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チンギス・カン - Wikipedia

チンギス・カン

モンゴル帝国ていこく初代しょだい皇帝こうていだいハーン)

チンギス・カンモンゴルキリル文字もじЧингис хаанラテン文字もじČinggis Qan または Činggis Qa'an漢字かんじ成吉せいきちおもえあせ英語えいごGenghis Khan1162ねん5月31にち[1] - 1227ねん8がつ25にち)は、モンゴル帝国ていこく初代しょだい皇帝こうてい在位ざいい1206ねん - 1227ねん)。死後しごびょうごうふとしおくりなほう天啓てんけいうんひじりたけし皇帝こうていしょうした。日本語にほんごでの名前なまえ表記ひょうきについては複数ふくすう表記ひょうきれがある(#名前なまえふし参照さんしょう)。

チンギス・カン
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Činggis Qan, Činggis Qa'an, Genghis Khan
モンゴル帝国ていこく初代しょだい皇帝こうていカアン
チンギス・カン肖像しょうぞう
在位ざいい 1206ねん - 1227ねん8がつ25にち
戴冠たいかんしき 1206ねん初春しょしゅん
べつごう テムジン(ᠲᠡᠮᠦᠵᠢᠨ

出生しゅっしょう だいじょう2ねん4がつ16にち
1162ねん5月31にち[1]諸説しょせつあり)[2]
デリウン・ボルダク(現在げんざいヘンティー山脈さんみゃくモンゴルこくヘンティーけんダダルぐん?)[3]
死去しきょ ふとし22ねん7がつ12にち
1227ねん8がつ25にち[4]
ろくばんやますずか殿どのかい現在げんざいやすしなつかいぞく自治じちかた原市はらいち涇源けん[3]
埋葬まいそう おこり輦谷/クレルグさんモンゴル高原こうげん
配偶はいぐうしゃ ボルテクラン、イェスイ(イェスゲン)、岐国公主こうしゅ、イェスルン ほか 下記かき参照さんしょう
子女しじょ ジョチチャガタイオゴデイトルイコルゲン 下記かき参照さんしょう
父親ちちおや イェスゲイ
母親ははおや ホエルン
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モンゴルこく政府せいふ宮殿きゅうでん 正面しょうめんかって中央ちゅうおう鎮座ちんざするチンギス・カンぞう

大小だいしょう様々さまざま集団しゅうだんかれておたがいに抗争こうそうしていたモンゴル遊牧民ゆうぼくみんしょ部族ぶぞくいちだい統一とういつし、中国ちゅうごく中央ちゅうおうアジアイランひがしヨーロッパなどを次々つぎつぎ征服せいふくし、最終さいしゅうてきには当時とうじ世界せかい人口じんこう半数はんすう以上いじょう統治とうちするにいた人類じんるい史上しじょう最大さいだい規模きぼ世界せかい帝国ていこくであるモンゴル帝国ていこく基盤きばんをきずきあげた。

死後しごその帝国ていこくひゃくすうじゅうねん解体かいたいされたが、その影響えいきょう中央ちゅうおうユーラシアにおいてつづけ、遊牧民ゆうぼくみん偉大いだい英雄えいゆうとして賞賛しょうさんされた。とく故国ここくモンゴルにおいてはかみあがめられ、現在げんざいモンゴルこくにおいて国家こっか創建そうけん英雄えいゆうとしてとなえられている[2]

生涯しょうがい

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チンギス・カンの先祖せんぞ

編集へんしゅう

チンギス・カンがまれたモンゴル6世紀せいきから10世紀せいきにかけてだいきょうやすみね山脈さんみゃく付近ふきん存在そんざいしたしつ(しつい)の一部いちぶぞくであった。しつ韋はまたのさんじゅうせいタタルとばれ、多数たすう部族ぶぞく構成こうせいされていた。9世紀せいきウイグルあせこく崩壊ほうかいすると、しつ韋はモンゴル高原こうげんひろがり、きゅうせいタタルくに[5]というくにてて繁栄はんえいしたが、ちぎりぞくりょうがモンゴル高原こうげん支配しはいするころにはきゅうせいタタルの名前なまええ、阻卜(そぼく)、がらすいにしえ(うこ)、てきれつ(てきれつ)、いたるだん(たつたん)といったすう部族ぶぞくかれりょう支配しはいはいった。そのころバイカル方面ほうめんにもひろがっていたモンゴル部族ぶぞく南下なんかしてきてモンゴル高原こうげん北東ほくとういた。1084ねん、モンゴルちぎり帝国ていこく使者ししゃ派遣はけんしたため、『りょう』には「もえいにしえこく」という名前なまえしるされている[6]

チンギス・カンの生涯しょうがいえがいたモンゴルの伝説でんせつてき歴史れきししょ元朝がんちょう秘史ひし』によれば、その遠祖えんそてん命令めいれいけてバイカルのほとりにったボルテ・チノ(「あおおおかみ」の)とそのつまなるコアイ・マラル(「青白あおじろ鹿しか」の)であるとされる。ボルテ・チノの11だい子孫しそんのドブン・メルゲンははやくにくなるが、その未亡人みぼうじんアラン・ゴアてんから使つかわされた神人しんじんひかりけて、おっとたないまま3にん息子むすこもうけた。チンギス・カンの所属しょぞくするボルジギンとなるボドンチャルはその末子まっしである。ボドンチャルの子孫しそん繁栄はんえいし、様々さまざま氏族しぞく分立ぶんりつさせ、ウリャンカイジャライルといったことぞく服属ふくぞくさせておおきな勢力せいりょくとなった。

やがて、ボドンチャルから7代目だいめカブルはじめてモンゴルしょ部族ぶぞく統一とういつして「あまねきモンゴル」のカン(qan)の称号しょうごう名乗なのった。カブル・カンの子孫しそんはのちにキヤトしょうし、モンゴル有力ゆうりょく氏族しぞくとなる。カブル・カンがくなると2代目だいめカンに即位そくいしたのはカブル・カンの又従兄弟またいとこアンバガイ・カンであった。かれ子孫しそんはのちにタイチウトしょうし、キヤトならんでモンゴル部族ぶぞく有力ゆうりょく氏族しぞくとなる。アンバガイ・カンが近隣きんりんのタタル部族ぶぞくによってられ、かねこくによって処刑しょけいされてしまうと、さん代目だいめカンとなったキヤトクトラ・カンはアンバガイのカダアン・タイシとともにアンバガイ・カンのかたきった[7][8]

編集へんしゅう

チンギス・カンはイェスゲイ・バアトル長男ちょうなんとしてまれ、テムジンTemüǰin)というあたえられた。『元朝がんちょう秘史ひし』、『しゅう』などが一致いっちしてつたえていることには、チンギスが誕生たんじょうした直前ちょくぜんにイェスゲイはタタルぞく首長しゅちょうであるテムジン・ウゲとコリ・ブカとたたかい、このテムジン・ウゲを捕縛ほばくして連行れんこうしてたため、息子むすこ名前なまえをテムジンとした。『元朝がんちょう秘史ひし』などによると、このときコンギラト出身しゅっしんでイェスゲイのつまホエルンが産気さんけづきオノンがわのデリウンだけでイェスゲイのぐん下馬げばしたとき出産しゅっさんしたといい[3]、このためイェスゲイは、その戦勝せんしょうしゅくして出生しゅっしょうしたばかりのはつ長男ちょうなんを「テムジン」と名付なづけたとつたえられる[9]。テムジンの生年せいねんについては、当時とうじのモンゴルに歴史れきし記録きろくする手段しゅだんられていなかったため、どう時代じだい歴史れきししょでもそれぞれ1155ねん1162ねん1167ねん諸説しょせつべられており、はっきりとはわからない[2][10]

ちちのイェスゲイは、カブル・カン次男じなんバルタン・バアトル三男さんなんで、ちちおなバアトル勇者ゆうしゃ)の称号しょうごうつ。イェスゲイは叔父おじのクトラ・カンの死後しごのモンゴル部族ぶぞくをまとめげ、カンにつぐ地位ちいく(カンは空位くういのまま)。一方いっぽうでモンゴル高原こうげん中央ちゅうおう有力ゆうりょく部族ぶぞく連合れんごうケレイトのカンであるトオリルのオン・カン)とも同盟どうめい関係かんけいむすび、アンダ(義兄弟ぎきょうだい)の関係かんけいにもなった。あるとき、息子むすこテムジンのよめさがしのため、コンギラト部族ぶぞくのボスクル族長ぞくちょうデイ・セチェンいえき、そのむすめボルテ婚約こんやくをさせる。デイ・セチェンは婚約こんやく条件じょうけんとしてテムジンを一定いってい期間きかんデイ・セチェン一家いっかにおいておくことをイェスゲイにたのんだため、イェスゲイはテムジンをデイ・セチェンのもとにあづけて自家じかもどったが、途中とちゅうったタタル部族ぶぞくどくられ、ほどなくして死去しきょしてしまう。それにともない、モンゴル部族ぶぞくないではタイチウト氏族しぞく主導しゅどうけんにぎり、イェスゲイの勢力せいりょく一挙いっきょ瓦解がかいしてしまう[11]

テムジンは、ちちらせをけてただちに家族かぞくのもとにもどされたが、のこされたイェスゲイ一家いっか同族どうぞくのタイチウト首長しゅちょうであるタルグタイ・キリルトク(アンバガイ・カンのまご)らによってモンゴル部族ぶぞくされてしまう。そんななかでもイェスゲイのつまホエルン配下はいか遊牧民ゆうぼくみんがほとんどったくるしい状況じょうきょうなか子供こどもたちをよくそだてた。テムジンが成長せいちょうしてくると、タルグタイ・キリルトクらがやってきて、イェスゲイの成長せいちょうして脅威きょういとなることをこわれ、テムジンをらえて自分じぶんたちの幕営ばくえい抑留よくりゅうした。テムジンはてきぬすんで脱走だっそうをはかり、うんよくタイチウトの隷臣としてつかえていたスルドスソルカン・シラたすけもあって家族かぞくのもとへもどることができた。テムジンは成人せいじんすると、以前いぜん婚約こんやくしていたボスクル氏族しぞくのボルテと結婚けっこんしたが、まもなくしてメルキト部族ぶぞく連合れんごう部族ぶぞくちょうトクトア・ベキひきいる兵団へいだん幕営ばくえいおそわれ、ボルテをうばわれてしまう。そこでテムジンはボルテを奪還だっかんするため、ちち同盟どうめいしゃであったケレイトのトオリル・カンと、テムジンの盟友めいゆう(アンダ)であり、モンゴルジャダラン氏族しぞくちょうであるジャムカ同盟どうめいし、ともにメルキトめ、つまのボルテを救出きゅうしゅつすることに成功せいこうする[12]

しょ部族ぶぞく統一とういつ

編集へんしゅう

メルキトによる襲撃しゅうげきのち、トオリル・カンやジャムカのたすけを勢力せいりょくかえしたテムジンは、次第しだいにキヤト氏族しぞくなか一目いちもくかれる有力ゆうりょくしゃとなっていった。テムジンはいが寛大かんだいで、遊牧民ゆうぼくみんにとってすぐれた指導しどうしゃされるようになり、かつてちちつかえていた戦士せんしや、ジャムカやタイチウトのもとにせていた遊牧民ゆうぼくみんが、次々つぎつぎにテムジンのもとにとうずるようになった。テムジンはこうした人々ひとびと僚友りょうゆうや隷民にくわ勢力せいりょく拡大かくだいするが、それとともにジャムカとの関係かんけいんでいった。

あるとき、ジャムカのおとうとがジャライル部族ぶぞく領地りょうちうまをひそかに略奪りゃくだつしようとして殺害さつがいされる事件じけんこり、テムジンとジャムカは完全かんぜん仲違なかたがいした。ジャムカはタイチウト同盟どうめいし、キヤト糾合きゅうごうしたテムジンとダラン・バルジュトの平原へいげん会戦かいせんした。じゅうさんつばさたたか1190ねんころ)とばれるこのたたかいでどちらが勝利しょうりしたかは史料しりょうによってちがうが、キヤト同盟どうめいしてテムジンに味方みかたした氏族しぞく捕虜ほりょ戦闘せんとうのち釜茹かまゆにされて処刑しょけいされたとする記録きろく一致いっちしており、テムジンが敗北はいぼくしたとみられる。ジャムカはこの残酷ざんこく処刑しょけいによって人望じんぼううしない、やぶれたテムジンのもとにとうずる部族ぶぞくえる。

 
流浪るろうしていたトオリルひだり)を歓待かんたいするテムジン(みぎ) (『あつまり』パリほん

さらに、このたたかいとおなころとされる1195ねん、ケレイト内紛ないふんこってトオリルがカンわれ、わずかな供回ともまわりとともにウイグル西にしなつ西にしりょうなどを放浪ほうろうしたが、テムジンがつよぜいになっているとききおよびこれをたよって合流ごうりゅうしてきた。テムジンとトオリルの両者りょうしゃは、トオリルがテムジンのちちのイェスゲイと盟友めいゆう関係かんけいにあったことにちなんでここで義父ぎふ関係かんけいむすんで同盟どうめいし、テムジンの援軍えんぐんてトオリルはケレイトのカンふくした。さらに両者りょうしゃはこの同盟どうめいから協力きょうりょくして中国ちゅうごくきむそむいた高原こうげん東部とうぶ有力ゆうりょく部族ぶぞくタタルをった(ウルジャかわたたか)。この功績こうせきによりテムジンにはかねから「ひゃくにんちょう」(ジャウト・クリ Ja'ud Quri)の称号しょうごうあたえられ、はっきりとした年代ねんだいのわかる歴史れきし記録きろくはじめて登場とうじょうするようになる。また、同時どうじにトオリルには「おう」(オン)の称号しょうごうあたえられ、オン・カンとしょうするようになったが、このことから当時とうじのオン・カンとテムジンのあいだおおきな身分みぶん格差かくさがあり、テムジンはオン・カンにたいしては従属じゅうぞくちかかたち同盟どうめいしていたことがかる。

テムジンは、同年どうねんケレイトとともにキヤト集団しゅうだんなか有力ゆうりょくしゃであるジュルキンち、キヤト武力ぶりょく統一とういつした。よく1197ねんには高原こうげん北方ほっぽうのメルキト遠征えんせいし、1199ねんにはケレイト共同きょうどう高原こうげん西部せいぶアルタイ山脈さんみゃく方面ほうめんにいたナイマンった。1200ねん今度こんどはテムジンが東部とうぶにケレイトの援軍えんぐんしてモンゴルない宿敵しゅくてきタイチウトとジャダランのジャムカをやぶり、つづいてだいきょうやすみね方面ほうめんのタタルをやぶった。

1201ねん東方とうほうしょ部族ぶぞくは、はんケレイト・キヤト同盟どうめいむすび、テムジンの宿敵しゅくてきジャムカを盟主めいしゅ(グル・カン)に推戴すいたいした。しかしテムジンは、同盟どうめいくわわったコンギラトぞくするつまボルテの実家じっかから同盟どうめい結成けっせいみつほうってぎゃく攻勢こうせいをかけ、同盟どうめいぐんやぶった。1202ねんには西方せいほうのナイマン、北方ほっぽうのメルキトが北西ほくせいかたオイラト東方とうほう同盟どうめい残党ざんとうむすんでだい同盟どうめいむすびケレイトにめかかったが、テムジンとオン・カンは苦戦くせんすえにこれをやぶり、高原こうげん中央ちゅうおう覇権はけん確立かくりつした。

しかし同年どうねん、オン・カンの長男ちょうなんイルカ・セングンとテムジンが仲違なかたがいし、よく1203ねんにオン・カンはセングンと亡命ぼうめいしてきたジャムカの讒言ざんげんって突如とつじょテムジンのまきおそった。テムジンはオノンがわからきたのがれ、バルジュナ体勢たいせいなおした。同年どうねんあき、オノンがわさかのぼって高原こうげんもどったテムジンは、兵力へいりょく結集けっしゅうすると計略けいりゃくもちいてケレイトの本営ほんえい位置いちさぐり、オン・カンの本隊ほんたい急襲きゅうしゅうして大勝たいしょうした。この敗戦はいせんにより高原たかはら最強さいきょうのケレイト壊滅かいめつし、高原こうげん中央ちゅうおうはテムジンのちた。

帝国ていこく建設けんせつ

編集へんしゅう
 
1206ねん初春しょしゅん、オノン川上かわかみりゅうでのだいクリルタイによって、テムジン、チンギス・カンとして即位そくいする。(『しゅう』パリほん

1205ねん、テムジンは高原こうげんないのこった最後さいごだい勢力せいりょくである西方せいほうのナイマンと北方ほっぽうのメルキトをやぶり、宿敵しゅくてきジャムカをついとらえて処刑しょけいした。やがて南方なんぽうオングトもテムジンの権威けんいみとめて服属ふくぞくし、高原こうげんぜん遊牧民ゆうぼくみんはテムジンひきいるモンゴル支配しはいはいった。

よく1206ねん2がつ、テムジンはフフ・ノールにちかオノンがわ上流じょうりゅうかわげんにおいて功臣こうしんしょ部族ぶぞく指導しどうしゃたちをあつめてクリルタイひらき、きゅうきゃくしろトゥクヤクウマ旗竿はたざおさきかざった旗指物はたさしものはたぼこ。纛。tuq〜tuγがんま)をて、しょ部族ぶぞく全体ぜんたい統治とうちしゃたるチンギス・カン即位そくいしてモンゴル帝国ていこくひらいた。チンギス・カンというはこのとき、イェスゲイ一族いちぞく家老がろうモンリク・エチゲという人物じんぶつ息子むすこで、モンゴルにつかえるココチュ・テプテングリというシャーマンみこしゃ)がテムジンにたてまつった尊称そんしょうである。「チンギス」という語彙ごい由来ゆらいについては確実かくじつなことはかっていない。元々もともとモンゴルではなくテュルクから外来がいらいだったとみられ、「うみ」を意味いみするテンギズ (tenggis / tenngiz) を語源ごげん比定ひていするせつや、「はげしい」を意味いみしたとするせつ、「世界せかい支配しはいするもの」を意味いみしたとするなど、さまざまにわれている。

チンギス・カンは、腹心ふくしん僚友りょうゆう(ノコル)に征服せいふくした遊牧民ゆうぼくみん領民りょうみんとしてあたえ、これとオングトやコンギラトのようにチンギス・カンと同盟どうめいして服属ふくぞくしたしょ部族ぶぞく指導しどうしゃくわえた領主りょうしゅ階層かいそう貴族きぞく(ノヤン)とばれる階層かいそう編成へんせいした。最上級さいじょうきゅうのノヤン88にんせんにん隊長たいちょうせん戸長こちょう)という官職かんしょく任命にんめいされ、その配下はいか遊牧民ゆうぼくみんは95のせんにんたいせん)とばれる集団しゅうだん編成へんせいされた。また、せんにんたいしたにはひゃくにんたいひゃく)、じゅうにんたいじゅう)が十進法じっしんほうしたがってかれ、それぞれのちょうにもノヤンたちが任命にんめいされた。

 
テュルク・モンゴルけい騎馬きばぐん同士どうし会戦かいせん(『しゅう』)

戦時せんじにおいては、せんにんたいは1,000にんひゃくにんたいは100にんじゅうにんたいは10にん兵士へいし動員どういんすることのできる軍事ぐんじ単位たんいとしてあつかわれ、その隊長たいちょうたちは戦時せんじにはモンゴル帝国ていこくぐん将軍しょうぐんとなるようさだめられた。かくたい兵士へいし遠征えんせいにおいても家族かぞくうまとをともなって移動いどうし、一人ひとりたいして3・4とううまがいるためにつね消耗しょうもうしていないうま移動いどう手段しゅだんとして利用りようできる態勢たいせいになっていた。そのため、大陸たいりくにおける機動きどうりょく当時とうじ世界せかい最大さいだいきゅうとなり、爆発ばくはつてき行動こうどうりょくをモンゴルぐんあたえていたとみられる。せんにんたい高原こうげん中央ちゅうおう遊牧ゆうぼくするチンギス・カン直営ちょくえい領民りょうみん集団しゅうだん中央ちゅうおうとして左右さゆう両翼りょうよくだい集団しゅうだんけられ、左翼さよく右翼うよくには高原こうげん統一とういつ功臣こうしんムカリボオルチュがそれぞれのまんにん隊長たいちょう任命にんめいされて、統括とうかつにんゆだねられた。

このような左右さゆう両翼りょうよく構造こうぞうのさらに東西とうざいでは、東部とうぶだいきょうやすみね方面ほうめんにチンギス・カンの3にんおとうとジョチ・カサルカチウンテムゲ・オッチギンを、西部せいぶのアルタイ山脈さんみゃく方面ほうめんにはチンギス・カンの3にん息子むすこジョチチャガタイオゴデイにそれぞれの遊牧ゆうぼく領民りょうみん集団しゅうだんウルス)を分与ぶんよし、高原こうげん東西とうざいひろがる広大こうだい領土りょうど分封ぶんぽうした。チンギス・カンのきずきあげたモンゴル帝国ていこく左右さゆう対称たいしょう軍政ぐんせい一致いっち構造こうぞうは、モンゴルに恒常こうじょうてき征服せいふく戦争せんそうつづけることを可能かのうとし、そののモンゴル帝国ていこく拡大かくだい路線ろせん決定けっていけた。

クリルタイがひらかれたときにはすでに、チンギス・カンはかれ最初さいしょ征服せいふくせんである西にしなつとの戦争せんそうこしていた。堅固けんごまもられた西にしなつ都市とし攻略こうりゃく苦戦くせんし、また1209ねん西にしなつとの講和こうわ成立せいりつしたが、その時点じてんまでにはすで西にしなつ支配しはいりょく減退げんたいさせ、西にしなつ皇帝こうていにモンゴルの宗主そうしゅけんみとめさせていた。さらに同年どうねんには天山あまやまウイグル王国おうこく服属ふくぞくさせ、経済けいざい感覚かんかくすぐれたウイグルじん協力きょうりょくることに成功せいこうする。

征服せいふく事業じぎょう

編集へんしゅう

きむちょうへの征服せいふく事業じぎょう

編集へんしゅう
 
チンギス・カン在世ざいせいちゅうしょ遠征えんせいとモンゴル帝国ていこく拡大かくだい

着々ちゃくちゃく帝国ていこく建設けんせつすすめたチンギス・カンは、中国ちゅうごくたいする遠征えんせい準備じゅんびをすすめ、1211ねんきむ開戦かいせんした。三軍さんぐんかたれたモンゴルぐんは、長城ちょうじょうえて長城ちょうじょう黄河こうがあいだかね領土りょうど奥深おくふかくへと進軍しんぐんし、かね軍隊ぐんたいやぶって華北かほくらした。

このたたかいは、当初とうしょ西にしなつとの戦争せんそうさいおなじような展開てんかいをたどり、モンゴルぐん野戦やせんでは勝利しょうりおさめたが、堅固けんご城壁じょうへきはばまれ主要しゅよう都市とし攻略こうりゃくには失敗しっぱいした。しかし、チンギス・カンとモンゴルの指揮しきかんたちは中国人ちゅうごくじんからおさむしろせん方法ほうほう学習がくしゅうし、徐々じょじょおさむじょう戦術せんじゅつけていった。この経験けいけんにより、かれらはやがて戦争せんそう歴史れきしじょうもっと活躍かつやくもっと成功せいこうした都市とし征服せいふくしゃとなるのである。当時とうじ5000まんにんほどいた中国ちゅうごく人口じんこうが、わずか30ねんおこなわれた調査ちょうさによればやく900まんにんほどになってしまったという。南部なんぶげたひとたちも大勢おおぜいいるがその勢力せいりょくつよさがうかがえる。

 
1214ねん4がつきむちょう皇帝こうていせんむねとの講和こうわによってチンギス・カンのもとにとついでた岐国公主こうしゅ画面がめんひだり馬上もうえ人物じんぶつ)。
 
1215ねん開封かいふうへの遷都せんとめて、モンゴルぐんちゅう包囲ほういする。(『あつまり』パリほん

こうして中国ちゅうごく内地ないちでの野戦やせんでのすうおおくの勝利しょうり若干じゃっかん都市とし攻略こうりゃく成功せいこう結果けっか、チンギス・カンは1213ねんには万里ばんり長城ちょうじょうのはるかみなみまでかね領土りょうど征服せいふく併合へいごうしていた。よく1214ねん、チンギス・カンはかねやくむすんでいったんぐんくが、やく直後ちょくごかねがモンゴルの攻勢こうせいおそれて黄河こうがみなみ開封かいふう首都しゅとうつしたこと背信はいしん行為こういとがめ(あるいは口実こうじつにして)、ふたたきん攻撃こうげきした。1215ねん、モンゴルぐんかね従来じゅうらい首都しゅとつばめきょう現在げんざい北京ぺきん)を包囲ほうい陥落かんらくさせた。のちに後継こうけいしゃオゴデイの時代じだい中国ちゅうごく行政ぎょうせい活躍かつやくする耶律すわえざいは、このときチンギス・カンに見出みいだされてその側近そっきんとなっている。つばめきょうとしたチンギス・カンは、将軍しょうぐんムカリをつばめきょう残留ざんりゅうさせてその華北かほく経営けいえいかねとのたたかいにたらせ、みずからは高原こうげんげた。

西にしりょう・クチュルクへの征服せいふく事業じぎょう

編集へんしゅう

このころ、かつてナイマン部族ぶぞく連合れんごう首長しゅちょういだクチュルク西にしそうして西にしりょう保護ほごされていたが、クチュルクはそれにつけんで西にしりょう最後さいご君主くんしゅ耶律ちょく魯古から王位おうい簒奪さんだつしていた。モンゴル帝国ていこく西にしりょう混乱こんらんをみてクチュルクを追討ついとうしようとしたが、モンゴルぐん主力しゅりょくは、このときまでに西にしなつかねたいする継続けいぞくてき遠征えんせいの10ねんによって疲弊ひへいしていた[よう出典しゅってん]。そこで、チンギス・カンは腹心ふくしん将軍しょうぐんジェベに2まんぐんあたえて先鋒せんぽうたいとしておくみ、クチュルクにたらせた。クチュルクは仏教ぶっきょう改宗かいしゅうして地元じもとムスリム(イスラム教徒きょうと)を抑圧よくあつしていたので、モンゴルのはなった密偵みってい内乱ないらん扇動せんどうするとたちまちその王国おうこく分裂ぶんれつし、ジェベは敵国てきこくおおいにやぶった。クチュルクはカシュガル西にしやぶれ、敗走はいそうしたかれはやがてモンゴルにとらえられ処刑しょけいされて、西にしりょう旧領きゅうりょうはモンゴルに併合へいごうされた。この遠征えんせい成功せいこうにより、1218ねんまでには、モンゴル国家こっか西にしバルハシまで拡大かくだいして、みなみペルシアわん西にしカスピ海かすぴかいたっするイスラム王朝おうちょうホラズム・シャーあさせっすることとなった。

ホラズム・シャーあさへの征服せいふく事業じぎょう

編集へんしゅう

1218ねん、チンギス・カンはホラズム・シャーあさ通商つうしょう使節しせつ派遣はけんしたが、東部とうぶ国境こっきょうせんにあるオトラル統治とうちしゃイネルチュクがよくられかれらを虐殺ぎゃくさつした(ただし、この使節しせつ自体じたい征服せいふく事業じぎょうのための偵察ていさつ挑発ちょうはつ部隊ぶたいだった可能かのうせい指摘してきするせつもある)。その報復ほうふくとしてチンギス・カンは末弟ばっていのテムゲ・オッチギンにモンゴル本土ほんど留守居るすいやくまかせ、みずからジョチ、オゴデイ、チャガタイ、トルイら嫡子ちゃくしたちをふく軍隊ぐんたいひきいて中央ちゅうおうアジア遠征えんせいおこない、1219ねんスィルがわ(シルダリアがわ流域りゅういき到達とうたつした。モンゴル帝国ていこくがわおも資料しりょうにはこのときのチンギス・カンのおやせいぐん全体ぜんたい規模きぼについて、はっきりした数字すうじ記録きろくされていないようだが、20世紀せいき代表だいひょうするロシアの東洋とうよう学者がくしゃワシーリィ・バルトリドは、その規模きぼを15まんから20まんにん推計すいけいしている。モンゴルぐんかね遠征えんせい同様どうようさんかれて中央ちゅうおうアジアを席捲せっけんし、その中心ちゅうしん都市としサマルカンドブハラウルゲンチをことごとく征服せいふくした。モンゴルぐん侵攻しんこうはきわめて計画けいかくてき整然せいぜんすすめられ、抵抗ていこうした都市としせしめに破壊はかいされた。ホラズム・シャーあさはモンゴルぐんまえ各個かっこ撃破げきはされ、1220ねんまでにほぼ崩壊ほうかいした。

 
ホラズム・シャーあさ君主くんしゅスルターン・アラーウッディーン・ムハンマドカスピ海かすぴかい南東なんとうのアーバースクーンとうにて他界たかいする。(『あつまり』パリほん

ホラズム・シャーあさ君主くんしゅアラーウッディーン・ムハンマドはモンゴルぐん追撃ついげきのがれ、はるか西方せいほうったため、チンギス・カンはジェベとスベエデイ追討ついとう派遣はけんした。かれらのぐんイランすすむうちにアラーウッディーンはカスピ海かすぴかいうえとう窮死きゅうしするが、ジェベとスベエデイはそのまま西進せいしんつづけ、カフカスみなみロシアにまでたっした。かれらのぐんキプチャクルーシ諸公しょこうなど途中とちゅうしょ勢力せいりょくぐん次々つぎつぎやぶり、その脅威きょういはヨーロッパにまでつたえられた。

一方いっぽう、チンギス・カンひきいる本隊ほんたいは、アラーウッディーンのアフガニスタンホラーサーン抵抗ていこうつづけていたジャラールッディーン・メングベルディーい、南下なんか開始かいしした。モンゴルぐん各地かくちてきぐんやぶり、ニーシャープールヘラートバルフメルブ(その二度にど復興ふっこうしなかったひゃくまん都市とし)、バーミヤーンといった古代こだいからの大都市だいとしをことごとく破壊はかい住民じゅうみん虐殺ぎゃくさつした。アフガニスタン、ホラーサーン方面ほうめんでのたたかいはいずれも最終さいしゅうてきには勝利しょうりしたものの、苦戦くせんいられる場合ばあいおおかった。とくに、ジャラールッディーンが所領しょりょうガズニーから反撃はんげき直後ちょくごだいだんごとかんのシギ・クトクひきいる3まんぐんがジャラールッディーンぐんによって撃破げきはされたことにはじまり(パルワーンのたたか)、バーミヤーン包囲ほういせんでは司令しれいかんだったチャガタイの嫡子ちゃくしのモエトゥゲンがながけて戦死せんしし、チンギス・カンほんぐんがアフガニスタン遠征えんせいちゅうホラーサーンに駐留ちゅうりゅうしていたトルイのぐんでは、離反りはんした都市とし攻撃こうげきちゅう随伴ずいはんしていたいもうとのトムルンのおっと母方ははかた従兄弟いとこでもあるコンギラト部族ぶぞくのチグウ・キュレゲンが戦死せんしするなど、要所ようしょ手痛ていた反撃はんげき見舞みまわれていた。

アフガニスタン・ホラーサーン方面ほうめんでは、それ以外いがいのモンゴル帝国ていこく征服せいふく戦争せんそうことなり、徹底てっていした破壊はかい虐殺ぎゃくさつおこなわれたが、その理由りゆうは、ホラズム・シャーあさ予定よていがい急速きゅうそく崩壊ほうかいしてしまったために、その追撃ついげきせん十分じゅうぶん情報じょうほう収集しゅうしゅう工作こうさく活動かつどうがない無計画むけいかくなアフガニスタン・ホラーサーン侵攻しんこうにつながり、このため戦況せんきょう泥沼どろぬましたことによるのではないかとする指摘してき近年きんねん、モンゴル帝国ていこく専門せんもんとする杉山すぎやま正明まさあきらによって指摘してきされている[13]

チンギス・カンはジャラールッディーンをインダスがわのほとりまで撃破げきはするが、ジャラールッディーンはインダスがわわたってインドった。寒冷かんれいなモンゴル高原こうげん出身しゅっしんのモンゴルぐん高温こうおん多湿たしつなインドでの作戦さくせん継続けいぞくあきらめ、追撃ついげきって帰路きろについた。チンギス・カンは中央ちゅうおうアジアの北方ほっぽうでジェベ・スベエデイの別働隊べつどうたい合流ごうりゅうし、1225ねんになってようやく帰国きこくした。

最後さいご遠征えんせい

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西にしなつへの懲罰ちょうばつ遠征えんせい

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西にしせいからかえったチンギス・カンは広大こうだいになった領地りょうち分割ぶんかつし、ジョチには南西なんせいシベリアからみなみロシアのまで将来しょうらい征服せいふくしうるすべての土地とちを、次男じなんのチャガタイには中央ちゅうおうアジアの西にしりょうを、三男さんなんのオゴデイには西にしモンゴルおよびジュンガリア支配しはいけんあたえた。末子まっしのトルイにはその時点じてんではなにあたえられないが、チンギス・カンの死後しご末子まっし相続そうぞくにより本拠地ほんきょちモンゴル高原こうげんあたえられることになっていた。しかし、カン後継こうけいしゃには温厚おんこう三男さんなんのオゴデイを指名しめいしていたとされる。

これよりまえ以前いぜん臣下しんかとなっていた西にしなつ皇帝こうていは、ホラズム遠征えんせいたいする援軍えんぐん拒否きょひしていたが、そのうえチンギス・カンがイランにいるあいだに、きむとのあいだにモンゴルに反抗はんこうする同盟どうめいむすんでいた。遠征えんせいからかえってきたチンギス・カンはこれをり、ほとんどやすあいだもなく西にしなつたいする懲罰ちょうばつ遠征えんせい決意けついした。1ねん休息きゅうそく軍隊ぐんたいさい編成へんせいのち、チンギス・カンはふたたたたかいにとりかかった。

1226ねんはじめ、モンゴルぐん西にしなつ侵攻しんこうし、西にしなつしょしろ次々つぎつぎ攻略こうりゃくふゆには凍結とうけつした黄河こうがえて首都しゅときょうけい現在げんざい銀川ぎんかわ)よりみなみ都市としれいしゅうまでも包囲ほういした。西にしなつれいしゅう救援きゅうえんのためぐんおくり、黄河こうが岸辺きしべでモンゴルぐんむかったが、西にしなつぐんは30まん以上いじょうようしていたにもかかわらずやぶれ、ここに西にしなつ事実じじつじょう壊滅かいめつした。

崩御ほうぎょ

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1227ねん、チンギス・カンはきょうけい攻略こうりゃくぜんぐん一部いちぶのこし、オゴデイをひがし黄河こうがわたらせて陝西せんせい河南かなんかねりょうおかさせた。みずからはのこ部隊ぶたいとともにしょ都市とし攻略こうりゃくしたのちきょうけいはなれて南東なんとう方向ほうこうすすんだ。『あつまり』によれば、みなみそうとの国境こっきょう、すなわち四川しせん方面ほうめんかったという。同年どうねんなつ、チンギス・カンは夏期かき避暑ひしょのためろくばんやま本営ほんえいめ、ここでかれ西にしなつ降伏ごうぶくれたが、かねからもうまれた和平わへい拒否きょひした。

ところがこのとき、チンギス・カンは陣中じんちゅう危篤きとくおちいった。このためモンゴルぐん本隊ほんたいはモンゴルへの帰途きといたが、西暦せいれき1227ねん8がつ18にち、チンギス・カンは陣中じんちゅう崩御ほうぎょした[4]。『もと』などによると、モンゴル高原こうげんおこり輦谷ほうむられた[14]。これ以後いご大元おおもとウルス末期まっきまで歴代れきだいのモンゴル皇帝こうていはこのおこり輦谷へほうむられた。

かれゆか西にしなつ皇帝こうていらえてころすようめいじ、また末子まっしのトルイにかね完全かんぜんほろぼす計画けいかくをいいのこしたという。チンギス・カンは一代いちだい膨張ぼうちょうつづける広大こうだい帝国ていこくつくり、その崩御ほうぎょには世界せかい最大さいだい領土りょうど帝国ていこく成長せいちょうする基礎きそのこされた。

陵墓りょうぼ祭祀さいし

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チンギス・カンの崩御ほうぎょ、その遺骸いがいはモンゴル高原こうげん故郷こきょうへとかえった。『もと』などの記述きじゅつから、チンギスと歴代れきだいのハーンたちの埋葬まいそうはある地域ちいきにまとまっていとなまれたとられているが、その位置いち重要じゅうよう機密きみつとされ、『東方とうほう見聞けんぶんろく』によればチンギスの遺体いたいはこ隊列たいれつたものは秘密ひみつ保持ほじのためにひとのみならず動物どうぶつまでもすべころされたという。また、埋葬まいそうされたのちはその痕跡こんせきすためにいちせんとううまはしらせ、一帯いったい地面じめん完全かんぜんかためさせたとされる。チンギスは崩御ほうぎょ間際まぎわ自分じぶん世間せけんられればただちに敵国てきこくめてくるおそれがあるとかんがえ、自分じぶんけっして公表こうひょうしないよう家臣かしんたち遺言ゆいごんしたとわれている。

チンギス・カンの祭祀さいしは、埋葬まいそうではなく、生前せいぜんのチンギスの宮廷きゅうていだった四大しだいオルドでそのままおこなわれた。四大しだいオルドの霊廟れいびょう陵墓りょうぼからほどとおくない場所ばしょとばりまくゲル)としてしつらえられ、チンギス生前せいぜんよんだいオルドの領民りょうみんがそのまま霊廟れいびょう奉仕ほうしする領民りょうみんとなった。もとから北元きたもと時代じだいにはすすむおう称号しょうごう王族おうぞくよんだいオルドの管理かんりけんち、祭祀さいし主催しゅさいした。15世紀せいきのモンゴルの騒乱そうらんすすむおう南方なんぽうのがれ、よんだいオルドも黄河こうが屈曲くっきょくうつされた。こうしてみなみうつったよんだいオルドのみんオルドス部族ぶぞくばれるようになり、現在げんざいはこの地方ちほうオルドス地方ちほうばれる。オルドスの人々ひとびとによってたもたれたチンギス・カンびょうはいつしか8ちょうのゲルからなるようになり、八白はっぱくしつ(ナイマン・チャガン・ゲル)とばれた。

一方いっぽう、チンギス・カンの遺骸いがい埋葬まいそうされた本来ほんらい陵墓りょうぼ八白はっぱくしつみなみ遷とともに完全かんぜんわすられてしまい、その位置いちながらく世界せかい史上しじょうなぞとされてきた。現在げんざい中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく内モンゴル自治うちもんごるじち全国ぜんこく重点じゅうてん文物ぶんぶつ保護ほご単位たんいであるオルドス成吉せいきちおもえあせりょう中国語ちゅうごくごばんウランホト成吉せいきちおもえあせびょう中国語ちゅうごくごばんがあるが、前者ぜんしゃは1950年代ねんだい移動いどうかさねていた八白はっぱくしつうちモンゴルにもどして固定こてい施設しせつ変更へんこうして中国ちゅうごく政府せいふ建設けんせつしたもので、後者こうしゃは1940年代ねんだい当時とうじ満州まんしゅうこくてられたものであり、この場所ばしょやその近辺きんぺんにチンギスがほうむられているわけではない。

冷戦れいせん終結しゅうけつしてモンゴルへの容易よういになった1990年代ねんだい以降いこう各国かっこく調査ちょうさたいはチンギス・カンのはかさがしをおこない、様々さまざま比定ひてい提示ていじしてきた。しかしモンゴルではることをきら風習ふうしゅう民族みんぞく英雄えいゆうであるチンギス・カンの神聖しんせいされるはか外国がいこくじん発掘はっくつされることからこれに不満ふまんひとおおいという。

2004ねん日本にっぽん調査ちょうさたいは、モンゴルの首都しゅとであるウランバートルからひがしへ250キロのヘルレンかわ(ケルレンがわ沿いの草原そうげん地帯ちたいにあるチンギス・カンのオルドあととみられるアウラガ遺跡いせき調査ちょうさおこない、この13世紀せいきにチンギス・カンの霊廟れいびょうとしてもちいられていたことをあきらかにした。調査ちょうさたいはチンギス・カンの墳墓ふんぼもこのちかくにある可能かのうせいたかいと報告ほうこくしたが、モンゴルじん感情かんじょう配慮はいりょし、はか捜索そうさく発掘はっくつおこなうつもりはないという。

シカゴ大学だいがくジョン・ウッズ英語えいごばん教授きょうじゅも2001ねんにヘンティー山脈さんみゃく丘陵きゅうりょうにおいて、たかやく2.7~3.6メートルの石積いしつみのかべ断続だんぞくてきやく3.2キロつづ遺構いこう確認かくにん、『元朝がんちょう秘史ひし』にある「れん勒古(クレルグ)」に比定ひていし、チンギス・カンはじめモンゴル王族おうぞく元朝がんちょう皇帝こうてい)の陵墓りょうぼである可能かのうせいたかいと示唆しさするが、発掘はっくつ調査ちょうさにはいたっていない。

また2009ねん中国ちゅうごく大連たいれん在住ざいじゅうのチンギス・カンの末裔まつえいとされる80さい女性じょせいが「チンギス・カン陵墓りょうぼ現在げんざい四川しせんしょうカンゼ・チベットぞく自治じちしゅうにあることは、末裔まつえい一族いちぞくつたわる秘密ひみつであった」と発表はっぴょうし、現地げんち調査ちょうさでも証言しょうげん一致いっちする洞窟どうくつ確認かくにんされたため、中国ちゅうごく政府せいふ調査ちょうさ開始かいしした[15]

2015ねん、チンギス・カンの墳墓ふんぼ周辺しゅうへんにあるとされるブルカン・カルドゥン世界せかい遺産いさんとなった。

 
モンゴル帝国ていこく

モンゴル帝国ていこくのもとではチンギス・カンとそのおとうとたちの子孫しそんは、「黄金おうごん氏族しぞく(アルタン・ウルク)」とばれ、ノヤンとばれる一般いっぱん貴族きぞくたちよりもいちそうじょう君主くんしゅとして君臨くんりんする社会しゃかい集団しゅうだんになった。またモンゴル帝国ていこくのもとでは遊牧民ゆうぼくみん固有こゆう男系だんけい血統けっとう原理げんりつらぬかれ、チンギス・カンの男系だんけい子孫しそんしかカンやカアン(モンゴル皇帝こうてい)に即位そくいすることができないとする原則げんそくチンギスすべ原理げんり)がひろれられるようになった。

13世紀せいき後半こうはんに、モンゴル帝国ていこく西にしはんでジョチ、チャガタイ、トルイの子孫しそんたちはジョチ・ウルスチャガタイ・ハンこくイルハンあさなどの政権せいけん形成けいせいしていくが、これらの王朝おうちょうでもチンギスすべ原理げんり根付ねつき、チンギスの後裔こうえいたっとばれた。

チンギスすべ原理げんりはその中央ちゅうおうユーラシアの各地かくちながのこり、18世紀せいきころまでチンギス裔でありながら代々だいだいハーンを名乗なのった王朝おうちょうはわずかな例外れいがいしかあらわれなかった。そとモンゴルとうちモンゴルやカザフでは、20世紀せいき初頭しょとうまで貴族きぞく階層かいそうのほとんどがチンギス・カンの男系だんけい子孫しそんによってめられていたほどであり、現在げんざいもチンギス裔として記憶きおくされている家系かけい非常ひじょうおおい。

こうしたチンギス裔の尊崇そんすうくわえ、チンギス裔の貴族きぞくたちも代々だいだいチンギス・カンむすめつうこんしたので、チンギス裔ではなくともおおくの遊牧民ゆうぼくみん女系じょけいつうじてチンギス・カンのいていた。また、チンギスの女系じょけい子孫しそんはジョチ・ウルスの貴族きぞくそうとロシア貴族きぞくつうこん、ロシア貴族きぞくとヨーロッパ貴族きぞくつうこんつうじてヨーロッパにおよんでいるという。

オクスフォード大学だいがくのY染色せんしょくたい調査ちょうさ研究けんきゅう

編集へんしゅう

2004ねんオクスフォード大学だいがく遺伝いでんがく研究けんきゅうチームは、DNA解析かいせき結果けっか、チンギス・カンが世界中せかいじゅうでもっとも子孫しそんおおのこした人物じんぶつであるという結論けつろん発表はっぴょうした。ウランバートルせい研究所けんきゅうじょとの協力きょうりょくによるサンプル採取さいしゅ解析かいせき結果けっかかれらによれば、モンゴルからきた中国ちゅうごくにかけての地域ちいき男性だんせいの8%、およそ1300まんにん共通きょうつうするY染色せんしょくたいハプロタイプが検知けんち出来できたという。この特徴とくちょうゆうする地域ちいき中東ちゅうとうから中央ちゅうおうアジアまでひろ分布ぶんぷし、現在げんざいまでにそのY染色せんしょくたいいでいる人物じんぶつ、すなわち男系だんけい子孫しそん1600まんにんにのぼるとされる。研究けんきゅうチームはこの特有とくゆうのY染色せんしょくたい拡散かくさん原因げんいんつくった人物じんぶつは、モンゴル帝国ていこく創始そうししゃチンギス・カンであると推測すいそくしており、この解析かいせきでマーカーとされた遺伝子いでんしは、突然変異とつぜんへんい頻度ひんどもとづく分子ぶんし時計とけい推計すいけい計算けいさんにより、チンギス・カンのすう世代せだいまえ以内いない突然変異とつぜんへんいによってしょうじた遺伝子いでんしである可能かのうせいたかいという仮説かせつ発表はっぴょうした([1][2][16]

この研究けんきゅう主導しゅどうしたひとりクリス・テイラー=スミス Chris Tyler-Smith は、チンギス・カンのものと断定だんていする根拠こんきょとして、このY染色せんしょくたい調査ちょうさおこなった地域ちいきのひとつ、ハザーラじんやパキスタン北部ほくぶフンザれいをあげている。フンザではチンギス・カンをみずからの先祖せんぞとする伝説でんせつがあり、この地域ちいきはY染色せんしょくたい検出けんしゅつとくおおかったという。さらに、かれ東洋とうよう比較的ひかくてき短期間たんきかん特定とくていのY染色せんしょくたい人々ひとびとひろがった根拠こんきょとして、これらの地域ちいき貴族きぞく階級かいきゅうでは一夫多妻いっぷたさいせい一般いっぱんてきであり、この婚姻こんいん習慣しゅうかんはある意味いみで、生殖せいしょく戦略せんりゃくとしてすぐれていたためではないか、とべている。

しかしながら、この論説ろんせつたいしては批判ひはんもあり、とく集団しゅうだん遺伝いでんがくものスタンフォード大学だいがくルイジ・ルーカ・カヴァッリ=スフォルツァは、Y染色せんしょくたい広範こうはん分布ぶんぷについて、共通きょうつう先祖せんぞ想定そうていすることには同意どうい出来できるものの、これを歴史れきしじょうのある特定とくてい人物じんぶつ子孫しそんであると特定とくていするには正確せいかくさをいている、として異議いぎとなえている。さらに、分布ぶんぷ状況じょうきょう一夫多妻いっぷたさいせい原因げんいんしているとするテイラー=スミスの見方みかたたいしても、「あまりに短絡たんらくてきかつ扇情せんじょうてき」であるとして非難ひなんしている[17]。(どう研究けんきゅうグループは同様どうようべつ研究けんきゅうで、ひがしアジアの男性だんせいやく1000にんのうち3.3%にあらわれた特定とくていのY染色せんしょくたいについて、その共通きょうつう祖先そせん清朝せいちょう初代しょだい皇帝こうていヌルハチ祖父そふギオチャンガ比定ひていしているが、カヴァッリ=スフォルツァはこの断定だんていにも同様どうよう根拠こんきょ薄弱はくじゃくであるという理由りゆう異議いぎとなえている)

オックスフォード・アンセスターズの遺伝いでん学者がくしゃブライアン・サイクス研究けんきゅう発表はっぴょうされた2003ねん出版しゅっぱんした著書ちょしょ『アダムののろい』で上記じょうき研究けんきゅう紹介しょうかいしているが、「状況じょうきょう証拠しょうこ有力ゆうりょくだが、残念ざんねんながら証明しょうめいはできない」としながらも、検出けんしゅつされたY染色せんしょくたいについてチンギス・カンのものであるとほぼ断定だんていしている。同氏どうし人類じんるい繁殖はんしょく拡大かくだいにはY染色せんしょくたいによる男性だんせい暴力ぼうりょくてき性格せいかく支配しはいよく密接みっせつ関係かんけいしているとする見解けんかいっており、チンギス・カンにたいする人物じんぶつひょうについても「チンギスハーン本人ほんにんが、みずからのY染色せんしょくたい野心やしんによってうごかされ、せんでも寝床ねどこでも、勝利しょうりすることになった」という見方みかたをしている[18]。だが同氏どうし見解けんかいのとおりだと、英国えいこくにも一定いってい頻度ひんど同様どうようのY染色せんしょくたいキャリアがいることについて説明せつめい出来できない、との反論はんろんがある[19]

ケンブリッジ サンガー研究所けんきゅうじょのアジアじん起源きげん研究けんきゅう

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大手おおて遺伝子いでんし研究所けんきゅうじょであるケンブリッジ サンガー研究所けんきゅうじょのカーシム・アユブ博士はかせ(Qasim Ayub, PhD Sanger Institute,CAMBRIDGE) らはアジアじん起源きげんについて研究けんきゅうしていた。 アジア全域ぜんいきからあつめられた2000にん以上いじょう男性だんせい血液けつえきサンプルを採取さいしゅしDNAを抽出ちゅうしゅつ分析ぶんせき結果けっか対象たいしょうサンプルのおおくがある同一どういつ家系かけいぞくしていることが判明はんめいした。 対象たいしょうの8%にほぼ同一どういつマイクロサテライト(DNAのみじか配列はいれつかえし)がられた。 かんがえられるのはかれらにはおなじDNAを共通きょうつう祖先そせんがいるということ。 その祖先そせんがどの時代じだい人物じんぶつかをすと、およそ1000ねんまえで、さらにその遺伝子いでんし発祥はっしょうはモンゴルであることも判明はんめいした。 モンゴルで同一どういつ遺伝子いでんし集団しゅうだんおおられたこと、また時代じだい考慮こうりょすると、その祖先そせんとはチンギス・カンである可能かのうせいたかいという。世界せかいの3200まんにんがその遺伝子いでんしいでいると結論けつろんづけた。

評価ひょうか

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チンギス・カンがえがかれたコイン

このようにモンゴルの建国けんこく英雄えいゆうとしてとなえられるチンギス・カンだが、社会しゃかい主義しゅぎ時代じだいのモンゴル人民じんみん共和きょうわこくでは侵略しんりゃくしゃとして記述きじゅつされることがあった。

モンゴル人民じんみん共和きょうわこくスフバートルダンザンボドーチョイバルサンドクソム英語えいごばん、チンギス・カンの直系ちょっけい子孫しそんであるモンゴル学者がくしゃビャムビーン・リンチェン英語えいごばん王侯おうこうナヴァーンネレン中国語ちゅうごくごばんひとしのモンゴル民族みんぞく主義しゅぎしゃ構成こうせいされたモンゴル人民じんみんとうのちモンゴル人民じんみん革命かくめいとう)がソビエト連邦れんぽう赤軍せきぐん支援しえんけて独立どくりつさせた国家こっかであり、建国けんこくつねソ連それん東側ひがしがわ陣営じんえいぞくする衛星えいせいこくだったが、当初とうしょリンチノ英語えいごばんひろしモンゴル主義しゅぎものかかえていることから革命かくめいのためにチンギス・カンを政治せいじてき利用りようさせた。1960年代ねんだいにはトゥムルオチル英語えいごばん政治せいじ局員きょくいんらがチンギス・カンの生誕せいたん800周年しゅうねんいわい、チンギス・カンの研究けんきゅうしゃあつめたシンポジウムひらいて切手きって発行はっこうされ、チンギス・カンの故郷こきょうとされたダダルぐん記念きねん建設けんせつされた[20]1962ねんにトゥムルオチル政治せいじ局員きょくいんのライバルだった当時とうじ首相しゅしょうツェデンバルは、ちゅう対立たいりつとこの祝賀しゅくがにトゥムルオチルを「民族みんぞく偏向へんこう主義しゅぎしゃ」「中国ちゅうごくり」であるということで追放ついほうした[21]以後いごチンギス・カンは批判ひはんされていった。モンゴルでの民主みんしゅすすむと、かつては栄光えいこういろどられた自国じこく歴史れきしさい認識にんしきしようとするうごきが急速きゅうそくつよまった。そして、新生しんせいモンゴルこくではチンギス・カンがふたた称賛しょうさんされ、モンゴルの紙幣しへいトゥグルグでもスフバートルとともにチンギス・カンの肖像しょうぞうもちいられ、かつてスフバートルびょうがあったモンゴル政府せいふ宮殿きゅうでんまえには改装かいそうさいにチンギス・カンの銅像どうぞうてられて大統領だいとうりょう就任しゅうにん宣誓せんせいおこなわれている。

また、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくでもチンギス・カンの生誕せいたん800周年しゅうねんウランフしゅう恩来おんらい後押あとお[22]建設けんせつされたオルドス成吉せいきちおもえあせりょう盛大せいだいいわわれ[23]、チンギス・カンが死去しきょした場所ばしょとされるろくばんやますずか殿どのかい中国語ちゅうごくごばん保護ほごとなっている[24]日本にっぽんぐん占領せんりょうバトマラプタンボヤンマンダフまつおう後押あとおしによっててられたウランホト成吉せいきちおもえあせびょうもむしろ革命かくめいてきなシンボルとして政府せいふ資金しきん改修かいしゅうなどがされており[25]歴史れきしげきとしてチンギス・カンの子孫しそん[26][27]であるモンゴルぞく俳優はいゆうバーサンジャブ主演しゅえんえたテレビドラマ「チンギス・ハーン」や映画えいが制作せいさくされて内モンゴル自治うちもんごるじちではチンギス・ハーン鎮中国語ちゅうごくごばんなどの地名ちめいやチンギス・カンのぞうがあり、モンゴルを訪問ほうもんしたさい習近ひらたのような中国ちゅうごく指導しどうしゃはチンギス・カンぞうあたまげて敬意けいいあらわ[28][29]中国ちゅうごく国内こくないではチンギス・カンの肖像しょうぞうみつけるといった行為こうい年少ねんしょうしゃでも民族みんぞく英雄えいゆう侮辱ぶじょくしたつみ逮捕たいほ実刑じっけいけているが[30][31][32]、あくまで中国ちゅうごく政府せいふ主張しゅちょうする「中華ちゅうか民族みんぞく英雄えいゆう[33][34]としての崇拝すうはいみとめられており、人権じんけん活動かつどううちモンゴル独立どくりつ運動うんどういえハダとモンゴルぞく若者わかものあつまってチンギス・カンの肖像しょうぞうかかげてモンゴルのうた放吟ほうぎんすると「国家こっか分裂ぶんれつ扇動せんどう」「スパイ活動かつどう」として逮捕たいほ拘禁こうきんされている[35][36]

宗室そうしつ

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しゅう』チンギス・ハンによると、だいハトゥンとばれるさい上位じょういが5にんいたことがべられ、『もと』ではだいオルドを監督かんとくする4にん皇后こうごうもとに30にんたちがかれていたことべる。イルハンあさティムールあさ時代じだい資料しりょう準拠じゅんきょ漢字かんじ表記ひょうきは『もと』「后妃こうひひょう」による。

父母ちちはは兄弟きょうだい

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  • ちち イェスゲイ
  • はは ホエルン
    • おとうと ジョチ・カサル
    • さんおとうと カチウン
    • よんおとうと テムゲ・オッチギン
    • 異母弟いぼてい ベルグテイ・ノヤン
      元朝がんちょう秘史ひし』ではジョチ・カサルのしたにもう一人ひとりベグテルという、ベルグテイの同母どうぼけいおぼしきおとうとがいたが、イェスゲイぼつ貧窮ひんきゅういさかいをこし、このベグテルをテムジンはジョチ・カサルとはかって射殺しゃさつしたため、これをったははホエルンはテムジンとジョチ・カサルを憤怒ふんぬして叱責しっせきしたという。この逸話いつわは『元朝がんちょう秘史ひし』とその系統けいとう資料しりょうにのみあらわれ、『あつまり』『もと』『ひじりたけししんせいろく』など資料しりょうにはっていないため、ベグテルの存在そんざいそのものはうたがわしいとかんがえられている。
    • いもうと テムルン - コンギラト部族ぶぞく一派いっぱイキレス氏族しぞく首長しゅちょうブトゥ・キュレゲンとつ

チンギスの皇后こうごうのうち、だいハトゥンは5にんいたとし、ボルテだい1クランだい2、イェスゲンをだい3公主こうしゅハトゥン (كونجو خاتون Kūnjū Khātūn) こと岐国公主こうしゅだい4、イェスルン(イェスイ)をだい5とする。一方いっぽう、『もと』「后妃こうひひょう」によると、ボルテ、クラン、イェスイ(イェスルン)、イェスゲンはそれぞれだいオルド、だいオルド、だいさんオルド、だいよんオルドを管轄かんかつしていたという。

だいオルド

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  • ボルテ・ウジン(孛児だいあさひしんふとし皇后こうごうコンギラト部族ぶぞくデイ・セチェンのむすめせいみや 孛剌あい皇后こうごう
    • ゆるがせ魯渾皇后こうごう
    • 闊里桀皇后こうごう
    • だつゆるがせおもえ皇后こうごう
    • じょうりん皇后こうごう
    • また憐真はち皇后こうごう

だいオルド

編集へんしゅう
  • クランゆるがせらん皇后こうごうウハズ・メルキト部族ぶぞくちょうダイル・ウスンのむすめ
    • 哈児はち皇后こうごう
    • また乞剌皇后こうごう
    • だつゆるがせちゃ皇后こうごう
    • 也真
    • 也里ゆるがせ禿かぶろ
    • 察真
    • 哈剌しん

だいさんオルド

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  • イェスルン(イェスイ 也速皇后こうごう) トトクリウト・タタル部族ぶぞく出身しゅっしん。イェスゲンのあね
    • ゆるがせ魯哈剌皇后こうごう
    • おもねしつりん皇后こうごう
    • 禿かぶろ哈剌皇后こうごう
    • 察児皇后こうごう
    • おもねむかし迷失皇后こうごう
    • かんしゃゆるがせ皇后こうごう
    • 渾魯ゆるがせ歹妃
    • ゆるがせ魯灰
    • 剌伯
  • 岐国公主こうしゅ かねあさ皇帝こうていまもる紹王むすめ

だいよんオルド

編集へんしゅう
  • イェスゲン(也速皇后こうごう) トトクリウト・タタル部族ぶぞく出身しゅっしん。イェスルンのいもうと
    • ゆるがせこたえ皇后こうごう
    • 哈答皇后こうごう
    • 斡者ゆるがせおもえ皇后こうごう
    • つばめさと皇后こうごう
    • 禿かぶろ
    • かんしゃ
    • きむれん
    • かんしゃだい
    • やつりん
    • しん
    • くさりろう哈妃
    • はちべつ及妃

あつまり』チンギス・ハン后妃こうひひょうには5にんだいハトゥン以外いがいおも后妃こうひ側室そくしつ(クマ Quma)について記録きろくされている。

  • ベクトゥトミシュ・フジン ケレイトのジャガ・ガンボのむすめトルイソルコクタニ・ベキらの姉妹しまい
  • グルベス・ハトゥン ナイマン部族ぶぞく連合れんごう首長しゅちょうタヤン・カンだいいちハトゥンだった人物じんぶつ
  • チャク・ハトゥン 西にしなつ皇帝こうていむすめ
    • 氏名しめい不明ふめい ナイマン出身しゅっしん。ジョルチダイのはは

しゅう』ではボルテとのあいだもうけたよんなんじょほか男女だんじょすうにん記録きろくするが、『もと』では「ろく」とする。これらのおおくの男子だんしのうち、 クビライ時代じだい以降いこう存続そんぞくしたことが確認かくにんできるのは、ジョチ、チャガタイ、オゴデイ、トルイ、コルゲンの5系統けいとうのみである(『あつまり』チンギス・ハン、『もと宗室そうしつけいひょうほか、『ぞく』や『高貴こうき系譜けいふ』、『南村なんそん輟耕ろく』などのモンゴル時代じだい以降いこう系譜けいふ資料しりょうもとづく)。

  • ジョチ はは ボルテ
  • チャガタイ はは ボルテ
  • オゴデイ はは ボルテ
  • トルイ はは ボルテ
  • コルゲンつぎろく 闊列けん太子たいしはは クラン
  • チャウル はは イェスゲン
  • ジョルチダイ
  • ウルジュカン(つぎ 兀魯あか嗣)
  • 氏名しめい不明ふめい はは タタル部族ぶぞく出身しゅっしん側室そくしつ

チンギスについて

編集へんしゅう

「チンギス・カン」とはテムジンが即位そくいさいにコンゴタンぞく出身しゅっしんテブ・テングリ(ココチュ)というシャーマンからあたえられた称号しょうごうであるが、その意味いみについては諸説しょせつある。

しゅう部族ぶぞくへんオロナウトぞくこうには、

「チンク čīnk」は「強固きょうこな」という意味いみであり、「チンギス čīnkkīz」はその複数ふくすうがたである。この称号しょうごうった理由りゆう以下いかのとおりである。当時とうじカラ・キタイ Qarā Ḫitāyのだい帝王ていおう称号しょうごうは「グル・カン kūr ḫān」であり、グル kūrの意味いみおなじく「強固きょうこな」であり、おう非常ひじょう強大きょうだいでないかぎり、グル・カン kūr ḫānとばれなかった。モンゴルで「チンギス čīnkkīz」は「グル kūr」とおな意味いみつが、よりおおげさで、複数ふくすうがたでもあるため、このかたりをつけることは、たとえばペルシアでシャハンシャー šahanšāh(おうなかおう)というのとおなじであった。 — 『しゅう部族ぶぞくへんオロナウトぞくこう

[37]

とあり、『こうむ源流げんりゅう』には

五色ごしきみずとり毎朝まいあさテムジンの天幕てんまくまえいしうえとどまって、「チンギス、チンギス」といたことから名付なづけた — 『こうむ源流げんりゅう

とあり、ブリヤト・モンゴルじん学者がくしゃドルジ・バンザロフは「これはシャーマンのあいだとなえられているひかり精霊せいれいのHaǰir Činggis Tenggeriという言葉ことばからたに相違そういない」とし、ポール・ペリオテュルクのdenggiz(うみみずうみ)というかたり比定ひていし、「うみ精霊せいれい」をしたものであろうとした。[38]

カンとカアンについて

編集へんしゅう

チンギス・カンの呼称こしょうは、歴史れきしてきて「チンギス・カンけいと「チンギス・カアンけいの2種類しゅるい大別たいべつ出来できる。

「チンギス・カン」けい資料しりょう

編集へんしゅう

本来ほんらい、13 - 14世紀せいき当時とうじ中期ちゅうきモンゴルでは「チンギス・カン」 (Činggis Qan) としょうしていたことがどう時代じだい資料しりょう調査ちょうさからかっている。

これは、当時とうじのウイグル文字もじモンゴルではイェスンゲきのいさおなどでも CYNKKYZ Q'N (Činggis Qan) とかれ、だい5だいモンゴル皇帝こうていクビライだいもとウルスで開発かいはつされたパスパ文字もじによるモンゴル皇帝こうてい聖旨せいし碑文ひぶんでも ǰiṅ-gis qa-nu とある[39]

また13世紀せいきのアラビア・ペルシア年代ねんだいでは、イブン・アル=アスィールの『かん (al-Kāmil fī al-Ta'rīkh) 』(1231ねん成立せいりつ)やシハーブッディーン・ムハンマド・ナサウィーの『ジャラールッディーンつて (Sīrat al-Sulṭān Jalāl al-Dīn Mankubirtī) 』(1240年代ねんだい初頭しょとう成立せいりつ)、ジューズジャーニーの『ナースィル史話しわ (Tabaqāt-i Nāṣirī) 』(1260ねん成立せいりつ)といったモンゴル帝国ていこくがい成立せいりつした資料しりょうでは جنكيز خان Jinkīz Khān (ペルシア資料しりょう刊本かんぽんでは現在げんざいペルシア文字もじの چ č/ch や گ g がおぎなわれて چنگيز خان Chingīz Khān )などと表記ひょうきされており、モンゴル帝国ていこくがわ資料しりょうえるジュヴァイニーの『世界せかい征服せいふくしゃ歴史れきし』(1260ねん成立せいりつ)でもやはり چنگيز خان Chingīz Khān などとなっている。ラシードゥッディーンの『しゅう』(1314ねん成立せいりつ)では編者へんしゃのラシード在世ざいせいちゅう書写しょしゃされた紀年きねん(1317ねん書写しょしゃ)を現存げんそん最古さいこ写本しゃほん、いわゆる「イスタンブールほん」(Revân köşkü No. 1518)では、(ウイグル文字もじでのつづりを反映はんえいしているとおもわれるが) چينككيز خان Chīnkkīz Khān とあって同書どうしょでは「チンギス・カン」は一貫いっかんしてこのつづりをもちいている。このように13 - 14世紀せいきのモンゴル帝国ていこく内外ないがいのアラビア・ペルシア文献ぶんけんではチンギス・カンの「カン」 (Qan) の部分ぶぶんは、従来じゅうらいからあったテュルクχかいan (ハン)のアラビア文字もじ転写てんしゃである خان khān をもちいた。

「チンギス・カアン」けい資料しりょう

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一方いっぽうで、後代こうだいのモンゴル文献ぶんけんでは「チンギス・カアン」 (Činggis Qa'an/Činggis Qaγがんまan) といういいかたもされている。

17世紀せいき初頭しょとう成立せいりつした『アルタン・ハーンつたえ』などでは、「チンギス・カアン」 (CYNKKYZ Q'Q'N /Činggis Qaγがんまan) のつづりで表記ひょうきされ、サガン・セチェンこうむ源流げんりゅう』や『アルタン・トプチ』などの代表だいひょうてき近代きんだい以降いこうのモンゴル年代ねんだいでも同様どうよう表記ひょうきされている。現存げんそん最古さいこのモンゴルによる歴史れきししょ文献ぶんけん明代あきよはいって最終さいしゅうてき編纂へんさんをみるひろしたけかんじゅうかんほん元朝がんちょう秘史ひし』でも「成吉せいきちおもえ罕」 (Činggis Qahan) となっており、現存げんそんの『元朝がんちょう秘史ひし』は明代あきよのものだが、14世紀せいきまつの「チンギス・カアン」けい資料しりょうである。

「チンギス・カン」と「チンギス・カアン」の対立たいりつ

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「カン」と「カアン」のちがいについてだが、ハーン項目こうもくでもべられているように、「カアン」 (Qa'an/Qaγがんまan) は、一般いっぱんてきな「おう」や「君主くんしゅ」を意味いみする「カン」 (Qan) をしのぐ「皇帝こうてい」の意味いみとして、だい2だい皇帝こうていオゴデイによって古代こだいの「カガン」 (Qaγがんまan) の称号しょうごう復活ふっかつさせてもちいられたとかんがえられており、だい4だいモンケ、だい5だいクビライによってモンゴル皇帝こうてい称号しょうごうとして定着ていちゃくした。

13 - 14世紀せいきにモンゴル帝国ていこくがわ資料しりょうで「チンギス・カアン」 (Činggis Qa'an/Činggis Qaγがんまan) とれいは、皆無かいむではないが筆記ひっきしゃによる間違まちがいなどの可能かのうせいもあるレベルで、一般いっぱんてきではなかったようである。

たとえば、大元おおもとウルスでの場合ばあい少林寺しょうりんじこうむかんあい璧聖むねれいげると、タツねんいたりもと5ねんつちのえたつ1268ねん正月しょうがつ25にち紀年きねんつウイグル文字もじモンゴルによるクビライの聖旨せいし碑文ひぶんには、チンギスは CYNKKYZ X'N/Činggis Qan とかれ、オゴデイはたんに X'X'N/Qaγがんまan〜Qa'an とかれている。およそはん世紀せいきのちのネズミねんすめらぎけい元年がんねんみずのえ1318ねん)3がつ13にち紀年きねんのあるおな碑石ひせきこくされたひとしむねアユルバルワダによる聖旨せいしでも、チンギスは「チンギス・カンの」 ǰiṅ -gis qa-nu/ǰiṅgis qa-nu 、オゴデイは「オゴデイ・カアンの」 "ö-kˋö-däḙ q·a-nu/Öködeï Qa'an-u 、クビライは尊号そんごうである「セチェン・カアンの」 sä-čän q·a-nu/Sečen Qa'an-u でばれており、つづなりむねテムルおなじく尊号そんごうの「オルジェイトゥ・カアンの」 "öˆl-ǰäḙ-tˋu q·a-nu/Öˆlǰeïtü Qa'an-u、たけはじめカイシャン尊号そんごうの「クルグ・カアンの」kˋü-lug q·a-nu/Qa'an-u とあって、チンギスのみ「カン」 (Qan) の称号しょうごうのまま使つかわれており、オゴデイ以下いか区別くべつがされている[39]

 
グユクのインノケンティウス4せいあて国書こくしょ。15ぎょうに「チンギス・カンと(オゴデイ・)カアン ( جنكيز خان و قاان Jinkīz Khān wa Qā'ān) 」とかれている。(日本語にほんごやく[40])(ペルシアバチカン図書館としょかんくら

イルハンあさでも上述じょうじゅつとおり、チンギスは『世界せかい征服せいふくしゃ歴史れきし』などの جنكيز خان Jinkīz Khān (または چنگيز خان Chigīz Khān)あるいは『あつまり』のような چينككيز خان Chīnkkīz Khān とかれている。オゴデイは「オゴデイ・カアン」 اوكتاى قاآن Ūktāī Qā'ān、クビライは「クビライ・カアン」 قوبيلاى قاآن Qūbīlāī Qā'ān となっている。しかしながらたとえばチンギス・カアン جنكيز قاآن Jinkīz Qā'ān のような表記ひょうきをされた資料しりょうはイルハンあさ以降いこうられない。このような جنكيز خان Jinkīz Khān と(オゴデイ・)カアン قاان Qā'ān のような表記ひょうきけは、だい3だい皇帝こうていグユクがローマ教皇きょうこうインノケンティウス4せいてた国書こくしょにもはっきり確認かくにんされる。13 - 14世紀せいきのモンゴル帝国ていこくではアラビア文字もじ表記ひょうきでも「カン」と「カアン」は厳然げんぜん区別くべつされていたとられるのである。そうじてこの جنكيز خان Jinkīz Khān という表記ひょうきはティムールあさ時代じだい以降いこう一般いっぱんてき使つかわれている。

イルハンあさ周辺しゅうへんでもウイグル文字もじモンゴルかれた資料しりょうがいくつかのこされており、たとえば『あつまり編纂へんさんほどなく成立せいりつしたとられる系図けいず資料しりょうぞく』 (Shu`ab-i Panjgāna) は各々おのおの主要しゅようなモンゴル君主くんしゅ部分ぶぶんには人物じんぶつめいのアラビア文字もじ表記ひょうきとウイグル文字もじ表記ひょうきとを併記へいきしているのが特徴とくちょうとなっている。そこではチンギスの場合ばあい、アラビア文字もじで جينككيز خان Jīnkkīz Khān と表記ひょうきされ、ウイグル文字もじでは cynγがんまkyz q'n/čiŋγがんまis qan と表記ひょうきされている。クビライの場合ばあいはアラビア文字もじで قُوبِيلَاي قآن Qūbīlāī Qa'ān と表記ひょうきされ、ウイグル文字もじでは qwbyl'y q'q'n/qubilai qa'an と表記ひょうきされている(アラビア文字もじ表記ひょうきは『あつまり』イスタンブールほんとほぼ同一どういつとなっている。「カアン」のアラビア文字もじ表記ひょうきについて『世界せかい征服せいふくしゃ歴史れきし』やグユクのインノケンティウス4せいあて国書こくしょでは قاان Qā'ān もしくは قاآن Qā'ān と4文字もじ表記ひょうきされるが、『あつまり』イスタンブールほんや『ぞく』では قآن Qa'ān と3文字もじ表記ひょうきされており、2番目ばんめ文字もじにアリフのちょう母音ぼいん記号きごうであるマッダ記号きごうされているのが特徴とくちょうてきである)。

漢語かんご文献ぶんけんでの「チンギス・カン」の呼称こしょう

編集へんしゅう

後裔こうえいである元朝がんちょうによってつけられた中国ちゅうごくふうびょうごうふとしおくりなほう天啓てんけいうんひじりたけし皇帝こうていといい、もと初代しょだい皇帝こうていとしてあつかわれる。

漢語かんご文献ぶんけんでは、チンギス在世ざいせいちゅう記録きろくとして、ムカリ国王こくおう宮廷きゅうていおとずれたみなみそう使者ししゃはじめせん王国おうこく研究けんきゅうにより著者ちょしゃちょう校正こうせいされた)の報告ほうこくしょこうむ韃備ろく』(1221ねんころ成立せいりつ)やサマルカンド駐留ちゅうりゅうちゅうのチンギス・カンに謁見えっけんした長春ちょうしゅん真人まさとおかしょ旅行りょこう長春ちょうしゅん真人しんじん西遊せいゆう』(1228ねんころ成立せいりつ)がられているが、いずれも「成吉せいきちおもえ皇帝こうてい」とかれている。みなみそうがわ記録きろくである『こうむ韃備ろく』や『くろ韃事りゃく』(1237ねん成立せいりつ)でもチンギスは「成吉せいきちおもえ皇帝こうてい」や「韃主」とばれているが、「チンギス」というおとうつしもとづく呼称こしょう一貫いっかんして「成吉せいきちおもえ」や「成吉せいきちおもえ皇帝こうてい」であり、ウイグル文字もじ、パスパ文字もじ、アラビア文字もじなどのような「カン」と「カアン」のけはしょうじていない。『元朝がんちょう秘史ひし』のような「成吉せいきちおもえ罕」という表記ひょうき漢語かんご文献ぶんけんではまれであり、ほとんど確認かくにんされない(ちなみに、1346ねん成立せいりつしたチベット文献ぶんけんの『フゥラン・テプテル』でも「ふとしチンギスみかど」 (Thaḥi dsuṅ Jiṅ gi rgyal po) とあって「カン」や「カアン」の部分ぶぶんおとうつされていない)。

1266ねんにクビライによってチンギス・カン以来いらいのモンゴル皇帝こうてい皇后こうごうイェスゲイ・バアトルトルイなどの主要しゅようモンゴル王族おうぞくびょうごう諡号しごうもうけられ、チンギスにはびょうごうたい諡号しごうひじりたけし皇帝こうていおくられた。また、1309ねん12月3にちたけはじめカイシャンによってさらにほう天啓てんけいうんひじりたけし皇帝こうていついおくりなされた[41]。これらをけて大元おおもとウルスの末期まっき編纂へんさんされた随筆ずいひつ南村なんそん輟耕ろく』の歴代れきだいモンゴル皇帝こうてい列記れっきしたまきだい1 列聖れっせい授受じゅじゅ正統せいとう には「ふとしおう天啓てんけいうんひじりたけし皇帝こうてい いみなてつ國語こくご曰成きちおもえ。」としるされている。

中期ちゅうきモンゴルきん現代げんだいモンゴル音韻おんいん

編集へんしゅう

以上いじょうのように、西方せいほうのアラビア文字もじけんではイルハンあさ以降いこうもほぼ一貫いっかんして「チンギス・カン」けい表記ひょうきのままであったのにたいして、モンゴル高原こうげんでは「チンギス・カアンけい呼称こしょう遷移せんいした。近代きんだいモンゴル  Чингис Хаан[ʧiŋgɪs χかいaːŋ]音韻おんいんちかい「チンギス・ハーン」という表記ひょうきが、近年きんねん一般いっぱん流布るふしてもちいられたが、これは表記ひょうきじょう問題もんだい以外いがい音韻おんいんじょう変化へんかについても問題もんだいとなる。パスパ文字もじモンゴルやアラビア文字もじ表記ひょうきから、ウイグル文字もじなどにられる Qaγがんまan はだい2音節おんせつの -aγがんまa- は -a'a- と軟音して「カン」と発音はつおんされていたことが確実かくじつで、これがきん現代げんだいおんではさらに χかいaːŋ のようにほぼちょう母音ぼいんしてしまっている。中期ちゅうきモンゴルの q おともパスパ文字もじモンゴル表記ひょうきやアラビア文字もじ転写てんしゃによって、「カ」にちかおとであったが、現在げんざいでは χかい おと移行いこうしている。χかい おと日本語にほんご仮名かめい転写てんしゃでは「ハ」ぎょうもちいられるため、中期ちゅうきモンゴルとしては「チンギス・カアン」とぶべきものが「チンギス・ハーン」に変化へんかしているのである。また、きん現代げんだいモンゴルでも「カン(ハン)」と「カアン(ハーン)」の区別くべつ存在そんざいするが、チンギスは「ハーン(皇帝こうてい)」であるため、「チンギス・ハン (Чингис хан) 」とはんではならず、「チンギス・ハーン (Чингис хаан) 」とぶべきだと現在げんざいのモンゴルじんかんがえている、との報告ほうこくもされている[42]

一方いっぽうで、ペルシア文献ぶんけんでのアラビア文字もじ(ペルシア文字もじ転写てんしゃおおい、چنگيز خان Chigīz Khān を仮名かめい転写てんしゃすると「チンギーズ・ハーン」となり、きん現代げんだいモンゴルの「カアン」 (Qa'an) の発音はつおん転写てんしゃとアラビア文字もじ表記ひょうきでの「カン」 (Qan) の仮名かめい転写てんしゃが、「ハーン」という同一どういつ転写てんしゃになってしまう。「カン」と「カアン」という中期ちゅうきモンゴルのレベルでは意味いみてきことなる単語たんごが、依拠いきょする資料しりょう同一どういつ仮名かめい転写てんしゃになるという弊害へいがいしょうじることとなった。

「チンギス・カン」「チンギス・ハン」「チンギス・ハーン」

編集へんしゅう

このため、「チンギス・ハーン」「チンギス・ハン」「チンギス・カン」とった具合ぐあいに、日本語にほんご文献ぶんけんでの仮名かめい転写てんしゃ研究けんきゅうしゃ執筆しっぴつしゃあいだでバラバラの状態じょうたいになり、混乱こんらんをきたすようになった。一般いっぱん日本にっぽん戦前せんぜん現代げんだい中国ちゅうごくなどの漢字かんじ表記ひょうきでは、「成吉せいきちおもえあせ」とかれる。ただし、「あせ」のみは中国ちゅうごくでも年代ねんだい地域ちいきによりことなり、「ハン」「ホン」、閩東閩南では「カン」(ガン)となるが、古代こだい上古じょうこ中国語ちゅうごくごでは「ガーン」であった[43]明治めいじ時代じだい日本にっぽんではジンギス・カンと仮名がなされていた[44]清朝せいちょう時代じだい満州まんしゅうでは「ハン」と発音はつおんされ、中期ちゅうきモンゴルきん現代げんだいモンゴルの「カン(ハン)」「カアン(ハーン)」の対立たいりつられないという。

おもに、1980ねん前後ぜんこうから『アルタン・ハーンつたえ』にられるような16 - 17世紀せいき以降いこうのモンゴル文献ぶんけん調査ちょうさもとづく研究けんきゅうしゃあいだでは「チンギス・ハーン」という表記ひょうき採用さいようする傾向けいこうにあり、一方いっぽうで1990年代ねんだい以降いこう中国ちゅうごく発掘はっくつされただいもとウルス時代じだいのパスパ文字もじモンゴル碑文ひぶんや『あつまり』などのモンゴル帝国ていこく時代じだいのペルシア文献ぶんけん調査ちょうさ進展しんてんによって、中期ちゅうきモンゴル音韻おんいん復元ふくげん研究けんきゅうすすみ、モンゴル帝国ていこくでは「カン」と「カアン」が明確めいかく区別くべつされていたことが判明はんめい認識にんしきされるようになった。このため13 - 14世紀せいきのモンゴル帝国ていこく時代じだい研究けんきゅうしゃからこれらのどう時代じだい文献ぶんけん資料しりょうでの表現ひょうげんもとづいて「チンギス・カン」という表記ひょうき推奨すいしょうされるようになった(両者りょうしゃ弁別べんべつつようったえている研究けんきゅうしゃとしては、モンゴル帝国ていこく大元おおもとウルス専門せんもんである杉山すぎやま正明まさあきなどが有名ゆうめいである。また、「チンギス・ハン」は「チンギス・カン」の現代げんだいモンゴルみ (Činggis Qa'an) か、どちらかというとアラビア文字もじ表記ひょうきの چنگيز خان Chigīz Khān から再現さいげんしたテュルク発音はつおん(Čiŋγがんまis χかいan と転写てんしゃすべきか)にちかい)。

かつてはジンギス・カンかれることがおおかったが、これはティムールあさ以降いこうのペルシア年代ねんだいなどのアラビア文字もじ表記ひょうきでجنكز خان (jinkiz khān) のようにイルハンあさ時代じだいの『あつまり』ではたもたれていた چ č が ج j のままになっている写本しゃほんおおられることによる。これらの事情じじょうによっての13-14世紀せいき以降いこうのアラビア文献ぶんけんや ج j のままの文献ぶんけんおとうつしから転訛てんかした欧米おうべいしょ言語げんご発音はつおんもとづいた、19 - 20世紀せいき前半ぜんはんまでの表記ひょうきがベースとかんがえられる。しかしながら、現在げんざいでは「チンギス・ハーン」や「チンギス・カン」が一般いっぱんしており、現在げんざいでは「ジンギス・カン」はむしろまれである(なお、欧米おうべいではモンゴル帝国ていこく時代じだい存在そんざいした「カン」と「カアン」の区別くべつについての認識にんしきがまだまだ周知しゅうちされていないようで、チンギスでもクビライでも Khan で一律いちりつ表記ひょうきされる傾向けいこうにある)。

このように、13 - 14世紀せいきのモンゴル帝国ていこく内部ないぶ中期ちゅうきモンゴルやその影響えいきょうにある文字もじ表記ひょうきでは「チンギス・カン」とばれている。13 - 14世紀せいき中期ちゅうきモンゴル近代きんだい現代げんだいモンゴルでは q 〜 χかい音韻おんいん変化へんかしょうじているが、それとはべつだいもとウルスが崩壊ほうかいした前後ぜんごからモンゴル高原こうげん周辺しゅうへんではチンギス・カンの称号しょうごうについて、「カン」けいから「カアン」けいへシフトしていったもので「チンギス・カアン」といういいかたは、とくだいもとウルスが崩壊ほうかいした14世紀せいきまつ以降いこう一般いっぱんしていったものとかんがえられる。

以上いじょうどう時代じだいモンゴルによる表記ひょうきは Činggis Qan で、チンギス・カン発音はつおんしたため、ほんこうでもこれを使用しようする。その人名じんめい部族ぶぞくめい地名ちめい当時とうじ発音はつおんについては東洋とうよう学者がくしゃ白鳥庫吉しらとりくらきちマ字まじ音訳おんやくした  音訳おんやくこうむぶん元朝がんちょう秘史ひし参照さんしょうのこと。

参考さんこう文献ぶんけん

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史料しりょう

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研究けんきゅうしょ論文ろんぶん

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  • 杉山すぎやま正明まさあき 『モンゴル帝国ていこく大元おおもとウルス』 京都大学きょうとだいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい、2004ねん
  • 本田ほんだみのるしんじ 『モンゴル時代じだい研究けんきゅう東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1991ねん
  • 村上むらかみ正二しょうじ 『モンゴル帝国ていこく研究けんきゅう風間かざま書房しょぼう、1993ねん

その著書ちょしょ

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  • 岩村いわむらしのぶ元朝がんちょう秘史ひし チンギス=ハン実録じつろく』 (中公新書ちゅうこうしんしょ)、中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1963ねん
  • 小林こばやしこう四郎しろう 『ジンギスカン』 (岩波いわなみ新書しんしょ)、岩波書店いわなみしょてん、1960ねん
  • 岡田おかだ英弘ひでひろ 『チンギス・ハーン すすむはたたるの戦略せんりゃく集英社しゅうえいしゃ、1986ねん
  • 岡田おかだ英弘ひでひろ 『モンゴル帝国ていこく興亡こうぼう』 (ちくま新書しんしょ)、筑摩書房ちくましょぼう、2001ねん
  • 小澤おざわ重男しげお元朝がんちょう秘史ひし』 (岩波いわなみ新書しんしょ)、岩波書店いわなみしょてん、1994ねん
  • かちふじたけし草原そうげん覇者はしゃ成吉せいきちおもえあせ』 (清水しみず新書しんしょ)、清水しみず書院しょいん、1984ねん
  • 白石しらいし典之のりゆき 『チンギス・カン あおおおかみ実像じつぞう』 (中公新書ちゅうこうしんしょ)、中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2006ねん
  • ジャン=ポール・ルー 『チンギス・カンとモンゴル帝国ていこく杉山すぎやま正明まさあき監修かんしゅう田辺たなべ希久子きくこやくさい発見はっけん双書そうしょつくもとしゃ、2003ねん
  • 杉山すぎやま正明まさあき北川きたがわ誠一せいいち世界せかい歴史れきし9 だいモンゴルの時代じだい中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1997ねん中公ちゅうこう文庫ぶんこ、2008ねん
  • 杉山すぎやま正明まさあき 『モンゴル帝国ていこく興亡こうぼう講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ うえした、1996ねん
    • だいモンゴルの世界せかい りくうみきょ大帝たいていこく』 (角川かどかわ選書せんしょ角川書店かどかわしょてん、1992ねん
  • ブラウヂン 『だい統率とうそつしゃジンギスあせなぞ飯村いいむらみのる訳注やくちゅうくさむらぶんしゃ、1982ねん
  • イワニン 『てつじょう用兵ようへいろん参謀さんぼう本部ほんぶやく陸軍りくぐん文庫ぶんこ、1895ねん
  • 松尾まつお裕夫ひろお 「ジンギスあせ戦法せんぽういち考察こうさつ(1)(2)」 (『幹部学校かんぶがっこう記事きじだい210 - 211ごう、1971ねん

関連かんれん作品さくひん

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小説しょうせつ

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テレビドラマ

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チンギス・カンの登場とうじょうするコンピュータゲーム

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チンギス・カンの登場とうじょうするボードゲーム

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Strategy&Tactics229ごう Khan Rise of Mongols S&T編集へんしゅうちょうのジョー・ミランダのデザインした2人ふたりようウォーゲーム。シャルルマーニュシステムのだい4さくたる。

音楽おんがく

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b さつ斯欽 (1979ねん12月1にち) (中国ちゅうごく). こうむ黃金おうごん譯註やくちゅう. 中華民國ちゅうかみんこく: れんけい出版しゅっぱん事業じぎょう公司こうし. pp. だい20ぺーじだい21ぺーじ. ISBN 9789570808414. https://www.google.com.tw/books/edition/%E8%92%99%E5%8F%A4%E9%BB%84%E9%87%91%E5%8F%B2%E8%AD%AF%E6%B3%A8/8hFJAAAAMAAJ?hl=zh-TW&gbpv=1&bsq=%E6%88%90%E5%90%89%E6%80%9D%E5%8F%AF%E6%B1%97%E6%98%AF%E5%A3%AC%E5%8D%88%E5%B9%B4(%E4%B8%80%E5%85%AD%E4%BA%8C)%E4%BB%B2%E5%A4%8F&dq=%E6%88%90%E5%90%89%E6%80%9D%E5%8F%AF%E6%B1%97%E6%98%AF%E5%A3%AC%E5%8D%88%E5%B9%B4(%E4%B8%80%E5%85%AD%E4%BA%8C)%E4%BB%B2%E5%A4%8F&printsec=frontcover. "黄金おうごんざい相當そうとう於秘だいじゅうきゅうせつしょ,也就ざい它的じょうさつじゅうぺーじまつぎょうしょせつ:「成吉せいきちおもえあせみずのえうまねんいちいちろく仲夏ちゅうかよんがつじゅう六日的日月紅圓之日(Ula'an tergel edür)所生しょせいてき。」這與こうむ源流げんりゅう所說しょせつてきしょうどう可能かのう這都根據こんきょこうむてき一般いっぱん傳說でんせつしょうつしてき。" 
  2. ^ a b c 一般いっぱんてき1162ねんせつ流布るふしているが、これは『もとふとし本紀ほんぎなどに「(ふとしじゅうねんあきなながつみずのえうまおのれうしくずし于薩里川さとかわ哈老徒之かちの行宮あんぐう。(中略ちゅうりゃくことぶきろくじゅうろく。」とあり(ふとしじゅうねんあきなながつおのれうし1227ねん8がつ25にち)、ここから逆算ぎゃくさんしたものである。
    1155ねんせつについては、おもイルハンあさガザンオルジェイトゥ勅命ちょくめいによって編纂へんさんされた『しゅう』などにもとづくもので、同書どうしょ「チンギス・カン」では「かれ誕生たんじょうしたときは、ブタとし亥年いどし)であるヒジュラれき549ねんであり、ズー=ル=カアダがつきたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155ねん1がつ6にち - 2がつ4にち)とあり、『元朝がんちょう秘史ひし』とおなじくこれがちちイェスゲイによるタタルぞくへの遠征えんせいとその首長しゅちょうコリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛ほばくとしであったことが説明せつめいされている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年ぼつねんも「ブタのとし(Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「かれ生涯しょうがいは72年間ねんかんであり、73ねん逝去せいきょした」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、なま没年ぼつねんおなじ「ブタのとし」であったとべる(没年ぼつねんである1227ねん実際じっさいちょう亥年いどしである)。『あつまり』ののち編纂へんさんされたイルハンあさ時代じだいほか歴史れきししょでもこの生年せいねん情報じょうほう踏襲とうしゅうされたようで、たとえば『バナーカティー』(アブー・サイード即位そくい1317ねんまで記述きじゅつ)では「ブタのとしであるヒジュラれき549ねんズー=ル=カアダがつ」(1155ねん1がつ6にち - 2がつ5にち)、おなじくムスタウフィー・カズヴィーニーの『せん』(1330ねん)ではもうすこくわしく「ヒジュラれき549ねんズー=ル=カアダがつ20日はつか」(1155ねん1がつ25にち)とする。
    一方いっぽう1167ねんについては、『ひじりたけししんせいろくしょほんのひとつに1226ねんへい戌年いぬどし)の記事きじにおいて「うえねんろくじゅう」とするものがあることから(王国おうこく校訂こうていでは「ろくじゅう」にあらためる)ここから逆算ぎゃくさんしてこのとしとしている。資料しりょう年代ねんだいとしては、1221ねんムカリ国王こくおう宮廷きゅうていおとずれたみなみそう使節しせつはじめせん王国おうこく研究けんきゅうにより著者ちょしゃちょう校正こうせいされた)による『こうむ韃備ろく』では「今成いまなりきちおもえ皇帝こうていしゃかぶといぬせいかれぞく…」とあり、きのえいぬ、すなわち1154ねんとする。
    このようにチンギス・カンの生年せいねん年代ねんだいについては資料しりょうによって様々さまざまであり、おおくの学説がくせつてられ現在げんざいでも結論けつろんていない。元朝がんちょう末期まっきとうそうただしへん南村なんそん輟耕ろく』において元朝がんちょうまつから明朝みんちょうはつ文人ぶんじん・楊維ただし(1296ねん - 1370ねん)のげんとして「ふとし生年せいねんそうふとし生年せいねんであるちょう干支えとおなじくする」(よんくさむら刊本かんぽん だいさんかん正統せいとうべんだいろくようそう祖生そう于丁建國けんこく于庚さるわがふとくだとしあずか建國けんこくこれねんまたどう…」)というようなことをべており、清朝せいちょう末期まっき学者がくしゃひろしひとしちょう亥年いどしすなわち1167ねんではなくおつ亥年いどしあやまり、つまり、『あつまり』その西方せいほう資料しりょうにあらわれるものとおなじ1155ねん比定ひていするせつとなえた。このせつは『新元しんもと』の著者ちょしゃ柯劭忞(かしょうびん)や『こうむ兀児史記しき』の著者ちょしゃほふよせなど当時とうじ学者がくしゃたちの賛同さんどうた。しかし、フランスの東洋とうよう学者がくしゃポール・ペリオは、それならばこの場合ばあい、楊維ただしげんしたがちょう亥年いどしすなわち1167ねんとしたほうく、このひのと亥年いどしせつであればチンギスの生涯しょうがいにおけるしょ事件じけん年月日ねんがっぴとよく合致がっちし、チンギス・カンは1167ねんまれ、1227ねんに60さい、『ひじりたけししんせいろく』のいうかぞどし61さいんだとかんがえたほう妥当だとうであろう、とべている。『元朝がんちょう秘史ひし』には生年せいねんについての情報じょうほうっていない。
  3. ^ a b c デリウンだけ Deli'ün Boltaq (迭里ゆたかなかごう)での出産しゅっさんについても、おも資料しりょうでは共通きょうつうしてべている。『あつまり』では دلون بولداق Dilūn Būldāq 、『ひじりたけししんせいろく』では跌里ゆたか盤陀はんだやまかれている。ドルヂスレン・ツェーちょ小澤おざわ重男しげお やく「チンギス・ハーンのうまれたデリウン・ボルダクは何処どこにあるか」『遊牧ゆうぼく社会しゃかい研究けんきゅうだい30ごう、1967ねん、p.1 - 16(ドルヂスレン・ツェーちょ小澤おざわ重男しげお やく「チンギス・ハーンのうまれたデリウン・ボルダクは何処どこにあるか」『内陸ないりくアジア論集ろんしゅうだい2、内陸ないりくアジア学会がっかいへん 国書刊行会こくしょかんこうかい 東京とうきょう、1979ねん、p.71 - 86. さいろく);村上むらかみ正二しょうじ訳注やくちゅう)『モンゴル秘史ひし チンギス・カン物語ものがたり』(東洋文庫とうようぶんこだい1かん平凡社へいぼんしゃ、1970ねん、p.79 - 80.
  4. ^ a b チンギス・カン崩御ほうぎょ日時にちじについて、『元朝がんちょう秘史ひし』『ひじりたけししんせいろく』など亥年いどしや65さいであったことなど以外いがいまった言及げんきゅうされていないが、ジュヴァイニーの『世界せかい征服せいふくしゃ』やバル・ヘブラエウスの『しょ王朝おうちょうりゃく(Ta'rīkh mukhtaṣar al-duwal)』などのヒジュラれき624ねんラマダーンがつ4にちという記述きじゅつから1227ねん8がつ25にちになる(Qazvīnī, vol.1, p,144/Bar Hebraeus, Tārīkh mukhtaṣar al-duwal ,Bayrūt, Dār al-Mashriq, 1992. p.244.)。(ドーソンの『モンゴル帝国ていこく』やボイル J.A. Boyle の『世界せかい征服せいふくしゃ』の英訳えいやく The World-Conqueror, vol. 1, p.182., note 11 では崩御ほうぎょ日時にちじを「1227ねん8がつ18にち」としているが、これはヒジュラれき624ねんラマダーンがつ4にちをユリウスれき変換へんかんすると1227ねん8がつ18にちになるためともかんがえられる) また、『もとふとし本紀ほんぎふとしじゅうねんあきなながつじょうに「あきなながつみずのえうまおのれうしくずし于薩里川さとかわ哈老徒之かちの行宮あんぐう。臨崩いい左右さゆう曰:「きむ精兵せいびょうざい潼關,みなみよりどころ連山れんざん北限ほくげん大河たいがなん以遽破。わかかりみち于宋,そうきむ讎,必能もとわがのり下兵しもへいとう、鄧,ちょく擣大はりかねきゅう,必徵兵ちょうへい潼關。しか以數まんこれしゅ千里せんり赴援,人馬じんば疲弊ひへい,雖至どるのうせんやぶこれ必矣。」げん訖而くずれことぶきろくじゅうろくそうおこり輦谷。」とある。『もと』でのやまいわずらった)となったふとしじゅうねんなながつみずのえうまは1227ねん8がつ18にちであり、崩御ほうぎょしたどうなながつおのれうしは1227ねん8がつ25にちになる。また、ラシードゥッディーンの『あつまり』チンギス・ハンでは、「亥年いどしあきなかがつの15にち、すなわち(ヒジュラれき)624ねんラマダーンがつ崩御ほうぎょあそばされた。( و پانزدهم روز از ماه ميانه پاييز سال خاك، موافق ماه رمضان سنة اَرْبَعَ وَ عِشرِينَ وَ سِتَّمِائَة، از جهان فانى بگذاشت wa Pānzdahum rūz az māh-i Miyāna-yi Pā'īz-i sāl-i Khūk muwāfiq-i māh-i Ramaḍān sana Arba` wa `Ishrīn wa Sitta-Mi'a, az jahān fanā gudhāsht. :Rarshan&Mūsawī, vol. 1, p. 541.)」とあり、べつ箇所かしょでは「先述せんじゅつ亥年いどし閏月じゅんげつ(shūn-āy)、すなわちヒジュラれき624ねんラマダーンがつ14にちかれかん(marqad)はかれしょオルドへはこばれ、(チンギス・カンの崩御ほうぎょの)出来事できごとあきらかにされた( در شُون آی سال خوك مذكور، موافق چهاردهم رمضان سنة اَرْبَعَ وَ عِشرِينَ وَ سِتَّمِائَة هجرى، مرقد او را به اوردوهاى او رسانيدند و اظهاد واقعه كردند /dar Shūn-Āy-yi sāl-i Khūk-i madhkūr, muwāfiq-i Chahārdahum-i Ramaḍān sana Arba` wa `Ishrīn wa Sitta-Mi'a-yi Hijrī, marqad-i ū rā bi ūrdū-hā-yi ū rasānīdand wa aẓhār-i wāfi`a kardand)」。しかし、前者ぜんしゃの「あきなかがつの15にち」という日時にちじのとおりでは1227ねん9がつ26にちになってしまい、さらに後者こうしゃの「閏月じゅんげつ」という記述きじゅつれると、同年どうねんの「うるう5がつ15にち」は1227ねん6がつ30にちとなるため、それぞれのヒジュラれき中国ちゅうごくれきとの整合せいごうせいれなくなる。ポール・ペリオは「あきなかがつの15にち」は「あきはつつきの15にち」のあやまり(すなわち「あきはつつきの15にち」は陰暦いんれきの7がつ15にちなので1227ねん8がつ28にちになる)とかんがえた。また、「閏月じゅんげつ」についても、中国ちゅうごくれきではこのとし閏月じゅんげつは5月ののちだが、ウイグルれきでは7がつのち閏月じゅんげついたであろうとして、「ラマダーンがつの14にち」とは中国ちゅうごくれきでの「7がつ25にち」、西暦せいれきでの「1227ねん8がつ28にち」となるだろう、とろんじた(Paul Pelliot, Note on Marco Polo, vol. 1., Paris, 1959, pp.305-309.)。また、『もと』が崩御ほうぎょ場所ばしょとしている「薩里川さとかわ哈老徒之かちの行宮あんぐう」も西にしなつ国内こくないではなくモンゴル高原こうげんのあたりになるため崩御ほうぎょとはかんががたく、おそらく葬儀そうぎおこなわれたするのが妥当だとうかんがえられる。村上むらかみ正二しょうじによると、あるいは、18にちくなり、25にちか28にちには遺骸いがいをモンゴル本土ほんどはこ葬儀そうぎおこなったのでは、とろんじている。(村上むらかみ正二しょうじ訳註やくちゅう『モンゴル秘史ひし 3』p.274-275.)
  5. ^ 10世紀せいきから11世紀せいきにおける「きゅうせいタタルこく
  6. ^ りょう本紀ほんぎだいじゅうよん みちむねよん「(だいやすし)十年春正月辛丑朔,如春すい丙午ひのえうまふくけん南京なんきんたてまつぶくてら浮圖ふとつちのえたつ,如山にれよどみがつ庚午こうごついたちもえいにしえこく使つかいらい聘。三月さんがつつちのえさるとおもえいにしえこく使つかいらい聘。ちょういのちせい誥王儒、ぱいしるしろうくん耶律かたでんしるべつばめ國王こくおうのべ禧。」
  7. ^ 村上むらかみ 1970,p66-77
  8. ^ こう 1968,p29-30
  9. ^ このとき出生しゅっしょうしたばかりのテムジンは「右手みぎてに髀石のようなかたまりをにぎりしめていた」と伝承でんしょうされているが、この有名ゆうめい逸話いつわは『元朝がんちょう秘史ひし』のみならず『あつまり』、『もと』、『ひじりたけししんせいろく』などにもえるポール・ペリオによると、この「のかたまりをにぎってまれる」という伝承でんしょうは、『ざつおもね含経だい25かんにある『アショーカおう物語ものがたり』 (Ašokāvadāna) のなかの、カウシャーンビーおうマハーセーナの逸話いつわ関係かんけいしているとう。この『アショーカおう物語ものがたり』の伝説でんせつによれば、マハーセーナおうよろいしゅのかたまりを息子むすこまれ、やがてこのまれた息子むすこぜん世界せかい支配しはいする王者おうじゃになるが、それまでにはかれないほどの犠牲ぎせいしゃすであろう、という不吉ふきつ予言よげんけたとう。これは経典きょうてんちゅうでは仏教ぶっきょうやぶ凶悪きょうあく王者おうじゃそうとしてかたられているものであるが、ペリオは『元朝がんちょう秘史ひし』にみえるこの伝承でんしょうは、仏教ぶっきょうてき凶兆きょうちょうとしてよりは、ふる仏教ぶっきょう伝承でんしょう起源きげんとしながらもアジア内陸ないりくにおいて世界せかいせいする強大きょうだい王者おうじゃ瑞兆ずいちょうとして変化へんか流布るふしたものであろうと推測すいそくしている。
  10. ^ ちなみに、この「テムジン」 (temüǰin) とはテュルク・モンゴルで「テムルチ」 (temür-či) 、すなわちてつ(テムル)をつくひと鍛冶たんや職人しょくにん」を意味いみする単語たんご省略形しょうりゃくけいだったため、「テムジン=チンギス・カンは鍛冶たんやだった」という伝説でんせつ流布るふするようになった。このたねの「チンギス・カン鍛冶たんや職人しょくにん伝説でんせつ」ともえる伝承でんしょうは、13 - 14世紀せいき活躍かつやくしたひがしマ帝国まていこく歴史れきしパキメレスや、おなじくマムルークあさ歴史れきしヌワイリー1247ねんのグユクの即位そくい列席れっせきしたキリキアしょうアルメニア王国おうこくハイトン1せい旅行りょこう、さらには1254ねんにモンケの宮廷きゅうていおとずれたルブルクのギヨーム修道しゅうどう旅行りょこうなどに記録きろくされており、13世紀せいき中頃なかごろというはや時期じきから帝国ていこく外来がいらい人々ひとびとひろ流布るふしていたようである。[よう出典しゅってん]
  11. ^ 村上むらかみ 1970,p78-91
  12. ^ 村上むらかみ 1970,p99-198
  13. ^ 杉山すぎやま正明まさあき北川きたがわ誠一せいいち世界せかい歴史れきし9 だいモンゴルの時代じだい』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1997ねん)94 - 95ぺーじなどを参照さんしょう
  14. ^ もとふとし本紀ほんぎふとしじゅうねんあきなながつじょうあきなながつみずのえうまおのれうしくずし于薩里川さとかわ哈老徒之かちの行宮あんぐう。(中略ちゅうりゃくことぶきろくじゅうろくそうおこり輦谷。」
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