インド洋 いんどよう の海底 かいてい には、ほぼ東西 とうざい に走 はし る南西 なんせい インド洋 いんどよう 海嶺 かいれい と南東 なんとう インド洋 いんどよう 海嶺 かいれい 、南北 なんぼく に走 はし る中央 ちゅうおう インド洋 いんどよう 海嶺 かいれい の3つの海嶺 かいれい が存在 そんざい する。これらの海嶺 かいれい はモーリシャス 領 りょう であるロドリゲス島 とう の沖 おき にあるロドリゲス三重 みえ 点 てん にてつながっている。南西 なんせい インド洋 いんどよう 海嶺 かいれい の北 きた はアフリカプレート 、南 みなみ は南極 なんきょく プレート であり、南極 なんきょく プレートは南東 なんとう インド洋 いんどよう 海嶺 かいれい の南 みなみ にも続 つづ いている。南東 なんとう インド洋 いんどよう 海嶺 かいれい の北 きた はオーストラリアプレート である。中央 ちゅうおう インド洋 いんどよう 海嶺 かいれい の西 にし はアフリカプレート、東 ひがし はオーストラリアプレートならびにインドプレート となっている。オーストラリアプレートとインドプレートは同一 どういつ のプレートでインド・オーストラリアプレートと称 しょう されるが、このプレートは2つに分裂 ぶんれつ しつつあるとされ、2012年 ねん 4月 がつ のスマトラ島 すまとらとう 沖 おき 地震 じしん はこのプレートの分裂 ぶんれつ 過程 かてい において引 ひ き起 お こされたとの研究 けんきゅう もある[ 7] 。上記 じょうき の3海嶺 かいれい は新 あたら しい地殻 ちかく の生 う み出 だ される場所 ばしょ であり、これらの働 はたら きによってインド洋 いんどよう は徐々 じょじょ に拡大 かくだい する傾向 けいこう にある。また、東経 とうけい 90度 ど 海嶺 かいれい は南北 なんぼく に直線 ちょくせん 状 じょう に発達 はったつ する特徴 とくちょう 的 てき な海底 かいてい 地形 ちけい で、白 はく 亜紀 あき からのインド亜 あ 大陸 たいりく 北上 ほくじょう が形成 けいせい したと考 かんが えられる。
他 た の海洋 かいよう と同 おな じように、インド洋 いんどよう においても流入 りゅうにゅう 河川 かせん からのシルト が陸地 りくち 沿岸 えんがん で大量 たいりょう に堆積 たいせき している。最 もっと もシルト流入 りゅうにゅう 量 りょう が大 おお きいのはガンジス川 がわ であり、年 とし に32億 おく トンものシルトが流入 りゅうにゅう する。これは世界 せかい の全 ぜん 河川 かせん の中 なか で最大 さいだい で[ 8] 、ベンガル湾 わん には厚 あつ い陸 りく 源 げん 堆積 たいせき 層 そう がある。
太平洋 たいへいよう や大西洋 たいせいよう と同 おな じく、インド洋 いんどよう にも環 たまき 流 りゅう ・南 みなみ 赤道 せきどう 海流 かいりゅう ・赤道 あかみち 反 はん 流 りゅう ・北 きた 赤道 せきどう 海流 かいりゅう といった3海域 かいいき 共通 きょうつう の海流 かいりゅう は存在 そんざい する。太平洋 たいへいよう や大西洋 たいせいよう との違 ちが いは、インド洋 いんどよう には北半球 きたはんきゅう に属 ぞく する部分 ぶぶん が非常 ひじょう に小 ちい さいため、環 たまき 流 りゅう が南半球 みなみはんきゅう のインド洋 いんどよう 亜熱帯 あねったい 循環 じゅんかん ひとつしかないことである。このインド洋 いんどよう 亜熱帯 あねったい 循環 じゅんかん は、オーストラリア沿岸 えんがん から赤道 せきどう の南 みなみ をアフリカ東岸 とうがん やマダガスカル近 ちか くまで流 なが れる暖流 だんりゅう の南 みなみ 赤道 せきどう 海流 かいりゅう 、アフリカ東岸 とうがん やマダガスカルから南下 なんか しアフリカ大陸 たいりく 南端 なんたん 近 ちか くのアガラス岬 みさき 付近 ふきん まで流 なが れる暖流 だんりゅう のアガラス海流 かいりゅう 、アフリカ南端 なんたん から南極 なんきょく 環 たまき 流 りゅう の北 きた 縁 えん を西 にし に流 なが れオーストラリア西部 せいぶ に達 たっ する寒流 かんりゅう の南 みなみ インド洋 いんどよう 海流 かいりゅう 、そしてオーストラリア西岸 せいがん を北上 ほくじょう する寒流 かんりゅう の西 にし オーストラリア海流 かいりゅう からなる。南半球 みなみはんきゅう の環 たまき 流 りゅう であるので、コリオリの力 ちから に伴 ともな いこの環 たまき 流 りゅう は反 はん 時計 とけい 回 まわ りとなっている[ 9] 。
もう一 ひと つのインド洋 いんどよう の海流 かいりゅう の特徴 とくちょう は、季節風 きせつふう が非常 ひじょう に強 つよ いために季 き 節 ぶし によって海流 かいりゅう の流 なが れが異 こと なる地域 ちいき があることである。インド洋 いんどよう の北部 ほくぶ 海域 かいいき がそれに当 あ たり、夏 なつ は南西 なんせい から北東 ほくとう に、冬 ふゆ は北東 ほくとう から南西 なんせい に風 ふう が吹 ふ くのにともなって、海流 かいりゅう もその方向 ほうこう に流 なが れる。このため、冬季 とうき には東 ひがし から西 にし に流 なが れる北 きた 赤道 せきどう 海流 かいりゅう が存在 そんざい するのに対 たい し、夏季 かき にはその海流 かいりゅう が消滅 しょうめつ してしまう。そのかわり、夏季 かき には南西 なんせい から北東 ほくとう に季節風 きせつふう 海流 かいりゅう が流 なが れる[ 10] 。赤道 あかみち 反 はん 流 りゅう は冬季 とうき には北 きた 赤道 せきどう 海流 かいりゅう と並行 へいこう して流 なが れるが、夏季 かき にはアフリカ東岸 とうがん でソマリ海流 かいりゅう となって北 きた へ向 む けて流 なが れ、季節風 きせつふう 海流 かいりゅう につながって反転 はんてん する。季節風 きせつふう によって形成 けいせい される海流 かいりゅう はほかの海域 かいいき にも存在 そんざい するが、海流 かいりゅう 自体 じたい が季 き 節 ぶし によって消滅 しょうめつ し反転 はんてん することはインド洋 いんどよう 海域 かいいき の著 いちじる しい特徴 とくちょう である。
海洋 かいよう 大 だい 循環 じゅんかん の図 ず 。濃 こ い青 あお が深層 しんそう 水 すい 、明 あか るい青 あお が表層 ひょうそう 水 すい である。
こういった表層 ひょうそう の海流 かいりゅう のほかに、深層 しんそう で起 お こる熱塩 あつしお 循環 じゅんかん と表層 ひょうそう で起 お こる風成 かざなし 循環 じゅんかん のあわさった、いわゆる海洋 かいよう 大 だい 循環 じゅんかん もインド洋 いんどよう を通過 つうか している。北大西洋 きたたいせいよう で沈 しず み込 こ んだ北大西洋 きたたいせいよう 深層 しんそう 水 すい は大西洋 たいせいよう を南下 なんか してインド洋 いんどよう へと入 はい り、インド洋 いんどよう 南部 なんぶ から南極 なんきょく 海 かい を西 にし から東 ひがし へと流 なが れる。このうち一部 いちぶ は北上 ほくじょう して海面 かいめん に浮上 ふじょう し、温 あたた められて表層 ひょうそう 水 すい となる。深層 しんそう 水 すい の主流 しゅりゅう は太平洋 たいへいよう で浮上 ふじょう して表層 ひょうそう 水 すい となり、今度 こんど は東 ひがし から西 にし へと流 なが れ、そのままインド洋 いんどよう を通過 つうか して大西洋 たいせいよう へと入 はい り、北大西洋 きたたいせいよう で冷 ひ やされてまた沈 しず み込 こ む[ 11] 。
インド洋 いんどよう にはガンジス川 がわ をはじめ、エーヤワディー川 がわ 、ナルマダ川 がわ 、インダス川 がわ 、チグリス川 がわ とユーフラテス川 がわ をあわせたシャットゥルアラブ川 がわ 、ジュバ川 がわ 、ザンベジ川 がわ 、リンポポ川 がわ などの多 おお くの河川 かせん が流 なが れ込 こ む。なかでももっとも水量 すいりょう および土砂 どしゃ の量 りょう が多 おお いのはガンジス川 がわ であり、このためにガンジス川 がわ の流 なが れこむベンガル湾 わん 北部 ほくぶ の塩分 えんぶん 濃度 のうど は3.1%とかなり低 ひく いものになっている[ 12] 。逆 ぎゃく にシャットゥルアラブ川 がわ 以外 いがい に大 おお きな河川 かせん の流 なが れ込 こ まないペルシャ湾 ぺるしゃわん の塩分 えんぶん 濃度 のうど は3.65%とやや高 たか く、ほとんど流入 りゅうにゅう 河川 かせん が存在 そんざい しないうえに高温 こうおん 乾燥 かんそう 地帯 ちたい にあり、さらに非常 ひじょう に狭 せま く浅 あさ いバブ・エル・マンデブ海峡 かいきょう でしか外海 そとめ との接点 せってん のない紅海 こうかい の塩分 えんぶん 濃度 のうど は4.06%と非常 ひじょう に高 たか くなっている。この高 たか い塩分 えんぶん 濃度 のうど のため、紅海 こうかい から流 なが れ出 で た海水 かいすい はインド洋 いんどよう 本体 ほんたい 部 ぶ に入 はい ってもほかの海水 かいすい とは容易 ようい にはまじりあわず、比重 ひじゅう が重 おも いために3000m付近 ふきん にまで沈 しず み込 こ み、紅海 こうかい 中層 ちゅうそう 水 すい という水 みず 塊 かたまり を形成 けいせい する[ 13] 。
インド洋 いんどよう から西太平洋 にしたいへいよう の低 てい 緯度 いど 海域 かいいき は、共通 きょうつう の生物 せいぶつ が多 おお く生息 せいそく しており、生物 せいぶつ 学的 がくてき にはある程度 ていど の共通 きょうつう 性 せい を持 も つ海域 かいいき となっている。そのため、この海域 かいいき を指 さ す「インド太平洋 たいへいよう 」という言葉 ことば が海洋 かいよう 学 がく や海洋 かいよう 生物 せいぶつ 学 がく などの自然 しぜん 科学 かがく 分野 ぶんや でしばしば用 もち いられる。
「インド洋 いんどよう 」の名 な はインド に由来 ゆらい する[ 14] [ 15] [ 16] [ 17] 。
明代 あきよ 末 まつ の中国 ちゅうごく では1602年 ねん にイエズス会 かい 士 し マテオ・リッチ が世界 せかい 地図 ちず 『坤 ひつじさる 輿 こし 万国 ばんこく 全 ぜん 図 ず 』を作成 さくせい した[ 18] 。この地図 ちず は世界 せかい の地理 ちり 名称 めいしょう をすべて漢語 かんご に翻訳 ほんやく したものでインドの西海岸 にしかいがん には「小西 こにし 洋 ひろし 」という記述 きじゅつ がある[ 18] 。マテオ・リッチの世界 せかい 地図 ちず 『坤 ひつじさる 輿 こし 万国 ばんこく 全 ぜん 図 ず 』は日本 にっぽん にも伝来 でんらい し、1698年 ねん 頃 ごろ に書 か かれた渋川 しぶかわ 春海 しゅんかい の『世界 せかい 図 ず 』ではインド洋 いんどよう には「小西 こにし 洋 ひろし 」と記 しる されている[ 18] 。一方 いっぽう 、1708年 ねん の稲垣 いながき 光 ひかり 朗 ろう 『世界 せかい 万国 ばんこく 地球 ちきゅう 図 ず 』にはインド洋 いんどよう に「小 しょう 東洋 とうよう 」と記 しる されている[ 18] 。
1869年 ねん の福沢 ふくさわ 諭吉 ゆきち 『世界 せかい 国 こく 尽 つき 』ではインド洋 いんどよう は「インド海 かい 」と記 しる されている[ 18] 。
ゴンドワナ大陸 たいりく が分裂 ぶんれつ し始 はじ めた2億 おく 年 ねん 前 まえ にテチス海 うみ が存在 そんざい した。インド亜 あ 大陸 たいりく がアフリカから分裂 ぶんれつ 、北上 ほくじょう し、ユーラシア大陸 たいりく に衝突 しょうとつ し、ヒマラヤ山脈 ひまらやさんみゃく を形成 けいせい したプレート 運動 うんどう で、インド洋 いんどよう が形成 けいせい され始 はじ め、海嶺 かいれい が形成 けいせい されると共 とも に海底 かいてい が拡大 かくだい し、アフリカ、アラビア 、インド、オーストラリア などのプレートが現在 げんざい の形 かたち になっていった。
インド洋 いんどよう 北部 ほくぶ は、モンスーン (季節風 きせつふう )の影響 えいきょう が強 つよ く、夏 なつ は南西 なんせい から北東 ほくとう に(東 ひがし アフリカ方面 ほうめん からアラビア・インド方面 ほうめん に)、冬 ふゆ は北東 ほくとう から南西 なんせい に風 ふう が吹 ふ く。海流 かいりゅう も季節風 きせつふう の影響 えいきょう を強 つよ く受 う けて、夏 なつ は時計 とけい 回 まわ りに、冬 ふゆ は反 はん 時計 とけい 回 まわ りに海流 かいりゅう が生 う まれる。
この時期 じき によって一定 いってい の方向 ほうこう へ向 む かう風 かぜ と海流 かいりゅう は帆船 はんせん の航行 こうこう に向 む いていた。さらに、季 き 節 ぶし によって方向 ほうこう が変 か わるので、ある季 き 節 ぶし に出 で かけた船 ふね は、風向 かざむ きが変 か わる季 き 節 ぶし に帰 かえ ってくることができる。この季節風 きせつふう の性質 せいしつ を利用 りよう して、東 ひがし アフリカ・アラビア・インド間 あいだ で紀元前 きげんぜん から交易 こうえき が行 おこな われてきた。
まず最初 さいしょ にインド洋 いんどよう で貿易 ぼうえき が始 はじ まったのは、メソポタミア文明 ぶんめい とインダス文明 ぶんめい の間 あいだ においてだった。ウル などメソポタミア文明 ぶんめい の諸 しょ 都市 とし からは、船 ふね によって運 はこ ばれたハラッパー 製 せい の人工 じんこう 物 ぶつ が発掘 はっくつ されている。紀元前 きげんぜん 6世紀 せいき にはアケメネス朝 あさ ペルシアのダレイオス1世 せい によってアラビア半島 はんとう からインダス川 がわ の探検 たんけん が行 おこな われ、さらにアケメネス朝 あさ を征服 せいふく したアレクサンドロス大王 だいおう もインダス川 がわ からユーフラテス川 がわ までのインド洋 いんどよう をネアルコス に航海 こうかい させている。こうした探検 たんけん の結果 けっか 、インド洋 いんどよう 交易 こうえき は盛 さか んになっていった。
このころまではインド洋 いんどよう 交易 こうえき は大陸 たいりく 沿岸 えんがん に沿 そ って進 すす むものであったが、紀元前 きげんぜん 120年 ねん から紀元前 きげんぜん 110年 ねん の間 あいだ に、キュジコスのオイドクサスという航海 こうかい 者 しゃ が紅海 こうかい から大陸 たいりく 沿岸 えんがん を経由 けいゆ せず直接 ちょくせつ インドへと向 む かう航路 こうろ を開発 かいはつ し、以後 いご この沖 おき 乗 の り航路 こうろ が有力 ゆうりょく な航路 こうろ となっていく[ 20] 。紀元 きげん 1、2世紀 せいき ごろに書 か かれた『周遊 しゅうゆう 記 き 』によれば、ギリシアの商人 しょうにん ヒッパルス がインド洋 いんどよう の季節風 きせつふう を利用 りよう し、アラビアからインドへ沖合 おきあい を航海 こうかい したことから、南西 なんせい 風 ふう をヒッパルスの風 ふう と呼 よ んでいたとされる。
そして、紀元 きげん 後 ご 40年 ねん から70年 ねん ごろに『エリュトゥラー海 うみ 案内 あんない 記 き 』が書 か かれる。この本 ほん には当時 とうじ ロ ろ ーマ帝国 まていこく 領 りょう であったエジプトの紅海 こうかい 沿岸 えんがん からアラビア半島 はんとう 、インド西海岸 にしかいがん にいたる紅海 こうかい ルートと貿易 ぼうえき 港 こう が記載 きさい され、当時 とうじ 季節風 きせつふう を利用 りよう したロ ろ ーマ帝国 まていこく と南 みなみ インドのサータヴァーハナ朝 あさ などの諸 しょ 王朝 おうちょう との交易 こうえき の実態 じったい を示 しめ している。他 ほか にもアラビアのモカ(イエメン )の港 みなと から、多数 たすう の船 ふね が東 ひがし アフリカに向 む かっていたこと、インド、マレ まれ ー半島 はんとう 、中国 ちゅうごく の記述 きじゅつ がある。
インドからマレ まれ ー半島 はんとう へと向 む かうベンガル湾 わん の航路 こうろ 、およびそこから中国 ちゅうごく へと向 む かう航路 こうろ もほどなくして確立 かくりつ され、ここに「海 うみ のシルクロード 」と呼 よ ばれる東西 とうざい 通商 つうしょう 路 ろ が完成 かんせい した。166年 ねん には大秦 たいしん 国王 こくおう 安 あん 敦 あつし (ローマ皇帝 こうてい アントニヌス・ピウス 、またはマルクス・アウレリウス・アントニヌス に比定 ひてい される)からの使者 ししゃ と称 しょう するものが後 こう 漢 かん 王朝 おうちょう 最南端 さいなんたん の地 ち である日南 にちなん 郡 ぐん (現在 げんざい のベトナム ・フエ 周辺 しゅうへん )に到着 とうちゃく したとの記述 きじゅつ が後 こう 漢書 かんしょ にあり[ 21] 、この時 とき までにはインド洋 いんどよう の横断 おうだん 交易 こうえき ルートは確立 かくりつ していたことがうかがえる。
5世紀 せいき 初頭 しょとう には法 ほう 顕 あらわ が、セイロン島 とう からの帰路 きろ に海路 かいろ を取 と り、ベンガル湾 わん から広東 かんとん へとたどりついた。671年 ねん には義 よし 浄 きよし が広東 かんとん からシュリーヴィジャヤを通 とお り、インドのナーランダ僧院 そういん で仏典 ぶってん を学 まな んだ後 のち シュリーヴィジャヤ経由 けいゆ で帰国 きこく し、『南海 なんかい 寄 よせ 帰 き 内法 うちのり 伝 でん 』や『大 だい 唐 から 西域 せいいき 求法 ぐほう 高僧 こうそう 伝 でん 』を著 あらわ した[ 22] 。また、この航路 こうろ によりインドから東南 とうなん アジアにヒンドゥー教 きょう や仏教 ぶっきょう が伝 つた わった。
一方 いっぽう 、1世紀 せいき ごろからは、インドネシア中部 ちゅうぶ のボルネオ島 とう のマレー系 けい の人々 ひとびと がインド洋 いんどよう 中 ちゅう 南部 なんぶ を突 つ っ切 き り、インド洋 いんどよう 西端 せいたん のマダガスカル島 とう への移民 いみん が行 おこな われるようになった。沿岸 えんがん 諸 しょ 地域 ちいき にマレー系 けい 民族 みんぞく の上陸 じょうりく した痕跡 こんせき がないため、ボルネオの人々 ひとびと はジャワ島 じゃわとう やスマトラ島 すまとらとう で補給 ほきゅう を行 おこな った後 のち 、南東 なんとう 貿易 ぼうえき 風 ふう に乗 の って一気 いっき にインド洋 いんどよう を直航 ちょっこう したと考 かんが えられている。この移住 いじゅう は数 すう 百 ひゃく 年間 ねんかん 続 つづ き、マダガスカル全島 ぜんとう はほぼマレー系 けい によって支配 しはい された。のちにインド洋 いんどよう 交易 こうえき によってやってきたアラブ人 じん や対岸 たいがん のモザンビーク付近 ふきん から移住 いじゅう したバントゥー系 けい 諸 しょ 民族 みんぞく がマダガスカルにやってきたものの、マダガスカルの基層 きそう 文化 ぶんか はこのマレー人 じん 移住 いじゅう によって形成 けいせい され、現在 げんざい でも言語 げんご ・文化 ぶんか ・民族 みんぞく など多 おお くの面 めん でインドネシア やマレーシア といったマレー系 けい 民族 みんぞく の国家 こっか と多 おお くの共通 きょうつう 点 てん を持 も っている。
ラム (ケニア) 近 ちか くのダウ船 せん
アッバース朝 あさ 以降 いこう には、ダウ船 せん と呼 よ ばれた木製 もくせい の帆船 はんせん により、インドの香辛料 こうしんりょう だけではなく中国 ちゅうごく の絹 きぬ や陶磁器 とうじき が西 にし へ運 はこ ばれた。西 にし の東 ひがし アフリカからは象牙 ぞうげ ・犀 さい の角 かく ・鼈甲 べっこう が、北 きた はヨーロッパ やオリエント からガラス 製品 せいひん ・葡萄酒 ぶどうしゅ が交易 こうえき されていた。内陸 ないりく 部 ぶ の交易 こうえき 路 ろ シルクロード に対 たい して、海上 かいじょう 交易 こうえき 路 ろ を海 うみ の道 みち 、あるいは海 うみ のシルクロード と呼 よ んでいる。インド洋 いんどよう はその海 うみ の道 みち の主要 しゅよう 部 ぶ を成 な していた。
アッバース朝 あさ はバグダード を首都 しゅと としたので、首都 しゅと に近 ちか いペルシア湾 わん を中心 ちゅうしん に交易 こうえき が発達 はったつ した。しかし、アッバース朝 あさ の衰退 すいたい ・滅亡 めつぼう や、エジプトのファーティマ朝 あさ やマムルーク朝 あさ の繁栄 はんえい にともない、紅海 こうかい を中心 ちゅうしん に帆船 はんせん が行 い き来 き するようになった。これらのイスラム諸 しょ 王朝 おうちょう を起点 きてん として多 おお くのアラブ人 じん 商人 しょうにん がインド洋 いんどよう 交易 こうえき を担 にな うようになり、10世紀 せいき 以降 いこう 徐々 じょじょ にアフリカの東海岸 ひがしかいがん においてイスラム教 いすらむきょう が勢力 せいりょく を拡大 かくだい していき、15世紀 せいき ごろまでには東 ひがし アフリカの諸 しょ 都市 とし はほぼイスラム化 か した[ 23] 。このイスラム化 か を基 もと に、沿岸 えんがん 諸 しょ 都市 とし にはスワヒリ と呼 よ ばれるイスラムの影響 えいきょう の強 つよ いバントゥー系 けい 文化 ぶんか が成立 せいりつ しはじめた。アフリカのインド洋 いんどよう 交易 こうえき の南端 なんたん はザンベジ川 がわ 河口 かこう にほど近 ちか いソファラ であり、それ以南 いなん においては海上 かいじょう 交易 こうえき ルートは到達 とうたつ していなかった。
一方 いっぽう インド洋 いんどよう 東部 とうぶ においては、7世紀 せいき ごろにスマトラ島 すまとらとう に成立 せいりつ したシュリーヴィジャヤ王国 おうこく がマラッカ海峡 かいきょう を押 お さえ、中国 ちゅうごく とインドの間 あいだ の交易 こうえき を押 お さえて繁栄 はんえい した。しかしシュリーヴィジャヤ王国 おうこく は、インド南部 なんぶ に本拠 ほんきょ を置 お くチョーラ朝 あさ と対立 たいりつ するようになり、1025年 ねん にはチョーラ朝 あさ のラージェーンドラ1世 せい が海軍 かいぐん を遠征 えんせい させてシュリーヴィジャヤを占領 せんりょう し[ 24] 、以後 いご インド洋 いんどよう 東部 とうぶ の制海権 せいかいけん はチョーラ朝 あさ が握 にぎ ることとなった。チョーラ朝 あさ は強力 きょうりょく な海軍 かいぐん を持 も っており、ベンガル湾 わん やモルディブ諸島 しょとう にまで影響 えいきょう 力 りょく を拡大 かくだい させていた。チョーラ朝 あさ は13世紀 せいき に滅亡 めつぼう するが、以後 いご もパーンディヤ朝 あさ やヴィジャヤナガル王国 おうこく など南 みなみ インド に勢力 せいりょく を持 も った諸 しょ 王朝 おうちょう は積極 せっきょく 的 てき にインド洋 いんどよう 交易 こうえき をおこなった。13世紀 せいき 末 まつ 以降 いこう 、インドネシアやマレーシアにはイスラム教 いすらむきょう が伝 つた わるようになり、やがて仏教 ぶっきょう やヒンドゥー教 きょう に代 か わってこの地域 ちいき の支配 しはい 的 てき な宗教 しゅうきょう となっていった。
13世紀 せいき にはモンゴル帝国 ていこく がユーラシア大陸 たいりく 中央 ちゅうおう 部 ぶ をほぼ制圧 せいあつ するが、これによってユーラシア全域 ぜんいき の交流 こうりゅう が盛 さか んになり、インド洋 いんどよう 交易 こうえき もさらに隆盛 りゅうせい に向 む かった。モンゴル帝国 ていこく 自体 じたい も海路 かいろ をよく使用 しよう し、マルコ・ポーロ も元 もと 王朝 おうちょう の使者 ししゃ に随伴 ずいはん して中国 ちゅうごく から海路 かいじ インドを経由 けいゆ しイラン のイル・ハン国 こく へ向 む かい、ここからヴェネツィア へと帰還 きかん している。1331年 ねん 以降 いこう 、イブン・バットゥータ も東 ひがし アフリカ沿岸 えんがん やモルディブ諸島 しょとう 、インド、中国 ちゅうごく など各地 かくち を歴訪 れきほう し、「三 さん 大陸 たいりく 周遊 しゅうゆう 記 き 」に多 おお くの記述 きじゅつ が残 のこ されている。
中国 ちゅうごく 明朝 みょうちょう の永楽 えいらく 帝 みかど は、朝貢 ちょうこう 貿易 ぼうえき の再開 さいかい を目的 もくてき に1405年 ねん 以降 いこう 、7回 かい にわたって鄭 てい 和 かず に数 すう 十 じゅう 隻 せき の艦隊 かんたい を与 あた え、東南 とうなん アジア からインド洋 いんどよう に派遣 はけん した。鄭 てい 和 かず の艦隊 かんたい は第 だい 3回 かい 航海 こうかい まではインドのカリカット(コーリコード )までしか来 こ なかったが、第 だい 4回 かい 以降 いこう はアラビア半島 はんとう まで航海 こうかい し、別働隊 べつどうたい は東 ひがし アフリカまで来航 らいこう した。この航海 こうかい によって中国 ちゅうごく とインド洋 いんどよう 沿岸 えんがん 諸国 しょこく との交流 こうりゅう は一時 いちじ 増大 ぞうだい したが、鄭 てい 和 かず 没 ぼつ 後 ご は明 あかり は海 うみ 禁 きん 政策 せいさく を取 と ったためこのような大 だい 艦隊 かんたい を派遣 はけん することはなくなり、交流 こうりゅう は再 ふたた び縮小 しゅくしょう していった。
カリカットに到着 とうちゃく したヴァスコ・ダ・ガマ一 いち 行 ぎょう
1497年 ねん 7月 がつ 8日 にち 、ヴァスコ・ダ・ガマ はポルトガル のリスボン を出発 しゅっぱつ した。ガマの艦隊 かんたい は喜 き 望 もち 峰 ほう を回 まわ り、1498年 ねん 4月 がつ 13日 にち にマリンディ に到着 とうちゃく した。マリンディで雇 やと った水先案内 みずさきあんない 人 じん に導 みちび かれ、5月20日 にち にカリカットに到着 とうちゃく した。この航海 こうかい により喜 き 望 もち 峰 ほう 回 まわ り航路 こうろ を確立 かくりつ したポルトガルは、以後 いご 積極 せっきょく 的 てき に艦隊 かんたい をインドへと送 おく り、急速 きゅうそく にインド洋 いんどよう での地歩 ちほ を確立 かくりつ していった。それまでインド洋 いんどよう 交易 こうえき を握 にぎ っていたイスラム諸国 しょこく はこれに危機 きき 感 かん を抱 いだ き、ペルシア湾 わん を支配 しはい するオスマン帝国 ていこく やインド洋 いんどよう 交易 こうえき 西端 せいたん の要衝 ようしょう エジプト を支配 しはい するマムルーク朝 あさ 、それにインドのグジャラート・スルタン国 こく が連合 れんごう 艦隊 かんたい を組織 そしき したものの、1509年 ねん のディーウ沖 おき 海戦 かいせん でこの連合 れんごう 艦隊 かんたい はポルトガルに敗 やぶ れ、ポルトガルはインド洋 いんどよう の制海権 せいかいけん を確立 かくりつ した[ 25] 。以降 いこう ポルトガルは積極 せっきょく 的 てき にインド洋 いんどよう 沿 ぞ いの要衝 ようしょう の攻略 こうりゃく を進 すす め、ゴア (インド)、マラッカ (マレーシア )、モンバサ (ケニア )、ホルムズ(イラン )などを支配 しはい 下 か に置 お き、インド洋 いんどよう 交易 こうえき を支配 しはい した。このポルトガル支配 しはい はアラブ人 じん 商人 しょうにん の影響 えいきょう 力 りょく を一時 いちじ 的 てき に減退 げんたい させ、東 ひがし アフリカにおいてはそれまで交易 こうえき 用 よう 言語 げんご として使用 しよう されていたアラビア語 ご に代 か わり、ザンジバル周辺 しゅうへん で成立 せいりつ していたスワヒリ語 ご が使用 しよう されるようになり、やがて東 ひがし アフリカ全体 ぜんたい の交易 こうえき 用 よう 言語 げんご となっていった。しかし、ポルトガルは16世紀 せいき を通 つう じてインド洋 いんどよう 交易 こうえき で優位 ゆうい を保 たも ったものの、完全 かんぜん に統制 とうせい 下 か に置 お くことまではできなかった。ポルトガル本国 ほんごく の人口 じんこう が少 すく なく、広大 こうだい なインド洋 いんどよう 諸 しょ 海域 かいいき の隅々 すみずみ にまで目 め を光 ひか らせることができなかったうえ、1513年 ねん に要衝 ようしょう アデン を攻略 こうりゃく することに失敗 しっぱい したため、紅海 こうかい を通 つう じてのエジプト・オスマン帝国 ていこく への交易 こうえき ルートを掌握 しょうあく することに失敗 しっぱい したためである。このルートを通 つう じて地中海 ちちゅうかい に到達 とうたつ する従来 じゅうらい の交易 こうえき ルートは1530年 ねん ごろには復活 ふっかつ し、以後 いご は喜 き 望 もち 峰 ほう ルートと紅海 こうかい ルートの2ルートが併存 へいそん する形 かたち となった[ 26] 。
日本人 にっぽんじん のインド洋 いんどよう 航海 こうかい で氏名 しめい がはっきりしている最初 さいしょ のものは、1582年 ねん にキリシタン大名 だいみょう 大友 おおとも 宗麟 そうりん ・有馬 ありま 晴信 はるのぶ ・大村 おおむら 純忠 すみただ らが派遣 はけん した天正 てんしょう 遣 や 欧 おう 使節 しせつ である。伊東 いとう マンショ ・千々石 ちぢわ ミゲル ら4人 にん の使節 しせつ 団 だん は、インド洋 いんどよう を横断 おうだん し、1585年 ねん にローマ に着 つ いた。なお、これより早 はや く1549年 ねん にスペイン 人 ひと 宣教師 せんきょうし フランシスコ・ザビエル が日本人 にっぽんじん ヤジロウ を伴 ともな い、インドのゴアを出発 しゅっぱつ し日本 にっぽん へ向 む かった。
1580年 ねん にポルトガルがいったんスペイン に併合 へいごう され、さらに1600年 ねん にイギリス がイギリス東 ひがし インド会社 かいしゃ を、1602年 ねん にオランダ がオランダ東 ひがし インド会社 かいしゃ を設立 せつりつ してインド洋 いんどよう への進出 しんしゅつ を本格 ほんかく 化 か させると、ポルトガルのインド洋 いんどよう への影響 えいきょう 力 りょく は衰退 すいたい していった。ポルトガルに代 か わってインド洋 いんどよう 交易 こうえき を支配 しはい したのはオランダで、1617年 ねん に建設 けんせつ されたバタヴィア(現 げん ジャカルタ )を拠点 きょてん として勢力 せいりょく を拡大 かくだい していった。1640年 ねん にポルトガルは再 さい 独立 どくりつ するものの衰運 すいうん は挽回 ばんかい できず、1641年 ねん にはマラッカ を押 お さえ、17世紀 せいき のほぼ1世紀 せいき にわたってオランダの時代 じだい が続 つづ いた。この時期 じき はオランダ、イギリスのほか、ややおくれてデンマーク が1612年 ねん に設立 せつりつ したデンマーク東 ひがし インド会社 かいしゃ や、フランス が実質 じっしつ 的 てき には1664年 ねん に設立 せつりつ したフランス東 ひがし インド会社 かいしゃ [ 27] など、複数 ふくすう のヨーロッパ諸国 しょこく の東 ひがし インド会社 かいしゃ がインド洋 いんどよう 貿易 ぼうえき に進出 しんしゅつ した。
ザンジバルにあるスルタン の宮殿 きゅうでん
17世紀 せいき 初頭 しょとう にはオマーン にヤアーリバ朝 あさ が成立 せいりつ し、1650年 ねん にはオマーンの出入口 でいりぐち にあたる良港 りょうこう マスカット (マスカト)をポルトガルから奪還 だっかん した。その後 ご 、オマーンはマスカットを拠点 きょてん としてインド洋 いんどよう 交易 こうえき に乗 の り出 だ し、ポルトガルと激 はげ しく争 あらそ うようになった。特 とく にオマーンが目標 もくひょう としたのは東 ひがし アフリカの交易 こうえき 諸 しょ 都市 とし であり、各 かく 都市 とし では両国 りょうこく の戦闘 せんとう がしばしばおこるようになった。
1698年 ねん にポルトガルの支配 しはい 拠点 きょてん であったモンバサの要塞 ようさい フォート・ジーザス がオマーンの攻撃 こうげき により陥落 かんらく し(ジェズス要塞 ようさい 包囲 ほうい 戦 せん )[ 28] 、オマーン帝国 ていこく によるアラビアから東 ひがし アフリカまでの交易 こうえき 支配 しはい 権 けん が確立 かくりつ するかに見 み えた。しかし、1720年代 ねんだい にオマーンで内戦 ないせん が始 はじ まり、その勢力 せいりょく は一時 いちじ 弱 よわ まった。モンバサをはじめとするスワヒリ諸 しょ 港 みなと はオマーン貴族 きぞく のもと独立 どくりつ していったが、ザンジバルのみはオマーン本国 ほんごく の元 もと にとどまった。
やがてブーサイード族 ぞく のアフマド・ブン・サイードがオマーンの支配 しはい 権 けん を確立 かくりつ し、ブーサイード朝 あさ を創設 そうせつ した。ブーサイード朝 あさ の第 だい 5代 だい スルタンであるサイイド・サイード の時代 じだい に、オマーンは東 ひがし アフリカに再 ふたた び進出 しんしゅつ を開始 かいし する。1828年 ねん には親 おや 征 せい を行 おこな って東 ひがし アフリカ諸 しょ 港 みなと を屈服 くっぷく させ[ 29] 、1830年代 ねんだい には東 ひがし アフリカの覇権 はけん を確立 かくりつ した。1840年 ねん にはサイードはザンジバル諸島 しょとう (タンザニア )にストーン・タウン を建設 けんせつ して居 きょ を移 うつ し、ザンジバルシティ がオマーンの首都 しゅと となった。しかし1856年 ねん にはサイードの死 し によって国 くに はマスカット・オマーン・スルターン国 こく とザンジバル・スルターン国 こく に分割 ぶんかつ され、さらに帆船 はんせん の時代 じだい から蒸気 じょうき 船 せん の時代 じだい へ移 うつ ると共 とも にイギリスの勢力 せいりょく が強 つよ くなり、オマーン・ザンジバル両国 りょうこく ともに船団 せんだん を失 うしな うとともにイギリスの保護 ほご 国 こく となっていった。これに伴 ともな い、インド洋 いんどよう 交易 こうえき は完全 かんぜん に西洋 せいよう 勢力 せいりょく の手 て に握 にぎ られることとなった。
18世紀 せいき に入 はい ると、オランダの国力 こくりょく 衰退 すいたい に乗 じょう じてイギリスがこの地域 ちいき での勢力 せいりょく を拡大 かくだい していく。1700年 ねん にイギリスはインドから現在 げんざい のカルカッタ(コルカタ )の元 もと となる地域 ちいき を得 え て、しばしばインドの政治 せいじ に介入 かいにゅう した。一方 いっぽう 、1661年 ねん にポルトガルからイギリスに割譲 かつじょう されたボンベイ には、イギリス東 ひがし インド会社 かいしゃ 海軍 かいぐん の根拠地 こんきょち が置 お かれ、この海軍 かいぐん がイギリスの勢力 せいりょく 増大 ぞうだい とともに強力 きょうりょく なものとなっていく。1757年 ねん プラッシーの戦 たたか い でフランスを追 お い出 だ し、1820年 ねん ごろにはインドのほぼ全域 ぜんいき を支配 しはい 下 か においた。また、このインドへのルートを確保 かくほ するため、1814年 ねん にはモーリシャス島 とう とセイシェル諸島 しょとう を、1815年 ねん にはケープ植民 しょくみん 地 ち を、それぞれ正式 せいしき にイギリスは獲得 かくとく する。19世紀 せいき に入 はい るとイギリス東 ひがし インド会社 かいしゃ はインド洋 いんどよう 地域 ちいき における貿易 ぼうえき 独占 どくせん 権 けん を喪失 そうしつ し、P&O 社 しゃ などによる汽船 きせん 航路 こうろ 網 もう が整備 せいび されていったが、この汽船 きせん 航路 こうろ においてもイギリスは圧倒的 あっとうてき な強 つよ さを誇 ほこ っていた[ 30] 。1869年 ねん 11月17日 にち にスエズ運河 うんが が開通 かいつう したことにより、イギリスのインド洋 いんどよう での覇権 はけん はさらに強 つよ まった。スエズ運河 うんが の開通 かいつう はヨーロッパとアジアの距離 きょり を半分 はんぶん 近 ちか くにまで縮 ちぢ めたため、インドやマレ まれ ー半島 はんとう などインド洋 いんどよう 沿岸 えんがん 地域 ちいき の貿易 ぼうえき が活発 かっぱつ 化 か した[ 31] 。しかし、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、イギリスはインドを始 はじ めとする植民 しょくみん 地 ち を失 うしな い、イギリスは覇権 はけん を失 うしな った。
ディエゴガルシア島 とう に停泊 ていはく するサラトガ (CV-60) 。1985年 ねん 12月 イギリスに代 か わってこの地域 ちいき の覇権 はけん を握 にぎ ったのはアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく であり、ソヴィエト連邦 れんぽう との冷戦 れいせん に備 そな えるべくディエゴガルシア島 とう などの各地 かくち に基地 きち を置 お いた。1990年代 ねんだい 以降 いこう 、ソマリア 政府 せいふ の崩壊 ほうかい とそれに続 つづ くソマリア内戦 ないせん によって地域 ちいき の秩序 ちつじょ が崩壊 ほうかい し、ソマリア沖 おき を中心 ちゅうしん とするインド洋 いんどよう 北東 ほくとう 部 ぶ においてソマリア沖 おき の海賊 かいぞく が猛威 もうい を振 ふ るうようになった。これに対処 たいしょ するため、2008年 ねん 以降 いこう 世界 せかい 各国 かっこく が共同 きょうどう してこの海域 かいいき に艦船 かんせん を派遣 はけん し、海賊 かいぞく の取 と り締 し まりを行 おこな っている。
被害 ひがい を受 う けたインド洋 いんどよう 沿岸 えんがん 14カ国 かこく
2004年 ねん 12月26日 にち 、スマトラ島 すまとらとう 北西 ほくせい 沖 おき のインド洋 いんどよう でマグニチュード 9.3 の地震 じしん が発生 はっせい した。これにより起 お こった津波 つなみ はインド洋 いんどよう 沿岸 えんがん 各国 かっこく で甚大 じんだい な被害 ひがい を出 だ した。死者 ししゃ は翌 よく 2005年 ねん 1月 がつ 19日 にち までに合計 ごうけい で226,566人 にん 、また被災 ひさい 者 しゃ は500万 まん 人 にん に達 たっ している。これほど被害 ひがい が大 おお きくなった原因 げんいん は
太平洋 たいへいよう には整備 せいび されている津波 つなみ 警報 けいほう 国際 こくさい ネットワークが、インド洋 いんどよう にはなかったこと
マングローブ が減 へ っていたこと
津波 つなみ に対 たい する経験 けいけん と知識 ちしき が不足 ふそく していたこと
などが挙 あ げられる。
太平洋 たいへいよう で発生 はっせい するエルニーニョ に似 に た大気 たいき 海洋 かいよう 相互 そうご 作用 さよう 現象 げんしょう で、発生 はっせい 海域 かいいき 名称 めいしょう を冠 かん しインド洋 いんどよう ダイポールモード現象 げんしょう (IOD)とも呼 よ ばれる。アフリカとインドネシアの気候 きこう に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えている。
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