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ドナウ川 - Wikipedia

ドナウがわ(ドナウがわ、ラテン語らてんごDanubiusドイツ: Donau [ˈdoːnaʊ]英語えいごDanube)は、ドイツ南部なんぶバーデン=ヴュルテンベルクしゅうシュヴァルツヴァルトくろもり)にはしはっし、おおむひがしから南東なんとう方向ほうこうながれ、ちゅうおう東欧とうおう10ヶ国かこく以上いじょうとおって黒海こっかいそそ国際こくさい河川かせんである。河口かこうにはドナウ・デルタひろがる。全長ぜんちょう2,857km (1,775mi)で、ヨーロッパではヴォルガがわいで2番目ばんめながい。

ドナウがわ
ドナウ川
延長えんちょう 2,860 km
平均へいきん流量りゅうりょう 6,400 m³/s
流域りゅういき面積めんせき 817,000 km²
水源すいげん シュヴァルツヴァルトドイツ
水源すいげん標高ひょうこう 678 m
河口かこう合流ごうりゅうさき 黒海こっかいルーマニア
流域りゅういき ルーマニア(28.9%)
ハンガリー(11.7%)
オーストリア(10.3%)
セルビア(10.3%)
ドイツ(7.5%)
スロバキア(5.8%)
ブルガリア(5.2%)
ボスニア・ヘルツェゴビナ(4.8%)
クロアチア(4.5%)
ウクライナ(3.8%)
チェコ(2.6%)
スロベニア(2.2%)
モルドバ(1.7%)
スイス(0.32%)
イタリア(0.15%)
ポーランド(0.09%)
モンテネグロ(0.03%)
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船舶せんぱく遡行そこう可能かのうで、水運すいうんうえ重要じゅうよう大河たいがであり、ライン・マイン・ドナウ運河うんがつうじて北海ほっかいともむすばれている。

かわ

編集へんしゅう

現在げんざいめいドナウ(ドイツ:ドーナウ)と各国かっこくでそれに相当そうとうする名前なまえは、ラテン語らてんごDanubiusダーヌビウス に由来ゆらいする。これはローマ神話しんわのあるかわしんである。スキタイ、あるいはケルトからの借用しゃくようがもとになっているとかんがえられている[1]スロヴァキアではDunajセルボクロアチアではDunav, ハンガリー Duna, ブルガリア: Дунав, ルーマニア: Dunăre英語えいごフランス語ふらんすご: Danube 英語えいご: [ˈdænjuːb]である。

語頭ごとう Danuインド・ヨーロッパ祖語そごで「かわ」を意味いみする*dānuというかたり由来ゆらいする[2]。ケルト神話しんわダヌ(Danu)、インド神話しんわみず女神めがみダヌ(Danu)など、印欧語いんおうごぞく神話しんわにはこのかたりのこっている。黒海こっかい周辺しゅうへんにはドンがわドニエプルがわドネツがわドニエストルがわなど、おなから派生はせいしたとられるかわ多数たすうある。

語尾ごび auゲルマンながれを意味いみする ouwe由来ゆらいし、ドイツ名称めいしょうに1763ねん以降いこう使つかわれている。ドイツでは以前いぜんは Tonach, そのは Donaw の使つかわれ、現在げんざいいた[2]日本語にほんご表記ひょうきは、ドナウがわ、ダニューブがわ

しも流域りゅういきは、古代こだいギリシアでは「イストロスがわ」とばれた。これはケルトys由来ゆらいする。

 
ヨーロッパの分水ぶんすいかいしめ地図ちずあかせん分水ぶんすいかいしめす。凡例はんれいはドイツ

源泉げんせん分水ぶんすいかい

編集へんしゅう

ドナウがわ名称めいしょうは、シュヴァルツヴァルト地方ちほうまちドナウエッシンゲン源流げんりゅう河川かせんブレクがわ英語えいごばん(Breg)とブリガッハがわ英語えいごばん(Brigach)が合流ごうりゅうする地点ちてんにおいて、はじめてそのまれる。

ブリガッハがわ

編集へんしゅう
 
ドナウのいずみ(ドナウエッシンゲン)

ドナウエッシンゲンのまちおさめたフュルステンベルクこうドイツばんしろかんにわに、「ドナウのいずみドイツばん」とばれるいずみがあり、ここがドナウがわ源泉げんせんだとわれている。彫刻ちょうこくなどでかざられ観光かんこう名所めいしょともなっているが、しかし実際じっさいはブリガッハがわそそ支流しりゅうであり、ここが地理ちりがくうえ源泉げんせんとは做されない。

また、かつてはもうひとつの支流しりゅうウニペルスのいずみドイツばん」が「ドナウのいずみ」と名付なづけられていた。このいずみはドナウエッシンゲンじょう公園こうえんみなみ住宅じゅうたくなか存在そんざいし、市街地しがいちえんほそながれでくだったのち、ドナウエッシンゲンじょう公園こうえんいけ水路すいろ経由けいゆしブリガッハがわ合流ごうりゅうする。

ブリガッハがわ源泉げんせんは、ドナウエッシンゲンより鉄道てつどうで2えきほどのザンクトゲオルゲン英語えいごばんというまち郊外こうがいにある。

ブレクがわ

編集へんしゅう
 
ブレクのいずみ(フルトヴァンゲン)

ドナウがわ地理ちりがくじょう源泉げんせん本流ほんりゅうであるブレクがわ源泉げんせんである。ブレクがわさい上流じょうりゅうフルトヴァンゲン郊外こうがい海抜かいばつ1000mほどの山間さんかんに「ブレクのいずみ」がしており、ドナウがわしん源泉げんせんであるむね説明せつめいばんがある。

尾根おねはさんで北東ほくとうに900mほどの場所ばしょにはエルツがわドイツばん源泉げんせんしているが、こちらはラインがわへと合流ごうりゅうする。通常つうじょうであればこの2つのいずみみず出会であうことはないが、ドナウじょう流域りゅういき石灰石せっかいせき浸透しんとうせいたか地質ちしつであり、一部いちぶみず地下ちかもぐってラインがわ流域りゅういき流出りゅうしゅつしている。(ドナウがわ浸透しんとう英語えいごばん[3]

ほかにも近辺きんぺんにはいくつかのちいさな支流しりゅうかわながれ、その源泉げんせんているが、一方いっぽうはドナウがわそそ黒海こっかいいたり、もう一方いっぽうはラインがわそそ北海ほっかいへといたる。これらの境界きょうかいはヨーロッパの分水ぶんすいかいばれ、ブレクのいずみは、この分水ぶんすいかい南東なんとうわずか100mほどの場所ばしょ位置いちしている。

フルトヴァンゲンには鉄道てつどうえきはないが、ドナウエッシンゲンおよび近隣きんりんまちトリベルク(ドイツ最大さいだいたき有名ゆうめいまち。このたきはラインがわそそぐ)などからバスがている。

上流じょうりゅう

編集へんしゅう

ドナウの源流げんりゅう上記じょうきのとおり、ドイツのシュヴァルツヴァルト地方ちほうにあるフルトヴァンゲン郊外こうがいにある。ここからながかわブレクがわばれ、南東なんとうに48km下流かりゅうのドナウエッシンゲンのまちで、きたからながれてきたブリガッハがわ合流ごうりゅうし、ここからドナウのあたえられる。ドナウがわはここから北東ほくとうながつづけ、シュヴァーベンジュラ山脈さんみゃくけてウルムインゴルシュタット通過つうかし、フランケン山地さんちけたのちケールハイムドイツばん英語えいごばんではライン・マイン・ドナウ運河うんが接続せつぞくする。そのレーゲンスブルクレーゲンがわをあわせると同時どうじ南東なんとうへときをえる。その下流かりゅうミュンヘンからながれてきたイーザルがわわせたのち、パッサウきたからのイルツがわ英語えいごばんみなみからのインかわ合流ごうりゅうする。

 
リンツのドナウがわ

パッサウの下流かりゅうからはオーストリア領内りょうないはいる。リンツけたのちメルク修道院しゅうどういん起点きてんとして、30kmほどヴァッハウ渓谷けいこくばれる景勝けいしょうつづく。この渓谷けいこくには古城こじょう修道院しゅうどういん点在てんざいし、またオーストリア最大さいだいワイン産地さんちでもあるため、ブドウはたけなかしろ僧院そういんのたたずむうつくしい光景こうけい観光かんこうきゃく人気にんきあつめており、また世界せかい遺産いさんにも指定していされている。この渓谷けいこくけるとウィーン盆地ぼんちへとはいり、しばらく下流かりゅうに、オーストリアの首都しゅとウィーン存在そんざいする。ウィーンはハプスブルク帝国ていこく居城きょじょうとしてながくドナウ上流じょうりゅう地域ちいき中心ちゅうしんであったまちであり、また市民しみん生活せいかつもドナウがわ密接みっせつむすびついていた。『うつくしくあおきドナウ』など、ドナウを主題しゅだいとしてウィーンで作曲さっきょくされたきょく数多かずおお存在そんざいする。一方いっぽうでウィーンはドナウがわ氾濫はんらんにもながなやまされてきたまちだが、19世紀せいき後半こうはん河川かせん改修かいしゅう工事こうじによってドナウがわ氾濫はんらんおさえられた。ドナウがわはウィーンのまちけて、その下流かりゅうしょうカルパティア山脈さんみゃく英語えいごばんえる、いわゆる「ハンガリーのもん英語えいごばん(Devín Gate)」とばれる狭隘きょうあい通過つうかする。ここまでがドナウがわ上流じょうりゅうとされる。

ウルム付近ふきんの「ドナウモース英語えいごばん[4]レヒがわとの合流ごうりゅうてん付近ふきん[5]およびウィーン付近ふきん氾濫はんらんばらの「したローバウ英語えいごばん[6]モラヴァがわとの合流ごうりゅうてん付近ふきん[7]ラムサール条約じょうやく登録とうろくである。したローバウ英語えいごばんは「ムールドラーヴァ・ドナウ5カ国かこく生物せいぶつけん保護ほご」の一部いちぶとしてユネスコ生物せいぶつけん保護ほごにも指定していされている[8]

中流ちゅうりゅう

編集へんしゅう
 
エステルゴムだい聖堂せいどう

「ハンガリーのもん」のとおり、ここから下流かりゅうはハンガリーにぞくするものと古来こらいされてきた。現在げんざいでも、ドナウがわはここでオーストリアから、スロバキアハンガリー国境こっきょうをなすようになる。このもんのすぐ下流かりゅうに、スロバキアの首都しゅとブラチスラヴァ存在そんざいする。「もん」でへだてられているとはいえ、ブラチスラヴァとウィーンの距離きょりは60kmにすぎず、オーストリア・ハンガリー帝国ていこく時代じだいまでは密接みっせつ交流こうりゅうがあった。またブダオスマン帝国ていこく占領せんりょうされていた17・18世紀せいきには、ブラチスラヴァはポジョニとばれ、ハンガリーの首都しゅととなっていた。ブラチスラヴァ下流かりゅうでは、かつてだい規模きぼダムの建設けんせつ計画けいかくがあったものの、環境かんきょう保護ほご運動うんどうにより中止ちゅうしとなった(後述こうじゅつ)。

スロバキア・ハンガリー国境こっきょうエステルゴムわりをげ、ここからはハンガリー領内りょうないはいる。エステルゴムはハンガリー国王こくおうイシュトヴァーン1せい戴冠たいかんした歴史れきしある都市としであり、ドナウ河畔かはんにはまちのシンボルであるエステルゴムだい聖堂せいどうっている。エステルゴムのすぐ下流かりゅうドナウベンドばれる地域ちいきでドナウがわひがしからみなみながれのきをえ、ハンガリーの中央ちゅうおう縦断じゅうだんする。ドナウがわながれる各国かっこくなかでも、国土こくど中央ちゅうおう貫流かんりゅうするのはハンガリーのみである。ハンガリーにおいてドナウがわ南北なんぼくをつなぐ交通こうつうじくでもあり、また東西とうざい分断ぶんだんする障壁しょうへきともなっている。ブダペストにはおおくのはしけられているが、それをのぞくとハンガリー国内こくないにドナウがわえるはしはほとんどない。ドナウがわさかいとして、ハンガリーはややんで小村こむらおおく、やや都市としすす西部せいぶと、プスタばれるだい平原へいげんひろがり、だい村落そんらくおお農業のうぎょう依然いぜん中心ちゅうしんとする東部とうぶとに二分にぶんされている。ただ、人口じんこう分布ぶんぷとみにおいては東西とうざいおおきなはなく、かなり均質きんしつなものとなっている[9]。ここではハンガリーだい平原へいげん貫流かんりゅうすることとなり、おだやかなながれがつづく。ハンガリーの首都しゅとブダペストは「ドナウの真珠しんじゅ」ともばれるうつくしい都市としであるが、かつて西岸せいがんのブダと東岸とうがんペシュトふたつのまちだったものが合併がっぺいしたもので、そのためドナウがわまち中央ちゅうおうながれることとなっている。ブダとペシュトのあいだには、1849ねんセーチェーニくさりきょうがかけられて以降いこうなんほんかのはしけられているが、なかでもセーチェーニくさりきょうはそのうつくしさでブダペストのシンボルのひとつとなっている。ハンガリーりょう南端なんたんちかくのドナウ沿岸えんがんにはモハーチのまちがあるが、ここは1526ねんモハーチのたたかき、ハンガリーがオスマンにやぶれた古戦場こせんじょうである(モハーチのたたかい (1687ねん)ではぎゃくにオスマン帝国ていこく大敗たいはいした)。

ハンガリーをけると、クロアチアセルビアヴォイヴォディナ自治じちしゅう)の国境こっきょうをなす。ここで西にしからながれてきたドラーヴァがわをあわせ、ヴコヴァルながれをふたたおおきくひがしえたのちにセルビア国内こくないはいる。ヴォイヴォディナの州都しゅうとであるノヴィ・サドとおったのち、セルビアの首都しゅとベオグラードスロベニアからながれてきたサヴァがわわせる。ハンガリーからつづ平原へいげん地帯ちたいはベオグラードのやや下流かりゅうわり、やがてセルビアとルーマニア国境こっきょうとなる。ここはドナウがわカルパティア山脈さんみゃくえる地点ちてんであり、その部分ぶぶんには急流きゅうりゅうられるてつもんがある。ここはながあいだ難所なんしょとしてられてきたが、現在げんざいではダムの建設けんせつによって水位すいいがり、おだやかなながれとなっている。また、てつもんダムには3つの水力すいりょく発電はつでんしょ建設けんせつされ、合計ごうけい240まんkWの電力でんりょくしている[10]。ここまでがドナウのなか流域りゅういきである。

スロバキアのドナウがわ氾濫はんらんばら[11]ユーラシアカワウソヨーロッパビーバーコチョウザメサンカノゴイナベコウウズラクイナコサギゴイサギなどが生息せいそくしているハンガリーのゲメンツ英語えいごばん[12]およびベーダ・カラパンチャハンガリーばん[13]、クロアチアのドラーヴァがわとの合流ごうりゅうてん付近ふきん内陸ないりく三角州さんかくすコパチキ・リット英語えいごばん[14]キバナセツブンソウ英語えいごばんウォーターヴァイオレット英語えいごばんスギナモオジロワシ、ナベコウ、アカシカヨーロッパオオナマズパイクパーチ、コチョウザメ、コビトウ英語えいごばん、コサギ、マガンホオジロガモなどが生息せいそくしているセルビアの「ゴルニェ・ポドゥナヴリェ英語えいごばん[15]バチュカ地方ちほうのドナウがわ沿岸えんがん[16]、「ラブドヴォ・オクノ英語えいごばん[17]とセルビア・ルーマニア国境こっきょうてつもん付近ふきん[18][19]はラムサール条約じょうやく登録とうろくである。セルビアのバチュカ地方ちほうのドナウがわ沿岸えんがんは2017ねんにユネスコの生物せいぶつけん保護ほご指定していされた[20]。また、ムールがわとドラーヴァがわ流域りゅういき一帯いったいも「ムール・ドラーヴァ・ドナウ5カ国かこく生物せいぶつけん保護ほご」として生物せいぶつけん保護ほご指定していされている[8]

下流かりゅう

編集へんしゅう
 
ドナウがわてつもん
 
ドナウ・デルタ。ドナウがわ河口かこうであり、ここでドナウは黒海こっかいへとそそぐ。

てつもんのすぐ下流かりゅうにあるドロベタ=トゥルヌ・セヴェリンで、ドナウはふたた平原へいげんへとながゆるやかなながれとなる。そのしも流域りゅういきとなり、ワラキア平原へいげんブルガリアとルーマニアの国境こっきょうをなしながら500kmにわたってひがしながしていく。ドナウがわ屈曲くっきょく、ブルガリアの西端せいたんちかヴィディンとルーマニアのカラファトルーマニアばんあいだには、2013ねんに「しんヨーロッパきょう」が開通かいつうし、それまでフェリーしていたりょう都市としむすぶこととなった。

この地域ちいきもっとおおきなまちは、南岸なんがんにあるブルガリアのルセである。ルセと、対岸たいがんのルーマニアのジュルジュとは「ルセ・ジュルジュ友好ゆうこう記念きねんきょう英語えいごばん」によってむすばれている。このはし上述じょうじゅつの「しんヨーロッパきょう」がどう区間くかん開通かいつうするまではブルガリアとルーマニアとをむす唯一ゆいいつはしだった。ドナウ北岸ほくがんのワラキア平原へいげんは、西部せいぶオルテニア東部とうぶムンテニアとも、灌漑かんがいひろおこなわれ、またドナウ河岸かわぎし湿原しつげん耕地こうち転換てんかんすすめられてきた。

ドナウがわ南岸なんがんのブルガリアりょうシリストラまちひがしはしでブルガリアとルーマニアの国境こっきょうせんみなみかわはなれ、ここからドナウがわはルーマニア領内りょうないへとはいる。シリストラの対岸たいがんはルーマニアのカララシであり、両市りょうしはフェリーでむすばれている。このあたりから徐々じょじょきたおおきくながれをえてくる。シリストラしゅうから下流かりゅう右岸うがんでドナウと黒海こっかいはさまれた地域ちいきドブロジャばれる。

カララシからやや北東ほくとう位置いちする東岸とうがんチェルナヴォダで、ドナウ・黒海こっかい運河うんが接続せつぞくする。チェルナヴォダは交通こうつう要衝ようしょうであり、西岸せいがんフェテシュティ1895ねんカロル1せいきょうむすばれて以降いこう、ドナウ・黒海こっかい運河うんがのほか、ルーマニアの首都しゅとブカレスト黒海こっかい沿岸えんがん貿易ぼうえきこうコンスタンツァむす道路どうろ鉄道てつどう水運すいうんすべてがこのまちとおる。そのブライラまちとおったのち、ガラツィまちふたたびドナウはひがしかい、ウクライナとルーマニアの国境こっきょうをなす。また、ブライラではドナウがわ架橋かきょう工事こうじすすめられていて[21][22][23][24]。このはしは2023ねん7がつ6にちづけ開通かいつうしている[25][26][27]。なお、当該とうがい架橋かきょうは「ブライラきょう英語えいごばんルーマニアばん」と名付なづけられている[28]

この地域ちいきではドナウがわきたキリア分流ぶんりゅう英語えいごばん中央ちゅうおうスリナ分流ぶんりゅう英語えいごばんみなみせいゲオルゲ分流ぶんりゅう英語えいごばんとにかれる。キリア分流ぶんりゅうもっと水量すいりょうおおく、上流じょうりゅうみずの70%がながむ。スリナ分流ぶんりゅうには10%、せいゲオルゲ分流ぶんりゅうには20%前後ぜんごなが[29]。ウクライナ・ルーマニア国境こっきょうきたのキリア分流ぶんりゅうであり、ウクライナりょうオデッサしゅう北岸ほくがんにはイズマイールまちがある。

また、みなみせいゲオルゲ分流ぶんりゅう沿いにはルーマニアりょうであるトゥルチャまちがあり、きたドブロジャせっする場所ばしょとなっていて、そこはモルドバりょうカフけんジュルジュレシュティ英語えいごばんルーマニアばんドイツばんロシアばんにもせっしている。この地域ちいきドナウ・デルタばれる広大こうだい河口かこうデルタ地帯ちたいとなっている。なお、この地点ちてんにはドナウ黒海こっかい運河うんがロシアばんり、オデッサしゅう位置いちするドナウ生物せいぶつけん保護ほごロシアばん領域りょういき通過つうかしている[30]。そして、スリナ分流ぶんりゅう黒海こっかい沿岸えんがんまちスリナ黒海こっかいへとむ。

セイヨウスイレン英語えいごばんデンジソウカリガネアオガンニシハイイロペリカンノガンハシボソヨシキリ英語えいごばんなどが生息せいそくしているブルガリア北部ほくぶのイビシャとう[31]ベレネとう英語えいごばん[32]スレバルナ自然しぜん保護ほご[33]ギンドロセイヨウシロヤナギ英語えいごばん、オジロワシ、シュバシコウイシチドリタカブシギ、ニシハイイロペリカン、ヘラサギブロンズトキ、アオガン、マガン、レバントハイタカマミジロヨシキリ英語えいごばんカワセミムラサキサギメジロガモミサゴセーカーハヤブサ、ナベコウ、サンカノゴイ、コビトウなどが生息せいそくしているルーマニア南部なんぶカラファト英語えいごばん[34]ビストレッツ英語えいごばん[35]ジウがわとの合流ごうりゅうてん付近ふきん[36]オルトがわとの合流ごうりゅうてん付近ふきん[37]スハヤ英語えいごばん[38]カララシみずうみ[39]ボルチェア英語えいごばん分流ぶんりゅう[40]、ブジェアチとイオトルマチ[41]カナラレレ・デ・ラ・ハルショヴァルーマニアばん[42]バルタ・ミカ・ア・ブライラ自然しぜん公園こうえんルーマニアばん[43]マチン英語えいごばん分流ぶんりゅう[44]、およびデルタ域内いきないのルーマニアの「ドナウ・デルタ」[45]とウクライナの「キリア河口かこう[46]、「クフルルイ英語えいごばん[47]、「カルタルウクライナばん[48]はラムサール条約じょうやく登録とうろくである。スレバルナ自然しぜん保護ほごは1977ねんユネスコ生物せいぶつけん保護ほご登録とうろくされた[49]

 
トラヤヌスきょう想像そうぞう

古代こだいギリシアひと河口かこうからてつもんまでのドナウがわっており、イストロスがわんだ。マ帝国まていこくもほぼおな地域ちいきまで進出しんしゅつし、ヒステールかわんだ。

マ帝国まていこく時代じだいには、源流げんりゅうから河口かこうまでのほぼ全域ぜんいきが、蛮族ばんぞくたいする帝国ていこく北方ほっぽう防衛ぼうえいせん役割やくわりたした。ウィーンブダペストベオグラードソフィアといった各国かっこく首都しゅとはこの時期じきさい重要じゅうよう基地きち起源きげんつ。

ドロベタ=トゥルヌ・セヴェリンの近郊きんこうには、105ねんマ帝国まていこくによってきずかれた、ドナウ下流かりゅうはつ橋梁きょうりょうであるトラヤヌスきょう遺構いこういま一部いちぶ残存ざんそんしている。このはしは、皇帝こうていトラヤヌスダキア戦争せんそうときに、ドナウ北岸ほくがんダキア侵攻しんこうするために建設けんせつされたもので、よく106ねんにダキアはマ帝国まていこく占領せんりょうされ、ぞくしゅうダキアとなった。ドナウのりょうきしマ帝国まていこく支配しはいかれていたのはこのぞくしゅうダキア現在げんざいのルーマニア西部せいぶ)のみであり、のこりはドナウがわをそのまま国境こっきょうとしていた。

271ねんぞくしゅうダキアは放棄ほうきされ、マ帝国まていこくかわ南岸なんがんへとげた。ローマのダキア統治とうちは165年間ねんかんと、比較的ひかくてきみじかいものであったが、この地方ちほうすでローマされており、現在げんざいでもルーマニアじんラテンけい民族みんぞくとなっている。

中世ちゅうせいから近世きんせい

編集へんしゅう

375ねんフンぞくによって圧迫あっぱくされた西にしゴートぞくがドナウがわわたり、ここにゲルマン民族みんぞくだい移動いどうはじまった。これによりドナウがわマ帝国まていこく北部ほくぶ国境こっきょうとしての意味いみうしない、ゴートぞくをはじめ、ゲルマンしょ民族みんぞくやフンぞくなどが次々つぎつぎとドナウ南岸なんがんへとせた。

マ帝国まていこく東西とうざい分裂ぶんれつは、下流かりゅうひがしマ帝国まていこく北部ほくぶ国境こっきょうとなったものの、やがてブルガールじんがこの地域ちいき奪取だっしゅし、だいいちブルガリア帝国ていこくてた。

中流ちゅうりゅうのハンガリー平原へいげんにはアヴァールじんマジャールじんなどの遊牧ゆうぼく民族みんぞくせ、そこからマジャールじんによるハンガリー王国おうこく成立せいりつしてその領域りょういきとなる。かたうえ流域りゅういきかみきよしマ帝国まていこくりょうとなり、このにおかれたオーストリア辺境へんきょうはくりょうならず強大きょうだいしていった。

カール大帝たいてい793ねんマインがわとドナウがわむす運河うんが建設けんせつ着手ちゃくしゅした。これは「フォッサ・カロニナ」とよばれるが、当時とうじ技術ぎじゅつでは完成かんせい出来できえずおわりいとなっており、どう運河うんがはカールの存命ぞんめいることはなかった。カールの計画けいかくルートヴィヒ4せい(1347ねんぼつ)によって実現じつげんされた[50]

ってオスマン帝国ていこく強大きょうだい流域りゅういき版図はんとれ、ちゅう流域りゅういき1526ねんモハーチのたたかによってハンガリー王国おうこくだい部分ぶぶん領土りょうど喪失そうしつすると、だい部分ぶぶんがオスマン帝国ていこくりょうとなった。さらうえ流域りゅういきのウィーンにも1529ねんだいいちウィーン包囲ほうい)と1683ねんだいウィーン包囲ほうい)の2にわたってせるなど、この時期じきのドナウ川中かわなか流域りゅういきはオスマン帝国ていこく重要じゅうよう交通こうつうとなっていた。

近代きんだい

編集へんしゅう

だいウィーン包囲ほうい失敗しっぱいによる1699ねんカルロヴィッツ条約じょうやくによってちゅう流域りゅういきはオーストリアに割譲かつじょうされ、18世紀せいきにはおおまかに上流じょうりゅう中流ちゅうりゅうハプスブルク帝国ていこくオーストリア帝国ていこくりょうに、下流かりゅうがオスマン帝国ていこくりょうとなった。

19世紀せいきはいると上流じょうりゅう中流ちゅうりゅうのオーストリアりょうでは民族みんぞく自決じけつうごきがつよまり、1848ねんにはウィーンさんがつ革命かくめい勃発ぼっぱつするなど体制たいせい動揺どうようつづけた。またこのころ、ドイツにおいて統一とういつうごきがたかまるなか、オーストリア皇帝こうていいただく「だいドイツ主義しゅぎ」か、プロイセンおういただく「しょうドイツ主義しゅぎ」かで対立たいりつふかまり、1866ねんひろしおう戦争せんそうによりだいドイツのオーストリアはやぶれ、さい上流じょうりゅう1870ねんドイツ帝国ていこく吸収きゅうしゅうされることとなった。

一方いっぽう統一とういつドイツから排除はいじょされたオーストリアは東欧とうおう・ドナウ志向しこうつよめ、1867ねんにはオーストリア帝国ていこくアウスグライヒマジャールじんむすんでオーストリア=ハンガリー帝国ていこくじゅう帝国ていこく)へと改組かいそされた。ドナウがわじゅう帝国ていこくむすびつける大動脈だいどうみゃくとなり、このことからその当時とうじのハプスブルク帝国ていこくを「ドナウ帝国ていこく」とぶこともある。この時期じきには民族みんぞく自決じけつうごきがさかんになるなかじゅう帝国ていこくせいさら改組かいそしょ民族みんぞく同等どうとう権利けんり連邦れんぽう国家こっかドナウ連邦れんぽう構想こうそうがなされた。

また、この時期じき産業さんぎょう革命かくめい進展しんてんする時期じきであり、じゅう帝国ていこくないにおいてはあたらしく登場とうじょうした機械きかい技術ぎじゅつ利用りようしてドナウがわ開発かいはつ改修かいしゅうすすめられた。1862ねんはる洪水こうずいをきっかけにウィーン周辺しゅうへんおこなわれた河川かせん改修かいしゅう工事こうじながれ変更へんこうともなだい規模きぼなものであり、10ねん完成かんせいしたのちはウィーン盆地ぼんちないりゅう非常ひじょう安定あんていしたものとなり、またながれ直線ちょくせんによってられた土地とち水路すいろ拡張かくちょう安定あんていはウィーンやオーストリア経済けいざい多大ただい恩恵おんけいをもたらした[51]

この河川かせん改修かいしゅう工事こうじはハンガリーないにおいてもだい規模きぼおこなわれ、ドナウのながれは直線ちょくせんてき改修かいしゅうされ、洪水こうずい激減げきげんした。この河川かせん改修かいしゅうにより、それまではるなどの増水ぞうすいにはあちこちに湿原しつげんのできていたハンガリー平原へいげん乾燥かんそうすすみ、各所かくしょ乾燥かんそうした草原そうげんひろがるようになった一方いっぽう水利すいり向上こうじょうによって農地のうち拡大かくだいし、ハンガリーは農産物のうさんぶつ一大いちだい輸出ゆしゅつこくとして繁栄はんえいした。この繁栄はんえいけてハンガリーの首都しゅとであるブダとペストも急速きゅうそく成長せいちょうした。1849ねんにはブダとペストのあいだにはじめてセーチェーニくさりきょうけられ、1873ねんにはブダとペストが合併がっぺいしてブダペスト誕生たんじょうし、ハンガリーの中心ちゅうしんとしてさかえた。

この時期じきはウィーンではウィンナ・ワルツ隆盛りゅうせいした時期じきであり、ワルツおうともばれるヨハン・シュトラウス2せい1867ねん作曲さっきょくした『うつくしくあおきドナウ』など、数々かずかずのドナウを題材だいざいとした名曲めいきょく誕生たんじょうした。

一方いっぽう下流かりゅうにおいてはオスマン帝国ていこく勢力せいりょくおとろえるなか、オスマン支配しはいかく民族みんぞく独立どくりつ運動うんどうさかんになっていった。1817ねんにはミロシュ・オブレノヴィッチおおやけとしてオスマンはじめ主権しゅけんセルビア公国こうこく成立せいりつした。1829ねんには、戦争せんそう勝利しょうりしたロシア帝国ていこくアドリアノープル条約じょうやくドナウ・デルタ領有りょうゆうし、ドナウへと進出しんしゅつする足掛あしがかりをた。

しかし、クリミア戦争せんそう講和こうわ条約じょうやくである1856ねんパリ条約じょうやくにおいて、ロシアはみなみベッサラビアおよびドナウ・デルタをうしない、一時いちじこの地方ちほうから後退こうたいする。またこの条約じょうやくにおいてはドナウがわ国際こくさい河川かせんすすめられ、各国かっこくへの自由じゆう航行こうこう保障ほしょうされた。

1859ねんにはオスマンはじめ主権しゅけんワラキア公国こうこくモルダヴィア公国こうこく連合れんごうし、1861ねんルーマニア公国こうこく成立せいりつ。セルビア・ルーマニアりょう公国こうこく1877ねん戦争せんそうでロシアがわってオスマンに宣戦せんせんし、その結果けっかサン・ステファノ条約じょうやくによってりょう公国こうこく完全かんぜん独立どくりつ承認しょうにんされ、セルビア王国おうこくおよびルーマニア王国おうこく成立せいりつ。ブルガリアもブルガリア公国こうこくとしてオスマンはじめ主権しゅけんではあるが大幅おおはば自治じちみとめられ、オスマン帝国ていこくはドナウ沿岸えんがんへの影響えいきょうりょくをほぼ消失しょうしつした。

だが、この条約じょうやくはロシアに非常ひじょう有利ゆうりなものであったため各国かっこく反発はんぱつまねき、よく1878ねんベルリン条約じょうやくによって、セルビアはそのまま独立どくりつみとめられたものの、ブルガリアの領土りょうどおおきく削減さくげんされ、オスマンの宗主そうしゅけん拡大かくだいした。この結果けっかはブルガリアの不満ふまんまねき、後年こうねんだいブルガリア主義しゅぎ台頭たいとうんでバルカン半島ばるかんはんとう不安定ふあんてい一因いちいんとなった。

またルーマニアも、黒海こっかいめんするドブロジャ領有りょうゆうみとめられたわりに、ロシアにみなみベッサラビア(ブジャク)地方ちほう割譲かつじょう余儀よぎなくされた。ドブロジャはルーマニアじんおおいこれまでの領土りょうどとはやや異質いしつ土地とちであり、またドナウ南岸なんがんシリストラ要塞ようさいおよびみなみドブロジャはブルガリアにあたえられたため、この条約じょうやくはルーマニアにも不満ふまんのこした。これによりロシア帝国ていこくふたたびドナウ沿岸えんがん領土りょうどつこととなった。

しばらく安定あんていしていたドナウ沿岸えんがん国境こっきょうせんは、1913ねんだいバルカン戦争せんそうにおいてふたた変化へんかする。この戦争せんそうにおいてブルガリア王国おうこく敗北はいぼくしたため、ブルガリアはシリストラおよびみなみドブロジャをルーマニアに割譲かつじょうした。しかしブルガリアはこの奪還だっかん悲願ひがんとし、以後いご30ねん以上いじょうみなみドブロジャはバルカン半島ばるかんはんとう火種ひだねでありつづけた。

現代げんだい

編集へんしゅう

だいいち世界せかい大戦たいせんによってドナウ全域ぜんいき戦火せんかへとまれ、中央ちゅうおう同盟どうめいこくのドイツ、オーストリア、ブルガリア、オスマン帝国ていこくと、協商きょうしょうこくがわのロシア、セルビア、ルーマニアとのあいだはげしい戦闘せんとうきた。1918ねん中央ちゅうおう同盟どうめい敗北はいぼくし、ブルガリアはヌイイ条約じょうやくによってみなみドブロジャをルーマニアに割譲かつじょう。ルーマニアは、大戦たいせんちゅうロシア革命かくめい成立せいりつしたソヴィエト連邦れんぽうからベッサラビア獲得かくとくし、だいルーマニア実現じつげんした。

オーストリア・ハンガリーじゅう帝国ていこく解体かいたいし、きゅうじゅう帝国ていこくりょうのドナウ沿岸えんがんにはオーストリア共和きょうわこくチェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア王国おうこくの4つのしん独立どくりつこく誕生たんじょうした。しかし分割ぶんかつされた国境こっきょうせんをめぐってあらそいがえなかったうえ、それまで統合とうごうされていた広大こうだい領域りょういき分割ぶんかつされたために経済けいざいけん崩壊ほうかいし、ドナウ連邦れんぽうかんがかたはほぼ消滅しょうめつしてしまった。

結局けっきょくこの経済けいざい政治せいじてき広域こういきけん崩壊ほうかい衝撃しょうげきからなおることが出来できないまま不安定ふあんてい国際こくさい情勢じょうせいつづき、結局けっきょく1938ねんアンシュルスによってオーストリアがナチス・ドイツ併合へいごうされたのを皮切かわきりに、だい世界せかい大戦たいせん前夜ぜんやおよび初期しょき、ドナウがわ流域りゅういき諸国しょこく次々つぎつぎとナチス・ドイツがわ枢軸すうじくこくとなるか、その占領せんりょうかれた(ユーゴスラビア侵攻しんこう)。どくせんでドナウがわ輸送ゆそう渡河とか作戦さくせん舞台ぶたいとなった。

戦後せんご東欧とうおう諸国しょこくソ連それん占領せんりょうされ、ルーマニアはベッサラビアをソ連それんに、みなみドブロジャをブルガリアに割譲かつじょうした。東西とうざい冷戦れいせんした西にしドイツ西側にしがわ諸国しょこくに、オーストリアは資本しほん主義しゅぎ体制たいせい中立ちゅうりつこくになったものの、ユーゴスラビア社会しゃかい主義しゅぎ連邦れんぽう共和きょうわこく中立ちゅうりつ社会しゃかい主義しゅぎこく、その東欧とうおう諸国しょこくソ連それん衛星えいせいこくとなり、西側にしがわ諸国しょこくのドナウがわ航行こうこう困難こんなんとなった。それでも1972ねんにはてつもんダム建設けんせつされ、しも流域りゅういきうえちゅう流域りゅういきとの航行こうこうがやっと可能かのうになった。

冷戦れいせん終結しゅうけつ東欧とうおう革命かくめいによって政治せいじてき障害しょうがいがなくなると、ドナウがわ流域りゅういき交流こうりゅうふたたさかんとなった。

東欧とうおう革命かくめい沿岸えんがんしょ国内こくない動揺どうようもたらし、1991ねんにはクロアチアがユーゴスラビアから、モルドバウクライナがソヴィエト連邦れんぽうから独立どくりつし、1993ねんにはビロード離婚りこんによってチェコスロバキアが解体かいたいし、スロバキア共和きょうわこく成立せいりつ現在げんざいのドナウ沿岸えんがん国境こっきょうせん確定かくていした。

1992ねんラインがわつながるライン・マイン・ドナウ運河うんが完成かんせいし、北海ほっかいから黒海こっかいまでの水運すいうん可能かのうになった。同年どうねん11月1にち欧州おうしゅう連合れんごう(EU)が設立せつりつされると、ドナウがわ東側ひがしがわ諸国しょこくとの国境こっきょうという位置付いちづけで重要じゅうようされることになった。EUとひがしヨーロッパにおける経済けいざいようとしてこの河川かせんはこれからも注目ちゅうもくされるであろうことが予想よそうされる。

だがその一方いっぽうで、どう河川かせん東岸とうがんエリアの国々くにぐににおいては「ほう支配しはい尊重そんちょう」という意識いしきひくてんから「ほう支配しはいささえる機関きかんへの政治せいじてき圧力あつりょく汚職おしょくがそれをさまたげている」と指摘してきするこえおおく、とくにハンガリー政府せいふ欧州おうしゅう委員いいんかいはそのてんめぐってこれまでなん衝突しょうとつしてているため今後こんご進展しんてんどうエリアの出方でかたかっているともとらえられるめんがある[52]

国際こくさい関係かんけい

編集へんしゅう
 
ドナウ委員いいんかい加盟かめいこく:
  ほん加盟かめいこく   オブザーバー

ドナウがわふるくより沿岸えんがん諸国しょこく重要じゅうよう交通こうつう港湾こうわん産業さんぎょう拠点きょてんとして機能きのうしていたが、てつもんなどいくつかの難所なんしょ急流きゅうりゅうがあり、河口かこうから上流じょうりゅうまでふね直接ちょくせつ航行こうこうすることは近年きんねんまで不可能ふかのうであった。

しかし、19世紀せいき中盤ちゅうばんになるとドナウがわにおいても国際こくさい河川かせんすすめられ、1856ねんパリ条約じょうやくいてヨーロッパ委員いいんかい設立せつりつされて、河口かこうからブライラまでを国際こくさい管理かんりくとともに、各国かっこくへの自由じゆう航行こうこう保障ほしょうされた。だいいち世界せかい大戦たいせんにはあらたに国際こくさい委員いいんかい設立せつりつされ、航行こうこう上限じょうげんであるドイツのウルムにまで管理かんり区域くいき拡大かくだいされたが、だい世界せかい大戦たいせん1948ねんにはソ連それん指導しどうもとダニューブかわ航行こうこう制度せいどかんする条約じょうやく東欧とうおう諸国しょこくあいだ締結ていけつされた。

この条約じょうやくによってルーマニアのガラツィドナウがわ委員いいんかいノルウェーばん設立せつりつされ、ドナウがわ航行こうこう担当たんとうしたが、当時とうじどう委員いいんかい加盟かめいこくソ連それん、ルーマニア、ユーゴスラビア、ブルガリア、チェコスロバキア、ハンガリーと東側ひがしがわ諸国しょこくのみの参加さんかだった。このころには西側にしがわぞくしたウィーンと東側ひがしがわぞくしたそのした流域りゅういきとの交流こうりゅうもほとんどなくなっていた。のちにドナウ委員いいんかいにはオーストリアがせい加盟かめいこくとして、西にしドイツがオブザーバーとして参加さんかし、本部ほんぶ1954ねんにはハンガリーのブダペストへと移転いてんしたが、ドナウがわ航行こうこう東側ひがしがわ優位ゆういのもとにあったことにちがいはなかった[53]

冷戦れいせん終結しゅうけつもドナウがわ委員いいんかいはドナウがわ航行こうこう調整ちょうせいおこなっており、ドナウがわ沿岸えんがんこく以外いがい多数たすうくにがオブザーバーとして参加さんかしている。加盟かめいこく2014ねんから、ほん加盟かめいこくがドイツ、オーストリア、スロバキア、ハンガリー、クロアチア、セルビア、ルーマニア、ブルガリア、モルドバ、ウクライナの沿岸えんがん10ヶ国かこくロシア連邦れんぽうわせたけい11ヶ国かこく。オブザーバーはフランスベルギーオランダチェコモンテネグロマケドニアギリシアキプロストルコジョージアの10ヶ国かこくである[54]

2022ねんロシアのウクライナ侵攻しんこうで、オデーサなどウクライナの港湾こうわん都市としからの穀物こくもつしが困難こんなんになり、ウクライナ領内りょうない河川かせんみなとであるレニやイズマイールからドナウがわ下流かりゅう経由けいゆしてルーマニアのスリナコンスタンツァおく迂回うかい利用りようされている[55]

開発かいはつ

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1977ねん、チェコスロバキア政府せいふとハンガリー政府せいふはドナウがわ開発かいはつ条約じょうやく締結ていけつし、ハンガリーのドナウベントのすぐ上流じょうりゅうにあるナジュマロシュと、ハンガリーとチェコスロバキアの国境こっきょうじょうにあるガブチコヴォの2かしょにダムを建設けんせつし、水力すいりょく発電はつでん水量すいりょう調整ちょうせいによる洪水こうずい防止ぼうしおよび安定あんてい航行こうこう実現じつげんをめざした。1981ねんにはハンガリーが財政ざいせいじょう理由りゆうで4年間ねんかん延期えんきもうれたため着工ちゃっこう1985ねんとなった。しかし、このころからハンガリーでは環境かんきょう沿岸えんがん水没すいぼつ理由りゆうとしてダム建設けんせつ反対はんたい運動うんどうこり、1989ねんには東欧とうおう革命かくめいによって民主みんしゅしたハンガリーしん政府せいふ計画けいかく中止ちゅうしした。これにたいし、すでガブチコヴォダムを90%完成かんせいさせていたチェコスロバキアがわ反発はんぱつした。対立たいりつはさらに激化げきかし、1992ねんにはハンガリーは条約じょうやく自体じたい破棄はき。チェコスロバキアから権利けんり継承けいしょうしたスロバキアはこれを非難ひなんし、両国りょうこく対立たいりつ頂点ちょうてんたっした。

その欧州共同体おうしゅうきょうどうたい仲裁ちゅうさいによってこの問題もんだいデン・ハーグにある国際司法裁判所こくさいしほうさいばんしょへと提訴ていそされ、1997ねんどう裁判所さいばんしょ条約じょうやく一方いっぽうてき破棄はきしたハンガリーとダム建設けんせつ強行きょうこうして自然しぜん環境かんきょう破壊はかいしたスロバキア双方そうほう問題もんだいがあるとして両国りょうこく罰金ばっきんめいじた[56]

この判決はんけつは、国際司法裁判所こくさいしほうさいばんしょ国際こくさい河川かせん紛争ふんそうたいして判決はんけつくだした世界せかいはつのケースであった[57]

航行こうこう

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現在げんざい、ドナウがわでは黒海こっかいからルーマニアブライラまで航海こうかいよう大型おおがたせん航行こうこうができ、河川かせん航行こうこうよう船舶せんぱくではドイツのケルハイム(Kelheim)まで、小型こがたせんならウルムまで可能かのうである。1992ねん完成かんせいライン・マイン・ドナウ運河うんがにより、北海ほっかいロッテルダムから黒海こっかいスリナまで航行こうこうができ、1994ねんからはひろしヨーロッパ回廊かいろうにも指定していされた。

観光かんこうきゃくようにはクルーズ客船きゃくせん運用うんようさかんで、東洋とうよう長江ちょうこうさんかいくだ相当そうとうするドナウがわくだすうしゃによりおこなわれていて、とくパッサウからブダペストまでがさかんである。[58][59]

流域りゅういき

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流域りゅういき周辺しゅうへんこくフランス語ふらんすご
 
流域りゅういき英語えいご

おも支流しりゅう

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流域りゅういきくにおも都市とし

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ドナウがわとウィーン国際こくさいセンター
 
ブラチスラバじょうとドナウがわ
 
マルギットきょう(ブダペスト)

  ドイツ

  オーストリア

  スロバキア

  ハンガリー

  クロアチア

  セルビア

  ブルガリア

  ルーマニア

  モルドバ

  ウクライナ

流量りゅうりょう

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イズマイールにおけるドナウがわ流量りゅうりょう(m³/s)
1921ねんから1985ねん平均へいきんデータ)[60]

世界せかい遺産いさん

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ドナウがわ沿岸えんがんには、オーストリアのヴァッハウ渓谷けいこく文化ぶんかてき景観けいかん](文化ぶんか遺産いさん)、ハンガリーのブダペストのドナウ河岸かわぎしとブダじょう地区ちくおよびアンドラーシどお文化ぶんか遺産いさん)、ブルガリアのスレバルナ自然しぜん保護ほご自然しぜん遺産いさん)、ルーマニアのドナウ・デルタ自然しぜん遺産いさん)の4つの世界せかい遺産いさん存在そんざいする。

ドナウがわ題材だいざいにした作品さくひん

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音楽おんがく

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文学ぶんがく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 渡邉わたなべ浩司こうじ「【だい45かい大会たいかい公開こうかい講演こうえん妖精ようせいメリュジーヌとケルトのだい女神めがみ―インド=ヨーロッパ神話しんわ視点してんから―」〔日本にっぽん口承こうしょう文芸ぶんげい学会がっかい口承こうしょう文芸ぶんげい研究けんきゅう』45ごう、2022ねん3がつ、18ぺーじ〕によれば、「アイルランド全域ぜんいき豊穣ほうじょうをもたらす女神めがみ」にして「アイルランドのかみ々のはは」アナないしダナに由来ゆらいする。
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  60. ^ - Station: Ceatal Izmail

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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