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スターリン批判 - Wikipedia

スターリン批判ひはん

ソビエト連邦れんぽう政治せいじ、ニキータ・フルシチョフによる国内こくない独裁どくさい政治せいじたいする批判ひはん

スターリン批判ひはん(スターリンひはん)とは、1956ねんソ連それん共産党きょうさんとうだい20かい大会たいかいにおけるソ連それん共産党きょうさんとうだいいち書記しょきニキータ・フルシチョフによる秘密ひみつ報告ほうこく個人こじん崇拝すうはいとその結果けっかについて」(ロシア: О культе личности и его последствиях)のこと。そこではヨシフ・スターリン執政しっせいにおける政治せいじ指導しどう粛清しゅくせい実態じったい暴露ばくろされ、その原因げんいんとして個人こじん崇拝すうはい批判ひはんされた。このフルシチョフ報告ほうこく前後ぜんごしてスターリン時代じだい思想しそう政策せいさく批判ひはんされ、ソビエト連邦れんぽう政治せいじ社会しゃかいをなすとともに、世界せかい各国かっこく共産きょうさん主義しゅぎ運動うんどう影響えいきょうあたえた。

ほん項目こうもくでは、フルシチョフ報告ほうこくと、これをめぐる政治せいじ展開てんかいやその影響えいきょうについてあつかう。フルシチョフ報告ほうこく前後ぜんこうソ連それんおよび各国かっこくにおける政治せいじ社会しゃかい変化へんかについてはスターリン参照さんしょうのこと。

スターリン時代じだい政治せいじ社会しゃかい

編集へんしゅう

1924ねんウラジーミル・レーニン死去しきょすると、スターリンは権力けんりょく自身じしん集中しゅうちゅうさせ、ソ連それん急速きゅうそく社会しゃかい主義しゅぎすすめた。国際こくさいてきには、資本しほん主義しゅぎくにであるアメリカイギリスファシズム国家こっかであるナチス・ドイツ軍国ぐんこく主義しゅぎである日本にっぽんなどソ連それん対立たいりつする国々くにぐにかこまれており、ソ連それん内外ないがい緊張きんちょうかかえていた。こうした状況じょうきょうのなかで、スターリンは強権きょうけんてき独裁どくさいてき政治せいじ体制たいせいつくりあげ、だい粛清しゅくせいによってすうひゃくまんにんにおよぶ国民こくみん党員とういん外国がいこくじん政治せいじはんとして逮捕たいほされ、処刑しょけいされるかシベリアをはじめ各地かくち政治せいじはん強制きょうせい収容しゅうようしょ強制きょうせい労働ろうどう従事じゅうじさせられた[1]。こうした政治せいじは、「社会しゃかい主義しゅぎ建設けんせつすすめばすすむほど、帝国ていこく主義しゅぎ援助えんじょされた"内部ないぶてき"の反抗はんこう激烈げきれつになる」という、いわゆる「階級かいきゅう闘争とうそう激化げきかろん」によって正当せいとうされた(政治せいじ理論りろんとしての「スターリニズム」)。

だい世界せかい大戦たいせんソ連それん勝利しょうりするとソ連それん国際こくさいてき影響えいきょうりょくつよまり、スターリンはソ連それん内部ないぶだけでなく国際こくさい共産きょうさん主義しゅぎ運動うんどう君臨くんりんし、各国かっこく共産党きょうさんとう労働ろうどうしゃとう強権きょうけんてき指導しどうしてアメリカなどとの東西とうざい対立たいりつのぞんでいた。ひがしアジアでは、朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとう中国共産党ちゅうごくきょうさんとうへの指導しどうつうじて朝鮮ちょうせん戦争せんそう関与かんよし、アメリカぐん後方こうほう攪乱かくらんのために日本にっぽん共産党きょうさんとう武装ぶそう闘争とうそう路線ろせんをとらせた[2]1952ねんひらかれたソ連それん共産党きょうさんとうだい19かい大会たいかいは、スターリンへの賛美さんび崇拝すうはいによっていろどられていた[3]

スターリン死後しごソ連それん政治せいじうご

編集へんしゅう
 
スターリン批判ひはんのもう一人ひとり立役者たてやくしゃであったアナスタス・ミコヤン。

1953ねん3月5にちスターリンが死去しきょすると、ソ連それん共産党きょうさんとう集団しゅうだん指導しどう体制たいせい移行いこうし、閣僚かくりょう会議かいぎ議長ぎちょう首相しゅしょう)にゲオルギー・マレンコフだいいちふく首相しゅしょうラヴレンチー・ベリヤ内相ないしょう)、ヴャチェスラフ・モロトフ外相がいしょう)、ニコライ・ブルガーニン国防こくぼうしょう)、ラーザリ・カガノーヴィチふく首相しゅしょうアナスタス・ミコヤン商業しょうぎょう貿易ぼうえきしょう)、とう中央ちゅうおう委員いいんかい筆頭ひっとう書記しょきにニキータ・フルシチョフといった体制たいせいとなった。しん政権せいけんでは、まずベリヤがだつスターリンすすめ、直近ちょっきん粛清しゅくせいしや大赦たいしゃれい発布はっぷ立憲りっけん主義しゅぎ法治ほうち主義しゅぎ強調きょうちょうなどをおこなった。ベリヤは、外交がいこうめんではひがしドイツハンガリーたいして、従来じゅうらい社会しゃかい主義しゅぎ修正しゅうせいするようにはたらきかけた。しかし、ひがしベルリンでの暴動ぼうどう発生はっせいによって、社会しゃかい主義しゅぎ権力けんりょくらぐことを警戒けいかいしたフルシチョフらは、ベリヤを国家こっか反逆はんぎゃくざい逮捕たいほ失脚しっきゃくさせた。以後いごソ連それん共産党きょうさんとう公式こうしき発表はっぴょうではベリヤのたくらみによってスターリンがあやまった行動こうどうみちびかれたとされた[4]

他方たほうで、ソ連それん社会しゃかいではしたからのスターリン批判ひはんうごきもしょうじた。収容しゅうようしょ政治せいじはんたちによる待遇たいぐう改善かいぜん釈放しゃくほうもとめるうごきがこり、ボリシェヴィキ以来いらい古参こさん党員とういん歴史れきしらのグループは、レーニン追慕ついぼつうじたスターリン批判ひはん展開てんかいした。また、文学ぶんがくしゃではイリヤ・エレンブルグ小説しょうせつゆきどけ』を発表はっぴょうするなどのうごきがしょうじた[5]。マレンコフ首相しゅしょうは、軽工業けいこうぎょう重視じゅうし西側にしがわとの平和へいわ共存きょうぞん外交がいこうなどをつうじてスターリンはかったが、フルシチョフ筆頭ひっとう書記しょき重工業じゅうこうぎょう重視じゅうしするスターリン路線ろせん継承けいしょうすることを主張しゅちょうし、1955ねんにマレンコフは首相しゅしょう辞任じにんした[6]。とはいえ、フルシチョフもユーゴスラビアとの関係かんけい正常せいじょうのなかでスターリンの責任せきにんみとめる立場たちばをとり、ミコヤンは古参こさん党員とういんらとむすびついてだい粛清しゅくせい調査ちょうさ処刑しょけい除名じょめいされたもと党員とういん名誉めいよ回復かいふく主張しゅちょうし、ピョートル・ポスペーロフ責任せきにんしゃとして調査ちょうさおこなわれることとなった(ポスペーロフ委員いいんかい英語えいごばん[7]

スターリン批判ひはん(1956ねん

編集へんしゅう

フルシチョフ報告ほうこく経緯けいい

編集へんしゅう

ポスペーロフ委員いいんかいによる調査ちょうさ報告ほうこくは、ソ連それん共産党きょうさんとうだい20かい大会たいかい直前ちょくぜんひかえた1956ねん2がつ9にち中央ちゅうおう委員いいんかい幹部かんぶかいおこなわれた。どう報告ほうこく国家こっか保安ほあん委員いいんかいКГБ)の資料しりょうもとづいて、(1) 193540ねんのあいだに1,548,366めい逮捕たいほされ、688,503めい銃殺じゅうさつされたこと、(2) 粛清しゅくせい共産党きょうさんとう国家こっか機関きかん地方ちほう機関きかん経済けいざい組織そしきぐん内務ないむ人民じんみん委員いいんなどの指導しどうしゃそうひろんだこと、(3) とく1934ねんぜん連邦れんぽう共産党きょうさんとう (ボリシェヴィキ)だい17かい大会たいかい英語えいごばん選出せんしゅつされた中央ちゅうおう委員いいんどう候補こうほ139めいのうち98めい銃殺じゅうさつされ、大会たいかい代議員だいぎいんおよびオブザーバー1,966めいのうち1,108めい逮捕たいほされ、うち848めい銃殺じゅうさつされたこと、(4) 処刑しょけいされたもののなかにはドイツじんポーランドじんラトビアじん朝鮮ちょうせんじんなどおおくの外国がいこくじんふくまれていたこと、(5) 大量たいりょう逮捕たいほにあたってはん団体だんたいのでっちげがおこなわれ、逮捕たいほしゃには暴行ぼうこう拷問ごうもん脅迫きょうはくなど違法いほう手段しゅだん系統的けいとうてきもちいられたこと、(6) こうした大量たいりょう抑圧よくあつがスターリンの指示しじ承認しょうにんのもとにおこなわれていたことをあきらかにした[8]

スターリンによるだい粛清しゅくせい全貌ぜんぼうあきらかにしたこの報告ほうこく幹部かんぶ会員かいいん衝撃しょうげきあたえ、フルシチョフやミコヤンはとう大会たいかい報告ほうこくすべきであると主張しゅちょうしたが、この時点じてんではだれがどのように報告ほうこくおこなうかはまっていなかった。大会たいかい前日ぜんじつ2がつ13にちひらかれた幹部かんぶかいで、この問題もんだいについての報告ほうこくをフルシチョフがおこなうこと、この報告ほうこく大会たいかい秘密ひみつかいおこなうことを決定けっていした。同日どうじつおこなわれた中央ちゅうおう委員いいんかい総会そうかいは、内容ないようせられたうえでフルシチョフ報告ほうこくおこなわれることを承認しょうにんした。このように、フルシチョフ報告ほうこく大会たいかい直前ちょくぜんになっておこなうことがめられたのである[9]秘密ひみつ報告ほうこく文案ぶんあんづくりは大会たいかい会期かいきちゅうおこなわれ、まずポスペーロフが下書したがきし、これにフルシチョフが口述こうじゅつ筆記ひっき補足ほそくし、ドミトリー・シェピーロフ(モロトフにわるしん外相がいしょう)やミハイル・スースロフとう幹部かんぶ会員かいいん)が加筆かひつ修正しゅうせいし、報告ほうこく2にちまえ2がつ23にち完成かんせい幹部かんぶ会員かいいん回覧かいらんされた[10][11]

 
だい20かいとう大会たいかい記念きねん切手きって。レーニンぞうえがかれる一方いっぽう、スターリンはえがかれていない。

ソ連それん共産党きょうさんとうだい20かい大会たいかい

編集へんしゅう

1956ねん2がつ14にちから開催かいさいされたソ連それん共産党きょうさんとうだい20かい大会たいかいは、スターリンが死去しきょして最初さいしょ大会たいかいであり、個人こじん独裁どくさい体制たいせいから集団しゅうだん指導しどう体制たいせいへの転換てんかんをはじめ、国内こくない政策せいさく外交がいこう政策せいさくなどのあらたな路線ろせん決定けっていなどひろ意味いみでの「スターリン」が予定よていされていた大会たいかいであった。大会たいかい初日しょにちおこなわれたとうだいいち書記しょきのフルシチョフによる中央ちゅうおう委員いいんかい報告ほうこく一般いっぱん報告ほうこく)では、外交がいこう政策せいさくとしては平和へいわ共存きょうぞん路線ろせん提起ていきし、帝国ていこく主義しゅぎ諸国しょこくとのあいだの戦争せんそう防止ぼうしする可能かのうせいがあること、各国かっこく社会しゃかい主義しゅぎ移行いこうするにあたり暴力ぼうりょく革命かくめいだけでなく議会ぎかいせい民主みんしゅ主義しゅぎによる平和へいわ革命かくめいなど多様たよう可能かのうせいがあることなどを注目ちゅうもくされた。国内こくない政策せいさくとしてはベリヤをだい粛清しゅくせいになとして非難ひなんして法治ほうち主義しゅぎ強化きょうかすることをべるとともに、個人こじん崇拝すうはいマルクス・レーニン主義しゅぎ精神せいしんとは無縁むえんであって党内とうない集団しゅうだん指導しどう人民じんみん大衆たいしゅう役割やくわり重要じゅうようであることなどを指摘してきした[12]

大会たいかい討論とうろんでは、レオニード・ブレジネフ(カザフスタンとうだいいち書記しょき)、А.Б.アリストフ(とう中央ちゅうおう委員いいん)、スースロフ、マレンコフが中央ちゅうおう委員いいんかい報告ほうこく沿って法治ほうち主義しゅぎ個人こじん崇拝すうはいとの闘争とうそうについて発言はつげんおこなった。とくつよ調子ちょうし発言はつげんしたのがミコヤンであり、過去かこ20年間ねんかんにおける個人こじん崇拝すうはい集団しゅうだん指導しどう欠如けつじょ指摘してきし、スターリンを名指なざしして著書ちょしょ内容ないよう批判ひはんしてスターリン理論りろん修正しゅうせいうったえた。また、歴史れきし学者がくしゃА.М.パンクラートヴァ(『歴史れきししょ問題もんだい編集へんしゅうちょうとう中央ちゅうおう委員いいん)は、とう研究けんきゅうにおいて個人こじん崇拝すうはい闘争とうそうする必要ひつようがあることをべ、『レーニン全集ぜんしゅうだい4はん編纂へんさんじょう問題もんだいやスターリン時代じだい歴史れきし評価ひょうか修正しゅうせいするべきことについて発言はつげんした。他方たほうで、モロトフ(前外相ぜんがいしょうとう幹部かんぶ会員かいいん)は個人こじん崇拝すうはい問題もんだい一切いっさいれず、ガガノーヴィチ(だいいちふく首相しゅしょうとう政治せいじ局員きょくいん)はこの問題もんだい解決かいけつみであるとほのめかすなど、スターリン消極しょうきょくてきとう幹部かんぶもいた[13]

秘密ひみつ報告ほうこく内容ないよう

編集へんしゅう
 
フルシチョフとスターリン(1936ねん撮影さつえい)。フルシチョフがスターリンの側近そっきんであったことは周知しゅうち事実じじつであった。

フルシチョフの秘密ひみつ報告ほうこく個人こじん崇拝すうはいとその結果けっかについて」は、1956ねん2がつ25にちおこなわれた。会議かいぎ秘密ひみつかいとされ、これまで出席しゅっせきしていた外国がいこく共産党きょうさんとう労働ろうどうしゃとう代表だいひょうまねかれていない。秘密ひみつ報告ほうこくは、スターリンの名前なまえげて、個人こじん崇拝すうはい独裁どくさい政治せいじによる粛清しゅくせい事実じじつおよび戦争せんそう指導しどう内外ないがい政策せいさくじょう問題もんだいてん公表こうひょうした。とくに、ぜん領土りょうどれただい粛清しゅくせい契機けいきとなったセルゲイ・キーロフ暗殺あんさついた陰謀いんぼうについて詳細しょうさいかされた。フルシチョフの秘密ひみつ報告ほうこく要旨ようし以下いかとおりである(下記かき外部がいぶリンク参照さんしょう共産きょうさん主義しゅぎしゃ特有とくゆうのいいまわしが随所ずいしょ登場とうじょうするが、基本きほんてきにそのまま引用いんようした)。

  1. 個人こじん崇拝すうはいカール・マルクス、レーニンによっていましめられていたにもかかわらず、レーニンの死後しごとう国家こっか指導しどうしゃとなったスターリンは、みずからを対象たいしょうとした個人こじん崇拝すうはいゆるすどころか奨励しょうれいし、とう生活せいかつ社会しゃかい主義しゅぎ建設けんせつ重大じゅうだい障害しょうがいをもたらした。
  2. すでにレーニンはスターリンの指導しどうしゃとしての資質ししつ問題もんだいがあることを指摘してきし、かれ書記しょきちょうしょくから異動いどうさせることを提案ていあんしていた。レーニンの死後しご、スターリンはこうしたレーニンの忠告ちゅうこくみみかたむけるそぶりをせたため、かれはその書記しょきちょうしょくとどまった。だがかれはほどなく本性ほんしょうあらわし、とう生活せいかつ規律きりつ無視むしして専横せんおうするにいたった。
  3. 1934ねんだい17かいとう大会たいかい選出せんしゅつされた中央ちゅうおう委員いいんどう候補こうほ139めいのうち、70パーセントにあたる98めいが(おもだい粛清しゅくせいさい処刑しょけいされた。とう大会たいかい代議員だいぎいん全体ぜんたいても、1,966めいのうち1,108めい同様どうよう運命うんめいをたどった。かれらにせられた「はん革命かくめい」の罪状ざいじょうは、その大半たいはんぎぬであった。
  4. スターリンの弾圧だんあつソ連それん社会しゃかいかく方面ほうめん活躍かつやくする活動かつどう、さらにおびただしいかず無辜むこ市民しみんおよんだ。かれらにせられた「トロツキスト」「人民じんみんてき」その罪状ざいじょうは、これまたでっちあげであった。
  5. アドルフ・ヒトラー権力けんりょく掌握しょうあくからソビエト連邦れんぽうへの攻撃こうげき共産きょうさん主義しゅぎ抹殺まっさつ意図いとかくさなかったにもかかわらず、スターリンはヒトラー・ドイツたいする防衛ぼうえい準備じゅんびおこたり、それどころか有能ゆうのうおおくの軍事ぐんじ指導しどうしゃをその地位ちいから追放ついほう逮捕たいほ、さらには処刑しょけいいやった。だい祖国そこく戦争せんそう初期しょき戦闘せんとうにおいて赤軍せきぐん重大じゅうだい敗退はいたいきっし、兵士へいし市民しみん莫大ばくだい犠牲ぎせいしゃしょうじた責任せきにんはスターリンにある。
  6. スターリンの専横せんおうぶりは、だい世界せかい大戦たいせんソ連それん社会しゃかい主義しゅぎ兄弟きょうだいこくとの関係かんけいにも悪影響あくえいきょうおよぼした。そのもっと際立きわだった重大じゅうだいれいヨシップ・ブロズ・チトーひきいるユーゴスラビアとの関係かんけい悪化あっかであり、当時とうじ両国りょうこくあいだしょうじた問題もんだいは、同志どうしあいだはないで解決かいけつできなかったものは何一なにひとつなかったのに、「おれ小指こゆびいちほんうごかせばチトーはえてなくなる」といいはなったスターリンの傲慢ごうまん態度たいど原因げんいん両国りょうこく関係かんけい決裂けつれつし、ユーゴを敵対てきたい陣営じんえいいやってしまった。
  7. こうした個人こじん崇拝すうはい政治せいじ局員きょくいんたちがめられなかった理由りゆうは、スターリンがおおきな声望せいぼう共感きょうかん支持しじっていたこと、抵抗ていこうすれば弾圧だんあつ対象たいしょうとなったこと、政治せいじきょく会議かいぎすらたまにしかひらかれなかったこと、政治せいじ局員きょくいんにもうたがいのけられていたことがげられる。

報告ほうこくでは、ガガーヴィチ、モロトフ、ヴォシーロフ、ミコヤン、マレンコフがスターリンの協力きょうりょくしゃとして登場とうじょうしていたが、その一方いっぽうでモロトフ、ヴォシーロフ、ミコヤンは弾圧だんあつけそうになったひとでもあると指摘してきされている。さらに、フルシチョフとブルガーニンが粛清しゅくせい批判ひはんてき会話かいわをしていたというエピソードがまれた[14]。しかし、フルシチョフは自分じぶんがスターリンのしたでどれだけ忠実ちゅうじつうごいたのかを明言めいげんしなかった。だい粛清しゅくせい積極せっきょくてき加担かたんし、自身じしん出世しゅっせ利用りようしたてん考慮こうりょする必要ひつようがあるとえる(もっとも、スターリンの生前せいぜんは「NO」ということはすなわち「」を意味いみすることであり、一般いっぱん国民こくみんだけでなくとう政府せいふなどスターリンにつかえる立場たちばにあるものまで生命せいめい危険きけんさらされていた)。そして、演説えんぜつ最後さいごはこの報告ほうこく党外とうがい新聞しんぶんらしてはいけないと強調きょうちょうした。

フルシチョフの秘密ひみつ報告ほうこくたいして、あまりの内容ないよう会場かいじょうからこえなかったという。発言はつげん通告つうこくはなかったとおもわれ、大会たいかい議長ぎちょうつとめていたブルガーニンが「個人こじん崇拝すうはい完全かんぜん克服こくふく」、「そのしょ結果けっか一掃いっそう」、「とう指導しどう集団しゅうだんせい厳密げんみつ実践じっせん」などの用意よういされていた決議けつぎ提案ていあんし、満場一致まんじょういっちでの採決さいけつ確認かくにんした。また、フルシチョフ報告ほうこくおよび決議けつぎ公開こうかいせず、とう組織そしきには伝達でんたつすることを決議けつぎした。これで秘密ひみつ会議かいぎわり、大会たいかい最後さいご議事ぎじ日程にっていうつった[15]

報告ほうこくひろまり

編集へんしゅう
 
ポーランド統一とういつ労働ろうどうしゃとうによって関係かんけいしゃけにつくられたフルシチョフ報告ほうこく冊子さっし(1956ねん

だい20かいとう大会たいかいめられたように、フルシチョフ報告ほうこく公表こうひょうされず、ソ連それん共産党きょうさんとう内部ないぶつたえられるものであった。公式こうしき発表はっぴょうとしては、とう機関きかんプラウダ2がつ27にちづけ論説ろんせつレーニン主義しゅぎはたのもとに」において、中央ちゅうおう委員いいんかい報告ほうこくもとづいて個人こじん崇拝すうはい批判ひはん問題もんだいとく重要じゅうようであるとした。大会たいかい参加さんかした外国がいこく共産党きょうさんとう幹部かんぶのうち13めいたいして秘密ひみつ報告ほうこく決議けつぎせることを決定けっていし、3月1にちづけ演説えんぜつ内容ないよう印刷いんさつした[16]ソ連それん共産党きょうさんとう外国がいこく共産党きょうさんとう労働ろうどうしゃとう連絡れんらく作成さくせいした13めいのリストによると、序列じょれつだい1中国共産党ちゅうごくきょうさんとうしゅいさお以下いかフランス共産党きょうさんとうモーリス・トレーズイタリア共産党きょうさんとうパルミーロ・トリアッティチェコスロバキア共産党きょうさんとうアントニーン・ノヴォトニーブルガリア共産党きょうさんとうのヴルコ・チェルヴェンコフ、さらにアルバニア労働党ろうどうとうハンガリー勤労きんろうしゃとうルーマニア共産党きょうさんとうポーランド統一とういつ労働ろうどうしゃとうボレスワフ・ビェルトドイツ社会しゃかい主義しゅぎ統一とういつとう朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとうちぇいさおけんモンゴル人民じんみん革命かくめいとうベトナム労働党ろうどうとうチュオン・チンならんでいる。また、とく重要じゅうようしゅいさおやトレーズには事前じぜんせた可能かのうせいがある[17]。これ以外いがいとうたいしても、重要じゅうようおうじて順次じゅんじ閲覧えつらんをさせたが、ノルウェー共産党きょうさんとうスウェーデン共産党きょうさんとう日本にっぽん共産党きょうさんとうなどには閲覧えつらんおこなわれていない[18]

フルシチョフ報告ほうこくは、各国かっこく共産党きょうさんとうにおいて内容ないようひろめられた。大会たいかい最初さいしょ外国がいこく訪問ほうもんさきであるポーランドでは、スターリン批判ひはん衝撃しょうげきのあまりモスクワ心臓しんぞう発作ほっさこして死亡しぼうしたポーランド統一とういつ労働ろうどうしゃとうだいいち書記しょきボレスワフ・ビェルト後継こうけいしゃえら会議かいぎにフルシチョフが参加さんかし、スターリン批判ひはん意義いぎ説明せつめいする演説えんぜつ3がつ20日はつかった。どうとうはフルシチョフ報告ほうこくのポーランドやく作成さくせい配布はいふし、東欧とうおう諸国しょこくでもっともスターリン批判ひはんられることとなった[19]。また、ソ連それんによる国際こくさい共産きょうさん主義しゅぎ運動うんどう見直みなおしの一環いっかんとして、4がつ17にちコミンフォルム解散かいさん機関きかん恒久こうきゅう平和へいわのために、人民じんみん民主みんしゅ主義しゅぎのために!英語えいごばん』の発行はっこう停止ていし関係かんけい8とう中央ちゅうおう委員いいんかい共同きょうどう声明せいめいした。6月にはいるとユーゴスラビアのチトー大統領だいとうりょうがモスクワりし、スターリン批判ひはんまえてソ連それん・ユーゴのりょう政府せいふおよびりょうとう関係かんけい回復かいふくについて6がつ20日はつか合意ごういした[20]

ソ連それん国内こくないでは、フルシチョフ報告ほうこくひろられるような措置そちられた。3月5にちひらかれたとう幹部かんぶかいは、秘密ひみつ報告ほうこくを「印刷いんさつ禁止きんし」としてとうしゅう委員いいんかい地方ちほう委員いいんかい共和きょうわこくとう中央ちゅうおう委員いいんかいおくり、「すべての党員とういんコムソモールいん、また党員とういん労働ろうどうしゃ職員しょくいんコルホーズ農民のうみん活動かつどう分子ぶんしらせる」ことが決定けっていされ、3月7にちづけ印刷いんさつまわされた。パンフレットにはとお番号ばんごうられ、返却へんきゃく義務付ぎむづけられた[21]。こうした措置そちもあって、一様いちようではないにせよフルシチョフ報告ほうこくソ連それん国民こくみんひろられることとなった。会合かいごうでパンフレットがげられたり、とう幹部かんぶ講演こうえん派遣はけんされたりした。知識ちしきじんのなかには自主じしゅてきうごきをこころみたものもいたが、共産党きょうさんとうはその統制とうせいはかった。10月23にちハンガリー動乱どうらんこると統制とうせい強化きょうか決定的けっていてきとなり、公式こうしき発表はっぴょう以上いじょうのスターリン批判ひはんふうめられることとなった[22]

スターリン批判ひはん世界中せかいじゅうられるきっかけとなったのは、6月4にちアメリカ国務省こくむしょうがフルシチョフの秘密ひみつ報告ほうこく英文えいぶんわけ発表はっぴょうしたことである。これは3がつ1にちづけのパンフレットにもとづくものであった[23]中央ちゅうおう情報じょうほうきょく(CIA)長官ちょうかんアレン・ウェルシュ・ダレスはこの演説えんぜつ内容ないよう入手にゅうしゅするために、かね糸目いとめをつけなかったという[24]。『ニューヨーク・タイムス6月5にちづけはこの全文ぜんぶん紙面しめん掲載けいさいし、おおきな反響はんきょうあたえた[25]ソ連それん以外いがいおおくの共産党きょうさんとう労働ろうどうしゃとう幹部かんぶはフルシチョフ報告ほうこく存在そんざいっていたため、党員とういん国民こくみんへの説明せつめい苦慮くりょした。イタリア共産党きょうさんとう書記しょきちょうのトリアッティやアメリカ共産党きょうさんとう書記しょきちょうのユージン・デニスはスターリン批判ひはん発表はっぴょうし、フランス共産党きょうさんとうはアメリカ国務省こくむしょう秘密ひみつ報告ほうこく発表はっぴょうしたことを遺憾いかんとした。日本にっぽん共産党きょうさんとう秘密ひみつ報告ほうこく公表こうひょう黙殺もくさつした[26]。こうした事態じたいたいしてソ連それん共産党きょうさんとう対応たいおう余儀よぎなくされ、6月30にち中央ちゅうおう委員いいんかい決定けってい個人こじん崇拝すうはいとそのしょ結果けっか克服こくふくについて」(О преодолении культе личности и его последствий)が7がつ2にち発表はっぴょうされた。この文書ぶんしょでは、個人こじん崇拝すうはいこった理由りゆうソ連それん建設けんせつ客観きゃっかんてき歴史れきしてき条件じょうけんとスターリンの個人こじんてき資質ししつもとめ、スターリンの独裁どくさいてき支配しはいにもかかわらず党内とうないには「レーニンてき中核ちゅうかく」が存在そんざいしていたこと、「個人こじん崇拝すうはい非難ひなんをソビエト社会しゃかい制度せいど本質ほんしつもとめようとするのは、たいへんなあいだちがい」であるとし、共産党きょうさんとうとソビエト政権せいけん擁護ようごした[27]

影響えいきょう

編集へんしゅう

ソビエト連邦れんぽう

編集へんしゅう

ソ連それん共産党きょうさんとうによるスターリン批判ひはん前後ぜんごして、スターリン執政しっせい銃殺じゅうさつ投獄とうごく追放ついほうされた人々ひとびと名誉めいよ回復かいふくおこなわれた。秘密ひみつ警察けいさつ活動かつどうもスターリン時代じだいよりはゆるめられ、政治せいじ経済けいざい文化ぶんか社会しゃかいにさまざまな「スターリン」がすすめられた。しかし、その秘密ひみつ警察けいさつ国民こくみん監視かんしするという恐怖きょうふ支配しはい構図こうずソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかいまでわらなかった。また、秘密ひみつ報告ほうこくなか民族みんぞく強制きょうせい移住いじゅう被害ひがいしゃとして言及げんきゅうされた民族みんぞくのうちカラチャイじんカルムイクじんチェチェンじんイングーシじんバルカルじん名誉めいよ回復かいふくおこなわれ、故郷こきょうでの自治領じちりょう再建さいけんされた(カラチャイ・チェルケス自治じちしゅうカルムイク自治じちしゅうチェチェン・イングーシ自治じち共和きょうわこくカバルダ・バルカル自治じち共和きょうわこく)。その一方いっぽうで、クリミア・タタールじんヴォルガ・ドイツじん名誉めいよ回復かいふくがなされず、自治領じちりょう再建さいけんみとめられなかった[28]

スターリン批判ひはんスターリン政治せいじ過程かていのなかで、フルシチョフがソ連それん共産党きょうさんとう政府せいふ主導しゅどうけんにぎることとなった。べつのいいかたをすれば、フルシチョフが権力けんりょくにぎ過程かていでスターリン批判ひはんおこなわれたのである。これにたいして、1957ねんにマレンコフぜん首相しゅしょう、モロトフ前外相ぜんがいしょう、ブルガーニン首相しゅしょう、ガガーヴィチだいいちふく首相しゅしょうらがフルシチョフの内外ないがい政策せいさく批判ひはんしてフルシチョフの失脚しっきゃくはかったが失敗しっぱいし、ぎゃくかれらが失脚しっきゃくすることとなった(はんとうグループ事件じけん)。これによりフルシチョフの権力けんりょく基盤きばん安定あんていし、1964ねん失脚しっきゃくするまでフルシチョフ体制たいせいつづくこととなった。

保阪ほさかただしやすし指摘してきによると、ソ連それんでは少年しょうねんにこの出来事できごと通過つうかした世代せだい(フルシチョフ世代せだい)は「権威けんい失墜しっついするさま」を実際じっさい目撃もくげきしたため、のちにまれる「ブレジネフ世代せだい」よりリベラルかんがかたにつけることになる。ソ連それん最後さいご指導しどうしゃとなったミハイル・ゴルバチョフもその一人ひとりである[29]

1997ねん11月6にちモスクワ放送ほうそうでは『じゅうがつ革命かくめいきた1917ねんからきゅうソ連それん時代じだいの87ねんあいだに6200まんにん殺害さつがいされ、そのうち、4000まん強制きょうせい収容しゅうようしょんだ。レーニンは社会しゃかい主義しゅぎ建設けんせつのため国内こくないで400まんいのちうばい、スターリンは1260まんいのちうばった』と放送ほうそうした[30][31]

 
ハンガリー動乱どうらん(1956ねん)。首都しゅとブダペスト制圧せいあつするソ連それんぐん

ひがしヨーロッパ

ソ連それん影響えいきょうにあったひがしヨーロッパ諸国しょこくでは、スターリン批判ひはんソ連それん支配しはい権威けんいるがした。ポーランド西部せいぶ都市としポズナンでは、1956ねん6月28にち給料きゅうりょう未払みはらいにはしはっする大衆たいしゅうデモが自由じゆうだつ社会しゃかい主義しゅぎもとめる大衆たいしゅう暴動ぼうどうへと発展はってんし、ポーランドぐん投入とうにゅうされて鎮圧ちんあつされる事件じけん発生はっせいした(ポズナン暴動ぼうどう)。ポーランド統一とういつ労働ろうどうしゃとう失政しっせいみとめ、10月21にちヴワディスワフ・ゴムウカとうだいいち書記しょき正式せいしき就任しゅうにんし、スターリン政策せいさくすすめた。一方いっぽう、ハンガリーでは知識ちしきじん民衆みんしゅうはんソ連それん感情かんじょうたかまり、スターリン主義しゅぎしゃぜんとう書記しょきちょうラーコシ・マーチャーシュらによる勤労きんろうしゃとう支配しはいへの反発はんぱつつよまった。ソ連それんちゅうハンガリー大使たいしユーリ・アンドロポフやハンガリーに派遣はけんしたスースロフらから不穏ふおん現地げんち情勢じょうせい察知さっちしており、10月23にち民主みんしゅもとめる民衆みんしゅう蜂起ほうきこるとただちにソ連それんぐん出動しゅつどうさせ、最終さいしゅうてき鎮圧ちんあつした(ハンガリー動乱どうらん)。ソ連それんぐんはハンガリー勤労きんろうしゃとう解散かいさんさせてハンガリー社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとう再編さいへんさせ、カーダール・ヤーノシュとう書記しょきちょう就任しゅうにんしてスターリンすすめさせながら、これまでスターリンラーコシすすめていたナジ・イムレ逮捕たいほ処刑しょけいし、ハンガリー動乱どうらん責任せきにんわせた。

ユーゴスラビア

ソ連それんとユーゴスラビアはスターリン批判ひはん前後ぜんごつうじて関係かんけい改善かいぜんみちあゆみだしていたが、1957ねんにはふたたびフルシチョフとチトーの会談かいだん実現じつげんした。両国りょうこく関係かんけい改善かいぜんつうじて国際こくさい政治せいじへの影響えいきょうりょく強化きょうかねらっていたとおもわれるが、結局けっきょく、1957ねん11月共産党きょうさんとう労働ろうどうしゃとう代表だいひょうしゃ会議かいぎにチトーは出席しゅっせきせず、ユーゴ代表だいひょうだん宣言せんげんにも署名しょめいしなかった。ユーゴスラビア共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめい1958ねん4がつあたらしい綱領こうりょう採択さいたくし、ソ連それん覇権はけん主義しゅぎ官僚かんりょう主義しゅぎ批判ひはんして、ユーゴ独自どくじ社会しゃかい主義しゅぎ路線ろせんである自主じしゅ管理かんり社会しゃかい主義しゅぎ確認かくにんした。その結果けっかソ連それんとユーゴの関係かんけいはふたたび悪化あっかすることとなった[32]

西にしヨーロッパ

資本しほん主義しゅぎ議会ぎかいせい民主みんしゅ主義しゅぎにあった西にしヨーロッパ諸国しょこく共産党きょうさんとうでは、スターリン批判ひはん直接的ちょくせつてき影響えいきょうはなかったものの、スターリンをしんじてきた一般いっぱん党員とういんのなかには動揺どうようしょうじ、党内とうない運営うんえいのありかた社会しゃかい主義しゅぎ理念りねんたいする疑問ぎもんとう幹部かんぶこたえなければならなかった。さらに、ハンガリー動乱どうらんがソビエト政権せいけん共産党きょうさんとうたいするあく印象いんしょう決定的けっていてきなものにし、すくなくない党員とういん支持しじしゃ事件じけん批判ひはんとうはなれる結果けっかまねいた。

中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく

スターリン批判ひはん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくとの関係かんけい深刻しんこく亀裂きれつした。フルシチョフ報告ほうこくただちにかえられ、3月15にち中国共産党ちゅうごくきょうさんとう書記しょききょく会議かいぎ3月19にち3月24にちとう拡大かくだい政治せいじきょく会議かいぎ検討けんとうされた。毛沢東もうたくとうはスターリンは7ぶんただしさ、3ぶんあやまり(「ななふんいさおさんふんよぎ」。皮肉ひにくにものちには毛沢東もうたくとう自身じしん評価ひょうかにもなる)という評価ひょうかちだし、『人民日報じんみんにっぽう4がつ5にちづけ論説ろんせつプロレタリアート独裁どくさい歴史れきしてき経験けいけんについて」を発表はっぴょうして、フルシチョフ報告ほうこくにおけるスターリンの全面ぜんめん否定ひてい批判ひはんした[33]どう論文ろんぶんはスターリンを「しんのレーニン主義しゅぎしゃ」とげ、とう幹部かんぶちゅう関係かんけいソ連それん内政ないせいへの批判ひはんてき発言はつげんおこなうようになった[34]。それでも、同年どうねん9月15にちから9月27にちにかけてひらかれた中国共産党ちゅうごくきょうさんとうだい8かい大会たいかいでは、綱領こうりょうから「毛沢東もうたくとう思想しそう」の言葉ことば削除さくじょし、とう中央ちゅうおう政治せいじきょくによる集団しゅうだん指導しどうほう支配しはいちだした。さらに知識ちしきじんたいして言論げんろん自由じゆうみとめる政治せいじ運動うんどう百花斉放百家争鳴」をおこない、一定いっていスターリンすすめた。しかし、ハンガリー動乱どうらんこるとソ連それん軍事ぐんじ介入かいにゅう支持しじし、個人こじん崇拝すうはい批判ひはんには消極しょうきょくてきになった。他方たほうで、毛沢東もうたくとう1950年代ねんだい後半こうはんにおいてフルシチョフの平和へいわ共存きょうぞん政策せいさくたいする反発はんぱつつよめ、1960年代ねんだいにはちゅう対立たいりつ表面ひょうめんした。中国ちゅうごくソ連それんを「修正しゅうせい主義しゅぎ」と批判ひはんし、ソ連それんぎゃく中国ちゅうごくを「教条きょうじょう主義しゅぎ」と批判ひはんした。中国ちゅうごく世界せかい各国かっこくみずからの立場たちば宣伝せんでんした。日本にっぽんでも、『プロレタリアート独裁どくさい歴史れきしてき経験けいけんについて』(そとぶん出版しゅっぱんしゃ、1956ねん)や『国際こくさい共産きょうさん主義しゅぎ運動うんどうそう路線ろせんについての論戦ろんせん――レーニン主義しゅぎなのかそれとも社会しゃかい帝国ていこく主義しゅぎなのか?』(そとぶん出版しゅっぱんしゃ1965ねん)などの中国共産党ちゅうごくきょうさんとう立場たちば宣伝せんでんする日本語にほんご刊行かんこうぶつ発行はっこうして、スターリンを擁護ようごし、ソ連それん共産党きょうさんとうを「修正しゅうせい主義しゅぎしゃ」「はん革命かくめい」などと攻撃こうげきした。こうして両国りょうこく関係かんけい急速きゅうそく悪化あっかし、1960年代ねんだいから1980年代ねんだいにかけて中国ちゅうごくソ連それんはことあるごとに対立たいりつすることとなった。

朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく北朝鮮きたちょうせん

朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく北朝鮮きたちょうせん)ではすでにきむ日成いるそん首相しゅしょう労働党ろうどうとう委員いいんちょうがスターリンがた支配しはい体制たいせいをきずきあげており、スターリン批判ひはん北朝鮮きたちょうせんおよぶことに否定ひていてきであった。すでに1955ねんはじめにはソ連それんにおけるきむ日成いるそんへの個人こじん崇拝すうはい問題もんだいとなっており、これにたいきむ日成いるそん12月ソ連それん偏重へんちょう文化ぶんか政策せいさく批判ひはんし「主体しゅたい」を重視じゅうしする発言はつげんおこなっていた[35][36]きむ日成いるそんは、朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとうとう創立そうりつ以来いらい集団しゅうだん指導しどう原則げんそくまもられてきたと主張しゅちょうし、4がつ23にちから4がつ29にちにかけてひらかれた朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとうだい3かい大会たいかいきむ日成いるそんは「他人たにんのものを機械きかいてきれ、鵜呑うのみにする教条きょうじょうてき方法ほうほう」を批判ひはんし「主体しゅたい(チュチェ)」の構築こうちく主張しゅちょうし、スターリン批判ひはん北朝鮮きたちょうせんへの適用てきようあん批判ひはんするなど、主体しゅたい思想しそう原型げんけいひとつとなる演説えんぜつおこなった[37]。また、「朝鮮ちょうせんとうにとっては「個人こじん崇拝すうはい」とは、ぼくけんひさし崇拝すうはいのことである」との主張しゅちょうおこなっている[38]。さらに、1956ねん6がつから8がつにかけて党内とうない対立たいりつ激化げきかし、のべやすソ連それん幹部かんぶきむ日成いるそん個人こじん崇拝すうはいとして批判ひはんおこなったが、ぎゃくきむ日成いるそん勝利しょうりすることとなった(8がつ宗派しゅうは事件じけん)。その、1958ねんまでに批判ひはんおこなった幹部かんぶ粛清しゅくせいされ、北朝鮮きたちょうせんソ連それんとの関係かんけい冷却れいきゃくした。きむ日成いるそん政権せいけん個人こじん独裁どくさいつよめ、その出身しゅっしん成分せいぶん制度せいど確立かくりつされ、敵対てきたい階層かいそうたいする容赦ようしゃのない弾圧だんあつはじまる[39]。また、自由じゆう主義しゅぎ思想しそうをもって個人こじん崇拝すうはい批判ひはん同調どうちょうするインテリにたいしても攻撃こうげきつよめた[40]

日本にっぽん

編集へんしゅう

ソ連それん共産党きょうさんとうだい20かい大会たいかいは、日本にっぽんでもおおいに注目ちゅうもくされた。フルシチョフによる中央ちゅうおう委員いいんかい報告ほうこく一般いっぱん報告ほうこく)やミコヤンの個人こじん崇拝すうはい批判ひはん演説えんぜつなどが、日本にっぽん共産党きょうさんとう機関きかん前衛ぜんえい』、総合そうごう世界せかい』および『中央公論ちゅうおうこうろん』などに掲載けいさいされた。このほか日本にっぽん共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかい翻訳ほんやく委員いいんかいやく『ソ同盟どうめい共産党きょうさんとう大会たいかい だい20かいぜん4分冊ぶんさつ合同ごうどう出版しゅっぱんしゃ合同ごうどう新書しんしょ7-10、1956ねん)、野中のなか昌夫まさお橋本はしもと弘毅こうき山田やまだ茂勝しげかつわけへん)『フルシチョフ報告ほうこく・ミコヤン演説えんぜつ――ソ同盟どうめい共産党きょうさんとうだい20かいとう大会たいかい』(青木あおき書店しょてん青木あおき文庫ぶんこ、1956ねん)などが翻訳ほんやく刊行かんこうされた。フルシチョフ報告ほうこくをアメリカ国務省こくむしょう発表はっぴょうすると、日本にっぽんでも本格ほんかくてきにスターリン批判ひはん問題もんだいになり、その全文ぜんぶんが『中央公論ちゅうおうこうろん』71かん8ごう(1956ねん8がつ)に掲載けいさいされた[41]。(なお、そのにフルシチョフ報告ほうこく志水しみず速雄はやお翻訳ほんやくによって『フルシチョフ秘密ひみつ報告ほうこく「スターリン批判ひはん」』(講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ204、1977ねん)として出版しゅっぱんされたが、和田わだ春樹はるき指摘してきによると、1970年代ねんだい西欧せいおうあらわれた偽書ぎしょもとづく翻訳ほんやくである[42]。)

一方いっぽうで、フルシチョフ報告ほうこくたいする日本にっぽん共産党きょうさんとう態度たいど慎重しんちょうであった。どうとうは1956ねん3月6にちから3月8にちひらかれただい5かい中央ちゅうおう委員いいんかい総会そうかいソ連それん共産党きょうさんとうだい20かいとう大会たいかいについて議論ぎろんをして大会たいかい決定けってい学習がくしゅうすることをめたが(『アカハタ』1956ねん3がつ24にちづけの「ソ同盟どうめい共産党きょうさんとうだい20かい大会たいかいについて」で発表はっぴょう[43])、この時点じてんではまだフルシチョフ報告ほうこく存在そんざい把握はあくしていなかった。ソ連それん共産党きょうさんとうだい20かい大会たいかいには、北京ぺきん機関きかんから袴田はかまだ里見さとみきゅう国際こくさい)と河田かわた賢治けんじきゅう所感しょかん)が参加さんかしていたが、フルシチョフ報告ほうこく閲覧えつらんゆるされていなかった。袴田はかまだ河田かわたはそのあし北朝鮮きたちょうせんわた朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとうだい3かい大会たいかい(1956ねん4がつ23~29にち)に参加さんかしたのち北京ぺきんでフルシチョフ報告ほうこく情報じょうほうれたので、ざい北京ぺきんソ連それん大使館たいしかんき、パーヴェル・ユージン大使たいし許可きょかて2日間にちかんかけて閲覧えつらんしたという[44]。しかし、アメリカ国務省こくむしょうによる秘密ひみつ報告ほうこく公表こうひょう以後いごも、日本にっぽん共産党きょうさんとうはこれは外国がいこくとう問題もんだいであるとして正面しょうめんっての批判ひはんけた。

それでも、日本にっぽん共産党きょうさんとう内部ないぶでは、さまざまなかたちでスターリン批判ひはんめられ、スターリンこころみられた。スターリンの死後しごどうとう分裂ぶんれつ武装ぶそう闘争とうそう路線ろせん終止符しゅうしふち、あたらしい運動うんどう路線ろせん確立かくりつしようとするなかでスターリン批判ひはんおこなわれた。すでに1955ねんだい6かい全国ぜんこく協議きょうぎかい(6ぜんきょう)では、とうさい統一とういつ武装ぶそう闘争とうそう路線ろせん批判ひはん正式せいしき決定けっていし、ソ連それん共産党きょうさんとうならって政治せいじきょく書記しょきちょうポストを廃止はいしして、わって幹部かんぶかいだいいち書記しょきポストに名称めいしょう変更へんこうしていた。1956ねん6月28にちから6月30にちだい7かい中央ちゅうおう委員いいんかい総会そうかいでは、ソ連それん共産党きょうさんとうだい20かい大会たいかいしめされた平和へいわ共存きょうぞん路線ろせんけて、51ねん綱領こうりょう武装ぶそう闘争とうそう路線ろせんかかわる部分ぶぶん抜本ばっぽんてき改訂かいていする必要ひつようがあるとした[45]以後いご1961ねんだい8かいとう大会たいかいにかけて、とう綱領こうりょう改訂かいてい運動うんどう路線ろせんかんする議論ぎろん公然こうぜんおこなわれることになった。たとえば、わか党員とういん理論りろんであった上田うえだ耕一郎こういちろうは、『戦後せんご革命かくめい論争ろんそう上下じょうげまき大月書店おおつきしょてん、1956-57ねん)を刊行かんこうした。このほん上田うえだは、「このしょは、ある意味いみではフルシチョフのいわゆる「秘密ひみつ報告ほうこく」によるスターリン非難ひなんからけたおおきな衝撃しょうげき結果けっかとしてうまれたものである」と冒頭ぼうとう[46]敗戦はいせんから1956ねん当時とうじまでの日本にっぽんにおけるマルクス主義まるくすしゅぎ理論りろん整理せいりさい検討けんとうすることをこころみた。しかしのちに、ほん内容ないようが「清算せいさん主義しゅぎてきである」としてとうから批判ひはんけることとなり、上田うえだ1964ねん自己じこ批判ひはんして同書どうしょ絶版ぜっぱんにした[注釈ちゅうしゃく 1]

さらに、より根本こんぽんてき方針ほうしん転換てんかん要求ようきゅうし、とう批判ひはんおこなうグループもまれた。これにたいして、とう指導しどうはスターリン批判ひはん過度かどおこなわれることを警戒けいかいして統制とうせいおこなった[47]。その結果けっか、1961ねんだい8かいとう大会たいかいにかけて、急進きゅうしんてき社会しゃかい主義しゅぎ革命かくめいをめざすトロツキストや、革命かくめいではなく漸進ぜんしんてき改良かいりょうてき方法ほうほうによる社会しゃかい主義しゅぎへの転換てんかん目指めざ構造こうぞう改革かいかくなどが相次あいついで日本にっぽん共産党きょうさんとう離党りとうすることになった。構造こうぞう改革かいかく場合ばあい汲卓いち長洲ながす一二かずじらが『現代げんだいマルクス主義まるくすしゅぎ 反省はんせい展望てんぼうぜん3かん大月書店おおつきしょてん、1958ねん)などを刊行かんこうして共感きょうかんする党員とういんあつめ、主流しゅりゅうとはことなる独自どくじ路線ろせん追求ついきゅうしたため除名じょめいされた[48]。トロツキストの場合ばあい黒田くろだ寛一かんいち太田おおたりゅうらは、あたらしい前衛ぜんえいとうをつくるため1957ねん日本にっぽんトロッキスト聯盟れんめい結成けっせいした。これとはべつに、1958ねんには全日本ぜんにほん学生がくせい自治じちかいそう連合れんごう活動かつどうであった香山かやま健一けんいち森田もりたみのるらが共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめい(ブント)を結成けっせいした。これらのしょ党派とうは日本にっぽんしん左翼さよくかたちづくってゆくことになる[49][50]

スターリン批判ひはんは、共産党きょうさんとうとその周辺しゅうへんだけでなく学術がくじゅつ分野ぶんやにもおよんだ。たとえば丸山まるやま真男まさおは、スターリン批判ひはんとそのあつかかたたいして、道徳どうとくてき感傷かんしょう主義しゅぎ通俗つうぞくてき意味いみにおけるマキャベリズムられるとして、「政治せいじ論理ろんり」の存在そんざい指摘してきした[51]。また、マルクス主義まるくすしゅぎてき従来じゅうらい学説がくせつ批判ひはん相対そうたいする議論ぎろん注目ちゅうもくされるようになった。歴史れきしがくでは、それまでの「単純たんじゅん階級かいきゅう闘争とうそう史観しかん」が一気いっきやぶられ、歴史れきし認識にんしきにおける多様たよう視点してん条件じょうけんつくいち要因よういんとなったという指摘してきがある[52]蠟山政道せいどうは、経済けいざい成長せいちょうによる日本にっぽん社会しゃかい変化へんかによって、従来じゅうらいマルクス主義まるくすしゅぎによる階級かいきゅう社会しゃかいろんではけない大衆たいしゅう社会しゃかい日本にっぽん出現しゅつげんしたことから、「大衆たいしゅう社会しゃかいろん」がさかんになったと指摘してきしている[53]

だいスターリン批判ひはん(1961ねん

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すうねん、もう一度いちどフルシチョフによるスターリン批判ひはんおこなわれた。この結果けっか1961ねん10月31にちよるから11月1にち朝方あさがたにかけて、スターリン遺体いたいレーニンびょうから撤去てっきょされ、やされた。岩間いわまとおるはこれを「遺体いたいをどこかへうつしてまで、スターリンをやろうというのだから、いまでもまだスターリン主義しゅぎ厳然げんぜんたる権威けんいつづけているとわねばなるまい」とひょうしている[54]

ときなが1987ねん11月7にち在任ざいにんちゅうのゴルバチョフ書記しょきちょうロシア革命かくめい70周年しゅうねん記念きねん式典しきてんでスターリンを批判ひはんし、レーニンもスターリン主義しゅぎ元凶げんきょうとして批判ひはんした。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ただし、石堂いしどうきよしりん証言しょうげんによれば、『戦後せんご革命かくめい論争ろんそう』の内容ないよう内野うちのたけし小野おの義彦よしひこ勝部かつべはじめ石堂いしどうらの研究けんきゅうかい討論とうろんがもとになっており、上田うえだ耕一郎こういちろうがこれをまとめたものだという(石堂いしどうきよしりん増山ますやま太助たすけ戦後せんご左翼さよく人士じんしぞう』をむ」『図書としょ新聞しんぶんだい2507ごう、2000ねん10がつ28にちづけ)。

出典しゅってん

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  1. ^ 和田わだ春樹はるき、2016ねん、p.10
  2. ^ 下斗米しもとめ伸夫のぶお、2004ねん、2-3しょう下斗米しもとめ伸夫のぶお、2011ねん、4-5しょう
  3. ^ 和田わだ春樹はるき、2016ねん序章じょしょう
  4. ^ 和田わだ春樹はるき、2016ねん、1-2しょう
  5. ^ 和田わだ春樹はるき、2016ねん、3しょう
  6. ^ 和田わだ春樹はるき、2016ねん、4-5しょう
  7. ^ 和田わだ春樹はるき、2016ねん、6しょう
  8. ^ 和田わだ春樹はるき、2016ねん、pp.288-91
  9. ^ 和田わだ春樹はるき、2016ねん、pp.292-95
  10. ^ 和田わだ春樹はるき、2016ねん、pp.307-09
  11. ^ 外部がいぶ該当がいとうリンク
  12. ^ 和田わだ春樹はるき、2016ねん、pp.297-99
  13. ^ 和田わだ春樹はるき、2016ねん、pp.299-302, 304-05
  14. ^ 和田わだ春樹はるき、2016ねん、pp.312-13
  15. ^ 和田わだ春樹はるき、2016ねん、p.314
  16. ^ 和田わだ春樹はるき、2016ねん、p.315
  17. ^ 下斗米しもとめ伸夫のぶお、2011ねん、p.291. なお、下斗米しもとめ(2004ねん、p.101)では、13めい外国がいこくとう代表だいひょうしゃ演説えんぜつ事前じぜんせられたとしていたが、2011ねん著書ちょしょでこれを修正しゅうせいしている。
  18. ^ 下斗米しもとめ伸夫のぶお、2011ねん、pp.291-92
  19. ^ 和田わだ春樹はるき、2016ねん、pp.328-29
  20. ^ 和田わだ春樹はるき、2016ねん、pp.348-49
  21. ^ 和田わだ春樹はるき、2016ねん、pp.315-16
  22. ^ 和田わだ春樹はるき、2016ねん、8-9しょう
  23. ^ 和田わだ春樹はるき、2016ねん、pp.349, 315
  24. ^ 落合おちあい信彦のぶひこ『21世紀せいきへの演出えんしゅつしゃたち CIA vs KGB』 (集英社しゅうえいしゃ文庫ぶんこ[お-5-5]、1984ねん初出しょしゅつ1981ねん)、p.97 ISBN 4087507645
  25. ^ Text of Speech on Stalin by Khrushchev as Released by the State Department, The New York Times, June 5, 1956.
  26. ^ 和田わだ春樹はるき、2016ねん、pp.350-51
  27. ^ 和田わだ春樹はるき、2016ねん、pp.355-58
  28. ^ 松戸まつどせいひろし、2011ねん、p.104
  29. ^ 保阪ほさかただしかん昭和しょうわ空白くうはくく――昭和しょうわ わす証言しょうげんしゃたち Part2』(講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ[ほ-10-12]、2006ねん初出しょしゅつ2003ねん)、p.295 ISBN 978-4062754897
  30. ^ 雑誌ざっし幻想げんそう批評ひひょう(はる書房しょぼう)1ごう(2004ねん)の創刊そうかんへいもと達吉たつきち報告ほうこくおよびpp.123-137, p.159から。
  31. ^ 外部がいぶリンク
  32. ^ 岡本おかもと和彦かずひこ書評しょひょう論文ろんぶん スターリン批判ひはんはじまりと帰結きけつかんするいち考察こうさつ――和田わだ春樹はるきちょ『スターリン批判ひはん 1953~56ねん 一人ひとり独裁どくさいしゃが、いかに20世紀せいき世界せかいうごかしたか』作品社さくひんしゃ、2016ねん」(東京とうきょう成徳しげのり大学だいがく人文学部じんぶんがくぶおう用心ようじん理学部りがくぶ研究けんきゅう紀要きよう』25ごう、2018ねん)、pp.158-159
  33. ^ 和田わだ春樹はるき、2016ねん、pp.338-39
  34. ^ 下斗米しもとめ伸夫のぶお、2011ねん、pp.292
  35. ^ 下斗米しもとめ伸夫のぶお、2011ねん、p.294
  36. ^ じょだい粛『きむ日成いるそん』(はやししげるやく講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ2162、2013ねん初出しょしゅつ1992ねん)、p.217 ISBN 978-4062921626
  37. ^ 和田わだ春樹はるき、2016ねん、p.338
  38. ^ 和田わだ春樹はるき北朝鮮きたちょうせん現代げんだい』(岩波いわなみ新書しんしょしんあかばん1361、2012ねん)、p.84 ISBN 978-4004313618
  39. ^ 萩原はぎはらりょう拉致らちかく餓死がしくに 北朝鮮きたちょうせん』(文春ぶんしゅん新書しんしょ306、2003ねん)、p.177-78 ISBN 416660306X
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参考さんこう文献ぶんけん

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ソ連それん当時とうじ史料しりょうもとづいた研究けんきゅうしょ

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ロシア根本こんぽん史料しりょう

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  • О культе личности и его последствиях, «Известия ЦК КПСС», 1989, No.3, стр.128-70.
  • Н.С. Доклад (ред.), «Хрущёва о культе личности Сталина на XX съезд КПСС», Росспэн, Москва, 2002г.

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外部がいぶリンク

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