バシレイオス2世 せい 治世 ちせい 下 か の東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 領 りょう
過去 かこ のユスティニアヌス1世 せい (「大帝 たいてい 」とも呼 よ ばれる皇帝 こうてい )以降 いこう 、最大 さいだい の領土 りょうど を達成 たっせい したため、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の数 かず ある皇帝 こうてい の中 なか でも偉大 いだい な皇帝 こうてい とされている。
弟 おとうと コンスタンティノス8世 せい とともに父 ちち ロマノス2世 せい 存命 ぞんめい 中 ちゅう に共同 きょうどう 副 ふく 帝 みかど として戴冠 たいかん していたが、父 ちち の死 し (963年 ねん )後 ご も摂政 せっしょう のため実権 じっけん を得 え ることなく、27歳 さい のとき、ようやく名実 めいじつ ともに正 せい 帝 みかど となった。バルダス・フォーカスの反乱 はんらん の鎮圧 ちんあつ (987年 ねん - 988年 ねん )にキエフ公国 こうこく のウラジーミル1世 せい (妹 いもうと アンナ と反乱 はんらん 後 ご 婚姻 こんいん )の援軍 えんぐん を得 え 、この討伐 とうばつ に成功 せいこう した。また、これを機 き にキエフ公国 こうこく はキリスト教 きりすときょう を受容 じゅよう 、キエフ大司教 だいしきょう はコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう の監督 かんとく 下 か に入 はい った[3] 。
一方 いっぽう 、帝国 ていこく 治下 ちか のバルカン半島 ばるかんはんとう ではサムエル王 おう 指揮 しき 下 か のブルガリア が帝国 ていこく 領 りょう を侵害 しんがい したため、バシレイオス2世 せい は23年 ねん の間 あいだ ブルガリア戦役 せんえき を行 おこな った。クレディオンの戦 たたか い(1014年 ねん )に勝利 しょうり を収 おさ め、バシレイオス2世 せい は全 ぜん バルカン半島 ばるかんはんとう を再 ふたた び帝国 ていこく 領 りょう とした。このため「ブルガリア征服 せいふく 王 おう (ブルガロクトノス)」と呼 よ ばれる。続 つづ いてシリア 、アルメニア を攻略 こうりゃく 、占領 せんりょう 後 ご この地 ち に7つのテマ制 せい を新設 しんせつ 、バルカン半島 ばるかんはんとう のそれと合 あわ せると10を数 かぞ えるまでとなり、マケドニア朝 ちょう の最盛 さいせい 期 き を築 きず いた[3] 。
その他 た にも、国内 こくない 的 てき には自由 じゆう 農民 のうみん の耕作 こうさく 地 ち を大 だい 土地 とち 所有 しょゆう 者 しゃ から守 まも るための法律 ほうりつ 改正 かいせい を行 おこな い、国内 こくない の貴族 きぞく らによる封建 ほうけん 化 か を押 おさ えるなど業績 ぎょうせき を残 のこ した。しかし、南 みなみ イタリア を基地 きち にシチリア島 とう のイスラム勢力 せいりょく 掃討 そうとう の準備 じゅんび 中 ちゅう に急死 きゅうし し、弟 おとうと コンスタンティノス8世 せい が跡 あと を継 つ いだ。彼 かれ は無能 むのう であったにもかかわらず、バシレイオス2世 せい の善政 ぜんせい の影響 えいきょう で彼 かれ の死後 しご 数 すう 十 じゅう 年 ねん にわたって帝国 ていこく は繁栄 はんえい したとされている[3] 。
マケドニア王朝 おうちょう の皇帝 こうてい ロマノス2世 せい の長男 ちょうなん として産 う まれ、960年 ねん には共同 きょうどう 皇帝 こうてい に即位 そくい する。963年 ねん に父 ちち が若 わか くして急死 きゅうし した。ヨセフ・ブリンガス が排除 はいじょ されて以後 いご は弟 おとうと で共同 きょうどう 皇帝 こうてい のコンスタンティノス8世 せい の寝室 しんしつ 管理 かんり 長官 ちょうかん で宦官 かんがん でもある大叔父 おおおじ のバシレイオス・レカペノス (英語 えいご 版 ばん ) (ノソス。ロマノス1世 せい レカペノス の庶子 しょし )、母 はは テオファノ の再婚 さいこん 相手 あいて である軍事 ぐんじ 貴族 きぞく 出身 しゅっしん の皇帝 こうてい ニケフォロス2世 せい フォカス 、次 つ いでニケフォロス2世 せい を殺害 さつがい して帝位 ていい を奪 うば ったヨハネス1世 せい ツィミスケス の下 もと で、引 ひ き続 つづ き単 たん なる飾 かざ り物 もの の共同 きょうどう 皇帝 こうてい としての幼少 ようしょう 年期 ねんき を過 す ごした。
964年 ねん にニケフォロス2世 せい フォカスにより行 おこな われたキリキア遠征 えんせい では母 はは と共 とも にニケフォロス2世 せい に従軍 じゅうぐん し、ドリズィオン要塞 ようさい に留 とど まった。
バシレイオス2世 せい の対 たい ブルガリア遠征 えんせい からの凱旋 がいせん
976年 ねん のヨハネス1世 せい の死 し によって、成人 せいじん していたバシレイオスは晴 は れて正 せい 帝 みかど となったが、寝室 しんしつ 管理 かんり 長官 ちょうかん である大叔父 おおおじ のバシレイオス・レカペノスが引 ひ き続 つづ き政権 せいけん を握 にぎ ることになり、バシレイオス・レカペノスと対立 たいりつ したバルダス・スクレロスの反乱 はんらん や第 だい 一 いち 次 じ ブルガリア帝国 ていこく の再興 さいこう とブルガリア皇帝 こうてい サムイル の侵攻 しんこう に悩 なや まされることになる。
986年 ねん のトラヤヌスの門 もん の戦 たたか い に出陣 しゅつじん するも小男 こおとこ ステファノスとレオン・メリセノスとの内部 ないぶ 対立 たいりつ もあって第 だい 一 いち 次 じ ブルガリア帝国 ていこく に敗北 はいぼく した。バルダス・スクレロスの反乱 はんらん を鎮圧 ちんあつ した軍事 ぐんじ 貴族 きぞく バルダス・フォカス(ニケフォロス2世 せい フォカスの甥 おい )やエウスタティオス・マレイオスなど、この戦 たたか いで不参加 ふさんか であった軍事 ぐんじ 貴族 きぞく の不満 ふまん や傭兵 ようへい への敬意 けいい に欠 か けたバシレイオス2世 せい の対応 たいおう 、占星術 せんせいじゅつ 師 し らに端 はし を発 はっ する「BはBを追 お い払 はら い、Bが支配 しはい する」という流言 りゅうげん による民心 みんしん 動揺 どうよう もあり、バルダス・フォカスの反乱 はんらん が起 お こり絶体絶命 ぜったいぜつめい の危機 きき に陥 おちい った。しかし軍事 ぐんじ 貴族 きぞく の反乱 はんらん はキエフ大公 たいこう 国 こく の援軍 えんぐん (en:Rus'-Byzantine War (987) )を得 え てコンスタンティノス8世 せい とともに出陣 しゅつじん して臨 のぞ んだアビドゥスでの決戦 けっせん におけるバルダス・フォカスの死 し やこの反乱 はんらん に合流 ごうりゅう していたバルダス・スクレロスの懐柔 かいじゅう で平定 へいてい に成功 せいこう した。加 くわ えてバルダス・フォカスの反乱 はんらん の前後 ぜんご に大叔父 おおおじ バシレイオス・レカペノスを追放 ついほう し、コンスタンティノス8世 せい が政治 せいじ に無関心 むかんしん なこともあり実権 じっけん を掌握 しょうあく した。
989年 ねん にコンスタンティノープルの地震 じしん でハギア・ソフィア大 だい 聖堂 せいどう の一部 いちぶ が崩落 ほうらく したが、これを再建 さいけん する。
第 だい 一 いち 次 じ ブルガリア帝国 ていこく に対 たい しては幾度 いくど もの戦 たたか いの末 すえ 、997年 ねん のスペルヒオス川 がわ の戦 たたか い で戦況 せんきょう は好転 こうてん し、1014年 ねん にクレディオンの戦 たたか い で大勝 たいしょう した。クレディオン戦 せん の際 さい 、ブルガリア人 じん 捕虜 ほりょ 1万 まん 4千 せん のうち100人 にん に付 つ き1人 にん だけ片目 かため を、残 のこ りのものは両目 りょうめ を潰 つぶ し、ブルガリア皇帝 こうてい サムイルの元 もと へ送 おく り返 かえ した。ひとりの目 め が見 み える男 おとこ を先頭 せんとう に99人 にん の盲人 もうじん が付 つ き従 したが って帰還 きかん したその光景 こうけい を見 み て、サムイルは卒倒 そっとう して死去 しきょ したという。1018年 ねん にはブルガリアを完全 かんぜん に滅 ほろ ぼして、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく によるバルカン半島 ばるかんはんとう 全域 ぜんいき の支配 しはい を約 やく 400年 ねん 振 ふ りに回復 かいふく した。これによってバシレイオス2世 せい には「ブルガロクトノス (ブルガリア人殺 ひとごろ し)」というあだ名 な が付 つ けられた。しかし、征服 せいふく した後 のち はまるで別人 べつじん のように寛容 かんよう な政策 せいさく を取 と り、帝国 ていこく の他 た 地域 ちいき と違 ちが って税金 ぜいきん を物納 ぶつのう にすることも許 ゆる している。
また、イスラーム勢力 せいりょく や南 みなみ イタリアのランゴバルド人 じん との戦 たたか いにも勝利 しょうり し、北 きた はドナウ川 がわ 、南 みなみ はクレタ島 とう 、東 ひがし はシリア ・アルメニア 、西 にし は南 みなみ イタリア (マグナ・グラエキア )に及 およ ぶ大帝 たいてい 国 こく を建設 けんせつ 。東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく に中世 ちゅうせい の黄金 おうごん 時代 じだい をもたらした。11世紀 せいき 中頃 なかごろ の知識 ちしき 人 じん ・政治 せいじ 家 か であるミカエル・プセルロス は、他 た の皇帝 こうてい と違 ちが ってバシレイオスは勝利 しょうり するまで帰還 きかん することなく戦 おのの い続 つづ けたと年代 ねんだい 記 き に残 のこ している。ある時 とき などは、ブルガリアと交戦 こうせん 中 ちゅう に北 きた シリアのアンティオキア がイスラーム勢力 せいりょく によって攻撃 こうげき されたと聞 き くと、そのままブルガリアから軍 ぐん を率 ひき いてシリアへ転戦 てんせん し、イスラーム勢力 せいりょく を追 お い払 はら ったのである。
1025年 ねん 、バシレイオス2世 せい 没 ぼつ 時 じ の東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 版図 はんと
内政 ないせい 面 めん では皇帝 こうてい による専制 せんせい 政治 せいじ を推 お し進 すす めた。プセルロスは「バシレイオスは書 か かれた法 ほう に従 したが うこともなく、何 なに もかも一人 ひとり で決 き めた」と記 しる している。ここに、古代 こだい のディオクレティアヌス 帝 みかど から始 はじ まったロ ろ ーマ帝国 まていこく の皇帝 こうてい 専制 せんせい 体制 たいせい はその頂点 ちょうてん を迎 むか えた のである。
バシレイオスは自 みずか らを苦 くる しめた軍事 ぐんじ 貴族 きぞく や大 だい 土地 とち 所有 しょゆう 者 しゃ を抑圧 よくあつ し、彼等 かれら が農民 のうみん から不正 ふせい に取得 しゅとく した土地 とち の没収 ぼっしゅう などを行 おこな う一方 いっぽう で、中小 ちゅうしょう 農民 のうみん の土地 とち 保護 ほご などに努 つと めた。ある時 とき などは、皇帝 こうてい 自 みずか ら不正 ふせい に大 だい 規模 きぼ な土地 とち を取得 しゅとく した者 もの の屋敷 やしき へ乗 の り込 こ み、屋敷 やしき を壊 こわ して土地 とち を没収 ぼっしゅう するということまで行 い った。
また贅沢 ぜいたく を慎 つつし み、財政 ざいせい 支出 ししゅつ を抑制 よくせい したので宮殿 きゅうでん の倉庫 そうこ は財宝 ざいほう で埋 う め尽 つ くされ、バシレイオスの命令 めいれい で拡張 かくちょう されたほどであったという。このように度重 たびかさ なる外征 がいせい を行 おこな いながらも国家 こっか 財政 ざいせい の健全 けんぜん 化 か を成 な し遂 と げたが、一方 いっぽう でその緊縮 きんしゅく 財政 ざいせい により、経済 けいざい 発展 はってん は抑 おさ えられる結果 けっか ともなった。
さらに、1024年 ねん に反乱 はんらん (en:Rus'–Byzantine War (1024) )平定 へいてい の援軍 えんぐん 派遣 はけん の見返 みかえ りとしてキエフ大公 たいこう ウラジーミル1世 せい と妹 いもうと アンナを縁組 えんぐみ させたことによってロシア ・ウクライナ がキリスト教化 きょうか し、正教会 せいきょうかい の勢力 せいりょく を北方 ほっぽう へ拡大 かくだい させることにも成功 せいこう した。
1025年 ねん 12月25日 にち 、シチリア のイスラム教 いすらむきょう 勢力 せいりょく の掃討 そうとう のための遠征 えんせい の準備 じゅんび 中 ちゅう に倒 たお れ、まもなく死去 しきょ した。結婚 けっこん しなかったために子 こ がなく、無能 むのう な弟 おとうと コンスタンティノス8世 せい が帝位 ていい を継 つ いだ。バシレイオス2世 せい の死 し によって東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の絶頂 ぜっちょう 期 き は終 お わりを告 つ げた。
ヨハネス・スキュリツェス の年代 ねんだい 記 き では、遺言 ゆいごん によりヘブドモンに隣接 りんせつ する福音 ふくいん 史家 しか ヨハネの教会 きょうかい に埋葬 まいそう されたとされる。
ミカエル・プセルロスの年代 ねんだい 記 き によると普通 ふつう より身長 しんちょう は低 ひく い一方 いっぽう 、姿勢 しせい がまっすぐ伸 の びており、馬上 もうえ となると比類 ひるい ない印象 いんしょう であったとしている。また、髭 ひげ をしごく癖 くせ や肘 ひじ を張 は って腰 こし に手 て を当 あ てる癖 くせ があり、早口 はやくち で話 はな す方 ほう であったとしている。
また、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく マケドニア朝 ちょう の最大 さいだい 領土 りょうど を現出 げんしゅつ したり、第 だい 一 いち 次 じ ブルガリア帝国 ていこく を崩壊 ほうかい に追 お い込 こ んだ業績 ぎょうせき などから、今日 きょう でも評価 ひょうか が高 たか い皇帝 こうてい となっている。
ウィキメディア・コモンズには、バシレイオス2世 せい に関 かん するメディアがあります。
ビザンティン人物 じんぶつ 伝 でん -バシレイオス2世 せい
コトバンク『バシリウス2世 せい 』2021年 ねん 2月 がつ 28日 にち
Riccardi, Lorenzo, «Un altro cielo»: l'imperatore Basilio II e le arti , in "Rivista dell'Istituto Nazionale di Archeologia e Storia dell'Arte", 61 (III serie, XXIX), 2006 [2011] (ISSN 0392-5285), pp. 103–146.
Riccardi, Lorenzo, Observations on Basil II as Patron of the Arts , in Actual Problems of Theory and History of Art, I, Collection of articles. Materials of the Conference of Young Specialists (St. Petersburg State University, 1–5 December 2010), St. Petersburg 2011 (ISBN 978-5-288-05174-6 ), pp. 39–45.