(Translated by https://www.hiragana.jp/)
インド洋 - Wikipedia

インド洋いんどよう

大洋たいよういち、アフリカ、アジア、オセアニア、南極なんきょくあいだにある海域かいいき

インド洋いんどよう印度いんどよう、インドよう、えい: Indian Ocean: Oceanus Indicus オーケアヌス・インディクス)は、太平洋たいへいよう大西おおにしひろしならさん大洋たいようひとつである。さん大洋たいようちゅうもっとちいさい。面積めんせきやく7355まん平方へいほうキロメートル (km2) である[1]地球ちきゅう表面ひょうめんみずやく20パーセントがふくまれる[2]インド洋いんどよう推定すいてい水量すいりょうは2おく9213まん1000立方りっぽうキロメートルである[3]

インド洋いんどよう

きたインドパキスタンバングラデシュミャンマースリランカから、西にしアラビア半島はんとうおよびアフリカせっし、紅海こうかいとつながる。ひがしマレまれ半島はんとうスマトラ島すまとらとうジャワ島じゃわとうせん、およびオーストラリア西岸せいがんおよび南岸なんがんみなみとお南極なんきょくかいかこまれた海洋かいようである。大西洋たいせいようとの境界きょうかいアガラスみさきからびる東経とうけい20せん太平洋たいへいようとの境界きょうかい東経とうけい14655ふんせん[4]である。インド洋いんどようもっときた場所ばしょペルシャ湾ぺるしゃわんにあり、およそ北緯ほくい30である。

インド洋いんどようじょうにはほかマダガスカルとうコモロ諸島しょとうマスカリン諸島しょとうセーシェル諸島しょとうチャゴス諸島しょとうソコトラとうモルジブ諸島しょとうセイロンとうアンダマン・ニコバル諸島しょとうココス諸島しょとうクリスマスとうなどがある(Category:インド洋いんどようしま参照さんしょう)。

ふかさは平均へいきん3,890メートル。最深さいしんディアマンティナだんきれたい英語えいごばんディアマンティナ海淵かいえん英語えいごばん水深すいしん8,047 mである[5]

おもチョークポイントは、バブ・エル・マンデブ海峡かいきょうホルムズ海峡かいきょうマラッカ海峡かいきょうスエズ運河うんが南側みなみがわくちロンボク海峡かいきょうインド洋いんどようにはアンダマンかいアラビアかいベンガルわんグレートオーストラリアわんアデンわんオマーンわんラッカディブうみモザンビーク海峡かいきょうペルシャ湾ぺるしゃわん紅海こうかいふくむ。

大西洋たいせいようハリケーン太平洋たいへいよう台風たいふうたいし、インド洋いんどよう発生はっせいする熱帯ねったいてい気圧きあつサイクロンばれる。サイクロンがおお発生はっせいするのはベンガルわん付近ふきんであり、4がつから5がつと10がつから11月におお発生はっせいする。サイクロンが北上ほくじょうしてバングラデシュやインドをおそった場合ばあいおおくの死傷ししょうしゃることがある。なかでもバングラデシュはほぼ全域ぜんいきがガンジスがわのデルタのうえにできたくにであり、標高ひょうこうひく無数むすう河川かせんあみのようにはしっているため、サイクロンによる高潮こうちょう洪水こうずい強風きょうふう、および高潮こうちょうによる塩害えんがいはしばしばだい被害ひがいをもたらす[6]

インド洋いんどよう海底かいていには、ほぼ東西とうざいはし南西なんせいインド洋いんどよう海嶺かいれい南東なんとうインド洋いんどよう海嶺かいれい南北なんぼくはし中央ちゅうおうインド洋いんどよう海嶺かいれいの3つの海嶺かいれい存在そんざいする。これらの海嶺かいれいモーリシャスりょうであるロドリゲスとうおきにあるロドリゲス三重みえてんにてつながっている。南西なんせいインド洋いんどよう海嶺かいれいきたアフリカプレートみなみ南極なんきょくプレートであり、南極なんきょくプレートは南東なんとうインド洋いんどよう海嶺かいれいみなみにもつづいている。南東なんとうインド洋いんどよう海嶺かいれいきたオーストラリアプレートである。中央ちゅうおうインド洋いんどよう海嶺かいれい西にしはアフリカプレート、ひがしはオーストラリアプレートならびにインドプレートとなっている。オーストラリアプレートとインドプレートは同一どういつのプレートでインド・オーストラリアプレートとしょうされるが、このプレートは2つに分裂ぶんれつしつつあるとされ、2012ねん4がつスマトラ島すまとらとうおき地震じしんはこのプレートの分裂ぶんれつ過程かていにおいてこされたとの研究けんきゅうもある[7]上記じょうきの3海嶺かいれいあたらしい地殻ちかくされる場所ばしょであり、これらのはたらきによってインド洋いんどよう徐々じょじょ拡大かくだいする傾向けいこうにある。また、東経とうけい90海嶺かいれい南北なんぼく直線ちょくせんじょう発達はったつする特徴とくちょうてき海底かいてい地形ちけいで、はく亜紀あきからのインド大陸たいりく北上ほくじょう形成けいせいしたとかんがえられる。

海洋かいようおなじように、インド洋いんどようにおいても流入りゅうにゅう河川かせんからのシルト陸地りくち沿岸えんがん大量たいりょう堆積たいせきしている。もっともシルト流入りゅうにゅうりょうおおきいのはガンジスがわであり、としに32おくトンものシルトが流入りゅうにゅうする。これは世界せかいぜん河川かせんなか最大さいだい[8]、ベンガルわんにはあつりくげん堆積たいせきそうがある。

海流かいりゅう

編集へんしゅう

太平洋たいへいよう大西洋たいせいようおなじく、インド洋いんどようにもたまきりゅうみなみ赤道せきどう海流かいりゅう赤道あかみちはんりゅうきた赤道せきどう海流かいりゅうといった3海域かいいき共通きょうつう海流かいりゅう存在そんざいする。太平洋たいへいよう大西洋たいせいようとのちがいは、インド洋いんどようには北半球きたはんきゅうぞくする部分ぶぶん非常ひじょうちいさいため、たまきりゅう南半球みなみはんきゅうインド洋いんどよう亜熱帯あねったい循環じゅんかんひとつしかないことである。このインド洋いんどよう亜熱帯あねったい循環じゅんかんは、オーストラリア沿岸えんがんから赤道せきどうみなみをアフリカ東岸とうがんやマダガスカルちかくまでながれる暖流だんりゅうみなみ赤道せきどう海流かいりゅう、アフリカ東岸とうがんやマダガスカルから南下なんかしアフリカ大陸たいりく南端なんたんちかくのアガラスみさき付近ふきんまでながれる暖流だんりゅうアガラス海流かいりゅう、アフリカ南端なんたんから南極なんきょくたまきりゅうきたえん西にしながれオーストラリア西部せいぶたっする寒流かんりゅうみなみインド洋いんどよう海流かいりゅう、そしてオーストラリア西岸せいがん北上ほくじょうする寒流かんりゅう西にしオーストラリア海流かいりゅうからなる。南半球みなみはんきゅうたまきりゅうであるので、コリオリのちからともないこのたまきりゅうはん時計とけいまわりとなっている[9]

もうひとつのインド洋いんどよう海流かいりゅう特徴とくちょうは、季節風きせつふう非常ひじょうつよいためにぶしによって海流かいりゅうながれがことなる地域ちいきがあることである。インド洋いんどよう北部ほくぶ海域かいいきがそれにたり、なつ南西なんせいから北東ほくとうに、ふゆ北東ほくとうから南西なんせいふうくのにともなって、海流かいりゅうもその方向ほうこうながれる。このため、冬季とうきにはひがしから西にしながれるきた赤道せきどう海流かいりゅう存在そんざいするのにたいし、夏季かきにはその海流かいりゅう消滅しょうめつしてしまう。そのかわり、夏季かきには南西なんせいから北東ほくとう季節風きせつふう海流かいりゅうながれる[10]赤道あかみちはんりゅう冬季とうきにはきた赤道せきどう海流かいりゅう並行へいこうしてながれるが、夏季かきにはアフリカ東岸とうがんでソマリ海流かいりゅうとなってきたけてながれ、季節風きせつふう海流かいりゅうにつながって反転はんてんする。季節風きせつふうによって形成けいせいされる海流かいりゅうはほかの海域かいいきにも存在そんざいするが、海流かいりゅう自体じたいぶしによって消滅しょうめつ反転はんてんすることはインド洋いんどよう海域かいいきいちじるしい特徴とくちょうである。

 
海洋かいようだい循環じゅんかんあお深層しんそうすいあかるいあお表層ひょうそうすいである。

こういった表層ひょうそう海流かいりゅうのほかに、深層しんそうこる熱塩あつしお循環じゅんかん表層ひょうそうこる風成かざなし循環じゅんかんのあわさった、いわゆる海洋かいようだい循環じゅんかんインド洋いんどよう通過つうかしている。北大西洋きたたいせいようしずんだ北大西洋きたたいせいよう深層しんそうすい大西洋たいせいよう南下なんかしてインド洋いんどようへとはいり、インド洋いんどよう南部なんぶから南極なんきょくかい西にしからひがしへとながれる。このうち一部いちぶ北上ほくじょうして海面かいめん浮上ふじょうし、あたためられて表層ひょうそうすいとなる。深層しんそうすい主流しゅりゅう太平洋たいへいよう浮上ふじょうして表層ひょうそうすいとなり、今度こんどひがしから西にしへとながれ、そのままインド洋いんどよう通過つうかして大西洋たいせいようへとはいり、北大西洋きたたいせいようやされてまたしず[11]

インド洋いんどようにはガンジスがわをはじめ、エーヤワディーがわナルマダがわインダスがわチグリスがわユーフラテスがわをあわせたシャットゥルアラブがわジュバがわザンベジがわリンポポがわなどのおおくの河川かせんながむ。なかでももっとも水量すいりょうおよび土砂どしゃりょうおおいのはガンジスがわであり、このためにガンジスがわながれこむベンガルわん北部ほくぶ塩分えんぶん濃度のうどは3.1%とかなりひくいものになっている[12]ぎゃくにシャットゥルアラブがわ以外いがいおおきな河川かせんながまないペルシャ湾ぺるしゃわん塩分えんぶん濃度のうどは3.65%とややたかく、ほとんど流入りゅうにゅう河川かせん存在そんざいしないうえに高温こうおん乾燥かんそう地帯ちたいにあり、さらに非常ひじょうせまあさバブ・エル・マンデブ海峡かいきょうでしか外海そとめとの接点せってんのない紅海こうかい塩分えんぶん濃度のうどは4.06%と非常ひじょうたかくなっている。このたか塩分えんぶん濃度のうどのため、紅海こうかいからなが海水かいすいインド洋いんどよう本体ほんたいはいってもほかの海水かいすいとは容易よういにはまじりあわず、比重ひじゅうおもいために3000m付近ふきんにまでしずみ、紅海こうかい中層ちゅうそうすいというみずかたまり形成けいせいする[13]

インド洋いんどようから西太平洋にしたいへいようてい緯度いど海域かいいきは、共通きょうつう生物せいぶつおお生息せいそくしており、生物せいぶつ学的がくてきにはある程度ていど共通きょうつうせい海域かいいきとなっている。そのため、この海域かいいきす「インド太平洋たいへいよう」という言葉ことば海洋かいようがく海洋かいよう生物せいぶつがくなどの自然しぜん科学かがく分野ぶんやでしばしばもちいられる。

名称めいしょう

編集へんしゅう

インド洋いんどよう」のインド由来ゆらいする[14][15][16][17]

明代あきよまつ中国ちゅうごくでは1602ねんにイエズスかいマテオ・リッチ世界せかい地図ちずひつじさる輿こし万国ばんこくぜん』を作成さくせいした[18]。この地図ちず世界せかい地理ちり名称めいしょうをすべて漢語かんご翻訳ほんやくしたものでインドの西海岸にしかいがんには「小西こにしひろし」という記述きじゅつがある[18]。マテオ・リッチの世界せかい地図ちずひつじさる輿こし万国ばんこくぜん』は日本にっぽんにも伝来でんらいし、1698ねんごろかれた渋川しぶかわ春海しゅんかいの『世界せかい』ではインド洋いんどようには「小西こにしひろし」としるされている[18]一方いっぽう、1708ねん稲垣いながきひかりろう世界せかい万国ばんこく地球ちきゅう』にはインド洋いんどように「しょう東洋とうよう」としるされている[18]

1869ねん福沢ふくさわ諭吉ゆきち世界せかいこくつき』ではインド洋いんどようは「インドかい」としるされている[18]

経済けいざい活動かつどう

編集へんしゅう

インド洋いんどようスエズ運河うんがによって地中海ちちゅうかいつうじてヨーロッパと、マラッカ海峡かいきょうから太平洋たいへいようつうじてひがしアジアアメリカ大陸あめりかたいりくとつながっているため、東西とうざいりょうようむす主要しゅよう交易こうえきとなっている。たんひがしアジアとヨーロッパあいだ交易こうえきとしても非常ひじょう重要じゅうようせいたかいうえ、インド洋いんどよう沿岸えんがんペルシャ湾ぺるしゃわんインドネシアからの石油せきゆおよび石油せきゆ製品せいひん運送うんそうとしても重要じゅうようなうえ、近年きんねん東南とうなんアジアやインドといった沿海えんかい地域ちいき経済けいざい発展はってんによってインド洋いんどよう航路こうろ重要じゅうようせいしている。1967ねんには第三次中東戦争だいさんじちゅうとうせんそうによってスエズ運河うんが封鎖ふうさされたが、スエズ運河うんが経由けいゆ東西とうざい交易こうえきもちほうまわりでインド洋いんどよう中央ちゅうおう通過つうかするようになり、インド洋いんどよう重要じゅうようせい変化へんかしなかった。1975ねんにスエズ運河うんが再開さいかいされると、航路こうろふたたインド洋いんどよう北部ほくぶ通過つうかするものにもどった。

またサウジアラビアイランインド西にしオーストラリア沿岸えんがんには豊富ほうふ石油せきゆ天然てんねんガス埋蔵まいぞう確認かくにんされている。世界せかい海上かいじょう石油せきゆ生産せいさんやく40%はインド洋いんどようおこなわれている[19]

インド洋いんどよう沿海えんかいしょ都市とししょみなとのうちとくおおきなものは、ミャンマーヤンゴンバングラデシュチッタゴンインドムンバイチェンナイコルカタスリランカコロンボパキスタンカラチアラブ首長しゅちょうこく連邦れんぽうドバイアブダビオマーンマスカットイエメンアデンジブチジブチソマリアモガディシュケニアモンバサタンザニアダルエスサラームザンジバルシティモザンビークマプトみなみアフリカ共和きょうわこくダーバンイーストロンドンポートエリザベスモーリシャスポートルイス、そしてオーストラリアパース外港がいこうであるフリーマントルなどがある。マラッカ海峡かいきょうひがしはし位置いちするシンガポールは、太平洋たいへいようインド洋いんどようとをむす結節けっせつてんとして重要じゅうよう港湾こうわん都市としである。また、縁海えんかいである紅海こうかい北端ほくたんにはスエズまちがあるが、ここはスエズ運河うんが南端なんたん位置いちし、運河うんがくちとなる要衝ようしょうである。

地質ちしつ時代じだい

編集へんしゅう

ゴンドワナ大陸たいりく分裂ぶんれつはじめた2おくねんまえテチスうみ存在そんざいした。インド大陸たいりくがアフリカから分裂ぶんれつ北上ほくじょうし、ユーラシア大陸たいりく衝突しょうとつし、ヒマラヤ山脈ひまらやさんみゃく形成けいせいしたプレート運動うんどうで、インド洋いんどよう形成けいせいされはじめ、海嶺かいれい形成けいせいされるととも海底かいてい拡大かくだいし、アフリカ、アラビアインド、オーストラリアなどのプレートが現在げんざいかたちになっていった。

モンスーンのうみ

編集へんしゅう

インド洋いんどよう北部ほくぶは、モンスーン季節風きせつふう)の影響えいきょうつよく、なつ南西なんせいから北東ほくとうに(ひがしアフリカ方面ほうめんからアラビア・インド方面ほうめんに)、ふゆ北東ほくとうから南西なんせいふうく。海流かいりゅう季節風きせつふう影響えいきょうつよけて、なつ時計とけいまわりに、ふゆはん時計とけいまわりに海流かいりゅうまれる。

この時期じきによって一定いってい方向ほうこうかうかぜ海流かいりゅう帆船はんせん航行こうこういていた。さらに、ぶしによって方向ほうこうわるので、あるぶしかけたふねは、風向かざむきがわるぶしかえってくることができる。この季節風きせつふう性質せいしつ利用りようして、ひがしアフリカ・アラビア・インドあいだ紀元前きげんぜんから交易こうえきおこなわれてきた。

まず最初さいしょインド洋いんどよう貿易ぼうえきはじまったのは、メソポタミア文明ぶんめいインダス文明ぶんめいあいだにおいてだった。ウルなどメソポタミア文明ぶんめいしょ都市としからは、ふねによってはこばれたハラッパーせい人工じんこうぶつ発掘はっくつされている。紀元前きげんぜん6世紀せいきにはアケメネスあさペルシアのダレイオス1せいによってアラビア半島はんとうからインダスがわ探検たんけんおこなわれ、さらにアケメネスあさ征服せいふくしたアレクサンドロス大王だいおうもインダスがわからユーフラテスがわまでのインド洋いんどようネアルコス航海こうかいさせている。こうした探検たんけん結果けっかインド洋いんどよう交易こうえきさかんになっていった。

このころまではインド洋いんどよう交易こうえき大陸たいりく沿岸えんがん沿ってすすむものであったが、紀元前きげんぜん120ねんから紀元前きげんぜん110ねんあいだに、キュジコスのオイドクサスという航海こうかいしゃ紅海こうかいから大陸たいりく沿岸えんがん経由けいゆせず直接ちょくせつインドへとかう航路こうろ開発かいはつし、以後いごこのおき航路こうろ有力ゆうりょく航路こうろとなっていく[20]紀元きげん1、2世紀せいきごろにかれた『周遊しゅうゆう』によれば、ギリシアの商人しょうにんヒッパルスインド洋いんどよう季節風きせつふう利用りようし、アラビアからインドへ沖合おきあい航海こうかいしたことから、南西なんせいふうをヒッパルスのふうんでいたとされる。

そして、紀元きげん40ねんから70ねんごろに『エリュトゥラーうみ案内あんない』がかれる。このほんには当時とうじマ帝国まていこくりょうであったエジプトの紅海こうかい沿岸えんがんからアラビア半島はんとう、インド西海岸にしかいがんにいたる紅海こうかいルートと貿易ぼうえきこう記載きさいされ、当時とうじ季節風きせつふう利用りようしたマ帝国まていこくみなみインドのサータヴァーハナあさなどのしょ王朝おうちょうとの交易こうえき実態じったいしめしている。ほかにもアラビアのモカ(イエメン)のみなとから、多数たすうふねひがしアフリカにかっていたこと、インド、マレまれ半島はんとう中国ちゅうごく記述きじゅつがある。

インドからマレまれ半島はんとうへとかうベンガルわん航路こうろ、およびそこから中国ちゅうごくへとかう航路こうろもほどなくして確立かくりつされ、ここに「うみのシルクロード」とばれる東西とうざい通商つうしょう完成かんせいした。166ねんには大秦たいしん国王こくおうあんあつしローマ皇帝こうていアントニヌス・ピウス、またはマルクス・アウレリウス・アントニヌス比定ひていされる)からの使者ししゃしょうするものがこうかん王朝おうちょう最南端さいなんたんである日南にちなんぐん現在げんざいベトナムフエ周辺しゅうへん)に到着とうちゃくしたとの記述きじゅつこう漢書かんしょにあり[21]、このときまでにはインド洋いんどよう横断おうだん交易こうえきルートは確立かくりつしていたことがうかがえる。 5世紀せいき初頭しょとうにはほうあらわが、セイロンとうからの帰路きろ海路かいろり、ベンガルわんから広東かんとんへとたどりついた。671ねんにはよしきよし広東かんとんからシュリーヴィジャヤをとおり、インドのナーランダ僧院そういん仏典ぶってんまなんだのちシュリーヴィジャヤ経由けいゆ帰国きこくし、『南海なんかいよせ内法うちのりでん』や『だいから西域せいいき求法ぐほう高僧こうそうでん』をあらわした[22]。また、この航路こうろによりインドから東南とうなんアジアにヒンドゥーきょう仏教ぶっきょうつたわった。

マレーけいのマダガスカル移住いじゅう

編集へんしゅう

一方いっぽう1世紀せいきごろからは、インドネシア中部ちゅうぶボルネオとうマレーけい人々ひとびとインド洋いんどようちゅう南部なんぶり、インド洋いんどよう西端せいたんマダガスカルとうへの移民いみんおこなわれるようになった。沿岸えんがんしょ地域ちいきにマレーけい民族みんぞく上陸じょうりくした痕跡こんせきがないため、ボルネオの人々ひとびとジャワ島じゃわとうスマトラ島すまとらとう補給ほきゅうおこなったのち南東なんとう貿易ぼうえきふうって一気いっきインド洋いんどよう直航ちょっこうしたとかんがえられている。この移住いじゅうすうひゃく年間ねんかんつづき、マダガスカル全島ぜんとうはほぼマレーけいによって支配しはいされた。のちにインド洋いんどよう交易こうえきによってやってきたアラブじん対岸たいがんのモザンビーク付近ふきんから移住いじゅうしたバントゥーけいしょ民族みんぞくがマダガスカルにやってきたものの、マダガスカルの基層きそう文化ぶんかはこのマレーじん移住いじゅうによって形成けいせいされ、現在げんざいでも言語げんご文化ぶんか民族みんぞくなどおおくのめんインドネシアマレーシアといったマレーけい民族みんぞく国家こっかおおくの共通きょうつうてんっている。

うみみち

編集へんしゅう
 
ラム (ケニア)ちかくのダウせん

アッバースあさ以降いこうには、ダウせんばれた木製もくせい帆船はんせんにより、インドの香辛料こうしんりょうだけではなく中国ちゅうごくきぬ陶磁器とうじき西にしはこばれた。西にしひがしアフリカからは象牙ぞうげさいかく鼈甲べっこうが、きたヨーロッパオリエントからガラス製品せいひん葡萄酒ぶどうしゅ交易こうえきされていた。内陸ないりく交易こうえきシルクロードたいして、海上かいじょう交易こうえきうみみち、あるいはうみのシルクロードんでいる。インド洋いんどようはそのうみみち主要しゅようしていた。

アッバースあさバグダード首都しゅととしたので、首都しゅとちかいペルシアわん中心ちゅうしん交易こうえき発達はったつした。しかし、アッバースあさ衰退すいたい滅亡めつぼうや、エジプトのファーティマあさマムルークあさ繁栄はんえいにともない、紅海こうかい中心ちゅうしん帆船はんせんするようになった。これらのイスラムしょ王朝おうちょう起点きてんとしておおくのアラブじん商人しょうにんインド洋いんどよう交易こうえきになうようになり、10世紀せいき以降いこう徐々じょじょにアフリカの東海岸ひがしかいがんにおいてイスラム教いすらむきょう勢力せいりょく拡大かくだいしていき、15世紀せいきごろまでにはひがしアフリカのしょ都市としはほぼイスラムした[23]。このイスラムもとに、沿岸えんがんしょ都市としにはスワヒリばれるイスラムの影響えいきょうつよバントゥーけい文化ぶんか成立せいりつしはじめた。アフリカのインド洋いんどよう交易こうえき南端なんたんはザンベジがわ河口かこうにほどちかソファラであり、それ以南いなんにおいては海上かいじょう交易こうえきルートは到達とうたつしていなかった。

一方いっぽうインド洋いんどよう東部とうぶにおいては、7世紀せいきごろにスマトラ島すまとらとう成立せいりつしたシュリーヴィジャヤ王国おうこくがマラッカ海峡かいきょうさえ、中国ちゅうごくとインドのあいだ交易こうえきさえて繁栄はんえいした。しかしシュリーヴィジャヤ王国おうこくは、インド南部なんぶ本拠ほんきょチョーラあさ対立たいりつするようになり、1025ねんにはチョーラあさラージェーンドラ1せい海軍かいぐん遠征えんせいさせてシュリーヴィジャヤを占領せんりょう[24]以後いごインド洋いんどよう東部とうぶ制海権せいかいけんはチョーラあさにぎることとなった。チョーラあさ強力きょうりょく海軍かいぐんっており、ベンガルわんやモルディブ諸島しょとうにまで影響えいきょうりょく拡大かくだいさせていた。チョーラあさは13世紀せいき滅亡めつぼうするが、以後いごパーンディヤあさヴィジャヤナガル王国おうこくなどみなみインド勢力せいりょくったしょ王朝おうちょう積極せっきょくてきインド洋いんどよう交易こうえきをおこなった。13世紀せいきまつ以降いこう、インドネシアやマレーシアにはイスラム教いすらむきょうつたわるようになり、やがて仏教ぶっきょうやヒンドゥーきょうわってこの地域ちいき支配しはいてき宗教しゅうきょうとなっていった。

13世紀せいきにはモンゴル帝国ていこくユーラシア大陸たいりく中央ちゅうおうをほぼ制圧せいあつするが、これによってユーラシア全域ぜんいき交流こうりゅうさかんになり、インド洋いんどよう交易こうえきもさらに隆盛りゅうせいかった。モンゴル帝国ていこく自体じたい海路かいろをよく使用しようし、マルコ・ポーロもと王朝おうちょう使者ししゃ随伴ずいはんして中国ちゅうごくから海路かいじインドを経由けいゆイランイル・ハンこくかい、ここからヴェネツィアへと帰還きかんしている。1331ねん以降いこうイブン・バットゥータひがしアフリカ沿岸えんがんモルディブ諸島しょとう、インド、中国ちゅうごくなど各地かくち歴訪れきほうし、「さん大陸たいりく周遊しゅうゆう」におおくの記述きじゅつのこされている。

中国ちゅうごく明朝みょうちょう永楽えいらくみかどは、朝貢ちょうこう貿易ぼうえき再開さいかい目的もくてき1405ねん以降いこう、7かいにわたってていかずすうじゅうせき艦隊かんたいあたえ、東南とうなんアジアからインド洋いんどよう派遣はけんした。ていかず艦隊かんたいだい3かい航海こうかいまではインドのカリカット(コーリコード)までしかなかったが、だい4かい以降いこうはアラビア半島はんとうまで航海こうかいし、別働隊べつどうたいひがしアフリカまで来航らいこうした。この航海こうかいによって中国ちゅうごくインド洋いんどよう沿岸えんがん諸国しょこくとの交流こうりゅう一時いちじ増大ぞうだいしたが、ていかずぼつあかりうみきん政策せいさくったためこのようなだい艦隊かんたい派遣はけんすることはなくなり、交流こうりゅうふたた縮小しゅくしょうしていった。

ポルトガル艦隊かんたい登場とうじょう

編集へんしゅう
 
カリカットに到着とうちゃくしたヴァスコ・ダ・ガマいちぎょう

1497ねん7がつ8にちヴァスコ・ダ・ガマポルトガルリスボン出発しゅっぱつした。ガマの艦隊かんたいもちほうまわり、1498ねん4がつ13にちマリンディ到着とうちゃくした。マリンディでやとった水先案内みずさきあんないじんみちびかれ、5月20にちにカリカットに到着とうちゃくした。この航海こうかいによりもちほうまわ航路こうろ確立かくりつしたポルトガルは、以後いご積極せっきょくてき艦隊かんたいをインドへとおくり、急速きゅうそくインド洋いんどようでの地歩ちほ確立かくりつしていった。それまでインド洋いんどよう交易こうえきにぎっていたイスラム諸国しょこくはこれに危機ききかんいだき、ペルシアわん支配しはいするオスマン帝国ていこくインド洋いんどよう交易こうえき西端せいたん要衝ようしょうエジプト支配しはいするマムルークあさ、それにインドのグジャラート・スルタンこく連合れんごう艦隊かんたい組織そしきしたものの、1509ねんディーウおき海戦かいせんでこの連合れんごう艦隊かんたいはポルトガルにやぶれ、ポルトガルはインド洋いんどよう制海権せいかいけん確立かくりつした[25]以降いこうポルトガルは積極せっきょくてきインド洋いんどよう沿いの要衝ようしょう攻略こうりゃくすすめ、ゴア(インド)、マラッカマレーシア)、モンバサケニア)、ホルムズ(イラン)などを支配しはいき、インド洋いんどよう交易こうえき支配しはいした。このポルトガル支配しはいはアラブじん商人しょうにん影響えいきょうりょく一時いちじてき減退げんたいさせ、ひがしアフリカにおいてはそれまで交易こうえきよう言語げんごとして使用しようされていたアラビアわり、ザンジバル周辺しゅうへん成立せいりつしていたスワヒリ使用しようされるようになり、やがてひがしアフリカ全体ぜんたい交易こうえきよう言語げんごとなっていった。しかし、ポルトガルは16世紀せいきつうじてインド洋いんどよう交易こうえき優位ゆういたもったものの、完全かんぜん統制とうせいくことまではできなかった。ポルトガル本国ほんごく人口じんこうすくなく、広大こうだいインド洋いんどようしょ海域かいいき隅々すみずみにまでひからせることができなかったうえ、1513ねん要衝ようしょうアデン攻略こうりゃくすることに失敗しっぱいしたため、紅海こうかいつうじてのエジプト・オスマン帝国ていこくへの交易こうえきルートを掌握しょうあくすることに失敗しっぱいしたためである。このルートをつうじて地中海ちちゅうかい到達とうたつする従来じゅうらい交易こうえきルートは1530ねんごろには復活ふっかつし、以後いごもちほうルートと紅海こうかいルートの2ルートが併存へいそんするかたちとなった[26]

日本人にっぽんじんインド洋いんどよう航海こうかい氏名しめいがはっきりしている最初さいしょのものは、1582ねんキリシタン大名だいみょう大友おおとも宗麟そうりん有馬ありま晴信はるのぶ大村おおむら純忠すみただらが派遣はけんした天正てんしょうおう使節しせつである。伊東いとうマンショ千々石ちぢわミゲルら4にん使節しせつだんは、インド洋いんどよう横断おうだんし、1585ねんローマいた。なお、これよりはや1549ねんスペインひと宣教師せんきょうしフランシスコ・ザビエル日本人にっぽんじんヤジロウともない、インドのゴアを出発しゅっぱつ日本にっぽんかった。

オランダの時代じだい

編集へんしゅう

1580ねんにポルトガルがいったんスペイン併合へいごうされ、さらに1600ねんイギリスイギリスひがしインド会社かいしゃを、1602ねんオランダオランダひがしインド会社かいしゃ設立せつりつしてインド洋いんどようへの進出しんしゅつ本格ほんかくさせると、ポルトガルのインド洋いんどようへの影響えいきょうりょく衰退すいたいしていった。ポルトガルにわってインド洋いんどよう交易こうえき支配しはいしたのはオランダで、1617ねん建設けんせつされたバタヴィア(げんジャカルタ)を拠点きょてんとして勢力せいりょく拡大かくだいしていった。1640ねんにポルトガルはさい独立どくりつするものの衰運すいうん挽回ばんかいできず、1641ねんにはマラッカさえ、17世紀せいきのほぼ1世紀せいきにわたってオランダの時代じだいつづいた。この時期じきはオランダ、イギリスのほか、ややおくれてデンマーク1612ねん設立せつりつしたデンマークひがしインド会社かいしゃや、フランス実質じっしつてきには1664ねん設立せつりつしたフランスひがしインド会社かいしゃ[27]など、複数ふくすうのヨーロッパ諸国しょこくひがしインド会社かいしゃインド洋いんどよう貿易ぼうえき進出しんしゅつした。

オマーンによる覇権はけん

編集へんしゅう
 
ザンジバルにあるスルタン宮殿きゅうでん

17世紀せいき初頭しょとうにはオマーンヤアーリバあさ成立せいりつし、1650ねんにはオマーンの出入口でいりぐちにあたる良港りょうこうマスカット(マスカト)をポルトガルから奪還だっかんした。その、オマーンはマスカットを拠点きょてんとしてインド洋いんどよう交易こうえきし、ポルトガルとはげしくあらそうようになった。とくにオマーンが目標もくひょうとしたのはひがしアフリカの交易こうえきしょ都市としであり、かく都市としでは両国りょうこく戦闘せんとうがしばしばおこるようになった。

1698ねんにポルトガルの支配しはい拠点きょてんであったモンバサの要塞ようさいフォート・ジーザスがオマーンの攻撃こうげきにより陥落かんらくし(ジェズス要塞ようさい包囲ほういせん[28]オマーン帝国ていこくによるアラビアからひがしアフリカまでの交易こうえき支配しはいけん確立かくりつするかにえた。しかし、1720年代ねんだいにオマーンで内戦ないせんはじまり、その勢力せいりょく一時いちじよわまった。モンバサをはじめとするスワヒリしょみなとはオマーン貴族きぞくのもと独立どくりつしていったが、ザンジバルのみはオマーン本国ほんごくもとにとどまった。

やがてブーサイードぞくのアフマド・ブン・サイードがオマーンの支配しはいけん確立かくりつし、ブーサイードあさ創設そうせつした。ブーサイードあさだい5だいスルタンであるサイイド・サイード時代じだいに、オマーンはひがしアフリカにふたた進出しんしゅつ開始かいしする。1828ねんにはおやせいおこなってひがしアフリカしょみなと屈服くっぷくさせ[29]1830年代ねんだいにはひがしアフリカの覇権はけん確立かくりつした。1840ねんにはサイードはザンジバル諸島しょとうタンザニア)にストーン・タウン建設けんせつしてきょうつし、ザンジバルシティがオマーンの首都しゅととなった。しかし1856ねんにはサイードのによってくにマスカット・オマーン・スルターンこくザンジバル・スルターンこく分割ぶんかつされ、さらに帆船はんせん時代じだいから蒸気じょうきせん時代じだいうつるとともにイギリスの勢力せいりょくつよくなり、オマーン・ザンジバル両国りょうこくともに船団せんだんうしなうとともにイギリスの保護ほごこくとなっていった。これにともない、インド洋いんどよう交易こうえき完全かんぜん西洋せいよう勢力せいりょくにぎられることとなった。

イギリスの支配しはい

編集へんしゅう

18世紀せいきはいると、オランダの国力こくりょく衰退すいたいじょうじてイギリスがこの地域ちいきでの勢力せいりょく拡大かくだいしていく。1700ねんにイギリスはインドから現在げんざいのカルカッタ(コルカタ)のもととなる地域ちいきて、しばしばインドの政治せいじ介入かいにゅうした。一方いっぽう1661ねんにポルトガルからイギリスに割譲かつじょうされたボンベイには、イギリスひがしインド会社かいしゃ海軍かいぐん根拠地こんきょちかれ、この海軍かいぐんがイギリスの勢力せいりょく増大ぞうだいとともに強力きょうりょくなものとなっていく。1757ねんプラッシーのたたかでフランスをし、1820ねんごろにはインドのほぼ全域ぜんいき支配しはいにおいた。また、このインドへのルートを確保かくほするため、1814ねんにはモーリシャスとうセイシェル諸島しょとうを、1815ねんにはケープ植民しょくみんを、それぞれ正式せいしきにイギリスは獲得かくとくする。19世紀せいきはいるとイギリスひがしインド会社かいしゃインド洋いんどよう地域ちいきにおける貿易ぼうえき独占どくせんけん喪失そうしつし、P&Oしゃなどによる汽船きせん航路こうろもう整備せいびされていったが、この汽船きせん航路こうろにおいてもイギリスは圧倒的あっとうてきつよさをほこっていた[30]1869ねん11月17にちスエズ運河うんが開通かいつうしたことにより、イギリスのインド洋いんどようでの覇権はけんはさらにつよまった。スエズ運河うんが開通かいつうはヨーロッパとアジアの距離きょり半分はんぶんちかくにまでちぢめたため、インドやマレまれ半島はんとうなどインド洋いんどよう沿岸えんがん地域ちいき貿易ぼうえき活発かっぱつした[31]。しかし、だい世界せかい大戦たいせん、イギリスはインドをはじめとする植民しょくみんうしない、イギリスは覇権はけんうしなった。

現代げんだい

編集へんしゅう
 
ディエゴガルシアとう停泊ていはくするサラトガ (CV-60)。1985ねん12月

イギリスにわってこの地域ちいき覇権はけんにぎったのはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくであり、ソヴィエト連邦れんぽうとの冷戦れいせんそなえるべくディエゴガルシアとうなどの各地かくち基地きちいた。1990年代ねんだい以降いこうソマリア政府せいふ崩壊ほうかいとそれにつづソマリア内戦ないせんによって地域ちいき秩序ちつじょ崩壊ほうかいし、ソマリアおき中心ちゅうしんとするインド洋いんどよう北東ほくとうにおいてソマリアおき海賊かいぞく猛威もういるうようになった。これに対処たいしょするため、2008ねん以降いこう世界せかい各国かっこく共同きょうどうしてこの海域かいいき艦船かんせん派遣はけんし、海賊かいぞくまりをおこなっている。

国際こくさい関係かんけい

編集へんしゅう

インド洋いんどよう沿岸えんがん諸国しょこくは、地域ちいきないでの貿易ぼうえき投資とうし活性かっせい目指めざして1995ねんかんインド洋いんどよう地域ちいき協力きょうりょく連合れんごう設立せつりつした。この組織そしき2013ねんかんインド洋いんどよう連合れんごうへと改称かいしょうされた。インド洋いんどよう南西なんせいにある島嶼とうしょこく地域ちいきは、1979ねん以降いこうすうねんおき(2003ねん以降いこうは4ねんおき)にインド洋いんどよう諸島しょとうゲームズばれる総合そうごうスポーツ大会たいかい開催かいさいしている。2011ねんには、この大会たいかいにはマダガスカルレユニオンモーリシャスセーシェルコモロマヨットモルディブの7かこく参加さんかした。

インド洋いんどようだい地震じしん

編集へんしゅう
 
被害ひがいけたインド洋いんどよう沿岸えんがん14カ国かこく

2004ねん12月26にちスマトラ島すまとらとう北西ほくせいおきインド洋いんどようでマグニチュード 9.3 の地震じしん発生はっせいした。これによりこった津波つなみインド洋いんどよう沿岸えんがん各国かっこく甚大じんだい被害ひがいした。死者ししゃよく2005ねん1がつ19にちまでに合計ごうけいで226,566にん、また被災ひさいしゃは500まんにんたっしている。これほど被害ひがいおおきくなった原因げんいん

  • 太平洋たいへいようには整備せいびされている津波つなみ警報けいほう国際こくさいネットワークが、インド洋いんどようにはなかったこと
  • マングローブっていたこと
  • 津波つなみたいする経験けいけん知識ちしき不足ふそくしていたこと

などがげられる。

ダイポールモード

編集へんしゅう

太平洋たいへいよう発生はっせいするエルニーニョ大気たいき海洋かいよう相互そうご作用さよう現象げんしょうで、発生はっせい海域かいいき名称めいしょうかんインド洋いんどようダイポールモード現象げんしょう(IOD)ともばれる。アフリカとインドネシアの気候きこうおおきな影響えいきょうあたえている。

インド洋いんどようせっする国々くにぐに

編集へんしゅう

インド洋いんどようせっする国々くにぐには、みなみアフリカ共和きょうわこくよりおおむね時計とけいまわりにつぎのとおりである。

インド洋いんどよう南部なんぶ

編集へんしゅう

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ Earth's Oceans. EnchantedLearning.com. Retrieved on 2013-07-16.
  2. ^ The Indian Ocean and the Superpowers. Routledge. (1986). ISBN 0-7099-4241-9. https://books.google.co.jp/books?id=2pMOAAAAQAAJ&pg=PA33&redir_esc=y&hl=ja 
  3. ^ Donald W. Gotthold, Julia J. Gotthold (1988). Indian Ocean: Bibliography. Clio Press. ISBN 1-85109-034-7. https://books.google.co.jp/books?id=ujoRAAAAYAAJ&q=292,131,000+cubic+kilometers&dq=292,131,000+cubic+kilometers&redir_esc=y&hl=ja 
  4. ^ Limits of Oceans and Seas. International Hydrographic Organization Special Publication No. 23, 1953.
  5. ^ Stow, D. A. V. (2006) Oceans: an illustrated reference. Chicago: University of Chicago Press, ISBN 0-226-77664-6 - page 127 for map of Indian Ocean and pp. 34-37 regarding trenches - but due to the recent discovery, some texts and maps are yet to include the feature.
  6. ^ 大橋おおはし正明まさあき村山むらやま真弓まゆみ編著へんちょ、2003ねん8がつ8にち初版しょはんだい1さつ、『バングラデシュをるための60しょう』p51-55、明石書店あかししょてん
  7. ^ https://www.afpbb.com/articles/-/2904202 「インド洋いんどよう海底かいていのプレートが「2つに分裂ぶんれつ」、4がつスマトラ島すまとらとうおき地震じしん」AFPBB 2012ねん09がつ27にち 2015ねん3がつ1にち閲覧えつらん
  8. ^ 海洋かいようがく 原著げんちょだい4はん」p115 ポール・R・ピネちょ 東京大学とうきょうだいがく海洋かいよう研究所けんきゅうじょ監訳かんやく 東海大学とうかいだいがく出版しゅっぱんかい 2010ねん3がつ31にちだい1さつだい1はん発行はっこう
  9. ^ 海洋かいようがく 原著げんちょだい4はん」p201 ポール・R・ピネちょ 東京大学とうきょうだいがく海洋かいよう研究所けんきゅうじょ監訳かんやく 東海大学とうかいだいがく出版しゅっぱんかい 2010ねん3がつ31にちだい1さつだい1はん発行はっこう
  10. ^ 世界せかい地理ちり12 両極りょうきょく海洋かいよう」p267 福井ふくい英一郎えいいちろうへん 朝倉書店あさくらしょてん 昭和しょうわ58ねん9がつ10日とおか
  11. ^ 海洋かいようがく 原著げんちょだい4はん」p223 ポール・R・ピネちょ 東京大学とうきょうだいがく海洋かいよう研究所けんきゅうじょ監訳かんやく 東海大学とうかいだいがく出版しゅっぱんかい 2010ねん3がつ31にちだい1さつだい1はん発行はっこう
  12. ^ 世界せかい地理ちり12 両極りょうきょく海洋かいよう」p259 福井ふくい英一郎えいいちろうへん 朝倉書店あさくらしょてん 昭和しょうわ58ねん9がつ10日とおか
  13. ^ 海洋かいようがく 原著げんちょだい4はん」p220 ポール・R・ピネちょ 東京大学とうきょうだいがく海洋かいよう研究所けんきゅうじょ監訳かんやく 東海大学とうかいだいがく出版しゅっぱんかい 2010ねん3がつ31にちだい1さつだい1はん発行はっこう
  14. ^ Harper, Douglas. “Online Etymology Dictionary”. Online Etymology Dictionary. 18 January 2011閲覧えつらん
  15. ^ Mathur, Anand (2003). Indo-American Relations: Foreign Policy Orientations and Perspectives of P.V. Narasimha Rao and Bill Clinton. Scientific Publishers (India). p. 138. ISBN 978-81-7233-336-2. https://books.google.com/books?id=pTR2AAAAMAAJ+. "India occupies the central position in the Indian Ocean region that is why the Ocean was named after India" 
  16. ^ Váli, F. A. (1976). Politics of the Indian Ocean Region: The Balances of Power. Free Press. p. 25. ISBN 978-0-02-933080-7. https://books.google.co.jp/books?id=_P4MAAAAIAAJ&redir_esc=y&hl=ja 
  17. ^ Hussain. Geography Of India For Civil Ser Exam. Tata McGraw-Hill Education. pp. 12–251; "India and the Geo–Politics of the Indian Ocean"(16–33). ISBN 978-0-07-066772-3. https://books.google.co.jp/books?id=wUzKCZxvNQoC&pg=SA12-PA251&redir_esc=y&hl=ja 
  18. ^ a b c d e 佐藤さとう正幸まさゆき. “明治めいじ初期しょき英語えいご導入どうにゅうともな日本語にほんご概念がいねん表記ひょうき変容へんようかんする研究けんきゅう”. 山梨やまなし県立けんりつ大学だいがく. 2020ねん1がつ18にち閲覧えつらん
  19. ^ The World Factbook. Cia.gov. Retrieved on 2013-07-16.
  20. ^ うみわたった人類じんるいはるかな歴史れきし もなき古代こだい海洋かいようみんはいかに航海こうかいしたのか」p174 ブライアン・フェイガンちょ 東郷とうごうえりかやく 河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ 2013ねん5がつ30にち初版しょはん
  21. ^   范曄 司馬しばぴょう (中国ちゅうごく), こう漢書かんしょ/まき88, ウィキソースより閲覧えつらん  西域せいいきでん だいななじゅうはち 大秦たいしんこく:「繁体字はんたいじ中国語ちゅうごくご: いたり桓帝のべきゅうねん大秦たいしんおうあんあつし使つかい日南にちなん徼外けんじ象牙ぞうげさいかく﹑輂瑁 はじめいちつう
  22. ^ 世界せかい歴史れきし だい13かん アジアのおおとううみ」p56 えいつもるあきら 講談社こうだんしゃ 昭和しょうわ52ねん11月20にちだい1さつ
  23. ^ 新書しんしょアフリカだい8はん宮本みやもとただしきょう松田まつだもとへん)、2003ねん2がつ20日はつか講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ)p243
  24. ^ 世界せかい歴史れきし だい13かん アジアのおおとううみ」pp83 えいつもるあきら 講談社こうだんしゃ 昭和しょうわ52ねん11月20にちだい1さつ
  25. ^ 新書しんしょアフリカだい8はん宮本みやもとただしきょう松田まつだもとへん)、2003ねん2がつ20日はつか講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ)p222
  26. ^ 商業しょうぎょう」p73 石坂いしざか昭雄あきおことぶきえい欣三郎きんざぶろう諸田もろたみのる山下やました幸夫ゆきおちょ 有斐閣ゆうひかく 1980ねん11月20にち初版しょはんだい1さつ
  27. ^ 商業しょうぎょう」p96 石坂いしざか昭雄あきおことぶきえい欣三郎きんざぶろう諸田もろたみのる山下やました幸夫ゆきおちょ 有斐閣ゆうひかく 1980ねん11月20にち初版しょはんだい1さつ
  28. ^ 新書しんしょアフリカだい8はん宮本みやもとただしきょう松田まつだもとへん)、2003ねん2がつ20日はつか講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ)p226
  29. ^ 新書しんしょアフリカだい8はん宮本みやもとただしきょう松田まつだもとへん)、2003ねん2がつ20日はつか講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ)p230
  30. ^ 横井よこい勝彦かつひこちょ 『アジアのうみだいえい帝国ていこく講談社こうだんしゃ p230-232 ISBN 978-4061596412
  31. ^ 商業しょうぎょう」p260-261 石坂いしざか昭雄あきおことぶきえい欣三郎きんざぶろう諸田もろたみのる山下やました幸夫ゆきおちょ 有斐閣ゆうひかく 1980ねん11月20にち初版しょはんだい1さつ

外部がいぶリンク

編集へんしゅう

座標ざひょう: 南緯なんい20 東経とうけい80 / 南緯なんい20 東経とうけい80 / -20; 80