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ムハンマド・アリー朝 - Wikipedia

ムハンマド・アリーあさ(ムハンマド・アリーちょう、アラビア: الأسرة العلوية‎)は、19世紀せいき初頭しょとうからおよそ150年間ねんかんにわたってエジプト支配しはいした王朝おうちょう1805ねん - 1953ねん)。

ムハンマド・アリーあさ
الأسرة العلوية
貴族きぞく
王家おうけ
くに オスマン帝国ていこく
エジプト・スルターンこく
エジプトの旗 エジプト
当主とうしゅ称号しょうごう ワーリー総督そうとく
ヘディーヴふくおう
スルターン
国王こくおう
創設そうせつ 1805ねん5月17にち
いえ ムハンマド・アリー
げん当主とうしゅ アフマド・フアード
滅亡めつぼう 1953ねん6月18にちエジプト革命かくめいによって追放ついほう
民族みんぞく アルバニアじん
著名ちょめい人物じんぶつ ムハンマド・アリー
イスマーイール・パシャ
ファールーク1せい
エジプトの歴史れきし

このテンプレートはエジプト関連かんれん一部いちぶである。
年代ねんだいについては諸説しょせつあり。
エジプトさき王朝おうちょう時代じだい pre–3100 BCE
古代こだいエジプト
エジプト初期しょき王朝おうちょう時代じだい 3100–2686 BCE
エジプト王国おうこく 2686–2181 BCE
エジプトだい1ちゅうあいだ 2181–2055 BCE
エジプトちゅう王国おうこく 2055–1795 BCE
エジプトだい2ちゅうあいだ 1795–1550 BCE
エジプトしん王国おうこく 1550–1069 BCE
エジプトだい3ちゅうあいだ 1069–664 BCE
エジプト末期まっき王朝おうちょう 664–332 BCE
古典こてん古代こだい
アケメネスあさエジプト 525–404 BCE, 343-332 BCE
プトレマイオスあさ 332–30 BCE
アエギュプトゥス 30 BCE–641 CE
サーサーンあさ占領せんりょう英語えいごばん 621–629
中世ちゅうせい
ムスリムによるエジプト征服せいふく英語えいごばん 641
ウマイヤあさ 641–750
アッバースあさ 750–868, 905-935
トゥールーンあさ 868–905
イフシードあさ 935–969
ファーティマあさ 969–1171
アイユーブあさ 1171–1250
マムルークあさ 1250–1517
近世きんせい
オスマン帝国ていこくりょうエジプト 1517–1867
フランス占領せんりょう 1798–1801
ムハンマド・アリーあさ 1805–1882
エジプト・ヘディーヴこく 1867–1914
近代きんだい
イギリス統治とうち英語えいごばん 1882–1953
エジプト・スルタンこく 1914–1922
エジプト王国おうこく 1922–1953
エジプト共和きょうわこく 1953–1958
アラブ連合れんごう共和きょうわこく 1958–1971
エジプト・アラブ共和きょうわこく 1971–現在げんざい
エジプトの旗

ちゅうエジプト・アルバニアじん正規せいきぐん隊長たいちょうムハンマド・アリーオスマン帝国ていこく主権しゅけん総督そうとくワーリー)の地位ちい獲得かくとくしたのにはじまり、イギリスによる占領せんりょう、オスマン帝国ていこく形式けいしきてき主権しゅけんからの離脱りだつて、エジプト革命かくめいによって王制おうせい打倒だとうされるまでつづいた。

ムハンマド・アリーの時代じだい

編集へんしゅう
 
みどりうすみどりがムハンマド・アリーあさ版図はんとみどり斜線しゃせん部分ぶぶん一時いちじてき占領せんりょう

ムハンマド・アリーあさ創始そうししたムハンマド・アリーは、げんギリシャりょう北東ほくとうマケドニア地方ちほう港町みなとちょうカヴァラで、ぐん司令しれいかんかつ商人しょうにんでもあったちちしたまれた[1]ナポレオン・ボナパルトひきいるフランスぐんエジプト侵攻しんこうとき、これに対抗たいこうするためにオスマン帝国ていこく徴募ちょうぼ派遣はけんしたアルバニアじん正規せいきぐん将校しょうこうのひとりとして参加さんかした[2]侵攻しんこうにともなう戦乱せんらん状態じょうたいせいし、1805ねんにエジプトの住民じゅうみんによってエジプト総督そうとく推挙すいきょされた[3]エジプトしゅうは、オスマン帝国ていこく支配しはいしゅうでありながらながらくマムルーク在地ざいち有力ゆうりょくしゃによる実効じっこう支配しはいはん独立どくりつてき状態じょうたいにあったが[4]、オスマン帝国ていこく承諾しょうだくけて正式せいしき総督そうとく就任しゅうにんしたムハンマド・アリーはマムルークを撃滅げきめつしてエジプトの支配しはいけん全面ぜんめんてき掌握しょうあくし、総督そうとく強力きょうりょく指導しどうりょくもとづく政権せいけん樹立じゅりつして、ムハンマド・アリーあさ実質じっしつてき成立せいりつさせた[5]

ムハンマド・アリーは軍隊ぐんたい近代きんだい[6]土地とち国有こくゆうによる輸出ゆしゅつ農業のうぎょう振興しんこう[7]ヨーロッパ技術ぎじゅつ導入どうにゅうした工業こうぎょうなど[8]イスラム社会しゃかいにおける近代きんだい政策せいさくをオスマン帝国ていこく本国ほんごくさきんじて推進すいしんした。かれのもとでエジプトの国力こくりょく急速きゅうそく増強ぞうきょうされ、軍事ぐんじてき衰退すいたいいちじるしい宗主そうしゅこくオスマン帝国ていこくにかわって1818ねんにはワッハーブアラビア半島はんとうおこしただいいちサウード王国おうこくほろぼした[9][10]1820ねんからはみなみスーダン侵攻しんこうし、スーダン北部ほくぶをエジプトりょう併合へいごうする[9][11]

1821ねんにはギリシャ独立どくりつ戦争せんそう本格ほんかくするが、オスマン帝国ていこくはこれを独力どくりょく鎮圧ちんあつすることができずエジプトぐん来援らいえんもとめた[12][13]独立どくりつ阻止そし目的もくてき失敗しっぱいわったこの戦争せんそうでエジプトぐんナヴァリノの海戦かいせん大敗たいはいきっするなどおおきな犠牲ぎせいはらったが[12][14]、ムハンマド・アリーは出兵しゅっぺい代償だいしょうとしてオスマン帝国ていこくシリア地方ちほう行政ぎょうせいけん要求ようきゅう[12]、これがたされないと1831ねん1839ねんわたってエジプト・トルコ戦争せんそう(エジプト事件じけん)をこしてオスマン帝国ていこく反旗はんきひるがえした[12][15]。エジプトぐんはシリアからアナトリアまで侵攻しんこうして武力ぶりょくでオスマン帝国ていこくにシリアの支配しはいけんみとめさせたが[16]、エジプトの強大きょうだい警戒けいかいするヨーロッパ列強れっきょう介入かいにゅうけ、1840ねんロンドン条約じょうやくによってムハンマド・アリーの子孫しそんによるエジプト総督そうとく世襲せしゅうけんみとめる代償だいしょうとしてシリアを放棄ほうきさせられた[17][18]。この世襲せしゅうせい公認こうにんもって、ムハンマド・アリーあさ正式せいしき成立せいりつしたとみるきもある[18]

シリア出兵しゅっぺい挫折ざせつはエジプトの近代きんだい富国強兵ふこくきょうへい限界げんかいをあらわにし、また列強れっきょうがムハンマド・アリーにせまってオスマン帝国ていこく各国かっこくむす不平等ふびょうどう条約じょうやくカピチュレーション)にもとづき治外法権ちがいほうけん承認しょうにん関税かんぜい自主権じしゅけん放棄ほうき国内こくない市場いちば開放かいほう実現じつげんさせたために、エジプトは列強れっきょう経済けいざいてき植民しょくみんみちあゆむことになった[18][17]

植民しょくみん時代じだい

編集へんしゅう

国際こくさい貿易ぼうえき市場いちば開放かいほうされても、エジプトはゆたかな農業のうぎょう生産せいさんりょくによって莫大ばくだい産出さんしゅつほこ綿花めんか経済けいざいささえ、エジプト政府せいふ主導しゅどうによる近代きんだい改革かいかく路線ろせんかたちえてつづけられた[19][20]19世紀せいきなかばには土地とち国有こくゆう廃止はいしおこなわれて地主じぬしせい浸透しんとうし、エジプト経済けいざい綿花めんか農業のうぎょう利益りえきささえられて繁栄はんえいきわめた[19][20]。またおな時期じきおやヨーロッパてき2人ふたり総督そうとくサイード・パシャイスマーイール・パシャのもとでスエズ運河うんが建設けんせつされ、列強れっきょうにとってのエジプトの経済けいざいてき軍事ぐんじてき重要じゅうようせいがさらにたかまった[19]

だが、極度きょくど綿花めんか輸出ゆしゅつへの依存いぞん経済けいざいモノカルチャーさせ、それにともなってエジプト経済けいざい外国がいこく景気けいき変動へんどう極度きょくど影響えいきょうけるようになって不安定ふあんていした[21]。またスエズ運河うんが建設けんせつはエジプト財政ざいせい過大かだい負担ふたんいることになり、イスマーイールによる過度かど欧化おうか政策せいさくにともなう出費しゅっぴとあいまって巨額きょがく対外たいがい債務さいむとなってエジプトにかえった[22]

1870年代ねんだい南北戦争なんぼくせんそう終結しゅうけつしてアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくさん綿花めんか国際こくさい市場いちばだい規模きぼ流入りゅうにゅうすると国際こくさい綿花めんか価格かかく下落げらくこされ、エジプト経済けいざいだい打撃だげきけた[22]外債がいさいまたた膨張ぼうちょうし、1875ねんにはスエズ運河うんが会社かいしゃかぶをイギリスに売却ばいきゃくすることを余儀よぎなくされた。借金しゃっきん国庫こっこの45%にたっ[23]よく1876ねん、エジプト財政ざいせい破産はさんし、財政ざいせい部門ぶもん債権さいけんしゃである列強れっきょう管理かんりかれることになる[22][24]

しかし、エジプト財政ざいせい破綻はたん1881ねん近代きんだい政策せいさくにともなう軍隊ぐんたい学校がっこうマスメディアなどの発達はったつがもたらしたあたらしい社会しゃかい階層かいそうによる、エジプト史上しじょうはつ民族みんぞく運動うんどうこした。エジプトまれのアラブじん将校しょうこうアフマド・ウラービー大佐たいさ指導しどうしゃとしウラービー革命かくめいばれたこの革命かくめい運動うんどうは「エジプトじんのためのエジプト」をうたい、オスマン帝国ていこくトルコじんなどの外来がいらいしゃ中心ちゅうしんとするムハンマド・アリーあさ高官こうかんによる政治せいじ支配しはいや、ヨーロッパ列強れっきょう諸国しょこくによる経済けいざい支配しはい打破だはし、外国がいこく支配しはい排除はいじょして立憲りっけんせい議会ぎかい開設かいせつ要求ようきゅうし、将校しょうこうのみならず宗教しゅうきょう指導しどうしゃウラマー)、農村のうそん都市とし有力ゆうりょくしゃたちをひろんだ国民こくみん運動うんどう発展はってんした[25][26]。しかし運動うんどうがウラービーの陸軍りくぐん大臣だいじん就任しゅうにん憲法けんぽう制定せいていおよぶと、エジプト財政ざいせい支配しはいする列強れっきょう介入かいにゅうまねき、1882ねんにイギリスぐんがエジプトに上陸じょうりく革命かくめい打倒だとうした[26][25]。これとどう時期じきに、スーダンにおいてマフディー戦争せんそう勃発ぼっぱつし、スーダンはエジプトからマフディーの支配しはい移行いこうした(えいほこりりょうスーダン[27][28]

イギリスはウラービーをセイロンとうなが[26]、エジプトを軍事ぐんじ占領せんりょういた。スエズ運河うんがつうじてつながったインド植民しょくみんとするイギリスは、だいえい帝国ていこく生命せいめいせんであるエジプトの掌握しょうあく細心さいしん注意ちゅういはらった。イギリスによる軍事ぐんじ占領せんりょうしたでも列強れっきょう諸国しょこく権益けんえき排除はいじょされたわけではなく、オスマン帝国ていこく宗主そうしゅけんとムハンマド・アリーあさ政府せいふ温存おんぞんする一方いっぽうで、イギリス領事りょうじやイギリスじん顧問こもんなどによる諮問しもん委員いいんかいつうじておおきな影響えいきょうりょく確保かくほした[25]

立憲りっけん君主くんしゅせい

編集へんしゅう

1914ねんだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつし、オスマン帝国ていこくがイギリスと敵対てきたいするドイツオーストリア中央ちゅうおう同盟どうめいこくがわ参戦さんせんすると、イギリスはエジプトにおける権益けんえきまもるためにエジプトの保護ほごこく宣言せんげん、オスマン帝国ていこくめい目的もくてき主権しゅけんからエジプトを離脱りだつさせた[29][30]

これによりエジプトは正式せいしきにイギリスの植民しょくみんとなったが、大戦たいせん1919ねんには民族みんぞく主義しゅぎしゃによるだい規模きぼ独立どくりつ運動うんどうこった。独立どくりつ失敗しっぱいわるが、保護ほごこく支配しはい限界げんかい理解りかいしたイギリスは方針ほうしん転換てんかんし、1922ねんにエジプトの独立どくりつみとめ、エジプト王国おうこく成立せいりつさせた[29][31]

しかしエジプトは独立どくりつ達成たっせいしたとはいえ、イギリスじん保護ほご軍事ぐんじ通信つうしん運輸うんゆなどの分野ぶんやでイギリスの特別とくべつ権利けんり保留ほりゅうされ、またエジプト経済けいざいのイギリスへの依存いぞん依然いぜんとしてふかく、独立どくりつはほとんど名目めいもくてきなものにぎなかった[29]よく1923ねん憲法けんぽう施行しこうされ、エジプトはムハンマド・アリーあさ国王こくおう君主くんしゅとする立憲りっけん君主くんしゅせい移行いこうする。これ以降いこうのムハンマド・アリーあさは、ヨルダンイラクハーシムおなじように、列強れっきょうによってオスマン帝国ていこくわる中東ちゅうとう政治せいじ体制たいせいとして成立せいりつさせられたアラブ諸国しょこく体制たいせいにおいて、イギリスの意向いこうける支配しはいしゃがわ体制たいせいとして存続そんぞくすることとなった[32]

立憲りっけん君主くんしゅせいのエジプトでは、1919ねん独立どくりつ運動うんどう独立どくりつもとめた民族みんぞく主義しゅぎ運動うんどうサアド・ザグルールらを中心ちゅうしんワフドとう結成けっせいし、これとおう党派とうはおよびムハンマド・アリーあさ王家おうけとのあいだ対立たいりつ政治せいじうごかした[33][29]。ワフドとうはたびたび内閣ないかく組閣そかくして政権せいけんにない、1936ねんにはきたるべきだい世界せかい大戦たいせんそなえてエジプトとの関係かんけい改善かいぜんしたいイギリスとのあいだ同盟どうめい条約じょうやくむすんでイギリスぐん駐留ちゅうりゅう縮小しゅくしょうさせることに成功せいこうした[34]。しかしワフドとうがこの条約じょうやくでイギリスと妥協だきょうしたことはイギリス支配しはい即時そくじ打破だは目指めざ人々ひとびと失望しつぼうさせ、王制おうせい打倒だとうふく革命かくめいをはかる急進きゅうしん勢力せいりょく誕生たんじょううながした[よう出典しゅってん]

ムハンマド・アリーあさ崩壊ほうかい

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大戦たいせん1948ねんこっただいいち中東ちゅうとう戦争せんそうでの惨敗ざんぱいは、王制おうせいたいする支持しじ決定的けっていてきうしなわせるとともに、これまで改革かいかく主導しゅどうしてきたエジプト国民こくみん主義しゅぎにかわってアラブ民族みんぞく主義しゅぎイスラム主義しゅぎもとづいてあたらしい国家こっか体制たいせいもとめるうごきを活性かっせいさせた。

軍隊ぐんたい内部ないぶでも、ガマール・アブドゥン=ナーセル中心ちゅうしんとする青年せいねん将校しょうこうたちが戦争せんそう敗因はいいん王制おうせいもとづく政治せいじ混乱こんらん腐敗ふはいとみなし、体制たいせい転覆てんぷくをねらう秘密ひみつ結社けっしゃ自由じゆう将校しょうこうだん結成けっせいした。

エジプト国内こくない急進きゅうしんてきうごきは1952ねんにははん外国がいこくじん暴動ぼうどう発展はってんしたが、王制おうせいはこれを収拾しゅうしゅうする能力のうりょくすでうしなっていた。この混乱こんらんなか7がつ23にち自由じゆう将校しょうこうだんクーデターこし、無血むけつ革命かくめい成功せいこうした。

よく1953ねん6月18にち革命かくめい政権せいけんはムハンマド・アリーあさ廃絶はいぜつ宣言せんげんし、エジプトは共和きょうわせい移行いこうした。

君主くんしゅ

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称号しょうごう

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ムハンマド・アリーあさ君主くんしゅ称号しょうごうは、どう王朝おうちょう国際こくさいてき地位ちい変遷へんせん反映はんえいして時代じだいうつわった。

はじめムハンマド・アリーが1805ねんにエジプトの政権せいけんにぎったとき、かれはオスマン帝国ていこくのもとでエジプトしゅう最高さいこう支配しはいしゃ官職かんしょくであったエジプト総督そうとくワーリー)の地位ちいき、これを称号しょうごうとした。ムハンマド・アリーは実力じつりょくによってエジプトの実質じっしつじょうおうにのしあがっていたが、エジプト総督そうとく世襲せしゅう国際こくさいてき承認しょうにんされたのはその晩年ばんねんである。

1867ねんには、だい5だい総督そうとくのイスマーイールが綿花めんか収入しゅうにゅう巨額きょがくとみ使つかってイスタンブール政府せいふ運動うんどうし、ペルシアで「統治とうちしゃ」を意味いみするヘディーヴふくおう)という称号しょうごう獲得かくとくする。1914ねんのオスマン帝国ていこく主権しゅけんからの離脱りだつとともにヘディーヴの称号しょうごうはイスラム世界せかい伝統でんとうてき君主くんしゅ称号しょうごうであるスルターンあらため、1922ねんのイギリス保護ほごこくからの離脱りだつ主権しゅけん獲得かくとくとともに国王こくおうマリク)となった。

王族おうぞく

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ムハンマド・アリーはもともとアルバニアけいともトルコけいともわれ、アラブじんだい多数たすうのエジプトにおいては外来がいらいしゃ家系かけいであった。宮廷きゅうていはなされる言葉ことばアラビアよりトルコおもであったという。

ムハンマド・アリーの時代じだいからオスマン帝国ていこくから実質じっしつじょう独立どくりつしたとっても、その権威けんい源泉げんせん帝国ていこく首都しゅとであるイスタンブールにあった。帝国ていこく滅亡めつぼうまでイスタンブール近郊きんこうにはヘディーヴの豪華ごうか別邸べっていかれ、ヘディーヴの一族いちぞくおおくもイスタンブールに居住きょじゅうしていた。なかには、イスマーイール・パシャのおとうとムスタファー・ファズル・パシャのように帝国ていこく政府せいふ大臣だいじん歴任れきにんした政治せいじ存在そんざいする。

君主くんしゅ継承けいしょう順位じゅんいは、総督そうとくはムハンマド・アリーの男系だんけい子孫しそんちゅう最年長さいねんちょうしゃ即位そくいするようさだめられていたが、だい5だいのイスマーイール・パシャのときイスタンブールのオスマン帝国ていこく政府せいふ運動うんどうしておやから相続そうぞくする制度せいどあらためられた。

最後さいご君主くんしゅフアード2せいは1952ねんまれで、ちちファールーク1せい同年どうねんのクーデターでイタリア亡命ぼうめいした結果けっか生後せいご6ヶ月かげつ即位そくいした。しかし翌年よくねん1さい6ヶ月かげつ廃位はいいされ、成長せいちょうしたのは亡命ぼうめいさきフランスモナコにおいてである。

歴代れきだい君主くんしゅ

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エジプト総督そうとく(ワーリー)

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(1805ねん - 1867ねん

ふくおう(ヘディーヴ)

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(1867ねん - 1914ねん

(1914ねん - 1922ねん

国王こくおう(マリク)

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(1922ねん - 1953ねん

  1. フアード1せい在位ざいい1922ねん - 1936ねん
  2. ファールーク1せい在位ざいい1936ねん - 1952ねん
  3. フアード2せい在位ざいい1952ねん - 1953ねん
 
 
 
 
 
1. ムハンマド・アリー・パシャ
総督そうとく:1805ねん-1848ねん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
トゥスン・パシャ
 
 
 
2. イブラーヒーム・パシャ
総督そうとく:1848ねん
 
 
 
4. サイード・パシャ
総督そうとく:1854ねん-1863ねん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. アッバース・パシャ
総督そうとく:1848ねん-1854ねん
 
 
 
5. イスマーイール・パシャ
総督そうとく:1863ねん-1867ねん
ふくおう:1867ねん-1879ねん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イブラーヒーム・イルハミー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エミナ・イルハミー
 
6. タウフィーク・パシャ
ふくおう:1879ねん-1892ねん
 
8. フサイン・カーミル
(スルターン:1914ねん-1917ねん
 
9. フアード1せい
(スルターン:1917ねん-1922ねん
国王こくおう:1922ねん-1936ねん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7. アッバース・ヒルミー2せい
ふくおう:1892ねん-1914ねん
 
ムハンマド・アリー・タウフィーク
摂政せっしょう:1936ねん-1937ねん
 
 
 
 
 
10. ファールーク1せい
国王こくおう:1936ねん-1952ねん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムハンマド・アブデル・モネイム
摂政せっしょう:1952ねん-1953ねん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
11. フアード2せい
国王こくおう:1952ねん-1953ねん

脚注きゃくちゅう

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出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 加藤かとうひろし『ムハンマド・アリー』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ世界せかいリブレット じん 067〉、2013ねん8がつISBN 978-4-634-35067-0 
  • 加藤かとうひろし「"近代きんだいのアラブ社会しゃかい"」『西にしアジアⅠ アラブ』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ世界せかい各国かっこく 8〉、2002ねん3がつ、395-451ぺーじISBN 978-4-634-41380-1 
  • 山口やまぐち直彦なおひこ『エジプトきん現代げんだい ムハンマド・アリあさ成立せいりつから現在げんざいまでの200ねん明石書店あかししょてん世界せかい歴史れきし叢書そうしょ〉、2006ねん1がつISBN 978-4-7503-2238-4 

関連かんれん項目こうもく

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