(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ヨハン・シュトラウス2世 - Wikipedia

ヨハン・シュトラウス2せいドイツ: Johann Strauss II. (Sohn), 1825ねん10月25にち - 1899ねん6月3にち)は、オーストリアウィーン中心ちゅうしん活躍かつやくした作曲さっきょく指揮しきしゃ

ヨハン・シュトラウス2せい
Johann Strauss II.
基本きほん情報じょうほう
出生しゅっしょうめい ヨハン・バプティスト・シュトラウス
(Johann Baptist Strauss)
別名べつめい ワルツおう
ウィーンの太陽たいよう
ウィーンのもう一人ひとり皇帝こうてい
オペレッタおう
生誕せいたん 1825ねん10月25にち
出身しゅっしん オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ていこくウィーン
死没しぼつ (1899-06-03) 1899ねん6月3にち(73さいぼつ
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ていこくウィーン
ジャンル ウィンナ・ワルツ
オペレッタ
ポルカなど
職業しょくぎょう 作曲さっきょく
指揮しきしゃ
担当たんとう楽器がっき ヴァイオリン
活動かつどう期間きかん 1844ねん - 1899ねん

ヨハン・シュトラウス1せい長男ちょうなんおとうとヨーゼフ・シュトラウスエドゥアルト・シュトラウス1せいが、おいヨハン・シュトラウス3せいがいる。(シュトラウス参照さんしょう

概要がいよう

編集へんしゅう

生涯しょうがいのほとんどをウィンナ・ワルツポルカなどの作曲さっきょくささげ、『うつくしくあおきドナウ』、『ウィーンのもり物語ものがたり』、『皇帝こうてい円舞曲えんぶきょく』などのよくられたワルツを数多かずおおした。オーストリアのみならずヨーロッパちゅう絶大ぜつだい支持しじ獲得かくとくし、「ワルツおう」、「ウィーンの太陽たいよう[1]」、当時とうじのオーストリア皇帝こうていフランツ・ヨーゼフ1せい対比たいひするかたちで「ウィーンのもう一人ひとり皇帝こうてい」などとばれた。のちにオペレッタ分野ぶんやにも進出しんしゅつして、オペレッタの最高さいこう傑作けっさくといわれる『こうもり』などをし、「オペレッタおう」ともばれるようになった[2]

毎年まいとし元日がんじつおこなわれる「ウィーン・フィルニューイヤーコンサート」では、かれ中心ちゅうしんとするシュトラウス・ファミリー作品さくひんをメインにプログラムがまれる。

幼少ようしょう

編集へんしゅう
 
1890ねんこわされたヨハン2せい生家せいか。Ludwig Wegmannによるインク

1825ねん10月25にち、ウィーンのすうキロみなみ位置いちするザンクト・ウルリッヒドイツばん地区ちくの、ロフラノどおり76番地ばんち誕生たんじょうした[3][4]。シュトラウスとおくユダヤけいハンガリーじんいていることは間違まちがいないとおもわれるが、このことがヨハン2せい生前せいぜんなんらかのかたち言及げんきゅうされた記録きろくのこっていない。後年こうねんかれはハンガリーに題材だいざいをとった作品さくひんおおのこしているが、そのこととみずからの家系かけいむすけた発言はつげんとくにない。また、かず世代せだいまえ改宗かいしゅうまでさかのぼって身元みもと調査ちょうさてきにユダヤじんばわりする差別さべつおこなわれはじめたのはナチスからであるが、ヒトラーがだいのシュトラウスファンであったため、やはりシュトラウス遠祖えんそかんして調査ちょうさされることはなかった。したがって、資料しりょうてきにシュトラスとユダヤ教徒きょうとむすびつける確定かくていてきデータは発掘はっくつされていない。なお、シュトラウスというせい自体じたいがユダヤ固有こゆうというのはあやまりであり、みなみドイツ地方ちほうではごくありふれた名前なまえである。 ちち音楽家おんがくかヨハン・シュトラウス1せいはは居酒屋いざかやむすめマリア・アンナ・シュトレイムである。婚前こんぜん妊娠にんしんであり、ははがヨハンをごもったと発覚はっかくしたことが両親りょうしん結婚けっこんのきっかけとなった[5]

ヨハンとそのおとうとたちはおさなころははアンナからつぎのようなはなしをいいきかされてそだったという。アンナの祖父そふスペイン王国おうこくのさる大公たいこうだったが、刃傷にんじょう沙汰ざたこしたためウィーンにのがれてきた、と[4]。それはあきらかなつくばなしであるが、シュトラウス蔑視べっしされていたユダヤじん子孫しそんであったため、アンナは子供こどもたちに劣等れっとうかんたずに成長せいちょうしてほしいとねがい、母方ははかたにはスペインの高貴こうきながれているのだというつくばなしをしたのだろう、と小宮こみや正安まさやす推測すいそくしている[6]

ヨハンは生前せいぜん自分じぶん少年しょうねん時代じだいについてなにかたろうとしなかった。親友しんゆうがその話題わだいれたとき、当惑とうわくした表情ひょうじょうで「それは、つらいおもだ。」とつぶやいたという[7]ちちヨハンは厳格げんかく人間にんげんであった。ちちヨハンは自身じしんひきいる「シュトラウス楽団がくだん」において、賃金ちんぎん練習れんしゅう時間じかん演奏えんそう活動かつどうなど、あらゆることをおもいどおりにしており、さからうもの即刻そっこく解雇かいこにした。ちちのそのきびしさは家庭かていでもわらず、自分じぶんさからえば、たとえ妻子さいしであろうとも、容赦ようしゃなく、罵詈ばり雑言ぞうごん暴言ぼうげん)をびせ、暴力ぼうりょくをふるった[5]。その多忙たぼうさからちちは、自宅じたくにはかえるか、仕事しごと片付かたづけにるだけであった。

音楽おんがくへの関心かんしん

編集へんしゅう
 
ははマリア・アンナ。ヨハンの音楽家おんがくかゆめ応援おうえんした。

自分じぶん誕生たんじょうにはすでにウィンナ・ワルツ作曲さっきょくとして著名ちょめいだったちちヨハンに影響えいきょうけて、ヨハンは音楽家おんがくかあこがれるようになった。しかしちちのほうは、音楽家おんがくかくさ稼業かぎょうであることをっていたので、息子むすこたちを音楽家おんがくかにだけは死去しきょするまで絶対ぜったいにさせるつもりはなかった[8][9][10]息子むすこたちが楽器がっきれることをかたきんじたが[11]市民しみん教養きょうようとして日常にちじょうてきおこなわれていたピアノ練習れんしゅうだけは例外れいがいてきみとめられていた[12][13]。シュトラウスにはちちヨハンのリハーサルじょうがあり、そこからは演奏えんそうおとがよくれていた。ヨハンはおとうとヨーゼフとともにそれを注意深ちゅういぶかきとって、連弾れんだんしてあそんでいた。ちち息子むすこたちのピアノにまった関心かんしんがなかったが、あるとき楽譜がくふ出版しゅっぱん業者ぎょうしゃのハスリンガーからこのことをつたえられておどろいた[13]。そして部屋へやれられたヨハンとヨーゼフは、ちちまえでいつものように連弾れんだんした。ちち満足まんぞくげに「おまえたち、だれにもひけをとらないぞ」とかたり、ふたりはそれぞれフードきの上等じょうとうなマントを褒美ほうびあたえられた[13]

幼少ようしょうのヨハンは、サルマンスドルフというむらにある母方ははかた祖父母そふぼいえでよくなつごしていた[14]1830ねん、6さいとき祖父そふいえちいさな卓上たくじょうピアノで、36小節しょうせつのみからなるワルツを作曲さっきょくし、アンナがそれを譜面ふめんうつし『最初さいしょ着想ちゃくそう』と名付なづけた[14]。また、5ふんきょくつくってヨーゼフにうたわせたこともある、とのちに本人ほんにん証言しょうげんしている[15]

音楽家おんがくかあこがれるヨハンにしてみれば、ちちからゆるされたピアノをくだけでは到底とうてい満足まんぞくがいかなかった。ちちのようにヴァイオリンきたかったため、わずか8さいときに、おなじアパートにむ14さい少女しょうじょ近所きんじょ裁縫さいほう息子むすこをピアノの弟子でしとし、授業じゅぎょうりょうるようになった[11]。こうしてみずかめた金銭きんせんをもとにヴァイオリンをったヨハンは、かがみまえって父親ちちおやをまねてヴァイオリンの練習れんしゅうをするのを日課にっかとした[4]。ところがある、この練習れんしゅうちちヨハンにつかってしまう。ちち激怒げきどし、ヨハンがっていたヴァイオリンをうばってはたこわしてしまった[14]

やがてちちヨハンは、エミーリエ・トランプッシュというわか愛人あいじんをつくって彼女かのじょのもとにびたるようになる。ちちはアンナのもとにはろくに生活せいかつおくらず、愛人あいじんみつぐようになった[5]ちちがヨハンの音楽おんがくへの興味きょうみ関心かんしんをへしろうとしていたのとはぎゃくに、ははアンナは息子むすこ応援おうえんした[10][16]おっと息子むすこのヴァイオリンをこわした先述せんじゅつ出来事できごとのち、アンナはすぐさまあらたなヴァイオリンを息子むすこあたえた[16]。アンナの胸中きょうちゅうには、息子むすこおっと以上いじょう音楽家おんがくかそだてて、愛人あいじんのもとにびたって家庭かていかえりみようとしないおっと復讐ふくしゅうしてやろうというおもいがあったのである[16]

ヨハンは技師ぎし学校がっこうでの勉強べんきょうをやめ、ひそかにシュトラウス楽団がくだんだいいち奏者そうしゃフランツ・アモンからヴァイオリンをまなんだが、これをったちちヨハンはかれをすぐさま解雇かいこした[17]。そのヨハンは商学部しょうがくぶ入学にゅうがくして簿記ぼきなどをまなんだが、1842ねんにこれを退学たいがくして音楽おんがく専念せんねんすることにした[12]今度こんど教会きょうかいのオルガン奏者そうしゃヨーゼフ・ドレクスラードイツばん師事しじし、ドレクスラーのもとで和声わせい中心ちゅうしんとする楽典がくてんはたきこまれた[18]。ほぼ独学どくがく音楽おんがくまなんだちちヨハンとは対照たいしょうてきに、ヨハン2せい正統せいとうてき学習がくしゅうによって音楽おんがく基礎きそきずこうとしたのである[18]

音楽家おんがくかデビュー

編集へんしゅう
 
当時とうじ18さい、デビューしたてのヨハン・シュトラウス2せい
 
ヨハン2せいのデビューの新聞しんぶん告知こくち。「ダンスのゆうべ(ソワレ・ダンサント)」と広告こうこくされたが、当日とうじつ事実じじつじょうのコンサートとなった

1844ねん、ヨハン2せい修行しゅぎょうえ、デビューコンサートにけて準備じゅんび開始かいしした[19]。ライバルだったヨーゼフ・ランナー1843ねんったのちちちヨハンはウィーンのダンス音楽おんがく覇権はけん掌握しょうあくしていた。そんな状況じょうきょうにおいて、自身じしん同名どうめい息子むすこ挑戦ちょうせんしてきたことにちちつよ危機ききかんおぼえた。息子むすこのデビューを妨害ぼうがいすべく、ちちはウィーンちゅうだたる飲食いんしょくてん圧力あつりょくをかけ、配下はいか楽団がくだんいんには息子むすこ味方みかたすることをきんじ、さらには新聞しんぶん記者きしゃ買収ばいしゅうして息子むすこ中傷ちゅうしょう記事きじかせようとすらした[19]。これらのちちうごきにたいし、ヨハンもけじと対抗たいこうした。まだちちいきのかかっていないあたらしい飲食いんしょくてん徹底的てっていてきにアピールし、そしてうずもれた有能ゆうのう若手わかて中心ちゅうしんとした音楽家おんがくか発掘はっくつつとめ、さらに提灯ちょうちん記事きじいてくれる新聞しんぶんしゃとも契約けいやくむすんだ[20]

当時とうじ法律ほうりつにより、音楽家おんがくかになるには20さい以上いじょうでなければならなかったが、当時とうじヨハンはまだ18さいであった。そこでヨハンは役所やくしょき、「父親ちちおや家庭かていかえりみないために生活せいかつくるしく、わたしひとりでおもおとうと面倒めんどうなければならないのです」となみだながらにうったえた[20]有名人ゆうめいじん息子むすこねがたいし、ついには頑固がんこ役人やくにんくびたてった。おまけに、家族かぞくたすける青年せいねん音楽家おんがくかという美談びだんがウィーンにひろまり、ヨハン2せい印象いんしょういものにしてくれた[20]

デビューコンサートは10月15にちシェーンブルン宮殿きゅうでんちかくのカジノ・ドームマイヤードイツばんまった。発掘はっくつしてきた音楽家おんがくか独自どくじ楽団がくだんつくったヨハンは、定刻ていこく午後ごご6登場とうじょう[21]ちちおなじスタイルの「ヴァイオリンを演奏えんそうしながら華麗かれい指揮しきをする」というやりかたで、指揮しきしゃとしてデビューした[20]。こののために、デビューを意識いしきした題名だいめい新曲しんきょくつくられ、演奏えんそうされた[20]以下いかはデビューコンサートで演奏えんそうされたヨハン2せい楽曲がっきょくである。

  • ワルツ『記念きねん』(op.1)
  • 『デビュー・カドリーユ』(op.2)
  • ポルカ『こころゆくまで』(op.3)
  • ワルツ『どうぞごひいきに』(op.4)

ヨハン2せいはこのデビューコンサートによって、指揮しきしゃ・ヴァイオリン奏者そうしゃ作曲さっきょくとしての才能さいのうみずからがそなえているということを公衆こうしゅうまえ証明しょうめいしてみせた[22]。10月19にちづけの『Der Wanderer』誌上しじょうでフランツ・ヴィーストは、「おやすみランナー、こんばんはシュトラウス1せい、おはようシュトラウス2せい」という有名ゆうめい言葉ことばのこした[23]演奏えんそうかいだい成功せいこうであったが、宣伝せんでんのチラシにはおおきく「ヨハン・シュトラウス」と印字いんじされていたし、デビューコンサートをめくくったのはちち代表だいひょうさくローレライ=ラインの調しら』であった[22]宮廷きゅうてい舞踏ぶとうかい音楽おんがく監督かんとくにまでなっていたちちヨハンの人気にんき無視むしすることは不可能ふかのうだったのである[22]

ともかく、こうしてちちとはライバル作曲さっきょくとなり、たがいに競争きょうそう余儀よぎなくされることになった[21]だいの「ワルツ合戦かっせん」がまくけたこのとしははアンナはおっと離縁りえんじょうたたきつけ、離婚りこん正式せいしき成立せいりつした。1846ねんから1847ねんあいだに、シュトラウス親子ちかこおなじオペラにもとづく楽曲がっきょく3つをそれぞれ作曲さっきょくした[24]。これらはいずれもカドリーユであることから、「カドリーユ対決たいけつ」とばれる[24]。しかしやがて親子おやこ和解わかいし、音楽おんがくじょう協力きょうりょくまでするようになったという[12]

1848ねん革命かくめいへの加担かたん

編集へんしゅう

ヨハン2せい東欧とうおうへの演奏えんそう旅行りょこうっていたさい1848ねん革命かくめいこる。これにさいしてヨハン2せいは、ただちに祖国そこくもどってオーストリア南部なんぶシュタイアーマルクからウィーンの革命かくめいのなりゆきを傍観ぼうかんした[25]。そして市民しみんがわ優勢ゆうせい判断はんだんし、革命かくめい支持しじしゃ名乗なのってウィーンへもどった。そして、『革命かくめい行進曲こうしんきょく』、『学生がくせい行進曲こうしんきょく』、『自由じゆううた』などを作曲さっきょくし、学生がくせい中心ちゅうしんとするわか革命かくめい参加さんかしゃ先頭せんとうった[25][26]挙句あげくてには、当時とうじオーストリアでは禁制きんせいだったフランスの革命かくめいラ・マルセイエーズ』を演奏えんそうしてみせた[27][26]。このようなはん政府せいふてき活動かつどうによって、当時とうじ宮廷きゅうていからはきらわれることになった[26]

やがてヨハン2せい革命かくめい運動うんどう嫌気いやけがさしてきて、革命かくめい鎮圧ちんあつされるとヨハン2せいはバリケードを片付かたづけ、もと生活せいかつもどろうとした。皇帝こうていフェルディナント1せいからフランツ・ヨーゼフ1せいわると、ヨハン2せい一転いってんし『皇帝こうていフランツ=ヨーゼフ行進曲こうしんきょく』を作曲さっきょくするも、皇帝こうていからはなん反応はんのうもなかった[26]。ヨハン2せいは、ラ・マルセイエーズを演奏えんそうしたことから、要注意ようちゅうい人物じんぶつとして警察けいさつかんされるようになってしまった[28]警察けいさつへの出頭しゅっとうめいじられ、このとき様子ようすはげしくこまかく尋問じんもんされた[28]。ここでヨハン2せいは、確固かっことした思想しそうによるものではなく、たんなる出来心できごころにすぎない、とかえ供述きょうじゅつした。最後さいごには「もう二度にどと、このような馬鹿ばかなまねはいたしません。ですから、どうかおゆるしを」とふか後悔こうかいした様子ようす警察官けいさつかんちかったという[29]

ちちヨハンのおとうとたちのデビュー

編集へんしゅう
 
シュトラウスさん兄弟きょうだいのモンタージュ写真しゃしんひだりからじゅん末弟ばっていエドゥアルト、ヨハン2せいちょうおとうとヨーゼフ

1849ねんちちヨハン1せい死去しきょする。ちち葬儀そうぎませたのち、ヨハンはシュトラウス楽団がくだん自分じぶん楽団がくだん吸収きゅうしゅうした[30]。それまで親子おやこ分散ぶんさんされていた仕事しごとが、ちちによってヨハンのもとに集中しゅうちゅうするようになった。この時期じきのヨハンは非常ひじょういそがしく、いちばん舞踏ぶとうじょうやレストランを5けん以上いじょう演奏えんそうまわったとされ、馬車ばしゃなかつくられたワルツもあるとさえつたえられる[31]。5かしょ以上いじょう演奏えんそうじょう自身じしんかんしたオーケストラをいたため、シュトラウス楽団がくだん一時期いちじき200にんえる大所たいしょたいだったという[31]。なお、ヨハン1せいつとめていた宮廷きゅうてい舞踏ぶとうかい音楽おんがく監督かんとく役職やくしょくは、宮廷きゅうていきらわれてしまっていたヨハン2せいぐことはかなわず、フィリップ・ファールバッハ1せいうばわれてしまった。

1851ねんあき、フランツ・ヨーゼフ1せい命名めいめいいわ式典しきてん便乗びんじょうして、カドリーユ『万歳ばんざい!』を作曲さっきょくし、皇帝こうてい献呈けんていした[32]。それがこうそうしたのか、1852ねん謝肉祭しゃにくさいにおいて、ヨハンは宮廷きゅうていのダンスの指揮しきをやっとゆるされた[26]1853ねん皇帝こうてい襲撃しゅうげき事件じけんさいしては『皇帝こうていフランツ・ヨーゼフ1せい救命きゅうめい祝賀しゅくが行進曲こうしんきょく』を作曲さっきょくし、皇帝こうてい婚礼こんれいさいしては『ミルテの花冠かかん』を作曲さっきょくするなど、ハプスブルクとのむすびつきを次第しだいつよめていった。こうしてヨハンは宮廷きゅうていでの仕事しごとつようになった。(ただし宮廷きゅうてい舞踏ぶとうかい音楽おんがく監督かんとくには1863ねんまで就任しゅうにんさせてもらえなかった)

このころのヨハンは、あまりのいそがしさのために、しばしば再起さいき不能ふのうかとおもわれるほどの重病じゅうびょうたおれた[33]1850ねんには過労かろうによって危篤きとく状態じょうたいにまでおちいった[34]。そこでははアンナは1853ねん次男じなんヨーゼフにあに代役だいやくとして指揮しきしゃつとめさせることをおもいつき、ヨハンもこれに同調どうちょうした[33][35]。さらにアンナとヨハンは、末弟ばっていエドゥアルトをも音楽家おんがくかみちきずりんだ。結果けっかてきにはヨハンがたおれたことが、おとうとたちに音楽家おんがくか人生じんせいあゆませるきっかけとなったのである。

法律ほうりつ協会きょうかい医師いしかい技術ぎじゅつ協会きょうかい芸術げいじゅつ協会きょうかいなどの団体だんたい公開こうかい舞踏ぶとうかいもよおさいには、きまってヨハンのもとに新曲しんきょく依頼いらいんできた。兄弟きょうだい仕事しごと分担ぶんたんするようになってもヨハンの生活せいかつ相変あいかわらず多忙たぼうをきわめ、「いつも夜会やかいふくらすおとこ」とばれることもあった[12]

ロシア・パヴロフスク公演こうえん

編集へんしゅう
 
パヴロフスク駅舎えきしゃでの演奏えんそうかい様子ようす

ちちおなじく、ヨハンの音楽おんがく活動かつどうはオーストリア国内こくないにはまらなかった。とくにこの時代じだい、もはやウィーンは「ワルツ・ビジネス」の市場いちばとしてせまいものになっていた[36]。そこでヨハンは、1856ねんロシア鉄道てつどう会社かいしゃ契約けいやくむすび、なつのシーズンにはパヴロフスク駅舎えきしゃ演奏えんそうかい指揮しきするようになった[37]

パヴロフスクでの宿泊しゅくはく鉄道てつどう会社かいしゃ負担ふたんし、報酬ほうしゅうは1まん8000ぎんルーブル(当時とうじのオーストリア通貨つうかで3まん6000グルテン)と規定きていされた[38]。ウィーンでは、宮廷きゅうてい舞踏ぶとうかいでの指揮しきが9グルテン、楽譜がくふ印税いんぜいがワルツ1きょくにつき250グルテンであり、ロシアで支払しはらわれる報酬ほうしゅう破格はかく金額きんがくであった[38]。ウィーンでは楽団がくだんいんへの給与きゅうよ支払しはらいにこまり、楽譜がくふ出版しゅっぱん業者ぎょうしゃハスリンガーの前払まえばらいによって急場きゅうばをしのぐことがあったが、ロシアで仕事しごとったのちはそのようなことはなくなった[39]1857ねんなつ、ヨハンはハスリンガーにててつぎ手紙てがみいている[39]

きるならロシアにかぎります。ここにはかねがあります。かねのあるところにこそ人生じんせいが、まさに人生じんせいがあるのです。……ウィーンの舞踏ぶとうかいやガーデン・フェスティバルで、こんながくかねにすることは不可能ふかのうです。

ウィーン宮廷きゅうていとは対照たいしょうてきに、ヨハンはロシア宮廷きゅうてい寵児ちょうじとなった[40]。パヴロフスクの演奏えんそうかいには皇帝こうていアレクサンドル2せい一家いっか姿すがたせ、チェロの名手めいしゅであった皇帝こうていおとうとコンスタンチン・ニコラエヴィチ大公たいこうは、ヨハンのオーケストラにくわわって演奏えんそうすることもあったという[40]。ヨハンはしばしばツァールスコエ・セローパヴロフスク宮殿きゅうでんまねかれてロシア皇室こうしつ歓待かんたいけ、戴冠たいかんしきやその祝賀しゅくが行事ぎょうじにも招待しょうたいされた[40]

契約けいやくきんはそのさらにげられ、1859ねんには2まんぎんルーブルに、1865ねんには4まんぎんルーブルになった[39]。パヴロフスクでの演奏えんそうは、シュトラウス莫大ばくだいとみをもたらした。このコンサートは、1856ねんから1865ねんまでの10年間ねんかんにわたってつづけられた。すなわち、ヨハンは1ねんのうちのほぼ半分はんぶんをパヴロフスクでの作曲さっきょく指揮しきついやすという生活せいかつ毎年まいとし10ねんにわたってつづけたのである[41]。この10年間ねんかんのちも、ヨハンは1869ねん1886ねんの2かいパヴロフスクでのコンサートをけている[41]

オペレッタへの進出しんしゅつ

編集へんしゅう
 
シュトラウスとオッフェンバック風刺ふうし。「1さくのオペレッタで、シュトラウスはすでにオッフェンバックをしのいでしまった」

1870ねんはヨハンの身内みうち次々つぎつぎった不幸ふこうとしだった。ははアンナ、おとうとヨーゼフ、さらには叔母おばいきり、たいして病的びょうてき恐怖きょうふしんいていたとされるヨハンは精神せいしんてきにすっかりまいってしまった。作曲さっきょく意欲いよくうしなったヨハンにたいしてつまヘンリエッテや周囲しゅうい人間にんげんは、オペレッタの作曲さっきょく熱烈ねつれつすすめた。かつてオッフェンバックに「きみもオペレッタをいてみたらどうだい」とすすめられていた影響えいきょうもあって、ヨハンはオペレッタへのみちすすむことを決意けついした。

苦労くろうしてれた宮廷きゅうてい舞踏ぶとうかい音楽おんがく監督かんとく地位ちい1871ねん1がつ末弟ばっていエドゥアルトにゆずって[42][43]最初さいしょのオペレッタ『インディゴと40にん盗賊とうぞく』のために集中しゅうちゅうした[43]台本だいほん評価ひょうかはあまりくないが、ヨハンの音楽おんがく舞台ぶたいはなやかさ、れやかなおどりのおかげで成功せいこうおさめた。オペレッタに進出しんしゅつした1871ねん以降いこう、ヨハンはあたらしいダンス音楽おんがくをほとんどかなくなった[42]。これ以降いこうヨハンはオペレッタに活動かつどううつし、またエドゥアルトはシュトラウス楽団がくだん頂点ちょうてん君臨くんりんすることとなった。

最初さいしょのうちはオッフェンバックにおおきくおくれをとっていたが、やがてヨハンはオッフェンバックをはるかに凌駕りょうがするオペレッタ作曲さっきょくとなった[44]今日きょうではヨハンの『こうもり』と『ジプシー男爵だんしゃく』がオペレッタの王座おうざ獲得かくとくし、その上演じょうえん回数かいすうはオッフェンバックの『天国てんごく地獄じごく』とは比較ひかくにならないほどおお[44]。ヨハンは台本だいほんえらびが苦手にがてだったといわれ、かれのオペレッタのだい部分ぶぶん今日きょうではわすられているが、に『ジプシー男爵だんしゃく』『ヴェネチアの一夜いちや』、既成きせいきょくつないだ『ウィーン気質きしつ』が今日きょうでもしばしば上演じょうえんされている。

アメリカ公演こうえん

編集へんしゅう
 
ボストン世界せかい平和へいわ記念きねんさい

1872ねん6月17にちアメリカボストンで、アメリカ独立どくりつ100周年しゅうねん祝典しゅくてんをかねた世界せかい平和へいわ記念きねんさいおよび国際こくさい音楽おんがくさい開催かいさいされることとなった[45][46]。この指揮しきしゃとしてまねかれたのが、当時とうじトップクラスの人気にんきほこ音楽家おんがくかだったヨハンである。報酬ほうしゅう当時とうじとしては破格はかくの10まんドルとされた。

旅行りょこうぎらいだったヨハンは、大西おおにしひろしえるなが船旅ふなたび恐怖きょうふしんいており、あまりではなかった[46]つまヘンリエッテの説得せっとくによってアメリカ訪問ほうもん決意けついしたが、このさいヨハンは船旅ふなたびにあたって遺言ゆいごんしょ作成さくせいしたという[46]

このボストン世界せかい平和へいわ記念きねんさいは、聴衆ちょうしゅう10まんにんという当時とうじとしては空前くうぜん規模きぼ演奏えんそうかいであった(ウィーンでは5000にんですら「モンスター・イベント」だった)。『うつくしくあおきドナウ』の指揮しきさい、2まんにん演奏えんそうしゃ歌手かしゅただしいテンポをあたえるため、100にんふく指揮しきしゃ補助ほじょとして配置はいちされた。以下いかに、ボストン世界せかい平和へいわ記念きねんさいについてのヨハンのべんしる[45][47]

わたしができたのは、すぐそばのひと理解りかいさせることくらいだった。練習れんしゅうわせることが問題もんだいで、演奏えんそう芸術げいじゅつてき完成かんせいなどまるでかんがえられなかった。だがこれをことわると、かえすのに一生いっしょうかかるほどの違約いやくきんはらわねばならない!10まんにんのアメリカじんまえったわたし姿すがた想像そうぞうしてみてください。どうやってはじめたらいいのか……どうやってわらせたらいいのか?突然とつぜん大砲たいほうおとひびわたった。わたしたち2まんにんにコンサートをはじめろというやさしいウィンクである……わたし指示しじすと、配下はいかふく指揮しきしゃ100にんは、できるかぎり迅速じんそくに、それにしたがった。こうして英雄えいゆうげきともいうべきスペクタクルはじまった。これは一生いっしょうわすれることができない。全員ぜんいんがだいたいのところ、おな瞬間しゅんかんにはじめられたので、わたしぜん神経しんけいはこんどは同時どうじわることに集中しゅうちゅうした。おかげさまで、それもできた。これが人間にんげんのできる限界げんかいである。聴衆ちょうしゅう10まんにん拍手はくしゅひびき、わたしはほっとした。ふたたびがい空気くうきれ、しっかりとした大地だいちあしろしたようなかんじだった……。翌日よくじつわたしはアメリカ全土ぜんどまわらくたびさきがけとして、カリフォルニア全土ぜんど演奏えんそう旅行りょこうわたし約束やくそくしに興行こうぎょう一連いちれんたいからげなければならなかった。

ボストンでじゅうすうかいのコンサートと舞踏ぶとうかい指揮しきしたのち、ヨハンはさらにニューヨークでのコンサートにのぞみ、いずれもだい成功せいこう熱狂ねっきょうてき歓迎かんげいけた[47]。なお、この成功せいこうにもかかわらず、ヨハンはアメリカの「馬鹿ばかげた音楽おんがく聴衆ちょうしゅう」を軽蔑けいべつしたといわれる[48]

音楽家おんがくか生活せいかつ50周年しゅうねん

編集へんしゅう
 
ヨハン2せい音楽家おんがくか生活せいかつ50周年しゅうねんいわ紙面しめん(1894ねん

1844ねんのデビューから50ねん1894ねん、10月15にち前後ぜんこうにヨハンの音楽家おんがくか生活せいかつ50周年しゅうねんのための一連いちれん祝賀しゅくが行事ぎょうじ盛大せいだいもよおされた[23]。12にちアン・デア・ウィーン劇場げきじょうにおいて「祝賀しゅくがオペレッタ」としてヨハンによる14さくのオペレッタ『りんごまつり』が初演しょえんされたのが、祝賀しゅくが行事ぎょうじ皮切かわきりだった[23]

よく13にちにはヨハンのワルツ音楽おんがくつないでつくられたバレエ『ウィーンめぐり』がウィーン宮廷きゅうてい歌劇かげきじょう初演しょえんされ、14にちにはウィーンらくとも協会きょうかいで「作曲さっきょくヨハン・シュトラウスの50周年しゅうねん祝賀しゅくが演奏えんそうかい」がひらかれた。同日どうじつ夕方ゆうがた5時半じはんからは、おとうとエドゥアルトひきいるシュトラウス楽団がくだんにより、「作曲さっきょくヨハン・シュトラウスの50周年しゅうねんいわ祝賀しゅくが演奏えんそうかい」が開催かいさいされた[23]。15にちよる10からは、リングシュトラーセ沿いのグランド・ホテルで華々はなばなしい晩餐ばんさんかいひらかれた[49]。そして、28にちに『こうもり』をウィーン宮廷きゅうてい歌劇かげきじょう上演じょうえんしてすべての祝賀しゅくが行事ぎょうじめくくられた[49]。これらの祝賀しゅくがしょ行事ぎょうじは「シュトラウス祝賀しゅくが委員いいんかい」が仕切しきり、ヨハンはすべての行事ぎょうじ出席しゅっせきした[49]

このほかにも、「シュトラウス祝賀しゅくが委員いいんかい」とは関係かんけいのない祝賀しゅくが行事ぎょうじが、ウィーンのまちいたるところでひらかれ、16にちづけの『Fremden-Blatt』は「ウィーン音楽おんがく演奏えんそうされる酒場さかばにおいて、いわわれるべきひとおもいをはせなかったところはひとつもない」とひょうした。フォルクスガルテンドイツばん、クアサロン、造園ぞうえん協会きょうかい、ゾフィーエンザール、ホプフナー(きゅうドームマイヤー)、プラーターのだい2コーヒーハウスなど、ウィーンのだたる娯楽ごらくじょうで、シュトラウスを祝賀しゅくがする演奏えんそうもよおされ、ウィーンの新聞しんぶん各紙かくし文芸ぶんげいらんでこぞってヨハンの功績こうせきとなえた[49]祝賀しゅくがのためのオペレッタ『ウィーンめぐ』にあしはこんだヨハン2せいは、「充分じゅうぶんすぎるよ。わたしはこれに見合みあうことはしていない。充分じゅうぶんすぎないかい?」という言葉ことばのこしたという。このすうねんまえには皇帝こうていフランツ・ヨーゼフ1せい以上いじょうひょうて「世界せかいさんだい有名人ゆうめいじん」の一人ひとりえらばれるなど、ヨハンの人気にんき絶頂ぜっちょうにあった。

 
よこたえられたヨハン2せい遺体いたい

わがとうひとつのドイツ」をテーマにかかげたドイツ射撃しゃげき連盟れんめいのイベントにせられた行進曲こうしんきょくねらって!』があるように、国籍こくせきうつした晩年ばんねんだいドイツ主義しゅぎてき立場たちばへの傾斜けいしゃうかがわれる。もっともこれらは、ながらくドイツ諸国しょこく盟主めいしゅでありながら統一とういつドイツから除外じょがいされてしまったオーストリア国民こくみん気分きぶん反映はんえいしたものといえ、オーストリアじんとプロイセンじんわせによる3くみのカップルが誕生たんじょうしてわる歌劇かげきウィーン気質きしつ』のストーリーにも濃厚のうこううかがえる。

としってもヨハンは、くろ々としたかみ、ゆたかなひげ若々わかわかしいはだびた背筋せすじたもっていた[50]。そのためヨハンはしばしば「永遠えいえん若者わかもの」とばれたが、かみくろさはひげポマードはだべに背筋せすじ燕尾服えんびふくしたコルセットのおかげであった[50]人々ひとびとまえでは元気げんきにふるまいながらも、いえかえればつかてた様子ようすでソファーにたおれこむような状態じょうたいだった[50]いは確実かくじつにヨハンのからだむしばんでいたのである。ヨハン自身じしんがそうとおくないことをさとっていたようで、作品さくひん番号ばんごうけられた最後さいご作品さくひんライムント時代じだい調しら』は、まるで生涯しょうがい回想かいそうするかのような作品さくひんとなっている。

グスタフ・マーラーから、ウィーン宮廷きゅうてい歌劇かげきじょう上演じょうえんするバレエきょく(『はいかぶりひめ』というシンデレラ物語ものがたり)を委嘱いしょくされたが、ヨハンの存命ぞんめいちゅうには完成かんせいせず、未完みかんのままることになる。1899ねんの5がつ下旬げじゅん劇場げきじょう自作じさくきょく指揮しきをしていたヨハンはひどい悪寒おかんをおぼえ[51]数日すうじつ無理むりしてサインかいひらいたのち、そのばんから寝込ねこんでしまった[52]何人なんにんかの医師いし診察しんさつした結果けっか当時とうじ命取いのちとりのやまいとされた肺炎はいえんであることが判明はんめいした[51]つまアデーレはヨハンに本当ほんとう病状びょうじょうかくし、「神経痛しんけいつうですから、しばらく我慢がまんしてね。すぐにくなるわよ」とうそをついた[51]きかけのバレエがよほどになっていたようで、作業さぎょう中断ちゅうだんせざるをえないくやしさを幾度いくどとなくくちにした[52]肺炎はいえんおかされたからだをむりやりこし、作曲さっきょくふでをとろうとした。高熱こうねつおそわれ、幻覚げんかく症状しょうじょうにおちいったヨハンには、周囲しゅうい人形にんぎょうがバレリーナにえたらしい[52]

6月3にちまえばんからきっきりで看病かんびょうしていたつまアデーレから「あなた、おつかれでしょう。すこしおやすみになったら……」とわれたヨハンは、微笑ほほえんで「そうだね。どっちみちそうなるだろう……」とこたえてをつぶった[51]。これがヨハンの最後さいご言葉ことばだった[51]。その午後ごご415ふんつま看取みとられて死去しきょした[51]享年きょうねん75。マーラーが未完みかん作品さくひん上演じょうえんすることはなかった。

ヨハンが死去しきょしたというらせをけたウィーンは、ただちにウィーン中央ちゅうおう墓地ぼちなか特別とくべつ墓地ぼちもうけることを決定けっていした[53]葬式そうしきには10まんにん市民しみん参列さんれつしたとされ[54]、このさいヨハンの「新曲しんきょく」がいくつも追悼ついとうとして演奏えんそうされた[53]未亡人みぼうじんとなったヨハンのつまアデーレが、おっと発表はっぴょう作品さくひんおくし、さらにはのこされた膨大ぼうだいなスケッチをあつめ、べつ作曲さっきょく依頼いらいしてそれらをたくみにつなげさせ、新作しんさくとして発表はっぴょうしたのである[55]死後しごすうねんてからも、ヨハンの「新曲しんきょく」は次々つぎつぎされた。そのウィーンでは、『われらがワルツおうおも』『シュトラウスのいえ』などのうた流行りゅうこうした[55]

ヨハンのから5ねん1904ねん、シュトラウス記念きねんぞう建立こんりゅうしようとするうごきがたかまった[56]。そのらぬものはいないほどの有名人ゆうめいじんであったにもかかわらず、その銅像どうぞうひとつもなかったのである[56]委員いいんかい設置せっちされ、記念きねんぞう建立こんりゅうのための募金ぼきんはじめられたが、その途上とじょうサラエボ事件じけんこり、活動かつどう挫折ざせつ余儀よぎなくされる[56]だいいち世界せかい大戦たいせん敗北はいぼくして共和きょうわせい移行いこうしたオーストリアについて、「ヨハン・シュトラウスとともに、ハプスブルク帝国ていこくんだ」といった評価ひょうかがされることもある[57]

1921ねん、ついに黄金おうごんかがやくシュトラウス記念きねんぞう建立こんりゅうされたが[57]贅沢ぜいたくすぎるとの批判ひはんけて黒色こくしょくえられた[58]1991ねんにあらためてもと金色きんいろなおされたヨハン・シュトラウス記念きねんぞう現在げんざい、ウィーンの代表だいひょうてき観光かんこう名所めいしょのひとつとしてしたしまれている[59]

女性じょせい関係かんけい

編集へんしゅう
 
オルガ・スミルニツキー(1837-1920)

ヨハン・シュトラウス2せいは、生涯しょうがいに3結婚けっこん経験けいけんしている。3にんつまとのあいだ子女しじょはいない(3にんつま・アデーレにぜんほろびおっとむすめがいたのみ)。ヨハンは生前せいぜんさまざまな女性じょせいながしており、肉体にくたい関係かんけいむすんだ相手あいてすうれず、好色こうしょくがたたって性病せいびょうにかかったこともある[60]性病せいびょうのために子供こどもができなかったといううわさ[60]早世そうせいしたおとうとヨーゼフの未亡人みぼうじんカロリーネにしたとのうわさもささやかれた[61]未亡人みぼうじんとなった最後さいごつまアデーレはこのようなうわさ必死ひっしになって否定ひていし、ヨハンの清潔せいけつさを喧伝けんでんした[60]

まいなつパヴロフスク演奏えんそう旅行りょこうしていたヨハンは、30さいころオルガ・スミルニツキーというロシア貴族きぞくむすめりあった[62][63]。ふたりは結婚けっこん約束やくそくまでわしたが、彼女かのじょ両親りょうしん反対はんたいによってわかれたという。アデーレはこのけんかんして、ほろびおっとのこしたオルガとの手紙てがみのこらず世間せけん公表こうひょうした[62]。この清純せいじゅん悲恋ひれん物語ものがたりは、アデーレによってかなり誇張こちょうされて出回でまわった[62]。アデーレは、世間せけんられたくないおっと側面そくめんかくどおそうとしたのである[60]

オルガのほかにも、シュトラウスの自宅じたく付近ふきんんでいたエリーゼという女性じょせいとの結婚けっこんかんがえたこともある。エリーゼはははアンナが息子むすこ花嫁はなよめ候補こうほかんがえた女性じょせいであり、実現じつげんはしなかったがヨハンも彼女かのじょとの結婚けっこんで、『エリーゼ・ポルカ』(作品さくひん151)を作曲さっきょくしている。

以下いか、ヨハンの夫人ふじんとなった女性じょせいげる。括弧かっこない婚姻こんいん期間きかんである。

ヘンリエッテ (1862 - 1878)

編集へんしゅう
 
最初さいしょつまヘンリエッテ
 
オペラ歌手かしゅ時代じだいのヘンリエッテ

ヨハンが最初さいしょ結婚けっこんしたのは、銀行ぎんこうモーリッツ・フォン・トデスコドイツばん男爵だんしゃく愛人あいじんで、すでに二人ふたり子持こもちで、しかもヨハンよりも11さい年上としうえ女性じょせいヘンリエッテ・ハルベツキードイツばんだった。ヨハンは社交しゃこうかい花形はながたであり、かれ周囲しゅういにはいつもうつくしい女性じょせいあつまっており、かれがどんな女性じょせい結婚けっこんするかはウィーンの街角まちかどにぎわせた話題わだいだった[1]。そのような状況じょうきょうで、ヨハンがえらんだ相手あいてにウィーンの人々ひとびとおどろいた。とくにウィーンの女性じょせいは、このニュースをいて呆然ぼうぜんとしたという[64]

ヘンリエッテはかつて「イエッティ」という芸名げいめいでオペラ歌手かしゅとして舞台ぶたいち、めい歌手かしゅジェニー・リンド匹敵ひってきする人気にんきがあったといわれる[64]。ヨハンが彼女かのじょはじめて出会であったのは、トデスコ男爵だんしゃくもよおされた舞踏ぶとうかい指揮しきしゃとしてまねかれたときのことである[64]。このときヨハンは男爵だんしゃく同棲どうせいしていたヘンリエッテに一目惚ひとめぼれし、しばしば男爵だんしゃく彼女かのじょのもとへかようようになった。やがてヨハンとヘンリエッテが相思相愛そうしそうあいなかになったことをると、トデスコ男爵だんしゃくはふたりの結婚けっこんこころよみとめた[64]

1862ねん4がつにヨハンはパヴロフスクにおもむいたが、現地げんちでヨハンは病気びょうき再発さいはつしたとのほうけ、おとうとヨーゼフが代役だいやくたすためにロシアに急行きゅうこうした[65]あにったヨーゼフによると、ヨハンに病気びょうきらしい様子ようすはみられず、ヨハンは4にち突然とつぜんウィーンへの帰路きろについた。そしてウィーンにかえってからのヨハンは、ヘンリエッテとの結婚けっこんのための諸々もろもろ準備じゅんびをしはじめた[65]。ヨーゼフは自身じしんつまカロリーネにてた手紙てがみで、「あに医師いし教授きょうじゅらすべてのひとをかついだのだ」といている[65]。1862ねん8がつまつせいシュテファン教会きょうかいにおいて彼女かのじょとの結婚式けっこんしきおこなわれた。新郎しんろうヨハンは36さい新婦しんぷヘンリエッテは47さいであった[64]

実家じっかのすぐちかくに新居しんきょかまえ、新婚しんこん生活せいかつおくるようになった[66]ははアンナは息子むすこつまには家柄いえがら身持みもちのしっかりした女性じょせいをとのぞんでいたので、最初さいしょのうちはヘンリエッテをこころよおもっていなかったようである[64]。しかし、ヨハンが国外こくがい演奏えんそう旅行りょこうかけた留守るすちゅう一緒いっしょらすようになってからは、アンナのヘンリエッテにたいする気持きもちもわったといわれている[67]

ヘンリエッテにはかなりの財産ざいさんがあり、社交しゃこうかいでも花形はながたてき存在そんざいであったことから、ウィーンの上流じょうりゅう社会しゃかい有力ゆうりょくなコネをっていた。結婚けっこんの2ねんにヨハンは宮廷きゅうてい舞踏ぶとうかい楽長がくちょう就任しゅうにんすることができたが、これもヘンリエッテのかげちからがあったからだといわれる[67]。ヨハンはつまのことを「ぼく財布さいふ」とび、ヘンリエッテはおっとのことを「わたしぼうや」とんだ[66]財政ざいせいてきにもゆたかになったおかげで仕事しごとえらべるようになり、ヨハンは指揮しきよりもむしろ作曲さっきょくちからそそぐようになった[67]。また、ヘンリエッテは音楽家おんがくかつまとして理想りそうてき性格せいかくであったことから、ヨハンは彼女かのじょ結婚けっこんしたことによって音楽家おんがくかとしておおきく成長せいちょうすることができた[67]

1870ねんははアンナとおとうとヨーゼフが相次あいついでり、ヨハンは大変たいへんなショックをけた[54]宮廷きゅうてい舞踏ぶとうかい楽長がくちょうなどのすべての公的こうてき仕事しごとからいたヨハンに、ヘンリエッテはオペレッタ作曲さっきょくすすめた。当初とうしょヨハンは、「自分じぶんにはその才能さいのうがない」「歌詞かしのあるものに作曲さっきょくするのは苦手にがてだ」などといってことわったが[68]、ヘンリエッテが熱心ねっしんすすめるのでオペレッタを手掛てがけるようになった。ヘンリエッテはヨハンのきょくうたってみて、それにいろいろとアドバイスをあたえてはげましたという[69]

ヘンリエッテが60さいえて急激きゅうげきはじめると[69]つまたいするヨハンの愛情あいじょうめていき、浮気うわきかさねた[70]。 ヘンリエッテがんださい病的びょうてきなまでにこわがっていたヨハンは、葬儀そうぎ一切いっさい末弟ばっていエドゥアルトにまかせて、ウィーンから雲隠くもがくれしてしまったとされる[71]

アンゲリカ (1878 - 1882)

編集へんしゅう
 
番目ばんめつまアンゲリカ

ヘンリエッテのから半月はんつきたないうちに、20さい歌手かしゅアンゲリカ・ディットリヒが、ヨハンの知人ちじん指揮しきしゃ紹介しょうかいでヨハンのもとにやってきた[71]。ヨハンは27さい年下とししたのアンゲリカに一目惚ひとめぼれして夢中むちゅうになって求婚きゅうこん[71]、ヘンリエッテののわずか2かげつ再婚さいこんした[72]。ヨハンの作品さくひん400『キス・ワルツ』には、「あいするつまアンゲリカへ」という献辞けんじえられており[73]、ヨハンのねつげようがうかがえる。

肉体にくたいてきにも精神せいしんてきにも、このとし夫婦ふうふうはずがなかった[71]はなやかな音楽家おんがくか生活せいかつあこがれてヨハンと結婚けっこんしたアンゲリカは、すぐにヨハンとの結婚けっこん失望しつぼうした[71]。ヨハンのことを「いぼれ!」とののしり、平然へいぜん浮気うわきをするようになった[71]。アンゲリカは結婚けっこん5ねんに、アン・デア・ウィーン劇場げきじょうわか監督かんとくシュタイナーとこいち、ヨハンをててかれのもとにはしった[74]面目めんぼくうしなったヨハンは、オーストリア国外こくがいのがれようとすらかんがえたという[72]

なお、彼女かのじょはそのすぐに監督かんとく破局はきょくし、ヨハンを裏切うらぎったことを後年こうねんしきりにやんでいたとつたえられる[75]1926ねん、ヨハンの手紙てがみをまとめて出版しゅっぱんした。

アデーレ (1887 - 1899 )

編集へんしゅう
 
さん番目ばんめつまアデーレ

ある、フェルディナントきょうのたもとでアデーレ・ドイッチェに出会であ[74]彼女かのじょはヨハンの幼馴染おさななじみで、シュトラウスというヨハンと同姓どうせいいえとついだが、おっと先立さきだたれ未亡人みぼうじんとなっていた[74]。かつてヨハンがヘンリエッテとらしていた「鹿しかかん」で隣人りんじん同士どうしでもあった。ヨハンはアデーレが少女しょうじょだったころから好意こういせていたので、フェルディナントきょうでの再会さいかい、ときおりおくものをしたりして彼女かのじょちかづくようになり、ついにはそのしん射止いとめた[74]。アデーレは、わかれたつまアンゲリカよりもさらにわかい26さいだった[75]

しかし、アデーレとの結婚けっこんにはいくつか障壁しょうへきがあった。ちしたつまアンゲリカは結局けっきょく恋人こいびとてられ、ヨハンとよりをもどそうとしていた。そのため、アンゲリカは正式せいしき離婚りこんになかなかおうじようとしなかったのである[76]。また、アデーレはプロテスタントでしかもユダヤじんであり、カトリックのヨハンが彼女かのじょとウィーンで結婚けっこんするのは面倒めんどうなことがおおかった[76]。ヨハンには離婚りこん前歴ぜんれきがあるため、カトリックの教理きょうりによって再婚さいこん無効むこうなされたのである[77]

そこでヨハンは、オーストリア国籍こくせきててドイツ帝国ていこくうちザクセン=コーブルク=ゴータ公国こうこくせきうつし、さらにプロテスタントに改宗かいしゅうした[76]。この国籍こくせき変更へんこうには、ヨハンの熱心ねっしん信奉しんぽうしゃであった公爵こうしゃくエルンスト2せい尽力じんりょくがあった[78]。ヨハンとアデーレはただ国籍こくせきうつしただけで、そのもウィーンでらした。公国こうこくないいえかまえ、税金ぜいきんおさめたが、それらはあくまでも結婚けっこんのための方便ほうべんにすぎなかった[78]

アデーレは最初さいしょつまヘンリエッテのように献身けんしんてき女性じょせいであり、彼女かのじょとの夫婦ふうふ生活せいかつ幸福こうふくなものであった。アデーレはかつて隣人りんじん時代じだいにヘンリエッテがどのようにヨハンをささえていたかをっていたのである[75]。また、子供こどものいないヨハンは、彼女かのじょであるアリーチェをむすめのように可愛かわいがったという。なお、アリーチェは1896ねんにヨハンと親交しんこうのあった画家がかフランツ・フォン・バイロス結婚けっこんしている。

評価ひょうか

編集へんしゅう
 
ブラームスとも

どう時代じだい活躍かつやくしただい多数たすう音楽家おんがくかたちは、ヨハン2せい当代とうだいでもっともすぐれた作曲さっきょくであるとみとめていた。リヒャルト・シュトラウス同姓どうせいだが血縁けつえん関係かんけいはない)は、ヨハン2せいのことを「世界せかいよろこびをけあたえるべく天性てんせい素質そしつめぐまれているもののなかで、ヨハン・シュトラウスこそ、とりわけわたしきつけはなさぬ最高さいこうひと」と称賛しょうさんしており[79]、ヨハン2せいおもかべることなしに『ばらの騎士きし』のワルツをすことはありえなかったとっている[80]

また、当時とうじベートーヴェンの正統せいとう後継こうけいしゃとなえられていたブラームスは「シュトラウスの音楽おんがくこそウィーンのであり、ベートーヴェンシューベルトながれを直接ちょくせつけた主流しゅりゅうである」とっている[81]。ブラームスの支持しじおおきな影響えいきょうがあり、かつてヨハン2せい作品さくひんを「現代げんだいてきすぎる」「ワルツのレクイエム」などと酷評こくひょうしていた音楽おんがく評論ひょうろんエドゥアルト・ハンスリック立場たちば[82]、オペラ『騎士きしパズマン』のころには「今日きょうではかれもっと効果こうかてきなバレエをくことができる唯一ゆいいつ作曲さっきょくである」などと称賛しょうさんするほどになった。

そのワーグナーなども「自分じぶんにこのようなかる音楽おんがくけないのが残念ざんねんだ」とヨハン2せいのワルツの指揮しきをしたのちかたり、「かれはヨーロッパ音楽おんがく最高峰さいこうほうひとつである。われわれの古典こてんモーツァルトからシュトラウスまで一筋ひとすじつづいている」とひょうしている[81]チャイコフスキーかれ作品さくひんあいしたひとりで、バレエ音楽おんがくくるみ人形にんぎょう』の「はなのワルツ」は、ヨハン2せい様式ようしきならっている。また、わかはウィーン宮廷きゅうてい歌劇かげきじょうそう監督かんとくとして名声めいせいたかかったマーラーは、それまでオペレッタを上演じょうえんすることがなかったどう歌劇かげきじょうでオペレッタ『こうもり』を正式せいしきにレパートリーとしている(1897ねん)。

上記じょうきのようにどう時代じだい仲間なかまからきわめてたか評価ひょうかているにもかかわらず、ワルツやポルカといった作品さくひんはしばしば「低俗ていぞく」となされ、今日きょうにおいてそれらの作曲さっきょくであるヨハン2せいのクラシック作曲さっきょくとしての評価ひょうか一般いっぱんてきたかくない。1989ねんニューイヤーコンサートにまつわるエピソードはその好例こうれいである。コンサートの録音ろくおん終了しゅうりょうソニー・クラシカルはCD発売はつばいけんるために指揮しきしゃカルロス・クライバーに50まんマルクという高額こうがく提示ていじした[83]。このときドイツ・グラモフォンもと社長しゃちょうは「たかがダンス音楽おんがくに?だったらベートーヴェンの作品さくひんのCDをいちまいすのにどんながくになる?」とのおもいをいたという[83]。また、クラシック音楽おんがくについてのだい多数たすう書籍しょせきでは、同姓どうせいのリヒャルト・シュトラウスについての記述きじゅつのほうがはるかにおおい。マゼール退任たいにんはニューイヤーコンサートが輪番りんばんせいとなったため、今日きょうでは世界せかい指揮しきしゃだい部分ぶぶんがシュトラウス作品さくひんおお手掛てがけるようになったが、それ以前いぜん録音ろくおん活動かつどう活発かっぱつでもウィンナワルツしゅうなど1まい手掛てがけていない指揮しきしゃほう多数たすうであり、ましてシュトラウス作品さくひん再三さいさんにわたって録音ろくおんつづけた指揮しきしゃとなると、マゼールよりまえ世代せだいではカラヤンクラウスぐらいである。こうしたながれからすると、ニューイヤーコンサート最後さいごのレギュラー指揮しきしゃけたマゼールおよび、どう世代せだいのカルロス・クライバー、アーノンクールらのシュトラウスへの肩入かたいれは、演奏えんそうかいにおけるおおきな転回てんかいてんになったともいえる(一方いっぽうでは往年おうねんシュトルツボスコフスキーのようなウィンナワルツのスペシャリストは、すくなくともメジャーな存在そんざいとしては姿すがたした)。評論ひょうろんにおいては、処理しょり単純たんじゅんさ、革新かくしんせいまずしさを指摘してきするぶん吉田よしだ秀和ひでかず宇野うのいさおかおる村田むらた武雄たけおらによってかれており[84]業界ぎょうかいがい文筆ぶんぴつとしてはドナルド・キーンがシュトラウスぎらいを明言めいげんしている。

 
「ヨハン・シュトラウス」としてバラの品種ひんしゅめいにもなっている
  • 1849ねんちちヨハン1せいくなったときに、ちち愛人あいじんエミーリエ・トランプッシュがその遺体いたいをそのままに、はこびできる荷物にもつすべったままったため、ヨハン2せいとアンナがその遺体いたいらなければならなくなった。このさいヨハン2せいはショックをけ、生涯しょうがいにわたり恐怖きょうふにおびえつづけた[85]。「」という単語たんごにしただけで狂乱きょうらん状態じょうたいおちい[86]ちちヨハン、ははアンナ、おとうとヨーゼフ、つまヘンリエッテいずれの葬儀そうぎにも出席しゅっせきしなかった[87]
  • はやもの苦手にがてであり、鉄道てつどう病的びょうてきなまでにきらっていた。列車れっしゃらざるをえないときには、すさまじいいきおいでってゆくそと風景ふうけいえないようにまどのカーテンをめ、ゆかにしゃがみんでシャンパンをあおりつづけたという[88]鉄道てつどうぎらいのみならず、田舎いなか自然しぜん大嫌だいきらいであった。自然しぜんなかかけることにつよ恐怖きょうふいていた[89]
  • 荒天こうてんこのんだとされる。あらしにはみをかべてそと風景ふうけいくことなくながめていたという[90]
  • ヨハンの指揮しきテンポやディナーミク(強弱きょうじゃくほう)の変化へんかすくなく、指揮しき腕前うでまえはけっしていとはえないものだった[91]。フランスじんアルベール・ド・ラサールが、ヨハンの指揮しきを「きたメトロノーム」とひょうしているほどである[91]
  • ヨハンを自宅じたくまねいて自分じぶんのためにつくらせたワルツでおどる、というのが当時とうじ貴族きぞく富豪ふごうたちのあいだ流行りゅうこうしたという[8]。とある金持かねもちの老婆ろうばの「わたしんだら、ヨハンの指揮しきでワルツを演奏えんそうしてくださいよ」という遺言ゆいごんこたえて、ヴァイオリンをってけつけたこともある[68][53]
  • ワルツをおどることについてはさっぱりだめで、どのようなことがあってもけっしておどろうとしなかったという[54]
  • エミール・ワルトトイフェルが「フランスのヨハン・シュトラウス」、ハンス・クリスチャン・ロンビが「北国きたぐにのヨハン・シュトラウス」とばれたように、どう時代じだいにおいて「ヨハン・シュトラウス」は才能さいのうあるワルツ作曲さっきょく代名詞だいめいしとしてあつかわれた。
  • 薄毛うすげなことで有名ゆうめいだった[92]。ヨハンのもとにはかれかみしがるおおくの手紙てがみとどいていたため、もしファンの要望ようぼうこたえたならばまたた禿頭はげあたまになっただろうというわらばなしがある[92]かれ秘書ひしょは、ヨハンの愛犬あいけんであるくろプードルいちつかみむしりって郵送ゆうそうした[92]。アメリカ公演こうえんさいにも女性じょせいファンたちにしつこくかみをねだられ、れい秘書ひしょ愛犬あいけんっておくり、おりをねがったという[47]

経歴けいれき

編集へんしゅう
 
ヨハン・シュトラウス2せい
() アウグスト・アイゼンメンゲル
  • 1825ねん10がつ25にち:ウィーンにまれる
  • 1832ねん:6さいとき最初さいしょ作品さくひん最初さいしょ楽想がくそう』(ワルツ、作品さくひん番号ばんごうし)を作曲さっきょくする
  • 1841ねんあき:ショッテン・ギムナジウム卒業そつぎょう
  • 1844ねん10がつ15にち午後ごご6:ホール「ドムマイヤー・カジノ」でデビュー演奏えんそうかい
  • 1846ねん6がつ23にちちちヨハン1せいいえまえで、自身じしん楽団がくだんいんすうにん演奏えんそう表向おもてむきは関係かんけい修復しゅうふくする。
  • 1848ねん:ウィーン男声だんせい合唱がっしょう協会きょうかい契約けいやく
  • 1851ねん11月:ドイツへ演奏えんそう旅行りょこう
  • 1852ねん11月:ドイツ・プラハへ演奏えんそう旅行りょこう
  • 1854ねん4がつ皇帝こうていフランツ・ヨーゼフ1せいエリザベートとの婚礼こんれい祝典しゅくてん舞踏ぶとうかい指揮しき
  • 1856ねんなつ:ロシアへはつ演奏えんそう旅行りょこう
  • 1862ねん8がつ2にち:ヘンリエッテ・チャルベツキー(通称つうしょうイエッティ・トレフツ)と結婚けっこん
  • 1863ねん宮廷きゅうてい舞踏ぶとうかい監督かんとく就任しゅうにん(1872ねんまで)
  • 1865ねん8がつ:パーブロフスクの駅舎えきしゃコンサートでチャイコフスキーの『性格せいかくてき舞曲ぶきょく』を初演しょえん
  • 1867ねん2がつ15にち:『うつくしくあおきドナウ』(合唱がっしょうばん)Op.314初演しょえん
  • 1867ねんなつ:パリ万国博覧会ばんこくはくらんかい出演しゅつえん
  • 1867ねん6がつ10日とおか:イギリスへ演奏えんそう旅行りょこう
  • 1870ねん2がつ23にちははアンナ69さい死去しきょ。(ウィーン中央ちゅうおう墓地ぼち埋葬まいそう当日とうじつのウィーンの舞踏ぶとうかいはすべて中止ちゅうし
  • 1871ねん2がつ10日とおか:シュトラウスはつ歌劇かげき『インディゴと40にん盗賊とうぞく』を初演しょえん
  • 1872ねん6がつ1にち:ブレーマーハーフェンよりアメリカへの演奏えんそう旅行りょこう旅立たびだ
  • 1872ねん6がつ15にち:ニューヨークへ到着とうちゃく(13にちとも)
  • 1872ねん6がつ17にち世界せかい平和へいわ記念きねんさいコンサートに出演しゅつえん
  • 1872ねん7がつ13にち:アメリカより帰途きと
  • 1872ねんなつ:バーデン=バーデンにてハンス・フォン・ビューロー、リヒャルト・ジュネとう。
プロイセンおうヴィルヘルム1せいより「あかわし」の勲章くんしょうたまわる。
  • 1874ねん4がつ5にち歌劇かげき『こうもり』初演しょえん
  • 1892ねん1がつ1にち宮廷きゅうてい歌劇かげきじょうにてはじめてかれ作品さくひん(オペラ『騎士きしパスマン』)が上演じょうえんされた
  • 1899ねん5がつ22にち宮廷きゅうてい歌劇かげきじょう自作じさく歌劇かげき『こうもり』序曲じょきょく指揮しき(ヨハン・シュトラウス2せい最後さいご指揮しき
  • 1899ねん6がつ3にち肺炎はいえんによりくなる(葬儀そうぎ同年どうねん6がつ6にち

作品さくひん

編集へんしゅう

いわゆる「じゅうだいワルツ[68]」は太字ふとじ表記ひょうき。(諸説しょせつあり、資料しりょうによって若干じゃっかんわりはある)

ポルカ・マズルカ

編集へんしゅう
  • 女性じょせい賛美さんび(Lob der Frauen)op.315
  • まち田舎いなか(Stadt und Land)op.322
  • しんたましい(Ein Herz,ein Sinn)op.323
  • 蜃気楼しんきろう(Fata Morgana)op.330

ポルカ・シュネル

編集へんしゅう
  • べつこわくはありませんわ(So ängstlich sind wir nicht!)op.413
  • 雷鳴らいめい稲妻いなづま(Unter Donner und Blitz)op.324
  • 突進とっしん(Im Sturmschritt)op.348

行進曲こうしんきょく

編集へんしゅう
  • はいかぶりひめ(Aschenbrödel)
    • 3まくのバレエ。だい1まくのみ完成かんせいだい2まくだい3まくはスケッチがある。のちヨーゼフ・バイヤー加筆かひつ
  • 『ウィンナー・ワルツ』(1933ねんのイギリス映画えいがアルフレッド・ヒッチコック監督かんとく作品さくひん原題げんだいWaltzes from Vienna)
  • 『グレート・ワルツ』 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督かんとくにより1938ねん製作せいさくされたわかのシュトラウスを主人公しゅじんこうとする映画えいが父親ちちおや有名ゆうめい音楽家おんがくかであったことのカットにはじまって、「ヨハン・シュトラウスという名前なまえの19世紀せいきウィーンのワルツ作曲さっきょく」というてんのみを借用しゃくようした自由じゆう創作そうさく音楽おんがくはおおむねシュトラウス作品さくひん使用しようされているが、これも代表だいひょうきょくがほとんどデビューすうねんつくられる構成こうせいになっている)で、そのてん冒頭ぼうとうのタイトルでも宣言せんげんされる。英語えいごばん
  • 『ウィーンのもり物語ものがたり』(1963ねんのアメリカ映画えいが[ちゅう 1]、スティーヴ・プレヴィン監督かんとく作品さくひん原題げんだいThe Waltz King
  • 『ヨハン・シュトラウス/白樺しらかんばのワルツ』(1971ねんソ連それん映画えいが、ヤン・フリード監督かんとく作品さくひんロシアページ
  • うつくしくあおきドナウ』(1972ねんのアメリカ映画えいが、アンドリュー・L・ストーン監督かんとく作品さくひん
  • Die Strauß-Dynastie (1991ねんにオーストリアで製作せいさくされたテレビドラマ。ぜん6海外かいがいばんのDVDがている)
  • 映画えいが音楽おんがくでの使用しようとしては、スタンリー・キューブリック監督かんとくの『2001ねん宇宙うちゅうたび』での宇宙うちゅう飛行場ひこうじょうめんにおける『うつくしくあおきドナウ』が高名こうみょうである。どうきょく日本にっぽん映画えいが下妻しもづま物語ものがたり』(中島なかじま哲也てつや監督かんとく2004ねん)のおんな暴走ぼうそうぞく乱闘らんとう場面ばめんにももちいられており、いずれも原曲げんきょくのイメージ(ドナウがわたたえる舞踏ぶとうかい音楽おんがく)からおおきく飛躍ひやくした使用しようとなっている。また、ほぼシュトラウス作品さくひん音楽おんがくかためた日本にっぽん映画えいがとして1988ねんあずま陽一よういち監督かんとくによるソフトポルノ『うれしはずかし物語ものがたり』があり、『こうもり』にやや物語ものがたりとなっている。

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく

編集へんしゅう
  1. ^ アメリカのTV番組ばんぐみ"Walt Disney's Wonderful World of Color"( ディズニーランド (テレビ番組ばんぐみ)参照さんしょう) の2かいぶんとして制作せいさくされたが、日本にっぽんでは1ほんにまとめられ映画えいがかん公開こうかいされた。

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ a b 志鳥しとり(1985) p.201
  2. ^ ルシューズ(2013) p.122
  3. ^ 増田ますだ(1998) p.88
  4. ^ a b c 小宮こみや(2000) p.13
  5. ^ a b c 小宮こみや(2000) p.39
  6. ^ 小宮こみや(2000) p.14
  7. ^ 小宮こみや(2000) p.38
  8. ^ a b しんてい だい作曲さっきょく肖像しょうぞう生涯しょうがい』 p.189
  9. ^ 小宮こみや(2000) p.44
  10. ^ a b 倉田くらた(2006) p.176
  11. ^ a b 世界せかい人物じんぶつ逸話いつわ辞典じてん』p.483
  12. ^ a b c d 増田ますだ(1998) p.91
  13. ^ a b c 加藤かとう(2003) p.75
  14. ^ a b c 河野こうの(2009) p.188
  15. ^ ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート2014きょく解説かいせつ〈ことことまわれ〉を参照さんしょう
  16. ^ a b c 小宮こみや(2000) p.46
  17. ^ 増田ますだ(1998) p.90
  18. ^ a b 小宮こみや(2000) p.47
  19. ^ a b 小宮こみや(2000) p.48
  20. ^ a b c d e 小宮こみや(2000) p.49
  21. ^ a b 志鳥しとり(1985) p.200
  22. ^ a b c 小宮こみや(2000) p.50
  23. ^ a b c d 若宮わかみや(2011) p.158
  24. ^ a b 鍵山かぎやま(2006) p.30
  25. ^ a b 小宮こみや(2000) p.55
  26. ^ a b c d e 倉田くらた(2006) p.177
  27. ^ 小宮こみや(2000) p.56
  28. ^ a b 小宮こみや(2000) p.62
  29. ^ 小宮こみや(2000) p.63
  30. ^ 志鳥しとり(1985) p.201
  31. ^ a b だん(1977) p.85
  32. ^ 小宮こみや(2000) p.68
  33. ^ a b 小宮こみや(2000) p.102
  34. ^ 加藤かとう(2003) p.111
  35. ^ 加藤かとう(2003) p.112
  36. ^ 加藤かとう(2003) p.114
  37. ^ 若宮わかみや(2012) p.66
  38. ^ a b 加藤かとう(2003) p.119
  39. ^ a b c 加藤かとう(2003) p.123
  40. ^ a b c 加藤かとう(2003) p.124
  41. ^ a b 加藤かとう(2003) p.120
  42. ^ a b 小宮こみや(2000) p.162
  43. ^ a b 加藤かとう(2003) p.164
  44. ^ a b 加藤かとう(2003) p.165
  45. ^ a b シュヴァープ(1986) p.140
  46. ^ a b c 加藤かとう(2003) p.178
  47. ^ a b c 加藤かとう(2003) p.180
  48. ^ 増田ますだ(1998) p.92
  49. ^ a b c d 若宮わかみや(2011) p.159
  50. ^ a b c 小宮こみや(2000) p.5
  51. ^ a b c d e f 志鳥しとり(1985) p.210
  52. ^ a b c 小宮こみや(2000) p.210
  53. ^ a b c 小宮こみや(2000) p.213
  54. ^ a b c しんてい だい作曲さっきょく肖像しょうぞう生涯しょうがい』 p.191
  55. ^ a b 小宮こみや(2000) p.214
  56. ^ a b c 小宮こみや(2000) p.218
  57. ^ a b 小宮こみや(2000) p.219
  58. ^ 小宮こみや(2000) p.220
  59. ^ 小宮こみや(2000) p.8
  60. ^ a b c d 小宮こみや(2000) p.216
  61. ^ 小宮こみや(2000) p.108
  62. ^ a b c 小宮こみや(2000) p.217
  63. ^ 加藤かとう(2003) p.126
  64. ^ a b c d e f 志鳥しとり(1985) p.202
  65. ^ a b c 加藤かとう(2003) p.138
  66. ^ a b 小宮こみや(2000) p.148
  67. ^ a b c d 志鳥しとり(1985) p.204
  68. ^ a b c しんてい だい作曲さっきょく肖像しょうぞう生涯しょうがい』 p.190
  69. ^ a b 志鳥しとり(1985) p.206
  70. ^ 小宮こみや(2000) p.149
  71. ^ a b c d e f 志鳥しとり(1985) p.207
  72. ^ a b 小宮こみや(2000) p.150
  73. ^ ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート2013きょく解説かいせつ〈キス・ワルツ〉を参照さんしょう
  74. ^ a b c d 志鳥しとり(1985) p.208
  75. ^ a b c 加藤かとう(2003) p.190
  76. ^ a b c 志鳥しとり(1985) p.209
  77. ^ 小宮こみや(2000) p.181
  78. ^ a b 小宮こみや(2000) p.182
  79. ^ 小林こばやし(1977) p.151
  80. ^ 小林こばやし(1977) p.152
  81. ^ a b 増田ますだ(1998) p.117
  82. ^ 小宮こみや(2000) p.135
  83. ^ a b ヴェルナー(2010) p.263
  84. ^ さんにんとも部分ぶぶんでの美質びしつみとめてはいる。村田むらた日本にっぽんヨハン・シュトラウス協会きょうかいふく会長かいちょうもつとめた。
  85. ^ デアゴスティーニかん『The Classic Collection』だい8ごうより
  86. ^ 小宮こみや(2000) p.125
  87. ^ 加藤かとう(2003) p.188
  88. ^ 小宮こみや(2000) p.90-91
  89. ^ 小宮こみや(2000) p.132
  90. ^ 小宮こみや(2000) p.133
  91. ^ a b 渡辺わたなべ(1989ねん4がつ) p.270
  92. ^ a b c ホフマン(2014) p.151

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう

外部がいぶリンク

編集へんしゅう