ポスペーロフ委員 いいん 会 かい による調査 ちょうさ 報告 ほうこく は、ソ連 それん 共産党 きょうさんとう 第 だい 20回 かい 大会 たいかい を直前 ちょくぜん に控 ひか えた1956年 ねん 2月 がつ 9日 にち に中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 幹部 かんぶ 会 かい で行 おこな われた。同 どう 報告 ほうこく は国家 こっか 保安 ほあん 委員 いいん 会 かい (КГБ )の資料 しりょう に基 もと づいて、(1) 1935 〜40年 ねん のあいだに1,548,366名 めい が逮捕 たいほ され、688,503名 めい が銃殺 じゅうさつ されたこと、(2) 粛清 しゅくせい は共産党 きょうさんとう ・国家 こっか 機関 きかん ・地方 ちほう 機関 きかん ・経済 けいざい 組織 そしき ・軍 ぐん ・内務 ないむ 人民 じんみん 委員 いいん 部 ぶ などの指導 しどう 者 しゃ 層 そう を広 ひろ く呑 の み込 こ んだこと、(3) 特 とく に1934年 ねん の全 ぜん 連邦 れんぽう 共産党 きょうさんとう (ボリシェヴィキ)第 だい 17回 かい 大会 たいかい (英語 えいご 版 ばん ) で選出 せんしゅつ された中央 ちゅうおう 委員 いいん と同 どう 候補 こうほ 139名 めい のうち98名 めい が銃殺 じゅうさつ され、大会 たいかい 代議員 だいぎいん およびオブザーバー1,966名 めい のうち1,108名 めい が逮捕 たいほ され、うち848名 めい が銃殺 じゅうさつ されたこと、(4) 処刑 しょけい された者 もの のなかにはドイツ人 じん ・ポーランド人 じん ・ラトビア人 じん ・朝鮮 ちょうせん 人 じん など多 おお くの外国 がいこく 人 じん が含 ふく まれていたこと、(5) 大量 たいりょう 逮捕 たいほ にあたって反 はん ソ団体 だんたい のでっち上 あ げが行 おこな われ、逮捕 たいほ 者 しゃ には暴行 ぼうこう ・拷問 ごうもん ・脅迫 きょうはく など違法 いほう な手段 しゅだん が系統的 けいとうてき に用 もち いられたこと、(6) こうした大量 たいりょう 抑圧 よくあつ がスターリンの指示 しじ ・承認 しょうにん のもとに行 おこな われていたことを明 あき らかにした[8] 。
スターリンによる大 だい 粛清 しゅくせい の全貌 ぜんぼう を明 あき らかにしたこの報告 ほうこく は幹部 かんぶ 会員 かいいん に衝撃 しょうげき を与 あた え、フルシチョフやミコヤンは党 とう 大会 たいかい で報告 ほうこく すべきであると主張 しゅちょう したが、この時点 じてん では誰 だれ がどのように報告 ほうこく を行 おこな うかは決 き まっていなかった。大会 たいかい 前日 ぜんじつ の2月 がつ 13日 にち に開 ひら かれた幹部 かんぶ 会 かい で、この問題 もんだい についての報告 ほうこく をフルシチョフが行 おこな うこと、この報告 ほうこく を大会 たいかい の秘密 ひみつ 会 かい で行 おこな うことを決定 けってい した。同日 どうじつ に行 おこな われた中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 総会 そうかい は、内容 ないよう が伏 ふ せられたうえでフルシチョフ報告 ほうこく が行 おこな われることを承認 しょうにん した。このように、フルシチョフ報告 ほうこく は大会 たいかい の直前 ちょくぜん になって行 おこな うことが決 き められたのである[9] 。秘密 ひみつ 報告 ほうこく の文案 ぶんあん づくりは大会 たいかい 会期 かいき 中 ちゅう に行 おこな われ、まずポスペーロフが下書 したが きし、これにフルシチョフが口述 こうじゅつ 筆記 ひっき で補足 ほそく し、ドミトリー・シェピーロフ (モロトフに代 か わる新 しん 外相 がいしょう )やミハイル・スースロフ (党 とう 幹部 かんぶ 会員 かいいん )が加筆 かひつ ・修正 しゅうせい し、報告 ほうこく 2日 にち 前 まえ の2月 がつ 23日 にち に完成 かんせい し幹部 かんぶ 会員 かいいん に回覧 かいらん された[10] [11] 。
第 だい 20回 かい 党 とう 大会 たいかい の記念 きねん 切手 きって 。レーニン像 ぞう が描 えが かれる一方 いっぽう 、スターリンは描 えが かれていない。
ソ連 それん 共産党 きょうさんとう 第 だい 20回 かい 大会 たいかい
編集 へんしゅう
1956年 ねん 2月 がつ 14日 にち から開催 かいさい されたソ連 それん 共産党 きょうさんとう 第 だい 20回 かい 大会 たいかい は、スターリンが死去 しきょ して最初 さいしょ の大会 たいかい であり、個人 こじん 独裁 どくさい 体制 たいせい から集団 しゅうだん 指導 しどう 体制 たいせい への転換 てんかん をはじめ、国内 こくない 政策 せいさく や外交 がいこう 政策 せいさく などの新 あら たな路線 ろせん の決定 けってい など広 ひろ い意味 いみ での「非 ひ スターリン化 か 」が予定 よてい されていた大会 たいかい であった。大会 たいかい 初日 しょにち に行 おこな われた党 とう 第 だい 一 いち 書記 しょき のフルシチョフによる中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 報告 ほうこく (一般 いっぱん 報告 ほうこく )では、外交 がいこう 政策 せいさく としては平和 へいわ 共存 きょうぞん 路線 ろせん を提起 ていき し、帝国 ていこく 主義 しゅぎ 諸国 しょこく とのあいだの戦争 せんそう を防止 ぼうし する可能 かのう 性 せい があること、各国 かっこく が社会 しゃかい 主義 しゅぎ に移行 いこう するにあたり暴力 ぼうりょく 革命 かくめい だけでなく議会 ぎかい 制 せい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ による平和 へいわ 革命 かくめい など多様 たよう な可能 かのう 性 せい があることなどを述 の べ注目 ちゅうもく された。国内 こくない 政策 せいさく としてはベリヤを大 だい 粛清 しゅくせい の担 にな い手 て として非難 ひなん して法治 ほうち 主義 しゅぎ を強化 きょうか することを述 の べるとともに、個人 こじん 崇拝 すうはい がマルクス・レーニン主義 しゅぎ の精神 せいしん とは無縁 むえん であって党内 とうない の集団 しゅうだん 指導 しどう と人民 じんみん 大衆 たいしゅう の役割 やくわり が重要 じゅうよう であることなどを指摘 してき した[12] 。
大会 たいかい 討論 とうろん では、レオニード・ブレジネフ (カザフスタン党 とう 第 だい 一 いち 書記 しょき )、А.Б. アリストフ(党 とう 中央 ちゅうおう 委員 いいん )、スースロフ、マレンコフが中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 報告 ほうこく に沿 そ って法治 ほうち 主義 しゅぎ や個人 こじん 崇拝 すうはい との闘争 とうそう について発言 はつげん を行 おこな った。特 とく に強 つよ い調子 ちょうし で発言 はつげん したのがミコヤンであり、過去 かこ 20年間 ねんかん における個人 こじん 崇拝 すうはい と集団 しゅうだん 指導 しどう の欠如 けつじょ を指摘 してき し、スターリンを名指 なざ しして著書 ちょしょ の内容 ないよう を批判 ひはん してスターリン理論 りろん の修正 しゅうせい を訴 うった えた。また、歴史 れきし 学者 がくしゃ のА.М. パンクラートヴァ(『歴史 れきし の諸 しょ 問題 もんだい 』編集 へんしゅう 長 ちょう 、党 とう 中央 ちゅうおう 委員 いいん )は、党 とう 史 し 研究 けんきゅう において個人 こじん 崇拝 すうはい と闘争 とうそう する必要 ひつよう があることを述 の べ、『レーニン全集 ぜんしゅう 』第 だい 4版 はん の編纂 へんさん 上 じょう の問題 もんだい やスターリン時代 じだい の歴史 れきし 評価 ひょうか を修正 しゅうせい するべきことについて発言 はつげん した。他方 たほう で、モロトフ(前外相 ぜんがいしょう 、党 とう 幹部 かんぶ 会員 かいいん )は個人 こじん 崇拝 すうはい の問題 もんだい に一切 いっさい 触 ふ れず、ガガノーヴィチ(第 だい 一 いち 副 ふく 首相 しゅしょう 、党 とう 政治 せいじ 局員 きょくいん )はこの問題 もんだい は解決 かいけつ 済 ず みであるとほのめかすなど、非 ひ スターリン化 か に消極 しょうきょく 的 てき な党 とう 幹部 かんぶ もいた[13] 。
フルシチョフとスターリン(1936年 ねん 撮影 さつえい )。フルシチョフがスターリンの側近 そっきん であったことは周知 しゅうち の事実 じじつ であった。
フルシチョフの秘密 ひみつ 報告 ほうこく 「個人 こじん 崇拝 すうはい とその結果 けっか について」は、1956年 ねん 2月 がつ 25日 にち に行 おこな われた。会議 かいぎ は秘密 ひみつ 会 かい とされ、これまで出席 しゅっせき していた外国 がいこく の共産党 きょうさんとう ・労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう の代表 だいひょう は招 まね かれていない。秘密 ひみつ 報告 ほうこく は、スターリンの名前 なまえ を挙 あ げて、個人 こじん 崇拝 すうはい ・独裁 どくさい 政治 せいじ による粛清 しゅくせい の事実 じじつ および戦争 せんそう 指導 しどう や内外 ないがい 政策 せいさく 上 じょう の問題 もんだい 点 てん を公表 こうひょう した。特 とく に、全 ぜん 領土 りょうど で吹 ふ き荒 あ れた大 だい 粛清 しゅくせい の契機 けいき となったセルゲイ・キーロフ 暗殺 あんさつ に至 いた る陰謀 いんぼう について詳細 しょうさい に明 あ かされた。フルシチョフの秘密 ひみつ 報告 ほうこく の要旨 ようし は以下 いか の通 とお りである(下記 かき 外部 がいぶ リンク参照 さんしょう 、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ 特有 とくゆう のい回 いまわ しが随所 ずいしょ に登場 とうじょう するが、基本 きほん 的 てき にそのまま引用 いんよう した)。
個人 こじん 崇拝 すうはい はカール・マルクス 、レーニンによって戒 いまし められていたにもかかわらず、レーニンの死後 しご 、党 とう と国家 こっか の指導 しどう 者 しゃ となったスターリンは、自 みずか らを対象 たいしょう とした個人 こじん 崇拝 すうはい を許 ゆる すどころか奨励 しょうれい し、党 とう 生活 せいかつ や社会 しゃかい 主義 しゅぎ 建設 けんせつ に重大 じゅうだい な障害 しょうがい をもたらした。
すでにレーニンはスターリンの指導 しどう 者 しゃ としての資質 ししつ に問題 もんだい があることを指摘 してき し、彼 かれ を書記 しょき 長 ちょう 職 しょく から異動 いどう させることを提案 ていあん していた。レーニンの死後 しご 、スターリンはこうしたレーニンの忠告 ちゅうこく に耳 みみ を傾 かたむ けるそぶりを見 み せたため、彼 かれ はその後 ご も書記 しょき 長 ちょう 職 しょく に留 とど まった。だが彼 かれ はほどなく本性 ほんしょう を現 あらわ し、党 とう 生活 せいかつ の規律 きりつ を無視 むし して専横 せんおう するに至 いた った。
1934年 ねん の第 だい 17回 かい 党 とう 大会 たいかい で選出 せんしゅつ された中央 ちゅうおう 委員 いいん ・同 どう 候補 こうほ 139名 めい のうち、70パーセントにあたる98名 めい が(主 おも に大 だい 粛清 しゅくせい の際 さい )処刑 しょけい された。党 とう 大会 たいかい の代議員 だいぎいん 全体 ぜんたい を見 み ても、1,966名 めい のうち1,108名 めい が同様 どうよう の運命 うんめい をたどった。彼 かれ らに科 か せられた「反 はん 革命 かくめい 」の罪状 ざいじょう は、その大半 たいはん が濡 ぬ れ衣 ぎぬ であった。
スターリンの弾圧 だんあつ はソ連 それん 社会 しゃかい の各 かく 方面 ほうめん で活躍 かつやく する活動 かつどう 家 か 、さらにおびただしい数 かず の無辜 むこ の市民 しみん に及 およ んだ。彼 かれ らに科 か せられた「トロツキスト 」「人民 じんみん の敵 てき 」その他 た の罪状 ざいじょう は、これまたでっちあげであった。
アドルフ・ヒトラー は権力 けんりょく 掌握 しょうあく 時 じ からソビエト連邦 れんぽう への攻撃 こうげき と共産 きょうさん 主義 しゅぎ 抹殺 まっさつ の意図 いと を隠 かく さなかったにもかかわらず、スターリンはヒトラー・ドイツ に対 たい する防衛 ぼうえい の準備 じゅんび を怠 おこた り、それどころか有能 ゆうのう な多 おお くの軍事 ぐんじ 指導 しどう 者 しゃ をその地位 ちい から追放 ついほう 、逮捕 たいほ 、さらには処刑 しょけい に追 お いやった。大 だい 祖国 そこく 戦争 せんそう の初期 しょき の戦闘 せんとう において赤軍 せきぐん が重大 じゅうだい な敗退 はいたい を喫 きっ し、兵士 へいし 、市民 しみん に莫大 ばくだい な犠牲 ぎせい 者 しゃ を生 しょう じた責任 せきにん はスターリンにある。
スターリンの専横 せんおう ぶりは、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご のソ連 それん と社会 しゃかい 主義 しゅぎ 兄弟 きょうだい 国 こく との関係 かんけい にも悪影響 あくえいきょう を及 およ ぼした。その最 もっと も際立 きわだ った重大 じゅうだい な例 れい はヨシップ・ブロズ・チトー 率 ひき いるユーゴスラビアとの関係 かんけい 悪化 あっか であり、当時 とうじ 両国 りょうこく 間 あいだ に生 しょう じた問題 もんだい は、同志 どうし 間 あいだ の話 はな し合 あ いで解決 かいけつ できなかったものは何一 なにひと つなかったのに、「俺 おれ が小指 こゆび 一 いち 本 ほん 動 うご かせばチトーは消 き えてなくなる」とい放 いはな ったスターリンの傲慢 ごうまん な態度 たいど が原因 げんいん で両国 りょうこく 関係 かんけい は決裂 けつれつ し、ユーゴを敵対 てきたい 陣営 じんえい に追 お いやってしまった。
こうした個人 こじん 崇拝 すうはい を政治 せいじ 局員 きょくいん たちが止 と められなかった理由 りゆう は、スターリンが大 おお きな声望 せいぼう と共感 きょうかん と支持 しじ を持 も っていたこと、抵抗 ていこう すれば弾圧 だんあつ の対象 たいしょう となったこと、政治 せいじ 局 きょく 会議 かいぎ すらたまにしか開 ひら かれなかったこと、政治 せいじ 局員 きょくいん にも疑 うたが いの目 め が向 む けられていたことが挙 あ げられる。
報告 ほうこく では、ガガーヴィチ、モロトフ、ヴォシーロフ、ミコヤン、マレンコフがスターリンの協力 きょうりょく 者 しゃ として登場 とうじょう していたが、その一方 いっぽう でモロトフ、ヴォシーロフ、ミコヤンは弾圧 だんあつ を受 う けそうになった人 ひと でもあると指摘 してき されている。さらに、フルシチョフとブルガーニンが粛清 しゅくせい に批判 ひはん 的 てき な会話 かいわ をしていたというエピソードが盛 も り込 こ まれた[14] 。しかし、フルシチョフは自分 じぶん がスターリンの下 した でどれだけ忠実 ちゅうじつ に動 うご いたのかを明言 めいげん しなかった。大 だい 粛清 しゅくせい に積極 せっきょく 的 てき に加担 かたん し、自身 じしん の出世 しゅっせ に利用 りよう した点 てん も考慮 こうりょ する必要 ひつよう があると言 い える(もっとも、スターリンの生前 せいぜん は「NO」ということはすなわち「死 し 」を意味 いみ することであり、一般 いっぱん 国民 こくみん だけでなく党 とう や政府 せいふ などスターリンに仕 つか える立場 たちば にあるものまで生命 せいめい の危険 きけん に晒 さら されていた)。そして、演説 えんぜつ の最後 さいご はこの報告 ほうこく を党外 とうがい や新聞 しんぶん に洩 も らしてはいけないと強調 きょうちょう した。
フルシチョフの秘密 ひみつ 報告 ほうこく に対 たい して、あまりの内容 ないよう に会場 かいじょう から声 こえ も出 で なかったという。発言 はつげん の通告 つうこく はなかったと思 おも われ、大会 たいかい の議長 ぎちょう を務 つと めていたブルガーニンが「個人 こじん 崇拝 すうはい の完全 かんぜん な克服 こくふく 」、「その諸 しょ 結果 けっか の一掃 いっそう 」、「党 とう 指導 しどう の集団 しゅうだん 性 せい の厳密 げんみつ な実践 じっせん 」などの用意 ようい されていた決議 けつぎ を提案 ていあん し、満場一致 まんじょういっち での採決 さいけつ を確認 かくにん した。また、フルシチョフ報告 ほうこく および決議 けつぎ を公開 こうかい せず、党 とう 組織 そしき には伝達 でんたつ することを決議 けつぎ した。これで秘密 ひみつ 会議 かいぎ は終 お わり、大会 たいかい は最後 さいご の議事 ぎじ 日程 にってい に移 うつ った[15] 。
ポーランド統一 とういつ 労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう によって関係 かんけい 者 しゃ 向 む けに作 つく られたフルシチョフ報告 ほうこく の冊子 さっし (1956年 ねん )
第 だい 20回 かい 党 とう 大会 たいかい で決 き められたように、フルシチョフ報告 ほうこく は公表 こうひょう されず、ソ連 それん 共産党 きょうさんとう の内部 ないぶ に伝 つた えられるものであった。公式 こうしき 発表 はっぴょう としては、党 とう 機関 きかん 紙 し 『プラウダ 』2月 がつ 27日 にち 付 づけ の論説 ろんせつ 「レーニン主義 しゅぎ の旗 はた のもとに」において、中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 報告 ほうこく に基 もと づいて個人 こじん 崇拝 すうはい 批判 ひはん の問題 もんだい を特 とく に重要 じゅうよう であるとした。大会 たいかい に参加 さんか した外国 がいこく の共産党 きょうさんとう 幹部 かんぶ のうち13名 めい に対 たい して秘密 ひみつ 報告 ほうこく と決議 けつぎ を見 み せることを決定 けってい し、3月1日 にち 付 づけ で演説 えんぜつ 内容 ないよう を印刷 いんさつ した[16] 。ソ連 それん 共産党 きょうさんとう の外国 がいこく 共産党 きょうさんとう ・労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう 連絡 れんらく 部 ぶ が作成 さくせい した13名 めい のリストによると、序列 じょれつ 第 だい 1位 い が中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう の朱 しゅ 徳 いさお 、以下 いか 、フランス共産党 きょうさんとう のモーリス・トレーズ 、イタリア共産党 きょうさんとう のパルミーロ・トリアッティ 、チェコスロバキア共産党 きょうさんとう のアントニーン・ノヴォトニー 、ブルガリア共産党 きょうさんとう のヴルコ・チェルヴェンコフ、さらにアルバニア労働党 ろうどうとう 、ハンガリー勤労 きんろう 者 しゃ 党 とう 、ルーマニア共産党 きょうさんとう 、ポーランド統一 とういつ 労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう のボレスワフ・ビェルト 、ドイツ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 統一 とういつ 党 とう 、朝鮮 ちょうせん 労働党 ろうどうとう の崔 ちぇ 庸 いさお 健 けん 、モンゴル人民 じんみん 革命 かくめい 党 とう 、ベトナム労働党 ろうどうとう のチュオン・チン が並 なら んでいる。また、特 とく に重要 じゅうよう な朱 しゅ 徳 いさお やトレーズには事前 じぜん に見 み せた可能 かのう 性 せい がある[17] 。これ以外 いがい の党 とう に対 たい しても、重要 じゅうよう 度 ど に応 おう じて順次 じゅんじ 閲覧 えつらん をさせたが、ノルウェー共産党 きょうさんとう 、スウェーデン共産党 きょうさんとう 、日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう などには閲覧 えつらん は行 おこな われていない[18] 。
フルシチョフ報告 ほうこく は、各国 かっこく の共産党 きょうさんとう において内容 ないよう を広 ひろ められた。大会 たいかい 後 ご の最初 さいしょ の外国 がいこく 訪問 ほうもん 先 さき であるポーランドでは、スターリン批判 ひはん の衝撃 しょうげき のあまりモスクワ で心臓 しんぞう 発作 ほっさ を起 お こして死亡 しぼう したポーランド統一 とういつ 労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう 第 だい 一 いち 書記 しょき のボレスワフ・ビェルト の後継 こうけい 者 しゃ を選 えら ぶ会議 かいぎ にフルシチョフが参加 さんか し、スターリン批判 ひはん の意義 いぎ を説明 せつめい する演説 えんぜつ を3月 がつ 20日 はつか に行 い った。同 どう 党 とう はフルシチョフ報告 ほうこく のポーランド語 ご 訳 やく を作成 さくせい ・配布 はいふ し、東欧 とうおう 諸国 しょこく でもっともスターリン批判 ひはん が知 し られることとなった[19] 。また、ソ連 それん による国際 こくさい 共産 きょうさん 主義 しゅぎ 運動 うんどう の見直 みなお しの一環 いっかん として、4月 がつ 17日 にち にコミンフォルム の解散 かいさん と機関 きかん 紙 し 『恒久 こうきゅう 平和 へいわ のために、人民 じんみん 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ のために!(英語 えいご 版 ばん ) 』の発行 はっこう 停止 ていし を関係 かんけい 8党 とう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい と共同 きょうどう で声明 せいめい した。6月に入 はい るとユーゴスラビアのチトー大統領 だいとうりょう がモスクワ入 い りし、スターリン批判 ひはん を踏 ふ まえてソ連 それん ・ユーゴの両 りょう 政府 せいふ および両 りょう 党 とう の関係 かんけい 回復 かいふく について6月 がつ 20日 はつか に合意 ごうい した[20] 。
ソ連 それん 国内 こくない では、フルシチョフ報告 ほうこく が広 ひろ く知 し られるような措置 そち が取 と られた。3月5日 にち に開 ひら かれた党 とう 幹部 かんぶ 会 かい は、秘密 ひみつ 報告 ほうこく を「印刷 いんさつ 禁止 きんし 」として党 とう 州 しゅう 委員 いいん 会 かい ・地方 ちほう 委員 いいん 会 かい と共和 きょうわ 国 こく 党 とう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい に送 おく り、「すべての党員 とういん とコムソモール員 いん 、また非 ひ 党員 とういん の労働 ろうどう 者 しゃ 、職員 しょくいん 、コルホーズ農民 のうみん の活動 かつどう 分子 ぶんし に知 し らせる」ことが決定 けってい され、3月7日 にち 付 づけ で印刷 いんさつ に回 まわ された。パンフレットには通 とお し番号 ばんごう が振 ふ られ、返却 へんきゃく が義務付 ぎむづ けられた[21] 。こうした措置 そち もあって、一様 いちよう ではないにせよフルシチョフ報告 ほうこく はソ連 それん 国民 こくみん に広 ひろ く知 し られることとなった。会合 かいごう の場 ば でパンフレットが読 よ み上 あ げられたり、党 とう 幹部 かんぶ が講演 こうえん に派遣 はけん されたりした。知識 ちしき 人 じん のなかには自主 じしゅ 的 てき な動 うご きを試 こころ みた者 もの もいたが、共産党 きょうさんとう はその統制 とうせい を図 はか った。10月23日 にち にハンガリー動乱 どうらん が起 お こると統制 とうせい 強化 きょうか は決定的 けっていてき となり、公式 こうしき 発表 はっぴょう 以上 いじょう のスターリン批判 ひはん は封 ふう じ込 こ められることとなった[22] 。
スターリン批判 ひはん が世界中 せかいじゅう に知 し られるきっかけとなったのは、6月4日 にち にアメリカ国務省 こくむしょう がフルシチョフの秘密 ひみつ 報告 ほうこく の英文 えいぶん 訳 わけ を発表 はっぴょう したことである。これは3月 がつ 1日 にち 付 づけ のパンフレットに基 もと づくものであった[23] 。中央 ちゅうおう 情報 じょうほう 局 きょく (CIA)長官 ちょうかん アレン・ウェルシュ・ダレス はこの演説 えんぜつ 内容 ないよう を入手 にゅうしゅ するために、金 かね に糸目 いとめ をつけなかったという[24] 。『ニューヨーク・タイムス 』6月5日 にち 付 づけ はこの全文 ぜんぶん を紙面 しめん に掲載 けいさい し、大 おお きな反響 はんきょう を与 あた えた[25] 。ソ連 それん 以外 いがい の多 おお くの共産党 きょうさんとう ・労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう の幹部 かんぶ はフルシチョフ報告 ほうこく の存在 そんざい を知 し っていたため、党員 とういん や国民 こくみん への説明 せつめい に苦慮 くりょ した。イタリア共産党 きょうさんとう 書記 しょき 長 ちょう のトリアッティやアメリカ共産党 きょうさんとう 書記 しょき 長 ちょう のユージン・デニスはスターリン批判 ひはん を発表 はっぴょう し、フランス共産党 きょうさんとう はアメリカ国務省 こくむしょう が秘密 ひみつ 報告 ほうこく を発表 はっぴょう したことを遺憾 いかん とした。日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう は秘密 ひみつ 報告 ほうこく の公表 こうひょう を黙殺 もくさつ した[26] 。こうした事態 じたい に対 たい してソ連 それん 共産党 きょうさんとう も対応 たいおう を余儀 よぎ なくされ、6月30日 にち の中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 決定 けってい 「個人 こじん 崇拝 すうはい とその諸 しょ 結果 けっか の克服 こくふく について」(О преодолении культе личности и его последствий )が7月 がつ 2日 にち に発表 はっぴょう された。この文書 ぶんしょ では、個人 こじん 崇拝 すうはい が起 お こった理由 りゆう をソ連 それん 建設 けんせつ の客観 きゃっかん 的 てき ・歴史 れきし 的 てき 条件 じょうけん とスターリンの個人 こじん 的 てき 資質 ししつ に求 もと め、スターリンの独裁 どくさい 的 てき 支配 しはい にもかかわらず党内 とうない には「レーニン的 てき 中核 ちゅうかく 」が存在 そんざい していたこと、「個人 こじん 崇拝 すうはい の非難 ひなん をソビエト社会 しゃかい 制度 せいど の本質 ほんしつ に求 もと めようとするのは、たいへんな間 あいだ 違 ちが い」であるとし、共産党 きょうさんとう とソビエト政権 せいけん を擁護 ようご した[27] 。
ソ連 それん 共産党 きょうさんとう によるスターリン批判 ひはん に前後 ぜんご して、スターリン執政 しっせい 期 き に銃殺 じゅうさつ ・投獄 とうごく ・追放 ついほう された人々 ひとびと の名誉 めいよ 回復 かいふく が行 おこな われた。秘密 ひみつ 警察 けいさつ の活動 かつどう もスターリン時代 じだい よりは緩 ゆる められ、政治 せいじ ・経済 けいざい ・文化 ぶんか ・社会 しゃかい にさまざまな「非 ひ スターリン化 か 」が推 お し進 すす められた。しかし、その後 ご も秘密 ひみつ 警察 けいさつ が国民 こくみん を監視 かんし するという恐怖 きょうふ 支配 しはい の構図 こうず はソビエト連邦 れんぽう の崩壊 ほうかい まで変 か わらなかった。また、秘密 ひみつ 報告 ほうこく の中 なか で民族 みんぞく 強制 きょうせい 移住 いじゅう の被害 ひがい 者 しゃ として言及 げんきゅう された民族 みんぞく のうちカラチャイ人 じん ・カルムイク人 じん ・チェチェン人 じん ・イングーシ人 じん ・バルカル人 じん は名誉 めいよ 回復 かいふく が行 おこな われ、故郷 こきょう での自治領 じちりょう が再建 さいけん された(カラチャイ・チェルケス自治 じち 州 しゅう 、カルムイク自治 じち 州 しゅう 、チェチェン・イングーシ自治 じち 共和 きょうわ 国 こく 、カバルダ・バルカル自治 じち 共和 きょうわ 国 こく )。その一方 いっぽう で、クリミア・タタール人 じん とヴォルガ・ドイツ人 じん は名誉 めいよ 回復 かいふく がなされず、自治領 じちりょう 再建 さいけん も認 みと められなかった[28] 。
スターリン批判 ひはん と非 ひ スターリン化 か の政治 せいじ 過程 かてい のなかで、フルシチョフがソ連 それん 共産党 きょうさんとう ・政府 せいふ の主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ ることとなった。別 べつ のい方 いかた をすれば、フルシチョフが権力 けんりょく を握 にぎ る過程 かてい でスターリン批判 ひはん が行 おこな われたのである。これに対 たい して、1957年 ねん にマレンコフ前 ぜん 首相 しゅしょう 、モロトフ前外相 ぜんがいしょう 、ブルガーニン首相 しゅしょう 、ガガーヴィチ第 だい 一 いち 副 ふく 首相 しゅしょう らがフルシチョフの内外 ないがい 政策 せいさく を批判 ひはん してフルシチョフの失脚 しっきゃく を図 はか ったが失敗 しっぱい し、逆 ぎゃく に彼 かれ らが失脚 しっきゃく することとなった(反 はん 党 とう グループ事件 じけん )。これによりフルシチョフの権力 けんりょく 基盤 きばん は安定 あんてい し、1964年 ねん に失脚 しっきゃく するまでフルシチョフ体制 たいせい が続 つづ くこととなった。
保阪 ほさか 正 ただし 康 やすし の指摘 してき によると、ソ連 それん では少年 しょうねん 期 き にこの出来事 できごと を通過 つうか した世代 せだい (フルシチョフ世代 せだい )は「権威 けんい が失墜 しっつい するさま」を実際 じっさい に目撃 もくげき したため、のちに生 う まれる「ブレジネフ世代 せだい 」よりリベラル な考 かんが え方 かた を身 み につけることになる。ソ連 それん 最後 さいご の指導 しどう 者 しゃ となったミハイル・ゴルバチョフ もその一人 ひとり である[29] 。
1997年 ねん 11月6日 にち のモスクワ放送 ほうそう では『十 じゅう 月 がつ 革命 かくめい の起 お きた1917年 ねん から旧 きゅう ソ連 それん 時代 じだい の87年 ねん の間 あいだ に6200万 まん 人 にん が殺害 さつがい され、そのうち、4000万 まん が強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ で死 し んだ。レーニンは社会 しゃかい 主義 しゅぎ 建設 けんせつ のため国内 こくない で400万 まん の命 いのち を奪 うば い、スターリンは1260万 まん の命 いのち を奪 うば った』と放送 ほうそう した[30] [31] 。
ハンガリー動乱 どうらん (1956年 ねん )。首都 しゅと ブダペスト を制圧 せいあつ するソ連 それん 軍 ぐん
東 ひがし ヨーロッパ
ソ連 それん の影響 えいきょう 下 か にあった東 ひがし ヨーロッパ諸国 しょこく では、スターリン批判 ひはん はソ連 それん 支配 しはい の権威 けんい を揺 ゆ るがした。ポーランド 西部 せいぶ の都市 とし ポズナン では、1956年 ねん 6月28日 にち に給料 きゅうりょう の未払 みはら いに端 はし を発 はっ する大衆 たいしゅう デモが自由 じゆう 化 か ・脱 だつ 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 化 か を求 もと める大衆 たいしゅう 暴動 ぼうどう へと発展 はってん し、ポーランド軍 ぐん が投入 とうにゅう されて鎮圧 ちんあつ される事件 じけん が発生 はっせい した(ポズナン暴動 ぼうどう )。ポーランド統一 とういつ 労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう は失政 しっせい を認 みと め、10月21日 にち にヴワディスワフ・ゴムウカ が党 とう 第 だい 一 いち 書記 しょき に正式 せいしき に就任 しゅうにん し、非 ひ スターリン化 か 政策 せいさく を推 お し進 すす めた。一方 いっぽう 、ハンガリーでは知識 ちしき 人 じん や民衆 みんしゅう の反 はん ソ連 それん 感情 かんじょう が高 たか まり、スターリン主義 しゅぎ 者 しゃ の前 ぜん 党 とう 書記 しょき 長 ちょう ラーコシ・マーチャーシュ らによる勤労 きんろう 者 しゃ 党 とう 支配 しはい への反発 はんぱつ が強 つよ まった。ソ連 それん は駐 ちゅう ハンガリー大使 たいし ユーリ・アンドロポフ やハンガリーに派遣 はけん したスースロフらから不穏 ふおん な現地 げんち 情勢 じょうせい を察知 さっち しており、10月23日 にち に民主 みんしゅ 化 か を求 もと める民衆 みんしゅう 蜂起 ほうき が起 お こるとただちにソ連 それん 軍 ぐん を出動 しゅつどう させ、最終 さいしゅう 的 てき に鎮圧 ちんあつ した(ハンガリー動乱 どうらん )。ソ連 それん 軍 ぐん はハンガリー勤労 きんろう 者 しゃ 党 とう を解散 かいさん させてハンガリー社会 しゃかい 主義 しゅぎ 労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう に再編 さいへん させ、カーダール・ヤーノシュ が党 とう 書記 しょき 長 ちょう に就任 しゅうにん して非 ひ スターリン化 か を進 すす めさせながら、これまで非 ひ スターリン化 か ・非 ひ ラーコシ化 か を進 すす めていたナジ・イムレ を逮捕 たいほ ・処刑 しょけい し、ハンガリー動乱 どうらん の責任 せきにん を負 お わせた。
ユーゴスラビア
ソ連 それん とユーゴスラビアはスターリン批判 ひはん の前後 ぜんご を通 つう じて関係 かんけい 改善 かいぜん の道 みち を歩 あゆ みだしていたが、1957年 ねん にはふたたびフルシチョフとチトーの会談 かいだん が実現 じつげん した。両国 りょうこく は関係 かんけい 改善 かいぜん を通 つう じて国際 こくさい 政治 せいじ への影響 えいきょう 力 りょく 強化 きょうか を狙 ねら っていたと思 おも われるが、結局 けっきょく 、1957年 ねん 11月 の共産党 きょうさんとう ・労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう 代表 だいひょう 者 しゃ 会議 かいぎ にチトーは出席 しゅっせき せず、ユーゴ代表 だいひょう 団 だん は宣言 せんげん にも署名 しょめい しなかった。ユーゴスラビア共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ 同盟 どうめい は1958年 ねん 4月 がつ に新 あたら しい綱領 こうりょう を採択 さいたく し、ソ連 それん の覇権 はけん 主義 しゅぎ ・官僚 かんりょう 主義 しゅぎ を批判 ひはん して、ユーゴ独自 どくじ の社会 しゃかい 主義 しゅぎ 路線 ろせん である自主 じしゅ 管理 かんり 社会 しゃかい 主義 しゅぎ を確認 かくにん した。その結果 けっか 、ソ連 それん とユーゴの関係 かんけい はふたたび悪化 あっか することとなった[32] 。
西 にし ヨーロッパ
資本 しほん 主義 しゅぎ ・議会 ぎかい 制 せい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 下 か にあった西 にし ヨーロッパ諸国 しょこく の共産党 きょうさんとう では、スターリン批判 ひはん は直接的 ちょくせつてき な影響 えいきょう はなかったものの、スターリンを信 しん じてきた一般 いっぱん 党員 とういん のなかには動揺 どうよう も生 しょう じ、党内 とうない 運営 うんえい のあり方 かた や社会 しゃかい 主義 しゅぎ の理念 りねん に対 たい する疑問 ぎもん に党 とう 幹部 かんぶ は答 こた えなければならなかった。さらに、ハンガリー動乱 どうらん がソビエト政権 せいけん や共産党 きょうさんとう に対 たい する悪 あく 印象 いんしょう を決定的 けっていてき なものにし、少 すく なくない党員 とういん や支持 しじ 者 しゃ が事件 じけん を批判 ひはん し党 とう を離 はな れる結果 けっか を招 まね いた。
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく
スターリン批判 ひはん は中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく との関係 かんけい に深刻 しんこく な亀裂 きれつ を生 う み出 だ した。フルシチョフ報告 ほうこく は直 ただ ちに持 も ち帰 かえ られ、3月15日 にち の中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 書記 しょき 局 きょく 会議 かいぎ 、3月19日 にち と3月24日 にち の党 とう 拡大 かくだい 政治 せいじ 局 きょく 会議 かいぎ で検討 けんとう された。毛沢東 もうたくとう はスターリンは7分 ぶん の正 ただ しさ、3分 ぶん の誤 あやま り(「七 なな 分 ふん 功 いさお 、三 さん 分 ふん 過 よぎ 」。皮肉 ひにく にも後 のち には毛沢東 もうたくとう 自身 じしん の評価 ひょうか にもなる)という評価 ひょうか を打 う ちだし、『人民日報 じんみんにっぽう 』4月 がつ 5日 にち 付 づけ の論説 ろんせつ 「プロレタリアート独裁 どくさい の歴史 れきし 的 てき 経験 けいけん について」を発表 はっぴょう して、フルシチョフ報告 ほうこく におけるスターリンの全面 ぜんめん 否定 ひてい を批判 ひはん した[33] 。同 どう 論文 ろんぶん はスターリンを「真 しん のレーニン主義 しゅぎ 者 しゃ 」と持 も ち上 あ げ、党 とう 幹部 かんぶ は中 ちゅう ソ関係 かんけい やソ連 それん 内政 ないせい への批判 ひはん 的 てき 発言 はつげん を行 おこな うようになった[34] 。それでも、同年 どうねん 9月15日 にち から9月27日 にち にかけて開 ひら かれた中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 第 だい 8回 かい 大会 たいかい では、綱領 こうりょう から「毛沢東 もうたくとう 思想 しそう 」の言葉 ことば を削除 さくじょ し、党 とう 中央 ちゅうおう 政治 せいじ 局 きょく による集団 しゅうだん 指導 しどう と法 ほう の支配 しはい を打 う ちだした。さらに知識 ちしき 人 じん に対 たい して言論 げんろん の自由 じゆう を認 みと める政治 せいじ 運動 うんどう 「百花斉放百家争鳴 」を行 おこな い、一定 いってい の非 ひ スターリン化 か を進 すす めた。しかし、ハンガリー動乱 どうらん が起 お こるとソ連 それん の軍事 ぐんじ 介入 かいにゅう を支持 しじ し、個人 こじん 崇拝 すうはい 批判 ひはん には消極 しょうきょく 的 てき になった。他方 たほう で、毛沢東 もうたくとう は1950年代 ねんだい 後半 こうはん においてフルシチョフの平和 へいわ 共存 きょうぞん 政策 せいさく に対 たい する反発 はんぱつ を強 つよ め、1960年代 ねんだい には中 ちゅう ソ対立 たいりつ が表面 ひょうめん 化 か した。中国 ちゅうごく はソ連 それん を「修正 しゅうせい 主義 しゅぎ 」と批判 ひはん し、ソ連 それん は逆 ぎゃく に中国 ちゅうごく を「教条 きょうじょう 主義 しゅぎ 」と批判 ひはん した。中国 ちゅうごく は世界 せかい 各国 かっこく に自 みずか らの立場 たちば を宣伝 せんでん した。日本 にっぽん でも、『プロレタリアート独裁 どくさい の歴史 れきし 的 てき 経験 けいけん について』(外 そと 文 ぶん 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1956年 ねん )や『国際 こくさい 共産 きょうさん 主義 しゅぎ 運動 うんどう の総 そう 路線 ろせん についての論戦 ろんせん ――レーニン主義 しゅぎ なのかそれとも社会 しゃかい 帝国 ていこく 主義 しゅぎ なのか?』(外 そと 文 ぶん 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1965年 ねん )などの中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう の立場 たちば を宣伝 せんでん する日本語 にほんご 刊行 かんこう 物 ぶつ を発行 はっこう して、スターリンを擁護 ようご し、ソ連 それん 共産党 きょうさんとう を「修正 しゅうせい 主義 しゅぎ 者 しゃ 」「反 はん 革命 かくめい 」などと攻撃 こうげき した。こうして両国 りょうこく の関係 かんけい は急速 きゅうそく に悪化 あっか し、1960年代 ねんだい から1980年代 ねんだい にかけて中国 ちゅうごく とソ連 それん はことあるごとに対立 たいりつ することとなった。
朝鮮民主主義人民共和国 ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく (北朝鮮 きたちょうせん )
朝鮮民主主義人民共和国 ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく (北朝鮮 きたちょうせん )ではすでに金 きむ 日成 いるそん 首相 しゅしょう ・労働党 ろうどうとう 委員 いいん 長 ちょう がスターリン型 がた の支配 しはい 体制 たいせい をき上 ずきあ げており、スターリン批判 ひはん が北朝鮮 きたちょうせん に及 およ ぶことに否定 ひてい 的 てき であった。すでに1955年 ねん の初 はじ めにはソ連 それん における金 きむ 日成 いるそん への個人 こじん 崇拝 すうはい が問題 もんだい となっており、これに対 たい し金 きむ 日成 いるそん は12月 にソ連 それん 偏重 へんちょう の文化 ぶんか 政策 せいさく を批判 ひはん し「主体 しゅたい 」を重視 じゅうし する発言 はつげん を行 おこな っていた[35] [36] 。金 きむ 日成 いるそん は、朝鮮 ちょうせん 労働党 ろうどうとう は党 とう 創立 そうりつ 以来 いらい 、集団 しゅうだん 指導 しどう の原則 げんそく が守 まも られてきたと主張 しゅちょう し、4月 がつ 23日 にち から4月 がつ 29日 にち にかけて開 ひら かれた朝鮮 ちょうせん 労働党 ろうどうとう 第 だい 3回 かい 大会 たいかい で金 きむ 日成 いるそん は「他人 たにん のものを機械 きかい 的 てき に受 う け入 い れ、鵜呑 うの みにする教条 きょうじょう 的 てき な方法 ほうほう 」を批判 ひはん し「主体 しゅたい (チュチェ)」の構築 こうちく を主張 しゅちょう し、スターリン批判 ひはん の北朝鮮 きたちょうせん への適用 てきよう を暗 あん に批判 ひはん するなど、主体 しゅたい 思想 しそう の原型 げんけい の一 ひと つとなる演説 えんぜつ を行 おこな った[37] 。また、「朝鮮 ちょうせん の党 とう にとっては「個人 こじん 崇拝 すうはい 」とは、朴 ぼく 憲 けん 永 ひさし 崇拝 すうはい のことである」との主張 しゅちょう も行 おこな っている[38] 。さらに、1956年 ねん 6月 がつ から8月 がつ にかけて党内 とうない 対立 たいりつ が激化 げきか し、延 のべ 安 やす 派 は とソ連 それん 派 は の幹部 かんぶ が金 きむ 日成 いるそん を個人 こじん 崇拝 すうはい として批判 ひはん を行 おこな ったが、逆 ぎゃく に金 きむ 日成 いるそん が勝利 しょうり することとなった(8月 がつ 宗派 しゅうは 事件 じけん )。その後 ご 、1958年 ねん までに批判 ひはん を行 おこな った幹部 かんぶ は粛清 しゅくせい され、北朝鮮 きたちょうせん とソ連 それん との関係 かんけい は冷却 れいきゃく 化 か した。金 きむ 日成 いるそん 政権 せいけん は個人 こじん 独裁 どくさい を強 つよ め、その後 ご 、出身 しゅっしん 成分 せいぶん 制度 せいど が確立 かくりつ され、敵対 てきたい 階層 かいそう に対 たい する容赦 ようしゃ のない弾圧 だんあつ が始 はじ まる[39] 。また、自由 じゆう 主義 しゅぎ 思想 しそう をもって個人 こじん 崇拝 すうはい 批判 ひはん に同調 どうちょう するインテリに対 たい しても攻撃 こうげき を強 つよ めた[40] 。
ソ連 それん 共産党 きょうさんとう 第 だい 20回 かい 大会 たいかい は、日本 にっぽん でも大 おお いに注目 ちゅうもく された。フルシチョフによる中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 報告 ほうこく (一般 いっぱん 報告 ほうこく )やミコヤンの個人 こじん 崇拝 すうはい 批判 ひはん の演説 えんぜつ などが、日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう 機関 きかん 紙 し 『前衛 ぜんえい 』、総合 そうごう 誌 し 『世界 せかい 』および『中央公論 ちゅうおうこうろん 』などに掲載 けいさい された。この他 ほか 、日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 翻訳 ほんやく 委員 いいん 会 かい 訳 やく 『ソ同盟 どうめい 共産党 きょうさんとう 大会 たいかい 第 だい 20回 かい 』全 ぜん 4分冊 ぶんさつ (合同 ごうどう 出版 しゅっぱん 社 しゃ ・合同 ごうどう 新書 しんしょ 7-10、1956年 ねん )、野中 のなか 昌夫 まさお ・橋本 はしもと 弘毅 こうき ・山田 やまだ 茂勝 しげかつ (訳 わけ 編 へん )『フルシチョフ報告 ほうこく ・ミコヤン演説 えんぜつ ――ソ同盟 どうめい 共産党 きょうさんとう 第 だい 20回 かい 党 とう 大会 たいかい 』(青木 あおき 書店 しょてん ・青木 あおき 文庫 ぶんこ 、1956年 ねん )などが翻訳 ほんやく ・刊行 かんこう された。フルシチョフ報告 ほうこく をアメリカ国務省 こくむしょう が発表 はっぴょう すると、日本 にっぽん でも本格 ほんかく 的 てき にスターリン批判 ひはん が問題 もんだい になり、その全文 ぜんぶん が『中央公論 ちゅうおうこうろん 』71巻 かん 8号 ごう (1956年 ねん 8月 がつ )に掲載 けいさい された[41] 。(なお、その後 ご にフルシチョフ報告 ほうこく は志水 しみず 速雄 はやお の翻訳 ほんやく によって『フルシチョフ秘密 ひみつ 報告 ほうこく 「スターリン批判 ひはん 」』(講談社 こうだんしゃ 学術 がくじゅつ 文庫 ぶんこ 204、1977年 ねん )として出版 しゅっぱん されたが、和田 わだ 春樹 はるき の指摘 してき によると、1970年代 ねんだい に西欧 せいおう に現 あらわ れた偽書 ぎしょ に基 もと づく翻訳 ほんやく である[42] 。)
一方 いっぽう で、フルシチョフ報告 ほうこく に対 たい する日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう の態度 たいど は慎重 しんちょう であった。同 どう 党 とう は1956年 ねん 3月6日 にち から3月8日 にち に開 ひら かれた第 だい 5回 かい 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 総会 そうかい でソ連 それん 共産党 きょうさんとう 第 だい 20回 かい 党 とう 大会 たいかい について議論 ぎろん をして大会 たいかい 決定 けってい を学習 がくしゅう することを決 き めたが(『アカハタ 』1956年 ねん 3月 がつ 24日 にち 付 づけ の「ソ同盟 どうめい 共産党 きょうさんとう 第 だい 20回 かい 大会 たいかい について」で発表 はっぴょう [43] )、この時点 じてん ではまだフルシチョフ報告 ほうこく の存在 そんざい を把握 はあく していなかった。ソ連 それん 共産党 きょうさんとう 第 だい 20回 かい 大会 たいかい には、北京 ぺきん 機関 きかん から袴田 はかまだ 里見 さとみ (旧 きゅう 国際 こくさい 派 は )と河田 かわた 賢治 けんじ (旧 きゅう 所感 しょかん 派 は )が参加 さんか していたが、フルシチョフ報告 ほうこく の閲覧 えつらん は許 ゆる されていなかった。袴田 はかまだ と河田 かわた はその足 あし で北朝鮮 きたちょうせん に渡 わた り朝鮮 ちょうせん 労働党 ろうどうとう 第 だい 3回 かい 大会 たいかい (1956年 ねん 4月 がつ 23~29日 にち )に参加 さんか した後 のち 、北京 ぺきん でフルシチョフ報告 ほうこく の情報 じょうほう を手 て に入 い れたので、在 ざい 北京 ぺきん のソ連 それん 大使館 たいしかん に行 い き、パーヴェル・ユージン大使 たいし の許可 きょか を得 え て2日間 にちかん かけて閲覧 えつらん したという[44] 。しかし、アメリカ国務省 こくむしょう による秘密 ひみつ 報告 ほうこく の公表 こうひょう 以後 いご も、日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう はこれは外国 がいこく の党 とう の問題 もんだい であるとして正面 しょうめん 切 き っての批判 ひはん は避 さ けた。
それでも、日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう の内部 ないぶ では、さまざまな形 かたち でスターリン批判 ひはん が受 う け止 と められ、非 ひ スターリン化 か が試 こころ みられた。スターリンの死後 しご 、同 どう 党 とう が分裂 ぶんれつ と武装 ぶそう 闘争 とうそう 路線 ろせん に終止符 しゅうしふ を打 う ち、新 あたら しい運動 うんどう 路線 ろせん を確立 かくりつ しようとするなかでスターリン批判 ひはん は行 おこ なわれた。すでに1955年 ねん の第 だい 6回 かい 全国 ぜんこく 協議 きょうぎ 会 かい (6全 ぜん 協 きょう )では、党 とう の再 さい 統一 とういつ と武装 ぶそう 闘争 とうそう 路線 ろせん の批判 ひはん を正式 せいしき に決定 けってい し、ソ連 それん 共産党 きょうさんとう に倣 なら って政治 せいじ 局 きょく と書記 しょき 長 ちょう ポストを廃止 はいし して、代 か わって幹部 かんぶ 会 かい と第 だい 一 いち 書記 しょき ポストに名称 めいしょう を変更 へんこう していた。1956年 ねん 6月28日 にち から6月30日 にち の第 だい 7回 かい 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 総会 そうかい では、ソ連 それん 共産党 きょうさんとう 第 だい 20回 かい 大会 たいかい で示 しめ された平和 へいわ 共存 きょうぞん 路線 ろせん を受 う けて、51年 ねん 綱領 こうりょう の武装 ぶそう 闘争 とうそう 路線 ろせん に関 かか わる部分 ぶぶん を抜本 ばっぽん 的 てき に改訂 かいてい する必要 ひつよう があるとした[45] 。以後 いご 、1961年 ねん の第 だい 8回 かい 党 とう 大会 たいかい にかけて、党 とう 綱領 こうりょう の改訂 かいてい と運動 うんどう 路線 ろせん に関 かん する議論 ぎろん が公然 こうぜん と行 おこ なわれることになった。例 たと えば、若 わか き党員 とういん 理論 りろん 家 か であった上田 うえだ 耕一郎 こういちろう は、『戦後 せんご 革命 かくめい 論争 ろんそう 史 し 』上下 じょうげ 巻 まき (大月書店 おおつきしょてん 、1956-57年 ねん )を刊行 かんこう した。この本 ほん で上田 うえだ は、「この書 しょ は、ある意味 いみ ではフルシチョフのいわゆる「秘密 ひみつ 報告 ほうこく 」によるスターリン非難 ひなん から受 う けた大 おお きな衝撃 しょうげき の結果 けっか として生 うま れたものである」と冒頭 ぼうとう で述 の べ[46] 、敗戦 はいせん 後 ご から1956年 ねん 当時 とうじ までの日本 にっぽん におけるマルクス主義 まるくすしゅぎ の理論 りろん 史 し を整理 せいり ・再 さい 検討 けんとう することを試 こころ みた。しかし後 のち に、本 ほん の内容 ないよう が「清算 せいさん 主義 しゅぎ 的 てき である」として党 とう から批判 ひはん を受 う けることとなり、上田 うえだ は1964年 ねん に自己 じこ 批判 ひはん して同書 どうしょ を絶版 ぜっぱん にした[注釈 ちゅうしゃく 1] 。
さらに、より根本 こんぽん 的 てき な方針 ほうしん 転換 てんかん を要求 ようきゅう し、党 とう の批判 ひはん を行 おこ なうグループも生 う まれた。これに対 たい して、党 とう 指導 しどう 部 ぶ はスターリン批判 ひはん が過度 かど に行 おこ なわれることを警戒 けいかい して統制 とうせい を行 おこ なった[47] 。その結果 けっか 、1961年 ねん の第 だい 8回 かい 党 とう 大会 たいかい にかけて、急進 きゅうしん 的 てき な社会 しゃかい 主義 しゅぎ 革命 かくめい をめざすトロツキストや、革命 かくめい ではなく漸進 ぜんしん 的 てき ・改良 かいりょう 的 てき な方法 ほうほう による社会 しゃかい 主義 しゅぎ への転換 てんかん を目指 めざ す構造 こうぞう 改革 かいかく 派 は などが相次 あいつ いで日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう を離党 りとう することになった。構造 こうぞう 改革 かいかく 派 は の場合 ばあい 、井 い 汲卓一 いち や長洲 ながす 一二 かずじ らが『現代 げんだい マルクス主義 まるくすしゅぎ 反省 はんせい と展望 てんぼう 』全 ぜん 3巻 かん (大月書店 おおつきしょてん 、1958年 ねん )などを刊行 かんこう して共感 きょうかん する党員 とういん を集 あつ め、主流 しゅりゅう 派 は とは異 こと なる独自 どくじ 路線 ろせん を追求 ついきゅう したため除名 じょめい された[48] 。トロツキストの場合 ばあい 、黒田 くろだ 寛一 かんいち や太田 おおた 竜 りゅう らは、新 あたら しい前衛 ぜんえい 党 とう をつくるため1957年 ねん に日本 にっぽん トロッキスト聯盟 れんめい を結成 けっせい した。これとは別 べつ に、1958年 ねん には全日本 ぜんにほん 学生 がくせい 自治 じち 会 かい 総 そう 連合 れんごう の活動 かつどう 家 か であった香山 かやま 健一 けんいち や森田 もりた 実 みのる らが共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ 同盟 どうめい (ブント)を結成 けっせい した。これらの諸 しょ 党派 とうは が日本 にっぽん の新 しん 左翼 さよく を形 かたち づくってゆくことになる[49] [50] 。
スターリン批判 ひはん は、共産党 きょうさんとう とその周辺 しゅうへん だけでなく学術 がくじゅつ 分野 ぶんや にも及 およ んだ。例 たと えば丸山 まるやま 真男 まさお は、スターリン批判 ひはん とその取 と り扱 あつか い方 かた に対 たい して、道徳 どうとく 的 てき 感傷 かんしょう 主義 しゅぎ と通俗 つうぞく 的 てき 意味 いみ におけるマキャベリズム が見 み られるとして、「政治 せいじ の論理 ろんり 」の存在 そんざい を指摘 してき した[51] 。また、マルクス主義 まるくすしゅぎ 的 てき な従来 じゅうらい の学説 がくせつ を批判 ひはん ・相対 そうたい 化 か する議論 ぎろん が注目 ちゅうもく されるようになった。歴史 れきし 学 がく では、それまでの「単純 たんじゅん な階級 かいきゅう 闘争 とうそう 史観 しかん 」が一気 いっき に打 う ち破 やぶ られ、歴史 れきし 認識 にんしき における多様 たよう な視点 してん を生 う み出 だ す条件 じょうけん を創 つく り出 だ す一 いち 要因 よういん となったという指摘 してき がある[52] 。蠟山政道 せいどう は、経済 けいざい 成長 せいちょう による日本 にっぽん 社会 しゃかい の変化 へんか によって、従来 じゅうらい のマルクス主義 まるくすしゅぎ による階級 かいきゅう 社会 しゃかい 論 ろん では解 と けない大衆 たいしゅう 社会 しゃかい が日本 にっぽん で出現 しゅつげん したことから、「大衆 たいしゅう 社会 しゃかい 論 ろん 」が盛 さか んになったと指摘 してき している[53] 。
数 すう 年 ねん 後 ご 、もう一度 いちど フルシチョフによるスターリン批判 ひはん が行 おこな われた。この結果 けっか 、1961年 ねん 10月31日 にち の夜 よる から11月1日 にち の朝方 あさがた にかけて、スターリン の遺体 いたい はレーニン廟 びょう から撤去 てっきょ され、燃 も やされた。岩間 いわま 徹 とおる はこれを「遺体 いたい をどこかへ移 うつ してまで、非 ひ スターリン化 か をやろうというのだから、今 いま でもまだスターリン主義 しゅぎ は厳然 げんぜん たる権威 けんい を持 も ち続 つづ けていると言 い わねばなるまい」と評 ひょう している[54] 。
時 とき は流 なが れ1987年 ねん 11月7日 にち 、在任 ざいにん 中 ちゅう のゴルバチョフ書記 しょき 長 ちょう がロシア革命 かくめい 70周年 しゅうねん 記念 きねん 式典 しきてん でスターリンを批判 ひはん し、レーニンもスターリン主義 しゅぎ の元凶 げんきょう として批判 ひはん した。
^ ただし、石堂 いしどう 清 きよし 倫 りん の証言 しょうげん によれば、『戦後 せんご 革命 かくめい 論争 ろんそう 史 し 』の内容 ないよう は内野 うちの 壮 たけし 児 じ 、小野 おの 義彦 よしひこ 、勝部 かつべ 元 はじめ 、石堂 いしどう らの研究 けんきゅう 会 かい の討論 とうろん がもとになっており、上田 うえだ 耕一郎 こういちろう がこれをまとめたものだという(石堂 いしどう 清 きよし 倫 りん 「増山 ますやま 太助 たすけ 『戦後 せんご 期 き 左翼 さよく 人士 じんし 像 ぞう 』を読 よ む」『図書 としょ 新聞 しんぶん 』第 だい 2507号 ごう 、2000年 ねん 10月 がつ 28日 にち 付 づけ )。
^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、p.10
^ 下斗米 しもとめ 伸夫 のぶお 、2004年 ねん 、2-3章 しょう ;下斗米 しもとめ 伸夫 のぶお 、2011年 ねん 、4-5章 しょう
^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、序章 じょしょう
^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、1-2章 しょう
^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、3章 しょう
^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、4-5章 しょう
^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、6章 しょう
^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、pp.288-91
^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、pp.292-95
^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、pp.307-09
^ 外部 がいぶ 該当 がいとう リンク
^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、pp.297-99
^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、pp.299-302, 304-05
^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、pp.312-13
^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、p.314
^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、p.315
^ 下斗米 しもとめ 伸夫 のぶお 、2011年 ねん 、p.291. なお、下斗米 しもとめ (2004年 ねん 、p.101)では、13名 めい の外国 がいこく 党 とう 代表 だいひょう 者 しゃ が演説 えんぜつ を事前 じぜん に見 み せられたとしていたが、2011年 ねん の著書 ちょしょ でこれを修正 しゅうせい している。
^ 下斗米 しもとめ 伸夫 のぶお 、2011年 ねん 、pp.291-92
^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、pp.328-29
^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、pp.348-49
^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、pp.315-16
^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、8-9章 しょう
^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、pp.349, 315
^ 落合 おちあい 信彦 のぶひこ 『21世紀 せいき への演出 えんしゅつ 者 しゃ たち CIA vs KGB』 (集英社 しゅうえいしゃ 文庫 ぶんこ [お-5-5]、1984年 ねん 、初出 しょしゅつ 1981年 ねん )、p.97 ISBN 4087507645
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^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、pp.350-51
^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、pp.355-58
^ 松戸 まつど 清 せい 裕 ひろし 、2011年 ねん 、p.104
^ 保阪 ほさか 正 ただし 康 かん 『昭和 しょうわ の空白 くうはく を読 よ み解 と く――昭和 しょうわ 史 し 忘 わす れ得 え ぬ証言 しょうげん 者 しゃ たち Part2』(講談社 こうだんしゃ 文庫 ぶんこ [ほ-10-12]、2006年 ねん 、初出 しょしゅつ 2003年 ねん )、p.295 ISBN 978-4062754897
^ 雑誌 ざっし ・幻想 げんそう と批評 ひひょう (はる書房 しょぼう )1号 ごう (2004年 ねん )の創刊 そうかん の辞 じ ・兵 へい 本 もと 達吉 たつきち 報告 ほうこく 及 およ びpp.123-137, p.159から。
^ 外部 がいぶ リンク
^ 岡本 おかもと 和彦 かずひこ 「書評 しょひょう 論文 ろんぶん スターリン批判 ひはん の始 はじ まりと帰結 きけつ に関 かん する一 いち 考察 こうさつ ――和田 わだ 春樹 はるき 著 ちょ 『スターリン批判 ひはん 1953~56年 ねん 一人 ひとり の独裁 どくさい 者 しゃ の死 し が、いかに20世紀 せいき 世界 せかい を揺 ゆ り動 うご かしたか』作品社 さくひんしゃ 、2016年 ねん 」(東京 とうきょう 成徳 しげのり 大学 だいがく 人文学部 じんぶんがくぶ ・応 おう 用心 ようじん 理学部 りがくぶ 『研究 けんきゅう 紀要 きよう 』25号 ごう 、2018年 ねん )、pp.158-159
^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、pp.338-39
^ 下斗米 しもとめ 伸夫 のぶお 、2011年 ねん 、pp.292
^ 下斗米 しもとめ 伸夫 のぶお 、2011年 ねん 、p.294
^ 徐 じょ 大 だい 粛『金 きむ 日成 いるそん 』(林 はやし 茂 しげる 訳 やく 、講談社 こうだんしゃ 学術 がくじゅつ 文庫 ぶんこ 2162、2013年 ねん 、初出 しょしゅつ 1992年 ねん )、p.217 ISBN 978-4062921626
^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、p.338
^ 和田 わだ 春樹 はるき 『北朝鮮 きたちょうせん 現代 げんだい 史 し 』(岩波 いわなみ 新書 しんしょ ・新 しん 赤 あか 版 ばん 1361、2012年 ねん )、p.84 ISBN 978-4004313618
^ 萩原 はぎはら 遼 りょう 『拉致 らち と核 かく と餓死 がし の国 くに 北朝鮮 きたちょうせん 』(文春 ぶんしゅん 新書 しんしょ 306、2003年 ねん )、p.177-78 ISBN 416660306X
^ 黄 き 長 ちょう 燁『金 きむ 正日 じょんいる への宣戦 せんせん 布告 ふこく ――黄 き 長 ちょう 燁回顧 かいこ 録 ろく 』(萩原 はぎはら 遼 りょう 訳 やく 、文春 ぶんしゅん 文庫 ぶんこ [フ-17-1]、2001年 ねん 、初出 しょしゅつ 1999年 ねん )、p.126 ISBN 416765105X
^ 奥 おく 武則 たけのり 『論壇 ろんだん の戦後 せんご 史 し 1945‐1970』(平凡社 へいぼんしゃ 新書 しんしょ 373、2007年 ねん )、p.131-32 ISBN 978-4582853735
^ 和田 わだ 春樹 はるき 、2016年 ねん 、p.311 注 ちゅう 1
^ 小山 こやま 弘 ひろし 健 けん 『戦後 せんご 日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう 史 し 』(芳賀 はが 書店 しょてん 、1966年 ねん )、p.206
^ 下斗米 しもとめ 伸夫 のぶお 、2011年 ねん 、p.292
^ 小山 こやま 弘 ひろし 健 けん 『戦後 せんご 日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう 史 し 』(芳賀 はが 書店 しょてん 、1966年 ねん )、p.207
^ 上田 うえだ 耕一郎 こういちろう 「はしがき」(『戦後 せんご 革命 かくめい 論争 ろんそう 史 し 』上巻 じょうかん 、大月書店 おおつきしょてん 、1956年 ねん )
^ 小山 こやま 弘 ひろし 健 けん 『戦後 せんご 日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう 史 し 』芳賀 はが 書店 しょてん 、1966年 ねん 、p.211
^ 安東 あんどう 仁兵衛 じんべえ 『戦後 せんご 日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう 私記 しき 』(文春 ぶんしゅん 文庫 ぶんこ [あ-26-1]、1995年 ねん 、初出 しょしゅつ 1980年 ねん )、pp.284-288 ISBN 978-4167244033
^ 柴垣 しばがき 和夫 かずお 『昭和 しょうわ の歴史 れきし 9 講和 こうわ から高度 こうど 成長 せいちょう へ――国際 こくさい 社会 しゃかい への復帰 ふっき と安保 あんぽ 闘争 とうそう 』(小学館 しょうがくかん ライブラリー、1994年 ねん 、初出 しょしゅつ 1983年 ねん )、p.127 ISBN 4094011099
^ 荒 あら 岱介『新 しん 左翼 さよく とは何 なに だったのか』(幻冬舎 げんとうしゃ 新書 しんしょ 68、2008年 ねん )、p.29 ISBN 978-4344980679
^ 丸山 まるやま 真男 まさお 「「スターリン批判 ひはん 」における政治 せいじ の論理 ろんり 」(『増補 ぞうほ 版 ばん 現代 げんだい 政治 せいじ の思想 しそう と行動 こうどう 』未来社 みらいしゃ 、1964年 ねん 、初出 しょしゅつ 1956年 ねん )、p.336
^ 家 いえ 近 きん 良樹 よしき 『江戸 えど 幕府 ばくふ 崩壊 ほうかい ――孝明天皇 こうめいてんのう と「一 いち 会 かい 桑 くわ 」』(講談社 こうだんしゃ 学術 がくじゅつ 文庫 ぶんこ 2221、2014年 ねん 、初出 しょしゅつ 2002年 ねん )、pp.28-29 ISBN 978-4062922210
^ 蝋 ろう 山 やま 政道 せいどう 『日本 にっぽん の歴史 れきし 26 よみがえる日本 にっぽん 』(中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ 新版 しんぱん [S-2-26]、1974年 ねん 、初出 しょしゅつ 1967年 ねん )、p.262 ISBN 978-4122047488
^ 村瀬 むらせ 興 きょう 雄 ゆう (責任 せきにん 編集 へんしゅう )『世界 せかい の歴史 れきし 15 ファシズムと第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 』(中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ [S-1-15]、1975年 ねん 、初出 しょしゅつ 1962年 ねん )、p.165-66 ISBN 4122002281 当該 とうがい 箇所 かしょ の執筆 しっぴつ は岩間 いわま 。
ソ連 それん の当時 とうじ の史料 しりょう に基 もと づいた研究 けんきゅう 書 しょ
編集 へんしゅう
О культе личности и его последствиях, «Известия ЦК КПСС», 1989, No.3, стр.128-70.
Н.С. Доклад (ред.), «Хрущёва о культе личности Сталина на XX съезд КПСС», Росспэн, Москва, 2002г.