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秦朝 - Wikipedia

はたちょう

中国ちゅうごく王朝おうちょう (ぜん221-ぜん206)

はたちょう(しんちょう)は、中国ちゅうごくはつ統一とういつ王朝おうちょうである。紀元前きげんぜん221ねんからまえ206ねんまで存在そんざいし、はたちょうてた皇帝こうていは、始皇帝しこうていとしてられている、せい(えい)、ちょうはた現在げんざい甘粛かんせいしょう陝西せんせいしょうはた拠点きょてん由来ゆらいした。その文化ぶんかてき起源きげんについては、しゅうあずまかつ東方とうほうから移住いじゅうした人々ひとびとはじめたという「ひがしらいせつ」と西方せいほうからたという「西にしらいせつ」とで長年ながねん議論ぎろんわされていたが[2]現在げんざいではいん文化ぶんかしゅう文化ぶんか西戎せいじゅう文化ぶんかといった多元的たげんてき文化ぶんか起源きげんつとかんがえられている[3]

はた
𗴂

 

紀元前きげんぜん221ねん紀元前きげんぜん206ねん
 

はた位置いち
はたちょう受命じゅめい於天 すんでことぶき永昌えいしょう[1]たま
首都しゅと 咸陽
言語げんご 上古じょうこ漢語かんご
宗教しゅうきょう 中国ちゅうごく民俗みんぞく宗教しゅうきょう
法家ほうか
政府せいふ 帝政ていせい
皇帝こうてい
 •  紀元前きげんぜん221ねん – 紀元前きげんぜん210ねん 始皇帝しこうてい
 •  紀元前きげんぜん210ねん – 紀元前きげんぜん207ねん えびす
 •  紀元前きげんぜん207ねん
宰相さいしょう
 •  紀元前きげんぜん221ねん – 紀元前きげんぜん208ねん
 •  紀元前きげんぜん208ねん – 紀元前きげんぜん207ねん ちょうだか
歴史れきし時代じだい 帝政ていせい
 •  中華ちゅうか統一とういつ 紀元前きげんぜん221ねん
 •  始皇帝しこうてい死去しきょ 紀元前きげんぜん210ねん
 •  劉邦りゅうほう降伏ごうぶく 紀元前きげんぜん206ねん
人口じんこう
 •  紀元前きげんぜん210ねん推定すいてい 20,000,000にん
通貨つうか はんりょう硬貨こうか英語えいごばん
現在げんざい
中国歴史
中国ちゅうごく歴史れきし
先史せんし時代じだい中国語ちゅうごくごばん
ちゅう石器せっき時代じだい中国語ちゅうごくごばん
しん石器せっき時代じだい
さんすめらぎみかど
いにしえこく時代じだい
黄河こうが文明ぶんめい
長江ながえ文明ふみあき
りょうかわ文明ぶんめい
なつ
いん
しゅう西にしあまね
しゅう
あずまあまね
春秋しゅんじゅう時代じだい
戦国せんごく時代じだい
はた
かん前漢ぜんかん
しん
かんこうかん

孫呉そんご
かん
しょくかん
たかし
曹魏
すすむ西にしすすむ
すすむあずますすむ じゅうろくこく
そうりゅうそう たかしきたたかし
ひとしみなみひとし
りょう たかし
(西にしたかし)
たかし
(あずまたかし)
ひね りょう
(こうはり)
しゅう
(きたあまね)
ひとし
(きたひとし)
ずい
とう  
しゅうたけあまね
 
だいじゅうこく ちぎり
そう
きたそう
なつ
(西にしなつ)
りょう
そう
みなみそう
きむ
もと
あきら もと
(北元きたもと)
あきら
南明なんめい
じゅん 後金あときん
 
きよし
 
中華民国ちゅうかみんこく まんしゅうこく
 
中華ちゅうか
みんこく

台湾たいわん
中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく

はたつよさは、戦国せんごく時代じだい紀元前きげんぜん4世紀せいきしょう法家ほうか改革かいかくによりおおいにたかめられた。紀元前きげんぜん3世紀せいき中葉ちゅうよう後半こうはんに、はた一連いちれん迅速じんそく征服せいふくげ、弱体じゃくたいしたしゅうわらせ、戦国せんごくななゆうの6こく征服せいふくしてぜん中国ちゅうごく支配しはいした。

中国ちゅうごく支配しはいはたは、強大きょうだい軍備ぐんび維持いじできる高度こうど形作かたちづくられた権力けんりょくと、安定あんていした経済けいざいにより統一とういつされた帝国ていこく創造そうぞうすることをこころみた[4]はた中央ちゅうおう政府せいふは、貴族きぞく地主じぬし役割やくわり極小きょくしょう人口じんこう絶対ぜったい多数たすうめる農民のうみんたいする直接的ちょくせつてき支配しはいをし広範こうはん労働ろうどう部隊ぶたいへのはた関与かんよみとめることで支配しはいしようとした。このことは現在げんざい万里ばんり長城ちょうじょうとしてられるきた国境こっきょうかべのようなだい規模きぼ事業じぎょう建設けんせつ可能かのうとした。はたちょう通貨つうか度量衡どりょうこう標準ひょうじゅんされ筆記ひっき形態けいたい統一とういつおこなわれるような数個すうこ改革かいかく主導しゅどうした。批判ひはん制限せいげんふる王朝おうちょう名残なごりすべ粛清しゅくせいする企図きとは、後世こうせい学者がくしゃおおいに批判ひはんされている悪名あくめいたか焚書坑儒ふんしょこうじゅへと発展はってんした。政府せいふこうあつてき官僚かんりょう主義しゅぎてきであったが、はた軍事ぐんじは、さい新鋭しんえい兵器へいき輸送ゆそう手段しゅだん戦術せんじゅつもちいるてん革命かくめいてきでもあった。

はたちょう全国ぜんこくを36ぐんけた。領土りょうどひろげるごとに、中央ちゅうおう政府せいふ支配しはいするあらたなぐん次々つぎつぎいた。みねみなみ南越なんごし支配しはいした領土りょうどには、南海なんかいかつらりんおよぞうぐんの3ぐんを、きた匈奴きょうどめてかげやま以南いなんったにはきゅうげんぐん現在げんざいつつみあたま一帯いったい)をいた。

軍事ぐんじてきには強大きょうだいであったとはいえ、はたちょうながつづかなかった。始皇帝しこうてい紀元前きげんぜん210ねんぬと、始皇帝しこうてい息子むすこであるえびすが、えびすつうじてぜん王朝おうちょう行政ぎょうせい影響えいきょうおよぼし支配しはいする企図きとって皇帝こうていもと顧問こもんうちの2にんにより皇帝こうていかつげられた。しかしこの顧問こもんにんとも死去しきょしんだい2だい皇帝こうてい死去しきょすることになる論争ろんそうまれた。大衆たいしゅうてき反乱はんらんは、2ねん発生はっせいし、弱体じゃくたいした帝国ていこくは、かん建国けんこくにつながるすわえ副官ふっかん劉邦りゅうほう)にしばらくして降伏ごうぶくした[note 1]急速きゅうそく終焉しゅうえんむかえたとはいえ、はたちょう後世こうせい帝国ていこくとくかん影響えいきょうあたえ、中国ちゅうごく欧州おうしゅうめいは、はた由来ゆらいするとかんがえられている。

 
はた疆域

起源きげん初期しょき発展はってん

編集へんしゅう

紀元前きげんぜん9世紀せいき古代こだい伝説でんせつじょう政治せいじ顧問こもんはくえきしゅんしん)の子孫しそんは、しん支配しはいみとめられた。現在げんざい天水てんすいちょうかわかいぞく自治じちけんが、この都市としがかつてあった場所ばしょである。しゅうだい8だいおうこうおう時代じだい、この地域ちいきはたとしてられることになった。共和きょうわ時代じだい紀元前きげんぜん897ねん、この地域ちいきうま養育よういくてられる属領ぞくりょうとなった[5]子孫しそん一人ひとりそうこうは、この王朝おうちょうだい13だいおうひらおうから好感こうかんたれることになった。褒美ほうびとしてそうこう息子むすこじょうおおやけは、正式せいしきはた建国けんこくする時期じき遠征えんせい指導しどうしゃとして東方とうほうおくられた[6]

近隣きんりんからの脅威きょういによる深刻しんこく侵攻しんこうけることはなかったが、はた紀元前きげんぜん672ねんはじめて中国ちゅうごく中部ちゅうぶ遠征えんせいたいおくった。しかし紀元前きげんぜん4世紀せいきはじめ、近隣きんりんすべ征服せいふくされていて、この段階だんかいはた拡張かくちょう主義しゅぎ興隆こうりゅうけた準備じゅんびととのった時期じきであった[7]

勢力せいりょく伸長しんちょう

編集へんしゅう

はた政治せいじしょうは、紀元前きげんぜん361ねんから紀元前きげんぜん338ねん死去しきょするまで数々かずかず軍事ぐんじてき有益ゆうえき改革かいかく主導しゅどうし、はた首都しゅと咸陽建設けんせつにも協力きょうりょくした。後者こうしゃ成果せいかは、紀元前きげんぜん4世紀せいき中葉ちゅうようはじまり、できた都市としは、戦国せんごく時代じだい国々くにぐに首都しゅとおおいにていた[8]

 
しょう鞅の大理石だいりせき胸像きょうぞう

しょう鞅の改革かいかくもっと有名ゆうめいなのは、実際じっさいてき無慈悲むじひ戦争せんそう促進そくしんした法家ほうか哲学てつがく支持しじしていたことであった[9]対照たいしょうてきしゅうつぎ戦国せんごく時代じだいでは、流行りゅうこうした哲学てつがくは、紳士しんし活動かつどうとしての戦争せんそうしばけていて、指揮しきかん戦闘せんとうにおけるてんほうであると理解りかいしたことを尊重そんちょうするよう教育きょういくされた[10]たとえばそうじょうおおやけ[note 2] 戦国せんごく時代じだいすわえ戦争せんそうをしたさい渡河とかちゅうてき攻撃こうげきするのをことわった。わた隊形たいけいととのえると、つぎ戦闘せんとう決定的けっていてき敗北はいぼくきっした。助言じょげんしゃのちてきたいするこのような過度かど礼儀れいぎについて忠告ちゅうこくすると、「賢人けんじん弱者じゃくしゃ壊滅かいめつさせたりてき隊列たいれつととのえるまえ攻撃こうげき命令めいれいすことをしない」といいかえした[11]

はたてき弱点じゃくてん優位ゆういちながらこの軍事ぐんじてき伝統でんとう無視むしした。たかし貴族きぞくは、はたを「強欲ごうよく邪悪じゃあく利益りえきさと誠実せいじつでないくにである。礼儀れいぎ相応ふさわしい関係かんけい高潔こうけつ行為こういについては無知むちで、もの機会きかいがあれば、動物どうぶつのように家族かぞく無視むしするであろう」と攻撃こうげきした[12]。そのひとながつづ支配しはいしゃ強力きょうりょく指導しどうりょく他国たこくから有能ゆうのう人物じんぶつ開放かいほうせい、このような強力きょうりょく政治せいじてき基礎きそはたあたえた国内こくないほとんどいない反対はんたい関連かんれんするこの法家ほうか実践じっせんしゃであった[13]

 
戦国せんごく時代じだい地図ちずはた桃色ももいろしめしている。

もうひとつのはた優位ゆういは、広大こうだい効率こうりつてき[note 3] 有能ゆうのう将軍しょうぐんがいたことである。同様どうよう兵器へいき輸送ゆそう最新さいしんもの利用りようし、てきおおくがうしなわれた。この後者こうしゃ発展はってんは、中国ちゅうごくおおくの地域ちいきもっと標準ひょうじゅんされる数個すうこことなる地形ちけいおおきな可動かどうせいあたえた[note 4]したがって思想しそう実践じっせん両方りょうほうはた軍事ぐんじてきすぐれていた[9]

最終さいしゅうてきはた帝国ていこくくに自然しぜん要塞ようさいにする山々やまやままもられた生産せいさんりょく戦略せんりゃくてき位置いちによる地理ちりてき優位ゆういがあった[note 5]拡大かくだいする農業のうぎょう生産せいさんだかは、食料しょくりょう天然てんねん資源しげんともはた広大こうだいぐん維持いじするのをたす[13]紀元前きげんぜん246ねんつくられた渭水は、このてんとく重要じゅうようであった[14]

戦国せんごく時代じだい国々くにぐに征服せいふく

編集へんしゅう

はたちょう先立さきだ戦国せんごく時代じだい優勢ゆうせいあらそ主要しゅようくには、つばめちょうひとしすわえかんたかしはたであった。このくに支配しはいしゃは、かつもちいたひく肩書かたがきをもちいるよりもみずからをおう位置付いちづけた。しかしだれしゅうおうもちいたような「天命てんめい」があるとか犠牲ぎせいもとめる権利けんりがあるとかんがえて上位じょうい位置付いちづけることはなかった(しゅう支配しはいしゃのものとした)[15]

紀元前きげんぜん4世紀せいき紀元前きげんぜん3世紀せいき征服せいふくまえはたすうかい挫折ざせつ経験けいけんした。ほう貴族きぞくにさえ適用てきようされるとしょう鞅が主張しゅちょうしたために処刑しょけいされた学生がくせいについてたけおうによる怨恨えんこんにより紀元前きげんぜん338ねんしょう鞅が処刑しょけいされた。紀元前きげんぜん307ねんはた継承けいしょうかんする国内こくない反目はんもくもあり、はた権力けんりょく幾分いくぶん分散ぶんさんさせた。はた紀元前きげんぜん295ねんくに連合れんごうぐんやぶれ、ぐん主体しゅたいがこのときひとしたいする防衛ぼうえいにとられていたために一時いちじちょうにもやぶれる危険きけんがあった。しかししばらくして積極せっきょくてき政治せいじ范雎が後継こうけい問題もんだい解決かいけつされたために首相しゅしょうとして権力けんりょく掌握しょうあくし、くに征服せいふくする企図きとはたうながすすむひとしはじまる拡張かくちょう主義しゅぎ政策せいさくはじめた[16]

はた他国たこくとのあらそいには敏捷びんしょうであった。はじめてひがしかん攻撃こうげきし、紀元前きげんぜん230ねんくにしんていもとくに獲得かくとくした。それからきたかい、ちょう紀元前きげんぜん228ねん降伏ごうぶくし、さいきたつばめつづき、紀元前きげんぜん226ねん陥落かんらくした。つづいてはたひがしへと戦線せんせんかわせ、その同様どうようみなみかい、紀元前きげんぜん225ねんくにだいはり獲得かくとくし、紀元前きげんぜん223ねんまでにすわえ降伏ごうぶくさせた。最後さいご洛陽らくようにあるしゅう残存ざんそんのぞき、ひとし征服せいふくし、紀元前きげんぜん221ねんくに臨淄獲得かくとくした[17]

征服せいふく紀元前きげんぜん221ねん完了かんりょうすると、始皇帝しこうてい[note 6] 9さいはじめてはた玉座ぎょくざにつき、中国ちゅうごく事実じじつじょう支配しはいしゃになった。首相しゅしょうりょ退官たいかん唯一ゆいいつ支配しはいしゃとしてその地位ちい確実かくじつなものにした。そのさい始皇帝しこうていというあらたな名前なまえ以前いぜんさんすめらぎみかど肩書かたがきをくわえた[18][note 7]あらたに名乗なのった皇帝こうていは、はた所有しょゆうでない武器ぶきすべ没収ぼっしゅうかすようめいじた。あつめられた金属きんぞくは、はたしん首都しゅと咸陽観賞かんしょうよう彫像ちょうぞう12たい建造けんぞうするのに十分じゅうぶんりょうであった[19]

南方なんぽうへの拡大かくだい

編集へんしゅう
 
埋葬まいそうちかくの始皇帝しこうてい大理石だいりせき彫像ちょうぞう

紀元前きげんぜん214ねん始皇帝しこうてい大軍たいぐん一部いちぶ(10まんにん)とともきた国境こっきょうせんかため、みなみ部族ぶぞく領域りょういき征服せいふくするために南方なんぽうぐん大半たいはん(50まんにん)をおくった。中国ちゅうごくたいするはた支配しはい優先ゆうせんする事象じしょう先立さきだち、南西なんせい四川しせんおおくを獲得かくとくしていた。はたはジャングルでのたたかいにれておらず、南方みなかた部族ぶぞくゲリラせんで10まんにんえる損失そんしつして敗北はいぼくした。しかしこの敗北はいぼくはた南方なんぽうへの運河うんが建設けんせつ成功せいこうし、南方なんぽうへのだい攻撃こうげきぐんおく補強ほきょうするのにおおいにもちいられた。こうしたものの建造けんぞうはた広州こうしゅう[note 8] 周辺しゅうへん運河うんが地帯ちたい征服せいふくし、ふくしゅうかつらりんという地域ちいき獲得かくとくした。ハノイいた南方なんぽうまで攻撃こうげきした。南方なんぽうでのこの勝利しょうりのち始皇帝しこうていは10まんえる捕虜ほりょ移動いどうさせ、あらたに征服せいふくした地域ちいき植民しょくみんのために移住いじゅうさせた。帝国ていこく境界きょうかいせん拡張かくちょう期間きかん始皇帝しこうてい南方なんぽう非常ひじょう成功せいこうした[19]

匈奴きょうどたいする軍事ぐんじ行動こうどう

編集へんしゅう

しかしこの時期じき帝国ていこく北方ほっぽう拡大かくだいする一方いっぽうはた長期間ちょうきかんその土地とちまれたことは滅多めったになかった。はたまとめてえびすんだこの地域ちいき部族ぶぞくは、はた大半たいはん時代じだい中国ちゅうごく支配しはいけなかった[20]はた農民のうみんとの取引とりひき禁止きんしされ、中国ちゅうごく東北とうほく地方ちほうオルドス地方ちほう匈奴きょうどは、はた報復ほうふくするよううながしながらわりに侵攻しんこうすることがめずらしくなかった。こうむ恬将ぐんひきいる軍事ぐんじ作戦さくせん英語えいごばん、この地域ちいき紀元前きげんぜん215ねん征服せいふくされ、農業のうぎょうはじめられたが、農民のうみん不満ふまんいだき、のち暴動ぼうどうこした。つぎかんは、ひとあふれたことでオルドス地方ちほう拡大かくだいもしたが、その過程かてい資源しげん激減げきげんさせた。オーウェン・ラティモアふたつの王朝おうちょうがオルドス地方ちほう征服せいふくしようとしたことについて「征服せいふく拡大かくだいは、実体じったいのないものであった。いかなるかたちであれはんおうこる成功せいこうはなかった。」とべた[21]たしかにこのことは多角たかくてき王朝おうちょう国境こっきょうについては事実じじつであり、現代げんだい新疆しんきょうウイグル自治じち・チベット・満州まんしゅう内モンゴル自治うちもんごるじち南東なんとう地域ちいきは、はたにとっては外国がいこくであり、軍事ぐんじてき支配しはいした地域ちいきでさえ文化ぶんかてきには別個べっこのものであった[22]

失権しっけん

編集へんしゅう
 
だい2だい皇帝こうていどうせい布告ふこく

始皇帝しこうていたいする暗殺あんさつが3こころみられ[23]始皇帝しこうていはその結果けっか偏執狂へんしゅうきょうてきになり不死ふしかれた。始皇帝しこうてい秘薬ひやくうみ怪物かいぶつ案内あんないされたしまのこされていると主張しゅちょうする道士どうしから不死ふし秘薬ひやく英語えいごばん入手にゅうしゅする意図いとって帝国ていこくひがしはしたびした紀元前きげんぜん210ねん死去しきょした。首席しゅせき宦官かんがんちょうだか首相しゅしょうは、だい2だい皇帝こうていになるんだ皇帝こうていもっと従順じゅうじゅん息子むすこえびす王位おういゆず意思いし翻意ほんいできるまで帰還きかんちゅうらせをかくした[24]自分じぶんたち目的もくてきわせてえびす操作そうさできるとかんがえ、したがって事実じじつ上帝じょうていこく支配しはいできるとかんがえた。たしかにえびす不器用ぶきよう従順じゅうじゅんであった。おおくの大臣だいじん王子おうじ処刑しょけいし、だい規模きぼ建造けんぞう事業じぎょうつづけ(もっと浪費ろうひした事業じぎょうひとつは城壁じょうへきうるしったことである)、軍備ぐんび増強ぞうきょうし、増税ぞうぜいし、わるらせをもたらしたもの逮捕たいほした。その結果けっか中国ちゅうごく全土ぜんど暴動ぼうどうき、官吏かんり襲撃しゅうげきし、群衆ぐんしゅう決起けっきさせ、掌握しょうあくされた地域ちいきおう自称じしょうするものあらわれた[25]

このあいだ斯とちょうだかは、失脚しっきゃくし、斯は処刑しょけいされた。ちょうだかえびす無能むのう理由りゆうえびす自殺じさつさせることにした。このことにたいしては、帝位ていいき、ただちにちょうだか処刑しょけいした[25]増大ぞうだいする騒乱そうらん人民じんみんあいだ拡大かくだいおおくの地方ちほう官吏かんりみずかおう名乗なのるのをながら嬰は[note 9]おうおなおう一人ひとりみずか表明ひょうめいすることで帝位ていいにしがみつこうとした[14]。しかし自分じぶんおろかな行為こういきずつき、大衆たいしゅう反乱はんらんが、紀元前きげんぜん209ねん発生はっせいした。劉邦りゅうほう副官ふっかんしたすわえらんきると、そのような混乱こんらん状態じょうたい長続ながつづきしなかった。嬰は紀元前きげんぜん207ねん渭水近郊きんこうやぶれ、まもなく降伏ごうぶくし、すわえ指導しどうしゃ項羽こうう処刑しょけいされた。はた首都しゅとは、翌年よくねん破壊はかいされ、このことははた帝国ていこく終焉しゅうえんであると歴史れきし同様どうようダーク・ボッド英語えいごばんから看做みなされている[26][note 10]。そのさい劉邦りゅうほう項羽こうう裏切うらぎやぶり、紀元前きげんぜん202ねん2がつ28にちみずかかん高祖こうそ[note 11]名乗なのった[27]はたちょうは、みじか期間きかんにもかかわらず後世こうせい王朝おうちょう構造こうぞうに、非常ひじょうおおきな影響えいきょうあたえた。

文化ぶんか社会しゃかい

編集へんしゅう

国内こくない生活せいかつ

編集へんしゅう

はた貴族きぞくは、文化ぶんか日々ひび生活せいかつにおいて非常ひじょう似通にかよっていた。文化ぶんか地域ちいきは、下層かそう階級かいきゅう象徴しょうちょう看做みなされた。このような地域ちいき政府せいふ達成たっせいしようと躍起やっきになる統一とういつとは相容あいいれないとられたために、このことはしゅうからはじまり、はたによりきゅう関心かんしんたれた[28]

人口じんこうの90%をえていた[29] 平民へいみん田舎いなか村民そんみんは、まれたむら農場のうじょうることは非常ひじょうまれであった。農場のうじょうほとんちがいはなかったが、通常つうじょう雇用こよう形態けいたいは、地域ちいきによりちがった。職業しょくぎょう世襲せしゅうで、父親ちちおや仕事しごとは、死後しご長男ちょうなんがれた[30]りょ春秋しゅんじゅう[note 12]つかえさせる」しゃ理想りそうぞうかかわりなく平民へいみん物質ぶっしつてきとみにいつどのようにかれても「もの提供ていきょうを」減少げんしょうするれいしめした[31]

農民のうみんはたちょうやその王朝おうちょう文学ぶんがくげられるのはまれであり、学者がくしゃやエリートは、都市とし興奮こうふん政治せいじ魅惑みわくほうこのんだ。有名ゆうめい例外れいがいは、家族かぞく自分じぶん食料しょくりょうそだてるべきだとおしえるかみみのり所謂いわゆるかみちち)であった。「わか時期じきたがやさなければ、世界せかいひとは、えてそだつであろう。わか時期じきものをしなければ、世界せかいひとこごえるであろう」はたはこれを促進そくしんし、農業のうぎょうにおける政治せいじてき関心かんしん活動かつどう模倣もほうつく特別とくべつ農場のうじょう交代こうたい耕作こうさくおこな特別とくべつ官吏かんりから構成こうせいされる儀式ぎしきは、すうねん一度いちどおこなわれた[30]

建築けんちく

編集へんしゅう

戦国せんごく時代じだい建築けんちくにはすうてん確実かくじつめんがあった。防御ぼうぎょ使つか城壁じょうへきは、ながく、それどころかすうてんだい2城壁じょうへきは、ときことなる区域くいきけるために建設けんせつされもした。権威けんい絶対ぜったい権力けんりょく意識いしき連合れんごう構造こうぞう機能きのうせい強調きょうちょうされた。たかとうもん、テラス、たか建物たてもののような建築けんちく要素ようそは、十分じゅうぶんここにつたわった[32]

哲学てつがく文学ぶんがく

編集へんしゅう

はた言葉ことばは、しゅう言葉ことばのようにひょう文字もじであった[33]人生じんせいもっと影響えいきょうあたえた達成たっせいぶつひとつとして全国ぜんこく統一とういつされたおおきさと形状けいじょうとなる筆記ひっき様式ようしき標準ひょうじゅんした。このことはせん年間ねんかん中国ちゅうごく文化ぶんかにおける統一とういつ効果こうかとなることになる。書道しょどう小篆しょうてん創設そうせつすることでものこし、現代げんだい中国ちゅうごくにとって基礎きそをなし、依然いぜんとして葉書はがきやポスター、広告こうこくもちいられている[34]

戦国せんごく時代じだい諸子しょしひゃくいえ中国ちゅうごく学者がくしゃにより提案ていあんされたおおくのことなる思想しそう構成こうせいした。しかし紀元前きげんぜん221ねん始皇帝しこうていすべてのくに征服せいふくし、単一たんいつ思想しそう法家ほうか統治とうちした。理由りゆうからないが、すくなくとも1つの思想しそうぼくは、根絶こんぜつされた。はた国家こっか思想しそうぼくがあるてんでは似通にかよっていたとはいえ、ぼくじゅん軍事ぐんじてき行動こうどうにより国軍こくぐんから捜索そうさくされころされたことは可能かのうせいとしてある[35]

儒教じゅきょうばれる孔子こうし思想しそうは、しゅう後半こうはん帝国ていこく時代じだいはじめのおおくをつうじてきたように戦国せんごく時代じだいにも影響えいきょうあたえた[note 13]。この思想しそう当時とうじ中国ちゅうごく文学ぶんがく形成けいせいしていた頌や文書ぶんしょ典礼てんれい音楽おんがく春秋しゅんじゅう変更へんこうの「6古典こてん」としてられる所謂いわゆる儒教じゅきょう文学ぶんがく規範きはんがあった[36]

はたちょうでは、法家ほうかぞくさない思想しそうとも儒教じゅきょう始皇帝しこうていにより抑圧よくあつされ、初期しょきかん皇帝こうていは、おなじことをした。法家ほうか封建ほうけん制度せいど非難ひなんし、とく皇帝こうてい違反いはんすると、厳罰げんばつ奨励しょうれいした。個人こじん権利けんり政府せいふ支配しはいしゃ意志いし相反あいはんすると無効むこうとされ、商人しょうにん学者がくしゃは、生産せいさんてき看做みなされ、排除はいじょ対象たいしょうとされた[37]ふる思想しそう根絶こんぜつ遂行すいこうするために採用さいようされた徹底的てっていてき手法しゅほうひとつは、悪名あくめいたか焚書坑儒ふんしょこうじゅで、後世こうせい学者がくしゃあいだはたちょう荒涼こうりょうとした評価ひょうか[19]権力けんりょく強固きょうこにする企図きとって始皇帝しこうてい法家ほうか国家こっか挑戦ちょうせんする視点してん唱道しょうどうするあらゆる書物しょもつ焼却しょうきゃくめいじた[38]。この布告ふこく紀元前きげんぜん213ねん発布はっぷされ、焼却しょうきゃくするために書物しょもつすことを拒否きょひした学者がくしゃすべにされて処刑しょけいされることになることも規定きていした[19]法家ほうかから生産せいさんてき看做みなされた唯一ゆいいつ書物しょもつは、保護ほごされ、そのほとんどは農業のうぎょうえきだん医学いがくのような実用じつようてき主題しゅだいろんじたものであった[38]

しかし「焚書坑儒ふんしょこうじゅ」にかんする議論ぎろんのこっている。今日きょうおおくの中国ちゅうごく学者がくしゃは、「だい歴史れきし」に記録きろくされたような「あな儒」はこの用語ようごたんおそらく「死罪しざい」を意味いみしたものとして額面がくめんどおりにはれないと議論ぎろんしている[39]

政府せいふ軍事ぐんじ

編集へんしゅう
 
はたちょう弓矢ゆみやうえ)といしゆみゆみした
謝辞しゃじりょうたかしあきら音訳おんやく

はた政府せいふは、高度こうど官僚かんりょう主義しゅぎてきで、全員ぜんいん始皇帝しこうていつかえる官僚かんりょう機構きこうにより統治とうちされた。はた最近さいきん占領せんりょうされた国々くにぐになどの領域りょういきすべてを支配しはいすることを始皇帝しこうていみとめながらかんおしえの実践じっせんおこなった。生活せいかつのあらゆるめん馬車ばしゃ車軸しゃじくながさのようなながさや言語げんごから実用じつようてき詳細しょうさいまで標準ひょうじゅんされた[18]始皇帝しこうてい助言じょげんしゃは、中央ちゅうおう集権しゅうけんした官僚かんりょう主義しゅぎてき政府せいふえる中国ちゅうごく封建ほうけん主義しゅぎわらせる法律ほうりつ習慣しゅうかん導入どうにゅうした。この制度せいどした有能ゆうのう個人こじん転換てんかんした社会しゃかい容易よういをあげることができたのでぐん政府せいふ双方そうほう成功せいこうした。後世こうせい中国ちゅうごく王朝おうちょうは、儒教じゅきょうにより非難ひなんされたとはいえ、その効率こうりつのためにはたちょう手本てほんにした[18][40]。しかしこのような制度せいどは、権力けんりょくえた個人こじん操作そうさされ、このような事件じけんいちれいは、「官吏かんり記録きろく」にしるされた。えびすという司令しれいかんは、自分じぶんころした数多すうたの「盗賊とうぞく」をやす目的もくてき農民のうみん攻撃こうげきするように部下ぶかめいじ、同様どうよう自分じぶん記録きろくやしそうな上司じょうしが、このことをゆるした[41]

すで大改革だいかいかく遂行すいこうしている事実じじつがあるとはいえ、始皇帝しこうてい軍備ぐんびでも改革かいかくおこなった[42]ぐん当時とうじとしては最高さいこう武器ぶき使用しようしていた。戦国せんごく時代じだいけん発明はつめいは、おおきな進歩しんぽであった。はじめはしゅとして青銅せいどうせいもちいられたが、紀元前きげんぜん3世紀せいきまでにはたさらつよ鉄製てつせいけんもちいていた。この金属きんぞくたいする需要じゅようは、ゆみ英語えいごばん改良かいりょうへとつながった。クロスボウ紀元前きげんぜん4世紀せいき導入どうにゅうされていて、かつ使つかわれたふくあいゆみより強力きょうりょく的確てきかくであった。2つのピンを除去じょきょすることで効果こうかをなくすことも可能かのうで、てきがクロスボウを獲得かくとくすることができなくなった[10]

 
兵馬へいば

はた輸送ゆそう兵站へいたん手法しゅほう改良かいりょうした。ちょう紀元前きげんぜん307ねんはじめて騎兵きへいとともにチャリオットえたが、騎兵きへい中国ちゅうごく地形ちけいたいしておおいに機動きどうせいがあったので、この変更へんこう急速きゅうそくくにれられた[43]

始皇帝しこうてい遊牧ゆうぼく生活せいかつおくるモンゴルぞくたいして防御ぼうぎょするためにきた国境こっきょう要塞ようさいする計画けいかく発展はってんさせた。その結果けっかのち万里ばんり長城ちょうじょうとなるものの初期しょき建設けんせつであり、封建ほうけん領主りょうしゅによりつくられたかべ結合けつごう補強ほきょうにより建造けんぞうされ、後世こうせい王朝おうちょうにより度々どど拡張かくちょうされ再建さいけんされることになり、きたからの脅威きょうい対応たいおうもした。始皇帝しこうてい統治とうち時代じだいつくられたもうひとつの事業じぎょうは、死後しご皇帝こうていまもることを目的もくてきにした兵馬へいばであった。兵馬へいば俑は地下ちかにあるために目立めだたず、1974ねんまで発見はっけんされなかった[44]

宗教しゅうきょう

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あらゆる方向ほうこうたかかびながら、
音楽おんがく玄関げんかん宮廷きゅうていたしている。
芳香ほうこう羽毛うもうもりであり、
くもり薄暮はくぼである。
金属きんぞく上品じょうひんほこり、
はた川蝉かわせみ横断幕おうだんまくあるじ
ななつの起源きげん」と「開花かいかはじまり」の音楽おんがく
調和ちょうわのとれたおととして詠唱えいしょうされる。
したがってひとほとんくことができ
精霊せいれい祝宴しゅくえんとおまつさわぎにやってくる。
精霊せいれい音楽おんがく諸諸もろもろはらわれ、
人間にんげん感性かんせい浄化じょうか精製せいせいする。
突然とつぜん精霊せいれい暗闇くらやみじょうじ、
光沢こうたくのある事件じけんわる。
浄化じょうかされた思想しそうひそかに成長せいちょう静止せいしし、
世界せかい縦糸たていと横糸よこいとは、暗闇くらやみちる。
漢書かんしょ, p. 1046

はた時代じだい事実じじつ初期しょき中国ちゅうごく帝国ていこくおおくの時代じだい中国ちゅうごく優勢ゆうせい宗教しゅうきょう信仰しんこうは、かみ英語えいごばん簡単かんたんえば「精霊せいれい」)やかげ、そうしたものがむとわれる王国おうこく焦点しょうてんてていた。中国人ちゅうごくじん地球ちきゅうじょうのものと併存へいそんしているとしんじるこの別世界べっせかい接触せっしょくする企図きとって犠牲ぎせいもとめた[note 14]死者ししゃたんにある世界せかいからべつ世界せかい移動いどうするとわれた。同様どうよう儀式ぎしき死者ししゃ王国おうこくたびをしまることを確実かくじつにし精霊せいれい王国おうこくから賞賛しょうさんる2つの目的もくてきあたえるという[note 15][45][46]

宗教しゅうきょうてき実践じっせんは、通常つうじょう供物くもつだいのある地元じもと神社じんじゃ神聖しんせい区域くいきおこなわれた。犠牲ぎせいなどの儀式ぎしきでは参加さんかしゃ目撃もくげきしゃすべての感覚かんかくけむりこう音楽おんがくともやわらぎかすむことになる。中心ちゅうしんとなって犠牲ぎせいささげるひとは、さら感覚かんかくなまらせちょう自然しぜんてき現象げんしょう理解りかいする増大ぞうだいさせる犠牲ぎせいまえ断食だんじきをしたり瞑想めいそうすることになる。厳格げんかくではないが参加さんかしゃ同様どうよう準備じゅんびした。

このような感覚かんかくやわらげることは、精霊せいれい介在かいざいぶつ霊媒れいばい)の実践じっせんにおける要素ようそでもあった。芸術げいじゅつ専門せんもんは、トランス状態じょうたいおちいるかちょう自然しぜんてき状況じょうきょうあらわおどりをすることになる。この人々ひとびと芸術げいじゅつ結果けっかとして権力けんりょくにぎることもめずらしくなく、かんかた欒大英語えいごばんは、2000をえる世帯せたい支配しはい保証ほしょうされた。有名ゆうめいかん歴史れきし司馬しばは、おろかな計略けいりゃく退しりぞけながらこのような実践じっせん嘲笑ちょうしょうした[47]

未来みらい予言よげんしたり支配しはいするうらなは、いまだもうひとつの宗教しゅうきょうてき実践じっせん形態けいたいであった。はたちょう一般いっぱんてきであった古代こだい実践じっせんは、未来みらいるためにほねかめ甲羅こうらくだくことであった。自然しぜん現象げんしょうあつかうのが一般いっぱんてき手法しゅほうであったが、初期しょき中国ちゅうごく帝国ていこく突如とつじょあらわれたうらないの形態けいたいは、様々さまざまであった。彗星すいせいしょく旱魃かんばつは、こることの前兆ぜんちょう看做みなされた[48]

Chinaの語源ごげん

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はた」という名前なまえは、現代げんだいのヨーロッパしき国名こくめいChina語源ごげんかんがえられている。この言葉ことばおそらく「Cina」や「Sina」としてはじめてインドまれたもので、「Sinai」や「Thinai」としてそのさいギリシアラテン語らてんごまれた。そのさい「China」や「Chine」として英語えいごフランス語ふらんすご変換へんかんされた。この語源ごげんサンスクリットの「Sina」がはたちょうよりまえ発展はってんしたと示唆しさする一部いちぶ学者がくしゃからは嘲笑ちょうしょうされている。紀元前きげんぜん7世紀せいきしゅう支配しはいされたくにすすむは、もうひとつの可能かのうせいのある語源ごげんである[49]

はたちょう君主くんしゅ

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ちゅうあきらじょうおうすではたしゅう全滅ぜんめつさせた時点じてんで51年間ねんかんはた支配しはいしていたが、戦国せんごく時代じだいほかの6こくは、依然いぜん独立どくりつたもっていた。したがって歴史れきしによっては翌年よくねんあきらじょうおうの52ねん)を正式せいしきしゅうからの継承けいしょうとしてもちいた。

始皇帝しこうてい紀元前きげんぜん221ねん中国ちゅうごく統一とういつしてからみずから「皇帝こうてい」と名乗なのった最初さいしょ中国ちゅうごく君主くんしゅであった。したがってこのとし内戦ないせん暫時ざんじ中断ちゅうだんする紀元前きげんぜん206ねんまでの15年間ねんかんつづく「はたちょう」のはじまりと西洋せいよう歴史れきしから一般いっぱん採用さいようされている[50]

おくりな / 肩書かたが かんせい中国人ちゅうごくじんめい英語えいごばん 統治とうち期間きかん
慣例かんれい:「はた」+おくりな
あきらじょうおう 嬴稷(yíng jì)または嬴則(yíng zé) 紀元前きげんぜん306ねん紀元前きげんぜん250ねん
孝文たかふみおう 嬴柱(yíng zhù) 紀元前きげんぜん250ねん
そうじょうおう 嬴子すわえ(yíng zǐ chǔ) 紀元前きげんぜん249ねん紀元前きげんぜん247ねん
はたあさ紀元前きげんぜん221ねん紀元前きげんぜん206ねん
始皇帝しこうてい 嬴政(yíng zhèng) 紀元前きげんぜん246ねん紀元前きげんぜん210ねん
えびすせい皇帝こうてい(Èr Shì Huángdì)) 嬴胡(yíng hú hài) 紀元前きげんぜん210ねん紀元前きげんぜん207ねん
嬰は個人こじんめいはた王子おうじ嬰(qín wáng zi yīng)をもちいて参照さんしょうされることがめずらしくない。
存在そんざいせず 嬴子嬰(yíng zi yīng) 紀元前きげんぜん206ねん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ はた始皇帝しこうていは、王朝おうちょうは1まん世代せだいつづくであろうと自慢じまんしたが、15ねん程度ていどほろんだ。(Morton 1995, p. 49)
  2. ^ 後世こうせいそうおおやけ混同こんどうしないこと
  3. ^ このことは「文化ぶんか社会しゃかいふしべる(しょう鞅により実行じっこうされた)地主じぬし政策せいさく結果けっかられた広大こうだい労働ろうどうりょくによる。
  4. ^ 兵器へいきともにこのことははた軍事ぐんじ政府せいふかたふし詳述しょうじゅつしている。
  5. ^ ここは関東かんとうとしてられる長江ながえ流域りゅういき地域ちいき対照たいしょうてきせきなか中心ちゅうしんであった。せきちゅうはた戦争せんそうてきした自然しぜんは、かんの「関東かんとう大臣だいじんつく一方いっぽうかんちゅう将軍しょうぐんつくる」という金言きんげん進化しんかした。(Lewis 2007, p. 17)
  6. ^ 個人こじんめいは嬴政であった。
  7. ^ 現代げんだい中国ちゅうごく習慣しゅうかんは、せいとして王朝おうちょうめいくわえる慣習かんしゅうがあるので、この場合ばあいはた始皇帝しこうていとなる。のち中国人ちゅうごくじん名前なまえが4文字もじれいまれなので、こちらははたはじめすめらぎちぢめられた。
  8. ^ かつてはカントンとしてられていた。
  9. ^ このことは画一かくいつせいいるはた企図きとにもかかわらずのこ地域ちいき格差かくさおおいに原因げんいんがあった。
  10. ^ はた始皇帝しこうていは、王朝おうちょうは1まん世代せだいつづくと自慢じまんしたが、わずか15ねん程度ていど終演しゅうえんした。(Morton 1995, p. 49)
  11. ^ たか祖先そせん」を意味いみする
  12. ^ 名称めいしょう支援しえんしゃくに征服せいふくまえ首相しゅしょうりょ韋に由来ゆらいする。
  13. ^ 儒教じゅきょう」という用語ようごは、事実じじつ孔子こうしみち」としてられることの原則げんそく拒否きょひしたこの文脈ぶんみゃくおお自称じしょうとしての儒者じゅしゃにおいてはぎゃく明白めいはくでなく、後世こうせいそうもと儒者じゅしゃちが組織そしきされていなかった。
  14. ^ 犠牲ぎせいつね動物どうぶつであり、人間にんげん犠牲ぎせいは、古代こだい中国ちゅうごくではきんじられていた。
  15. ^ しかしさいかみろんしゃは、犠牲ぎせい不死ふしになる方法ほうほうというべつ見方みかたをした。

参照さんしょう

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参考さんこう文献ぶんけん一覧いちらんひょう

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もの

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