チンギス・カンが生 う まれたモンゴル部 ぶ は6世紀 せいき から10世紀 せいき にかけて大 だい 興 きょう 安 やす 嶺 みね 山脈 さんみゃく 付近 ふきん に存在 そんざい した室 しつ 韋 (しつい)の一部 いちぶ 族 ぞく であった。室 しつ 韋はまたの名 な を三 さん 十 じゅう 姓 せい タタルと呼 よ ばれ、多数 たすう の部族 ぶぞく で構成 こうせい されていた。9世紀 せいき にウイグル可 か 汗 あせ 国 こく が崩壊 ほうかい すると、室 しつ 韋はモンゴル高原 こうげん に広 ひろ がり、九 きゅう 姓 せい タタル国 くに [ 5] という国 くに も建 た てて繁栄 はんえい したが、契 ちぎり 丹 に 族 ぞく の遼 りょう がモンゴル高原 こうげん を支配 しはい する頃 ころ には九 きゅう 姓 せい タタルの名前 なまえ は消 き え、阻卜 (そぼく)、烏 がらす 古 いにしえ (うこ)、敵 てき 烈 れつ (てきれつ)、達 いたる 旦 だん (たつたん)といった数 すう 部族 ぶぞく に分 わ かれ遼 りょう の支配 しはい 下 か に入 はい った。その頃 ころ バイカル湖 こ の方面 ほうめん にも広 ひろ がっていたモンゴル部族 ぶぞく が南下 なんか してきてモンゴル高原 こうげん の北東 ほくとう 部 ぶ に落 お ち着 つ いた。1084年 ねん 、モンゴル部 ぶ は契 ちぎり 丹 に 帝国 ていこく に使者 ししゃ を派遣 はけん したため、『遼 りょう 史 し 』には「萌 もえ 古 いにしえ 国 こく 」という名前 なまえ で記 しる されている[ 6] 。
チンギス・カンの生涯 しょうがい を描 えが いたモンゴルの伝説 でんせつ 的 てき な歴史 れきし 書 しょ 『元朝 がんちょう 秘史 ひし 』によれば、その遠祖 えんそ は天 てん の命令 めいれい を受 う けてバイカル湖 こ のほとりに降 お り立 た ったボルテ・チノ (「蒼 あお き狼 おおかみ 」の意 い )とその妻 つま なるコアイ・マラル (「青白 あおじろ き鹿 しか 」の意 い )であるとされる。ボルテ・チノの11代 だい 後 ご の子孫 しそん のドブン・メルゲンは早 はや くに亡 な くなるが、その未亡人 みぼうじん のアラン・ゴア は天 てん から使 つか わされた神人 しんじん の光 ひかり を受 う けて、夫 おっと を持 も たないまま3人 にん の息子 むすこ を儲 もう けた。チンギス・カンの所属 しょぞく するボルジギン氏 し の祖 そ となるボドンチャルはその末子 まっし である。ボドンチャルの子孫 しそん は繁栄 はんえい し、様々 さまざま な氏族 しぞく を分立 ぶんりつ させ、ウリャンカイ 、ジャライル といった異 こと 族 ぞく を服属 ふくぞく させて大 おお きな勢力 せいりょく となった。
やがて、ボドンチャルから7代目 だいめ のカブル が初 はじ めてモンゴル諸 しょ 部族 ぶぞく を統一 とういつ して「あまねきモンゴル 」のカン (qan)の称号 しょうごう を名乗 なの った。カブル・カンの子孫 しそん はのちにキヤト氏 し と称 しょう し、モンゴル部 ぶ の有力 ゆうりょく 氏族 しぞく となる。カブル・カンが亡 な くなると2代目 だいめ カンに即位 そくい したのはカブル・カンの又従兄弟 またいとこ のアンバガイ・カン であった。彼 かれ の子孫 しそん はのちにタイチウト氏 し と称 しょう し、キヤト氏 し と並 なら んでモンゴル部族 ぶぞく の有力 ゆうりょく 氏族 しぞく となる。アンバガイ・カンが近隣 きんりん のタタル部族 ぶぞく によって連 つ れ去 さ られ、金 かね 国 こく によって処刑 しょけい されてしまうと、三 さん 代目 だいめ カンとなったキヤト氏 し のクトラ・カン はアンバガイの子 こ カダアン・タイシとともにアンバガイ・カンの仇 かたき を討 う った[ 7] [ 8] 。
チンギス・カンはイェスゲイ・バアトル の長男 ちょうなん として生 う まれ、テムジン (Temüǰin )という名 な を与 あた えられた。『元朝 がんちょう 秘史 ひし 』、『集 しゅう 史 し 』などが一致 いっち して伝 つた えていることには、チンギスが誕生 たんじょう した直前 ちょくぜん にイェスゲイはタタル部 ぶ 族 ぞく の首長 しゅちょう であるテムジン・ウゲとコリ・ブカと戦 たたか い、このテムジン・ウゲを捕縛 ほばく して連行 れんこう して来 き たため、息子 むすこ の名前 なまえ をテムジンとした。『元朝 がんちょう 秘史 ひし 』などによると、この時 とき 、コンギラト 氏 し 出身 しゅっしん でイェスゲイの妻 つま ホエルンが産気 さんけ づきオノン川 がわ のデリウン岳 だけ でイェスゲイの軍 ぐん が下馬 げば した時 とき に出産 しゅっさん したといい[ 3] 、このためイェスゲイは、その戦勝 せんしょう を祝 しゅく して出生 しゅっしょう したばかりの初 はつ の長男 ちょうなん の名 な を「テムジン」と名付 なづ けたと伝 つた えられる[ 9] 。テムジンの生年 せいねん については、当時 とうじ のモンゴルに歴史 れきし を記録 きろく する手段 しゅだん が知 し られていなかったため、同 どう 時代 じだい の歴史 れきし 書 しょ でもそれぞれ1155年 ねん ・1162年 ねん ・1167年 ねん と諸説 しょせつ が述 の べられており、はっきりとはわからない[ 2] [ 10] 。
父 ちち のイェスゲイは、カブル・カン の次男 じなん のバルタン・バアトル の三男 さんなん で、父 ちち と同 おな じバアトル (勇者 ゆうしゃ )の称号 しょうごう を持 も つ。イェスゲイは叔父 おじ のクトラ・カンの死後 しご のモンゴル部族 ぶぞく をまとめ上 あ げ、カンにつぐ地位 ちい に就 つ く(カンは空位 くうい のまま)。一方 いっぽう でモンゴル高原 こうげん 中央 ちゅうおう 部 ぶ の有力 ゆうりょく 部族 ぶぞく 連合 れんごう ケレイト 部 ぶ のカンであるトオリル (後 ご のオン・カン)とも同盟 どうめい 関係 かんけい を結 むす び、アンダ(義兄弟 ぎきょうだい )の関係 かんけい にもなった。あるとき、息子 むすこ テムジンの嫁 よめ 探 さが しのため、コンギラト部族 ぶぞく のボスクル氏 し 族長 ぞくちょう のデイ・セチェン の家 いえ へ行 い き、その娘 むすめ のボルテ と婚約 こんやく をさせる。デイ・セチェンは婚約 こんやく の条件 じょうけん としてテムジンを一定 いってい 期間 きかん デイ・セチェン一家 いっか においておくことをイェスゲイに頼 たの んだため、イェスゲイはテムジンをデイ・セチェンのもとに預 あづ けて自家 じか に戻 もど ったが、途中 とちゅう で立 た ち寄 よ ったタタル部族 ぶぞく に毒 どく を盛 も られ、程 ほど なくして死去 しきょ してしまう。それにともない、モンゴル部族 ぶぞく 内 ない ではタイチウト氏族 しぞく が主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ り、イェスゲイの勢力 せいりょく は一挙 いっきょ に瓦解 がかい してしまう[ 11] 。
テムジンは、父 ちち の死 し の知 し らせを受 う けて直 ただ ちに家族 かぞく のもとに戻 もど されたが、残 のこ されたイェスゲイ一家 いっか は同族 どうぞく のタイチウト氏 し の首長 しゅちょう であるタルグタイ・キリルトク (アンバガイ・カンの孫 まご )らによってモンゴル部族 ぶぞく を追 お い出 だ されてしまう。そんな中 なか でもイェスゲイの妻 つま のホエルン は配下 はいか の遊牧民 ゆうぼくみん がほとんど去 さ った苦 くる しい状況 じょうきょう の中 なか で子供 こども たちをよく育 そだ てた。テムジンが成長 せいちょう してくると、タルグタイ・キリルトクらがやってきて、イェスゲイの子 こ が成長 せいちょう して脅威 きょうい となることを怖 こわ れ、テムジンを捕 と らえて自分 じぶん たちの幕営 ばくえい に抑留 よくりゅう した。テムジンは敵 てき の目 め を盗 ぬす んで脱走 だっそう をはかり、運 うん よくタイチウトの隷臣として仕 つか えていたスルドス 氏 し のソルカン・シラ の助 たす けもあって家族 かぞく のもとへ戻 もど ることができた。テムジンは成人 せいじん すると、以前 いぜん 婚約 こんやく していたボスクル氏族 しぞく のボルテと結婚 けっこん したが、まもなくしてメルキト 部族 ぶぞく 連合 れんごう の部族 ぶぞく 長 ちょう トクトア・ベキ 率 ひき いる兵団 へいだん に幕営 ばくえい を襲 おそ われ、ボルテを奪 うば われてしまう。そこでテムジンはボルテを奪還 だっかん するため、亡 な き父 ちち の同盟 どうめい 者 しゃ であったケレイト部 ぶ のトオリル・カンと、テムジンの盟友 めいゆう (アンダ)であり、モンゴル部 ぶ ジャダラン 氏族 しぞく 長 ちょう であるジャムカ と同盟 どうめい し、共 とも にメルキト部 ぶ を攻 せ め、妻 つま のボルテを救出 きゅうしゅつ することに成功 せいこう する[ 12] 。
メルキトによる襲撃 しゅうげき の後 のち 、トオリル・カンやジャムカの助 たす けを得 え て勢力 せいりょく を盛 も り返 かえ したテムジンは、次第 しだい にキヤト氏族 しぞく の中 なか で一目 いちもく 置 お かれる有力 ゆうりょく 者 しゃ となっていった。テムジンは振 ふ る舞 ま いが寛大 かんだい で、遊牧民 ゆうぼくみん にとって優 すぐ れた指導 しどう 者 しゃ と目 め されるようになり、かつて父 ちち に仕 つか えていた戦士 せんし や、ジャムカやタイチウト氏 し のもとに身 み を寄 よ せていた遊牧民 ゆうぼくみん が、次々 つぎつぎ にテムジンのもとに投 とう ずるようになった。テムジンはこうした人々 ひとびと を僚友 りょうゆう や隷民に加 くわ え勢力 せいりょく を拡大 かくだい するが、それとともにジャムカとの関係 かんけい は冷 ひ え込 こ んでいった。
あるとき、ジャムカの弟 おとうと がジャライル部族 ぶぞく の領地 りょうち の馬 うま をひそかに略奪 りゃくだつ しようとして殺害 さつがい される事件 じけん が起 お こり、テムジンとジャムカは完全 かんぜん に仲違 なかたが いした。ジャムカはタイチウト氏 し と同盟 どうめい し、キヤト氏 し を糾合 きゅうごう したテムジンとダラン・バルジュトの平原 へいげん で会戦 かいせん した。十 じゅう 三 さん 翼 つばさ の戦 たたか い (1190年 ねん 頃 ころ )と呼 よ ばれるこの戦 たたか いでどちらが勝利 しょうり したかは史料 しりょう によって食 く い違 ちが うが、キヤト氏 し と同盟 どうめい してテムジンに味方 みかた した氏族 しぞく の捕虜 ほりょ が戦闘 せんとう の後 のち に釜茹 かまゆ で にされて処刑 しょけい されたとする記録 きろく は一致 いっち しており、テムジンが敗北 はいぼく したとみられる。ジャムカはこの残酷 ざんこく な処刑 しょけい によって人望 じんぼう を失 うしな い、敗 やぶ れたテムジンのもとに投 とう ずる部族 ぶぞく が増 ふ える。
流浪 るろう していたトオリル (左 ひだり )を歓待 かんたい するテムジン(右 みぎ ) (『集 あつまり 史 し 』パリ本 ほん )
さらに、この戦 たたか いと同 おな じ頃 ころ とされる1195年 ねん 、ケレイト部 ぶ で内紛 ないふん が起 お こってトオリルがカン位 い を追 お われ、わずかな供回 ともまわ りとともにウイグル や西 にし 夏 なつ 、西 にし 遼 りょう などを放浪 ほうろう したが、テムジンが強 つよ 勢 ぜい になっているとき及 きおよ びこれを頼 たよ って合流 ごうりゅう してきた。テムジンとトオリルの両者 りょうしゃ は、トオリルがテムジンの父 ちち のイェスゲイと盟友 めいゆう の関係 かんけい にあったことにちなんでここで義父 ぎふ 子 こ の関係 かんけい を結 むす んで同盟 どうめい し、テムジンの援軍 えんぐん を得 え てトオリルはケレイトのカン位 い に復 ふく した。さらに両者 りょうしゃ はこの同盟 どうめい から協力 きょうりょく して中国 ちゅうごく の金 きむ に背 そむ いた高原 こうげん 東部 とうぶ の有力 ゆうりょく 部族 ぶぞく タタルを討 う った(ウルジャ河 かわ の戦 たたか い )。この功績 こうせき によりテムジンには金 かね から「百 ひゃく 人 にん 長 ちょう 」(ジャウト・クリ Ja'ud Quri)の称号 しょうごう が与 あた えられ、はっきりとした年代 ねんだい のわかる歴史 れきし 記録 きろく に初 はじ めて登場 とうじょう するようになる。また、同時 どうじ にトオリルには「王 おう 」(オン)の称号 しょうごう が与 あた えられ、オン・カンと称 しょう するようになったが、このことから当時 とうじ のオン・カンとテムジンの間 あいだ に大 おお きな身分 みぶん の格差 かくさ があり、テムジンはオン・カンに対 たい しては従属 じゅうぞく に近 ちか い形 かたち で同盟 どうめい していたことが分 わ かる。
テムジンは、同年 どうねん ケレイトとともにキヤト氏 し 集団 しゅうだん の中 なか の有力 ゆうりょく 者 しゃ であるジュルキン氏 し を討 う ち、キヤト氏 し を武力 ぶりょく で統一 とういつ した。翌 よく 1197年 ねん には高原 こうげん 北方 ほっぽう のメルキト部 ぶ に遠征 えんせい し、1199年 ねん にはケレイト部 ぶ と共同 きょうどう で高原 こうげん 西部 せいぶ のアルタイ山脈 さんみゃく 方面 ほうめん にいたナイマン を討 う った。1200年 ねん 、今度 こんど はテムジンが東部 とうぶ にケレイトの援軍 えんぐん を呼 よ び出 だ してモンゴル部 ぶ 内 ない の宿敵 しゅくてき タイチウト氏 し とジャダラン氏 し のジャムカを破 やぶ り、続 つづ いて大 だい 興 きょう 安 やす 嶺 みね 方面 ほうめん のタタルを打 う ち破 やぶ った。
1201年 ねん 、東方 とうほう の諸 しょ 部族 ぶぞく は、反 はん ケレイト・キヤト同盟 どうめい を結 むす び、テムジンの宿敵 しゅくてき ジャムカを盟主 めいしゅ (グル・カン)に推戴 すいたい した。しかしテムジンは、同盟 どうめい に加 くわ わったコンギラト 部 ぶ に属 ぞく する妻 つま ボルテの実家 じっか から同盟 どうめい 結成 けっせい の密 みつ 報 ほう を受 う け取 と って逆 ぎゃく に攻勢 こうせい をかけ、同盟 どうめい 軍 ぐん を破 やぶ った。1202年 ねん には西方 せいほう のナイマン、北方 ほっぽう のメルキトが北西 ほくせい 方 かた のオイラト や東方 とうほう 同盟 どうめい の残党 ざんとう と結 むす んで大 だい 同盟 どうめい を結 むす びケレイトに攻 せ めかかったが、テムジンとオン・カンは苦戦 くせん の末 すえ にこれを破 やぶ り、高原 こうげん 中央 ちゅうおう 部 ぶ の覇権 はけん を確立 かくりつ した。
しかし同年 どうねん 、オン・カンの長男 ちょうなん のイルカ・セングン とテムジンが仲違 なかたが いし、翌 よく 1203年 ねん にオン・カンはセングンと亡命 ぼうめい してきたジャムカの讒言 ざんげん に乗 の って突如 とつじょ テムジンの牧 まき 地 ち を襲 おそ った。テムジンはオノン川 がわ から北 きた に逃 のが れ、バルジュナ湖 こ で体勢 たいせい を立 た て直 なお した。同年 どうねん 秋 あき 、オノン川 がわ を遡 さかのぼ って高原 こうげん に舞 ま い戻 もど ったテムジンは、兵力 へいりょく を結集 けっしゅう すると計略 けいりゃく を用 もち いてケレイトの本営 ほんえい の位置 いち を探 さぐ り、オン・カンの本隊 ほんたい を急襲 きゅうしゅう して大勝 たいしょう した。この敗戦 はいせん により高原 たかはら 最強 さいきょう のケレイト部 ぶ は壊滅 かいめつ し、高原 こうげん の中央 ちゅうおう 部 ぶ はテムジンの手 て に落 お ちた。
1206年 ねん 初春 しょしゅん 、オノン川上 かわかみ 流 りゅう での大 だい クリルタイによって、テムジン、チンギス・カン として即位 そくい する。(『集 しゅう 史 し 』パリ本 ほん )
1205年 ねん 、テムジンは高原 こうげん 内 ない に残 のこ った最後 さいご の大 だい 勢力 せいりょく である西方 せいほう のナイマンと北方 ほっぽう のメルキトを破 やぶ り、宿敵 しゅくてき ジャムカを遂 つい に捕 とら えて処刑 しょけい した。やがて南方 なんぽう のオングト もテムジンの権威 けんい を認 みと めて服属 ふくぞく し、高原 こうげん の全 ぜん 遊牧民 ゆうぼくみん はテムジン率 ひき いるモンゴル部 ぶ の支配 しはい 下 か に入 はい った。
翌 よく 1206年 ねん 2月 がつ 、テムジンはフフ・ノールに近 ちか いオノン川 がわ 上流 じょうりゅう の河 かわ 源 げん 地 ち において功臣 こうしん や諸 しょ 部族 ぶぞく の指導 しどう 者 しゃ たちを集 あつ めてクリルタイ を開 ひら き、九 きゅう 脚 きゃく の白 しろ いトゥク (ヤク やウマ の尾 お の毛 け で旗竿 はたざお の先 さき を飾 かざ った旗指物 はたさしもの 、旗 はた 鉾 ぼこ 。纛。tuq〜tuγ がんま )を打 う ち立 た て、諸 しょ 部族 ぶぞく 全体 ぜんたい の統治 とうち 者 しゃ たるチンギス・カン に即位 そくい してモンゴル帝国 ていこく を開 ひら いた。チンギス・カン という名 な はこのとき、イェスゲイ一族 いちぞく の家老 がろう のモンリク・エチゲ という人物 じんぶつ の息子 むすこ で、モンゴルに仕 つか えるココチュ・テプテングリ というシャーマン (巫 みこ 者 しゃ )がテムジンに奉 たてまつ った尊称 そんしょう である。「チンギス 」という語彙 ごい の由来 ゆらい については確実 かくじつ なことは分 わ かっていない。元々 もともと モンゴル語 ご ではなくテュルク語 ご から来 き た外来 がいらい 語 ご だったとみられ、「海 うみ 」を意味 いみ するテンギズ (tenggis / tenngiz) を語源 ごげん に比定 ひてい する説 せつ や、「烈 はげ しい」を意味 いみ したとする説 せつ 、「世界 せかい を支配 しはい する者 もの 」を意味 いみ したとするなど、さまざまに言 い われている。
チンギス・カンは、腹心 ふくしん の僚友 りょうゆう (ノコル)に征服 せいふく した遊牧民 ゆうぼくみん を領民 りょうみん として分 わ け与 あた え、これとオングトやコンギラトのようにチンギス・カンと同盟 どうめい して服属 ふくぞく した諸 しょ 部族 ぶぞく の指導 しどう 者 しゃ を加 くわ えた領主 りょうしゅ 階層 かいそう を貴族 きぞく (ノヤン)と呼 よ ばれる階層 かいそう に編成 へんせい した。最上級 さいじょうきゅう のノヤン88人 にん は千 せん 人 にん 隊長 たいちょう (千 せん 戸長 こちょう )という官職 かんしょく に任命 にんめい され、その配下 はいか の遊牧民 ゆうぼくみん は95の千 せん 人 にん 隊 たい (千 せん 戸 こ )と呼 よ ばれる集団 しゅうだん に編成 へんせい された。また、千 せん 人 にん 隊 たい の下 した には百 ひゃく 人 にん 隊 たい (百 ひゃく 戸 こ )、十 じゅう 人 にん 隊 たい (十 じゅう 戸 こ )が十進法 じっしんほう に従 したが って置 お かれ、それぞれの長 ちょう にもノヤンたちが任命 にんめい された。
テュルク・モンゴル系 けい の騎馬 きば 軍 ぐん 同士 どうし の会戦 かいせん (『集 しゅう 史 し 』)
戦時 せんじ においては、千 せん 人 にん 隊 たい は1,000人 にん 、百 ひゃく 人 にん 隊 たい は100人 にん 、十 じゅう 人 にん 隊 たい は10人 にん の兵士 へいし を動員 どういん することのできる軍事 ぐんじ 単位 たんい として扱 あつか われ、その隊長 たいちょう たちは戦時 せんじ にはモンゴル帝国 ていこく 軍 ぐん の将軍 しょうぐん となるよう定 さだ められた。各 かく 隊 たい の兵士 へいし は遠征 えんせい においても家族 かぞく と馬 うま とを伴 ともな って移動 いどう し、一人 ひとり の乗 の り手 て に対 たい して3・4頭 とう の馬 うま がいるために常 つね に消耗 しょうもう していない馬 うま を移動 いどう の手段 しゅだん として利用 りよう できる態勢 たいせい になっていた。そのため、大陸 たいりく における機動 きどう 力 りょく は当時 とうじ の世界 せかい 最大 さいだい 級 きゅう となり、爆発 ばくはつ 的 てき な行動 こうどう 力 りょく をモンゴル軍 ぐん に与 あた えていたとみられる。千 せん 人 にん 隊 たい は高原 こうげん の中央 ちゅうおう に遊牧 ゆうぼく するチンギス・カン直営 ちょくえい の領民 りょうみん 集団 しゅうだん を中央 ちゅうおう として左右 さゆう 両翼 りょうよく の大 だい 集団 しゅうだん に分 わ けられ、左翼 さよく と右翼 うよく には高原 こうげん 統一 とういつ の功臣 こうしん ムカリ とボオルチュ がそれぞれの万 まん 人 にん 隊長 たいちょう に任命 にんめい されて、統括 とうかつ の任 にん を委 ゆだ ねられた。
このような左右 さゆう 両翼 りょうよく 構造 こうぞう のさらに東西 とうざい では、東部 とうぶ の大 だい 興 きょう 安 やす 嶺 みね 方面 ほうめん にチンギス・カンの3人 にん の弟 おとうと のジョチ・カサル 、カチウン 、テムゲ・オッチギン を、西部 せいぶ のアルタイ山脈 さんみゃく 方面 ほうめん にはチンギス・カンの3人 にん の息子 むすこ のジョチ 、チャガタイ 、オゴデイ にそれぞれの遊牧 ゆうぼく 領民 りょうみん 集団 しゅうだん (ウルス )を分与 ぶんよ し、高原 こうげん の東西 とうざい に広 ひろ がる広大 こうだい な領土 りょうど を分封 ぶんぽう した。チンギス・カンのき上 ずきあ げたモンゴル帝国 ていこく の左右 さゆう 対称 たいしょう の軍政 ぐんせい 一致 いっち 構造 こうぞう は、モンゴルに恒常 こうじょう 的 てき に征服 せいふく 戦争 せんそう を続 つづ けることを可能 かのう とし、その後 ご のモンゴル帝国 ていこく の拡大 かくだい 路線 ろせん を決定 けってい 付 つ けた。
クリルタイが開 ひら かれたときには既 すで に、チンギス・カンは彼 かれ の最初 さいしょ の征服 せいふく 戦 せん である西 にし 夏 なつ との戦争 せんそう を起 お こしていた。堅固 けんご に護 まも られた西 にし 夏 なつ の都市 とし の攻略 こうりゃく に苦戦 くせん し、また1209年 ねん に西 にし 夏 なつ との講和 こうわ が成立 せいりつ したが、その時点 じてん までには既 すで に西 にし 夏 なつ の支配 しはい 力 りょく を減退 げんたい させ、西 にし 夏 なつ の皇帝 こうてい にモンゴルの宗主 そうしゅ 権 けん を認 みと めさせていた。さらに同年 どうねん には天山 あまやま ウイグル王国 おうこく を服属 ふくぞく させ、経済 けいざい 感覚 かんかく に優 すぐ れたウイグル人 じん の協力 きょうりょく を得 え ることに成功 せいこう する。
チンギス・カン在世 ざいせい 中 ちゅう の諸 しょ 遠征 えんせい とモンゴル帝国 ていこく の拡大 かくだい 。
着々 ちゃくちゃく と帝国 ていこく の建設 けんせつ を進 すす めたチンギス・カンは、中国 ちゅうごく に対 たい する遠征 えんせい の準備 じゅんび をすすめ、1211年 ねん に金 きむ と開戦 かいせん した。三軍 さんぐん に分 わ かたれたモンゴル軍 ぐん は、長城 ちょうじょう を越 こ えて長城 ちょうじょう と黄河 こうが の間 あいだ の金 かね の領土 りょうど 奥深 おくふか くへと進軍 しんぐん し、金 かね の軍隊 ぐんたい を破 やぶ って華北 かほく を荒 あ らした。
この戦 たたか いは、当初 とうしょ は西 にし 夏 なつ との戦争 せんそう の際 さい と同 おな じような展開 てんかい をたどり、モンゴル軍 ぐん は野戦 やせん では勝利 しょうり を収 おさ めたが、堅固 けんご な城壁 じょうへき に阻 はば まれ主要 しゅよう な都市 とし の攻略 こうりゃく には失敗 しっぱい した。しかし、チンギス・カンとモンゴルの指揮 しき 官 かん たちは中国人 ちゅうごくじん から攻 おさむ 城 しろ 戦 せん の方法 ほうほう を学習 がくしゅう し、徐々 じょじょ に攻 おさむ 城 じょう 戦術 せんじゅつ を身 み に付 つ けていった。この経験 けいけん により、彼 かれ らはやがて戦争 せんそう の歴史 れきし 上 じょう で最 もっと も活躍 かつやく し最 もっと も成功 せいこう した都市 とし 征服 せいふく 者 しゃ となるのである。当時 とうじ 5000万 まん 人 にん ほどいた中国 ちゅうごく の人口 じんこう が、わずか30年 ねん 後 ご に行 おこな われた調査 ちょうさ によれば約 やく 900万 まん 人 にん ほどになってしまったという。南部 なんぶ に逃 に げた人 ひと たちも大勢 おおぜい いるがその勢力 せいりょく の強 つよ さが窺 うかが える。
1214年 ねん 4月 がつ 、金 きむ 朝 ちょう 皇帝 こうてい 宣 せん 宗 むね との講和 こうわ によってチンギス・カンのもとに嫁 とつ いで来 き た岐国公主 こうしゅ (画面 がめん 左 ひだり の馬上 もうえ の人物 じんぶつ )。
1215年 ねん 、開封 かいふう への遷都 せんと を責 せ めて、モンゴル軍 ぐん 、中 ちゅう 都 と を包囲 ほうい する。(『集 あつまり 史 し 』パリ本 ほん )
こうして中国 ちゅうごく 内地 ないち での野戦 やせん での数 すう 多 おお くの勝利 しょうり と若干 じゃっかん の都市 とし 攻略 こうりゃく の成功 せいこう の結果 けっか 、チンギス・カンは1213年 ねん には万里 ばんり の長城 ちょうじょう のはるか南 みなみ まで金 かね の領土 りょうど を征服 せいふく ・併合 へいごう していた。翌 よく 1214年 ねん 、チンギス・カンは金 かね と和 わ 約 やく を結 むす んでいったん軍 ぐん を引 ひ くが、和 わ 約 やく の直後 ちょくご に金 かね がモンゴルの攻勢 こうせい を恐 おそ れて黄河 こうが の南 みなみ の開封 かいふう に首都 しゅと を移 うつ した事 こと を背信 はいしん 行為 こうい と咎 とが め(あるいは口実 こうじつ にして)、再 ふたた び金 きん を攻撃 こうげき した。1215年 ねん 、モンゴル軍 ぐん は金 かね の従来 じゅうらい の首都 しゅと の燕 つばめ 京 きょう (現在 げんざい の北京 ぺきん )を包囲 ほうい ・陥落 かんらく させた。のちに後継 こうけい 者 しゃ オゴデイの時代 じだい に中国 ちゅうごく の行政 ぎょうせい に活躍 かつやく する耶律楚 すわえ 材 ざい は、このときチンギス・カンに見出 みいだ されてその側近 そっきん となっている。燕 つばめ 京 きょう を落 お としたチンギス・カンは、将軍 しょうぐん ムカリを燕 つばめ 京 きょう に残留 ざんりゅう させてその後 ご の華北 かほく の経営 けいえい と金 かね との戦 たたか いに当 あ たらせ、自 みずか らは高原 こうげん に引 ひ き上 あ げた。
西 にし 遼 りょう ・クチュルクへの征服 せいふく 事業 じぎょう
編集 へんしゅう
このころ、かつてナイマン部族 ぶぞく 連合 れんごう の首長 しゅちょう を受 う け継 つ いだクチュルク は西 にし 走 そう して西 にし 遼 りょう に保護 ほご されていたが、クチュルクはそれにつけ込 こ んで西 にし 遼 りょう 最後 さいご の君主 くんしゅ 耶律直 ちょく 魯古 から王位 おうい を簒奪 さんだつ していた。モンゴル帝国 ていこく は西 にし 遼 りょう の混乱 こんらん をみてクチュルクを追討 ついとう しようとしたが、モンゴル軍 ぐん の主力 しゅりょく は、このときまでに西 にし 夏 なつ と金 かね に対 たい する継続 けいぞく 的 てき な遠征 えんせい の10年 ねん によって疲弊 ひへい していた[要 よう 出典 しゅってん ] 。そこで、チンギス・カンは腹心 ふくしん の将軍 しょうぐん ジェベに2万 まん の軍 ぐん を与 あた えて先鋒 せんぽう 隊 たい として送 おく り込 こ み、クチュルクに当 あ たらせた。クチュルクは仏教 ぶっきょう に改宗 かいしゅう して地元 じもと のムスリム (イスラム教徒 きょうと )を抑圧 よくあつ していたので、モンゴルの放 はな った密偵 みってい が内乱 ないらん を扇動 せんどう するとたちまちその王国 おうこく は分裂 ぶんれつ し、ジェベは敵国 てきこく を大 おお いに打 う ち破 やぶ った。クチュルクはカシュガル の西 にし で敗 やぶ れ、敗走 はいそう した彼 かれ はやがてモンゴルに捕 とら えられ処刑 しょけい されて、西 にし 遼 りょう の旧領 きゅうりょう はモンゴルに併合 へいごう された。この遠征 えんせい の成功 せいこう により、1218年 ねん までには、モンゴル国家 こっか は西 にし はバルハシ湖 こ まで拡大 かくだい して、南 みなみ にペルシア湾 わん 、西 にし にカスピ海 かすぴかい に達 たっ するイスラム王朝 おうちょう 、ホラズム・シャー朝 あさ に接 せっ することとなった。
1218年 ねん 、チンギス・カンはホラズム・シャー朝 あさ に通商 つうしょう 使節 しせつ を派遣 はけん したが、東部 とうぶ 国境 こっきょう 線 せん にあるオトラル の統治 とうち 者 しゃ イネルチュクが欲 よく に駆 か られ彼 かれ らを虐殺 ぎゃくさつ した(ただし、この使節 しせつ 自体 じたい が征服 せいふく 事業 じぎょう のための偵察 ていさつ ・挑発 ちょうはつ 部隊 ぶたい だった可能 かのう 性 せい を指摘 してき する説 せつ もある)。その報復 ほうふく としてチンギス・カンは末弟 ばってい のテムゲ・オッチギンにモンゴル本土 ほんど の留守居 るすい 役 やく を任 まか せ、自 みずか らジョチ、オゴデイ、チャガタイ、トルイら嫡子 ちゃくし たちを含 ふく む軍隊 ぐんたい を率 ひき いて中央 ちゅうおう アジア遠征 えんせい を行 おこな い、1219年 ねん にスィル川 がわ (シルダリア川 がわ )流域 りゅういき に到達 とうたつ した。モンゴル帝国 ていこく 側 がわ の主 おも な資料 しりょう にはこの時 とき のチンギス・カンの親 おや 征 せい 軍 ぐん の全体 ぜんたい の規模 きぼ について、はっきりした数字 すうじ は記録 きろく されていないようだが、20世紀 せいき を代表 だいひょう するロシアの東洋 とうよう 学者 がくしゃ ワシーリィ・バルトリド は、その規模 きぼ を15万 まん から20万 まん 人 にん と推計 すいけい している。モンゴル軍 ぐん は金 かね 遠征 えんせい と同様 どうよう に三 さん 手 て に分 わ かれて中央 ちゅうおう アジアを席捲 せっけん し、その中心 ちゅうしん 都市 とし サマルカンド 、ブハラ 、ウルゲンチ をことごとく征服 せいふく した。モンゴル軍 ぐん の侵攻 しんこう はきわめて計画 けいかく 的 てき に整然 せいぜん と進 すす められ、抵抗 ていこう した都市 とし は見 み せしめに破壊 はかい された。ホラズム・シャー朝 あさ はモンゴル軍 ぐん の前 まえ に各個 かっこ 撃破 げきは され、1220年 ねん までにほぼ崩壊 ほうかい した。
ホラズム・シャー朝 あさ の君主 くんしゅ スルターン・アラーウッディーン・ムハンマド 、カスピ海 かすぴかい 南東 なんとう 部 ぶ のアーバースクーン島 とう にて他界 たかい する。(『集 あつまり 史 し 』パリ本 ほん )
ホラズム・シャー朝 あさ の君主 くんしゅ アラーウッディーン・ムハンマド はモンゴル軍 ぐん の追撃 ついげき を逃 のが れ、はるか西方 せいほう に去 さ ったため、チンギス・カンはジェベとスベエデイ を追討 ついとう に派遣 はけん した。彼 かれ らの軍 ぐん がイラン を進 すす むうちにアラーウッディーンはカスピ海 かすぴかい 上 うえ の島 とう で窮死 きゅうし するが、ジェベとスベエデイはそのまま西進 せいしん を続 つづ け、カフカス を経 へ て南 みなみ ロシア にまで達 たっ した。彼 かれ らの軍 ぐん はキプチャク やルーシ 諸公 しょこう など途中 とちゅう の諸 しょ 勢力 せいりょく の軍 ぐん を次々 つぎつぎ に打 う ち破 やぶ り、その脅威 きょうい はヨーロッパにまで伝 つた えられた。
一方 いっぽう 、チンギス・カン率 ひき いる本隊 ほんたい は、アラーウッディーンの子 こ でアフガニスタン ・ホラーサーン で抵抗 ていこう を続 つづ けていたジャラールッディーン・メングベルディー を追 お い、南下 なんか を開始 かいし した。モンゴル軍 ぐん は各地 かくち で敵 てき 軍 ぐん を破 やぶ り、ニーシャープール 、ヘラート 、バルフ 、メルブ (その後 ご 二度 にど と復興 ふっこう しなかった百 ひゃく 万 まん 都市 とし )、バーミヤーン といった古代 こだい からの大都市 だいとし をことごとく破壊 はかい 、住民 じゅうみん を虐殺 ぎゃくさつ した。アフガニスタン、ホラーサーン方面 ほうめん での戦 たたか いはいずれも最終 さいしゅう 的 てき には勝利 しょうり したものの、苦戦 くせん を強 し いられる場合 ばあい が多 おお かった。特 とく に、ジャラールッディーンが所領 しょりょう のガズニー から反撃 はんげき に出 で た直後 ちょくご 、大 だい 断 だん 事 ごと 官 かん のシギ・クトク率 ひき いる3万 まん の軍 ぐん がジャラールッディーン軍 ぐん によって撃破 げきは されたことに始 はじ まり(パルワーンの戦 たたか い )、バーミヤーン包囲 ほうい 戦 せん では司令 しれい 官 かん だったチャガタイの嫡子 ちゃくし のモエトゥゲンが流 なが れ矢 や を受 う けて戦死 せんし し、チンギス・カン本 ほん 軍 ぐん がアフガニスタン遠征 えんせい 中 ちゅう ホラーサーンに駐留 ちゅうりゅう していたトルイの軍 ぐん では、離反 りはん した都市 とし を攻撃 こうげき 中 ちゅう に随伴 ずいはん していた妹 いもうと のトムルンの夫 おっと で母方 ははかた の従兄弟 いとこ でもあるコンギラト部族 ぶぞく のチグウ・キュレゲンが戦死 せんし するなど、要所 ようしょ で手痛 ていた い反撃 はんげき に見舞 みま われていた。
アフガニスタン・ホラーサーン方面 ほうめん では、それ以外 いがい のモンゴル帝国 ていこく の征服 せいふく 戦争 せんそう と異 こと なり、徹底 てってい した破壊 はかい と虐殺 ぎゃくさつ が行 おこ なわれたが、その理由 りゆう は、ホラズム・シャー朝 あさ が予定 よてい 外 がい に急速 きゅうそく に崩壊 ほうかい してしまったために、その追撃 ついげき 戦 せん が十分 じゅうぶん な情報 じょうほう 収集 しゅうしゅう や工作 こうさく 活動 かつどう がない無計画 むけいかく なアフガニスタン・ホラーサーン侵攻 しんこう につながり、このため戦況 せんきょう が泥沼 どろぬま 化 か したことによるのではないかとする指摘 してき も近年 きんねん 、モンゴル帝国 ていこく 史 し を専門 せんもん とする杉山 すぎやま 正明 まさあき らによって指摘 してき されている[ 13] 。
チンギス・カンはジャラールッディーンをインダス川 がわ のほとりまで追 お い詰 つ め撃破 げきは するが、ジャラールッディーンはインダス川 がわ を渡 わた ってインド に逃 に げ去 さ った。寒冷 かんれい なモンゴル高原 こうげん 出身 しゅっしん のモンゴル軍 ぐん は高温 こうおん 多湿 たしつ なインドでの作戦 さくせん 継続 けいぞく を諦 あきら め、追撃 ついげき を打 う ち切 き って帰路 きろ についた。チンギス・カンは中央 ちゅうおう アジアの北方 ほっぽう でジェベ・スベエデイの別働隊 べつどうたい と合流 ごうりゅう し、1225年 ねん になってようやく帰国 きこく した。
西 にし 征 せい から帰 かえ ったチンギス・カンは広大 こうだい になった領地 りょうち を分割 ぶんかつ し、ジョチには南西 なんせい シベリア から南 みなみ ロシアの地 ち まで将来 しょうらい 征服 せいふく しうる全 すべ ての土地 とち を、次男 じなん のチャガタイには中央 ちゅうおう アジアの西 にし 遼 りょう の故 こ 地 ち を、三男 さんなん のオゴデイには西 にし モンゴルおよびジュンガリア の支配 しはい 権 けん を与 あた えた。末子 まっし のトルイにはその時点 じてん では何 なに も与 あた えられないが、チンギス・カンの死後 しご に末子 まっし 相続 そうぞく により本拠地 ほんきょち モンゴル高原 こうげん が与 あた えられる事 こと になっていた。しかし、カン位 い の後継 こうけい 者 しゃ には温厚 おんこう な三男 さんなん のオゴデイを指名 しめい していたとされる。
これより前 まえ 、以前 いぜん に臣下 しんか となっていた西 にし 夏 なつ の皇帝 こうてい は、ホラズム遠征 えんせい に対 たい する援軍 えんぐん を拒否 きょひ していたが、その上 うえ チンギス・カンがイランにいる間 あいだ に、金 きむ との間 あいだ にモンゴルに反抗 はんこう する同盟 どうめい を結 むす んでいた。遠征 えんせい から帰 かえ ってきたチンギス・カンはこれを知 し り、ほとんど休 やす む間 あいだ もなく西 にし 夏 なつ に対 たい する懲罰 ちょうばつ 遠征 えんせい を決意 けつい した。1年 ねん の休息 きゅうそく と軍隊 ぐんたい の再 さい 編成 へんせい の後 のち 、チンギス・カンは再 ふたた び戦 たたか いにとりかかった。
1226年 ねん 初 はじ め、モンゴル軍 ぐん は西 にし 夏 なつ に侵攻 しんこう し、西 にし 夏 なつ の諸 しょ 城 しろ を次々 つぎつぎ に攻略 こうりゃく 、冬 ふゆ には凍結 とうけつ した黄河 こうが を越 こ えて首都 しゅと の興 きょう 慶 けい (現在 げんざい の銀川 ぎんかわ )より南 みなみ の都市 とし の霊 れい 州 しゅう までも包囲 ほうい した。西 にし 夏 なつ は霊 れい 州 しゅう 救援 きゅうえん のため軍 ぐん を送 おく り、黄河 こうが の岸辺 きしべ でモンゴル軍 ぐん を迎 むか え撃 う ったが、西 にし 夏 なつ 軍 ぐん は30万 まん 以上 いじょう を擁 よう していたにもかかわらず敗 やぶ れ、ここに西 にし 夏 なつ は事実 じじつ 上 じょう 壊滅 かいめつ した。
1227年 ねん 、チンギス・カンは興 きょう 慶 けい 攻略 こうりゃく に全 ぜん 軍 ぐん の一部 いちぶ を残 のこ し、オゴデイを東 ひがし に黄河 こうが を渡 わた らせて陝西 せんせい ・河南 かなん の金 かね 領 りょう を侵 おか させた。自 みずか らは残 のこ る部隊 ぶたい とともに諸 しょ 都市 とし を攻略 こうりゃく した後 のち 、興 きょう 慶 けい を離 はな れて南東 なんとう の方向 ほうこう に進 すす んだ。『集 あつまり 史 し 』によれば、南 みなみ 宋 そう との国境 こっきょう 、すなわち四川 しせん 方面 ほうめん に向 む かったという。同年 どうねん 夏 なつ 、チンギス・カンは夏期 かき の避暑 ひしょ のため六 ろく 盤 ばん 山 やま に本営 ほんえい を留 と め、ここで彼 かれ は西 にし 夏 なつ の降伏 ごうぶく を受 う け入 い れたが、金 かね から申 もう し込 こ まれた和平 わへい は拒否 きょひ した。
ところがこのとき、チンギス・カンは陣中 じんちゅう で危篤 きとく に陥 おちい った。このためモンゴル軍 ぐん の本隊 ほんたい はモンゴルへの帰途 きと に就 つ いたが、西暦 せいれき 1227年 ねん 8月 がつ 18日 にち 、チンギス・カンは陣中 じんちゅう で崩御 ほうぎょ した[ 4] 。『元 もと 史 し 』などによると、モンゴル高原 こうげん の起 おこり 輦谷 へ葬 ほうむ られた[ 14] 。これ以後 いご 大元 おおもと ウルス末期 まっき まで歴代 れきだい のモンゴル皇帝 こうてい はこの起 おこり 輦谷へ葬 ほうむ られた。
彼 かれ は死 し の床 ゆか で西 にし 夏 なつ 皇帝 こうてい を捕 と らえて殺 ころ すよう命 めい じ、また末子 まっし のトルイに金 かね を完全 かんぜん に滅 ほろ ぼす計画 けいかく をい残 いのこ したという。チンギス・カンは一代 いちだい で膨張 ぼうちょう を続 つづ ける広大 こうだい な帝国 ていこく を作 つく り、その崩御 ほうぎょ 後 ご には世界 せかい 最大 さいだい の領土 りょうど を持 も つ帝国 ていこく に成長 せいちょう する基礎 きそ が残 のこ された。
チンギス・カンの崩御 ほうぎょ 後 ご 、その遺骸 いがい はモンゴル高原 こうげん の故郷 こきょう へと帰 かえ った。『元 もと 史 し 』などの記述 きじゅつ から、チンギスと歴代 れきだい のハーンたちの埋葬 まいそう 地 ち はある地域 ちいき にまとまって営 いとな まれたと見 み られているが、その位置 いち は重要 じゅうよう 機密 きみつ とされ、『東方 とうほう 見聞 けんぶん 録 ろく 』によればチンギスの遺体 いたい を運 はこ ぶ隊列 たいれつ を見 み たものは秘密 ひみつ 保持 ほじ のために人 ひと のみならず動物 どうぶつ までも全 すべ て殺 ころ されたという。また、埋葬 まいそう された後 のち はその痕跡 こんせき を消 け すために一 いち 千 せん 頭 とう の馬 うま を走 はし らせ、一帯 いったい の地面 じめん を完全 かんぜん に踏 ふ み固 かた めさせたとされる。チンギスは崩御 ほうぎょ の間際 まぎわ 、自分 じぶん の死 し が世間 せけん に知 し られれば直 ただ ちに敵国 てきこく が攻 せ めてくる恐 おそ れがあると考 かんが え、自分 じぶん の死 し を決 けっ して公表 こうひょう しないよう家臣 かしん 達 たち に遺言 ゆいごん したと言 い われている。
チンギス・カンの祭祀 さいし は、埋葬 まいそう 地 ち ではなく、生前 せいぜん のチンギスの宮廷 きゅうてい だった四大 しだい オルド でそのまま行 おこな われた。四大 しだい オルドの霊廟 れいびょう は陵墓 りょうぼ からほど遠 とお くない場所 ばしょ に帳 とばり 幕 まく (ゲル )としてしつらえられ、チンギス生前 せいぜん の四 よん 大 だい オルドの領民 りょうみん がそのまま霊廟 れいびょう に奉仕 ほうし する領民 りょうみん となった。元 もと から北元 きたもと の時代 じだい には晋 すすむ 王 おう の称号 しょうごう を持 も つ王族 おうぞく が四 よん 大 だい オルドの管理 かんり 権 けん を持 も ち、祭祀 さいし を主催 しゅさい した。15世紀 せいき のモンゴルの騒乱 そうらん で晋 すすむ 王 おう は南方 なんぽう に逃 のが れ、四 よん 大 だい オルドも黄河 こうが の屈曲 くっきょく 部 ぶ に移 うつ された。こうして南 みなみ に移 うつ った四 よん 大 だい オルドの民 みん はオルドス部 ぶ 部族 ぶぞく と呼 よ ばれるようになり、現在 げんざい はこの地方 ちほう もオルドス地方 ちほう と呼 よ ばれる。オルドスの人々 ひとびと によって保 たも たれたチンギス・カン廟 びょう はいつしか8帳 ちょう のゲルからなるようになり、八白 はっぱく 室 しつ (ナイマン・チャガン・ゲル)と呼 よ ばれた。
一方 いっぽう 、チンギス・カンの遺骸 いがい が埋葬 まいそう された本来 ほんらい の陵墓 りょうぼ は八白 はっぱく 室 しつ の南 みなみ 遷とともに完全 かんぜん に忘 わす れ去 さ られてしまい、その位置 いち は長 なが らく世界 せかい 史上 しじょう の謎 なぞ とされてきた。現在 げんざい 中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の内モンゴル自治 うちもんごるじち 区 く に全国 ぜんこく 重点 じゅうてん 文物 ぶんぶつ 保護 ほご 単位 たんい であるオルドス市 し の成吉 せいきち 思 おもえ 汗 あせ 陵 りょう (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) とウランホト市 し の成吉 せいきち 思 おもえ 汗 あせ 廟 びょう (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) があるが、前者 ぜんしゃ は1950年代 ねんだい に移動 いどう を重 かさ ねていた八白 はっぱく 室 しつ を内 うち モンゴルに戻 もど して固定 こてい 施設 しせつ に変更 へんこう して中国 ちゅうごく 政府 せいふ が建設 けんせつ したもので、後者 こうしゃ は1940年代 ねんだい に当時 とうじ の満州 まんしゅう 国 こく に建 た てられたものであり、この場所 ばしょ やその近辺 きんぺん にチンギスが葬 ほうむ られているわけではない。
冷戦 れいせん が終結 しゅうけつ してモンゴルへの行 い き来 き が容易 ようい になった1990年代 ねんだい 以降 いこう 、各国 かっこく の調査 ちょうさ 隊 たい はチンギス・カンの墓 はか 探 さが しを行 おこな い、様々 さまざま な比定 ひてい 地 ち を提示 ていじ してきた。しかしモンゴルでは土 ど を掘 ほ ることを嫌 きら う風習 ふうしゅう と民族 みんぞく の英雄 えいゆう であるチンギス・カンの神聖 しんせい 視 し される墓 はか が外国 がいこく 人 じん に発掘 はっくつ されることからこれに不満 ふまん を持 も つ人 ひと が多 おお いという。
2004年 ねん 、日本 にっぽん の調査 ちょうさ 隊 たい は、モンゴルの首都 しゅと であるウランバートル から東 ひがし へ250キロのヘルレン川 かわ (ケルレン川 がわ )沿 ぞ いの草原 そうげん 地帯 ちたい にあるチンギス・カンのオルド跡 あと とみられるアウラガ遺跡 いせき の調査 ちょうさ を行 おこな い、この地 ち が13世紀 せいき にチンギス・カンの霊廟 れいびょう として用 もち いられていたことを明 あき らかにした。調査 ちょうさ 隊 たい はチンギス・カンの墳墓 ふんぼ もこの近 ちか くにある可能 かのう 性 せい が高 たか いと報告 ほうこく したが、モンゴル人 じん の感情 かんじょう に配慮 はいりょ し、墓 はか の捜索 そうさく や発掘 はっくつ は行 おこな うつもりはないという。
シカゴ大学 だいがく のジョン・ウッズ (英語 えいご 版 ばん ) 教授 きょうじゅ も2001年 ねん にヘンティー山脈 さんみゃく の丘陵 きゅうりょう 地 ち において、高 たか さ約 やく 2.7~3.6メートルの石積 いしつ みの壁 かべ が断続 だんぞく 的 てき に約 やく 3.2キロ続 つづ く遺構 いこう を確認 かくにん 、『元朝 がんちょう 秘史 ひし 』にある「古 こ 連 れん 勒古(クレルグ)」に比定 ひてい し、チンギス・カンはじめモンゴル王族 おうぞく (元朝 がんちょう 皇帝 こうてい )の陵墓 りょうぼ である可能 かのう 性 せい が高 たか いと示唆 しさ するが、発掘 はっくつ 調査 ちょうさ には至 いた っていない。
また2009年 ねん 、中国 ちゅうごく 大連 たいれん 在住 ざいじゅう のチンギス・カンの末裔 まつえい とされる80歳 さい の女性 じょせい が「チンギス・カン陵墓 りょうぼ が現在 げんざい の四川 しせん 省 しょう カンゼ・チベット族 ぞく 自治 じち 州 しゅう にあることは、末裔 まつえい 一族 いちぞく に伝 つた わる秘密 ひみつ であった」と発表 はっぴょう し、現地 げんち 調査 ちょうさ でも証言 しょうげん と一致 いっち する洞窟 どうくつ が確認 かくにん されたため、中国 ちゅうごく 政府 せいふ も調査 ちょうさ を開始 かいし した[ 15] 。
2015年 ねん 、チンギス・カンの墳墓 ふんぼ が周辺 しゅうへん にあるとされるブルカン・カルドゥン が世界 せかい 遺産 いさん となった。
モンゴル帝国 ていこく
モンゴル帝国 ていこく のもとではチンギス・カンとその弟 おとうと たちの子孫 しそん は、「黄金 おうごん の氏族 しぞく (アルタン・ウルク)」と呼 よ ばれ、ノヤンと呼 よ ばれる一般 いっぱん の貴族 きぞく たちよりも一 いち 層 そう 上 じょう に君主 くんしゅ として君臨 くんりん する社会 しゃかい 集団 しゅうだん になった。またモンゴル帝国 ていこく のもとでは遊牧民 ゆうぼくみん に固有 こゆう の男系 だんけい 血統 けっとう 原理 げんり が貫 つらぬ かれ、チンギス・カンの男系 だんけい 子孫 しそん しかカンやカアン(モンゴル皇帝 こうてい )に即位 そくい することができないとする原則 げんそく (チンギス統 すべ 原理 げんり )が広 ひろ く受 う け入 い れられるようになった。
13世紀 せいき の後半 こうはん に、モンゴル帝国 ていこく の西 にし 半 はん でジョチ、チャガタイ、トルイの子孫 しそん たちはジョチ・ウルス 、チャガタイ・ハン国 こく 、イルハン朝 あさ などの政権 せいけん を形成 けいせい していくが、これらの王朝 おうちょう でもチンギス統 すべ 原理 げんり は根付 ねつ き、チンギスの後裔 こうえい が尊 たっと ばれた。
チンギス統 すべ 原理 げんり はその後 ご も中央 ちゅうおう ユーラシアの各地 かくち に長 なが く残 のこ り、18世紀 せいき 頃 ころ まで非 ひ チンギス裔でありながら代々 だいだい ハーンを名乗 なの った王朝 おうちょう はわずかな例外 れいがい しか現 あらわ れなかった。外 そと モンゴルと内 うち モンゴルやカザフ では、20世紀 せいき の初頭 しょとう まで貴族 きぞく 階層 かいそう のほとんどがチンギス・カンの男系 だんけい 子孫 しそん によって占 し められていたほどであり、現在 げんざい もチンギス裔として記憶 きおく されている家系 かけい は非常 ひじょう に多 おお い。
こうしたチンギス裔の尊崇 そんすう に加 くわ え、非 ひ チンギス裔の貴族 きぞく たちも代々 だいだい チンギス・カン家 か の娘 むすめ と通 つう 婚 こん したので、チンギス裔ではなくとも多 おお くの遊牧民 ゆうぼくみん は女系 じょけい を通 つう じてチンギス・カンの血 ち を引 ひ いていた。また、チンギスの女系 じょけい 子孫 しそん はジョチ・ウルスの貴族 きぞく 層 そう とロシア貴族 きぞく の通 つう 婚 こん 、ロシア貴族 きぞく とヨーロッパ貴族 きぞく の通 つう 婚 こん を通 つう じてヨーロッパに及 およ んでいるという。
オクスフォード大学 だいがく のY染色 せんしょく 体 たい 調査 ちょうさ 研究 けんきゅう
編集 へんしゅう
2004年 ねん にオクスフォード大学 だいがく の遺伝 いでん 学 がく 研究 けんきゅう チームは、DNA 解析 かいせき の結果 けっか 、チンギス・カンが世界中 せかいじゅう でもっとも子孫 しそん を多 おお く残 のこ した人物 じんぶつ であるという結論 けつろん を発表 はっぴょう した。ウランバートル生 せい 化 か 研究所 けんきゅうじょ との協力 きょうりょく によるサンプル採取 さいしゅ と解析 かいせき の結果 けっか 、彼 かれ らによれば、モンゴルから北 きた 中国 ちゅうごく にかけての地域 ちいき で男性 だんせい の8%、およそ1300万 まん 人 にん に共通 きょうつう するY染色 せんしょく 体 たい ハプロタイプが検知 けんち 出来 でき たという。この特徴 とくちょう を有 ゆう する地域 ちいき は中東 ちゅうとう から中央 ちゅうおう アジアまで広 ひろ く分布 ぶんぷ し、現在 げんざい までにそのY染色 せんしょく 体 たい を引 ひ き継 つ いでいる人物 じんぶつ 、すなわち男系 だんけい の子孫 しそん は1600万 まん 人 にん にのぼるとされる。研究 けんきゅう チームはこの特有 とくゆう のY染色 せんしょく 体 たい の拡散 かくさん の原因 げんいん を作 つく った人物 じんぶつ は、モンゴル帝国 ていこく の創始 そうし 者 しゃ チンギス・カンであると推測 すいそく しており、この解析 かいせき でマーカーとされた遺伝子 いでんし は、突然変異 とつぜんへんい 頻度 ひんど に基 もと づく分子 ぶんし 時計 とけい の推計 すいけい 計算 けいさん により、チンギス・カンの数 すう 世代 せだい 前 まえ 以内 いない に突然変異 とつぜんへんい によって生 しょう じた遺伝子 いでんし である可能 かのう 性 せい が高 たか いという仮説 かせつ を発表 はっぴょう した([1] 、[2] )[ 16] 。
この研究 けんきゅう を主導 しゅどう したひとりクリス・テイラー=スミス Chris Tyler-Smith は、チンギス・カンのものと断定 だんてい する根拠 こんきょ として、このY染色 せんしょく 体 たい は調査 ちょうさ を行 おこな った地域 ちいき のひとつ、ハザーラ人 じん やパキスタン北部 ほくぶ のフンザ の例 れい をあげている。フンザ ではチンギス・カンを自 みずか らの先祖 せんぞ とする伝説 でんせつ があり、この地域 ちいき はY染色 せんしょく 体 たい の検出 けんしゅつ が特 とく に多 おお かったという。さらに、彼 かれ は東洋 とうよう で比較的 ひかくてき 短期間 たんきかん に特定 とくてい のY染色 せんしょく 体 たい を持 も つ人々 ひとびと が広 ひろ がった根拠 こんきょ として、これらの地域 ちいき の貴族 きぞく 階級 かいきゅう では一夫多妻 いっぷたさい 制 せい が一般 いっぱん 的 てき であり、この婚姻 こんいん 習慣 しゅうかん はある意味 いみ で、生殖 せいしょく 戦略 せんりゃく として優 すぐ れていたためではないか、と述 の べている。
しかしながら、この論説 ろんせつ に対 たい しては批判 ひはん もあり、特 とく に集団 しゅうだん 遺伝 いでん 学 がく 者 もの でスタンフォード大学 だいがく のルイジ・ルーカ・カヴァッリ=スフォルツァ は、Y染色 せんしょく 体 たい の広範 こうはん な分布 ぶんぷ について、共通 きょうつう の先祖 せんぞ を想定 そうてい することには同意 どうい 出来 でき るものの、これを歴史 れきし 上 じょう のある特定 とくてい の人物 じんぶつ の子孫 しそん であると特定 とくてい するには正確 せいかく さを欠 か いている、として異議 いぎ を唱 とな えている。さらに、分布 ぶんぷ の状況 じょうきょう と一夫多妻 いっぷたさい 制 せい が原因 げんいん しているとするテイラー=スミスの見方 みかた に対 たい しても、「あまりに短絡 たんらく 的 てき かつ扇情 せんじょう 的 てき 」であるとして非難 ひなん している[ 17] 。(同 どう 研究 けんきゅう グループは同様 どうよう の別 べつ の研究 けんきゅう で、東 ひがし アジアの男性 だんせい 約 やく 1000人 にん のうち3.3%に現 あらわ れた特定 とくてい のY染色 せんしょく 体 たい について、その共通 きょうつう 祖先 そせん は清朝 せいちょう 初代 しょだい 皇帝 こうてい ヌルハチ の祖父 そふ ギオチャンガ に比定 ひてい しているが、カヴァッリ=スフォルツァはこの断定 だんてい にも同様 どうよう に根拠 こんきょ が薄弱 はくじゃく であるという理由 りゆう で異議 いぎ を唱 とな えている)
オックスフォード・アンセスターズの遺伝 いでん 学者 がくしゃ ブライアン・サイクス も研究 けんきゅう が発表 はっぴょう された2003年 ねん に出版 しゅっぱん した著書 ちょしょ 『アダムの呪 のろ い』で上記 じょうき の研究 けんきゅう を紹介 しょうかい しているが、「状況 じょうきょう 証拠 しょうこ は有力 ゆうりょく だが、残念 ざんねん ながら証明 しょうめい はできない」としながらも、検出 けんしゅつ されたY染色 せんしょく 体 たい についてチンギス・カンのものであるとほぼ断定 だんてい している。同氏 どうし は人類 じんるい の繁殖 はんしょく と拡大 かくだい にはY染色 せんしょく 体 たい による男性 だんせい の暴力 ぼうりょく 的 てき な性格 せいかく や支配 しはい 欲 よく が密接 みっせつ に関係 かんけい しているとする見解 けんかい に立 た っており、チンギス・カンに対 たい する人物 じんぶつ 評 ひょう についても「チンギスハーン本人 ほんにん が、みずからのY染色 せんしょく 体 たい の野心 やしん によって突 つ き動 うご かされ、戦 せん でも寝床 ねどこ でも、勝利 しょうり することになった」という見方 みかた をしている[ 18] 。だが同氏 どうし の見解 けんかい のとおりだと、英国 えいこく にも一定 いってい 頻度 ひんど で同様 どうよう のY染色 せんしょく 体 たい キャリアがいることについて説明 せつめい が出来 でき ない、との反論 はんろん がある[ 19] 。
ケンブリッジ サンガー研究所 けんきゅうじょ のアジア人 じん 起源 きげん 研究 けんきゅう
編集 へんしゅう
大手 おおて 遺伝子 いでんし 研究所 けんきゅうじょ であるケンブリッジ サンガー研究所 けんきゅうじょ のカーシム・アユブ博士 はかせ (Qasim Ayub , PhD Sanger Institute ,CAMBRIDGE)
らはアジア人 じん の起源 きげん について研究 けんきゅう していた。
アジア全域 ぜんいき から集 あつ められた2000人 にん 以上 いじょう の男性 だんせい の血液 けつえき サンプルを採取 さいしゅ しDNAを抽出 ちゅうしゅつ 。
分析 ぶんせき の結果 けっか 、対象 たいしょう サンプルの多 おお くがある同一 どういつ の家系 かけい に属 ぞく していることが判明 はんめい した。
対象 たいしょう の8%にほぼ同一 どういつ のマイクロサテライト (DNAの短 みじか い配列 はいれつ の繰 く り返 かえ し)が見 み られた。
考 かんが えられるのは彼 かれ らには同 おな じDNAを持 も つ共通 きょうつう の祖先 そせん がいるということ。
その祖先 そせん がどの時代 じだい の人物 じんぶつ かを割 わ り出 だ すと、およそ1000年 ねん 前 まえ で、さらにその遺伝子 いでんし の発祥 はっしょう 地 ち はモンゴルであることも判明 はんめい した。
モンゴルで同一 どういつ の遺伝子 いでんし 集団 しゅうだん が多 おお く見 み られたこと、また時代 じだい を考慮 こうりょ すると、その祖先 そせん とはチンギス・カンである可能 かのう 性 せい が高 たか いという。世界 せかい の3200万 まん 人 にん がその遺伝子 いでんし を引 ひ き継 つ いでいると結論 けつろん づけた。
『集 しゅう 史 し 』チンギス・ハン紀 き によると、大 だい ハトゥンと呼 よ ばれる最 さい 上位 じょうい の妃 ひ が5人 にん いたことが述 の べられ、『元 もと 史 し 』では大 だい オルドを監督 かんとく する4人 にん の皇后 こうごう の元 もと に30人 にん の妃 ひ たちが置 お かれていたこと述 の べる。イルハン朝 あさ 、ティムール朝 あさ 時代 じだい の資料 しりょう に準拠 じゅんきょ 。漢字 かんじ 表記 ひょうき は『元 もと 史 し 』「后妃 こうひ 表 ひょう 」による。
父 ちち イェスゲイ
母 はは ホエルン
次 じ 弟 おとうと ジョチ・カサル
三 さん 弟 おとうと カチウン
四 よん 弟 おとうと テムゲ・オッチギン
異母弟 いぼてい ベルグテイ・ノヤン
『元朝 がんちょう 秘史 ひし 』ではジョチ・カサルの下 した にもう一人 ひとり ベグテル という、ベルグテイの同母 どうぼ 兄 けい と思 おぼ しき弟 おとうと がいたが、イェスゲイ没 ぼつ 後 ご の貧窮 ひんきゅう 時 じ に諍 いさか いを起 お こし、このベグテルをテムジンはジョチ・カサルと謀 はか って射殺 しゃさつ したため、これを知 し った母 はは ホエルンはテムジンとジョチ・カサルを憤怒 ふんぬ して叱責 しっせき したという。この逸話 いつわ は『元朝 がんちょう 秘史 ひし 』とその系統 けいとう の資料 しりょう にのみ現 あらわ れ、『集 あつまり 史 し 』『元 もと 史 し 』『聖 ひじり 武 たけし 親 しん 征 せい 録 ろく 』など他 た の資料 しりょう には載 の っていないため、ベグテルの存在 そんざい そのものは疑 うたが わしいと考 かんが えられている。
妹 いもうと テムルン - コンギラト部族 ぶぞく の一派 いっぱ イキレス 氏族 しぞく の首長 しゅちょう ブトゥ・キュレゲン に嫁 とつ ぐ
チンギスの皇后 こうごう のうち、大 だい ハトゥンは5人 にん いたとし、ボルテ を第 だい 1位 い 、クラン を第 だい 2位 い 、イェスゲンを第 だい 3位 い 、公主 こうしゅ ハトゥン (كونجو خاتون Kūnjū Khātūn) こと岐国公主 こうしゅ を第 だい 4位 い 、イェスルン(イェスイ)を第 だい 5位 い とする。一方 いっぽう 、『元 もと 史 し 』「后妃 こうひ 表 ひょう 」によると、ボルテ、クラン、イェスイ(イェスルン)、イェスゲンはそれぞれ大 だい オルド、第 だい 二 に オルド、第 だい 三 さん オルド、第 だい 四 よん オルドを管轄 かんかつ していたという。
ボルテ・ウジン (孛児台 だい 旭 あさひ 真 しん 太 ふとし 皇后 こうごう ) コンギラト 部族 ぶぞく デイ・セチェンの娘 むすめ (正 せい 宮 みや 孛剌合 あい 真 ま 皇后 こうごう )
忽 ゆるがせ 魯渾皇后 こうごう
闊里桀皇后 こうごう
脱 だつ 忽 ゆるがせ 思 おもえ 皇后 こうごう
帖 じょう 木 き 倫 りん 皇后 こうごう
亦 また 憐真八 はち 剌皇后 こうごう
クラン (忽 ゆるがせ 蘭 らん 皇后 こうごう ) ウハズ・メルキト 部族 ぶぞく 長 ちょう ダイル・ウスンの娘 むすめ
哈児八 はち 真 ま 皇后 こうごう
亦 また 乞剌真 ま 皇后 こうごう
脱 だつ 忽 ゆるがせ 茶 ちゃ 児 じ 皇后 こうごう
也真妃 ひ 子 こ
也里忽 ゆるがせ 禿 かぶろ 妃 ひ 子 こ
察真妃 ひ 子 こ
哈剌真 しん 妃 ひ 子 こ
イェスルン(イェスイ 也速皇后 こうごう ) トトクリウト・タタル 部族 ぶぞく 出身 しゅっしん 。イェスゲンの姉 あね 。
忽 ゆるがせ 魯哈剌皇后 こうごう
阿 おもね 失 しつ 倫 りん 皇后 こうごう
禿 かぶろ 児 じ 哈剌皇后 こうごう
察児皇后 こうごう
阿 おもね 昔 むかし 迷失皇后 こうごう
完 かん 者 しゃ 忽 ゆるがせ 都 と 皇后 こうごう
渾魯忽 ゆるがせ 歹妃子 こ
忽 ゆるがせ 魯灰妃 ひ 子 こ
剌伯妃 ひ 子 こ
岐国公主 こうしゅ 金 かね 朝 あさ 皇帝 こうてい ・衛 まもる 紹王 の娘 むすめ
イェスゲン(也速干 ひ 皇后 こうごう ) トトクリウト・タタル部族 ぶぞく 出身 しゅっしん 。イェスルンの妹 いもうと 。
忽 ゆるがせ 答 こたえ 罕皇后 こうごう
哈答皇后 こうごう
斡者忽 ゆるがせ 思 おもえ 皇后 こうごう
燕 つばめ 里 さと 皇后 こうごう
禿 かぶろ 干 ひ 妃 ひ 子 こ
完 かん 者 しゃ 妃 ひ 子 こ
金 きむ 蓮 れん 妃 ひ 子 こ
完 かん 者 しゃ 台 だい 妃 ひ 子 こ
奴 やつ 倫 りん 妃 ひ 子 こ
卯 う 真 しん 妃 ひ 子 こ
鎖 くさり 郎 ろう 哈妃子 こ
八 はち 不 ふ 別 べつ 及妃子 こ
『集 あつまり 史 し 』チンギス・ハン紀 き 后妃 こうひ 表 ひょう には5人 にん の大 だい ハトゥン以外 いがい の主 おも な后妃 こうひ や側室 そくしつ (クマ Quma)について記録 きろく されている。
ベクトゥトミシュ・フジン ケレイト のジャガ・ガンボの娘 むすめ でトルイ の妃 ひ ソルコクタニ・ベキ らの姉妹 しまい 。
グルベス・ハトゥン ナイマン 部族 ぶぞく 連合 れんごう の首長 しゅちょう タヤン・カン の第 だい 一 いち ハトゥンだった人物 じんぶつ 。
チャク・ハトゥン 西 にし 夏 なつ 皇帝 こうてい の娘 むすめ 。
氏名 しめい 不明 ふめい ナイマン出身 しゅっしん 。ジョルチダイの母 はは
『集 しゅう 史 し 』ではボルテとの間 あいだ に儲 もう けた四 よん 男 なん 五 ご 女 じょ の他 ほか に男女 だんじょ 数 すう 人 にん を記録 きろく するが、『元 もと 史 し 』では「六 ろく 子 し 」とする。これらの多 おお くの男子 だんし のうち、 クビライ の時代 じだい 以降 いこう も存続 そんぞく したことが確認 かくにん できるのは、ジョチ家 か 、チャガタイ家 か 、オゴデイ家 か 、トルイ家 か 、コルゲン家 か の5系統 けいとう のみである(『集 あつまり 史 し 』チンギス・ハン紀 き 、『元 もと 史 し 』宗室 そうしつ 世 よ 系 けい 表 ひょう ほか、『五 ご 族 ぞく 譜 ふ 』や『高貴 こうき 系譜 けいふ 』、『南村 なんそん 輟耕録 ろく 』などのモンゴル時代 じだい 以降 いこう の系譜 けいふ 資料 しりょう に基 もと づく)。
ジョチ 母 はは ボルテ
チャガタイ 母 はは ボルテ
オゴデイ 母 はは ボルテ
トルイ 母 はは ボルテ
コルゲン (次 つぎ 六 ろく 闊列堅 けん 太子 たいし ) 母 はは クラン
チャウル 母 はは イェスゲン
ジョルチダイ
ウルジュカン(次 つぎ 五 ご 兀魯赤 あか 、無 む 嗣)
氏名 しめい 不明 ふめい 母 はは タタル部族 ぶぞく 出身 しゅっしん の側室 そくしつ
「チンギス・カン」とはテムジンが即位 そくい の際 さい にコンゴタン氏 し 族 ぞく 出身 しゅっしん のテブ・テングリ (ココチュ)というシャーマン から与 あた えられた称号 しょうごう であるが、その意味 いみ については諸説 しょせつ ある。
『集 しゅう 史 し 』部族 ぶぞく 篇 へん オロナウト族 ぞく の項 こう には、
「チンク čīnk」は「
強固 きょうこ な」という
意味 いみ であり、「チンギス čīnkkīz」はその
複数 ふくすう 形 がた である。この
称号 しょうごう を
採 と った
理由 りゆう は
以下 いか のとおりである。
当時 とうじ カラ・キタイ Qarā Ḫitāyの
大 だい 帝王 ていおう の
称号 しょうごう は「グル・カン kūr ḫān」であり、グル kūrの
意味 いみ も
同 おな じく「
強固 きょうこ な」であり、
王 おう が
非常 ひじょう に
強大 きょうだい でない
限 かぎ り、グル・カン kūr ḫānと
呼 よ ばれなかった。モンゴル
語 ご で「チンギス čīnkkīz」は「グル kūr」と
同 おな じ
意味 いみ を
持 も つが、より
大 おお げさで、
複数 ふくすう 形 がた でもあるため、この
語 かたり をつけることは、
例 たと えばペルシア
語 ご でシャハンシャー šahanšāh(
王 おう の
中 なか の
王 おう )というのと
同 おな じであった。
— 『集 しゅう 史 し 』部族 ぶぞく 篇 へん オロナウト族 ぞく の項 こう [ 37]
とあり、『蒙 こうむ 古 こ 源流 げんりゅう 』には
五色 ごしき の瑞 みず 鳥 とり が毎朝 まいあさ テムジンの天幕 てんまく の前 まえ の石 いし の上 うえ に留 とど まって、「チンギス、チンギス」と鳴 な いたことから名付 なづ けた — 『蒙 こうむ 古 こ 源流 げんりゅう 』
とあり、ブリヤト・モンゴル人 じん の学者 がくしゃ ドルジ・バンザロフは「これはシャーマンの間 あいだ で唱 とな えられている光 ひかり の精霊 せいれい の名 な のHaǰir Činggis Tenggeriという言葉 ことば から出 で たに相違 そうい ない」とし、ポール・ペリオ はテュルク語 ご のdenggiz(海 うみ 、湖 みずうみ )という語 かたり に比定 ひてい し、「海 うみ の精霊 せいれい 」を指 さ したものであろうとした。[ 38]
チンギス・カンの呼称 こしょう は、歴史 れきし 的 てき に見 み て「チンギス・カン 」系 けい と「チンギス・カアン 」系 けい の2種類 しゅるい に大別 たいべつ 出来 でき る。
本来 ほんらい 、13 - 14世紀 せいき 当時 とうじ の中期 ちゅうき モンゴル語 ご では「チンギス・カン 」 (Činggis Qan) と称 しょう していたことが同 どう 時代 じだい 資料 しりょう の調査 ちょうさ から分 わ かっている。
これは、当時 とうじ のウイグル文字 もじ モンゴル語 ご ではイェスンゲ紀 きの 功 いさお 碑 ひ などでも CYNKKYZ Q'N (Činggis Qan) と書 か かれ、第 だい 5代 だい モンゴル皇帝 こうてい クビライ の大 だい 元 もと ウルスで開発 かいはつ されたパスパ文字 もじ によるモンゴル語 ご 皇帝 こうてい 聖旨 せいし 碑文 ひぶん でも ǰiṅ-gis qa-nu とある[ 39] 。
また13世紀 せいき のアラビア語 ご ・ペルシア語 ご 年代 ねんだい 記 き では、イブン・アル=アスィールの『完 かん 史 し (al-Kāmil fī al-Ta'rīkh) 』(1231年 ねん 成立 せいりつ )やシハーブッディーン・ムハンマド・ナサウィーの『ジャラールッディーン 伝 つて (Sīrat al-Sulṭān Jalāl al-Dīn Mankubirtī) 』(1240年代 ねんだい 初頭 しょとう 成立 せいりつ )、ジューズジャーニーの『ナースィル史話 しわ (Tabaqāt-i Nāṣirī) 』(1260年 ねん 成立 せいりつ )といったモンゴル帝国 ていこく 外 がい で成立 せいりつ した資料 しりょう では جنكيز خان Jinkīz Khān (ペルシア語 ご 資料 しりょう の刊本 かんぽん では現在 げんざい のペルシア文字 もじ の چ č/ch や گ g が補 おぎな われて چنگيز خان Chingīz Khān )などと表記 ひょうき されており、モンゴル帝国 ていこく 側 がわ の資料 しりょう と言 い えるジュヴァイニー の『世界 せかい 征服 せいふく 者 しゃ の歴史 れきし 』(1260年 ねん 成立 せいりつ )でもやはり چنگيز خان Chingīz Khān などとなっている。ラシードゥッディーン の『集 しゅう 史 し 』(1314年 ねん 成立 せいりつ )では編者 へんしゃ のラシード在世 ざいせい 中 ちゅう に書写 しょしゃ された紀年 きねん (1317年 ねん 書写 しょしゃ )を持 も つ現存 げんそん 最古 さいこ の写本 しゃほん 、いわゆる「イスタンブール本 ほん 」(Revân köşkü No. 1518)では、(ウイグル文字 もじ での綴 つづ りを反映 はんえい していると思 おも われるが) چينككيز خان Chīnkkīz Khān とあって同書 どうしょ では「チンギス・カン」は一貫 いっかん してこの綴 つづ りを用 もち いている。このように13 - 14世紀 せいき のモンゴル帝国 ていこく 内外 ないがい のアラビア語 ご ・ペルシア語 ご 文献 ぶんけん ではチンギス・カンの「カン」 (Qan) の部分 ぶぶん は、従来 じゅうらい からあったテュルク語 ご の χ かい an (ハン)のアラビア文字 もじ 転写 てんしゃ である خان khān を用 もち いた。
一方 いっぽう で、後代 こうだい のモンゴル語 ご 文献 ぶんけん では「チンギス・カアン 」 (Činggis Qa'an/Činggis Qaγ がんま an) というい方 いかた もされている。
17世紀 せいき 初頭 しょとう に成立 せいりつ した『アルタン・ハーン伝 つたえ 』などでは、「チンギス・カアン 」 (CYNKKYZ Q'Q'N /Činggis Qaγ がんま an) の綴 つづ りで表記 ひょうき され、サガン・セチェン 『蒙 こうむ 古 こ 源流 げんりゅう 』や『アルタン・トプチ 』などの代表 だいひょう 的 てき な近代 きんだい 以降 いこう のモンゴル語 ご 年代 ねんだい 記 き でも同様 どうよう に表記 ひょうき されている。現存 げんそん 最古 さいこ のモンゴル語 ご による歴史 れきし 書 しょ 文献 ぶんけん で明代 あきよ に入 はい って最終 さいしゅう 的 てき な編纂 へんさん をみる洪 ひろし 武 たけ 刊 かん 十 じゅう 二 に 巻 かん 本 ほん 『元朝 がんちょう 秘史 ひし 』でも「成吉 せいきち 思 おもえ 可 か 罕」 (Činggis Qahan) となっており、現存 げんそん の『元朝 がんちょう 秘史 ひし 』は明代 あきよ のものだが、14世紀 せいき 末 まつ の「チンギス・カアン」系 けい の資料 しりょう である。
「チンギス・カン」と「チンギス・カアン」の対立 たいりつ
編集 へんしゅう
「カン」と「カアン」の違 ちが いについてだが、ハーン の項目 こうもく でも述 の べられているように、「カアン」 (Qa'an/Qaγ がんま an) は、一般 いっぱん 的 てき な「王 おう 」や「君主 くんしゅ 」を意味 いみ する「カン」 (Qan) をしのぐ「皇帝 こうてい 」の意味 いみ として、第 だい 2代 だい 皇帝 こうてい オゴデイによって古代 こだい の「カガン」 (Qaγ がんま an) の称号 しょうごう を復活 ふっかつ させて用 もち いられたと考 かんが えられており、第 だい 4代 だい モンケ、第 だい 5代 だい クビライによってモンゴル皇帝 こうてい の称号 しょうごう として定着 ていちゃく した。
13 - 14世紀 せいき にモンゴル帝国 ていこく 側 がわ の資料 しりょう で「チンギス・カアン 」 (Činggis Qa'an/Činggis Qaγ がんま an) と呼 よ ぶ例 れい は、皆無 かいむ ではないが筆記 ひっき 者 しゃ による書 が き間違 まちが いなどの可能 かのう 性 せい もあるレベルで、一般 いっぱん 的 てき ではなかったようである。
例 たと えば、大元 おおもと ウルスでの場合 ばあい 、少林寺 しょうりんじ 蒙 こうむ 漢 かん 合 あい 璧聖旨 むね 碑 ひ の例 れい を挙 あ げると、タツ年 ねん (至 いたり 元 もと 5年 ねん 戊 つちのえ 辰 たつ 、1268年 ねん )正月 しょうがつ 25日 にち の紀年 きねん を持 も つウイグル文字 もじ モンゴル語 ご によるクビライの聖旨 せいし 碑文 ひぶん には、チンギスは CYNKKYZ X'N/Činggis Qan と書 か かれ、オゴデイは単 たん に X'X'N/Qaγ がんま an〜Qa'an と書 か かれている。およそ半 はん 世紀 せいき のちのネズミ年 ねん (皇 すめらぎ 慶 けい 元年 がんねん 壬 みずのえ 子 こ 、1318年 ねん )3月 がつ 13日 にち の紀年 きねん のある同 おな じ碑石 ひせき に刻 こく された仁 ひとし 宗 むね アユルバルワダ による聖旨 せいし 碑 ひ でも、チンギスは「チンギス・カンの」 ǰiṅ -gis qa-nu/ǰiṅgis qa-nu 、オゴデイは「オゴデイ・カアンの」 "ö-kˋö-däḙ q·a-nu/Öködeï Qa'an-u 、クビライは尊号 そんごう である「セチェン・カアンの」 sä-čän q·a-nu/Sečen Qa'an-u で呼 よ ばれており、続 つづ く成 なり 宗 むね テムル も同 おな じく尊号 そんごう の「オルジェイトゥ・カアンの」 "öˆl-ǰäḙ-tˋu q·a-nu/Öˆlǰeïtü Qa'an-u、武 たけ 宗 はじめ カイシャン も尊号 そんごう の「クルグ・カアンの」kˋü-lug q·a-nu/Qa'an-u とあって、チンギスのみ「カン」 (Qan) の称号 しょうごう のまま使 つか われており、オゴデイ以下 いか 他 た と区別 くべつ がされている[ 39] 。
グユクのインノケンティウス4世 せい 宛 あて 国書 こくしょ 。15行 ぎょう 目 め に「チンギス・カンと(オゴデイ・)カアン ( جنكيز خان و قاان Jinkīz Khān wa Qā'ān) 」と書 か かれている。(日本語 にほんご 訳 やく [ 40] )(ペルシア語 ご 、バチカン図書館 としょかん 蔵 くら )
イルハン朝 あさ でも上述 じょうじゅつ の通 とお り、チンギスは『世界 せかい 征服 せいふく 者 しゃ の歴史 れきし 』などの جنكيز خان Jinkīz Khān (または چنگيز خان Chigīz Khān)あるいは『集 あつまり 史 し 』のような چينككيز خان Chīnkkīz Khān と書 か かれている。オゴデイは「オゴデイ・カアン」 اوكتاى قاآن Ūktāī Qā'ān、クビライは「クビライ・カアン」 قوبيلاى قاآن Qūbīlāī Qā'ān となっている。しかしながら例 たと えばチンギス・カアン جنكيز قاآن Jinkīz Qā'ān のような表記 ひょうき をされた資料 しりょう はイルハン朝 あさ 以降 いこう も見 み られない。このような جنكيز خان Jinkīz Khān と(オゴデイ・)カアン قاان Qā'ān のような表記 ひょうき の書 が き分 わ けは、第 だい 3代 だい 皇帝 こうてい グユク がローマ教皇 きょうこう インノケンティウス4世 せい に宛 あ てた国書 こくしょ にもはっきり確認 かくにん される。13 - 14世紀 せいき のモンゴル帝国 ていこく ではアラビア文字 もじ 表記 ひょうき でも「カン」と「カアン」は厳然 げんぜん と区別 くべつ されていたと見 み られるのである。総 そう じてこの جنكيز خان Jinkīz Khān という表記 ひょうき はティムール朝 あさ 時代 じだい 以降 いこう も一般 いっぱん 的 てき に使 つか われている。
イルハン朝 あさ 周辺 しゅうへん でもウイグル文字 もじ モンゴル語 ご で書 か かれた資料 しりょう がいくつか残 のこ されており、例 たと えば『集 あつまり 史 し 』編纂 へんさん 後 ご 程 ほど なく成立 せいりつ したと見 み られる系図 けいず 資料 しりょう 『五 ご 族 ぞく 譜 ふ 』 (Shu`ab-i Panjgāna) は各々 おのおの 主要 しゅよう なモンゴル君主 くんしゅ の部分 ぶぶん には人物 じんぶつ 名 めい のアラビア文字 もじ 表記 ひょうき とウイグル文字 もじ 表記 ひょうき とを併記 へいき しているのが特徴 とくちょう となっている。そこではチンギスの場合 ばあい 、アラビア文字 もじ で جينككيز خان Jīnkkīz Khān と表記 ひょうき され、ウイグル文字 もじ では cynγ がんま kyz q'n/čiŋγ がんま is qan と表記 ひょうき されている。クビライの場合 ばあい はアラビア文字 もじ で قُوبِيلَاي قآن Qūbīlāī Qa'ān と表記 ひょうき され、ウイグル文字 もじ では qwbyl'y q'q'n/qubilai qa'an と表記 ひょうき されている(アラビア文字 もじ 表記 ひょうき は『集 あつまり 史 し 』イスタンブール本 ほん とほぼ同一 どういつ となっている。「カアン」のアラビア文字 もじ 表記 ひょうき について『世界 せかい 征服 せいふく 者 しゃ の歴史 れきし 』やグユクのインノケンティウス4世 せい 宛 あて 国書 こくしょ では قاان Qā'ān もしくは قاآن Qā'ān と4文字 もじ で表記 ひょうき されるが、『集 あつまり 史 し 』イスタンブール本 ほん や『五 ご 族 ぞく 譜 ふ 』では قآن Qa'ān と3文字 もじ で表記 ひょうき されており、2番目 ばんめ の文字 もじ にアリフの長 ちょう 母音 ぼいん 記号 きごう であるマッダ記号 きごう が附 ふ されているのが特徴 とくちょう 的 てき である)。
漢語 かんご 文献 ぶんけん での「チンギス・カン」の呼称 こしょう
編集 へんしゅう
後裔 こうえい である元朝 がんちょう によってつけられた中国 ちゅうごく 風 ふう の廟 びょう 号 ごう は太 ふとし 祖 そ 、諡 おくりな は法 ほう 天啓 てんけい 運 うん 聖 ひじり 武 たけし 皇帝 こうてい といい、元 もと の初代 しょだい 皇帝 こうてい として扱 あつか われる。
漢語 かんご 文献 ぶんけん では、チンギス在世 ざいせい 中 ちゅう の記録 きろく として、ムカリ 国王 こくおう の宮廷 きゅうてい を訪 おとず れた南 みなみ 宋 そう の使者 ししゃ 孟 はじめ 珙撰 せん (王国 おうこく 維 の研究 けんきゅう により著者 ちょしゃ は趙 ちょう 珙 と校正 こうせい された)の報告 ほうこく 書 しょ 『蒙 こうむ 韃備録 ろく 』(1221年 ねん 頃 ころ 成立 せいりつ )やサマルカンド 駐留 ちゅうりゅう 中 ちゅう のチンギス・カンに謁見 えっけん した長春 ちょうしゅん 真人 まさと ・丘 おか 処 しょ 機 き の旅行 りょこう 記 き 『長春 ちょうしゅん 真人 しんじん 西遊 せいゆう 記 き 』(1228年 ねん 頃 ころ 成立 せいりつ )が知 し られているが、いずれも「成吉 せいきち 思 おもえ 皇帝 こうてい 」と書 か かれている。南 みなみ 宋 そう 側 がわ の記録 きろく である『蒙 こうむ 韃備録 ろく 』や『黒 くろ 韃事略 りゃく 』(1237年 ねん 成立 せいりつ )でもチンギスは「成吉 せいきち 思 おもえ 皇帝 こうてい 」や「韃主」と呼 よ ばれているが、「チンギス」という音 おと 写 うつし に基 もと づく呼称 こしょう は一貫 いっかん して「成吉 せいきち 思 おもえ 」や「成吉 せいきち 思 おもえ 皇帝 こうてい 」であり、ウイグル文字 もじ 、パスパ文字 もじ 、アラビア文字 もじ などのような「カン」と「カアン」の書 が き分 わ けは生 しょう じていない。『元朝 がんちょう 秘史 ひし 』のような「成吉 せいきち 思 おもえ 可 か 罕」という表記 ひょうき は漢語 かんご 文献 ぶんけん では稀 まれ であり、ほとんど確認 かくにん されない(ちなみに、1346年 ねん に成立 せいりつ したチベット語 ご 文献 ぶんけん の『フゥラン・テプテル 』でも「太 ふとし 祖 そ チンギス帝 みかど 」 (Thaḥi dsuṅ Jiṅ gi rgyal po ) とあって「カン」や「カアン」の部分 ぶぶん は音 おと 写 うつ されていない)。
1266年 ねん にクビライによってチンギス・カン以来 いらい のモンゴル皇帝 こうてい や皇后 こうごう 、イェスゲイ・バアトル やトルイ などの主要 しゅよう モンゴル王族 おうぞく の廟 びょう 号 ごう と諡号 しごう が設 もう けられ、チンギスには廟 びょう 号 ごう を太 たい 祖 そ 、諡号 しごう を聖 ひじり 武 たけし 皇帝 こうてい と贈 おく られた。また、1309年 ねん 12月3日 にち に武 たけ 宗 はじめ カイシャンによってさらに法 ほう 天啓 てんけい 運 うん 聖 ひじり 武 たけし 皇帝 こうてい と追 つい 諡 おくりな された[ 41] 。これらを受 う けて大元 おおもと ウルスの末期 まっき に編纂 へんさん された随筆 ずいひつ 『南村 なんそん 輟耕録 ろく 』の歴代 れきだい モンゴル皇帝 こうてい を列記 れっき した巻 まき 第 だい 1 列聖 れっせい 授受 じゅじゅ 正統 せいとう には「太 ふとし 祖 そ 應 おう 天啓 てんけい 運 うん 聖 ひじり 武 たけし 皇帝 こうてい 諱 いみな 鐵 てつ 木 き 眞 ま 國語 こくご 曰成吉 きち 思 おもえ 。」と記 しる されている。
中期 ちゅうき モンゴル語 ご と近 きん 現代 げんだい モンゴル語 ご の音韻 おんいん
編集 へんしゅう
以上 いじょう のように、西方 せいほう のアラビア文字 もじ 圏 けん ではイルハン朝 あさ 以降 いこう もほぼ一貫 いっかん して「チンギス・カン」系 けい の表記 ひょうき のままであったのに対 たい して、モンゴル高原 こうげん では「チンギス・カアン 」系 けい に呼称 こしょう が遷移 せんい した。近代 きんだい モンゴル語 ご Чингис Хаан[ʧiŋgɪs χ かい aːŋ] ⓘ の音韻 おんいん に近 ちか い「チンギス・ハーン」という表記 ひょうき が、近年 きんねん 一般 いっぱん に流布 るふ して用 もち いられたが、これは表記 ひょうき 上 じょう の問題 もんだい 以外 いがい に音韻 おんいん 上 じょう の変化 へんか についても問題 もんだい となる。パスパ文字 もじ モンゴル語 ご やアラビア文字 もじ 表記 ひょうき から、ウイグル文字 もじ などに見 み られる Qaγ がんま an は第 だい 2音節 おんせつ の -aγ がんま a- は -a'a- と軟音化 か して「カア ン」と発音 はつおん されていたことが確実 かくじつ で、これが近 きん 現代 げんだい 音 おん ではさらに χ かい aːŋ のようにほぼ長 ちょう 母音 ぼいん 化 か してしまっている。中期 ちゅうき モンゴル語 ご の q 音 おと もパスパ文字 もじ モンゴル語 ご 表記 ひょうき やアラビア文字 もじ 転写 てんしゃ によって、「カ」に近 ちか い音 おと であったが、現在 げんざい では χ かい 音 おと に移行 いこう している。χ かい 音 おと は日本語 にほんご の仮名 かめい 転写 てんしゃ では「ハ」行 ぎょう が用 もち いられるため、中期 ちゅうき モンゴル語 ご としては「チンギス・カアン」と呼 よ ぶべきものが「チンギス・ハーン」に変化 へんか しているのである。また、近 きん 現代 げんだい モンゴル語 ご でも「カン(ハン)」と「カアン(ハーン)」の区別 くべつ は存在 そんざい するが、チンギスは「ハーン(皇帝 こうてい )」であるため、「チンギス・ハン (Чингис хан) 」とは呼 よ んではならず、「チンギス・ハーン (Чингис хаан) 」と呼 よ ぶべきだと現在 げんざい のモンゴル人 じん は考 かんが えている、との報告 ほうこく もされている[ 42] 。
一方 いっぽう で、ペルシア語 ご 文献 ぶんけん でのアラビア文字 もじ (ペルシア文字 もじ )転写 てんしゃ で多 おお い、چنگيز خان Chigīz Khān を仮名 かめい 転写 てんしゃ すると「チンギーズ・ハーン」となり、近 きん 現代 げんだい モンゴル語 ご の「カアン」 (Qa'an) の発音 はつおん 転写 てんしゃ とアラビア文字 もじ 表記 ひょうき での「カン」 (Qan) の仮名 かめい 転写 てんしゃ が、「ハーン」という同一 どういつ の転写 てんしゃ になってしまう。「カン」と「カアン」という中期 ちゅうき モンゴル語 ご のレベルでは意味 いみ 的 てき に異 こと なる単語 たんご が、依拠 いきょ する資料 しりょう で同一 どういつ の仮名 かめい 転写 てんしゃ になるという弊害 へいがい が生 しょう じることとなった。
「チンギス・カン」「チンギス・ハン」「チンギス・ハーン」
編集 へんしゅう
このため、「チンギス・ハーン」「チンギス・ハン」「チンギス・カン」と言 い った具合 ぐあい に、日本語 にほんご 文献 ぶんけん での仮名 かめい 転写 てんしゃ が研究 けんきゅう 者 しゃ や執筆 しっぴつ 者 しゃ の間 あいだ でバラバラの状態 じょうたい になり、混乱 こんらん をきたすようになった。一般 いっぱん に日本 にっぽん の戦前 せんぜん や現代 げんだい の中国 ちゅうごく などの漢字 かんじ 表記 ひょうき では、「成吉 せいきち 思 おもえ 汗 あせ 」と書 か かれる。ただし、「汗 あせ 」の読 よ みは中国 ちゅうごく でも年代 ねんだい や地域 ちいき により異 こと なり、「ハン」「ホン」、閩東語 ご ・閩南語 ご では「カン」(ガン)となるが、古代 こだい の上古 じょうこ 中国語 ちゅうごくご では「ガーン」であった[ 43] 。明治 めいじ 時代 じだい の日本 にっぽん ではジンギス・カンと振 ふ り仮名 がな されていた。清朝 せいちょう 時代 じだい の満州 まんしゅう 語 ご では「ハン」と発音 はつおん され、中期 ちゅうき モンゴル語 ご や近 きん 現代 げんだい モンゴル語 ご の「カン(ハン)」「カアン(ハーン)」の対立 たいりつ は見 み られないという。
主 おも に、1980年 ねん 前後 ぜんこう から『アルタン・ハーン伝 つたえ 』に見 み られるような16 - 17世紀 せいき 以降 いこう のモンゴル語 ご 文献 ぶんけん の調査 ちょうさ に基 もと づく研究 けんきゅう 者 しゃ の間 あいだ では「チンギス・ハーン」という表記 ひょうき を採用 さいよう する傾向 けいこう にあり、一方 いっぽう で1990年代 ねんだい 以降 いこう に中国 ちゅうごく で発掘 はっくつ された大 だい 元 もと ウルス時代 じだい のパスパ文字 もじ モンゴル語 ご 碑文 ひぶん や『集 あつまり 史 し 』などのモンゴル帝国 ていこく 時代 じだい のペルシア語 ご 文献 ぶんけん の調査 ちょうさ の進展 しんてん によって、中期 ちゅうき モンゴル語 ご 音韻 おんいん の復元 ふくげん 研究 けんきゅう が進 すす み、モンゴル帝国 ていこく では「カン」と「カアン」が明確 めいかく に区別 くべつ されていたことが判明 はんめい ・認識 にんしき されるようになった。このため13 - 14世紀 せいき のモンゴル帝国 ていこく 時代 じだい の研究 けんきゅう 者 しゃ からこれらの同 どう 時代 じだい 文献 ぶんけん 資料 しりょう での表現 ひょうげん に基 もと づいて「チンギス・カン」という表記 ひょうき が推奨 すいしょう されるようになった(両者 りょうしゃ の弁別 べんべつ を強 つよ く訴 うった えている研究 けんきゅう 者 しゃ としては、モンゴル帝国 ていこく 史 し ・大元 おおもと ウルス史 し の専門 せんもん 家 か である杉山 すぎやま 正明 まさあき などが有名 ゆうめい である。また、「チンギス・ハン」は「チンギス・カン」の現代 げんだい モンゴル語 ご 読 よ み (Činggis Qa'an) か、どちらかというとアラビア文字 もじ 表記 ひょうき の چنگيز خان Chigīz Khān から再現 さいげん したテュルク語 ご 発音 はつおん (Čiŋγ がんま is χ かい an と転写 てんしゃ すべきか)に近 ちか い)。
かつてはジンギス・カン と書 か かれることが多 おお かったが、これはティムール朝 あさ 以降 いこう のペルシア語 ご 年代 ねんだい 記 き などのアラビア文字 もじ 表記 ひょうき でجنكز خان (jinkiz khān) のようにイルハン朝 あさ 時代 じだい の『集 あつまり 史 し 』では保 たも たれていた چ č が ج j のままになっている写本 しゃほん が多 おお く見 み られることによる。これらの事情 じじょう によっての13-14世紀 せいき 以降 いこう のアラビア語 ご 文献 ぶんけん や ج j のままの文献 ぶんけん の音 おと 写 うつし から転訛 てんか した欧米 おうべい の諸 しょ 言語 げんご の発音 はつおん に基 もと づいた、19 - 20世紀 せいき 前半 ぜんはん までの表記 ひょうき がベースと考 かんが えられる。しかしながら、現在 げんざい では「チンギス・ハーン」や「チンギス・カン」が一般 いっぱん 化 か しており、現在 げんざい では「ジンギス・カン」はむしろまれである(なお、欧米 おうべい ではモンゴル帝国 ていこく 時代 じだい に存在 そんざい した「カン」と「カアン」の区別 くべつ についての認識 にんしき がまだまだ周知 しゅうち されていないようで、チンギスでもクビライでも Khan で一律 いちりつ 表記 ひょうき される傾向 けいこう にある)。
このように、13 - 14世紀 せいき のモンゴル帝国 ていこく 内部 ないぶ の中期 ちゅうき モンゴル語 ご やその影響 えいきょう にある文字 もじ 表記 ひょうき では「チンギス・カン」と呼 よ ばれている。13 - 14世紀 せいき の中期 ちゅうき モンゴル語 ご と近代 きんだい ・現代 げんだい モンゴル語 ご では q 〜 χ かい と音韻 おんいん の変化 へんか が生 しょう じているが、それとは別 べつ に大 だい 元 もと ウルスが崩壊 ほうかい した前後 ぜんご からモンゴル高原 こうげん 周辺 しゅうへん ではチンギス・カンの称号 しょうごう について、「カン」系 けい から「カアン」系 けい へシフトしていったもので「チンギス・カアン」というい方 いかた は、特 とく に大 だい 元 もと ウルスが崩壊 ほうかい した14世紀 せいき 末 まつ 以降 いこう に一般 いっぱん 化 か していったものと考 かんが えられる。
以上 いじょう 、同 どう 時代 じだい のモンゴル語 ご による表記 ひょうき は Činggis Qan で、チンギス・カン と発音 はつおん したため、本 ほん 項 こう でもこれを使用 しよう する。その他 た の人名 じんめい ・部族 ぶぞく 名 めい ・地名 ちめい の当時 とうじ の発音 はつおん については東洋 とうよう 史 し 学者 がくしゃ ・白鳥庫吉 しらとりくらきち がロ ろ ーマ字 まじ 音訳 おんやく した 『音訳 おんやく 蒙 こうむ 文 ぶん 元朝 がんちょう 秘史 ひし 』 を参照 さんしょう のこと。
杉山 すぎやま 正明 まさあき 『モンゴル帝国 ていこく と大元 おおもと ウルス』 京都大学 きょうとだいがく 学術 がくじゅつ 出版 しゅっぱん 会 かい 、2004年 ねん 。
本田 ほんだ 實 みのる 信 しんじ 『モンゴル時代 じだい 史 し 研究 けんきゅう 』 東京大学 とうきょうだいがく 出版 しゅっぱん 会 かい 、1991年 ねん 。
村上 むらかみ 正二 しょうじ 『モンゴル帝国 ていこく 史 し 研究 けんきゅう 』 風間 かざま 書房 しょぼう 、1993年 ねん 。
岩村 いわむら 忍 しのぶ 『元朝 がんちょう 秘史 ひし チンギス=ハン実録 じつろく 』 (中公新書 ちゅうこうしんしょ )、中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 、1963年 ねん 。
小林 こばやし 高 こう 四郎 しろう 『ジンギスカン』 (岩波 いわなみ 新書 しんしょ )、岩波書店 いわなみしょてん 、1960年 ねん 。
岡田 おかだ 英弘 ひでひろ 『チンギス・ハーン 将 すすむ に将 はた たるの戦略 せんりゃく 』 集英社 しゅうえいしゃ 、1986年 ねん 。
岡田 おかだ 英弘 ひでひろ 『モンゴル帝国 ていこく の興亡 こうぼう 』 (ちくま新書 しんしょ )、筑摩書房 ちくましょぼう 、2001年 ねん 。
小澤 おざわ 重男 しげお 『元朝 がんちょう 秘史 ひし 』 (岩波 いわなみ 新書 しんしょ )、岩波書店 いわなみしょてん 、1994年 ねん 。
勝 かち 藤 ふじ 猛 たけし 『草原 そうげん の覇者 はしゃ ・成吉 せいきち 思 おもえ 汗 あせ 』 (清水 しみず 新書 しんしょ )、清水 しみず 書院 しょいん 、1984年 ねん 。
白石 しらいし 典之 のりゆき 『チンギス・カン 蒼 あお き狼 おおかみ の実像 じつぞう 』 (中公新書 ちゅうこうしんしょ )、中央公論 ちゅうおうこうろん 新 しん 社 しゃ 、2006年 ねん 。
ジャン=ポール・ルー 『チンギス・カンとモンゴル帝国 ていこく 』 杉山 すぎやま 正明 まさあき 監修 かんしゅう ・田辺 たなべ 希久子 きくこ 訳 やく (「知 ち の再 さい 発見 はっけん 」双書 そうしょ ) 創 つく 元 もと 社 しゃ 、2003年 ねん 。
杉山 すぎやま 正明 まさあき 、北川 きたがわ 誠一 せいいち 『世界 せかい の歴史 れきし 9 大 だい モンゴルの時代 じだい 』 中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 、1997年 ねん 、中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ 、2008年 ねん 。
杉山 すぎやま 正明 まさあき 『モンゴル帝国 ていこく の興亡 こうぼう 』 講談社 こうだんしゃ 現代新書 げんだいしんしょ 上 うえ ・下 した 、1996年 ねん 。
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ブラウヂン 『大 だい 統率 とうそつ 者 しゃ ジンギス汗 あせ の謎 なぞ 』 飯村 いいむら 穰 みのる 訳注 やくちゅう (叢 くさむら 文 ぶん 社 しゃ 、1982年 ねん )
イワニン 『鉄 てつ 木 き 真 ま 帖 じょう 木 き 児 じ 用兵 ようへい 論 ろん 』 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 訳 やく (陸軍 りくぐん 文庫 ぶんこ 、1895年 ねん )
松尾 まつお 裕夫 ひろお 「ジンギス汗 あせ 戦法 せんぽう の一 いち 考察 こうさつ (1)(2)」 (『幹部学校 かんぶがっこう 記事 きじ 』第 だい 210 - 211号 ごう 、1971年 ねん )
Strategy&Tactics229号 ごう Khan Rise of Mongols
S&T編集 へんしゅう 長 ちょう のジョー・ミランダのデザインした2人 ふたり 用 よう ウォーゲーム。シャルルマーニュシステムの第 だい 4作 さく に当 あ たる。
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^ a b 札 さつ 奇 き 斯欽 (1979年 ねん 12月1日 にち ) (中国 ちゅうごく 語 ご ). 《蒙 こうむ 古 こ 黃金 おうごん 史 し 譯註 やくちゅう 》 . 中華民國 ちゅうかみんこく : 聯 れん 經 けい 出版 しゅっぱん 事業 じぎょう 公司 こうし . pp. 第 だい 20頁 ぺーじ -第 だい 21頁 ぺーじ . ISBN 9789570808414 . https://www.google.com.tw/books/edition/%E8%92%99%E5%8F%A4%E9%BB%84%E9%87%91%E5%8F%B2%E8%AD%AF%E6%B3%A8/8hFJAAAAMAAJ?hl=zh-TW&gbpv=1&bsq=%E6%88%90%E5%90%89%E6%80%9D%E5%8F%AF%E6%B1%97%E6%98%AF%E5%A3%AC%E5%8D%88%E5%B9%B4(%E4%B8%80%E5%85%AD%E4%BA%8C)%E4%BB%B2%E5%A4%8F&dq=%E6%88%90%E5%90%89%E6%80%9D%E5%8F%AF%E6%B1%97%E6%98%AF%E5%A3%AC%E5%8D%88%E5%B9%B4(%E4%B8%80%E5%85%AD%E4%BA%8C)%E4%BB%B2%E5%A4%8F&printsec=frontcover . "黄金 おうごん 史 し 在 ざい 相當 そうとう 於秘史 し 第 だい 五 ご 十 じゅう 九 きゅう 節 せつ 之 の 處 しょ ,也就是 ぜ 在 ざい 它的上 じょう 册 さつ 二 に 十 じゅう 五 ご 頁 ぺーじ 末 まつ 二 に 行 ぎょう 處 しょ 說 せつ :「成吉 せいきち 思 おもえ 可 か 汗 あせ 是 ぜ 壬 みずのえ 午 うま 年 ねん (一 いち 一 いち 六 ろく 二 に )仲夏 ちゅうか (四 よん )月 がつ 十 じゅう 六日的日月紅圓之日(Ula'an tergel edür)卯 う 時 じ 所生 しょせい 的 てき 。」這與蒙 こうむ 古 こ 源流 げんりゅう 所說 しょせつ 的 てき 相 しょう 同 どう ,可能 かのう 這都是 ぜ 根據 こんきょ 蒙 こうむ 古 こ 的 てき 一般 いっぱん 傳說 でんせつ 所 しょ 寫 うつし 的 てき 。"
^ a b c 一般 いっぱん 的 てき に1162年 ねん 説 せつ が流布 るふ しているが、これは『元 もと 史 し 』太 ふとし 祖 そ 本紀 ほんぎ などに「(太 ふとし 祖 そ 二 に 十 じゅう 二 に 年 ねん )秋 あき 七 なな 月 がつ 壬 みずのえ 午 うま 、不 ふ 豫 よ 。己 おのれ 丑 うし 、崩 くずし 于薩里川 さとかわ 哈老徒之 かちの 行宮 あんぐう 。(中略 ちゅうりゃく )壽 ことぶき 六 ろく 十 じゅう 六 ろく 。」とあり(太 ふとし 祖 そ 二 に 十 じゅう 二 に 年 ねん 秋 あき 七 なな 月 がつ 己 おのれ 丑 うし =1227年 ねん 8月 がつ 25日 にち )、ここから逆算 ぎゃくさん したものである。1155年 ねん 説 せつ については、主 おも にイルハン朝 あさ でガザン 、オルジェイトゥ の勅命 ちょくめい によって編纂 へんさん された『集 しゅう 史 し 』などに基 もと づくもので、同書 どうしょ 「チンギス・カン紀 き 」では「彼 かれ の誕生 たんじょう した時 とき は、ブタ の年 とし (亥年 いどし )であるヒジュラ暦 れき 549年 ねん であり、ズー=ル=カアダ月 がつ に起 お きたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155年 ねん 1月 がつ 6日 にち - 2月 がつ 4日 にち )とあり、『元朝 がんちょう 秘史 ひし 』と同 おな じくこれが父 ちち イェスゲイによるタタル部 ぶ 族 ぞく への遠征 えんせい とその首長 しゅちょう コリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛 ほばく の年 とし であったことが説明 せつめい されている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年 ぼつねん も「ブタの年 とし (Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「彼 かれ の生涯 しょうがい は72年間 ねんかん であり、73年 ねん 目 め に逝去 せいきょ した」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、生 なま 没年 ぼつねん が同 おな じ「ブタの年 とし 」であったと述 の べる(没年 ぼつねん である1227年 ねん は実際 じっさい に丁 ちょう 亥年 いどし である)。『集 あつまり 史 し 』の後 のち に編纂 へんさん されたイルハン朝 あさ 時代 じだい の他 ほか の歴史 れきし 書 しょ でもこの生年 せいねん の情報 じょうほう は踏襲 とうしゅう されたようで、例 たと えば『バナーカティー史 し 』(アブー・サイード 即位 そくい の1317年 ねん まで記述 きじゅつ )では「ブタの年 とし であるヒジュラ暦 れき 549年 ねん ズー=ル=カアダ月 がつ 」(1155年 ねん 1月 がつ 6日 にち - 2月 がつ 5日 にち )、同 おな じくムスタウフィー・カズヴィーニー の『選 せん 史 し 』(1330年 ねん )ではもう少 すこ し詳 くわ しく「ヒジュラ暦 れき 549年 ねん ズー=ル=カアダ月 がつ 20日 はつか 」(1155年 ねん 1月 がつ 25日 にち )とする。一方 いっぽう 、1167年 ねん については、『聖 ひじり 武 たけし 親 しん 征 せい 録 ろく 』諸 しょ 本 ほん のひとつに1226年 ねん (丙 へい 戌年 いぬどし )の記事 きじ において「上 うえ 年 ねん 六 ろく 十 じゅう 」とするものがあることから(王国 おうこく 維 の校訂 こうてい では「六 ろく 十 じゅう 五 ご 」に改 あらた める)ここから逆算 ぎゃくさん してこの年 とし 時 じ としている。他 た の資料 しりょう の年代 ねんだい としては、1221年 ねん にムカリ国王 こくおう の宮廷 きゅうてい を訪 おとず れた南 みなみ 宋 そう の使節 しせつ 、孟 はじめ 珙 の撰 せん (王国 おうこく 維 の研究 けんきゅう により著者 ちょしゃ は趙 ちょう 珙 と校正 こうせい された)による『蒙 こうむ 韃備録 ろく 』では「今成 いまなり 吉 きち 思 おもえ 皇帝 こうてい 者 しゃ 甲 かぶと 戌 いぬ 生 せい 彼 かれ 俗 ぞく …」とあり、甲 きのえ 戌 いぬ 、すなわち1154年 ねん とする。 このようにチンギス・カンの生年 せいねん の年代 ねんだい については資料 しりょう によって様々 さまざま であり、多 おお くの学説 がくせつ が立 た てられ現在 げんざい でも結論 けつろん が出 で ていない。元朝 がんちょう 末期 まっき の陶 とう 宗 そう 儀 ただし 編 へん 『南村 なんそん 輟耕録 ろく 』において元朝 がんちょう 末 まつ から明朝 みんちょう 初 はつ の文人 ぶんじん ・楊維禎 ただし (1296年 ねん - 1370年 ねん )の言 げん として「太 ふとし 祖 そ の生年 せいねん は宋 そう の太 ふとし 祖 そ の生年 せいねん である丁 ちょう 亥 い と干支 えと を同 おな じくする」(四 よん 部 ぶ 叢 くさむら 刊本 かんぽん 第 だい 三 さん 巻 かん 「正統 せいとう 辯 べん 」 第 だい 六 ろく 葉 よう 「宋 そう 祖生 そう 于丁亥 い 而建國 けんこく 于庚申 さる 。我 わが 太 ふと 祖 そ 之 の 降 くだ 年 とし 與 あずか 建國 けんこく 之 これ 年 ねん 亦 また 同 どう …」)というようなことを述 の べており、清朝 せいちょう 末期 まっき の学者 がくしゃ 洪 ひろし 鈞 ひとし は丁 ちょう 亥年 いどし すなわち1167年 ねん ではなく乙 おつ 亥年 いどし の誤 あやま り、つまり、『集 あつまり 史 し 』その他 た の西方 せいほう 資料 しりょう にあらわれるものと同 おな じ1155年 ねん に比定 ひてい する説 せつ を唱 とな えた。この説 せつ は『新元 しんもと 史 し 』の著者 ちょしゃ 柯劭忞 (かしょうびん)や『蒙 こうむ 兀児史記 しき 』の著者 ちょしゃ 屠 ほふ 寄 よせ など当時 とうじ の学者 がくしゃ たちの賛同 さんどう を得 え た。しかし、フランスの東洋 とうよう 学者 がくしゃ ポール・ペリオ は、それならばこの場合 ばあい 、楊維禎 ただし の言 げん に従 したが い丁 ちょう 亥年 いどし すなわち1167年 ねん とした方 ほう が良 よ く、この丁 ひのと 亥年 いどし 説 せつ であればチンギスの生涯 しょうがい における諸 しょ 事件 じけん の年月日 ねんがっぴ とよく合致 がっち し、チンギス・カンは1167年 ねん に生 う まれ、1227年 ねん に60歳 さい 、『聖 ひじり 武 たけし 親 しん 征 せい 録 ろく 』のいう数 かぞ え年 どし 61歳 さい で死 し んだと考 かんが えた方 ほう が妥当 だとう であろう、と述 の べている。『元朝 がんちょう 秘史 ひし 』には生年 せいねん についての情報 じょうほう は載 の っていない。
^ a b c デリウン岳 だけ Deli'ün Boltaq (迭里温 ゆたか 孛勒 荅中 なか 合 ごう )での出産 しゅっさん についても、主 おも な資料 しりょう では共通 きょうつう して述 の べている。『集 あつまり 史 し 』では دلون بولداق Dilūn Būldāq 、『聖 ひじり 武 たけし 親 しん 征 せい 録 ろく 』では跌里温 ゆたか 盤陀 はんだ 山 やま と書 か かれている。ドルヂスレン・ツェー著 ちょ 、小澤 おざわ 重男 しげお 訳 やく 「チンギス・ハーンの生 うま れたデリウン・ボルダクは何処 どこ にあるか」『遊牧 ゆうぼく 社会 しゃかい 史 し 研究 けんきゅう 』第 だい 30号 ごう 、1967年 ねん 、p.1 - 16(ドルヂスレン・ツェー著 ちょ 、小澤 おざわ 重男 しげお 訳 やく 「チンギス・ハーンの生 うま れたデリウン・ボルダクは何処 どこ にあるか」『内陸 ないりく アジア史 し 論集 ろんしゅう 』第 だい 2、内陸 ないりく アジア史 し 学会 がっかい 編 へん 国書刊行会 こくしょかんこうかい 東京 とうきょう 、1979年 ねん 、p.71 - 86. 再 さい 録 ろく );村上 むらかみ 正二 しょうじ (訳注 やくちゅう )『モンゴル秘史 ひし チンギス・カン物語 ものがたり 』(東洋文庫 とうようぶんこ )第 だい 1巻 かん 、平凡社 へいぼんしゃ 、1970年 ねん 、p.79 - 80.
^ a b チンギス・カン崩御 ほうぎょ の日時 にちじ について、『元朝 がんちょう 秘史 ひし 』『聖 ひじり 武 たけし 親 しん 征 せい 録 ろく 』など亥年 いどし や65歳 さい であったことなど以外 いがい は全 まった く言及 げんきゅう されていないが、ジュヴァイニー の『世界 せかい 征服 せいふく 者 しゃ 史 し 』やバル・ヘブラエウス の『諸 しょ 王朝 おうちょう 史 し 略 りゃく (Ta'rīkh mukhtaṣar al-duwal)』などのヒジュラ暦 れき 624年 ねん ラマダーン月 がつ 4日 にち という記述 きじゅつ から1227年 ねん 8月 がつ 25日 にち になる(Qazvīnī, vol.1, p,144/Bar Hebraeus, Tārīkh mukhtaṣar al-duwal ,Bayrūt, Dār al-Mashriq, 1992. p.244.)。(ドーソン の『モンゴル帝国 ていこく 史 し 』やボイル J.A. Boyle の『世界 せかい 征服 せいふく 者 しゃ 史 し 』の英訳 えいやく The World-Conqueror , vol. 1, p.182., note 11 では崩御 ほうぎょ 日時 にちじ を「1227年 ねん 8月 がつ 18日 にち 」としているが、これはヒジュラ暦 れき 624年 ねん ラマダーン月 がつ 4日 にち をユリウス暦 れき に変換 へんかん すると1227年 ねん 8月 がつ 18日 にち になるためとも考 かんが えられる) また、『元 もと 史 し 』太 ふとし 祖 そ 本紀 ほんぎ の太 ふとし 祖 そ 二 に 十 じゅう 二 に 年 ねん 秋 あき 七 なな 月 がつ 条 じょう に「秋 あき 七 なな 月 がつ 壬 みずのえ 午 うま ,不 ふ 豫 よ 。己 おのれ 丑 うし ,崩 くずし 于薩里川 さとかわ 哈老徒之 かちの 行宮 あんぐう 。臨崩謂 いい 左右 さゆう 曰:「金 きむ 精兵 せいびょう 在 ざい 潼關,南 みなみ 據 よりどころ 連山 れんざん ,北限 ほくげん 大河 たいが ,難 なん 以遽破。若 わか 假 かり 道 みち 于宋,宋 そう 、金 きむ 世 よ 讎,必能許 もと 我 わが ,則 のり 下兵 しもへい 唐 とう 、鄧,直 ちょく 擣大梁 はり 。金 かね 急 きゅう ,必徵兵 ちょうへい 潼關。然 しか 以數萬 まん 之 これ 衆 しゅ ,千里 せんり 赴援,人馬 じんば 疲弊 ひへい ,雖至弗 どる 能 のう 戰 せん ,破 やぶ 之 これ 必矣。」言 げん 訖而崩 くずれ ,壽 ことぶき 六 ろく 十 じゅう 六 ろく 。葬 そう 起 おこり 輦谷。」とある。『元 もと 史 し 』での不 ふ 予 よ (病 やまい を患 わずら った)となった太 ふとし 祖 そ 二 に 十 じゅう 二 に 年 ねん 七 なな 月 がつ 壬 みずのえ 午 うま は1227年 ねん 8月 がつ 18日 にち であり、崩御 ほうぎょ した同 どう 七 なな 月 がつ 己 おのれ 丑 うし は1227年 ねん 8月 がつ 25日 にち になる。また、ラシードゥッディーンの『集 あつまり 史 し 』チンギス・ハン紀 き では、「亥年 いどし の秋 あき の中 なか 月 がつ の15日 にち 、すなわち(ヒジュラ暦 れき )624年 ねん ラマダーン月 がつ に崩御 ほうぎょ あそばされた。( و پانزدهم روز از ماه ميانه پاييز سال خاك، موافق ماه رمضان سنة اَرْبَعَ وَ عِشرِينَ وَ سِتَّمِائَة، از جهان فانى بگذاشت wa Pānzdahum rūz az māh-i Miyāna-yi Pā'īz-i sāl-i Khūk muwāfiq-i māh-i Ramaḍān sana Arba` wa `Ishrīn wa Sitta-Mi'a, az jahān fanā gudhāsht. :Rarshan&Mūsawī, vol. 1, p. 541.)」とあり、別 べつ の箇所 かしょ では「先述 せんじゅつ の亥年 いどし の閏月 じゅんげつ (shūn-āy)、すなわちヒジュラ暦 れき 624年 ねん ラマダーン月 がつ 14日 にち に彼 かれ の棺 かん (marqad)は彼 かれ の諸 しょ オルドへ運 はこ ばれ、(チンギス・カンの崩御 ほうぎょ の)出来事 できごと が明 あき らかにされた( در شُون آی سال خوك مذكور، موافق چهاردهم رمضان سنة اَرْبَعَ وَ عِشرِينَ وَ سِتَّمِائَة هجرى، مرقد او را به اوردوهاى او رسانيدند و اظهاد واقعه كردند /dar Shūn-Āy-yi sāl-i Khūk-i madhkūr, muwāfiq-i Chahārdahum-i Ramaḍān sana Arba` wa `Ishrīn wa Sitta-Mi'a-yi Hijrī, marqad-i ū rā bi ūrdū-hā-yi ū rasānīdand wa aẓhār-i wāfi`a kardand)」。しかし、前者 ぜんしゃ の「秋 あき の中 なか 月 がつ の15日 にち 」という日時 にちじ のとおりでは1227年 ねん 9月 がつ 26日 にち になってしまい、さらに後者 こうしゃ の「閏月 じゅんげつ 」という記述 きじゅつ を受 う け入 い れると、同年 どうねん の「閏 うるう 5月 がつ 15日 にち 」は1227年 ねん 6月 がつ 30日 にち となるため、それぞれのヒジュラ暦 れき と中国 ちゅうごく 暦 れき との整合 せいごう 性 せい が取 と れなくなる。ポール・ペリオ は「秋 あき の中 なか 月 がつ の15日 にち 」は「秋 あき の初 はつ 月 つき の15日 にち 」の誤 あやま り(すなわち「秋 あき の初 はつ 月 つき の15日 にち 」は陰暦 いんれき の7月 がつ 15日 にち なので1227年 ねん 8月 がつ 28日 にち になる)と考 かんが えた。また、「閏月 じゅんげつ 」についても、中国 ちゅうごく 暦 れき ではこの年 とし の閏月 じゅんげつ は5月の後 のち だが、ウイグル暦 れき では7月 がつ の後 のち に閏月 じゅんげつ を置 お いたであろうとして、「ラマダーン月 がつ の14日 にち 」とは中国 ちゅうごく 暦 れき での「7月 がつ 25日 にち 」、西暦 せいれき での「1227年 ねん 8月 がつ 28日 にち 」となるだろう、と論 ろん じた(Paul Pelliot, Note on Marco Polo , vol. 1., Paris, 1959, pp.305-309.)。また、『元 もと 史 し 』が崩御 ほうぎょ の場所 ばしょ としている「薩里川 さとかわ 哈老徒之 かちの 行宮 あんぐう 」も西 にし 夏 なつ 国内 こくない ではなくモンゴル高原 こうげん のあたりになるため崩御 ほうぎょ の地 ち とは考 かんが え難 がた く、恐 おそ らく葬儀 そうぎ が執 と り行 おこな われた地 ち と解 げ するのが妥当 だとう と考 かんが えられる。村上 むらかみ 正二 しょうじ によると、あるいは、18日 にち に亡 な くなり、25日 にち か28日 にち には遺骸 いがい をモンゴル本土 ほんど へ運 はこ び葬儀 そうぎ を執 と り行 おこな ったのでは、と論 ろん じている。(村上 むらかみ 正二 しょうじ 訳註 やくちゅう 『モンゴル秘史 ひし 3』p.274-275.)
^ 10世紀 せいき から11世紀 せいき における「九 きゅう 姓 せい タタル国 こく 」
^ 『遼 りょう 史 し 』本紀 ほんぎ 第 だい 二 に 十 じゅう 四 よん 道 みち 宗 むね 四 よん 「(大 だい 康 やすし )十年春正月辛丑朔,如春水 すい 。丙午 ひのえうま ,復 ふく 建 けん 南京 なんきん 奉 たてまつ 福 ぶく 寺 てら 浮圖 ふと 。戊 つちのえ 辰 たつ ,如山楡 にれ 淀 よどみ 。二 に 月 がつ 庚午 こうご 朔 ついたち ,萌 もえ 古 いにしえ 國 こく 遣 や 使 つかい 來 らい 聘。三月 さんがつ 戊 つちのえ 申 さる ,遠 とお 萌 もえ 古 いにしえ 國 こく 遣 や 使 つかい 來 らい 聘。丁 ちょう 巳 み ,命 いのち 知 ち 制 せい 誥王師 し 儒、牌 ぱい 印 しるし 郎 ろう 君 くん 耶律固 かた 傅 でん 導 しるべ 燕 つばめ 國王 こくおう 延 のべ 禧。」
^ 村上 むらかみ 1970,p66-77
^ 佐 さ 口 こう 1968,p29-30
^ この時 とき 、出生 しゅっしょう したばかりのテムジンは「右手 みぎて に髀石のような血 ち の固 かた まりを握 にぎ りしめていた」と伝承 でんしょう されているが、この有名 ゆうめい な逸話 いつわ は『元朝 がんちょう 秘史 ひし 』のみならず『集 あつまり 史 し 』、『元 もと 史 し 』、『聖 ひじり 武 たけし 親 しん 征 せい 録 ろく 』などにも見 み えるポール・ペリオ によると、この「血 ち のかたまりを握 にぎ って生 う まれる」という伝承 でんしょう は、『雑 ざつ 阿 おもね 含経 』第 だい 25巻 かん にある『アショーカ王 おう 物語 ものがたり 』 (Ašokāvadāna ) の中 なか の、カウシャーンビー の王 おう マハーセーナの逸話 いつわ と関係 かんけい していると言 い う。この『アショーカ王 おう 物語 ものがたり 』の伝説 でんせつ によれば、マハーセーナ王 おう に鎧 よろい を身 み に付 つ け手 しゅ に血 ち のかたまりを持 も つ息子 むすこ が生 う まれ、やがてこの生 う まれた息子 むすこ は全 ぜん 世界 せかい を支配 しはい する王者 おうじゃ になるが、それまでに計 はか り知 し れないほどの犠牲 ぎせい 者 しゃ を出 だ すであろう、という不吉 ふきつ な予言 よげん を受 う けたと言 い う。これは経典 きょうてん 中 ちゅう では仏教 ぶっきょう を破 やぶ る凶悪 きょうあく な王者 おうじゃ の相 そう として語 かた られているものであるが、ペリオは『元朝 がんちょう 秘史 ひし 』にみえるこの伝承 でんしょう は、仏教 ぶっきょう 的 てき な凶兆 きょうちょう としてよりは、古 ふる い仏教 ぶっきょう 伝承 でんしょう を起源 きげん としながらもアジア内陸 ないりく において世界 せかい を征 せい する強大 きょうだい な王者 おうじゃ の瑞兆 ずいちょう として変化 へんか し流布 るふ したものであろうと推測 すいそく している。
^ ちなみに、この「テムジン」 (temüǰin) とはテュルク・モンゴル語 ご で「テムルチ 」 (temür-či) 、すなわち鉄 てつ (テムル)を作 つく る人 ひと 、鍛冶 たんや 職人 しょくにん 」を意味 いみ する単語 たんご の省略形 しょうりゃくけい だったため、「テムジン=チンギス・カンは鍛冶 たんや 屋 や だった」という伝説 でんせつ が流布 るふ するようになった。この種 たね の「チンギス・カン鍛冶 たんや 職人 しょくにん 伝説 でんせつ 」とも言 い える伝承 でんしょう は、13 - 14世紀 せいき に活躍 かつやく した東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の歴史 れきし 家 か パキメレス や、同 おな じくマムルーク朝 あさ の歴史 れきし 家 か ヌワイリー 、1247年 ねん のグユクの即位 そくい に列席 れっせき したキリキア の小 しょう アルメニア王国 おうこく のハイトン1世 せい の旅行 りょこう 記 き 、さらには1254年 ねん にモンケの宮廷 きゅうてい を訪 おとず れたルブルクのギヨーム修道 しゅうどう 士 し の旅行 りょこう 記 き などに記録 きろく されており、13世紀 せいき 中頃 なかごろ という早 はや い時期 じき から帝国 ていこく の外来 がいらい の人々 ひとびと に広 ひろ く流布 るふ していたようである。[要 よう 出典 しゅってん ]
^ 村上 むらかみ 1970,p78-91
^ 村上 むらかみ 1970,p99-198
^ 杉山 すぎやま 正明 まさあき 、北川 きたがわ 誠一 せいいち 『世界 せかい の歴史 れきし 9 大 だい モンゴルの時代 じだい 』(中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 、1997年 ねん )94 - 95頁 ぺーじ などを参照 さんしょう 。
^ 『元 もと 史 し 』太 ふとし 祖 そ 本紀 ほんぎ :太 ふとし 祖 そ 二 に 十 じゅう 二 に 年 ねん 秋 あき 七 なな 月 がつ 条 じょう 「秋 あき 七 なな 月 がつ 壬 みずのえ 午 うま ,不 ふ 豫 よ 。己 おのれ 丑 うし ,崩 くずし 于薩里川 さとかわ 哈老徒之 かちの 行宮 あんぐう 。(中略 ちゅうりゃく )壽 ことぶき 六 ろく 十 じゅう 六 ろく 。葬 そう 起 おこり 輦谷。」
^ チンギスハンの墓 はか は四川 しせん 省 しょう ? 末裔 まつえい の女性 じょせい が新 しん 証言 しょうげん
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^ 『元 もと 史 し 』巻一 けんいち 太 ふとし 祖 そ 本紀 ほんぎ 「至 いたり 元 もと 三 さん 年 ねん 冬 ふゆ 十 じゅう 月 がつ 、追 つい 諡 おくりな 聖 ひじり 武 たけし 皇帝 こうてい 。至大 しだい 二 に 年 ねん 冬 ふゆ 十 じゅう 一 いち 月 がつ 庚 かのえ 辰 たつ 、加 か 諡 おくりな 法 ほう 天啓 てんけい 運 うん 聖 ひじり 武 たけし 皇帝 こうてい 。廟 びょう 號 ごう 太 ふとし 祖 そ 。在位 ざいい 二 に 十 じゅう 二 に 年 ねん 。」
^ 白石 しらいし 典之 のりゆき 『チンギス・カン -“蒼 あお き狼 おおかみ ”の実像 じつぞう 』 中公新書 ちゅうこうしんしょ 、2006年 ねん 1月 がつ
^ 汗 あせ Wiktionary.
^ チ(ン)・(チ)ンと名前 なまえ のついた部分 ぶぶん の下 した 、肖像 しょうぞう 画 が の額 がく のあたりに男性 だんせい 器 き が描 えが き込 こ まれていた
^ Civilization: Same Leaders in every Civ Game - Cutscenes Evolve