秦 はた 朝 ちょう (しんちょう)は、中国 ちゅうごく 初 はつ の統一 とういつ 王朝 おうちょう である。紀元前 きげんぜん 221年 ねん から前 まえ 206年 ねん まで存在 そんざい し、秦 はた 朝 ちょう を建 た てた皇帝 こうてい は、始皇帝 しこうてい として知 し られている、姓 せい は嬴 (えい)、氏 し は趙 ちょう 。秦 はた は現在 げんざい の甘粛 かんせい 省 しょう や陝西 せんせい 省 しょう の秦 はた の拠点 きょてん に由来 ゆらい した。その文化 ぶんか 的 てき 起源 きげん については、周 しゅう の東 あずま 克 かつ 後 ご に東方 とうほう から移住 いじゅう した人々 ひとびと が始 はじ めたという「東 ひがし 来 らい 説 せつ 」と西方 せいほう から来 き たという「西 にし 来 らい 説 せつ 」とで長年 ながねん 議論 ぎろん が交 か わされていたが[2] 、現在 げんざい では殷 いん 文化 ぶんか 、周 しゅう 文化 ぶんか 、西戎 せいじゅう 文化 ぶんか といった多元的 たげんてき な文化 ぶんか を起源 きげん に持 も つと考 かんが えられている[3] 。
秦 はた の強 つよ さは、戦国 せんごく 時代 じだい の紀元前 きげんぜん 4世紀 せいき の商 しょう 鞅 の法家 ほうか 改革 かいかく により大 おお いに高 たか められた。紀元前 きげんぜん 3世紀 せいき 中葉 ちゅうよう と後半 こうはん に、秦 はた は一連 いちれん の迅速 じんそく な征服 せいふく を成 な し遂 と げ、弱体 じゃくたい 化 か した周 しゅう を終 お わらせ、戦国 せんごく 七 なな 雄 ゆう の6国 こく を征服 せいふく して全 ぜん 中国 ちゅうごく を支配 しはい した。
中国 ちゅうごく 支配 しはい で秦 はた は、強大 きょうだい な軍備 ぐんび を維持 いじ できる高度 こうど に形作 かたちづく られた権力 けんりょく と、安定 あんてい した経済 けいざい により統一 とういつ された帝国 ていこく を創造 そうぞう することを試 こころ みた[4] 。秦 はた の中央 ちゅうおう 政府 せいふ は、貴族 きぞく と地主 じぬし の役割 やくわり を極小 きょくしょう 化 か し人口 じんこう の絶対 ぜったい 多数 たすう を占 し める農民 のうみん に対 たい する直接的 ちょくせつてき な支配 しはい をし広範 こうはん な労働 ろうどう 部隊 ぶたい への秦 はた の関与 かんよ を認 みと めることで支配 しはい しようとした。このことは現在 げんざい 万里 ばんり の長城 ちょうじょう として知 し られる北 きた の国境 こっきょう の壁 かべ のような大 だい 規模 きぼ 事業 じぎょう の建設 けんせつ を可能 かのう とした。秦 はた 朝 ちょう は通貨 つうか や度量衡 どりょうこう が標準 ひょうじゅん 化 か され筆記 ひっき の形態 けいたい の統一 とういつ が行 おこな われるような数個 すうこ の改革 かいかく も主導 しゅどう した。批判 ひはん を制限 せいげん し古 ふる い王朝 おうちょう の名残 なごり は全 すべ て粛清 しゅくせい する企図 きと は、後世 こうせい の学者 がくしゃ に大 おお いに批判 ひはん されている悪名 あくめい 高 たか い焚書坑儒 ふんしょこうじゅ へと発展 はってん した。政府 せいふ は高 こう 圧 あつ 的 てき で官僚 かんりょう 主義 しゅぎ 的 てき であったが、秦 はた の軍事 ぐんじ は、最 さい 新鋭 しんえい の兵器 へいき や輸送 ゆそう 手段 しゅだん 、戦術 せんじゅつ を用 もち いる点 てん で革命 かくめい 的 てき でもあった。
秦 はた 朝 ちょう は全国 ぜんこく を36郡 ぐん に分 わ けた。領土 りょうど を広 ひろ げるごとに、中央 ちゅうおう 政府 せいふ が支配 しはい する新 あら たな郡 ぐん を次々 つぎつぎ に置 お いた。五 ご 嶺 みね の南 みなみ 、南越 なんごし を支配 しはい した領土 りょうど には、南海 なんかい ・桂 かつら 林 りん 及 およ び象 ぞう 郡 ぐん の3郡 ぐん を、北 きた に匈奴 きょうど を攻 せ めて陰 かげ 山 やま 以南 いなん を切 き り取 と った地 ち には九 きゅう 原 げん 郡 ぐん (現在 げんざい の包 つつみ 頭 あたま 市 し 一帯 いったい )を置 お いた。
軍事 ぐんじ 的 てき には強大 きょうだい であったとはいえ、秦 はた 朝 ちょう は長 なが く続 つづ かなかった。始皇帝 しこうてい が紀元前 きげんぜん 210年 ねん に死 し ぬと、始皇帝 しこうてい の息子 むすこ である胡 えびす 亥 い が、胡 えびす 亥 い を通 つう じて全 ぜん 王朝 おうちょう の行政 ぎょうせい に影響 えいきょう を及 およ ぼし支配 しはい する企図 きと を持 も って皇帝 こうてい の元 もと 顧問 こもん の内 うち の2人 にん により皇帝 こうてい に担 かつ ぎ上 あ げられた。しかしこの顧問 こもん は二 に 人 にん とも死去 しきょ し秦 しん の第 だい 2代 だい 皇帝 こうてい も死去 しきょ することになる論争 ろんそう に巻 ま き込 こ まれた。大衆 たいしゅう 的 てき な反乱 はんらん は、2年 ねん 後 ご に発生 はっせい し、弱体 じゃくたい 化 か した帝国 ていこく は、漢 かん の建国 けんこく につながる楚 すわえ の副官 ふっかん (劉邦 りゅうほう )に暫 しばら くして降伏 ごうぶく した[note 1] 。急速 きゅうそく に終焉 しゅうえん を迎 むか えたとはいえ、秦 はた 朝 ちょう は後世 こうせい の帝国 ていこく 特 とく に漢 かん に影響 えいきょう を与 あた え、中国 ちゅうごく の欧州 おうしゅう 名 めい は、秦 はた に由来 ゆらい すると考 かんが えられている。
秦 はた 之 の 疆域
紀元前 きげんぜん 9世紀 せいき 、古代 こだい の伝説 でんせつ 上 じょう の政治 せいじ 顧問 こもん の伯 はく 益 えき (舜 しゅん と禹 の臣 しん )の子孫 しそん 非 ひ 子 こ は、秦 しん 市 し の支配 しはい を認 みと められた。現在 げんざい の天水 てんすい 市 し 張 ちょう 家 か 川 かわ 回 かい 族 ぞく 自治 じち 県 けん が、この都市 とし がかつてあった場所 ばしょ である。周 しゅう 第 だい 8代 だい の王 おう 孝 こう 王 おう の時代 じだい 、この地域 ちいき は秦 はた として知 し られることになった。共和 きょうわ の時代 じだい の紀元前 きげんぜん 897年 ねん 、この地域 ちいき は馬 うま の養育 よういく に当 あ てられる属領 ぞくりょう となった[5] 。非 ひ 子 こ の子孫 しそん の一人 ひとり 荘 そう 公 こう は、この王朝 おうちょう の第 だい 13代 だい の王 おう 平 ひら 王 おう から好感 こうかん を持 も たれることになった。褒美 ほうび として荘 そう 公 こう の息子 むすこ 襄 じょう 公 おおやけ は、正式 せいしき に秦 はた を建国 けんこく する時期 じき に遠征 えんせい の指導 しどう 者 しゃ として東方 とうほう に送 おく られた[6] 。
近隣 きんりん からの脅威 きょうい による深刻 しんこく な侵攻 しんこう を受 う けることはなかったが、秦 はた は紀元前 きげんぜん 672年 ねん に初 はじ めて中国 ちゅうごく 中部 ちゅうぶ に遠征 えんせい 隊 たい を送 おく った。しかし紀元前 きげんぜん 4世紀 せいき の初 はじ め、近隣 きんりん は全 すべ て征服 せいふく されていて、この段階 だんかい は秦 はた の拡張 かくちょう 主義 しゅぎ の興隆 こうりゅう に向 む けた準備 じゅんび が整 ととの った時期 じき であった[7] 。
秦 はた の政治 せいじ 家 か 商 しょう 鞅 は、紀元前 きげんぜん 361年 ねん から紀元前 きげんぜん 338年 ねん に死去 しきょ するまで数々 かずかず の軍事 ぐんじ 的 てき に有益 ゆうえき な改革 かいかく を主導 しゅどう し、秦 はた の首都 しゅと 咸陽 の建設 けんせつ にも協力 きょうりょく した。後者 こうしゃ の成果 せいか は、紀元前 きげんぜん 4世紀 せいき 中葉 ちゅうよう に始 はじ まり、できた都市 とし は、他 た の戦国 せんごく 時代 じだい の国々 くにぐに の首都 しゅと に大 おお いに似 に ていた[8] 。
商 しょう 鞅の大理石 だいりせき の胸像 きょうぞう
商 しょう 鞅の改革 かいかく で最 もっと も有名 ゆうめい なのは、実際 じっさい 的 てき で無慈悲 むじひ な戦争 せんそう を促進 そくしん した法家 ほうか の哲学 てつがく を支持 しじ していたことであった[9] 。対照 たいしょう 的 てき に周 しゅう と次 つぎ の戦国 せんごく 時代 じだい では、流行 りゅうこう した哲学 てつがく は、紳士 しんし の活動 かつどう としての戦争 せんそう に縛 しば り付 つ けていて、指揮 しき 官 かん は戦闘 せんとう における天 てん の法 ほう であると理解 りかい したことを尊重 そんちょう するよう教育 きょういく された[10] 。例 たと えば宋 そう の襄 じょう 公 おおやけ が[note 2] 戦国 せんごく 時代 じだい に楚 すわえ と戦争 せんそう をした際 さい に渡河 とか 中 ちゅう に敵 てき を攻撃 こうげき するのを断 ことわ った。渡 わた り終 お え隊形 たいけい を整 ととの えると、次 つぎ の戦闘 せんとう で決定的 けっていてき な敗北 はいぼく を喫 きっ した。助言 じょげん 者 しゃ は後 のち に敵 てき に対 たい するこのような過度 かど の礼儀 れいぎ について忠告 ちゅうこく すると、「賢人 けんじん は弱者 じゃくしゃ を壊滅 かいめつ させたり敵 てき が隊列 たいれつ を整 ととの える前 まえ に攻撃 こうげき 命令 めいれい を出 だ すことをしない」とい返 いかえ した[11] 。
秦 はた は敵 てき の弱点 じゃくてん に優位 ゆうい に立 た ちながらこの軍事 ぐんじ 的 てき 伝統 でんとう を無視 むし した。魏 たかし の貴族 きぞく は、秦 はた を「強欲 ごうよく で邪悪 じゃあく で利益 りえき に聡 さと く誠実 せいじつ でない国 くに である。礼儀 れいぎ や相応 ふさわ しい関係 かんけい 、高潔 こうけつ な行為 こうい については無知 むち で、物 もの を得 え る機会 きかい があれば、動物 どうぶつ のように家族 かぞく を無視 むし するであろう」と攻撃 こうげき した[12] 。その人 ひと が長 なが く続 つづ く支配 しはい 者 しゃ の強力 きょうりょく な指導 しどう 力 りょく や他国 たこく から有能 ゆうのう な人物 じんぶつ を引 ひ き抜 ぬ く開放 かいほう 性 せい 、このような強力 きょうりょく な政治 せいじ 的 てき 基礎 きそ を秦 はた に与 あた えた国内 こくない に殆 ほとん どいない反対 はんたい 派 は に関連 かんれん するこの法家 ほうか の実践 じっせん 者 しゃ であった[13] 。
戦国 せんごく 時代 じだい の地図 ちず 。秦 はた は桃色 ももいろ で示 しめ している。
もう一 ひと つの秦 はた の優位 ゆうい は、広大 こうだい で効率 こうりつ 的 てき で[note 3] 有能 ゆうのう な将軍 しょうぐん がいたことである。同様 どうよう に兵器 へいき や輸送 ゆそう で最新 さいしん の物 もの を利用 りよう し、敵 てき の多 おお くが失 うしな われた。この後者 こうしゃ の発展 はってん は、中国 ちゅうごく の多 おお くの地域 ちいき で最 もっと も標準 ひょうじゅん 化 か される数個 すうこ の異 こと なる地形 ちけい で大 おお きな可動 かどう 性 せい を与 あた えた[note 4] 。従 したが って思想 しそう と実践 じっせん の両方 りょうほう で秦 はた は軍事 ぐんじ 的 てき に優 すぐ れていた[9] 。
最終 さいしゅう 的 てき に秦 はた 帝国 ていこく は国 くに を自然 しぜん の要塞 ようさい にする山々 やまやま に守 まも られた生産 せいさん 力 りょく や戦略 せんりゃく 的 てき 位置 いち による地理 ちり 的 てき 優位 ゆうい があった[note 5] 。拡大 かくだい する農業 のうぎょう 生産 せいさん 高 だか は、食料 しょくりょう と天然 てんねん 資源 しげん と共 とも に秦 はた の広大 こうだい な軍 ぐん を維持 いじ するのを助 たす け[13] 、紀元前 きげんぜん 246年 ねん に作 つく られた渭水 は、この点 てん で特 とく に重要 じゅうよう であった[14] 。
秦 はた 朝 ちょう に先立 さきだ つ戦国 せんごく 時代 じだい に優勢 ゆうせい に争 あらそ う主要 しゅよう な国 くに は、燕 つばめ ・趙 ちょう ・斉 ひとし ・楚 すわえ ・韓 かん ・魏 たかし ・秦 はた であった。この国 くに の支配 しはい 者 しゃ は、嘗 かつ て用 もち いた低 ひく い肩書 かたが きを用 もち いるよりも自 みずか らを王 おう と位置付 いちづ けた。しかし誰 だれ も周 しゅう の王 おう が用 もち いたような「天命 てんめい 」があるとか犠牲 ぎせい を求 もと める権利 けんり があると考 かんが えて上位 じょうい に位置付 いちづ けることはなかった(周 しゅう の支配 しはい 者 しゃ のものとした)[15] 。
紀元前 きげんぜん 4世紀 せいき と紀元前 きげんぜん 3世紀 せいき の征服 せいふく の前 まえ に秦 はた は数 すう 回 かい の挫折 ざせつ を経験 けいけん した。法 ほう は貴族 きぞく にさえ適用 てきよう されると商 しょう 鞅が主張 しゅちょう したために処刑 しょけい された学生 がくせい について武 たけ 王 おう による怨恨 えんこん により紀元前 きげんぜん 338年 ねん に商 しょう 鞅が処刑 しょけい された。紀元前 きげんぜん 307年 ねん の秦 はた の継承 けいしょう に関 かん する国内 こくない の反目 はんもく もあり、秦 はた の権力 けんりょく を幾分 いくぶん 分散 ぶんさん 化 か させた。秦 はた は紀元前 きげんぜん 295年 ねん に他 た の国 くに の連合 れんごう 軍 ぐん に敗 やぶ れ、軍 ぐん の主体 しゅたい がこの時 とき 斉 ひとし に対 たい する防衛 ぼうえい にとられていたために一時 いちじ 趙 ちょう にも敗 やぶ れる危険 きけん があった。しかし暫 しばら くして積極 せっきょく 的 てき な政治 せいじ 家 か 范雎が後継 こうけい 問題 もんだい が解決 かいけつ されたために首相 しゅしょう として権力 けんりょく を掌握 しょうあく し、他 た の国 くに を征服 せいふく する企図 きと を持 も つ秦 はた を促 うなが す晋 すすむ や斉 ひとし に始 はじ まる拡張 かくちょう 主義 しゅぎ 政策 せいさく を始 はじ めた[16] 。
秦 はた は他国 たこく との争 あらそ いには敏捷 びんしょう であった。初 はじ めて真 ま 東 ひがし の韓 かん を攻撃 こうげき し、紀元前 きげんぜん 230年 ねん に国 くに 都 と 新 しん 鄭 てい ・元 もと 国 くに 都 と 陽 ひ 翟 を獲得 かくとく した。それから北 きた に向 む かい、趙 ちょう が紀元前 きげんぜん 228年 ねん に降伏 ごうぶく し、最 さい 北 きた の燕 つばめ が続 つづ き、紀元前 きげんぜん 226年 ねん に陥落 かんらく した。続 つづ いて秦 はた は東 ひがし へと戦線 せんせん を向 む かわせ、その後 ご 同様 どうよう に南 みなみ に向 む かい、紀元前 きげんぜん 225年 ねん に魏 ぎ の国 くに 都 と 大 だい 梁 はり を獲得 かくとく し、紀元前 きげんぜん 223年 ねん までに楚 すわえ を降伏 ごうぶく させた。最後 さいご に洛陽 らくよう にある周 しゅう の残存 ざんそん 地 ち を取 と り除 のぞ き、斉 ひとし を征服 せいふく し、紀元前 きげんぜん 221年 ねん に国 くに 都 と 臨淄 を獲得 かくとく した[17] 。
征服 せいふく が紀元前 きげんぜん 221年 ねん に完了 かんりょう すると、始皇帝 しこうてい は[note 6] 9歳 さい で初 はじ めて秦 はた の玉座 ぎょくざ につき、中国 ちゅうごく の事実 じじつ 上 じょう の支配 しはい 者 しゃ になった。首相 しゅしょう 呂 りょ 不 ふ 韋 の退官 たいかん で唯一 ゆいいつ の支配 しはい 者 しゃ としてその地位 ちい を確実 かくじつ なものにした。その際 さい 始皇帝 しこうてい という新 あら たな名前 なまえ に以前 いぜん の三 さん 皇 すめらぎ 五 ご 帝 みかど の肩書 かたが きを付 つ け加 くわ えた[18] [note 7] 。新 あら たに名乗 なの った皇帝 こうてい は、秦 はた の所有 しょゆう でない武器 ぶき は全 すべ て没収 ぼっしゅう し溶 と かすよう命 めい じた。集 あつ められた金属 きんぞく は、秦 はた の新 しん 首都 しゅと 咸陽 の観賞 かんしょう 用 よう 彫像 ちょうぞう 12体 たい を建造 けんぞう するのに十分 じゅうぶん な量 りょう であった[19] 。
埋葬 まいそう 地 ち 近 ちか くの始皇帝 しこうてい の大理石 だいりせき の彫像 ちょうぞう
紀元前 きげんぜん 214年 ねん に始皇帝 しこうてい は大軍 たいぐん の一部 いちぶ (10万 まん 人 にん )と共 とも に北 きた の国境 こっきょう 線 せん を固 かた め、南 みなみ の部族 ぶぞく の領域 りょういき を征服 せいふく する ために南方 なんぽう に軍 ぐん の大半 たいはん (50万 まん 人 にん )を送 おく った。中国 ちゅうごく に対 たい する秦 はた の支配 しはい に優先 ゆうせん する事象 じしょう に先立 さきだ ち、南西 なんせい の四川 しせん の多 おお くを獲得 かくとく していた。秦 はた はジャングルでの戦 たたか いに慣 な れておらず、南方 みなかた 部族 ぶぞく のゲリラ 戦 せん で10万 まん 人 にん を超 こ える損失 そんしつ を出 だ して敗北 はいぼく した。しかしこの敗北 はいぼく で秦 はた は南方 なんぽう への運河 うんが の建設 けんせつ に成功 せいこう し、南方 なんぽう への第 だい 二 に 次 じ 攻撃 こうげき で軍 ぐん を送 おく り補強 ほきょう するのに大 おお いに用 もち いられた。こうしたものの建造 けんぞう で秦 はた は広州 こうしゅう [note 8] 周辺 しゅうへん の運河 うんが 地帯 ちたい を征服 せいふく し、福 ふく 州 しゅう や桂 かつら 林 りん という地域 ちいき を獲得 かくとく した。ハノイ に至 いた る南方 なんぽう まで攻撃 こうげき した。南方 なんぽう でのこの勝利 しょうり の後 のち 、始皇帝 しこうてい は10万 まん を超 こ える捕虜 ほりょ を移動 いどう させ、新 あら たに征服 せいふく した地域 ちいき の植民 しょくみん 地 ち 化 か のために移住 いじゅう させた。帝国 ていこく の境界 きょうかい 線 せん の拡張 かくちょう 期間 きかん に始皇帝 しこうてい は南方 なんぽう で非常 ひじょう に成功 せいこう した[19] 。
しかしこの時期 じき の帝国 ていこく が北方 ほっぽう に拡大 かくだい する一方 いっぽう で秦 はた は長期間 ちょうきかん その土地 とち に踏 ふ み留 と まれたことは滅多 めった になかった。秦 はた が纏 まと めて五 ご 胡 えびす と呼 よ んだこの地域 ちいき の部族 ぶぞく は、秦 はた の大半 たいはん の時代 じだい は中国 ちゅうごく の支配 しはい を受 う けなかった[20] 。秦 はた の農民 のうみん との取引 とりひき が禁止 きんし され、中国 ちゅうごく 東北 とうほく 地方 ちほう のオルドス地方 ちほう に住 す む匈奴 きょうど は、秦 はた が報復 ほうふく するよう促 うなが しながら代 か わりに侵攻 しんこう することが珍 めずら しくなかった。蒙 こうむ 恬将軍 ぐん 率 ひき いる軍事 ぐんじ 作戦 さくせん (英語 えいご 版 ばん ) 後 ご 、この地域 ちいき は紀元前 きげんぜん 215年 ねん に征服 せいふく され、農業 のうぎょう が始 はじ められたが、農民 のうみん は不満 ふまん を抱 いだ き、後 のち に暴動 ぼうどう を起 お こした。次 つぎ の漢 かん は、人 ひと が溢 あふ れたことでオルドス地方 ちほう に拡大 かくだい もしたが、その過程 かてい で資源 しげん を激減 げきげん させた。オーウェン・ラティモア は二 ふた つの王朝 おうちょう がオルドス地方 ちほう を征服 せいふく しようとしたことについて「征服 せいふく と拡大 かくだい は、実体 じったい のないものであった。いかなる形 かたち であれ反 はん 応 おう の起 お こる成功 せいこう はなかった。」と述 の べた[21] 。確 たし かにこのことは多角 たかく 的 てき に見 み て王朝 おうちょう の国境 こっきょう については事実 じじつ であり、現代 げんだい の新疆 しんきょう ウイグル自治 じち 区 く ・チベット・満州 まんしゅう ・内モンゴル自治 うちもんごるじち 区 く ・南東 なんとう 部 ぶ の地域 ちいき は、秦 はた にとっては外国 がいこく であり、軍事 ぐんじ 的 てき に支配 しはい した地域 ちいき でさえ文化 ぶんか 的 てき には別個 べっこ のものであった[22] 。
第 だい 2代 だい 皇帝 こうてい の銅 どう 製 せい の布告 ふこく
始皇帝 しこうてい に対 たい する暗殺 あんさつ が3度 ど 試 こころ みられ[23] 、始皇帝 しこうてい はその結果 けっか 偏執狂 へんしゅうきょう 的 てき になり不死 ふし に取 と り憑 つ かれた。始皇帝 しこうてい は秘薬 ひやく は海 うみ の怪物 かいぶつ に案内 あんない された島 しま に残 のこ されていると主張 しゅちょう する道士 どうし から不死 ふし の秘薬 ひやく (英語 えいご 版 ばん ) を入手 にゅうしゅ する意図 いと を持 も って帝国 ていこく の東 ひがし 端 はし に旅 たび した紀元前 きげんぜん 210年 ねん に死去 しきょ した。首席 しゅせき 宦官 かんがん 趙 ちょう 高 だか と首相 しゅしょう 李 り 斯 は、第 だい 2代 だい 皇帝 こうてい になる死 し んだ皇帝 こうてい の最 もっと も従順 じゅうじゅん な息子 むすこ 胡 えびす 亥 い に王位 おうい を譲 ゆず る意思 いし を翻意 ほんい できるまで帰還 きかん 中 ちゅう 死 し の知 し らせを隠 かく した[24] 。自分 じぶん 達 たち の目的 もくてき に合 あ わせて胡 えびす 亥 い を操作 そうさ できると考 かんが え、従 したが って事実 じじつ 上帝 じょうてい 国 こく を支配 しはい できると考 かんが えた。確 たし かに胡 えびす 亥 い は不器用 ぶきよう で従順 じゅうじゅん であった。多 おお くの大臣 だいじん や王子 おうじ を処刑 しょけい し、大 だい 規模 きぼ な建造 けんぞう 事業 じぎょう を続 つづ け(最 もっと も浪費 ろうひ した事業 じぎょう の一 ひと つは城壁 じょうへき に漆 うるし を塗 ぬ ったことである)、軍備 ぐんび を増強 ぞうきょう し、増税 ぞうぜい し、悪 わる い知 し らせをもたらした者 もの を逮捕 たいほ した。その結果 けっか 中国 ちゅうごく 全土 ぜんど で暴動 ぼうどう が起 お き、官吏 かんり を襲撃 しゅうげき し、群衆 ぐんしゅう を決起 けっき させ、掌握 しょうあく された地域 ちいき で王 おう を自称 じしょう する者 もの が現 あらわ れた[25] 。
この間 あいだ 、李 り 斯と趙 ちょう 高 だか は、失脚 しっきゃく し、李 り 斯は処刑 しょけい された。趙 ちょう 高 だか は胡 えびす 亥 い の無能 むのう を理由 りゆう に胡 えびす 亥 い に自殺 じさつ させることにした。このことに対 たい して子 こ 嬰 は、帝位 ていい に就 つ き、直 ただ ちに趙 ちょう 高 だか を処刑 しょけい した[25] 。増大 ぞうだい する騒乱 そうらん が人民 じんみん の間 あいだ で拡大 かくだい し多 おお くの地方 ちほう の官吏 かんり が自 みずか ら王 おう を名乗 なの るのを見 み ながら子 こ 嬰は[note 9] 、他 た の王 おう と同 おな じ王 おう の一人 ひとり と自 みずか ら表明 ひょうめい することで帝位 ていい にしがみつこうとした[14] 。しかし自分 じぶん の愚 おろ かな行為 こうい で傷 きず つき、大衆 たいしゅう の反乱 はんらん が、紀元前 きげんぜん 209年 ねん に発生 はっせい した。劉邦 りゅうほう 副官 ふっかん の下 した で楚 すわえ の乱 らん が起 お きると、そのような混乱 こんらん の状態 じょうたい は長続 ながつづ きしなかった。子 こ 嬰は紀元前 きげんぜん 207年 ねん に渭水 近郊 きんこう で敗 やぶ れ、まもなく降伏 ごうぶく し、楚 すわえ の指導 しどう 者 しゃ 項羽 こうう に処刑 しょけい された。秦 はた の首都 しゅと は、翌年 よくねん 破壊 はかい され、このことは秦 はた 帝国 ていこく の終焉 しゅうえん であると他 た の歴史 れきし 家 か 同様 どうよう にダーク・ボッド (英語 えいご 版 ばん ) から看做 みな されている[26] [note 10] 。その際 さい 劉邦 りゅうほう は項羽 こうう を裏切 うらぎ り破 やぶ り、紀元前 きげんぜん 202年 ねん 2月 がつ 28日 にち に自 みずか ら漢 かん の高祖 こうそ [note 11] を名乗 なの った[27] 。秦 はた 朝 ちょう は、短 みじか い期間 きかん にもかかわらず後世 こうせい の王朝 おうちょう の構造 こうぞう に、非常 ひじょう に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。
秦 はた の貴族 きぞく は、文化 ぶんか や日々 ひび の生活 せいかつ において非常 ひじょう に似通 にかよ っていた。文化 ぶんか の地域 ちいき 差 さ は、下層 かそう 階級 かいきゅう の象徴 しょうちょう と看做 みな された。このような地域 ちいき 差 さ は政府 せいふ が達成 たっせい しようと躍起 やっき になる統一 とういつ とは相容 あいい れないと見 み られたために、このことは周 しゅう から始 はじ まり、秦 はた により急 きゅう に関心 かんしん を持 も たれた[28] 。
人口 じんこう の90%を超 こ えていた[29] 平民 へいみん や田舎 いなか の村民 そんみん は、生 う まれた村 むら や農場 のうじょう を去 さ ることは非常 ひじょう に稀 まれ であった。農場 のうじょう は殆 ほとん ど違 ちが いはなかったが、通常 つうじょう の雇用 こよう 形態 けいたい は、地域 ちいき により違 ちが った。職業 しょくぎょう は世襲 せしゅう で、父親 ちちおや の仕事 しごと は、死後 しご 長男 ちょうなん に引 ひ き継 つ がれた[30] 。『呂 りょ 氏 し 春秋 しゅんじゅう 』 は[note 12] 「仕 つか えさせる」者 しゃ の理想 りそう 像 ぞう に関 かか わりなく平民 へいみん が物質 ぶっしつ 的 てき 富 とみ にいつどのように取 と り憑 つ かれても「物 もの の提供 ていきょう を」減少 げんしょう する例 れい を示 しめ した[31] 。
農民 のうみん が秦 はた 朝 ちょう やその後 ご の王朝 おうちょう の文学 ぶんがく に取 と り上 あ げられるのは稀 まれ であり、学者 がくしゃ やエリートは、都市 とし の興奮 こうふん や政治 せいじ の魅惑 みわく の方 ほう を好 この んだ。有名 ゆうめい な例外 れいがい は、家族 かぞく は自分 じぶん の食料 しょくりょう を育 そだ てるべきだと教 おし える神 かみ 農 みのり (所謂 いわゆる 神 かみ の父 ちち )であった。「若 わか い時期 じき に耕 たがや さなければ、世界 せかい の人 ひと は、飢 う えて育 そだ つであろう。若 わか い時期 じき に編 あ み物 もの をしなければ、世界 せかい の人 ひと は凍 こご えるであろう」秦 はた はこれを促進 そくしん し、農業 のうぎょう における政治 せいじ 的 てき 関心 かんしん と活動 かつどう の模倣 もほう を作 つく り出 だ す特別 とくべつ な農場 のうじょう で交代 こうたい で耕作 こうさく を行 おこな う特別 とくべつ な官吏 かんり から構成 こうせい される儀式 ぎしき は、数 すう 年 ねん に一度 いちど 行 おこな われた[30] 。
戦国 せんごく 時代 じだい の建築 けんちく には数 すう 点 てん 確実 かくじつ な面 めん があった。防御 ぼうぎょ に使 つか う城壁 じょうへき は、長 なが く、それどころか数 すう 点 てん の第 だい 2城壁 じょうへき は、時 とき に異 こと なる区域 くいき を分 わ けるために建設 けんせつ されもした。権威 けんい と絶対 ぜったい 権力 けんりょく の意識 いしき を生 う み出 だ す連合 れんごう 構造 こうぞう の多 た 機能 きのう 性 せい が強調 きょうちょう された。高 たか い塔 とう や門 もん 、テラス、高 たか い建物 たてもの のような建築 けんちく 要素 ようそ は、十分 じゅうぶん ここに伝 つた わった[32] 。
秦 はた の書 か き言葉 ことば は、周 しゅう の書 か き言葉 ことば のように表 ひょう 語 ご 文字 もじ であった[33] 。人生 じんせい で最 もっと も影響 えいきょう を与 あた えた達成 たっせい 物 ぶつ の一 ひと つとして李 り 斯 は全国 ぜんこく で統一 とういつ された大 おお きさと形状 けいじょう となる筆記 ひっき 様式 ようしき を標準 ひょうじゅん 化 か した。このことは千 せん 年間 ねんかん 中国 ちゅうごく 文化 ぶんか における統一 とういつ 効果 こうか となることになる。書道 しょどう の小篆 しょうてん を創設 そうせつ することでも名 な を残 のこ し、現代 げんだい 中国 ちゅうごく にとって基礎 きそ をなし、依然 いぜん として葉書 はがき やポスター、広告 こうこく で用 もち いられている[34] 。
戦国 せんごく 時代 じだい 、諸子 しょし 百 ひゃく 家 いえ は中国 ちゅうごく の学者 がくしゃ により提案 ていあん された多 おお くの異 こと なる思想 しそう を構成 こうせい した。しかし紀元前 きげんぜん 221年 ねん 、始皇帝 しこうてい は全 すべ ての国 くに を征服 せいふく し、単一 たんいつ の思想 しそう 法家 ほうか で統治 とうち した。理由 りゆう は分 わ からないが、少 すく なくとも1つの思想 しそう 墨 ぼく 家 か は、根絶 こんぜつ された。秦 はた の国家 こっか 思想 しそう と墨 ぼく 家 か がある点 てん では似通 にかよ っていたとはいえ、墨 ぼく 家 か が準 じゅん 軍事 ぐんじ 的 てき 行動 こうどう により国軍 こくぐん から捜索 そうさく され殺 ころ されたことは可能 かのう 性 せい としてある[35] 。
儒教 じゅきょう と呼 よ ばれる孔子 こうし の思想 しそう は、周 しゅう の後半 こうはん や帝国 ていこく 時代 じだい の初 はじ めの多 おお くを通 つう じて起 お きたように戦国 せんごく 時代 じだい にも影響 えいきょう を与 あた えた[note 13] 。この思想 しそう は当時 とうじ の中国 ちゅうごく 文学 ぶんがく を形成 けいせい していた頌や文書 ぶんしょ ・典礼 てんれい ・音楽 おんがく ・春秋 しゅんじゅう 、変更 へんこう の「6古典 こてん 」として知 し られる所謂 いわゆる 儒教 じゅきょう 文学 ぶんがく の規範 きはん があった[36] 。
秦 はた 朝 ちょう では、他 た の法家 ほうか に属 ぞく さない思想 しそう と共 とも に儒教 じゅきょう は始皇帝 しこうてい により抑圧 よくあつ され、初期 しょき の漢 かん の皇帝 こうてい は、同 おな じことをした。法家 ほうか は封建 ほうけん 制度 せいど を非難 ひなん し、特 とく に皇帝 こうてい が違反 いはん すると、厳罰 げんばつ を奨励 しょうれい した。個人 こじん の権利 けんり が政府 せいふ や支配 しはい 者 しゃ の意志 いし と相反 あいはん すると無効 むこう とされ、商人 しょうにん や学者 がくしゃ は、非 ひ 生産 せいさん 的 てき と看做 みな され、排除 はいじょ の対象 たいしょう とされた[37] 。古 ふる い思想 しそう の根絶 こんぜつ を遂行 すいこう するために採用 さいよう された徹底的 てっていてき な手法 しゅほう の一 ひと つは、悪名 あくめい 高 たか い焚書坑儒 ふんしょこうじゅ で、後世 こうせい の学者 がくしゃ の間 あいだ で秦 はた 朝 ちょう の荒涼 こうりょう とした評価 ひょうか を勝 か ち得 え た[19] 。権力 けんりょく を強固 きょうこ にする企図 きと を持 も って始皇帝 しこうてい は法家 ほうか や国家 こっか に挑戦 ちょうせん する視点 してん を唱道 しょうどう するあらゆる書物 しょもつ の焼却 しょうきゃく を命 めい じた[38] 。この布告 ふこく は紀元前 きげんぜん 213年 ねん に発布 はっぷ され、焼却 しょうきゃく するために書物 しょもつ を差 さ し出 だ すことを拒否 きょひ した学者 がくしゃ は全 すべ て生 い き埋 う め にされて処刑 しょけい されることになることも規定 きてい した[19] 。法家 ほうか から生産 せいさん 的 てき と看做 みな された唯一 ゆいいつ の書物 しょもつ は、保護 ほご され、その殆 ほとん どは農業 のうぎょう や易 えき 断 だん 、医学 いがく のような実用 じつよう 的 てき な主題 しゅだい を論 ろん じたものであった[38] 。
しかし「焚書坑儒 ふんしょこうじゅ 」に関 かん する議論 ぎろん は残 のこ っている。今日 きょう 多 おお くの中国 ちゅうごく 学者 がくしゃ は、「大 だい 歴史 れきし 家 か 」に記録 きろく されたような「坑 あな 儒」はこの用語 ようご は単 たん に恐 おそ らく「死罪 しざい 」を意味 いみ したものとして額面 がくめん 通 どお りには受 う け取 と れないと議論 ぎろん している[39] 。
秦 はた 朝 ちょう の弓矢 ゆみや (上 うえ )と弩 いしゆみ 弓 ゆみ (下 した )謝辞 しゃじ :梁 りょう 節 たかし 明 あきら (音訳 おんやく )
秦 はた の政府 せいふ は、高度 こうど に官僚 かんりょう 主義 しゅぎ 的 てき で、全員 ぜんいん が始皇帝 しこうてい に仕 つか える官僚 かんりょう 機構 きこう により統治 とうち された。秦 はた は最近 さいきん 占領 せんりょう された国々 くにぐに などの領域 りょういき 全 すべ てを支配 しはい することを始皇帝 しこうてい に認 みと めながら韓 かん 非 ひ の教 おし えの実践 じっせん を行 おこな った。生活 せいかつ のあらゆる面 めん が馬車 ばしゃ の車軸 しゃじく の長 なが さのような長 なが さや言語 げんご から実用 じつよう 的 てき な詳細 しょうさい まで標準 ひょうじゅん 化 か された[18] 。始皇帝 しこうてい と助言 じょげん 者 しゃ は、中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 化 か した官僚 かんりょう 主義 しゅぎ 的 てき な政府 せいふ に置 お き換 か える中国 ちゅうごく の封建 ほうけん 主義 しゅぎ を終 お わらせる法律 ほうりつ や習慣 しゅうかん を導入 どうにゅう した。この制度 せいど の下 した で有能 ゆうのう な個人 こじん が転換 てんかん した社会 しゃかい で容易 ようい に名 な をあげることができたので軍 ぐん と政府 せいふ の双方 そうほう が成功 せいこう した。後世 こうせい の中国 ちゅうごく 王朝 おうちょう は、儒教 じゅきょう により非難 ひなん されたとはいえ、その効率 こうりつ のために秦 はた 朝 ちょう を手本 てほん にした[18] [40] 。しかしこのような制度 せいど は、権力 けんりょく に飢 う えた個人 こじん に操作 そうさ され得 え 、このような事件 じけん の一 いち 例 れい は、「官吏 かんり の記録 きろく 」に記 しる された。胡 えびす という司令 しれい 官 かん は、自分 じぶん の殺 ころ した数多 すうた の「盗賊 とうぞく 」を増 ふ やす目的 もくてき で農民 のうみん を攻撃 こうげき するように部下 ぶか に命 めい じ、同様 どうよう に自分 じぶん の記録 きろく を増 ふ やしそうな上司 じょうし が、このことを許 ゆる した[41] 。
既 すで に大改革 だいかいかく を遂行 すいこう している事実 じじつ があるとはいえ、始皇帝 しこうてい は軍備 ぐんび でも改革 かいかく を行 おこな った[42] 。軍 ぐん は当時 とうじ としては最高 さいこう の武器 ぶき を使用 しよう していた。戦国 せんごく 時代 じだい の剣 けん の発明 はつめい は、大 おお きな進歩 しんぽ であった。初 はじ めは主 しゅ として青銅 せいどう 製 せい が用 もち いられたが、紀元前 きげんぜん 3世紀 せいき までに秦 はた は更 さら に強 つよ い鉄製 てつせい の剣 けん を用 もち いていた。この金属 きんぞく に対 たい する需要 じゅよう は、弓 ゆみ (英語 えいご 版 ばん ) の改良 かいりょう へと繋 つな がった。クロスボウ が紀元前 きげんぜん 4世紀 せいき に導入 どうにゅう されていて、嘗 かつ て使 つか われた複 ふく 合 あい 弓 ゆみ より強力 きょうりょく で的確 てきかく であった。2つのピンを除去 じょきょ することで効果 こうか をなくすことも可能 かのう で、敵 てき がクロスボウを獲得 かくとく することができなくなった[10] 。
兵馬 へいば 俑
秦 はた は輸送 ゆそう と兵站 へいたん の手法 しゅほう も改良 かいりょう した。趙 ちょう は紀元前 きげんぜん 307年 ねん に初 はじ めて騎兵 きへい とともにチャリオット に置 お き換 か えたが、騎兵 きへい は中国 ちゅうごく の地形 ちけい に対 たい して大 おお いに機動 きどう 性 せい があったので、この変更 へんこう は急速 きゅうそく に他 た の国 くに に取 と り入 い れられた[43] 。
始皇帝 しこうてい は遊牧 ゆうぼく 生活 せいかつ を送 おく るモンゴル族 ぞく に対 たい して防御 ぼうぎょ するために北 きた の国境 こっきょう を要塞 ようさい 化 か する計画 けいかく を発展 はってん させた。その結果 けっか は後 のち に万里 ばんり の長城 ちょうじょう となるものの初期 しょき の建設 けんせつ であり、封建 ほうけん 領主 りょうしゅ により作 つく られた壁 かべ の結合 けつごう と補強 ほきょう により建造 けんぞう され、後世 こうせい の王朝 おうちょう により度々 どど 拡張 かくちょう され再建 さいけん されることになり、北 きた からの脅威 きょうい に対応 たいおう もした。始皇帝 しこうてい の統治 とうち 時代 じだい に作 つく られたもう一 ひと つの事業 じぎょう は、死後 しご に皇帝 こうてい を守 まも ることを目的 もくてき にした兵馬 へいば 俑 であった。兵馬 へいば 俑は地下 ちか にあるために目立 めだ たず、1974年 ねん まで発見 はっけん されなかった[44] 。
あらゆる方向 ほうこう に高 たか く浮 う かびながら、音楽 おんがく は玄関 げんかん と宮廷 きゅうてい を満 み たしている。芳香 ほうこう は羽毛 うもう の森 もり であり、曇 くもり は薄暮 はくぼ である。金属 きんぞく は上品 じょうひん に咲 さ き誇 ほこ り、旗 はた と川蝉 かわせみ の横断幕 おうだんまく の主 あるじ 。 「7 なな つの起源 きげん 」と「開花 かいか の始 はじ まり」の音楽 おんがく は調和 ちょうわ のとれた音 おと として詠唱 えいしょう される。従 したが って人 ひと は殆 ほとん ど聞 き くことができ精霊 せいれい は祝宴 しゅくえん とお祭 まつ り騒 さわ ぎにやってくる。精霊 せいれい は音楽 おんがく の諸諸 もろもろ に追 お い払 はら われ、人間 にんげん の感性 かんせい を浄化 じょうか し精製 せいせい する。突然 とつぜん 精霊 せいれい は暗闇 くらやみ に乗 じょう じ、光沢 こうたく のある事件 じけん は終 お わる。浄化 じょうか された思想 しそう は密 ひそ かに成長 せいちょう し静止 せいし し、世界 せかい の縦糸 たていと と横糸 よこいと は、暗闇 くらやみ に落 お ちる。
漢書 かんしょ , p. 1046
秦 はた の時代 じだい や事実 じじつ 初期 しょき の中国 ちゅうごく 帝国 ていこく の多 おお くの時代 じだい の中国 ちゅうごく の優勢 ゆうせい な宗教 しゅうきょう 信仰 しんこう は、神 かみ (英語 えいご 版 ばん ) (簡単 かんたん に言 い えば「精霊 せいれい 」)や陰 かげ 、そうしたものが住 す むと言 い われる王国 おうこく に焦点 しょうてん を当 あ てていた。中国人 ちゅうごくじん は地球 ちきゅう 上 じょう のものと併存 へいそん していると信 しん じるこの別世界 べっせかい に接触 せっしょく する企図 きと を持 も って犠牲 ぎせい を求 もと めた[note 14] 。死者 ししゃ は単 たん にある世界 せかい から別 べつ の世界 せかい へ移動 いどう すると言 い われた。他 た と同様 どうよう に儀式 ぎしき は死者 ししゃ は他 た の王国 おうこく に旅 たび をし留 と まることを確実 かくじつ にし精霊 せいれい の王国 おうこく から賞賛 しょうさん を得 え る2つの目的 もくてき を与 あた えるという[note 15] [45] [46] 。
宗教 しゅうきょう 的 てき 実践 じっせん は、通常 つうじょう 供物 くもつ 台 だい のある地元 じもと の神社 じんじゃ か神聖 しんせい な区域 くいき で行 おこな われた。犠牲 ぎせい などの儀式 ぎしき では参加 さんか 者 しゃ や目撃 もくげき 者 しゃ 全 すべ ての感覚 かんかく が煙 けむり や香 こう 、音楽 おんがく と共 とも に和 やわ らぎ霞 かす むことになる。中心 ちゅうしん となって犠牲 ぎせい を捧 ささ げる人 ひと は、更 さら に感覚 かんかく を鈍 なま らせ超 ちょう 自然 しぜん 的 てき 現象 げんしょう を理解 りかい する増大 ぞうだい させる犠牲 ぎせい の前 まえ で断食 だんじき をしたり瞑想 めいそう する ことになる。厳格 げんかく ではないが他 た の参加 さんか 者 しゃ は同様 どうよう に準備 じゅんび した。
このような感覚 かんかく を和 やわ らげることは、精霊 せいれい の介在 かいざい 物 ぶつ (霊媒 れいばい )の実践 じっせん における要素 ようそ でもあった。芸術 げいじゅつ の専門 せんもん 家 か は、トランス状態 じょうたい に陥 おちい るか超 ちょう 自然 しぜん 的 てき 状況 じょうきょう を表 あらわ す踊 おど りをすることになる。この人々 ひとびと は芸術 げいじゅつ の結果 けっか として権力 けんりょく を握 にぎ ることも珍 めずら しくなく、漢 かん の方 かた 士 し 欒大 (英語 えいご 版 ばん ) は、2000を超 こ える世帯 せたい の支配 しはい を保証 ほしょう された。有名 ゆうめい な漢 かん の歴史 れきし 家 か 司馬 しば 遷 は、愚 おろ かな計略 けいりゃく と退 しりぞ けながらこのような実践 じっせん を嘲笑 ちょうしょう した[47] 。
未来 みらい を予言 よげん したり支配 しはい する占 うらな い は、いまだもう一 ひと つの宗教 しゅうきょう 的 てき 実践 じっせん の形態 けいたい であった。秦 はた 朝 ちょう で一般 いっぱん 的 てき であった古代 こだい の実践 じっせん は、未来 みらい を知 し るために骨 ほね や亀 かめ の甲羅 こうら を砕 くだ くことであった。自然 しぜん 現象 げんしょう を扱 あつか うのが一般 いっぱん 的 てき な手法 しゅほう であったが、初期 しょき の中国 ちゅうごく 帝国 ていこく で突如 とつじょ 現 あらわ れた占 うらな いの形態 けいたい は、様々 さまざま であった。彗星 すいせい や食 しょく 、旱魃 かんばつ は、起 お こることの前兆 ぜんちょう と看做 みな された[48] 。
「秦 はた 」という名前 なまえ は、現代 げんだい のヨーロッパ式 しき 国名 こくめい China の語源 ごげん と考 かんが えられている。この言葉 ことば は恐 おそ らく「Cina」や「Sina」として初 はじ めてインド語 ご 派 は に持 も ち込 こ まれたもので、「Sinai」や「Thinai」としてその際 さい ギリシア語 ご やラテン語 らてんご に持 も ち込 こ まれた。その際 さい 「China」や「Chine」として英語 えいご やフランス語 ふらんすご に変換 へんかん された。この語源 ごげん はサンスクリット の「Sina」が秦 はた 朝 ちょう より前 まえ に発展 はってん したと示唆 しさ する一部 いちぶ の学者 がくしゃ からは嘲笑 ちょうしょう されている。紀元前 きげんぜん 7世紀 せいき に周 しゅう に支配 しはい された国 くに 晋 すすむ は、もう一 ひと つの可能 かのう 性 せい のある語源 ごげん である[49] 。
注 ちゅう :昭 あきら 襄 じょう 王 おう は既 すで に秦 はた が周 しゅう を全滅 ぜんめつ させた時点 じてん で51年間 ねんかん 秦 はた を支配 しはい していたが、戦国 せんごく 時代 じだい の他 ほか の6国 こく は、依然 いぜん 独立 どくりつ を保 たも っていた。従 したが って歴史 れきし 家 か によっては翌年 よくねん (昭 あきら 襄 じょう 王 おう の52年 ねん 目 め )を正式 せいしき な周 しゅう からの継承 けいしょう として用 もち いた。
始皇帝 しこうてい は紀元前 きげんぜん 221年 ねん に中国 ちゅうごく を統一 とういつ してから自 みずか ら「皇帝 こうてい 」と名乗 なの った最初 さいしょ の中国 ちゅうごく の君主 くんしゅ であった。従 したが ってこの年 とし は内戦 ないせん で暫時 ざんじ 中断 ちゅうだん する紀元前 きげんぜん 206年 ねん までの15年間 ねんかん 続 つづ く「秦 はた 朝 ちょう 」の始 はじ まりと西洋 せいよう の歴史 れきし 家 か から一般 いっぱん に採用 さいよう されている[50] 。
諡 おくりな / 肩書 かたが き
漢 かん 姓 せい と中国人 ちゅうごくじん 名 めい (英語 えいご 版 ばん )
統治 とうち 期間 きかん
慣例 かんれい :「秦 はた 」+諡 おくりな
昭 あきら 襄 じょう 王 おう
嬴稷(yíng jì)または嬴則(yíng zé)
紀元前 きげんぜん 306年 ねん –紀元前 きげんぜん 250年 ねん
孝文 たかふみ 王 おう
嬴柱(yíng zhù)
紀元前 きげんぜん 250年 ねん
荘 そう 襄 じょう 王 おう
嬴子楚 すわえ (yíng zǐ chǔ)
紀元前 きげんぜん 249年 ねん –紀元前 きげんぜん 247年 ねん
秦 はた 朝 あさ (紀元前 きげんぜん 221年 ねん –紀元前 きげんぜん 206年 ねん )
始皇帝 しこうてい
嬴政(yíng zhèng)
紀元前 きげんぜん 246年 ねん –紀元前 きげんぜん 210年 ねん
胡 えびす 亥 い (二 に 世 せい 皇帝 こうてい (Èr Shì Huángdì))
嬴胡亥 い (yíng hú hài)
紀元前 きげんぜん 210年 ねん –紀元前 きげんぜん 207年 ねん
子 こ 嬰は個人 こじん 名 めい か秦 はた 王子 おうじ 嬰(qín wáng zi yīng)を用 もち いて参照 さんしょう されることが珍 めずら しくない。
存在 そんざい せず
嬴子嬰(yíng zi yīng)
紀元前 きげんぜん 206年 ねん
^ 秦 はた の始皇帝 しこうてい は、王朝 おうちょう は1万 まん 世代 せだい 続 つづ くであろうと自慢 じまん したが、15年 ねん 程度 ていど で滅 ほろ んだ。(Morton 1995, p. 49)
^ 後世 こうせい の宋 そう の公 おおやけ と混同 こんどう しないこと
^ このことは「文化 ぶんか と社会 しゃかい 」節 ふし で述 の べる(商 しょう 鞅により実行 じっこう された)地主 じぬし 政策 せいさく の結果 けっか 得 え られた広大 こうだい な労働 ろうどう 力 りょく による。
^ 兵器 へいき と共 とも にこのことは秦 はた の軍事 ぐんじ と政府 せいふ を語 かた る節 ふし で詳述 しょうじゅつ している。
^ ここは関東 かんとう として知 し られる長江 ながえ 流域 りゅういき の地域 ちいき と対照 たいしょう 的 てき に関 せき 中 なか の中心 ちゅうしん であった。関 せき 中 ちゅう の秦 はた の戦争 せんそう に適 てき した自然 しぜん は、漢 かん の「関東 かんとう は大臣 だいじん を作 つく る一方 いっぽう で関 かん 中 ちゅう は将軍 しょうぐん を作 つく る」という金言 きんげん に進化 しんか した。(Lewis 2007, p. 17)
^ 個人 こじん 名 めい は嬴政であった。
^ 現代 げんだい 中国 ちゅうごく の習慣 しゅうかん は、姓 せい として王朝 おうちょう 名 めい を加 くわ える慣習 かんしゅう があるので、この場合 ばあい は秦 はた の始皇帝 しこうてい となる。後 のち に中国人 ちゅうごくじん の名前 なまえ が4文字 もじ の例 れい は稀 まれ なので、こちらは秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ と縮 ちぢ められた。
^ 嘗 かつ てはカントンとして知 し られていた。
^ このことは画一 かくいつ 性 せい を強 し いる秦 はた の企図 きと にもかかわらず生 い き残 のこ る地域 ちいき 格差 かくさ に大 おお いに原因 げんいん があった。
^ 秦 はた の始皇帝 しこうてい は、王朝 おうちょう は1万 まん 世代 せだい 続 つづ くと自慢 じまん したが、僅 わず か15年 ねん 程度 ていど で終演 しゅうえん した。(Morton 1995, p. 49)
^ 「高 たか い祖先 そせん 」を意味 いみ する
^ 名称 めいしょう は支援 しえん 者 しゃ で他 た の国 くに の征服 せいふく 前 まえ の首相 しゅしょう 呂 りょ 不 ふ 韋に由来 ゆらい する。
^ 「儒教 じゅきょう 」という用語 ようご は、事実 じじつ 「孔子 こうし の道 みち 」として知 し られることの原則 げんそく を拒否 きょひ したこの文脈 ぶんみゃく の多 おお い自称 じしょう としての儒者 じゅしゃ においては逆 ぎゃく に明白 めいはく でなく、後世 こうせい の宋 そう や元 もと の儒者 じゅしゃ と違 ちが い組織 そしき 化 か されていなかった。
^ 犠牲 ぎせい は常 つね に動物 どうぶつ であり、人間 にんげん の犠牲 ぎせい は、古代 こだい 中国 ちゅうごく では禁 きん じられていた。
^ しかし斉 さい の神 かみ 秘 ひ 論 ろん 者 しゃ は、犠牲 ぎせい を不死 ふし になる方法 ほうほう という別 べつ の見方 みかた をした。
^ 鸟虫篆 文体 ぶんたい
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