)
ずい
とう  
しゅうたけあまね
 
だいじゅうこく ちぎり
そう
きたそう
なつ
(西にしなつ)
りょう
そう
みなみそう
きむ
もと
あきら もと
(北元きたもと)
あきら
南明なんめい
じゅん 後金あときん
 
きよし
 
中華民国ちゅうかみんこく まんしゅうこく
 
中華ちゅうか
みんこく

台湾たいわん
中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく

中国ちゅうごく歴史れきしにおいては、政治せいじてき統一とういつによる平和へいわ時代じだいと、国家こっか崩壊ほうかいおよび戦争せんそう時代じだい交互こうごかえされていた。最近さいきんのものは国共こっきょう内戦ないせん1927ねん1949ねん)である。ときおり中国ちゅうごく遊牧民ゆうぼくみんによる支配しはいけていたが、最終さいしゅうてきにそのほとんどはかん民族みんぞく文化ぶんか同化どうかされ、中国ちゅうごく一部いちぶになった。

はたによる中国ちゅうごく統一とういつ皇帝こうてい広大こうだい領土りょうど直接的ちょくせつてき支配しはいするため、または貴族きぞくたちの意見いけん無視むしできるために「官僚かんりょう制度せいど」をつくった。紀元前きげんぜん206ねんから西暦せいれき1912ねんまでの中国ちゅうごくにおいて、兵力へいりょくたない「大夫たいふ」とばれるそうによって皇帝こうていささえて全国ぜんこく管理かんりつづけていた。大夫たいふ非常ひじょうむずかしい科挙かきょつうじて官僚かんりょうえらばれ、文化ぶんかおおきく発展はってんさせていた。最後さいご王朝おうちょうであるきよしは、1912ねん中華民国ちゅうかみんこく建国けんこくによって滅亡めつぼうし、中国ちゅうごくみかどせいはここでえた。

王朝おうちょう政権せいけん変遷へんせん

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いま中国ちゅうごく  中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく地図ちず [ 一般いっぱんめい中国ちゅうごく大陸たいりくまた北京ぺきん当局とうきょく ] 。

先史せんし時代じだい

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先史せんし人類じんるい

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中国ちゅうごくあらわれた最初さいしょ人類じんるいとしては、もとはかりごと原人げんじん藍田あいだ原人げんじん、そして北京ぺきん原人げんじんおもである。

文明ぶんめい萌芽ほうが

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中国ちゅうごく大陸たいりくでは、ふるくから文明ぶんめい発達はったつした。中国ちゅうごく文明ぶんめいばれるものは、おおきくけて黄河こうが文明ぶんめい長江ながえ文明ふみあきの2つがある。黄河こうが文明ぶんめいは、畑作はたさく中心ちゅうしん長江ながえ文明ふみあき稲作いなさく中心ちゅうしんであった。黄河こうが文明ぶんめいが、歴史れきし時代じだいいんしょう)やしゅうなどにつながっていき、中国ちゅうごく大陸たいりく歴史れきし中軸ちゅうじくとなった。長江ながえ文明ふみあき次第しだいに、中央ちゅうおう集権しゅうけん国家こっか創出そうしゅつした黄河こうが文明ぶんめい同化どうか吸収きゅうしゅうされていった。

長江ながえ文明ふみあき

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ははなる長江ながえ

長江ながえ文明ふみあき稲作いなさく発祥はっしょうとして中国ちゅうごく発展はってん基盤きばんとなった。

  • たま蟾岩遺跡いせき湖南こなんしょう長江ちょうこう中流ちゅうりゅう)。紀元前きげんぜん14000ねん? - 紀元前きげんぜん12000ねん?のいねモミがつかっているが、栽培さいばいしたものかは確定かくていできない。
  • 仙人せんにんほらつるしおけたまき遺跡いせき江西えにししょう長江ちょうこう中流ちゅうりゅう)。紀元前きげんぜん12000ねんごろ?の栽培さいばいしたいねつかっており、それまでから伝播でんぱしてきたとかんがえられていた中国ちゅうごく農耕のうこう中国ちゅうごく独自どくじでかつもっとふるいもののひとつだとたしかめられた。
  • 彭頭やま文化ぶんか湖南こなみしょう長江ちょうこう中流ちゅうりゅう)。紀元前きげんぜん7000ねん? - 紀元前きげんぜん5000ねん?。播農ほうおこなわれており、中国ちゅうごくにおける最古さいこ水稲すいとうとされる。
  • 大渓おおたに文化ぶんか四川しせんしょう長江ちょうこう上流じょうりゅう)。紀元前きげんぜん4500ねん? - 紀元前きげんぜん3300ねん?。いろどりぶんべにすえ紋様もんようけたあか土器どき)が特徴とくちょうで、後期こうきにはくろすえはいすえ登場とうじょう灌漑かんがい農法のうほう確立かくりつされ、住居じゅうきょみず補給ほきゅうのための水辺みずべからだい規模きぼ農耕のうこうおこなこと出来でき平野へいや移動いどうした。
  • こごめみね文化ぶんか湖北こほくしょう紀元前きげんぜん3000ねん? - 紀元前きげんぜん2500ねん?。大渓おおたに文化ぶんかいで、ろくろを使用しようしたくろすえ特徴とくちょう河南かなん地方ちほう黄河こうが文明ぶんめいにも影響えいきょうあたえたとかんがえられる。
  • いしかわ文化ぶんかこごめみね文化ぶんかから発展はってんし、湖北こほくしょうてんもんけんいしかわだい規模きぼ都城みやこのじょうつくった紀元前きげんぜん2500ねんごろさかいとしてこごめみね区別くべつする。この都城みやこのじょう南北なんぼく1.3 km、東西とうざい1.1kmというおおきさで、上述じょうじゅつ黄河こうが流域りゅういき部族ぶぞく抗争こうそうしたのはこのころかんがえられる。
  • 河姆渡かぼと文化ぶんか紀元前きげんぜん5000ねん? - 紀元前きげんぜん4000ねん?しも流域りゅういきでは最古さいこ稲作いなさく狩猟しゅりょう漁労ぎょろうわせておこなわれ、ブタの家畜かちくなどもおこなわれた。
  • りょうなぎさ文化ぶんか浙江せっこうしょうぜに塘江流域りゅういき)。紀元前きげんぜん3260ねん? - 紀元前きげんぜん2200ねん?(以前いぜん文化ぶんか形態けいたいからだい汶口文化ぶんか中期ちゅうきごろにはじまったとされていたが、1977ねん出土しゅつど木材もくざい年輪ねんりん分析ぶんせきあらためられた)青銅器せいどうき以前いぜん文明ぶんめい多数たすうたまほかに、きぬ出土しゅつどしている。分業ぶんぎょう階層かいそうおこなわれたとられ、殉死じゅんししゃともなはか発見はっけんされている。黄河こうが文明ぶんめい山東さんとう龍山たつやま文化ぶんかとは相互そうご関係かんけいがあったとられ、どう時期じき衰退すいたいしたことはなんらかの共通きょうつう原因げんいんがあるとられている。
  • 三星みつぼしうずたか遺跡いせき紀元前きげんぜん2600ねん? - 紀元前きげんぜん850ねん?。大量たいりょう青銅器せいどうき出土しゅつどし、前述ぜんじゅつほか仮面かめんたて仮面かめん黄金おうごんつえなどがあり、また子安こやすかい象牙ぞうげなどもあつめられており、権力けんりょく階層かいそうがあったことがうかがいれる。青銅器せいどうきについては原始げんしてき部分ぶぶんいままに高度こうど青銅器せいどうきつくっているため地域ちいき、おそらくは黄河こうが流域りゅういきからの技術ぎじゅつ流入りゅうにゅうかんがえられる。長江ながえ文明ふみあきおなじく文字もじ発見はっけんされていないが、「ともえしょく文字もじ」とばれる文字もじらしきものがあり、一部いちぶにこれをインダス文字もじむすびつけるせつもある。

黄河こうが文明ぶんめい

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龍山たつやま文化ぶんか時代じだいこうはい。1976ねん山東さんとうしょう出土しゅつど

黄河こうが文明ぶんめいは、その中国ちゅうごく歴史れきし主軸しゅじくとなる。

  • 裴李崗文紀元前きげんぜん7000?~紀元前きげんぜん5000?。一般いっぱんてきな「しん石器せっき時代じだい」のはじまり。定住ていじゅうし、農業のうぎょうおこなわれていた。河南かなんしょう黄河こうが中流ちゅうりゅう)。土器どき赤褐色せきかっしょく
  • ろうかんだい文化ぶんか紀元前きげんぜん6000?~紀元前きげんぜん5000?。土器どきづくりやあわづくりがおこなわれていた。陝西せんせいしょう黄河こうが上流じょうりゅう)。土器どき赤色あかいろ
  • きたからし文化ぶんか紀元前きげんぜん6000?~紀元前きげんぜん5000?。土器どき褐色かっしょく山東さんとうしょう黄河こうが下流かりゅう
  • 磁山文化ぶんか紀元前きげんぜん6000?~紀元前きげんぜん5000?。土器どき赤褐色せきかっしょく河北かほくしょう黄河こうが下流かりゅう
  • おおせ韶文紀元前きげんぜん4800?~紀元前きげんぜん2500?。前期ぜんき黄河こうが文明ぶんめいにおける最大さいだい文化ぶんか陝西せんせいしょうから河南かなんしょうにかけて存在そんざい。このころは母系ぼけい社会しゃかいで、農村のうそん階層かいそうはじまった。文化ぶんか後期こうきになると、社会しゃかい階層かいそう分業ぶんぎょうすすんだ。土器どき赤色あかいろ
  • こうおか文化ぶんか紀元前きげんぜん5000?~紀元前きげんぜん4000?。きたからし文化ぶんか発展はってん河南かなんしょう
  • だい汶口文化ぶんか紀元前きげんぜん4300?~紀元前きげんぜん2400?。土器どき前期ぜんき赤色あかいろあやすえ)、後期こうき黒色こくしょくくろすえ)。なお、この区分くぶん黄河こうが文明ぶんめい全体ぜんたいられる。山東さんとうしょう
  • うまかま文化ぶんか紀元前きげんぜん3100?~紀元前きげんぜん2700?。いろどりすえ中心ちゅうしんおおせ韶文西にし伝播でんぱ発展はってんした。甘粛かんせいしょう
  • 龍山たつやま文化ぶんか紀元前きげんぜん2500?~紀元前きげんぜん2000?。だい汶口文化ぶんかから発展はってん後期こうき黄河こうが文明ぶんめい最大さいだい文化ぶんか土器どき黒色こくしょくくろすえ)。山東さんとうしょう
  • 喇家遺跡いせき紀元前きげんぜん2000ねんごろ遺跡いせき水害すいがいまり、麺類めんるい楽器がっきなどが発見はっけんされた。青海あおみしょう
  • 二里にりあたま文化ぶんか紀元前きげんぜん2000?~紀元前きげんぜん1600?。遺跡いせき中心ちゅうしんにはふたつの宮殿きゅうでんがある。河南かなんしょう

りょうかわ文明ぶんめい

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りょうかわ文明ぶんめい黄河こうが文明ぶんめいにもおおきな影響えいきょうあたえたとされる。

神話しんわ伝説でんせつ時代じだい

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ばんいにしえおんなふくあおい顓頊

えん蚩尤

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かみみのりほのおみかど)、蚩尤みかどあおい

堯舜時代じだい

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しゅん よんきょう渾沌こんとん 饕餮 きゅう 檮杌よんざいきょうこう こん 驩兜 さんなえ

羿禹時代じだい

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羿 こん えき 羿によって退治たいじされたというあくししたち(窫窳鑿歯きゅう大風おおかぜおさむへびふう

さきはた時代ときよ

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史記しきでは伝説でんせつされるさんすめらぎみかど時代じだいつづき、最初さいしょ王朝おうちょう国家こっかとしてなつあさ創始そうしされたとされる。しかし、その実在じつざいせいについては議論ぎろん存在そんざいする。なつ王朝おうちょう特徴とくちょうは「おおやけ天下でんかからいえ天下でんかへと転換てんかん」、つまり中国ちゅうごく統治とうちしゃ交代こうたいできる集落しゅうらく形態けいたいから、ちち王位おういあたえる王国おうこく形態けいたいになってきた。

いんしょう

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いん代表だいひょうてき遺跡いせきいんであるため、日本にっぽんでは一般いっぱんに「いん」とばれるが、「しょう」のいん王朝おうちょう故郷こきょうとされており、しょう自称じしょうであるというせつもあるため、中国ちゅうごくではこの王朝おうちょうを「しょう」とぶほうが一般いっぱんてきである。両方りょうほうかんがえて「いんしょう」ともぶこともある。

実在じつざい確認かくにんされている中国ちゅうごく最古さいこ王朝おうちょうである。このときから漢字かんじ出現しゅつげんし、文字もじ記録きろくによって信憑しんぴょうせいたか歴史れきしはじまっていた。いんでは、おううらないによって政治せいじおこなうことから、神権しんけん政治せいじとみられる。いん以前いぜん山東さんとうおこったとされたが、近年きんねん河北かわきた付近ふきんおこったとする見方みかた有力ゆうりょくで、黄河こうが文明ぶんめいまれたむらのうち強大きょうだいになり発展はってんした都市とし国家こっか盟主めいしゅであった[† 2]かんがえられる。

西にしあまね

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紀元前きげんぜん11世紀せいきころいんほろぼしたしゅうは、各地かくち有力ゆうりょくしゃ王族おうぞく諸侯しょこうとして封建ほうけんせいをおこなった。しかし、しゅう王朝おうちょう徐々じょじょ弱体じゃくたいし、民族みんぞくめられ、紀元前きげんぜん770ねんにはなりしゅう遷都せんとした。その史記しきしゅう本紀ほんぎによればいぬえびす侵入しんにゅうにより西にしあまねほろび、洛陽らくようひがししゅう再興さいこうされるが、ひらたいきおい隆郎たかお検討けんとうによればかそけおう殺害さつがいされたあと短期間たんきかん携王が西にしたいらおうひがし並立へいりつし、紀元前きげんぜん759ねんひらめおうが携王をほろぼしたとかんがえられる。たいらおうのもとでしゅう洛陽らくようにあり、西にしあまねにははたはいる。これ以降いこう春秋しゅんじゅう時代じだいぶ。春秋しゅんじゅう時代じだいには、しゅう王朝おうちょう権威けんいはまだのこっていたが、紀元前きげんぜん403ねんからはじまるとされる戦国せんごく時代じだいには、しゅう王朝おうちょう権威けんい無視むしされるようになる。

あずまあまね

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諸子しょしひゃくいえいち孔子こうし

春秋しゅんじゅう戦国せんごく時代じだいは、諸侯しょこうあらそ戦乱せんらん時代じだいであった。

春秋しゅんじゅう時代じだい

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春秋しゅんじゅう時代じだい都市とし国家こっか盟主めいしゅどうしのたたかいだった。しかし春秋しゅんじゅう末期まっき最強さいきょう都市とし国家こっかすすむさん分割ぶんかつされたころから様子ようすわる。その当時とうじすすむ有力ゆうりょく家臣かしんろくいえあいあらそい、最初さいしょりょくきんていたさとし弱小じゃくしょうちょうめたものの、ちょう農村のうそん経済けいざいてきではなく封建ほうけんてきによく支配しはいじょうまもりきり、疲弊ひへいしたさとしたかしかんほろぼしたことで最終さいしゅうてきすすむちょうたかしかんさん分割ぶんかつされ滅亡めつぼうした。このこともあってそれまで人口じんこうおおくてもせいぜい5まんにん程度ていどだった都市とし国家こっか富国強兵ふこくきょうへいつとめ、しょう工業こうぎょう発達はったつし、貨幣かへい使用しようはじめやがて領土りょうど国家こっか変貌へんぼうしそのくにとなったきゅう都市とし国家こっかは30まんにん規模きぼ都市とし変貌へんぼうする。また鉄器てっき普及ふきゅうしたこともあいまって、農業のうぎょう生産せいさん増大ぞうだいした。

諸子しょしひゃくいえ
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また、このような戦乱せんらんをどのようにごすべきかという思想しそうがさまざまなひとたちによってつくられた。このような思想しそういたひとたちを諸子しょしひゃくいえ陰陽いんよう儒家じゅかぼく法家ほうか名家めいか道家みちや兵家へいかひとし代表だいひょうてき)という。

戦国せんごく時代じだい

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すすむ分裂ぶんれつ以後いご一般いっぱん戦国せんごく時代じだいという。

はたかん帝国ていこく

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始皇帝しこうてい

現在げんざい陝西せんせいしょうあたりにあったはたは、戦国せんごく時代じだい着々ちゃくちゃく勢力せいりょくばした。勢力せいりょくばした背景はいけいには、厳格げんかく法律ほうりつ人々ひとびと統治とうちしようとする法家ほうか思想しそう採用さいようして、富国強兵ふこくきょうへいつとめたことにあった。はた王政おうせいは、の6つの列強れっきょう次々つぎつぎほろぼし、紀元前きげんぜん221ねんには史上しじょうはじめての中国ちゅうごく統一とういつげた。はた王政おうせいは、みずからの偉業いぎょうをたたえ、おうえる称号しょうごうとして皇帝こうていもちい、みずか始皇帝しこうてい名乗なのった。

 
兵馬へいば

始皇帝しこうていは、法家ほうか登用とうようし、中央ちゅうおう集権しゅうけんすすめた。このとき、中央ちゅうおうから派遣はけんした役人やくにん全国ぜんこくかく地方ちほう支配しはいするぐんけんせい施行しこうされた。また、文字もじ貨幣かへい度量衡どりょうこう統一とういつおこなわれた。さらに、当時とうじモンゴル高原こうげん勢力せいりょくをもっていた遊牧ゆうぼく民族みんぞく匈奴きょうどふせぐために万里ばんり長城ちょうじょう建設けんせつさせた。さらに、軍隊ぐんたい派遣はけんして、匈奴きょうど南下なんかおさえた。また、みねみなみ地方ちほう現在げんざい広東かんとんしょう)にもぐん派遣はけんし、このにいたひゃくえつしょぞく制圧せいあつした。しかし、このような中央ちゅうおう集権しゅうけん土木どぼく事業じぎょう軍事ぐんじ作戦さくせん人々ひとびと多大ただい負担ふたんあたえた。さらに、宦官かんがんであったちょうだか始皇帝しこうてい側近そっきんとしてちからつよめ、紀元前きげんぜん210ねん始皇帝しこうていぬと、ちょうだか暴政ぼうせいをはじめたため、翌年よくねんにはちんまさるひろらんという農民のうみん反乱はんらんがおきた。反乱はんらんぐん破竹はちくいきおいで各地かくち次々つぎつぎ制圧せいあつし、かつての戦国せんごく時代じだいまきようする5カ国かこく合従がっしょうぐんさえも絶対ぜったいけなかったはこたにせきかれる。このらん刺激しげきされ各地かくち反乱はんらんがおき、項羽こうう劉邦りゅうほう挙兵きょへい劉邦りゅうほうであった咸陽占領せんりょうし、ついにはた紀元前きげんぜん206ねんほろびた。

すわえかん戦争せんそう

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こうかん時代じだい改良かいりょうされた、かみ

はた滅亡めつぼう項羽こうう劉邦りゅうほう覇権はけんあらそった(すわえかん戦争せんそう)。当初とうしょ項羽こうう有利ゆうりであったが、かんしんが、劉邦りゅうほうがわ寝返ねがえったことをに、劉邦りゅうほう主導しゅどうけんにぎるようになった。そして、紀元前きげんぜん202ねん垓下のたたか項羽こうう自害じがいし、劉邦りゅうほう天下てんか統一とういつした。

前漢ぜんかん

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シルクロード

劉邦りゅうほうは、始皇帝しこうてい急速きゅうそく中央ちゅうおう集権しゅうけんすすめて失敗しっぱいしたことから、一部いちぶ地域ちいきには親戚しんせき臣下しんかおうとしておさめさせ、ほかの地域ちいき中央ちゅうおう直接ちょくせつ管理かんりできるようにした。これをぐんこくせいという。しかし、紀元前きげんぜん154ねんには、各地かくちおう中央ちゅうおうたいしてすわえななこくらんばれる反乱はんらんこした。この反乱はんらん鎮圧ちんあつされ、結果けっかとして、中央ちゅうおう集権しゅうけんすすんだ。紀元前きげんぜん141ねん即位そくいしたたけみかどは、国内こくない安定あんていもあり、対外たいがい発展はってんすすめた。たけみかど匈奴きょうど撃退げきたいし、シルクロードつうじた西方せいほうとの貿易ぼうえき直接ちょくせつおこなえるようにした。また、朝鮮半島ちょうせんはんとう北部ほくぶベトナムきた中部ちゅうぶにも侵攻しんこうした。かんよんぐんなどこれらの地域ちいきはそのつよ中国ちゅうごく文化ぶんか影響えいきょうけることとなった。また、たけみかどただしなか意見いけんいて、儒教じゅきょう統治とうち基本きほんとした。これ以降いこう中国ちゅうごく王朝おうちょう基本きほんてき儒教じゅきょう統治とうち基本きほんとしていく。

一方いっぽうぶんみかどころより貨幣かへい経済けいざい広汎こうはん浸透しんとうしており、度重たびかさなる軍事ぐんじ行動こうどうあいまって、農民のうみん生活せいかつくるしめた。かん宮廷きゅうていでは貨幣かへい浸透しんとう農民のうみん不利益ふりえきであることがしばしばろんじられており、農民のうみん救済きゅうさいさく検討けんとうされ、富商ふしょう中心ちゅうしん増税ぞうぜいをおこなうなどだい土地とち所有しょゆう抑制よくせいしようと努力どりょくした。また儒教じゅきょう国教こっきょう関連かんれんして儒教じゅきょう教義きょうぎ論争ろんそうがしばしば宮廷きゅうてい重大じゅうだい問題もんだいとされるようになった。ちなみに、このころイエス・キリストまれ、以降いこう紀元きげんとなる。

8ねんには、おう皇帝こうていうばってかんほろぼし、しんてた。おう莽は当初とうしょ儒教じゅきょう主義しゅぎてき徳治とくじ政治せいじをおこなったが、相次あいつ貨幣かへい改鋳かいちゅう頻繁ひんぱん地名ちめいかんめい変更へんこうなど理想りそう主義しゅぎてき恣意しいてき政策せいさくをおこなったため徐々じょじょ民心みんしんうしない、辺境へんきょう民族みんぞく頻繁ひんぱん侵入しんにゅうし、あかまゆらんなどかん復興ふっこうもとめる反乱はんらんき、内乱ないらん状態じょうたいおちいった(しんすえかんはつ)。そのなかしん更始こうしみかどによりほろぼされる。

こうかん

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そのかん皇族こうぞくりゅうしげるによってかん王朝おうちょう復興ふっこうされた。このりゅうしげるてたかんこうかんという。王朝おうちょう初期しょきには雲南うんなん進出しんしゅつし、またはんちょうによって西域せいいき経営けいえいがおこなわれ、シルクロードをおさえた。初期しょきのちかん王朝おうちょう豪族ごうぞく連合れんごうてき政権せいけんであったが、あきらみかど時代じだいまでは中央ちゅうおう集権しゅうけんにつとめ、安定あんていした政治せいじおこなわれた。しかしやすみかど時代じだい以後いご外戚がいせき宦官かんがん権力けんりょく増大ぞうだい官僚かんりょう党派とうは対立たいりつなやまされるようになった。

すすむ南北なんぼくあさ時代じだい

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はばらん以降いこうずい589ねん中国ちゅうごくさい統一とういつするまで、いち時期じきのぞいて中国ちゅうごく分裂ぶんれつつづけた。このずいさい統一とういつまでの分裂ぶんれつ時代じだいすすむ南北なんぼくあさ時代じだいという。また、この時期じきには日本にっぽん朝鮮ちょうせんなど中国ちゅうごく周辺しゅうへんしょ民族みんぞく独自どくじ国家こっか形成けいせいはじめた時期じきでもある。

すすむ南北なんぼくあさひょう参照さんしょう

さんこく時代じだい

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さんこく決戦けっせんあかかべ

こうかん末期まっき184ねんには、はばらんばれる農民のうみん反乱はんらんき、はばらん鎮圧ちんあつされたあと、ではただしたく暴政ぼうせいはじめ、豪族ごうぞく各地かくち独自どくじ政権せいけんてた。なかでも有力ゆうりょくであったのが、こうかん王朝おうちょう皇帝こうていようしていた曹操そうそうである。しかし、中国ちゅうごく統一とういつ目指めざしていた曹操そうそうは、208ねんあかかべたたかで、江南こうなん豪族ごうぞくまごけんやぶれた。結局けっきょく曹操そうそう死後しご220ねん曹操そうそう 曹丕こうかん皇帝こうていから皇帝こうていゆずられ、たかし建国けんこくした。このことによりこうかん滅亡めつぼうし、かん王朝おうちょう完全かんぜんほろびた。これにたいし、221ねんには現在げんざい四川しせんしょう割拠かっきょし、かん王朝おうちょう復興ふっこうとなえていたりゅう皇帝こうていとなり、しょくかん建国けんこくした。江南こうなんまごけん229ねん皇帝こうていしょうし、建国けんこくした。このしょくさんこく鼎立ていりつした時代じだいさんこく時代じだいという。

さんこくなかで、もっとも有力ゆうりょくであったのはたかしであった。こうかん半分はんぶん以上いじょう領土りょうど継承けいしょうしたが、戦乱せんらん荒廃こうはいした地域ちいき積極せっきょくてき屯田とんでんをおこない、支配しはい地域ちいき国力こくりょく回復かいふくにつとめた。では官吏かんり登用とうようほうとして、九品くほんかんじんほう がおこなわれた。

西にしすすむ

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さんこく時代じだい基本きほんてきしょく同盟どうめいとのあらそいをじくとしてしばしば交戦こうせんしたが、重鎮じゅうちんであった司馬しばがクーデターをこし、司馬しば一族いちぞく国内こくない権力けんりょく掌握しょうあくした(高平たかひらりょうへん)。そのしょく263ねんほろぼされた(しょくかん滅亡めつぼう)。司馬しば懿の死後しご息子むすこ司馬しば司馬しばあきらぎ、司馬しばあきらすすむおうとなる。そして265ねん司馬しばあきら息子むすこである司馬しばえん皇帝こうていであるもとみかどより禅譲ぜんじょうをうけ、皇帝こうていとして即位そくい滅亡めつぼうする。そして司馬しばえんあらたな王朝おうちょうとして西にしすすむおこした。その司馬しばえんに20まん大軍たいぐんおくり、ほろぼした(滅亡めつぼう)。これによりさんこく時代じだい終結しゅうけつし、すすむ中国ちゅうごく統一とういつたした。

だがその司馬しばえんきゅう堕落だらく政務せいむかえりみなくなり、その死後しご帝位ていいをめぐって各地かくち皇族こうぞく戦争せんそうこした (はちおうらん)。

えびすじゅうろくこく時代じだい

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このときえびすばれる民族みんぞく軍隊ぐんたいとしてもちいたため、これらの民族みんぞく非常ひじょうつよちからつようになった。316ねんには、えびすの1つである匈奴きょうどりゅうふかしすすむほろぼし、かん(そのまえちょう)をてたえいよしみらん)。これ以降いこう中国ちゅうごく北方ほっぽうは、えびすてた国々くにぐに支配しはいし、南方なんぽう江南こうなん避難ひなんしたすすむ王朝おうちょうみなみうつったあとのすすむあずますすむという)が支配しはいした。この時期じきは、戦乱せんらんにくみ、宗教しゅうきょうたよきがあった。代表だいひょうてき宗教しゅうきょう仏教ぶっきょう道教どうきょうであり、この2つの宗教しゅうきょうときにははげしく対立たいりつすることがあった。 439ねんきたたかしによる華北かほく統一とういつにより南北なんぼくあさ時代じだいへとうつる。

南北なんぼくあさ時代じだい

編集へんしゅう

あずますすむ南朝なんちょう

編集へんしゅう

江南こうなん中心ちゅうしんとする中国ちゅうごく南方なんぽうでは、民族みんぞくおそれて、中国ちゅうごく北方ほっぽうから人々ひとびとおお移住いじゅうしてきた。これらの人々ひとびとによって、江南こうなん開発かいはつすすんだ。それにともない、貴族きぞくだい土地とち所有しょゆうおこなうということが一般いっぱんてきになり、貴族きぞくくに政治せいじ左右さゆうした。一部いちぶ貴族きぞく権力けんりょくは、しばしば皇帝こうてい権力けんりょくよりもつよかった。これらの貴族きぞく階層かいそうものにより散文さんぶん書画しょがとう六朝りくちょう文化ぶんかばれる文化ぶんか発展はってんした。あずますすむ滅亡めつぼうそうひとしりょうひねという4つの王朝おうちょう江南こうなん地方ちほう支配しはいしたが、貴族きぞくつよちからにぎることはわらなかった。はりたけみかど仏教ぶっきょう保護ほごつとめた。

北朝ほくちょう

編集へんしゅう

華北かほく統一とういつし、えびすじゅうろくこく時代じだいわらせたきたたかし471ねん即位そくいした孝文たかふみみかどによってかん政策せいさくすすめた。また、土地とち国家こっか民衆みんしゅうひとし田制たせいはじめ、律令制りつりょうせい基礎きそけをした。しかし、このようなかん政策せいさく反対はんたいするものがいたこともあり、きたたかしは、西にしたかしあずまたかし分裂ぶんれつした。西にしたかしきたあまねへと、あずまたかしきたひとしへと王朝おうちょう交代こうたいした。577ねんにはきたあまねきたひとしほろぼしたが、581ねんに、ずいきたあまねにとってわった。589ねんに、ずいひねほろぼし、中国ちゅうごく統一とういつ達成たっせいした。

ずいから帝国ていこく

編集へんしゅう

ずいとうとは、ずい王朝おうちょうから王朝おうちょう歴史れきしのことだが、6世紀せいきまつから10世紀せいきはつにかけての中国ちゅうごく大陸たいりく中心ちゅうしんとするひがしアジア地域ちいきを、ずいとうぶこと自体じたいに、ずいとうという王朝おうちょう自明じめい存在そんざいとしてしまうわながしかけられている。易姓革命えきせいかくめいによる王朝おうちょう交替こうたいをしめすずい(楊隋)やとうとう)の名称めいしょうもちいることによって、華北かほく黄土おうど拠点きょてんをおく政権せいけんが、中国ちゅうごく大陸たいりく全体ぜんたい支配しはいするるぎのない政権せいけんである印象いんしょうまれ、内外ないがい政治せいじ情勢じょうせいのなかで、政権せいけん正統せいとうせい構築こうちくをめざしてもがきつづけた、可変かへんてき流動りゅうどうせいんだ側面そくめんがみえにくくなる[1]軍閥ぐんばつない権力けんりょく闘争とうそういて、楊堅ずい王朝おうちょう建国けんこくしたさい政権せいけん正統せいとう作業さぎょう多大ただい労力ろうりょくいたことは、アーサー・F・ライトあきらかにしている[1]宮崎みやざきじょうは、ずい王朝おうちょうが、権力けんりょく基盤きばん不安定ふあんていななかで政治せいじ運営うんえい苦心くしんする状況じょうきょう叙述じょじゅつした。から建国けんこくが、ずいまつ勃発ぼっぱつした各地かくち軍閥ぐんばつ同士どうしだい規模きぼ戦闘せんとうと、突厥みなみ匈奴きょうどなどが中原なかはら影響えいきょうりょくおよぼす複雑ふくざつ内外ないがい情勢じょうせいのなかで挙行きょこうされ、ずいまつ政治せいじ状況じょうきょうから建国けんこくにも影響えいきょうあたえたことは、賀澤かざわたもつぶんまわし石見いわみきよしひろしあきらかにしている。から王朝おうちょうは、建国けんこく政権せいけんない権力けんりょく闘争とうそうつづき、武則たけのりてん皇帝こうていとなりしゅう王朝おうちょう建国けんこくした時点じてん一旦いったん断絶だんぜつし、とうという統一とういつ王朝おうちょうが10世紀せいきはつまで継続けいぞくして存続そんぞくしたわけではない[1]歴史れきしが、女帝にょていである武則たけのりてんによるしゅう王朝おうちょう建国けんこくみとめなかったにぎず、やすろくやま政権せいけんつばめ王朝おうちょうや、しゅ政権せいけんはた王朝おうちょうかん王朝おうちょう政権せいけんひとし王朝おうちょうなどが長安ながやす建国けんこくしたことによって、から王朝おうちょうは、かえ正統せいとうせい否定ひていされている。ずいとうという名称めいしょうこそが、みずからの存在そんざい固定こてい正統せいとうしようとするずいとう政権せいけん担当たんとうしゃたちが、どう時代じだい後代こうだい歴史れきしもうとした文化ぶんかてき仕掛しかけである。中国ちゅうごく伝統でんとうてき正統せいとう史観しかん相対そうたいするための戦略せんりゃくとして、普遍ふへんてき時代じだい区分くぶん名称めいしょうもちいて、ずいとうを「中国ちゅうごく中世ちゅうせい後期こうき」としょうしたり、杉山すぎやま正明まさあきのように、きたたかし前身ぜんしんだいくにからずいから王朝おうちょうまでの国家こっかを、政権せいけん統治とうちしゃそう一貫いっかんして鮮卑つぶせばつであるてん注目ちゅうもくし、「つぶせばつ国家こっか」とづけるかんがえもある。歴史れきし叙述じょじゅつことなる価値かちかんのせめぎあうであることをみとめ、6世紀せいきまつから10世紀せいきはつにかけての中国ちゅうごく大陸たいりく中心ちゅうしんとするひがしアジア地域ちいきを、ずいとうぶことの政治せいじせい自覚じかくすべきである[1]ずいから王朝おうちょう存在そんざい自明じめい前提ぜんていとして、そこからさかのぼ歴史れきし叙述じょじゅつとはべつに、なにもないところからずいとうという王朝おうちょうめい自称じしょうする政権せいけん強引ごういん構築こうちくされてゆく、政治せいじ権力けんりょく生成せいせい過程かてい分析ぶんせきする方法ほうほう模索もさくすべきであり、からふとしむね勅撰ちょくせんした『すすむしょ』の思想しそうせい分析ぶんせきする礪波となみまもる武田たけだ幸男ゆきお安田やすだ二郎じろう、『しゅうしょ』を分析ぶんせきする前島まえじま佳孝よしたか、『さだかん氏族しぞくこころざし中国語ちゅうごくごばん』を分析ぶんせきする山下やました将司まさし研究けんきゅうにより、からふとしそう政権せいけんが、歴史れきししょ編纂へんさんもちいて、支配しはい正統せいとう獲得かくとくにもがくようあきらかになっている。からふとしむね編纂へんさんがはじまりこう宗時むねとき完成かんせいした『ずいしょ経籍けいせきこころざし序文じょぶんおよび目録もくろく部分ぶぶんに、精緻せいち考証こうしょうほどこしたきょうぜんひろし川合かわい康三やすぞうとうはつ政治せいじ文化ぶんか把握はあくする示唆しさあたえてくれる[1]

ずいぶんみかどは、ひとし田制たせい租庸調そようちょうせい兵制へいせいなどをすすめ、中央ちゅうおう集権しゅうけん目指めざした。また同時どうじきゅうひんちゅう正法しょうぼう廃止はいしし、試験しけんによって実力じつりょくはか科挙かきょ採用さいようした。しかし、ぶんみかどのちいだ煬帝江南こうなん華北かほくむすだい運河うんが建設けんせつしたり、度重たびかさなる遠征えんせいおこなったために財政ざいせい逼迫ひっぱくし、民衆みんしゅう負担ふたん増大ぞうだいした。さんかい高句麗こうくり遠征えんせいわせて農民のうみん反乱はんらんき、618ねんずい滅亡めつぼうした。日本にっぽん聖徳太子しょうとくたいしからずい使小野妹子おののいもこ)がおくられた。

 
当時とうじ世界せかい最大さいだい都市としだった長安ながやすのシンボルタワー・だいかりとう

はつとう

編集へんしゅう

ずいわって、中国ちゅうごく支配しはいしたのが、とうである。とう基本きほんてきずい支配しはいシステムをぎ、626ねん即位そくいしたふとしむね租庸調そようちょうせい整備せいびし、律令制りつりょうせい完成かんせいさせた。とう長安ながやすは、当時とうじ世界せかい最大さいだいきゅう都市としであり、各国かっこく商人しょうにんなどがあつまった。長安ながやすは、西方せいほうにはシルクロードによってイスラム帝国ていこくひがしマ帝国まていこくなどとむすばれ、ゾロアスターきょうけいきょうマニきょうをはじめとする各地かくち宗教しゅうきょう流入りゅうにゅうした。また、文化ぶんか史上しじょうから時代じだい最高さいこうのものとされる。

たけあまね

編集へんしゅう

からふとしむね死後しご着々ちゃくちゃくちからけたふとむねとそのこうはじめ皇后こうごう武則たけのりてんはついに690ねん政権せいけん簒奪さんだつし、中国ちゅうごく史上しじょう唯一ゆいいつおんな皇帝こうてい即位そくいし、国号こくごうしゅうとした。

もりとうからばんとう

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712ねんげんむねとう再興さいこうさせて国内こくない安定あんてい目指めざしたが、すでに律令制りつりょうせい制度せいど疲労ひろうこしていた。また、周辺しゅうへんしょ民族みんぞく統治とうち失敗しっぱいしたため、辺境へんきょう強大きょうだい軍事ぐんじりょくった節度せつど使必要ひつようがでてきた。節度せつど使ぐんけん以外いがいにも、のち民政みんせいけん財政ざいせいけんはじめ、755ねんには、節度せつど使やすろくやまたちが安史やすしらんばれる反乱はんらんこした。この反乱はんらんかくぼくかたふところおんウイグル帝国ていこく太子たいしまもるらの活躍かつやくなにとか鎮圧ちんあつされたが、反乱はんらんぐん投降とうこうしゃ勢力せいりょく無視むしできず、投降とうこうしゃ節度せつど使にんじたことなどからさらに各地かくち土地とち私有しゆう荘園しょうえん)がすすみ、土地とち国有こくゆう前提ぜんていとするひとし田制たせいおこなえなくなっていった。結局けっきょく政府せいふ土地とち私有しゆうみとめざるをなくなり、律令りつりょう制度せいど崩壊ほうかいした。875ねんから884ねんにはらんばれる農民のうみん反乱はんらんがおき、から王朝おうちょう権威けんい失墜しっついし、各地かくち節度せつど使はますます権力けんりょくつよめ、907ねんには節度せつど使1人ひとりであるしゅちょんただしとうほろぼした。

だいじゅうこく

編集へんしゅう

とう滅亡めつぼう各地かくち節度せつど使があいあらそった。この時代じだいだいじゅうこく時代じだいという。この戦乱せんらんしずめたのが、960ねん皇帝こうていとなってそう建国けんこくしたちょうただしたねである。ただし、そう完全かんぜん中国ちゅうごく統一とういつ達成たっせいしたのはちょうただしたね死後しご976ねんである。

そうもと帝国ていこく

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だいじゅうこく時代じだい

編集へんしゅう

とう滅亡めつぼう各地かくち節度せつど使あらそった。この時代じだいだいじゅうこく時代じだいという。この戦乱せんらんしずめたのが、960ねん皇帝こうていとなってそう建国けんこくしたちょうただしたねである。ただし、そう完全かんぜん中国ちゅうごく統一とういつ達成たっせいしたのはちょうただしたね死後しご976ねんである。

きたそう

編集へんしゅう
 
杭州こうしゅう

きたそうはつ皇帝こうていちょうただしたねは、節度せつど使つよ権力けんりょくをもっていたことで戦乱せんらんきていたことをかんがえ、軍隊ぐんたい文官ぶんかんひきいるという文治ぶんじ主義しゅぎをとっ た。また、これらの文官ぶんかんは、科挙かきょによって登用とうようされた。そうからは、科挙かきょ最終さいしゅう試験しけん皇帝こうていみずからがおこなうものとされ、科挙かきょ登用とうようされた官吏かんり皇帝こうていむすびつきはふかまった。また、おおくの国家こっか機関きかん皇帝こうてい直属ちょくぞくのものとし、中央ちゅうおう集権しゅうけん皇帝こうてい権力けんりょく強化きょうかすすめた。科挙かきょ受験じゅけんした人々ひとびと大体だいたいが、地主じぬしそうであった。これらの地主じぬしそう大夫たいふび、のちのきよしだいまで、このそう皇帝こうてい権力けんりょくささえ、官吏かんり輩出はいしゅつつづけた。

りょう西にしなつ

編集へんしゅう

とうは、その強大きょうだいちからによって、周辺しゅうへんしょ民族みんぞく影響えいきょうにおいていたが、とう衰退すいたいによってこれらのしょ民族みんぞく自立じりつし、独自どくじ文化ぶんか発達はったつさせた。また、そう文治ぶんじ主義しゅぎ採用さいようしていたため、たたかいに不慣ふなれな文官ぶんかん軍隊ぐんたい統制とうせいしたので、軍事ぐんじりょくよわく、周辺しゅうへんしょ民族みんぞくとのたたかいにもつづけた。なかでも、ちぎりぞくりょうタングートぞく西にしなつは、中国ちゅうごく本土ほんどにも侵入しんにゅうし、そう圧迫あっぱくした。これらの民族みんぞくは、すすむ南北なんぼくあさ時代じだいえびすちがい、中国ちゅうごく文化ぶんか唯一ゆいいつ絶対ぜったいなものとせず、独自どくじ文化ぶんか保持ほじつづけた。このような王朝おうちょう征服せいふく王朝おうちょうという。後代こうだいもときよし征服せいふく王朝おうちょうであり、以降いこう中国ちゅうごく文化ぶんかはこれらの周辺しゅうへんしょ民族みんぞく影響えいきょうつよけるようになった。

庶民しょみん文化ぶんか発達はったつほどしゅ理学りがく

編集へんしゅう

文化ぶんかてきには、経済けいざい発展はってんともなって庶民しょみん文化ぶんか発達はったつした。また、大夫たいふなかではあたらしい学問がくもんをもとめるうごきがて、儒教じゅきょう一派いっぱとして朱子学しゅしがくまれた。

きむみなみそう

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1127ねんには、かね圧迫あっぱくけ、そうは、江南こうなんうつった。これ以前いぜんそうきたそう以降いこうみなみそうという。みなみそう時代じだいには、江南こうなん経済けいざい急速きゅうそく発展はってんした。また、すでにとうだいわりから、陸上りくじょう東西とうざい交易こうえき衰退すいたいしていたが、この時期じきには、ムスリム商人しょうにん中心ちゅうしんとした海上かいじょう東西とうざい交易こうえき発達はったつした。当時とうじそう特産とくさんひんであった陶磁器とうじきから、この交易こうえき陶磁とうじみちばれる。みなみそう首都しゅとにして海上かいじょう貿易ぼうえき中心ちゅうしんみなとだった杭州こうしゅう経済けいざい都市としとしてさかえ、もと時代じだい中国ちゅうごくおとずれたマルコ・ポーロ杭州こうしゅうを「世界一せかいいち繁栄はんえいし、世界一せかいいちゆたかな都市とし」とひょうしている。

モンゴル帝国ていこく

編集へんしゅう
 
フビライ=ハン

13世紀せいき初頭しょとうモンゴル高原こうげんで、成吉せいきちおもえあせチンギス・カン)が、モンゴルのしょ部族ぶぞく統一とういつし、ユーラシア大陸たいりく各地かくちへと、征服せいふく運動うんどう開始かいしした。モンゴルは、ひがしヨーロッパロシアしょうアジアメソポタミアペルシャアフガニスタン西蔵とりぞうチベット)にいたる広大こうだい領域りょういき支配しはいし、この帝国ていこくモンゴル帝国ていこくこうむ帝国ていこく)とばれる。

モンゴル帝国ていこく各地かくち王族おうぞく漢人かんど有力ゆうりょくしゃ分封ぶんぽうした。モンゴル帝国ていこくの5代目だいめ君主くんしゅハーン)にクビライゆるがせ必烈)が即位そくいすると、これに反発はんぱつするものたちが、反乱はんらんこした。結局けっきょく、モンゴル帝国ていこく西部せいぶたいするだいハーン直轄ちょっかつ支配しはい消滅しょうめつし、だいハーンの政権せいけん中国ちゅうごくじくあしくようになった。もっとも、西方せいほう離反りはんしても、帝国ていこくとしてのゆるやかな連合れんごうたもたれ、ユーラシアには平和へいわおとずれていた。

1271ねんにクビライはもと国号こくごうとして中国ちゅうごく支配しはいをすすめた。当時とうじ黄河こうがみなみながし、山東さんとう半島はんとうみなみながれていたため、かん民族みんぞく北方ほっぽう民族みんぞく攻勢こうせいふせげなかった。華北かほくまんしゅうけいおんなしんぞくによるきむが、南部なんぶみなみそう支配しはいしていたが、きむ1234ねんみなみそう1279ねんにモンゴル帝国ていこくほろぼされた。

元朝がんちょう中国ちゅうごく支配しはい伝統でんとうてき中国ちゅうごく王朝おうちょうとはおおきくことなっていた。モンゴルじん中国ちゅうごく伝統でんとうてき統治とうち機構きこう採用さいようせず、遊牧民ゆうぼくみん政治せいじ仕組しくみを中国ちゅうごく移入いにゅうしたからである。もと支配しはい階級かいきゅう人々ひとびとは、すでに西方せいほうすぐれた文化ぶんかれていたため、中国ちゅうごく文化ぶんか批判ひはんれることはなかった。それは政治せいじにおいても同様どうようだったのである。

それにともない、伝統でんとうてき統治とうち機構きこうになってきた、儒教じゅきょうてき教養きょうようけた大夫たいふそう冷遇れいぐうされ、政権せいけんからとおざけられた。そのため、かれらはきょく小説しょうせつなどの娯楽ごらくせいつよ文学ぶんがく作品さくひん執筆しっぴつたずさわった。この時代じだいきょくもときょくばれ、中国ちゅうごく文学ぶんがく史上しじょう重要じゅうようなものとされる。また、モンゴル帝国ていこくがユーラシア大陸たいりくひろ支配しはいしたために、この時期じき東西とうざい交易こうえき前代ぜんだいしてさかんになった。

元朝がんちょうは、宮廷きゅうてい費用ひようなどを浪費ろうひしており、そのためしお専売せんばいさく紙幣しへい濫発らんぱつ収入しゅうにゅうやそうとした。しかし、これは経済けいざい混乱こんらんさせるだけであった。

あきらしん帝国ていこく

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かん民族みんぞく復興ふっこう

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モンゴルじん統治とうちした庶民しょみん生活せいかつ困窮こんきゅうしていたため、各地かくち反乱はんらん発生はっせいした。なかでも最大さいだい規模きぼのものは1351ねん勃発ぼっぱつした皇漢こうかんおこりであった。べにはばとうなかから頭角とうかくをあらわしたしゅもとあきらは、1368ねん南京なんきん皇帝こうてい即位そくいしてあきら建国けんこくした。同年どうねんしゅもとあきら元朝がんちょうくにだい陥落かんらくさせ、もと政府せいふはモンゴル高原こうげんへと撤退てったいした。撤退てったい元朝がんちょうのことを北元きたもとといい、あかり北元きたもとはしばしばあらそった。あかりがわ1388ねん北元きたもとほろんだとしょうしているが、実質じっしつてきにはその両者りょうしゃあらそいはつづいた。

ていかずだい航海こうかい

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ていかず南海なんかいだい遠征えんせいとききょかん・「宝船たからぶね

ひろしたけみかどしゅもとあきら)の死後しごまごけんぶんみかど即位そくいしたが、ひろしたけみかどよんなんであるしゅ反乱はんらんやすしなんへん)をこし、しゅ棣が永楽えいらくみかどとして皇帝こうていになった。永楽えいらくみかどは、モンゴルを攻撃こうげきするなど、積極せっきょくてき対外たいがい進出しんしゅつすすめた。また、ていかず南洋なんよう派遣はけんして、諸国しょこく朝貢ちょうこうもとめた。このときふね近年きんねん研究けんきゅうによってながさ170mあまりはば50mあまりというきょかんで、そのやく70ねんだい航海こうかい時代じだいふねの5ばいから10ばいちかふねであったことがかっている。

また、永楽えいらくみかどによって現在げんざいいたるまで世界せかい最大さいだい宮殿きゅうでんであるむらさき禁城きんじょう北京ぺきんきずかれた。

 
むらさき禁城きんじょう中心ちゅうしんふとしかず殿どの

永楽えいらくみかど死後しご財政ざいせい事情じじょうもあって、あきらうみきん政策せいさくをとり、貿易ぼうえきいちじるしく制限せいげんすることとなる。このとき永楽えいらくみかどいで、ていかずのようにずっと積極せっきょくてき海外かいがい進出しんしゅつしていれば、ヨーロッパのアジア・アフリカ支配しはい実現じつげんしなかっただろうとおおくの歴史れきし推測すいそくする。その、モンゴルがふたた勢力せいりょくつよめはじめ、1449ねんには皇帝こうていがモンゴルの捕虜ほりょになるという事件じけん土木どぼくへん)まできた。また、このころ陽明学ようめいがく出来できる。

ぎん経済けいざい発展はってんきたとりこみなみやまと

編集へんしゅう

明代あきよ後期こうきには、メキシコ日本にっぽんから大量たいりょうぎん中国ちゅうごく流入りゅうにゅうし、貨幣かへいとして基本きほんてきぎん使つかわれるようになった。そのため、政府せいふ一条いちじょうむちほうばれるぜいぎんはらわせる税法ぜいほうはじめた。また、清朝せいちょうはいると、人頭じんとうぜい廃止はいし土地とち課税かぜいのみとするひのとぎんせいはじまった。またあきらきよしりょうだいともに商品しょうひん経済けいざいさかんになり、農業のうぎょう生産せいさん向上こうじょうした。中国ちゅうごく南部なんぶ沿岸えんがんには、やまとばれる海上かいじょう無法者むほうものたちが襲撃しゅうげきかさねていた。これは、うみきん政策せいさく貿易ぼうえき自由じゆうにできなくなっていたためである。やまと寇とモンゴルを併称へいしょうして「きたとりこみなみやまと」というが、きたとりこみなみやまとあかりつよくるしめた。

あかり滅亡めつぼう

編集へんしゅう

また、皇帝こうていによる贅沢ぜいたく多額たがく軍事ぐんじ費用ひよう負担ふたん民衆みんしゅう重税じゅうぜいとなってかってきた。これにたいし、各地かくち反乱はんらんがおき、そのなか頭角とうかくをあらわしたなり1644ねんあかりほろぼした。

そのあかり皇帝こうてい一族いちぞく遺臣いしんによって南明なんめい華中かちゅう華南かなんてられたが、華北かほくから南進なんしんしてきた清朝せいちょうによって短期間たんきかんほろぼされた。南明なんめい滅亡めつぼうてい成功せいこう台湾たいわんあずまやすし王国おうこくてて清朝せいちょう抵抗ていこうしたが、こちらも短命たんめいわった。

まんしゅうぞく起源きげん中華ちゅうか支配しはい

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17世紀せいき初頭しょとうには、まんしゅうヌルハチまんしゅうぞく統一とういつした。そのホンタイジまんしゅうこうむふる征服せいふくし、1636ねんにはこうむ古人こじんから元朝がんちょうたま璽をゆずられ、清朝せいちょう建国けんこくした。なりあかりほろぼすと、清朝せいちょう軍隊ぐんたい万里ばんり長城ちょうじょうえて中国ちゅうごく本土ほんど進出しんしゅつし、なり軍隊ぐんたいやぶきゅうあかり遺臣いしんみながら中国ちゅうごく全土ぜんど支配しはいいた。

かんいぬいもり

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きよしじゅう

17世紀せいき後半こうはんから18世紀せいきにかけて、かん熙帝雍正みかどいぬいたかしみかどという3にんけんみかどもとで、清朝せいちょう支配しはい領域りょういき中国ちゅうごく本土ほんど中国ちゅうごく東北とうほく地方ちほう・モンゴルのほかに、台湾たいわんひがしトルキスタンチベットにまでおよんだ。

このきよし支配しはい領域りょういき大幅おおはばひろがった時期じきは、『よん全書ぜんしょ』の編纂へんさんなど文化ぶんか事業じぎょうさかんになった。しかし、これは学者がくしゃをこのような事業じぎょう動員どういんして、民族みんぞく支配しはい反抗はんこうするひまをなくそうとしためんもあった。

アヘン戦争せんそう中国ちゅうごくはん植民しょくみん危機きき

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フランスじんえがいた中国ちゅうごくはん植民しょくみん風刺ふうしフランスイギリスロシアドイツ日本にっぽん中国ちゅうごく分割ぶんかつしている。

18世紀せいきわるまでには、きよしとヨーロッパとの貿易ぼうえきイギリスがほぼ独占どくせんしていた。ただし、当時とうじイギリスの物産ぶっさん中国ちゅうごくれるものはほとんどなく、ぎゃく中国ちゅうごくやすちゃはイギリスの労働ろうどうしゃ階級かいきゅう中心ちゅうしんおおきな需要じゅようがあったこともあり、イギリスは貿易ぼうえき赤字あかじくるしんだ。そこで、イギリスは麻薬まやくであるアヘン中国ちゅうごく輸出ゆしゅつはじめた。結果けっか、イギリスは大幅おおはば貿易ぼうえき黒字くろじてんじ、中国ちゅうごくにはアヘン中毒ちゅうどくしゃ蔓延まんえんした。この蔓延まんえんおも清朝せいちょう政府せいふは、1839ねんはやしのりじょめいじてアヘン貿易ぼうえきまらせた。しかし、これに反発はんぱつしたイギリス政府せいふきよしたいしてよく1840ねん宣戦せんせん布告ふこくした。アヘン戦争せんそうばれるこの戦争せんそうでは、工業こうぎょうをとげ、近代きんだい兵器へいきっていたイギリスぐん勝利しょうりした。これ以降いこう、イギリスをはじめとするヨーロッパ列強れっきょうきよしたいし、治外法権ちがいほうけん承認しょうにん関税かんぜい自主権じしゅけん喪失そうしつかたつとむてき最恵国さいけいこく待遇たいぐう承認しょうにん開港かいこう租借そしゃく設置せっちといった不平等ふびょうどう条約じょうやく締結ていけつさせ、中国ちゅうごくはん植民しょくみんすすんだ。また、不平等ふびょうどう条約じょうやく締結ていけつ過程かていきよしは、そとまんしゅうトルキスタン香港ほんこんとうきゅうりゅう半島はんとうマカオひとし自国じこく支配しはい地域ちいき列強れっきょう割譲かつじょうさせられた。

国内こくないてきには、太平たいへい天国てんごくらんなどの反乱はんらんもしばしばきた。これにたいし、どうみかど在位ざいい1861ねん - 1875ねん)の治世ちせいもとで、ヨーロッパの技術ぎじゅつれ(ようつとむ運動うんどう)がおこなわれた。

にちしん戦争せんそうひかりいとぐち新政しんせい

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1894ねんからよく1895ねんにかけてきよし日本にっぽんとのあいだおこなわれたにちしん戦争せんそうにもきよし敗退はいたいした。これはようつとむ運動うんどう失敗しっぱい意味いみするものであった。この戦争せんそう結果けっか伊藤いとう博文ひろぶみ陸奥むつ宗光むねみつ日本にっぽん鴻章こうしう代表だいひょうとする清朝せいちょうとのあいだ下関しものせき条約じょうやくむすばれ、きよし台湾たいわん日本にっぽん割譲かつじょうしたほか朝鮮ちょうせん独立どくりつみとめた。これにより、中国ちゅうごく歴代れきだい王朝おうちょう長年ながねんつづけてきたさつふう体制たいせい崩壊ほうかいした。

その清朝せいちょう改革かいかくすすめようとしたものの、沿岸えんがん地域ちいき租借そしゃくとされるなどのイギリス・フランスロシアドイツアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく日本にっぽんによるはん植民しょくみんうごきはまらなかった。

中華民国ちゅうかみんこく

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からし革命かくめい

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1911ねん10月のたけあきらでの軍隊ぐんたい蜂起ほうきをきっかけにからし革命かくめいこり、華中かちゅう華南かなん中心ちゅうしんとした各省かくしょうきよしからの独立どくりつ宣言せんげんした。11月袁世凱清国きよくに内閣ないかく総理そうり大臣だいじん就任しゅうにんし、革命かくめいぐん鎮圧ちんあつにあたった。12月革命かくめいぐんがわが、南京なんきん占領せんりょうする。同月どうげつ清国きよくに政府せいふ独立どくりつ各省かくしょうとのあいだ停戦ていせん成立せいりつした。よく1912ねん1がつ1にち革命かくめい首領しゅりょうまごぶんによって南京なんきん中華民国ちゅうかみんこく臨時りんじ政府せいふ樹立じゅりつ宣言せんげんされ、まごぶん臨時りんじだい総統そうとう就任しゅうにんした。これにより、中国ちゅうごく北京ぺきん清国きよくに政府せいふ南京なんきん中華民国ちゅうかみんこく政府せいふ南北なんぼくりょう政府せいふ並立へいりつ状態じょうたいとなる。清国きよくに政府せいふの袁世凱およ南京なんきん政府せいふ臨時りんじ参議院さんぎいん意向いこうにより、北京ぺきんにいた清朝せいちょう皇帝こうてい溥儀ふぎせんすべみかど)は2がつ12にち退位たいいし、清朝せいちょうとも中華ちゅうか王朝おうちょう終焉しゅうえんした。3がつ10日とおかには、南京なんきん政府せいふ合意ごういもとで袁世凱が臨時りんじだい総統そうとう就任しゅうにんした。

少数しょうすう民族みんぞく動向どうこう

編集へんしゅう

からし革命かくめいにより清国きよくに消滅しょうめつすると、その旧領きゅうりょうめぐって中華民国ちゅうかみんこく中国ちゅうごく)と西蔵とりぞうチベット)・そとこうむモンゴル)・しん疆(ひがしトルキスタン)のかく勢力せいりょくあいだ対立たいりつ発生はっせいした。

中華民国ちゅうかみんこくは、きよし継承けいしょうこくとして滅亡めつぼう時点じてんきゅうしんりょう全域ぜんいき領有りょうゆうけん主張しゅちょうした。これにたいして、西蔵とりぞうそとこうむしん疆は、自分じぶんたちは清朝せいちょう皇帝こうてい服属ふくぞくしていたのであって中国ちゅうごくという国家こっか帰属きぞくするものではなく、服属ふくぞくさききよしみかど退位たいい中国ちゅうごく対等たいとう国家こっかであると主張しゅちょうしてそれぞれ領域りょういき独立どくりつ目指めざうごきをつよめた。

チベットの独立どくりつ運動うんどう

当時とうじのチベットの中心ちゅうしんだったポタラみやでは、ダライ・ラマ補佐ほさしていたパンチェン・ラマ親中しんちゅうてきであったために、イギリス接近せっきんするダライ・ラマに反発はんぱつし、1925ねん中国ちゅうごく亡命ぼうめいした。1933ねんダライ・ラマ13せい死去しきょすると、中国ちゅうごく統治とうちにあったチベット東北とうほくアムド地方ちほう青海あおみしょう)でまれたダライ・ラマ14せい即位そくい式典しきてん国民こくみん政府せいふ使節しせつだん列席れっせきしたが、式典しきてん終了しゅうりょうしたのちこうむぞう委員いいんかいちゅうぞうべんごとしょ自称じしょうしてラサとどまった。1936ねんには、ちょうただしなか中国共産党ちゅうごくきょうさんとうべにぐんカム地方ちほう東部とうぶ西にしやすししょう)に滞留たいりゅうちゅう同地どうちチベットじんに「チベット人民じんみん共和きょうわこく」(ひろしともえ人民じんみん共和きょうわこく)を組織そしきさせたが、べにぐん退出たいしゅつとともに、ほどなく消滅しょうめつした。

モンゴルの独立どくりつ成功せいこう

1913ねん、モンゴルではボグド・ハーンによって、チベットではダライ・ラマ13せいよって中国ちゅうごくからの独立どくりつ宣言せんげんされ、両者りょうしゃモンゴル・チベット相互そうご承認しょうにん条約じょうやく締結ていけつするとう国際こくさいてき承認しょうにんもとめ、これをみとめない中華民国ちゅうかみんこくとは戦火せんかまじえた。この状況じょうきょうは、モンゴルいきへの勢力せいりょく浸透しんとうをはかるロシア、チベットいきへの進出しんしゅつをねらうイギリスの介入かいにゅうゆるし、モンゴルについてはこうむ中華民国ちゅうかみんこくキャフタ協定きょうてい調印ちょういん批准ひじゅんして一応いちおう解決かいけつができた。だが、チベットについては、西にしえいシムラ条約じょうやく調印ちょういん批准ひじゅんしたものの中華民国ちゅうかみんこく調印ちょういん拒否きょひしたため問題もんだい解決かいけつにはいたらなかった。

この問題もんだい最終さいしゅうてきに、モンゴルについてはそとこうむふる部分ぶぶんのみの独立どくりつ1946ねん国民こくみん政府せいふ承認しょうにんすることによって、チベットについては1951ねん締結ていけつじゅうななヶ条かじょう協定きょうていによってチベットの独立どくりつ否定ひていチベットじん自治じちけん確保かくほガンデンポタン中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく確認かくにんしたことによって、一応いちおう決着けっちゃくをみた。

ひがしトルキスタンの動乱どうらん

ひがしトルキスタン(しん疆)では、19世紀せいきなか統治とうち機構きこう中国ちゅうごく達成たっせいされていた。すなわち、はたじんの3将軍しょうぐんによる軍政ぐんせい地元じもとムスリムによるベクかんじんせいわり、しん疆省頂点ちょうてんとして省内しょうないしゅうけん行政ぎょうせい区画くかくしたかく地方ちほう漢人かんど科挙かきょ官僚かんりょう派遣はけんして統治とうちする体制たいせいである。そのため、からし革命かくめいひがしトルキスタンでは地元じもとムスリムがチベットやモンゴルと歩調ほちょうをあわせて自身じしん独立どくりつ国家こっか形成けいせいしようとするうごきはみられず、しん疆省の当局とうきょくしゃたちすみやかにしん共和きょうわこく合流ごうりゅうする姿勢しせいしめした。

このでは、楊増しん自立じりつてき政権せいけん維持いじし、またソビエト連邦れんぽう独自どくじ難民なんみん貿易ぼうえき問題もんだいについて交渉こうしょうした。楊増しん暗殺あんさつきむいつきひとし実権じっけんにぎったが、かれ重税じゅうぜいして腐敗ふはいした政治せいじおこなったため1931ねんにはだい規模きぼ内乱ないらん状態じょうたいおちいった。そのきむいつきじん部下ぶかであったもり世才せさい実権じっけんにぎるようになり、かれソ連それんならった政策せいさくして徐々じょじょ権力けんりょく強化きょうかした。一方いっぽうで、ウイグルじん主体しゅたいとなって1933ねん1934ねん1944ねん1946ねんひがしトルキスタン共和きょうわこく独立どくりつ宣言せんげんされたが、いずれもしん疆省ない一部いちぶ地域ちいき支配しはいするにまった。

袁世凱の台頭たいとうみかどせい運動うんどう

編集へんしゅう
 
袁世凱

中華民国ちゅうかみんこく成立せいりつ1913ねん2がつ国会こっかい議員ぎいん選挙せんきょ実施じっしされ国民党こくみんとう圧勝あっしょうした。3月、議会ぎかいからの圧力あつりょく警戒けいかいした袁世凱は国民党こくみんとうそうきょうひとし暗殺あんさつした。袁世凱は進歩しんぽとう組織そしき国会こっかいないでの勢力せいりょく拡大かくだいはかり、議会ぎかい主義しゅぎてき国民党こくみんとう勢力せいりょく削減さくげんくわだてた。国民党こくみんとう急進きゅうしんはこれに反発はんぱつし、だい革命かくめいこしたが鎮圧ちんあつされた。1913ねん10月に袁は正式せいしきだい総統そうとうとなり、さらに11月には国民党こくみんとう非合法ひごうほうし、解散かいさんめいじた。1914ねん1がつには国会こっかい廃止はいし、5月1にちには立法府りっぽうふ権限けんげんよわだい総統そうとう権力けんりょく大幅おおはば強化きょうかした中華民国ちゅうかみんこくやくほう公布こうふした。

袁は列強れっきょうから多額たがく借款しゃっかんけて積極せっきょくてき軍備ぐんび強化きょうか経済けいざい政策せいさく着手ちゃくしゅした。当初とうしょ列強れっきょうの袁政けんたいする期待きたいたかかった。しかしこのような外国がいこく依存いぞん財政ざいせいは、のち列強れっきょうによる中国ちゅうごくはん植民しょくみんをますますすすめることにもなった。だいいち世界せかい大戦たいせんはじまると、新規しんき借款しゃっかんのぞみがなくなったため、袁は財政ざいせいてきまった。またどう時期じき日本にっぽん中国ちゅうごくでの権益けんえき拡大かくだい積極せっきょくてきうごいた。

1915ねん5月9にちに、袁が大隈おおくま重信しげのぶ内閣ないかく21ヶ条かじょう要求ようきゅうけたことはおおきな外交がいこうてき失敗しっぱいられ、同日どうじつくにはじ記念きねんとされ袁の外交がいこう姿勢しせいはげしく非難ひなんされた。袁は独裁どくさい強化きょうかすることでこの危機ききえようとし、立憲りっけん君主くんしゅせいてき皇帝こうてい制度せいど移行いこうし、自身じしん皇帝こうていとなることのぞんだ。日本にっぽん立憲りっけん君主くんしゅせいには当初とうしょ賛成さんせいしていたようだが、中国ちゅうごく国内こくないみかどせい反対はんたい運動うんどう激化げきかすると反対はんたいてん外交がいこう圧力あつりょくをかけた。12月に袁世凱は中華ちゅうか帝国ていこく皇帝こうていとなるが、同月どうげつちゅうみかどせい反対はんたいする蔡鍔れつひとしからつぎたかし下野げや雲南うんなんしょう独立どくりつ宣言せんげんして北京ぺきん政府せいふ反旗はんきひるがえした(護国ごこく戦争せんそう)。

1916ねん3がつに袁は中華ちゅうか帝国ていこく廃止はいしし、1916ねんに袁は失意しついのうちにぼっした。だいだいだい総統そうとうふく総統そうとうはじむもとひろし就任しゅうにんし、ふく総統そうとう馮国あきらを、4がつにはだん祺瑞国務こくむ総理そうり任命にんめいした。

袁世凱死政局せいきょく

編集へんしゅう

だん祺瑞は当初とうしょ国会こっかい[† 3]国民党こくみんとう議員ぎいんなどと提携ていけいし、調整ちょうせいてき政策せいさくをとっていた。しかし、だいいち世界せかいせんたいどく参戦さんせんしようとしたため徐々じょじょ国会こっかい対立たいりつした。だん日本にっぽん援助えんじょした強硬きょうこう政策せいさく断行だんこうした。1917ねん8がつ14にちだんだいいち世界せかい大戦たいせんたいどく参戦さんせんし、同時どうじ軍備ぐんび拡張かくちょうして国内こくない統一とういつすすめた。鉄道てつどう通信つうしんひとし業界ぎょうかい背景はいけいとする利権りけん集団しゅうだんささえられただんは、1918ねんには国会こっかい議員ぎいん改定かいてい選挙せんきょ強行きょうこうした。国民党こくみんとうはこれにはげしく対立たいりつし、南方なんぽう地方ちほうぐんとともにまごぶん首班しゅはんとする広東かんとんぐん政府せいふをつくった。

5月にだん日本にっぽんにちちゅう軍事ぐんじ協定きょうてい[† 4]むすんだが、寺内てらうち正毅まさき内閣ないかく失脚しっきゃく日本にっぽん外交がいこう方針ほうしん転回てんかいすると急速きゅうそく没落ぼつらくした。だん安徽あんき対立たいりつ関係かんけいにあったちょく隷派馮国あきらじょあきらだい総統そうとう推薦すいせんし、だんもこれをれた。これにより親日しんにちてき安徽あんき徐々じょじょ影響えいきょうりょくうしない、1919ねん5月4にちには山東さんとう半島はんとうでの主権しゅけん回復かいふく反日はんにちうったえるデモ行進こうしんはじまった。これをよん運動うんどうう。なお、山東さんとう半島はんとう1922ねん返還へんかんされた。1920ねん7がつ安直あんちょく戦争せんそうちょく隷派にやぶれたことでだん失脚しっきゃくし、たてまつちょく戦争せんそうちょうさく北京ぺきん政府せいふ実権じっけん掌握しょうあくした。

 
革命かくめいまごぶん

国民こくみん革命かくめい蜂起ほうき

編集へんしゅう
 
あまみなと事件じけん中国ちゅうごくぐん支援しえんけた赤軍せきぐん攻撃こうげきによりちた日本にっぽん領事館りょうじかん(1920ねん

袁世凱により国民党こくみんとう非合法ひごうほうされたのちまごぶん1914ねん7がつ中華ちゅうか革命かくめいとう東京とうきょう結成けっせいした。1919ねんには拠点きょてん上海しゃんはいうつし、中国ちゅうごく国民党こくみんとう改称かいしょうした。1921ねんには上海しゃんはい中国共産党ちゅうごくきょうさんとう成立せいりつした。これらの政党せいとう1918ねんロシア革命かくめい影響えいきょうけており、議会ぎかい政党せいとうというよりも明確めいかく計画けいかくせい組織そしきせいそなえた革命かくめい政党せいとう目指めざした。1924ねん国民党こくみんとうだいいちかい全国ぜんこく大会たいかいおこない、とう組織そしき改編かいへんするとともに共産党きょうさんとうとの合同ごうどうだいいち国共こっきょう合作がっさく)をした。まごぶんはこのころまった機能きのうしていなかった国会こっかいわって国内こくない団体だんたい代表だいひょうによる国民こくみん会議かいぎ提唱ていしょうし、これに呼応こおうした馮国あきらにより北京ぺきんむかえられた。1925ねんには国民こくみん会議かいぎ促成そくせいかいひらかれたが、この会期かいきちゅうまごぶんぼっした。7月には広東かんとんぐん政府せいふ機構きこう再編さいへんすすみ、中華民国ちゅうかみんこく国民こくみん政府せいふ成立せいりつ宣言せんげんされた。一方いっぽう1924ねん6がつには蔣介せき校長こうちょうとして黄埔軍こうほぐんかん学校がっこう設立せつりつされた。1925ねん4がつ国民こくみん革命かくめいぐん正式せいしき発足ほっそくされ、国民党こくみんとうは蔣介せき指導しどうしゃとして軍事ぐんじてき革命かくめい路線ろせんすすめることとなった。

1926ねん7がつに蔣介せき広州こうしゅうからきた開始かいししたが9がつイギリスぐんによってまんけん市街しがい砲撃ほうげきされる事件じけんきた(まんけん事件じけん)。1927ねん1がつには武漢ぶかん政府せいふうつし、武漢ぶかん国民こくみん政府せいふばれるようになった。この武漢ぶかん国民こくみん政府せいふでは当初とうしょ国民党こくみんとう左派さは共産党きょうさんとう優位ゆういにあったが、同年どうねん3がつ南京なんきん事件じけん発生はっせいするとしょ外国がいこく緊張きんちょう状態じょうたいおちいった蔣介せきは4がつ12にち上海しゃんはいクーデターこしてこれらを弾圧だんあつし、4がつ18にちには反共はんきょう前面ぜんめんした南京なんきん国民こくみん政府せいふ別個べっこ成立せいりつさせた(やすしかん分裂ぶんれつ)。南京なんきん国民こくみん政府せいふおも上海しゃんはいけい資本しほん浙江せっこう財閥ざいばつ)にささえられ、北京ぺきん武漢ぶかん南京なんきんに3つの政権せいけん鼎立ていりつすることになったが、9がつごろから武漢ぶかん政府せいふ反共はんきょうてんじ、南京なんきん政府せいふ吸収きゅうしゅうされた。

1928ねん6がつには南京なんきん政府せいふ国民こくみん革命かくめいぐん北京ぺきん政府せいふ打倒だとうし、東北とうほく軍閥ぐんばつちょうさく奉天ほうてん近郊きんこう日本にっぽん関東軍かんとうぐんにより爆殺ばくさつされた(ちょうさく爆殺ばくさつ事件じけん)。これをけ、12月に息子むすこちょうまなぶりょう南京なんきん政府せいふ承認しょうにんえきのぼり)したことから、国民こくみん政府せいふによって中国ちゅうごく政権せいけんふたた統合とうごうされた。

西欧せいおう諸国しょこく慈善じぜん事業じぎょうねて、中国ちゅうごく様々さまざまインフラストラクチャー投資とうしおこなっており、大学だいがくなどの教育きょういく機関きかん219、医療いりょう機関きかん96、図書館としょかん9、博物館はくぶつかん6、およ天文台てんもんだい1、孤児こじいんとう福祉ふくし施設しせつ55、また上海しゃんはい競馬けいば倶楽部くらぶなど国際こくさいレクリエーション施設しせつ欧米おうべい諸国しょこくによって設立せつりつされていた[2]日本にっぽん企業きぎょう米国べいこく企業きぎょう合弁ごうべん会社かいしゃによるまんてつ総合そうごう病院びょういんもあった。

国民党こくみんとう独裁どくさい統一とういつへのみち

編集へんしゅう
 
蔣介せき

国民こくみん政府せいふにおいては基本きほんてき国民党こくみんとういちとう独裁どくさい立場たちばつらぬかれた。しかし一般いっぱん党員とういんかずは50まんにん以下いかであったとされており、人口じんこうが4おくえると推測すいそくされていた中国ちゅうごく国民こくみんなかではかなり少数しょうすうであった(そもそもだい多数たすう国民こくみんが「国民こくみん」として登録とうろくされておらず、さら文盲もんもうものおおかった)。そのため支配しはい基盤きばん完全かんぜんとは程遠ほどとおく、土地とちぜい中心ちゅうしんとして地方ちほう政権せいけん財源ざいげん確保かくほするくにぶん政策せいさく実施じっしされ、かつての軍閥ぐんばつによる割拠かっきょてき傾向けいこうがいまだにつよ地方ちほう勢力せいりょく配慮はいりょするようなこともなされた。


1929ねんにはソ連それんぐんうちまんしゅう侵攻しんこうし(ちゅう紛争ふんそう)、ハバロフスク議定ぎていしょむすばれるとソビエト連邦れんぽう影響えいきょうりょくつよまった。1930年代ねんだい前半ぜんはんには国民こくみん政府せいふ叛旗はんきひるがえかたち地方ちほう政権せいけん樹立じゅりつされるれいおおくなり、軍事ぐんじ衝突しょうとつなどもきた。1930ねん閻錫やまひろしちょうめい中心ちゅうしんとなった北平きたひら政府せいふや、1931ねんまごらが設立せつりつした広州こうしゅう政府せいふとうである。

ただし此のような軍事ぐんじてき緊張きんちょう国民こくみん政府せいふ中央ちゅうおうぐん掌握しょうあくしていた蔣介せき立場たちばをより強固きょうこにすることにもなった。蔣介せき経済けいざい政策せいさく[† 5] でも手腕しゅわん発揮はっきして影響えいきょうりょくし、中国ちゅうごく南京なんきん国民こくみん政府せいふ樹立じゅりつからにちちゅう戦争せんそう勃発ぼっぱつまでのあいだ黄金おうごんじゅうねん中国語ちゅうごくごばんばれる発展はってんむかえた。

まんしゅうこく成立せいりつ

編集へんしゅう
 
大満だいましゅう帝国ていこく皇帝こうていあいしんさとし溥儀ふぎ

ちょうさく関東軍かんとうぐん爆殺ばくさつされたのちいだちょうまなぶりょう国民こくみん革命かくめい支持しじしており、自身じしん支配しはいしていたまんしゅう国民こくみん政府せいふ合流ごうりゅうさせた(えきのぼり)。このため反日はんにち運動うんどうまんしゅうにもひろがったが、日本にっぽんにち戦争せんそう以降いこう獲得かくとくしたうちまんしゅうにおける権益けんえき維持いじしようとしていたためにこれにおおきく反発はんぱつした。1931ねん9月、まんしゅう事変じへんこると、関東軍かんとうぐん日本にっぽん政府せいふ当時とうじ若槻わかつき禮次郎れいじろう首相しゅしょうだい若槻わかつき内閣ないかく)の意向いこう無視むししてだい規模きぼ武力ぶりょく行動こうどうおこない、うちまんしゅう占領せんりょうした。しかし、列強れっきょうはこれを傍観ぼうかんする姿勢しせいをとったので、日本にっぽん政府せいふはこの行動こうどう追認ついにんした。

まんしゅう事変じへんけ、中国ちゅうごく政府せいふ日本にっぽんうちまんしゅう占領せんりょう国際こくさい連盟れんめい提訴ていそし、1932ねん3がつ国際こくさい連盟れんめいからリットン調査ちょうさだん派遣はけんされた。関東軍かんとうぐんどう時期じきまんしゅうこく樹立じゅりつしてうちまんしゅう中国ちゅうごくからの分離ぶんりすすめたが、1933ねん2がつ国際こくさい連盟れんめい総会そうかい付議ふぎされ成立せいりつした最終さいしゅう報告ほうこくしょでは、日本にっぽんうちまんしゅうにおける特殊とくしゅ権益けんえき確認かくにんしたうえきゅうカ国かこく条約じょうやく原則げんそくもとづきないまんしゅう中国ちゅうごく帰属きぞくすると認定にんていされた。ただし、日本にっぽん最終さいしゅう報告ほうこくしょ成立せいりつ不服ふふくとして国際こくさい連盟れんめい脱退だったいしたため関東軍かんとうぐんうちまんしゅう占領せんりょうかず、日本にっぽんうちまんしゅうにおける軍事ぐんじ行動こうどう1933ねん5月ににちちゅうあいだ停戦ていせん協定きょうてい塘沽協定きょうてい)がむすばるまでつづいた。

その1934ねんにはまんしゅうこくみかどせい移行いこうした。

にちちゅう対立たいりつ激化げきか

編集へんしゅう

1931ねんみずきん中華ちゅうかソビエト共和きょうわこく樹立じゅりつしていた中国共産党ちゅうごくきょうさんとうまんしゅうこく建国けんこく日本にっぽん宣戦せんせん布告ふこくしていたが、国民党こくみんとうとのこうそう国共こっきょう内戦ないせん)にいそがしく、中国ちゅうごく国民こくみん一致いっちして日本にっぽん侵攻しんこうかうことはできなかった。1934ねんにはみずきん国民党こくみんとう攻勢こうせいにより陥落かんらくし、打撃だげきけた中国共産党ちゅうごくきょうさんとうちょうただししょうして西部せいぶ移動いどうし、組織そしき再編さいへんをはかった。ちょうせい結果けっか中国共産党ちゅうごくきょうさんとうのべやす拠点きょてんうつした。

まんしゅう事変じへんうちまんしゅうをほぼ制圧せいあつした日本にっぽんぐんは、列強れっきょう注目ちゅうもくうちまんしゅうからそらすこと目的もくてきひとつとして1932ねん1がつだいいち上海しゃんはい事変じへんこした。事変じへんは5月に上海しゃんはい停戦ていせん協定きょうてい調印ちょういんして終結しゅうけつしたが、調印ちょういん直前ちょくぜん上海しゃんはい天長節てんちょうせつばくだん事件じけん発生はっせいした。

にちちゅう戦争せんそう

編集へんしゅう

1937ねんには、盧溝橋ろこうきょう事件じけんだい上海しゃんはい事変じへん中華民国ちゅうかみんこくぐんによるとおりしゅう事件じけんなどにより在留ざいりゅう邦人ほうじんやその守備しゅびたい攻撃こうげきされたことから、日本にっぽんぐん中国ちゅうごく本土ほんど在留ざいりゅう邦人ほうじん保護ほごのために部隊ぶたい派遣はけんした。これにより中華民国ちゅうかみんこく全面ぜんめん戦争せんそうはいった(にちちゅう戦争せんそう当時とうじ日本にっぽんがわ呼称こしょうささえ事変じへん)。これにたいし、蔣介せき当初とうしょ日本にっぽんとのたたかいよりも中国共産党ちゅうごくきょうさんとうとのたたかいを優先ゆうせんしていたが、西安しーあん事件じけんにより、ふたつの政党せいとう協力きょうりょくして日本にっぽん戦闘せんとうまじえることになった(だい国共こっきょう合作がっさく)。

 
カイロ会談かいだん出席しゅっせきした蔣介せきアメリカフランクリン・ルーズベルト大統領だいとうりょうイギリスウィンストン・チャーチル首相しゅしょう

しかし、にちちゅう戦争せんそう当初とうしょ日本にっぽんぐん優位ゆういすすみ、日本にっぽんぐん多数たすう都市とし占領せんりょうしたが、かく拠点きょてん支配しはいはできても広大こうだい中国ちゅうごくにおいて大陸たいりくめんでの支配しはいはできず、これを利用りようした国民党こくみんとうぐん共産党きょうさんとうぐんともに各地かくちでゲリラせんおこな日本にっぽんぐんくるしめ、戦線せんせん膠着こうちゃくさせた。日本にっぽんひろしちょうめい国民党こくみんとう左派さは懐柔かいじゅうし、南京なんきん国民こくみん政府せいふ樹立じゅりつさせたが、国内外こくないがいともに支持しじられなかった。また、南京なんきん事件じけんこった。くわえて1941ねん12月、日本にっぽんアメリカイギリス連合れんごうこく)とも戦端せんたんひらいたが(太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)、一方いっぽう中国ちゅうごくおおくの戦力せんりょく釘付くぎづけにされるなど、くるしい状況じょうきょうまされた。国民党こくみんとう政府せいふ連合れんごうこくがわ所属しょぞくし、アメリカやイギリスなどから豊富ほうふ援助えんじょけることとなった(援蔣ルート)。

1945ねん8がつ日本にっぽん政府せいふポツダム宣言せんげん受諾じゅだくとともに日本にっぽんぐん降伏ごうぶくすることでたいにち戦争せんそう終結しゅうけつした(日本にっぽん降伏ごうぶく)。また、8がつ14にちにはちゅう友好ゆうこう同盟どうめい条約じょうやく締結ていけつする。国民党こくみんとう政府せいふ連合れんごうこくの1こくとしておおきな地位ちいめていたこともあり、戦勝せんしょうこくとして有利ゆうり立場たちばゆうすることとなり、日本にっぽんだけでなくヨーロッパ諸国しょこく香港ほんこんマカオのぞ租界そかい返還へんかんするなど、中国ちゅうごくはん植民しょくみんわりをせた。

日本にっぽんとの戦争せんそう終結しゅうけつすると国民党こくみんとう共産党きょうさんとうとの対立たいりつ激化げきかしてふたた国共こっきょう内戦ないせんはじまった。

中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく中華民国ちゅうかみんこく並立へいりつ

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中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつ

編集へんしゅう

アメリカからの支援しえん減少げんしょうした国民党こくみんとうたいして、ソビエト連邦れんぽうからの支援しえんけていた中国共産党ちゅうごくきょうさんとう勝利しょうりし、1949ねん10月1にち中国共産党ちゅうごくきょうさんとう主席しゅせき毛沢東もうたくとう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつ宣言せんげんした。内戦ないせんやぶれた国民党こくみんとうひきいる中華民国ちゅうかみんこく政府せいふ台湾たいわんとう撤退てったいし、現在げんざいいたるまで大陸たいりく統治とうちする中国共産党ちゅうごくきょうさんとうひきいる中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくと「中国ちゅうごく代表だいひょうする正統せいとう政府せいふ」の地位ちいあらそっている。

社会しゃかい主義しゅぎ冷戦れいせんでの共産きょうさんがわへの参加さんか

編集へんしゅう
 
建国けんこく宣言せんげん」をおこなう毛沢東もうたくとう

1950ねんソビエト連邦れんぽうちゅう友好ゆうこう同盟どうめい相互そうご援助えんじょ条約じょうやく締結ていけつした。これは、日本にっぽんおよびその同盟どうめいこくおもに、アメリカす)との戦争せんそう想定そうていしてなされたものである。この条約じょうやくソ連それん租借そしゃくしていた大連たいれん旅順りょじゅん返還へんかんされ、ソ連それん経済けいざい援助えんじょした復興ふっこう目指めざすこととなった。条約じょうやく締結ていけつにより、中国ちゅうごく軍事ぐんじじょうたい依存いぞんつよくなった。この時代じだい中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくソ連それんのアメリカにたいする緩衝かんしょう国家こっかあるいは衛星えいせい国家こっかとみなすことも可能かのうである。しかし、徐々じょじょにデタント政策せいさくへと転回てんかいはじめていたソ連それん対外たいがい政策せいさくは、中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政府せいふ中華民国ちゅうかみんこく台湾たいわん実効じっこう統治とうち政府せいふ)にたいする強硬きょうこう政策せいさくあきらかに矛盾むじゅんしていた。

1954ねんより社会しゃかい主義しゅぎすすみ、中国ちゅうごく人民じんみん政治せいじ協商きょうしょう会議かいぎわって全国ぜんこく人民じんみん代表だいひょう大会たいかい全人代ぜんじんだい)が成立せいりつ農業のうぎょう生産せいさん合作がっさくしゃ組織そしきされた。

反動はんどう粛清しゅくせい

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ソ連それんヨシフ・スターリン死後しご1956ねんフルシチョフによって「スターリン批判ひはん」がおこなわれると、東欧とうおう社会しゃかい主義しゅぎこく東側ひがしがわ諸国しょこく)に動揺どうようがはしった。中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政府せいふ共産きょうさんけんにあるくにとしてこの問題もんだいへの対処たいしょせまられ、このとしはじめて開催かいさいされたとう全国ぜんこく代表だいひょう大会たいかいでは、「毛沢東もうたくとう思想しそう」という文言もんごんとう規約きやくからえた。そして、2ヶ月かげつわたり「百花ひゃっかひとし百家はっけそう」としょうして中国ちゅうごく民主党みんしゅとうなどの「ブルジョワ政党せいとう」の政治せいじ参加さんかこころみられた。しかし、ブルジョワ政党せいとう中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政府せいふによるいちとう独裁どくさいたいしてはげしい批判ひはん噴出ふんしゅつさせたため、ぎゃく共産党きょうさんとうによるはん右派うは闘争とうそう惹起じゃっきし、いちとう支配しはい体制たいせいつよめられた。

だい躍進やくしん政策せいさく

編集へんしゅう

1958ねんに、毛沢東もうたくとう共産党きょうさんとう主席しゅせきだい躍進やくしん政策せいさく開始かいしし、人民公社じんみんこうしゃ推進すいしんした。当初とうしょはかなりの効果こうかをあげたかにえた人民公社じんみんこうしゃであったが、とう幹部かんぶ意識いしきした誇大こだい報告ほうこく存在そんざい極端きょくたん労働ろうどう平均へいきんなどの問題もんだい開始かいし3ヶ月かげつにしてすでに報告ほうこくされていた。毛沢東もうたくとうはこのような報告ほうこく右派うはてき日和見ひよりみ主義しゅぎであり、過渡かとてき問題もんだいぎないとていたため、反対はんたい意見いけん封殺ふうさつしたが、あまりに急速きゅうそく人民公社じんみんこうしゃ都市とし人口じんこう異様いよう増大ぞうだいなど深刻しんこく問題もんだいこしていた。

1959ねん1960ねんには、だい躍進やくしん政策せいさく失敗しっぱい天災てんさいかさなり、だい規模きぼ飢饉ききん中国ちゅうごくおそい、すくなくとも2000まんにん(『岩波いわなみ現代げんだい中国ちゅうごく事典じてん』によれば3000まんにん。2000まんから2おくにん以上いじょうとのせつもある)とわれる餓死がししゃし(中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくだい飢饉ききんだい躍進やくしん政策せいさく失敗しっぱいわった。1960年代ねんだい初頭しょとうには人民公社じんみんこうしゃ縮小しゅくしょうがおこなわれ、毛沢東もうたくとう自身じしん自己じこ批判ひはんをおこなうなど、一見いっけん調整ちょうせいてき時期じきはいったようにおもわれた。劉少奇りゅうしょうき国家こっか主席しゅせきだい25ヶ年かねん計画けいかく失敗しっぱい人民公社じんみんこうしゃによる分権ぶんけんてき傾向けいこうにあると指摘してきし、中央ちゅうおう集権しゅうけん目指めざした政治せいじ改革かいかく個人こじん経営けいえい一部いちぶみとめるなど官僚かんりょう主義しゅぎてき経済けいざい調整ちょうせいをおこなった。

ちゅう論戦ろんせんたい自立じりつ

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一方いっぽうでこのとし中国ちゅうごく台湾たいわん海峡かいきょう台湾たいわん中華民国ちゅうかみんこく)にたいしてだい規模きぼ軍事ぐんじ行動こうどうこし、アメリカぐん介入かいにゅうまねいた。フルシチョフは中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政府せいふ強硬きょうこう姿勢しせい非難ひなんし、また自国じこくがアメリカとの全面ぜんめん戦争せんそうきずりまれないように努力どりょくした。ソ連それんワルシャワ条約じょうやく機構きこうひがしアジアばんともいうべきなかソの共同きょうどう防衛ぼうえい体制たいせい提案ていあんしたが、中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政府せいふソ連それん対外たいがい政策せいさくへの不信ふしんからこれをことわった。その1959ねん6がつソ連それんちゅう協定きょうてい一方いっぽうてき破棄はきした。1960ねんには経済けいざい技術ぎじゅつ援助えんじょ条約じょうやくられ、このとし中国ちゅうごくのGNP(国民総生産こくみんそうせいさん)は1%も下落げらくした。

ただし、とう組織そしき中央ちゅうおう集権しゅうけん個人こじん経営けいえい懐疑かいぎてきであった毛沢東もうたくとうはこれを修正しゅうせい主義しゅぎおちいるものであるとていた。1963ねん毛沢東もうたくとうは「社会しゃかい主義しゅぎ教育きょういく運動うんどう」を提唱ていしょうし、下部かぶ構造こうぞうである「農村のうそん基層きそう組織そしきの3ぶんの1」は地主じぬしやブルジョワ分子ぶんしによって簒奪さんだつされているとべた。これは、劉少奇りゅうしょうきら「実権じっけん」をあん批判ひはんするものであった。また、このころ毛沢東もうたくとうは「文芸ぶんげいせいふう運動うんどうしょうして学術がくじゅつかい芸術げいじゅつかい刷新さっしん計画けいかくしていたことも、のちの文化ぶんかだい革命かくめい伏線ふくせんとなった。1964ねん中国ちゅうごくかく実験じっけん成功せいこうし、軍事ぐんじてき自立じりつおおきないちした。一方いっぽうで、1965ねんにアメリカによるきたばくはじまりベトナム戦争せんそう本格ほんかくすると、軍事ぐんじてき緊張きんちょうたかまった。

1965ねん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくCONEFO加盟かめいした。

チベットでは独立どくりつ運動うんどうたかまったが、政府せいふはこれを運動うんどうたいする拷問ごうもんなど暴力ぼうりょくによって弾圧だんあつした。このため多数たすう難民なんみんがインドへ流入りゅうにゅうした。

文化ぶんかだい革命かくめい

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天安門てんあんもん広場ひろば中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく時代じだいにもおおくの歴史れきし舞台ぶたいとなった

1966ねん毛沢東もうたくとう文化ぶんかだい革命かくめい提唱ていしょうした。毛沢東もうたくとう指示しじによって中央ちゅうおう文化ぶんか革命かくめいしょうぐみ設置せっちされ、北京ぺきん青少年せいしょうねんによって革命かくめい賛同さんどうする組織そしきである紅衛兵こうえいへい結成けっせいされた。毛沢東もうたくとうは「造反ぞうはん有理ゆうり」(反動はんどうたいする謀反むほんには道理どうりがある)という言葉ことばでこの運動うんどう支持しじしたので、紅衛兵こうえいへい各地かくち組織そしきされるようになった。

毛沢東もうたくとう文革ぶんかく目的もくてきをブルジョワてき反動はんどう主義しゅぎしゃと「実権じっけん」であるとし、劉少奇りゅうしょうき国家こっか主席しゅせきとその支持しじしゃ攻撃こうげき対象たいしょうとした。毛沢東もうたくとうはやしぴょう共産党きょうさんとうふく主席しゅせき掌握しょうあくするぐん背景はいけいとして劉少奇りゅうしょうき失脚しっきゃくさせた。しかし、文化ぶんかだい革命かくめい政治せいじだけにとどまることがなく、ひろ社会しゃかい文化ぶんか一般いっぱんにも批判ひはん矛先ほこさきけられ、はん革命かくめいとされた文化ぶんかじんをつるしげたり、反動はんどうてきとされた文物ぶんぶつ破壊はかいされたりした。

1966ねんすえごろから武力ぶりょくてき闘争とうそう本格ほんかくし、地方ちほうではとう組織そしき紅衛兵こうえいへいとのあいだ武力ぶりょくともなったはげしい権力けんりょく闘争とうそうがおこなわれた。毛沢東もうたくとう秩序ちつじょ維持いじ目的もくてきからぐん介入かいにゅうさせたが、ぐん毛沢東もうたくとう意向いこうんで紅衛兵こうえいへいなどの中国共産党ちゅうごくきょうさんとう左派さは加担かたんした。中央ちゅうおうではしゅう恩来おんらい首相しゅしょうらと文革ぶんかくしょうぐみあいだ権力けんりょく闘争とうそうがおこなわれた。1967ねん後半こうはんになると、毛沢東もうたくとう内乱ないらん状態じょうたいになった国内こくないしずめるためにぐん紅衛兵こうえいへい運動うんどう基盤きばんであった学校がっこう工場こうじょう駐屯ちゅうとんさせた。

この時期じきぐん影響えいきょうりょく極端きょくたん増大ぞうだいし、それにともなってはやしぴょう急速きゅうそく台頭たいとうした。1969ねんにはちゅう国境こっきょう珍宝ちんぽうとう両国りょうこく軍事ぐんじ衝突しょうとつがあり(ちゅう国境こっきょう紛争ふんそう)、軍事ぐんじてき緊張きんちょうたかまったこともこれを推進すいしんした。同年どうねん採択さいたくされたとう規約きやくはやしぴょう毛沢東もうたくとう後継こうけいしゃであるとさだめられた。

文化ぶんかだい革命かくめい後期こうきになると国内こくない権力けんりょく闘争とうそう内乱ないらん状態じょうたいこしたが、最終さいしゅうてき文化ぶんかだい革命かくめい1976ねん毛沢東もうたくとう死去しきょ終結しゅうけつした。文化ぶんかだい革命かくめいでは各地かくち文化財ぶんかざい破壊はかい大量たいりょう殺戮さつりくおこなわれ、その犠牲ぎせいしゃ合計ごうけいすうすうひゃくまんにんともわれている。また学生がくせいたちが下放かほうされ農村のうそんはたらくなど、生産せいさん現場げんば教育きょういく現場げんば混乱こんらんすると、とく産業さんぎょう育成いくせい高等こうとう教育きょういくなどでながいブランクをもたらした。

一方いっぽうこの時期じきソ連それん敵対てきたいする中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政府せいふは、おなじくソ連それん敵対てきたいする日本にっぽんやアメリカなどからの外交がいこうてき承認しょうにんけ、この結果けっか1971ねん国際こくさい連合れんごう安全あんぜん保障ほしょう理事りじかい常任じょうにん理事りじこく地位ちい台湾たいわんとう敗走はいそうした中華民国ちゅうかみんこく政府せいふ国民党こくみんとう政権せいけん)にわってにするなど、国際こくさい政治せいじでの存在そんざいかんたかめつつあった。

改革かいかく開放かいほう以後いご(1980ねん~2010ねん

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返還へんかんされた香港ほんこんは「いちこく制度せいど」のした中国ちゅうごく経済けいざい牽引けんいん都市としになっている

毛沢東もうたくとう死後しご一旦いったん華国鋒かこくほう権力けんりょく継承けいしょうしたが、1978ねん12月だい11さんちゅう全会ぜんかい鄧小ひらた政権せいけん掌握しょうあくした。鄧小たいらは、政治せいじ体制たいせい共産党きょうさんとういちとう独裁どくさい堅持けんじしつつ、資本しほん主義しゅぎ経済けいざい導入どうにゅうなどの改革かいかく開放かいほう政策せいさくをとり、近代きんだい推進すいしんした(社会しゃかい主義しゅぎ市場いちば経済けいざい小平こだいら理論りろん)。この結果けっか香港ほんこんほか日米にちべいおうなど西側にしがわ諸国しょこく外資がいし流入りゅうにゅう開始かいしされ、中国ちゅうごく経済けいざい離陸りりくはじめた。

1990年代ねんだいには、江沢民こうたくみん政権せいけんのもとで、鄧小平こだいら路線ろせんしたがい、経済けいざい改革かいかく開放かいほうすすみ、とく安価あんか人件じんけんかした工場こうじょう誘致ゆうちで「世界せかい工場こうじょう」とばれるほど経済けいざいきゅう成長せいちょうした。なお、1997ねんイギリスから香港ほんこんが、1999ねんポルトガルからマカオが、それぞれ中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく返還へんかんされ、いちこく制度せいどした植民しょくみん時代じだい整備せいびされた経済けいざいてき法的ほうてきインフラをぎ、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく経済けいざいおおきな推進すいしんやくとなっている。

人口じんこう面積めんせきともに世界せかいてき規模きぼゆうすることから、アメリカの証券しょうけん会社かいしゃであるゴールドマンサックスは、「中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく2050ねん世界せかい最大さいだい経済けいざい大国たいこくになる」と予想よそうするなど、現在げんざい中国ちゅうごく経済けいざい動向どうこうくもわるくも注目ちゅうもくされているが、てい賃金ちんぎんによる大量たいりょう生産せいさんものにしてきた経済けいざい成長せいちょう賃金ちんぎん上昇じょうしょう東南とうなんアジア諸国しょこくインドげなどで限界げんかいたっしており(とく中国ちゅうごく最大さいだいの「り」であった衣類いるい生産せいさんは、中国ちゅうごくよりさら安価あんか賃金ちんぎんベトナムカンボジアバングラデシュインドスリランカ工場こうじょう移設いせつするうごきがはじめている)、産業さんぎょう高度こうどこう付加ふか価値かちなどの難題なんだいせまられている。

また、各種かくしゅ経済けいざい統計とうけい中国ちゅうごく政府せいふ発表はっぴょうのそれは信憑しんぴょうせいとぼしいとしょ外国がいこくから指摘してきされている。各省かくしょうなど地方ちほう独自どくじ産業さんぎょう振興しんこうさくはしり、中国共産党ちゅうごくきょうさんとう中央ちゅうおう政府せいふたいして経済けいざい統計とうけい水増みずま発表はっぴょう災害さいがいなどの情報じょうほう隠蔽いんぺいおこなうなど、統計とうけい発表はっぴょう信憑しんぴょうせい不足ふそく拍車はくしゃをかけている。

天安門てんあんもん事件じけん

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1989ねんには北京ぺきんで、1980年代ねんだい改革かいかく開放かいほう政策せいさく推進すいしんしながら失脚しっきゃくしていた胡耀邦こようほうもとそう書記しょきいたみ、民主みんしゅ要求ようきゅうする学生がくせい市民しみんひゃくまんにん規模きぼのデモ(天安門てんあんもん事件じけん)がきたが、これは、政府せいふにより武力ぶりょく鎮圧ちんあつされた。その一連いちれん民主みんしゅ運動うんどう犠牲ぎせいしゃすうは、中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政府せいふ報告ほうこくしょ外国がいこく調査ちょうさとの意見いけんちがいがあるが、すうひゃくにんからすうまんにんのぼるといわれている。しかし、中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政府せいふはこの事件じけんかんしては国内こくないでの正確せいかく報道ほうどうゆるさず、事件じけん国外こくがいからの非難ひなんについても虐殺ぎゃくさつ正当せいとう終始しゅうししている。

この事件じけん以降いこうも、中国ちゅうごく政府せいふ情報じょうほう政策せいさく透明とうめい民主みんしゅほう整備せいび充実じゅうじつなどの国際こくさい市場いちば要求ようきゅうする近代きんだいと、市民しみんによる暴動ぼうどう国家こっか分裂ぶんれつにつながる事態じたいけるため内外ないがい報道ほうどう機関きかんインターネット統制とうせいくわえ(中国ちゅうごくのネット検閲けんえつ)、はん政府せいふ活動かつどうたいする弾圧だんあつくわえるなどのぜん近代きんだいてきうごきとのあいだれている。

いちとう独裁どくさい中国ちゅうごく特色とくしょく社会しゃかい主義しゅぎ

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冷戦れいせん崩壊ほうかいに、複数ふくすう政党せいとうによる選挙せんきょ言論げんろん自由じゆうなどの民主みんしゅ主義しゅぎ達成たっせいした中華民国ちゅうかみんこく台湾たいわん)とちがい、いまだに中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政府せいふによるいちとう独裁どくさいから脱却だっきゃくできない中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくには多数たすう問題もんだい山積さんせきしている。

いちとう独裁どくさい弊害へいがいにより、官僚かんりょう腐敗ふはい深刻しんこくしている。改革かいかく開放かいほうによりイデオロギーが退潮たいちょうした結果けっか幹部かんぶはひたすら金儲かねもうけにはしるようになった。共産党きょうさんとう幹部かんぶ自身じしん所持しょじしている工場こうじょう人民じんみん奴隷どれい同様どうようあつか労働ろうどう従事じゅうじさせるといった事例じれいもあった。

これらのことより、中国共産党ちゅうごくきょうさんとういちとう独裁どくさいによる言論げんろん統制とうせいや、急激きゅうげき経済けいざい発展はってんともな貧富ひんぷ格差かくさ地域ちいき格差かくさ拡大かくだい官僚かんりょう腐敗ふはいなど国内こくないのひずみを放置ほうちつづければ、いずれ内部ないぶ崩壊ほうかいこして再度さいど混乱こんらん状態じょうたいおちいり、かつてのソ連それん同様どうよう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくという国家こっか体制たいせいそのものが解体かいたい消滅しょうめつするという意見いけんおお[3]引退いんたいした中国ちゅうごく核心かくしんてきブレーンや複数ふくすう共産党きょうさんとう幹部かんぶは「動乱どうらんかならこる。そうとおくない将来しょうらいにだ」と発言はつげんしたとされ、体制たいせいない人間にんげんたちも現在げんざい中国ちゅうごく危機ききかんいていることがあきらかとなった[4]

中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく現状げんじょう(2010ねん以降いこう

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その胡錦濤こきんとう政権せいけん2002ねん - 2012ねん)、習近ひらた政権せいけん(2012ねん -)とつづいている。

また、中国ちゅうごく国際こくさい連合れんごう安全あんぜん保障ほしょう理事りじかい国連こくれん安保理あんぽり)の常任じょうにん理事りじこく権利けんり保持ほじする大国たいこくで、さらに経済けいざい成長せいちょういちじるしいため、体制たいせい崩壊ほうかいしなければちょうきゅう大国たいこくはなえびす秩序ちつじょ復活ふっかつ)として君臨くんりんするとおもわれる。

2022ねんだいじゅう中央ちゅうおう委員いいんかいだいいち全体ぜんたい会議かいぎで、習近へい中国共産党ちゅうごくきょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかいそう書記しょき選出せんしゅつされた。3連続れんぞくそう書記しょきになった[5]

人権じんけん問題もんだい

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中国ちゅうごく人権じんけん問題もんだいかんしてアメリカと対立たいりつしている。近年きんねんでは大国たいこく復活ふっかつへのみちあゆロシアふたた関係かんけい強化きょうかつよめ、さらにベネズエライランとも友好ゆうこうてきであり、さらに人権じんけん弾圧だんあつ国家こっかとされる北朝鮮きたちょうせんミャンマースーダンジンバブエ支援しえんし、アメリカからの経済けいざい制裁せいさいちゅうキューバとは貿易ぼうえき密接みっせつになっている。

中国ちゅうごく欧米おうべいから経済けいざい制裁せいさいけているくに反米はんべい路線ろせんをとっているくにに「てきてき味方みかた」の理屈りくつ支援しえんして友好ゆうこうふかめている。これは中国ちゅうごく友好国ゆうこうこくやすための覇権はけん主義しゅぎだとおもわれるが、ぎゃく国連こくれん安保理あんぽり常任じょうにん理事りじこくである中国ちゅうごくうしたてになること反米はんべい国家こっかのメリットになる。そして近年きんねんイスラム教いすらむきょうテロリスト中国ちゅうごくせい武器ぶき使用しようしていることあきらかになり、第三国だいさんごくから横流よこながしした疑惑ぎわくがある。

また、中国ちゅうごく2008ねん以降いこう世界せかい同時どうじきょうしたにおいても軍事ぐんじ増大ぞうだいはとどまるところをらず、いちとう独裁どくさい見直みなお気配けはいもない。ただしべいちゅう関係かんけい経済けいざいてきには非常ひじょう密接みっせつであり、中国ちゅうごくはアメリカ国債こくさい最大さいだい保有ほゆうこくでもあるため、ロシアとちが露骨ろこつ反米はんべいでない。

少数しょうすう民族みんぞく自立じりつ

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新疆しんきょうウイグル自治じちひがしトルキスタン)ではかん政策せいさく進展しんてんによって、かん民族みんぞくどう地域ちいき大量たいりょう流入りゅうにゅうする一方いっぽう少数しょうすうウイグルじん生活せいかつきびしく、都市とし中心ちゅうしんとして就職しゅうしょくなどに有利ゆうり中国ちゅうごく教育きょういく充実じゅうじつによりウイグルすたれるなどの民族みんぞくてきなマイノリティ問題もんだい発生はっせいしている。またタクラマカン砂漠さばく石油せきゆ資源しげん利用りようしん疆南きた経済けいざい格差かくさひろがっているなど、中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政府せいふ経済けいざい政策せいさくたいする批判ひはん根強ねづよい。1997ねんには新疆しんきょうウイグル自治じちだい規模きぼ暴動ぼうどうきた。海外かいがいひがしトルキスタン独立どくりつ運動うんどうがおこなわれている一方いっぽう国内こくないでもウイグルじん活動かつどう処刑しょけいなどがおこなわれている。ウイグルじんあいだでも、民族みんぞく自治じちにおける権限けんげん拡大かくだいという現実げんじつ主義しゅぎてき主張しゅちょうもあらわれている。たとえば中国語ちゅうごくご教育きょういくけたウイグルじん中国共産党ちゅうごくきょうさんとう組織そしき参加さんかする、しん疆での中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政府せいふ経済けいざい政策せいさく積極せっきょくてき参加さんかするといった事例じれいられる。

チベット自治じちでは歴史れきしてきなチベットの主権しゅけん主張しゅちょうするダライ・ラマ亡命ぼうめい政権せいけん海外かいがい存在そんざいし、中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政府せいふ不法ふほう領土りょうど占拠せんきょをしているとうったえるとともに独立どくりつ運動うんどう継続けいぞくされている。中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政府せいふはこれを武力ぶりょく弾圧だんあつつづけ、独立どくりつ運動うんどうへの拷問ごうもんなどをおこない、経済けいざいてき不利ふりなチベットじん生活せいかつ困窮こんきゅうしたために、多数たすう難民なんみん隣国りんごくインド流入りゅうにゅうした。2008ねん3がつ14にちには、チベット自治じちラサで、中国ちゅうごく政府せいふたいする僧侶そうりょ市民しみん抗議こうぎ行動こうどう激化げきかし、中心ちゅうしん商店しょうてんがいから出火しゅっか武装ぶそう警察けいさつなどが鎮圧ちんあつたり多数たすう死傷ししょうしゃた。1989ねん戒厳かいげんれいかれたとき騒乱そうらん以来いらい最大さいだい規模きぼとなった。外国がいこくメディアだけでなく中国ちゅうごく国営こくえいメディア新華社通信しんかしゃつうしんほうじた。北京ぺきんオリンピックけた時期じきに、チベット問題もんだい国際こくさい世論せろんうったえようとするチベット独立どくりつ意図いと背景はいけいにあるとされる。中国ちゅうごく政府せいふは、よく15にちから外国がいこくじん一般いっぱん中国人ちゅうごくじん自治じちりをきんじる措置そちをとるとした。チベット亡命ぼうめい政府せいふによると確認かくにんされただけで死者ししゃすくなくとも80にんはいると発表はっぴょうされた。それと同時どうじ世界せかい各国かっこく中国ちゅうごく大使館たいしかんまえでも中国ちゅうごく政府せいふへの抗議こうぎ活動かつどうひろげられた。

台湾たいわん問題もんだい

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敵対てきたいしている中華民国ちゅうかみんこくとのあいだにも経済けいざいてき交流こうりゅうすすみ、両国りょうこく首都しゅとである北京ぺきん-台北たいぺいあいだ直行ちょっこう便びん就航しゅうこうするまでになっている。2008ねん12月には「さんつう」が実現じつげんした。

また、さんつうにより犬猿けんえんなかともえる中台ちゅうたい関係かんけい密接みっせつとなり、たとえば、台湾たいわんじん本土ほんど就職しゅうしょくし100まんにん中国ちゅうごく在住ざいじゅうしたり、さらに多数たすう香港ほんこんじんしょくもとめて本土ほんど移住いじゅうするといった現象げんしょうきている。

中華民国ちゅうかみんこく台湾たいわん)、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく中国ちゅうごく大陸たいりく)、香港ほんこんマカオシンガポールマレーシアなどの華人かじん社会しゃかいを『大中おおなかはなけん』とひょうしている。

2024ねん5がつ中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく台湾たいわん近海きんかい軍事ぐんじ演習えんしゅうおこなった[6]

歴朝れきちょう歴代れきだい人口じんこう変遷へんせん

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以下いかのデータはおもに楊学どおり計画けいかく生育せいいく我国わがくに人口じんこう発展はってんてき必然ひつぜん」(1980ねん)による。

時代じだい 年代ねんだい 戸数こすう 人口じんこう 資料しりょう出所しゅっしょ
なつ ぜん2205ねんとされる) 13,553,923 帝王ていおう世紀せいき
はた 20,000,000?
前漢ぜんかん ひらみかど元始げんし2ねん2ねん 12,233,062 59,594,978 漢書かんしょ地理ちりこころざし
しん 20,000,000?
こうかん じゅんみかどたてやすし元年がんねん144ねん 9,946,919 49,730,550 さつもとかめ
すすむ たけみかどふとやすし元年がんねん280ねん 2,459,804 16,163,863 すすむしょしょく貨志
ずい 煬帝大業おおわざ2ねん606ねん 8,907,536 46,019,056 ずいしょ地理ちりこころざししょく貨志
とう げんむね天宝てんぽう14ねん755ねん 8,914,709 52,919,309 つうこころざし
そう かみはじめげんゆたか3ねん1080ねん 14,852,684 33,303,889 そうふみ地理ちりこころざし
きむ あきらむねあきらあきら6ねん1195ねん 7,223,400 48,490,400 きむふみしょく貨志
もと いたりもと27ねん1290ねん 13,196,206 58,834,711 もと地理ちりこころざし
あきら かみはじめまんれき6ねん1570ねん 10,621,436 60,692,850 ぞく文献ぶんけんどおりこう
きよし しんはつ1644ねん 45,000,000
せいかん50ねん1711ねん 100,000,000以上いじょう
こうはじめいぬいたかし27ねん1762ねん 200,000,000以上いじょう
こうはじめいぬいたかし55ねん1790ねん 300,000,000以上いじょう
じんむねよしみけい17ねん1812ねん 333,700,560 ひがしはなろく
せんむねみちこう14ねん1834ねん 400,000,000以上いじょう
中華民国ちゅうかみんこく みんこく36ねん1947ねん 455,590,000 統計とうけい提要ていよう
中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく 1995ねん 1,211,210,000 中国ちゅうごく統計とうけい年鑑ねんかん

地方ちほう行政ぎょうせい制度せいど

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古代こだいからぜん近代きんだいまで

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封建ほうけんせいいんしゅうぜん1600ねんごろぜん221ねん

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いんしゅう時代じだい封建ほうけん制度せいど[† 6] によって一定いってい直轄ちょっかつ以外いがい間接かんせつてき統治とうちされた。

ぐんけんせいはたかんぜん221ねん〜249ねん

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中国ちゅうごく最初さいしょ統一とういつ王朝おうちょうであるはた全国ぜんこくぐんとその下級かきゅう単位たんいであるけんけるぐんけん制度せいどによって征服せいふく統治とうちした。前漢ぜんかん初期しょきにおいては、ぐん以上いじょう広域こういき自治じちみとめられた行政ぎょうせい単位たんいであるくに一部いちぶ功臣こうしん皇族こうぞくのために設置せっちされた。

しかし徐々じょじょくに行政ぎょうせい権限けんげん回収かいしゅうされるとともに、推恩政策せいさくによってくに細分さいぶんすすめられ、くにこおりけんひとしいものとなり、こうかん時代じだいには実質じっしつぐんけん制度せいどそのままとなっていた。

前漢ぜんかん時代じだい広域こういき監察かんさつ制度せいどとしての刺史しし制度せいどはじめられると全国ぜんこくを13しゅう[† 7]けた。これはいまだ行政ぎょうせいてきなものではない[† 8]かんがえられている。こうかんのち王朝おうちょうでは官僚かんりょう登用とうよう制度せいどとしての九品くほんかんじんほう249ねん司馬しばによってしゅう単位たんいでおこなわれるように適用てきようされたので、行政ぎょうせい単位たんいとしてぐん以上いじょう広域こういきしゅう現実げんじつてき行政ぎょうせい単位たんいとして確立かくりつしたとかんがえられている。しかし、軍政ぐんせいめん官吏かんり登用とうようめんのほかにどれほど地方ちほう行政ぎょうせい貢献こうけんしたか[† 9] はあまり明確めいかくではない。

とくせいすすむ、249ねん〜583ねん

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とくせいぐんによる広域こういき行政ぎょうせい制度せいど略称りゃくしょうすすむ時代じだいすすむには、とくなどのぐん重要じゅうようせいたかまった。

えびすじゅうろくこくおよび南北なんぼくあさ時代じだいになると、中国ちゅうごく内部ないぶ複数ふくすう王朝おうちょう割拠かっきょ軍事ぐんじてき緊張きんちょうたかまったことから、とくに南朝なんちょうにおいて重要じゅうようせいした。これは本来ほんらい特定とくてい行政ぎょうせい機関きかんたなかったとおもわれる刺史ししたいして、軍事ぐんじてき重要じゅうよう地域ちいき刺史しし例外れいがいてき複数ふくすうしゅう統括とうかつできる行政ぎょうせいけんあたえたものであった。長官ちょうかんであるぬし長官ちょうかん一般いっぱんてきにさまざまな将軍しょうぐんごうび、呼称こしょう一定いっていではないため便宜べんぎてきぬしとする)は属僚ぞくりょう選定せんていたいして大幅おおはば裁量さいりょうけんあたえられており、そのため地方ちほう自治じちてき支配しはいおよぼすことが出来できた。

また南朝なんちょうでは西にしすすむ末期まっきから官吏かんり登用とうようにおいてしゅう形骸けいがいしており、吏部尚書しょうしょによって官制かんせいにおける中央ちゅうおう集権しゅうけん進行しんこうしている。したがって中正ちゅうせいかんたんなる地方ちほう官吏かんりぎなくなり、広域こういき行政ぎょうせい単位たんいとしてのしゅう官吏かんり登用とうようめんからは重要じゅうようせい低下ていかしたが、地方ちほう行政ぎょうせい単位たんいとしてはより実際じっさいせいびた。この時代じだいしゅう一般いっぱん細分さいぶん傾向けいこうにあり、南北なんぼくあさ前期ぜんきには中国ちゅうごく全土ぜんどで50-60しゅう南北なんぼくあさ末期まっきいたると中国ちゅうごく全土ぜんどで300しゅう以上いじょうになり、ひとつのしゅうがわずか2ぐん、ひとつのぐんはわずか2-3けんしかふくまないという有様ありさまであった。

しゅう鎮制(きたたかしずいとう、583ねん〜1276ねん

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南朝なんちょうではとく制度せいど発達はったつしていたころ、きたではしゅう制度せいど発達はったつした。

きたでは征服せいふくにまず軍事ぐんじてき性格せいかくつよい鎮をき、鎮は一般いっぱん平民へいみん区別くべつされ軍籍ぐんせき登録とうろくされた鎮民を隷属れいぞくさせて支配しはいした。鎮は徐々じょじょしゅうあらためられたようであるが、北部ほくぶ辺境へんきょうなどでは鎮がずっと維持いじされた。583ねんずいぶんみかどぐん廃止はいししゅうけんきゅう行政ぎょうせい制度せいど開始かいしした。このさい従来じゅうらいぐん制度せいど[† 10] にあったかんだい地方ちほう制度せいどてききゅうしゅう刺史しし系統けいとう地方ちほうかん廃止はいしされ、ぐん系統けいとう地方ちほうかん統一とういつされたとかんがえられている。595ねんには形骸けいがいしていた中正ちゅうせいかん最終さいしゅうてき廃止はいしされたという指摘してきもされている。

またこれによりぬし属官ぞっかん任命にんめいけんいちじるしく制限せいげんされ、中央ちゅうおう集権しゅうけんがはかられた。とうでは辺境へんきょう中心ちゅうしん広域こういきしゅう鎮的ぐんであるそうかんかれたが徐々じょじょ廃止はいしされ、刺史しし制度せいどもとづいた地方ちほうぐんてきぐん、それに中央ちゅうおうぐんたいする吏部の人事じんじけん強化きょうか一元化いちげんかされ、軍事ぐんじ制度せいど中央ちゅうおう集権しゅうけん完成かんせいされた。特定とくていしゅう折衝せっしょうかれ、自営じえい農民のうみん中心ちゅうしんとしてへい組織そしきされ常備じょうび地方ちほうぐん[† 11] とされた。とうではしゅううえに10のみち設置せっちされたが、これは監察かんさつ区域くいき行政ぎょうせい単位たんいではないとかんがえられている。

律令りつりょう制度せいどずいとう

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この制度せいどはじめて、軍事ぐんじりょくのみに地域ちいき管理かんりするではなく、くに全体ぜんたい法律ほうりつ文官ぶんかん地方ちほう浸透しんとうされた。また、日本にっぽん奈良なら時代じだい制度せいど影響えいきょうあたえた。

つよみきじゃくえだ制度せいどそう

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くだりしょうせいもとあきらきよし

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近代きんだいから現在げんざいまで

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行政ぎょうせい区分くぶん中華民国ちゅうかみんこく、1912ねん〜1949ねん

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行政ぎょうせい区分くぶん中華民国ちゅうかみんこく、1949ねん現在げんざい

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行政ぎょうせい区分くぶん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく、1949ねん現在げんざい

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祭祀さいし礼楽れいがく律令りつりょう封建ほうけん

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つよぜい大国たいこく外交がいこう

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中国ちゅうごく大陸たいりくしょ王朝おうちょうぜん近代きんだいまで基本きほんてきひがしアジアでの優越ゆうえつてき地位ちい主張しゅちょうし、外交がいこうてきには大国たいこくとして近隣きんりん諸国しょこく従属じゅうぞくてきあつかう「さつふう体制たいせい」が主流しゅりゅうであった。

かんちょうには南越なんごし閩越まもる朝鮮ちょうせんなどがかん宗主そうしゅけんにあったとかんがえられ、これらの国々くにぐにかんさつふう体制たいせいにあったとかんがえられている。前漢ぜんかんたけみかどときにこれらの諸国しょこく征服せいふくされこおりけん編入へんにゅうされた。

このことはかんさつふうかならずしも永続えいぞくてきさつふう秩序ちつじょ形成けいせいすることを意図いとしたものではなく、機会きかいさえあれば実効じっこう支配しはいおよぼそうとしていたことをしめす。

また匈奴きょうど基本きほんてきにはさつふう体制たいせいまれず、匈奴きょうどたん于と中国ちゅうごく王朝おうちょう皇帝こうてい原則げんそくてきには対等たいとうであった。大秦たいしんマ帝国まていこくのことをすとされる)や大月おおつきなどとの外交がいこう関係かんけいさつふう前提ぜんていとされていない。

すすむ南北なんぼくあさ

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すすむ南北なんぼくあさには、中国ちゅうごく王朝おうちょう分立ぶんりつする事態じたいになったので、さつふう体制たいせい変質へんしつ実効じっこう支配しはい意図いとしない名目めいもくてき傾向けいこうつよくなったとかんがえられている。朝鮮半島ちょうせんはんとうでは高句麗こうくりをはじめとして中小ちゅうしょう国家こっか分立ぶんりつする状態じょうたいがあらわれ、日本にっぽん列島れっとう古代こだい国家こっか[† 12]半島はんとう紛争ふんそう介入かいにゅうするようになったために、半島はんとう紛争ふんそうでの外交がいこうてき優位ゆういるため、これらの国々くにぐに積極せっきょくてき中国ちゅうごく王朝おうちょうさつふうもとめた。

しかし、高句麗こうくり北朝ほくちょう実効じっこう支配しはいには頑強がんきょう抵抗ていこうしているように、あくまでめい目的もくてき関係かんけいにとどめようという努力どりょくがなされており、南越なんごしと閩越の紛争ふんそうにおいておこなわれたような中国ちゅうごく王朝おうちょう主導しゅどうによる紛争ふんそう解決かいけつなどは期待きたいされていないという見方みかた主流しゅりゅうである。

ふたた中国ちゅうごく大陸たいりく統一とういつしたずいあさ時代じだいひがしアジアのさつふう体制たいせいがもっとも典型てんけいてきとなったという見方みかた主流しゅりゅうである。ずい高句麗こうくりがみだりに突厥と通交つうこうし、辺境へんきょうおかしたことからこれを討伐とうばつしようとしたが、遠征えんせい失敗しっぱいした。

とうは、しん連合れんごうとうしん同盟どうめい)し、高句麗こうくり百済くだら滅亡めつぼうさせ、朝鮮半島ちょうせんはんとうしゅうけん支配しはいしようとしたが、しん抵抗ていこうにあい(とうしん戦争せんそう)、朝鮮半島ちょうせんはんとうから撤退てったいしたため、ねがいはかなわなかった。

したがって、ずいとうさつふう実効じっこう支配しはいとは無関係むかんけい形成けいせいされるようになった。とうさつふう体制たいせいしたでは、律令りつりょうてき政治せいじ体制たいせい仏教ぶっきょうてき文化ぶんか共有きょうゆうされた。

一方いっぽう、突厥や西域せいいき諸国しょこく服属ふくぞくすると、それらの地域ちいきたいする支配しはい直接ちょくせつ支配しはいとしてのしゅうけん外交がいこう支配しはいとしてのさつふうとはことなった羈縻政策せいさく[† 13]おこなわれた。

アッバースあさタラス河畔かはんたたかきた。これによりかみ技術ぎじゅつ西にし世界せかいへとつたわった。

きたそうつばめくもじゅうろくしゅうをめぐってりょう紛争ふんそうき、賠償金ばいしょうきんとして大量たいりょうきぬぎんはらった。きたそうかね同盟どうめいみ、きむりょうほろぼしたのちきむきたそう圧迫あっぱくし、みなみいやった(みなみそう)。モンゴル帝国ていこくきむ西にしなつだいほろぼしついにはみなみそうほろぼした。かねもと銅銭どうせんきんじたため、大量たいりょう銅銭どうせん日本にっぽん流入りゅうにゅうした。日本にっぽんもとあいだには民間みんかんレベルで貿易ぼうえき活発かっぱつおこなわれていた。もと大越おおこし遠征えんせい失敗しっぱいしたことで日本にっぽんへのさん度目どめ攻撃こうげき中止ちゅうしされた。

モンゴルを草原そうげん駆逐くちくした明朝みんちょうさつふう体制たいせい採用さいよう、また、海岸かいがんあばれるやまと対策たいさくとしてうみきん政策せいさく採用さいようした。南朝なんちょうなつけ親王しんのう足利あしかが幕府ばくふ足利あしかが義満よしみつたいやまと寇のまりを要求ようきゅうしている。南北なんぼくあさ統一とういつした足利あしかが義満よしみつみずから「日本にっぽん国王こくおうしんみなもと道義みちよし」と名乗なのり、さつふう体制たいせいはいり、勘合かんごう貿易ぼうえき開始かいしした。勘合かんごう貿易ぼうえき足利あしかが幕府ばくふから次第しだいさかい豪商ごうしょうんだ細川ほそかわ博多はかた豪商ごうしょうんだ大内おおうち実権じっけんうつり、1523ねんにはやすしらんにより大内おおうち貿易ぼうえき独占どくせんとう晴賢はるかた大内おおうち義隆よしたか1551ねん殺害さつがいするまでつづいた。

永楽えいらくみかど宦官かんがんていかず南海なんかい派遣はけんした。ていかず船団せんだん東南とうなんアジアからひがしアフリカ沿岸えんがんまでに進出しんしゅつし、キリンなどの珍品ちんぴん中国ちゅうごくにもたらした。永楽えいらくみかどはまた、モンゴル討伐とうばつ遠征えんせいおこなっているが征服せいふくにはいたらなかった。永楽えいらくみかどぼつあきら対外たいがい拡張かくちょう路線ろせん縮小しゅくしょうした。1449ねん土木どぼくへんエセン・ハーン正統せいとうみかど捕縛ほばくするにいたり、あきら北方ほっぽう侵略しんりゃくくるしむようになった。また、海岸かいがんでもやまと寇が攻勢こうせいつよめており、対策たいさく苦慮くりょするようになった(きたとりこみなみやまと)。

豊臣とよとみ秀吉ひでよし朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいたいして、朝鮮ちょうせん支持しじ介入かいにゅうすることになるがくにかたむけることとなり、おんなしんぞくヌルハチサルホのたたかけるとくに頽勢たいせい一気いっきすすんだ。

中華民国ちゅうかみんこく

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中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく
  1. ^ 白川しらかわしずは、しょうにはしょうがあり、代償だいしょうつぐなえ贖のためにしょうおこなわれるようになり、のちにそのことが形式けいしきして、商行為しょうこうい意味いみするものとなったものとおもわれる、としている。
  2. ^ ただしいん北西ほくせいから侵入しんにゅうしてきた遊牧ゆうぼく民族みんぞくによる征服せいふく王朝おうちょうだとするせつもある。これは偃師さとあたま遺跡いせきでは青銅器せいどうき現地げんち生産せいさんされているのにたいし、いん時代じだい青銅器せいどうきおもしょく方面ほうめん生産せいさんされていたことが確認かくにんされていることによる。
  3. ^ 1916ねん8がつ復活ふっかつされた。
  4. ^ これはロシア革命かくめいたいするシベリア出兵しゅっぺいにおいてにちちゅうりょうぐん協力きょうりょくするという秘密ひみつ条約じょうやくである。
  5. ^ 1928ねん1930ねん各国かっこく交渉こうしょうして関税かんぜい自主権じしゅけん回復かいふくし、関税かんぜいげ、しおぜい統一とういつ消費しょうひぜい規定きていして財源ざいげん確保かくほした。アメリカイギリス銀行ぎんこう資本しほんに「ほうぬさ」という紙幣しへい使用しようさせ、秤量ひょうりょう貨幣かへいであったぎんりょう廃止はいしした。さらアメリカ政府せいふぎん売却ばいきゃくしてドル外為がいため資金しきんとして貯蓄ちょちくした。これにより国際こくさいてきぎん価格かかく中国ちゅうごく国内こくない経済けいざいたいする影響えいきょう大幅おおはば緩和かんわされた。このような経済けいざい政策せいさく積極せっきょくてき推進すいしんしたのは国民こくみん政府せいふ財政ざいせい部長ぶちょうそうぶんで、かれまごぶんつまそうけいよわいおとうとで、いもうとのちに蔣介せき結婚けっこんしたそうよしよわいであった。
  6. ^ 封建ほうけん制度せいどいんだいから実施じっしされてはいるが、いんだい封建ほうけんせいについてはあまり明確めいかくなことはいまだにかってはいない。 いんでは封建ほうけん実施じっしされている地域ちいきと、かたこくばれる外様とざまあるいは民族みんぞく国家こっか存在そんざいられ、いんかたこく連盟れんめい盟主めいしゅであり、封建ほうけんされた国々くにぐにいん同族どうぞく国家こっかであるとするせつもあるがくわしいことはかってはいない。 しゅうでは一定いってい城市じょうし基準きじゅんとした邑にもとづいた封建ほうけんせい広汎こうはんにおこなわれたとかんがえられているが、この邑制国家こっか実態じったい不明ふめいである。邑をポリスてき都市とし国家こっかとみる見方みかたから、邑と周辺しゅうへん農地のうちであるひな一緒いっしょになって(これを邑土という)、貴族きぞくによるだい土地とち所有しょゆうであるとする見方みかたもある。 あきらかであるのは邑を支配しはいした貴族きぞく長子ちょうし相続そうぞく根幹こんかんとした血族けつぞく共同きょうどうたい構築こうちくしていたということで、このような共同きょうどうたいもとづいた支配しはい形態けいたい宗法しゅうほう制度せいどという。宗法しゅうほう制度せいどについてはいんだいにさかのぼる見方みかたもあるが、広汎こうはんおこなわれたのは春秋しゅんじゅうあるいは戦国せんごく時代じだいであったとすおこなわれたるせつもある。しゅう封建ほうけんせい宗法しゅうほう制度せいど延長えんちょうにあるものととらえ、封建ほうけん儀礼ぎれい宗族そうぞくへの加盟かめい儀礼ぎれい延長えんちょうとしてとらえる見方みかたもある。
  7. ^ 中国ちゅうごく古来こらいより中国ちゅうごく世界せかいを9つの地方ちほうけるかんがかた漠然ばくぜん存在そんざいした。中国ちゅうごく王朝おうちょう支配しはい領域りょういきを「九州きゅうしゅう」といい、それがすなわち「天下てんか」であった。ただし九州きゅうしゅう概念がいねんこうかん時代じだいにいたるまでははっきりしたものではなく一様いちようでない。
  8. ^ 前漢ぜんかんなりみかどのときにしゅう監察かんさつけんちゅうすすむ移行いこうされ、刺史しし行政ぎょうせいかんとなったという見方みかたもあるが、こうかん末期まっき刺史しし軍事ぐんじけんみとめられると、広域こういき行政ぎょうせい単位たんいとしてのしゅうはにわかに現実げんじつしたとみる見方みかたもある。
  9. ^ このころのしゅう行政ぎょうせい単位たんいではなく、ぐん管区かんくのような概念がいねんじょう管理かんり単位たんいであるとする見方みかたつよい。
  10. ^ きたあまね宇文うぶんまもる創始そうししたじゅうよん軍制ぐんせいをもっていわゆる兵制へいせい成立せいりつ做す見方みかたがあるがこれについてはくわしいことはわからない。
  11. ^ 折衝せっしょうかれたしゅう設置せっちしゅうでは当然とうぜん差異さいがあったのであるが、とうだいはほかに募兵ぼへいもとづく行軍こうぐん制度せいどもおこなわれており、だい規模きぼ対外たいがい戦争せんそうさいにはおもに折衝せっしょう設置せっちしゅう中心ちゅうしんとしてへいあつめられた。から後期こうきにはこの募兵ぼへいせい常態じょうたいすることで節度せつど使制度せいどがおこなわれるようになった。
  12. ^ なお、史書ししょからうかがえる外交がいこう記録きろく日本にっぽん国内こくないでの銅鏡どうきょうなど出土しゅつどひん記載きさいされた年号ねんごう問題もんだいなどから、日本にっぽん古代こだい王朝おうちょうとく南朝なんちょうとの外交がいこう関係かんけい重視じゅうししていたという見方みかた主流しゅりゅうであるが、北朝ほくちょうとの通交つうこう事実じじつあきらかにしようという研究けんきゅうつづけられている。
  13. ^ これはみやこまもるつうじて服属ふくぞく民族みんぞく部族ぶぞくべつ自治じちけんあたえて間接かんせつ支配しはいするもので、羈縻政策せいさくがおこなわれた地域ちいきでは現地げんちみん国家こっか否定ひていされた。このことは、羈縻しゅう住民じゅうみん自発じはつてき中国ちゅうごく王朝おうちょう文化ぶんかれることを阻害そがいしたとかんがえられており、羈縻政策せいさくのおこなわれた地域ちいきではさつふうのおこなわれた地域ちいきとはことなり、漢字かんじ律令りつりょうなどの文化ぶんか共有きょうゆうおこなわれず、とう支配しはい後退こうたいすると、とう文化ぶんかもこの地域ちいきでは衰退すいたいすることになった。さつふうされた国々くにぐにとう支配しはい後退こうたいしたあとも漢字かんじ文化ぶんか存続そんぞくしたことと対照たいしょうてきである。
出典しゅってん
  1. ^ a b c d e 礪波となみまもる岸本きしもと美緒みお杉山すぎやま正明まさあき へん中国ちゅうごく歴史れきし研究けんきゅう入門にゅうもん名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい、2006ねん1がつ10日とおか、100-101ぺーじISBN 481580527X 
  2. ^ 外務省がいむしょう 1929.
  3. ^ 歴史れきし天安門てんあんもんのドラマ”. 時事通信じじつうしん. (2009ねん9がつ25にち). オリジナルの2020ねん4がつ26にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200426002509/https://www.jiji.com/jc/v2?id=20090925china_foundation_60th_06 
  4. ^ “【日々ひび世界せかい 国際こくさい情勢じょうせい分析ぶんせき中国ちゅうごく動乱どうらん可能かのうせい体制たいせい内部ないぶからの警告けいこく. MSN産経さんけいニュース. (2010ねん3がつ30にち). オリジナルの2010ねん4がつ1にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100401085121/http://sankei.jp.msn.com/world/china/100330/chn1003300813000-n1.htm 
  5. ^ 中国共産党ちゅうごくきょうさんとうあらたな最高さいこう指導しどう選出せんしゅつ、習総書記しょきは3”. 2024ねん5がつ12にち閲覧えつらん
  6. ^ 中国ちゅうごく 台湾たいわん周辺しゅうへんでの軍事ぐんじ演習えんしゅう独立どくりつ勢力せいりょく挑発ちょうはつ やまないかぎり」”. 2024ねん6がつ14にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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