(Translated by https://www.hiragana.jp/)
クレタ島 - Wikipedia

クレタとう(クレタとう、ギリシア: Κρήτη / Kriti ; 英語えいご: Crete)は、ギリシャ共和きょうわこく南方なんぽう地中海ちちゅうかいかぶ同国どうこく最大さいだいしま古代こだいミノア文明ぶんめいさかえた土地とちで、クノッソス宮殿きゅうでんをはじめとするおおくの遺跡いせきつ。また、温暖おんだん気候きこう自然しぜん景観けいかんから地中海ちちゅうかい代表だいひょうてき観光かんこうでもある。

クレタとう
クレタ島
所在地しょざいち ギリシャの旗 ギリシャ
所在しょざい海域かいいき 地中海ちちゅうかい
面積めんせき 8,336 km²
海岸かいがんせんちょう 1,046 km
最高さいこう標高ひょうこう 2,456 m
プロジェクト 地形ちけい
テンプレートを表示ひょうじ

クレタとうしま全体ぜんたいで、ギリシャ共和きょうわこく広域こういき自治体じちたいであるペリフェリア地方ちほう)を構成こうせいする。首府しゅふイラクリオ(イラクリオン)。

名称めいしょう

編集へんしゅう

日本語にほんごでは「クレタ」で定着ていちゃくしているが、現代げんだいギリシャ発音はつおんでは「クリティ」である。

ホメーロスの『オデュッセイア』にはじめて「クレーテー」(古代こだいギリシア: Κρήτη / Krētē)の登場とうじょうするが、語源ごげん不明ふめいである。ラテン語らてんごで「クレータ」(Creta)となった。

アラビアではもともと、Κρήτη をもとに「イクリーティシュ」(アラビア: اقريطش‎ / Iqrīṭiš)とばれていたが、9世紀せいきにクレタ首長しゅちょうこく (Emirate of Crete首都しゅと「ラブド・アル・ハンダク」(アラビア: ربض الخندق‎ / Rabḍ al-ḫandaq現在げんざいイラクリオン)を建設けんせつすると、首都しゅとしまは「ハンダクス」(Χάνδαξ / Khandhax)や「ハンダクス」(Χάνδακας / Khandhakas)としてられるようになった。このは、ラテン語らてんごおよびヴェネツィアで「カンディア」(Candia)と転記てんきされ、ここからさらにフランス語ふらんすごCandie英語えいごCandyCandia表記ひょうきされるようになった。

オスマン帝国ていこく支配しはいでは、オスマンで「ギリット」(كريت / Girit)とばれた。

 
クレタとう

位置いちひろがり・面積めんせき

編集へんしゅう

クレタとうは、ギリシャ本土ほんどからやく160kmみなみはなれた地中海ちちゅうかい東部とうぶ位置いちし、ゲ海げかいみなみえんをなす。しま北側きたがわゲ海げかいがわ)のうみクレタかい南側みなみがわリビアうみともばれる。クレタとう西北せいほくがわにはペロポネソス半島はんとうとそれに付随ふずいする島々しまじまがあり、アンティキティラ海峡かいきょうへだててアンティキティラとうかんでいる。また、クレタとう東側ひがしがわには、カソス海峡かいきょうへだててドデカネス諸島しょとうぞくするカソスとうがある。

クレタとう面積めんせきは8,336平方へいほうキロでこれは日本にっぽん広島ひろしまけん面積めんせき(8,479平方へいほうキロ)に相当そうとうする。しま形状けいじょう東西とうざいながさが260kmであるのにたいして、南北なんぼくはばひろいところで60km、せまいところ(イエラペトラ付近ふきん)で12kmほどという、東西とうざい細長ほそながしまである。海岸かいがんせんながさは1,046kmにおよぶ。ギリシャ共和きょうわこく最大さいだいしまであるとともに、地中海ちちゅうかいではシチリアとうサルデーニャとうキプロスとうコルシカとうについで5番目ばんめおおきなしまである。

行政ぎょうせい区画くかくとしてのクレタ地方ちほうΠεριφέρεια Κρήτης)は、南方みなかたおきかぶガヴドスとうやイラクリオおきディーアとうなど、クレタとう周辺しゅうへんしょう島嶼とうしょ範囲はんいふくめる。クレタ地方ちほう隣接りんせつする行政ぎょうせい区画くかくは、ペロポネソス半島はんとうがわペロポネソス地方ちほう、ドデカネス諸島しょとうがわみなみエーゲ地方ちほうとなる。

クレタとう最高峰さいこうほうは、しま中部ちゅうぶにそびえるイディさん(プシロリティス、2,456m)である。クレタとう全体ぜんたいやまがちな地形ちけいであり、山々やまやま西部せいぶのレフカ・オリ山地さんち主峰しゅほうレフカ・オリさん英語えいごばん、2,452m)、中部ちゅうぶのイディ山地さんち主峰しゅほうはイディさん)、東部とうぶのディクティ山地さんち主峰しゅほうディクティさん英語えいごばん、2,148m)といったいくつかのグループにけられる。

これらおおくの山々やまやまはまた、おおくの盆地ぼんちたに形成けいせいしている。イディ山西さんせい南側みなみがわのケドロスさん (Mount Kedros(1,776m)とのあいだにあるアマリだに (Amari Valleyや、ディクティ山北さんぽくがわラシティ高原こうげん英語えいごばんは、山間さんかんけた肥沃ひよく土地とちとなっている。また、国立こくりつ公園こうえん指定していされている西部せいぶサマリア渓谷けいこくや、おなじく西部せいぶインブロス渓谷けいこく英語えいごばんをはじめとして、おおくの渓谷けいこく峡谷きょうこくがある。

イラクリオン
あめゆたか説明せつめい
123456789101112
 
 
92
 
15
9
 
 
77
 
16
9
 
 
57
 
17
10
 
 
30
 
20
12
 
 
15
 
24
15
 
 
3
 
27
19
 
 
1
 
29
22
 
 
1
 
28
22
 
 
20
 
26
19
 
 
69
 
23
17
 
 
59
 
20
13
 
 
77
 
17
11
気温きおん°C
そう降水こうすいりょう(mm)
出典しゅってんclimate-charts.com
インペリアル換算かんさん
123456789101112
 
 
3.6
 
59
48
 
 
3
 
61
48
 
 
2.2
 
63
50
 
 
1.2
 
68
54
 
 
0.6
 
75
59
 
 
0.1
 
81
66
 
 
0
 
84
72
 
 
0
 
82
72
 
 
0.8
 
79
66
 
 
2.7
 
73
63
 
 
2.3
 
68
55
 
 
3
 
63
52
気温きおん°F
そう降水こうすいりょう(in)

クレタとうは、地中海ちちゅうかいきたアフリカの気候きこうにまたがっている。

しまだい部分ぶぶん地中海ちちゅうかいせい気候きこうであり、温暖おんだんである。うみとの距離きょりによって空気くうき湿潤しつじゅんであり、ふゆ気候きこうおだやかである。山岳さんがくでは11月から5がつにかけて降雪こうせつがみられ、山頂さんちょうではいちねんつうじてゆきいただいているが、低地ていちでの降雪こうせつはまれであり、ったとしても積雪せきせつすることはまずない。2004ねん2がつにはだい寒波かんぱ襲来しゅうらいし、全島ぜんとうにわたって積雪せきせつしたことがあるが、これは非常ひじょうにまれな事例じれいである。夏季かきには、にち平均へいきん気温きおんが20だい後半こうはんから30だい前半ぜんはん推移すいいするが、最高さいこう気温きおんは30だい後半こうはんから40だい前半ぜんはんいたることもある。

しま南側みなみがわ沿岸えんがんではきたアフリカの気候きこう区分くぶんぞくし、いちねんつうじて日照ひでり時間じかんながく、高温こうおんである。ナツメヤシむすび、ツバメもアフリカへのわたおこなわずに一年中いちねんじゅうまる。しまひがし南部なんぶイエラペトラなどでは、冬季とうき温室おんしつなつ野菜やさい果物くだもの生産せいさんしている。

主要しゅよう都市とし

編集へんしゅう

人口じんこう1まんにん以上いじょう都市としには以下いかがある。

  • イラクリオ (イラクリオけんイラクリオ) - 130,914にん
  • ハニア (ハニアけんハニア) - 53,373にん
  • レティムノ (レティムノけんレティムノ) - 27,868にん
  • イエラペトラ (ラシティけんイエラペトラ) - 11,678にん
  • ネア・アリカルナソス (イラクリオけんイラクリオ) - 11,551にん
  • アイオス・ニコラオス (ラシティけんアイオス・ニコラオス) - 10,080にん

クレタとう最大さいだい都市としは、首府しゅふである中部ちゅうぶイラクリオである。このまち歴史れきしじょうカンディアともばれた。西部せいぶハニアがこれにつづく。このほか、人口じんこう1まんにん以上いじょう都市としには、中西部ちゅうせいぶレティムノ東部とうぶアイオス・ニコラオスイエラペトラなどがある。主要しゅよう都市とし北岸ほくがん(クレタかいがわ)にあつまっており、南岸なんがん(リビアうみがわ)に位置いちするのはイエラペトラのみである。イエラペトラは「ギリシャ最南端さいなんたんまち」であるとともに、「ヨーロッパ最南端さいなんたんまち」ともされる。

ミノア文明ぶんめい

編集へんしゅう

クレタとうヨーロッパにおける最初さいしょ文明ぶんめいのひとつであるミノア文明ぶんめいさかえた。当時とうじ社会しゃかいについては、つたえられるべき文字もじのこされなかったため、遺構いこうから類推るいすいするよりほかないが、平和へいわ開放かいほうてきであったとかんがえられている。ミノア遺跡いせきには、壮麗そうれいいし建築けんちくぶつ複数ふくすうかい宮殿きゅうでんがあり、排水はいすい設備せつびや、女王じょおうのための浴場よくじょう水洗すいせんしきのトイレがあった。水力すいりょく動力どうりょくとする仕組しくみにかんする技術ぎじゅつしゃ知識ちしきはとても高度こうどなものであった。エジプトなどとの交易こうえきによってもたらされた遺物いぶつから、ミノア文明ぶんめいは、紀元前きげんぜん3000ねんごろからクノッソス衰退すいたいした紀元前きげんぜん1400ねんごろごろまでさかえたとかんがえられている。

その当時とうじクレタとう使つかわれていた言語げんごミノアであるとかんがえられている。ミノアアルファベットとはことなる象形しょうけい文字もじち、これをせん文字もじAぶ。せん文字もじAはいまだ解読かいどくされていないが、後世こうせい書体しょたい簡略かんりゃくされたせん文字もじB1952ねんマイケル・ヴェントリスによって、ギリシャであること判明はんめいした。 またミノアからはクレタばれる言語げんご派生はせいしたとかんがえられているが、現在げんざい死語しごであり、資料しりょう地中海ちちゅうかい沿岸えんがん発見はっけんされたものがわずかにあるだけで、これについてかっていることは非常ひじょうすくない。

ポリス時代じだい

編集へんしゅう

ギリシャ各地かくちポリス出現しゅつげんしていた時代じだいのものとして、クレタとうドレロス (Dreros現在げんざいのドリロス、アイオス・ニコラオスプラカ (Plaka) のなかあいだ)からは現存げんそんする最古さいこ紀元前きげんぜん7世紀せいき)の成文法せいぶんほう発掘はっくつされている。コスモスとばれる高位こうい役職やくしょくしゃ連続れんぞくした就任しゅうにんきんじ、再任さいにん場合ばあいには10ねんることをさだめたものであり、特定とくていもの権力けんりょく集中しゅうちゅうすることをふせぐことをねらったものとみられる。

クレタとうのポリス時代じだいには、のギリシャ各地かくちとはことなるてん多々たたある。

  • クレタではそうせいおよび宗教しゅうきょうてき慣行かんこうについて、のギリシャ各地かくちとはことなり、暗黒あんこく時代じだいからぜん古典こてんまでの連続れんぞくせいがみられる。
  • 祭祀さいしおこなわれた場所ばしょ洞穴どうけつ山頂さんちょうなど野外やがいであり、神殿しんでんのような建造けんぞうぶつすくなかった。このことは神殿しんでんアクロポリス建設けんせつし、これを中心ちゅうしん人々ひとびとあつまってポリスを形成けいせいしていったほかのギリシャ各地かくちことなっている。ぜん8世紀せいきまつからまえ7世紀せいきにドレロス、ゴルテュス(ゴルテュン)、プリアニスでも神殿しんでんてられていくが、地域ちいき神殿しんでんとは構造こうぞうじょうちがいがある。)
  • 中央ちゅうおうギリシャで考古学こうこがくじょう痕跡こんせきとしてみられる、ぜん8世紀せいききた社会しゃかいさい編成へんせいが、クレタとうにはそのような現象げんしょうきていない。

クレタとう研究けんきゅうさいしては、ぜん6世紀せいきつうじて考古こうこ史料しりょう激減げきげんしており、ぜん6世紀せいき初頭しょとう解明かいめい重要じゅうよう課題かだいとされている。 みなみクレタの都市とし国家こっかゴルテュンでは都市とし法律ほうりつだれもがにする公共こうきょう広場ひろばアゴラのわきにあるかべいちめんきざまれていた。このゴルテュン法典ほうてんはクレタそのみなみ島々しまじま使つかわれたドーリア方言ほうげんかれた。かべ碑文ひぶんは、ひとってむのにちょうどよいたかさ1.5メートルくらいの位置いちよこはば9メートルにわたってきざまれた。全部ぜんぶで600ぎょうからなり、商業しょうぎょう契約けいやくかんするほうしるされていたが、大半たいはん私法しほうてき規定きていである。

古代こだいマ帝国まていこくから中世ちゅうせい

編集へんしゅう

紀元前きげんぜん27ねんげんリビアキレナイカ地方ちほうとあわせて、マ帝国まていこくがキレナイカぞくしゅう設置せっちマ帝国まていこく東西とうざい分裂ぶんれつこうひがしマ帝国まていこく領有りょうゆう継承けいしょうした。

5世紀せいきごろ、キリストきょう布教ふきょうはじまる。7世紀せいきすえ - 8世紀せいきクリトのアンドレイ主教しゅきょうつとめた。

イスラム勢力せいりょく統治とうち

編集へんしゅう

824ねんイベリアのイスラム教徒きょうと侵入しんにゅう。カンディア (Candia、現在げんざいイラクリオン) を建設けんせつ首都しゅととする。以降いこうひがしマ帝国まていこくによる奪還だっかんまで、ひがし地中海ちちゅうかい略奪りゃくだつはたら海賊かいぞく拠点きょてんとなった。961ねんひがしマ帝国まていこく奪回だっかいした。

ひがしマ帝国まていこく統治とうち

編集へんしゅう

ムスリムによる征服せいふくまでの時代じだい

編集へんしゅう

ローマ支配しはいした、クレタは帝国ていこくクレタ・キュレナイカぞくしゅう一部いちぶまれていた。ディオクレティアヌスみかど在位ざいい:284ねん-305ねん)のしたでクレタとうはキュレナイカから分離ぶんりされて単独たんどくぞくしゅうとなり、コンスタンティヌス1せい大帝たいてい在位ざいい:306ねん-337ねん)はこれをの(のちに)のしたいた。この枠組わくぐみは古代こだい末期まっきまで継続けいぞくした[1][2][3]由緒ゆいしょただしいしまののようないくつかの行政ぎょうせい機関きかんは4世紀せいきわりまで持続じぞくしていた[4]

4世紀せいきからムスリムによる820年代ねんだい征服せいふくまでの期間きかんのクレタに言及げんきゅうするどう時代じだい史料しりょうわずかしかない。この時代じだいあいだ、クレタとうはグレコ・ローマン世界せかい片隅かたすみにある非常ひじょう静謐せいひつ地域ちいきであった[5]。すぐとなりにあるロードスとうコスとうとは対照たいしょうてきにクレタとう主教しゅきょうたちは325ねんだい1ニカイアこう会議かいぎにすら出席しゅっせきしていない[6]。457ねんヴァンダルぞくによる攻撃こうげきと、365ねん7がつ21にち地震じしん、および415ねん、448ねん、531ねん地震じしんによっておおくの都市とし破壊はかいされたが、これらを例外れいがいとしてクレタとう平和へいわ繁栄はんえい維持いじしたことが、当時とうじからいまなおこのしまのこすうおおくのだい規模きぼかつ良質りょうしつなモニュメントによって証明しょうめいされる[7][8][9]。6世紀せいき成立せいりつした『シュネクデモス』では、クレタとうはによって統治とうちされ、首都しゅとはにかれており、22もの都市としがあったと特筆とくひつされている[4]。この時代じだい人口じんこうは250,000にんのぼったと推定すいていされ、主要しゅよう都市とし中心ちゅうしん居住きょじゅうしていた少数しょうすうのユダヤじんのぞいてほとんどがキリスト教徒きりすときょうとであった[10]

この平和へいわは7世紀せいきやぶられた。クレタとうは623ねんスラヴじんによるはじめての襲撃しゅうげき[7][11]つづいて654ねんと670年代ねんだいにはのなみなかでアラブじん襲撃しゅうげきされた[12][13]。8世紀せいき最初さいしょの10年間ねんかんあいだふたたび、とくにカリフ、アル=ワリード1せい在位ざいい:705ねん-715ねん)のしたでアラブじんによる襲撃しゅうげきがあった[14]。その、クレタとうコンスタンティノープルから任命にんめいされるアルコンそう統治とうちした比較的ひかくてき平穏へいおん時代じだいごした[2][15]。732ねんごろ皇帝こうていたるイサウリアじんレオン3せいはこのしまローマ教皇きょうこう管轄かんかつからコンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょう管轄かんかつへとうつした[7]。767ねんにはクレタとうストラテゴス存在そんざい証明しょうめいされており、またクレタとうの(tourmarches地区ちく長官ちょうかん)の印影いんえい発見はっけんされている。これらの証拠しょうこから、8世紀せいきおそらくは730年代ねんだい初頭しょとう)にクレタとうテマ構成こうせいされたというせつ提案ていあんされている[16][17]。しかし、大半たいはん学者がくしゃはこれらの証拠しょうこ十分じゅうぶん検証けんしょうされておらず当時とうじのクレタとうにテマのが存在そんざいしたとはかんがえにくいとしている[1][2]

アラブじん統治とうちとビザンツ帝国ていこくさい征服せいふく

編集へんしゅう

ビザンツ帝国ていこく支配しはいは820年代ねんだい後半こうはんまでにわり、クレタとうアンダルス(イベリア半島はんとう)からやってきて上陸じょうりくした多数たすう追放ついほうしゃ一団いちだんによって征服せいふくされた。ビザンツ帝国ていこくかえかれらをはらうための遠征えんせいおこない、まだ支配しはいのこされていたクレタとう部分ぶぶん統治とうちするためのストラテゴスを任命にんめいしたとおもわれる。だが、この一連いちれん遠征えんせい敗北はいぼくわった。ビザンツ帝国ていこくはこのサラセンひとたちがクレタとう北岸ほくがん本拠地ほんきょちとなるカンダクス建設けんせつするのをふせぐことに失敗しっぱいし、以降いこうカンダクスがクレタとうのアラブじんたち(イスラームのクレタ参照さんしょう)の首都しゅととなった[2][7][18]。アラブじんによるクレタとう失陥しっかんはビザンツ帝国ていこく頭痛ずつうたねをもたらした。このしま陥落かんらくしたことでゲ海げかい海岸かいがん地帯ちたい海賊かいぞくたちに開放かいほうされた[7]

 
ビザンツぐんによるカンダクス包囲ほうい『(Madrid Skylitzes)』

指揮しきする842/843ねんのビザンツ帝国ていこくだい遠征えんせいは、どう時代じだい史料しりょうである『Taktikon Uspensky』にクレタとうのストラテゴスの存在そんざいしるされていることから証明しょうめいされるように、あきらかにある程度ていど成功せいこうげ、奪回だっかいしたクレタとう一部いちぶテマ再建さいけんした。しかし、テオクティストスはこの遠征えんせい作戦さくせん放棄ほうきしなければならず、のこされた軍隊ぐんたいまたたにサラセンじんによって撃破げきはされた[2][19][20]。911ねんと949ねんさらなるビザンツ帝国ていこくさい征服せいふくこころみは悲惨ひさん失敗しっぱいわり[21][22]。そして960ねんから961ねんにかけて将軍しょうぐんニケフォロス・フォカス大軍たいぐん指揮しきしてクレタとう上陸じょうりくし、し、このしまをビザンツ帝国ていこくしたもどした[7][23]

ビザンツ帝国ていこく復帰ふっきのクレタ

編集へんしゅう

さい征服せいふくのち、クレタとう正規せいきのテマとして編成へんせいされ、ストラテゴスによってカンダクスを拠点きょてん統治とうちされた。やらによって島民とうみんキリスト教きりすときょうへの改宗かいしゅう多大ただい努力どりょくはらわれた[7][23]しま駐留ちゅうりゅうぐんとして1,000めいからなる連隊れんたいtaxiarchia)が形成けいせいされ、taxiarchiaは(tourmai)としてさらに細分さいぶんされていた[2]

アレクシオス1せい在位ざいい:1081ねん-1118ねん)のした、このしまドゥクスおおやけ)またはによって統治とうちされた。12世紀せいき初頭しょとうまでには、クレタとう南部なんぶギリシア(および)とともに、ビザンツ帝国ていこく司令しれいかんである(大公たいこう)の支配しはいにあった[2][7]総督そうとくによる1092/1093ねん反乱はんらんのぞき、このしま比較的ひかくてき平穏へいおん維持いじされ、だい4かい十字軍じゅうじぐんまでビザンツ帝国ていこくのこされた[2][7]だい4かい十字軍じゅうじぐんあいだに、アレクシオス4せいはクレタとうプロノイアとしてモンフェッラートこうボニファッチョ1せいのものとしたとみられる[24]。だが、ボニファッチョ1せいはクレタとう実効じっこう支配しはいをおよぼすことが出来できず、このしまたいする自身じしん権利けんりヴェネツィア共和きょうわこく売却ばいきゃくした。この取引とりひき最中さいちゅう、クレタとうはヴェネツィアの商売敵しょうばいがたきであるジェノヴァ共和きょうわこくによって制圧せいあつされたが[25]、ヴェネツィアは1212ねんまでにこのしまたいする支配しはい確立かくりつし、ヴェネツィアの植民しょくみんとしてのクレタとう(カンディア王国おうこく)が確立かくりつされた。

ヴェネツィア共和きょうわこく統治とうち

編集へんしゅう

1204ねんだい4かい十字軍じゅうじぐん参加さんかしていたヴェネツィア共和きょうわこくにより征服せいふくされる。これによりルネサンス文化ぶんかつたえられ、エル・グレコニコラス・カリアキ英語えいごばん哲学てつがくしゃ)、ヴィツェンツォス・コルナロス英語えいごばん詩人しじん)などの活躍かつやくにつながる (クレタ・ルネサンス英語えいごばん)。

1348ねんペストがだい流行りゅうこうする。以降いこう、1398, 1419, 1456, 1523, 1580, 1592, 1678, 1689, 1703, 1816のかくとしにもだい流行りゅうこうられた。これにより人口じんこう流出りゅうしゅつすることもあり、人口じんこうが2/3となったこともあった。しまがいのがれたもののなかには、コンスタンティン・コルニアクトス英語えいごばんのように大陸たいりくだい成功せいこうおさめたものもあった。

1492ねん、スペインのレコンキスタからのがれてきたユダヤじんがクレタとう流入りゅうにゅう。1627ねんにはカンディアのユダヤじん住民じゅうみんは800にんしま人口じんこうの7%をめる。

1574ねんジャコモ・フォスカリーニ (Giacomo Foscarini) によるカトリック住民じゅうみんへの圧政あっせいはじまる。ギリシャじんやユダヤじんにはこうぜいせられる。この圧政あっせいはオスマン帝国ていこくによる征服せいふくまでつづく。

オスマン帝国ていこく統治とうち

編集へんしゅう
 
ピーリー・レイースによるクレタとう地図ちず
 
パリ1719ねんつくられたクレタとう地図ちず

1644ねんから1669ねんにかけて、キョプリュリュ・アフメト・パシャだい宰相さいしょうとしてひきいるオスマン帝国ていこくが、クレタとう領有りょうゆうけんをめぐってあらそい (クレタ戦争せんそう (1645ねん–1669ねん)英語えいごばんカンディア包囲ほういせん英語えいごばん)、結果けっかてきにオスマン帝国ていこくりょうとなる。これにより宗教しゅうきょうちがいによる弾圧だんあつてきあつかいは撤廃てっぱいされ、どの住民じゅうみん経済けいざいてきにほぼひとしい権利けんりつとしてあつかわれた。現地げんちのギリシャじんムスリム転向てんこうするれいえる (その1900ねんでは、島内とうないのムスリム人口じんこうは11%。これらの人々ひとびと1923ねん住民じゅうみん交換こうかんでトルコに強制きょうせい移住いじゅう)。オスマン帝国ていこく支配しはいでは、キリスト教徒きりすときょうとによる反乱はんらん散発さんぱつした。

近代きんだい

編集へんしゅう

19世紀せいきなかばにクレタの人口じんこうやく16まんにんで、キリスト教徒きりすときょうと多数たすうだったが、3ぶんの1はイスラム教徒きょうとであった[26]

19世紀せいきにはオスマン帝国ていこく/トルコエジプトギリシャ領有りょうゆうもとめてあらそった。その成否せいひけっしたのは当事とうじこくちからというよりイギリス、フランス、ロシアなど欧州おうしゅう列強れっきょう意向いこうで、クレタの運命うんめい国際こくさい政治せいじ翻弄ほんろうされつづけた。

  • 1830ねんロンドン議定ぎていしょにより、オスマン帝国ていこくからエジプト (オスマン帝国ていこくぞくしゅうだったが、ムハンマド・アリーあさとしてほとんど独立どくりつ状態じょうたいであった) にうつされる。これ以降いこう、クレタしゅう成立せいりつまでキリスト教徒きりすときょうとによる反乱はんらん散発さんぱつする。
  • 1840ねんにオスマン帝国ていこくもどされる (だいエジプト・トルコ戦争せんそうでエジプトの戦力せんりょく脅威きょういおぼえた欧州おうしゅう列強れっきょう介入かいにゅうによる)。
  • 1866ねんen:Cretan Revolt (1866–1869)
  • 1888ねん、クレタ議会ぎかい選挙せんきょ急進きゅうしん多数たすうめたことから、オスマン帝国ていこくがクレタとう派兵はへい議会ぎかいはそれ以降いこう、ギリシャへの併合へいごう目指めざす。
  • 1896ねんざいアテネの民族みんぞく協会きょうかいとギリシャ海軍かいぐんがクレタに派兵はへいel:Κρητική Επανάσταση (1895-1898))。欧州おうしゅう列強れっきょうえいふつどくおう)がクレタとう封鎖ふうさし、これを阻止そし
  • 1898ねん列強れっきょうあつりょくにより、オスマン帝国ていこく宗主そうしゅけんもと自治じちけんったクレタしゅう (Cretan State) が発足ほっそく司法しほう顧問こもんヴェニゼロス着任ちゃくにんゲオルギオス1せい次男じなんゲオルギオス王子おうじが1898ねんから1906ねんまでクレタ総督そうとく地位ちいにあった。
  • 1905ねんen:Theriso revolt
  • 1913ねんだいいちバルカン戦争せんそう結果けっかオスマン帝国ていこく領有りょうゆうけん放棄ほうきし、ギリシャりょうとなる。
  • 1922ねんだいまれ戦争せんそう結果けっかローザンヌ条約じょうやく締結ていけつされ、これによりよく1923ねんからギリシャとトルコの住民じゅうみん交換こうかん開始かいしされた。イスラムけい住人じゅうにんおおくはアナトリア半島はんとう沿岸えんがんシリアレバノンエジプト移住いじゅうさせられたが、その一部いちぶ現在げんざいからるとギリシャじんであったとされている。同時どうじスミルナをはじめとするしょうアジアからはギリシャじん移住いじゅうしてきたが、かれらは習慣しゅうかん方言ほうげん食生活しょくせいかつとう以前いぜんからクレタとうにいた住人じゅうにんとはおおきな相違そういがあった。結果けっかてきに、クレタとう民族みんぞく構成こうせい非常ひじょうおおきくわった。
  • 1936ねん、ギリシャ本土ほんどのクーデター(はちがつよんにち体制たいせい)に反抗はんこうし、暴動ぼうどう発生はっせい戒厳かいげんれいかれる。
  • 1941ねんだい世界せかい大戦たいせんなかにイギリスぐん進駐しんちゅう。4月23にち本土ほんどがドイツぐん占拠せんきょされたためアテネからクレタとう遷都せんと国王こくおう首相しゅしょうがクレタに避難ひなんした[27]。5月20にちにドイツぐん空挺くうてい部隊ぶたいによりクレタにも侵攻しんこう開始かいし[28]はげしい戦闘せんとう(クレタとうたたか)のすえに、駐留ちゅうりゅうしていたイギリス連邦れんぽう諸国しょこくぐんした。ドイツぐん勝利しょうりあきらかになってから、ドデカネーズ諸島しょとうのイタリアぐんがラシティけん侵攻しんこう占拠せんきょした。国王こくおう首相しゅしょうカイロのがれた。クレタ市民しみん相当そうとうが、防衛ぼうえいせん武器ぶきってたたかったため占領せんりょう、ドイツぐん報復ほうふくとして、1000にん以上いじょうのクレタじん処刑しょけいしたので、クレタじんはんどく感情かんじょうつよく、しま中央ちゅうおう山間さんかん地帯ちたいは、イギリスの秘密ひみつ作戦さくせん支援しえんされた種々しゅじゅのクレタじん抵抗ていこう組織そしき蟠踞ばんきょしており、ドイツぐん支配しはい不十分ふじゅうぶんであった。
  • 1943ねん、イタリアでムッソリーニ政権せいけん失脚しっきゃくすると、しまのイタリアぐん司令しれいかんは、イギリスぐん連絡れんらくり、イギリスぐんによる占領せんりょう保護ほごのぞんだが、イギリスがわにはクレタとう侵攻しんこう計画けいかくはなく、ドイツぐん先手せんてをとってのこりの東部とうぶ占領せんりょうし、イタリアぐん武装ぶそう解除かいじょした。
  • 1944ねん、4がつには、クレタじん武装ぶそう組織そしき支援しえんけたイギリスぐん秘密ひみつ作戦さくせん工作こうさくいんにより、ドイツぐん司令しれいかんクライペ少将しょうしょうがエジプトに拉致らちされた。10月には、クレタじん武装ぶそう組織そしきあつりょくにより、イラクリオンからドイツぐん撤退てったい余儀よぎなくされた。
  • 1945ねん、5月のドイツ降伏ごうぶくともない、しまのドイツぐんもイギリスぐん降伏ごうぶく。ギリシア政府せいふ要求ようきゅうで、2めい歴代れきだいクレタとうドイツぐん司令しれいかんは、連合れんごうぐんからギリシア政府せいふわたされ、戦争せんそう犯罪はんざい死刑しけい判決はんけつけ、1945ねんと1946ねんにアテネで銃殺じゅうさつされた。

戦後せんご、ギリシャ本土ほんど共産党きょうさんとうけい反共はんきょうのせめぎいで内戦ないせん状態じょうたいであったが、クレタの住民じゅうみんは、共産党きょうさんとう王家おうけ支持しじせず、本土ほんどとは距離きょりいていた。本土ほんどで1967ねんきた軍事ぐんじクーデター以降いこうは、本土ほんどとの交通こうつう通信つうしん発達はったつ寄与きよもあり、政治せいじてき距離きょりちぢまっている。

社会しゃかい

編集へんしゅう

宗教しゅうきょう

編集へんしゅう

なお、ギリシャ共和きょうわこく主要しゅよう宗教しゅうきょうアテネだい主教しゅきょうギリシャ正教会せいきょうかいであるが、クレタとうだけはおな正教会せいきょうかいでもトルコのイスタンブールにあるコンスタンディヌーポリそう主教しゅきょうちょう管轄かんかつにある。

生活せいかつ

編集へんしゅう

オリーブオイルの年間ねんかん個人こじん消費しょうひりょう世界一せかいいちおおいギリシアのなかでもとく消費しょうひりょうおおく、ひがし南部なんぶのクリッツァむらは、年間ねんかん個人こじん消費しょうひりょうが50リットルもある。[29]

行政ぎょうせい区画くかく

編集へんしゅう
クリティ地方ちほう
Περιφέρεια Κρήτης
 
くに   ギリシャ
首府しゅふ イラクリオン
所属しょぞくけん ハニアけん
レティムノけん
イラクリオンけん
ラシティけん
知事ちじ スタヴロス・アルナウタキス
人口じんこう 624,408にん (2021ねん現在げんざい)
面積めんせき 8,336 km² (3,219 sq.mi.)
人口じんこう密度みつど 75にん/km² (194にん/sq.mi.)
公式こうしきサイト www.crete.gov.gr/

しま全体ぜんたいひとつのペリフェリア地方ちほう)である。

クレタ地方ちほうは、4つの行政ぎょうせい(ペリフェリアキ・エノティタ)から構成こうせいされている。なお、下表かひょうの4つの行政ぎょうせい西にしからじゅん配列はいれつしている。人口じんこうは2021ねん現在げんざい[30]

2010ねん地方ちほう制度せいど改革かいかく(カリクラティス改革かいかく以前いぜんは、自治体じちたいとしてのけん(ノモス)であったが、2011ねん1がつ1にちにノモスが廃止はいしされて行政ぎょうせいとなった。

行政ぎょうせいめい つづ 政庁せいちょう所在地しょざいち 面積めんせき Km² 人口じんこう
1 ハニアけん Χανιά
Chania
ハニア 2,376 156,706
2 レティムノけん Ρέθυμνο
Rethymno
レティムノ 1,496 84,866
3 イラクリオンけん Ηράκλειο
Iraklio
イラクリオン 2,641 305,017
4 ラシティけん Λασίθι
Lasithi
アイオス・ニコラオス 1,823 77,819

クレタ地方ちほうには、基礎きそ自治体じちたいである(ディモス)が24ある。

交通こうつう

編集へんしゅう
 
イラクリオのE75号線ごうせん(GR-90)
 
ハニア空港くうこうフィンエアー
 
イラクリオこう

しま北岸ほくがん東西とうざいはしる GR-90 が幹線かんせんであり、欧州おうしゅう自動車じどうしゃ道路どうろにも指定していされている。

欧州おうしゅう自動車じどうしゃ道路どうろ
主要しゅよう高速こうそく道路どうろ自動車じどうしゃ道路どうろ
  • GR-90号線ごうせん (Greek National Road 90 : キサモス - レティムノ - イラクリオ - シティア
  • GR-97号線ごうせん (Greek National Road 97 : レティムノ - ゴルティナ - イラクリオ

空港くうこう

編集へんしゅう

港湾こうわん

編集へんしゅう
  • イラクリオこう
  • ハニアこう
  • キサモスこう
  • スダこう
  • レティムノこう
  • アイオス・ニコラオスこう
  • シティアこう
  • パレオホラこう
  • スファキアこう
  • ガヴドスこう

文化ぶんか観光かんこう

編集へんしゅう
神話しんわ
ギリシャ神話しんわには、「クレーテー」(古代こだいギリシア: Κρήτη / Krētē)としてしばしば登場とうじょうする。赤子あかごゼウスは、クレタとうのアドラステイアとイーデーによってアイガイオンさんかくまわれた。また、エウローペーうしへんじたゼウスにさらわれ、ボスポラス海峡かいきょううしわたりの海峡かいきょう)をとおってクレタに辿たどき、そのがクレタおうとなって文明ぶんめいしょうじたとされる。このほかにもホメーロスの『イーリアス』など、クレタとうかんするしょはなし(「テーセウスミーノータウロス」や「ダイダロスイーカロス」など)はおおい。
うそつき
新約しんやく聖書せいしょテトスへの手紙てがみ』にて、以下いか記述きじゅつがあり、

かれらのうちの一人ひとり預言よげんしゃ自身じしんつぎのようにいました。「クレタじんはいつもうそつき、わるしし怠惰たいだ大食漢たいしょくかんだ。」(テトス 1:12、しん共同きょうどうやく聖書せいしょ

クレタじんが「クレタじんはすべてうそつき」とった自己じこ言及げんきゅうのパラドックスや、クレタじん哲学てつがくしゃエピメニデスからエピメニデスのパラドックスなどに影響えいきょうあたえた。
ゆみへい
クレタゆみへい英語えいごばんゆみ名手めいしゅとして、様々さまざまくに傭兵ようへいとしてむかえられた。
観光かんこう
観光かんこうスポットとしては、クノッソス宮殿きゅうでんフェストス遺跡いせき、ゴルティス遺跡いせきなどの考古学こうこがくじょう遺跡いせき、またヴェネツィアじんがハニアにてたしろといった史跡しせきや、サマリア渓谷けいこくやアイア・イリニ、アラデネなどにある渓谷けいこくなど自然しぜん景観けいかん有名ゆうめいである。
料理りょうり
クレタ料理りょうり英語えいごばんは、おも野菜やさい果物くだものさかなで、にく近代きんだいするまであま食卓しょくたくにはがらなかった。

出身しゅっしんしゃ

編集へんしゅう

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ a b Kazhdan (1991), p. 545
  2. ^ a b c d e f g h Nesbitt & Oikonomides (1994), p. 94
  3. ^ Detorakis (1986), pp. 128-129
  4. ^ a b Detorakis (1986), p. 129
  5. ^ Detorakis (1986), p. 128
  6. ^ Hetherington (2001), p. 60
  7. ^ a b c d e f g h i Kazhdan (1991), p. 546
  8. ^ Hetherington (2001), p. 61
  9. ^ Detorakis (1986), pp. 131-132
  10. ^ Detorakis (1986), pp. 130-131
  11. ^ Detorakis (1986), p. 132
  12. ^ Treadgold (1997), pp. 313, 325
  13. ^ Detorakis (1986), pp. 132-133
  14. ^ Detorakis (1986), p. 133
  15. ^ Treadgold (1997), p. 378
  16. ^ cf.
  17. ^ Detorakis (1986), pp. 129-130
  18. ^ Makrypoulias (2000), pp. 347-348
  19. ^ Makrypoulias (2000), p. 351
  20. ^ Treadgold (1997), p. 447
  21. ^ Makrypoulias (2000), pp. 352-356
  22. ^ Treadgold (1997), pp, 470, 489
  23. ^ a b Treadgold (1997), p. 495
  24. ^ Treadgold (1997), p. 710
  25. ^ Treadgold (1997), pp. 712, 715
  26. ^ ジョルジュ・カステランちょ山口やまぐち俊章としあきやく『バルカン 歴史れきし現在げんざい』、サイマル出版しゅっぱんかい、1994ねん、186ぺーじ
  27. ^ ギリシャぐんどく降伏ごうぶく(『朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ16ねん4がつ24にち)『昭和しょうわニュース辞典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん』p388 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  28. ^ どくグライダー部隊ぶたい、クレタとう降下こうか(『朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ16ねん5がつ22にち夕刊ゆうかん)『昭和しょうわニュース辞典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん』p389
  29. ^ エキストラバージンのうそ真実しんじつ 140ぺーじ
  30. ^ ΑΠΟΤΕΛΕΣΜΑΤΑ* ΑΠΟΓΡΑΦΗΣ ΠΛΗΘΥΣΜΟΥ ΚΑΤΟΙΚΙΩΝ ΕΛΣΤΑΤ 2021”. ギリシャ国家こっか統計とうけいきょく (2023ねん3がつ17にち). 2024ねん6がつ12にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
  • 桜井さくらい万里子まりこへん世界せかい各国かっこく 17 ギリシア山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ ISBN 4-634-41470-8
  • Beevor, Antony (1991). Crete: The Battle and the Resistance. Great Britain: John Murray. ISBN 978-1-84854-635-6 

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう

外部がいぶリンク

編集へんしゅう

座標ざひょう: 北緯ほくい3510ふん 東経とうけい2455ふん / 北緯ほくい35.167 東経とうけい24.917 / 35.167; 24.917